2011年12月31日土曜日

湯たんぽに、驚き

私がこの冬を迎えるのに、暖気をとる方法は、酒を飲むか、厚着をするか、風呂に入るかの三つしか方法がなかった。

エアコンは初夏、電器量販店で格安(48,500円)のものをチラシを握り締めて買ってきたが、東日本大地震による福島原発事故の影響で節電を求められ、ここにきて生活費の節約という抜き差しならぬことも加わって、ほとんど使っていない。だけど、寒さは厳しくなるばかりで、此の頃は、ちょっとは使わざるを得ない。それども、1日に2時間以上は使っていません。

そんな日々、冬至のことだ。100円ショップにうどんの乾麺を買いに行った際、店先のワゴンに山のように積んで置いてあった湯たんぽを見つけた。プラスチックのちっぽけな物だった。こんなもので役に立つのかな、と半信半疑のままレジを通した。湯は、たったのコーヒーカップ1杯分しか入らない。真っ赤でハート型。湯たんぽを納める厚手の布でできた巾着風の袋つきだ。

今まで湯たんぽを使ったことはない。子どもの頃は、タドンの入ったコタツだった。

100円なら、騙されたと思っていれば、諦めやすく、嫌になっても捨てればいい、と安易に考えた。

ところが、この小さい湯たんぽが効(利)くんだ。

湯たんぽは中国語では「湯湯婆」と書くらしい。婆は妻のこと。妻を抱いて寝ると温かいことから、このような字並びになったのだろうか。学研社の新国語大辞典には『「たんぽ」は「湯婆」の唐音』とあった。漢字の先輩国、中国は正直だ。「たんぽ」と平仮名ではよく解らない。

就寝前、10時に湯を入れて布団に忍ばせておくと、私の起床時間の4時までは温かい。建物には断熱工事は施され、使っている布団や毛布はかってよりも保温能力はいいのだろうが、それにしても4時まで保温を維持できるのには、感嘆した。私の当初の目論見を、完全に翻したのだから。

夜明け、その微(かす)かに残った温かみに触れると、気分までホッとする。室温は低いのに、何故か、顔が緩む。

そして、今月の26日、横浜市瀬谷区本郷で取得した中古住宅の残置物の撤去に行って、その家の押入れに丁寧に仕舞ってあった湯たんぽを見つけた。昔懐かしいブリキの湯たんぽだ。残置物は以前の所有者が放棄したもので、頂くことにした。これだけの大きさなら相当の熱量を長く持続するのだろう、と想像した。

そして、100円ショップで買ってきたものと、今回の本格的昔からお馴染みのブリキのを比較を試みた。

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左がブリキ製の湯たんぽで、縦30センチ

湯たんぽを使おうと思い立った最初の動機は節電から、それから金欠へと重点は変わっていくが、何よりも維持費が安価でなければナラン、それに使い勝手だ。試した結果、100円ショップものの方が優秀だった。100円ショップものはなんてたって簡便で、効果の方も温熱においても引けをとらない。その点、ブリキの方はと言えば、お湯を別途沸かさなければならない、それも少し多い目に、そして布で包むのだが、これには多少は手がかかる。ストーブやコンロの直火で温めることも可能だが、これは大層過ぎる。

どこに保温性の秘密があるのだろうか。容器は多種類あって、密閉されていることはどの種類も同じ。要は水の保温性を最大に活かして、容器には余り関係ないようだ。とりあえず保温性の高い布で包むことだ。

適度に温かく、乾燥しない。中国人が表意文字とした”湯湯婆”を、なるほどと納得した。

快適だ。

2011年12月29日木曜日

新しい会社が、仲間入り

 

私と25年来の付き合いのある不動産会社の経営者・淳さんが、廃業するというので、その会社を譲り受けることになった。

社歴は約20年、地道に仕事をされてきたが、数年前に胃がんを患い、完全回復したとは言え、健康上の不安は消えず、経営を断念されることになった。それで、弊社がその引き受け手になった。

私の年齢ぐらいの経営者のなかには、事業承継について悩んでいる経営者が多いと聞くが、私について言えば、常々承継しなくてはならない事態に至っても、困らないように備える習性が、身についている。創った会社は永遠でありたいと強く願うからだ。経営者も働く仲間も同じ願いだ。

譲渡してくれた友人と、譲受された私どもは極めてスムーズに事務手続きを済ませ、来春からの新規営業活動の準備に入っている。商法、会社法、税法、宅建取引法の法定手続きのことだ。

この会社には、金融機関からの支援も得られそうだ。新しいスタッフを新規採用することで、厚生労働省から補助金が出そうだ。その手続きも準備中だ。営業ノウハウは、長年、積み重ねてきているので、心配御無用。

