2011年2月9日水曜日

小沢元代表 強制起訴

菅首相や民主党の幹部、なんでこんな男にいつまで振り回されているんだ。

以下の文章は全て、2月1日の朝日新聞・朝刊からそのまま抜粋したものです。

やはり、これは後日のためにマイファイルしておかなくてはならない事件だと思っている。この、今、読んでいる新聞は、雑誌らと一緒に故紙回収トラックに乗せられていく運命にある。記事をいつまでも記憶に留めることができるほどの頭脳を持ち合わせていない私にできることは、キーボードを叩いて、備忘録に収めておくことだろう。

 

小沢元代表強制起訴

政治資金虚偽記載の罪

本人「無実、離党せず」

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引で、東京第五検察審査会の「起訴議決」を受けて検察官役に指定された弁護士は31日、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で小沢氏を東京地裁に起訴した。市民の判断で政治家が強制起訴されたのは初めてだ。

昨年の1月に東京地検特捜部は衆院議員石川知裕、大久保隆規、池田光智の3元秘書を政治資金規正法違反容疑で逮捕し、2月に起訴。小沢氏については市民団体の告発も受けて捜査したが、不起訴(嫌疑不十分)とした。

市民団体はこの不起訴処分を不服として検察審査会に審査を申し立て、04,05年分の事件を担当した東京第五検察審査会は10年4月に「起訴相当」と議決。2度目の審査でも「起訴すべきだ」との起訴議決を10月に公表し、強制起訴が決まった。07年分を審査した第一審査会の議決は、強制起訴に至らない「不起訴不当」にとどまった。

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《解説》 有罪立証には困難も

検察が「証拠が足りない」と判断した事件を市民が翻す形で、小沢氏が「被告」となった。疑惑の解明に期待が集まるが、検察官役の指定弁護士が有罪を得るには困難も予想される。

審査会は、小沢氏に「報告した」とする元秘書らの捜査段階の供述を重視した。小沢氏の共謀認定には元秘書らの虚偽記載罪の成立が大前提になるが、捜査段階で自らの容疑を認めた元秘書らは起訴後に否認に転じた。小沢氏の公判でも調書通りの証言はしないとみられる。供述調書の信用性などが争われる予定の元秘書らの一審判決は秋までに出る見通しだ。この行方も小沢氏の公判に影響しうる。

検察の不起訴を翻し、市民の手で公開の法廷に進む強制起訴の仕組みだが、政治資金規正法違反罪は裁判員裁判の対象ではなく、従来通りプロの裁判官が裁く。証拠が十分かどうかについて、同じ法律家である検察に近い判断を下す可能性もある。

ゼネコンマネーの扱いも焦点の一つだ。検察は当初、土地の購入原資となった「小沢氏からの借入金4億円」を伏せた動機は、4億円に含まれるゼネコンからの裏金隠しだと見たが、解明できなかった。検察はそれでも裏金に執念を見せ、自ら起訴した元秘書らの公判では背景事情としての立証を裁判所に許された。指定弁護士は、4億円と裏金の関係を立証するかどうかについては「答えられない」と話しているが、「4億円の出どころ」に不自然さを感じていると見られる。

検察が「暴走」した郵便不正事件と違い、今回は検察が「自制」した事件だ。無罪が出れば、検察の判断をチェックする審査会制度のあり方も問われる(久木良太)

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天声人語

ジョークの宝庫といえば結婚である。哲人ソクラテス曰(いわ)く。「まず、結婚せよ。良妻を得れば幸せに、悪妻ならば君は哲学者になるだろう」。青木雨彦さんの『洒落た関係』から男のざれ言を続ける。

夫の証言。「新婚の妻は食べてしまいたいほどかわいかった。あの時食べときゃよかった」。もう一つ。「金曜に結婚すると不幸が起きるというのは本当ですか」。「もちろん」と劇作家のバーナード・ショー。「金曜だけが例外でいられるはずがない」。

最後のは、必然を言いたい時に応用が利く。「月曜に起訴されると有罪になるというのはーーーーー」と、問いを換えることもできた。検察の信頼が揺らいだ今は「いや、月曜には例外もある」と答えざるをえない。

その検察が諦めた小沢一郎氏の「疑惑」を、検察審査会が法廷へ押し出した。強制起訴された氏は検察嫌いの上、素人の検審が新聞やテレビに流されたと思っているのだろう。無罪を前提に辞職も離党もしない意向という。

民主党の幸不幸は、思えば小沢自由党との「結婚」に始まる。今や別居寸前だが、菅首相が「あの時ーーー」と悔やんでも遅い。たくさん生まれたチルドレンは多くが小沢氏につき、家を出るならそっちと言わんばかりだ。

被告席から政治闘争を構える「党内党」を背負い、ねじれ国会の針山を登る首相。今さら哲学者にもなれない。ソクラテスは「天下を動かすには、まず自ら動け」と諭したが、動きようがない。次々と降りかかる難題を前に結束すべき時に、ああ犬も食わない権力劇である。

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社説

小沢氏起訴/市民の判断に意義がある

民主党の小沢一郎元代表が、政治資金規正法違反の罪で起訴された。検察審査会の2度の議決をうけたもので、ふつうの市民が政界の実力者を刑事被告人の座に据えたと言っていい。

いったん検察が起訴を見送った事件だ。裁判の行方は予断を許さない。

起訴の権限は検察が長く独占してきた。足利事件のような大きな過ちもあるものの、有罪が確実に見込まれるものだけを起訴する運用により、有罪率99%という刑事司法を作り上げた。

それは一定の評価を得る一方で、裁判の形骸化をもたらした。検察が強大な権限をにぎることになり、独善的な体質を生む素地ともなった。

検察審による強制起訴はこれに風穴を開けた。検察がとってきた起訴と不起訴とを分ける基準や個々のケースへの対応は、一般の感覚と正義感に沿うものか。問い直す機会を市民が初めて得たと言っていいだろう。

今回問題になったのは政治資金規正法の解釈・運用だ。これまで検察は、収支報告書に実態と異なる記載があっても、ヤミ献金など重大悪質なものでなければ摘発対象とせず、また、実務担当者を超えて政治家本人の責任まで問うには、よほど確かな証拠が必要だという方針で臨んできた。

これに対し検察審は、規正法が目的に掲げる「国民の不断の監視と批判」を言葉だけのものにしてしまう。ずさんな記載のありように、より厳しい目を向けた。政治資金の流れの透明性を重視する姿勢は、検察が「小沢氏自身の関与を裏付けるとまでいえない」と判断した秘書らの供述を、積極的にとらえ直すことにもつながった。

裁判でこうした点がどう評価されるか、軽々に予測はできない。検察審をひきついだ指定弁護士の言い分が否定される可能性はあるし、訴追される側の負担にも配慮が必要だろう。

だが、国民が抱いた疑問をうやむやにせず、法廷という公の場で議論し、裁判所の判断を求める、その意義は、日本の政治や司法制度を考えるうえで決して小さくない。起訴イコール有罪といった決めつけはせず、冷静に公判の行方を見守りたい。

政治の側が早急に取り組むべき課題もある。今の収支報告制度は、秘書任せ・他人任せを容認する内容になっている。報告書に政治家本人の署名を義務づけるなど、自覚を促し、責任を明確にする仕組みに改めるべきだ。

小沢氏は、検察による起訴と強制起訴との違いを強調して離党などを否定した。その時どきで都合のいい理屈を持ち出し、国民に正面から向き合おうとしない姿勢には失望を禁じえない。

法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題である。国会での説明すらできないのなら、自らしかるべく身を処すのが筋ではないか。