それで、前の経営者から社名を変更して欲しいと申し出があったので、この年末年始の休暇中に決めようと思っている。これは、山岡の専管事項だ。幾つかの思いつきはあるが、そのストックの中でも、これっかなと思っているのが、「アルファ」だ。

私を懇意にして下さっている東京1部上場会社の社長さんが、約15年前にその会社の関連会社として設立して命名されたのが、アルファハウジングだったのです。この会社とも長く付き合いをさせていただいたが、その会社は発展的に親会社に吸収合併されてなくなったのだ。その会社の社名が頭から離れなかった。

アルファは、ギリシャ語のアルファベットの最初の1字で、大文字はA,小文字はα。英語表記ではALPHAだ。

ヨーロッパで用いられている代表的な文字は「ローマ文字」「ギリシャ文字」「ロシア文字」の3つだ。そして、ローマ文字はギリシャ文字がローマで手が加えられ、ローマ文字になった。ロシア文字も親はギリシャア文字だ。

それでは、頭がアルファなら、その次は、並みな発想ではハウスとかハウジングなのだろうが、我々はビルドに、ここでもう一度踏ん張ってみたい、と思っているのだが、皆の意見も聞かなくっちゃイカンなあ。

弊社が扱う商品には、必ず我々の叡智を集約、工夫を凝らした”ビルド”を加わえて付加価値を発生させている。そして、多くのユーザーに円滑に流通させることだ。

2011年12月28日水曜日

柏レイソル

本日、28日から弊社は年末年始の休暇に入った。一人会社に出て、マイコンピューターを整理していたら、原稿のまま投稿していない、この原稿を見つけて、随分遅れての公開をした。この当時、きっと何かで忙しかったのだろう。

サッカーのJリーグ1部(J1)は3日、今季の最終節があり、柏レイソルが初優勝した。

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J1優勝を決め喜ぶ柏の選手たち=3日夕、さいたま市緑区の埼玉スタジアム 西畑志朗撮影

J2からJ1に昇格した1年目で優勝したチームは史上初めてのことだ。首位でこの日を迎えた柏は埼玉スタジアムで浦和レッズに3-1で快勝し、23勝8敗3分けで勝ち点72で逃げ切った。

この3日まで、3チームが優勝の可能性があった。2連覇を狙った2位名古屋は新潟に勝って2位。ガ大阪は清水に逆転勝ちして3位。柏は、来季のアジア・チャンピオンリーグ(ACL)で初めて出場権を獲得。名古屋とガ大阪も出場が確定した。

8日に愛知・豊田スタジアムで開幕するクラブワールドカップに開催国枠で出場する。

20111204の朝日新聞の記事から、今季の最終戦になった浦和との試合内容等を抜粋して転載させてもらった。後日のためにマイファイルしておきたい。写真も全て西畑志朗さんが撮影して紙上に掲載されたものを、盗撮しました。スマン、ご協力有難う御座いました。

柏レイソルの前身の日立(製作所)サッカー部には格別の想いがあるのです。

40余年前、私は大学のサッカー部に所属していて、月に1度か2度、日立サッカースクールで子どもたちにサッカーを教えるアルバイトをしていた。大学の先輩でコーチでもあった吉さんが、このスクールの現場の責任者だったのです。アルバイト料は約3時間で、交通費込みで5000円程もらった。この額は確かではないが、比較的短時間の割には高額だったように思う。この収入は私にとって、垂涎(すいえん)、値千金だった。胸に黒字でHITACHIと書かれた黄色いユニフーム、黄色いパンツ、黄色いストッキング。

又、当時日立サッカー部の常設のグラウンドは吉祥寺で、私たちのグラウンドは東伏見だった。まさに隣近所だ。監督の高橋幸辰さんとコーチの胡崇人さんが、私たちの大学の先輩だったので、その親近感は深かった。そんな関係で、東伏見のグラウンドでは、公式の試合がない限り、毎週練習試合をした。1本30分の試合を何本も、暗くなるまでやった。当時、日立サッカー部は「走る日立」の準備期間だったように思われた。

今回の柏レイソルの試合運びを観ていると、それからの日立サッカー部の全盛時代の動きを彷彿させるものがあった。そのように観たのは、私一人だったかもしれないのだが。そんなことを思い出しながら、焼酎を何杯も飲んでしまった。三菱重工や、古河電工、ヤンマー、東洋工業(マツダ)、藤和不動産よりも、日立に郷愁を覚えるのだ。

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堅守浸透  危機の芽摘む

指揮官「レギュラーは11人じゃない」

柏3ー1浦和

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(前半38分、柏・橋本22は2点目のゴールを決め喜ぶ 西畑志朗撮影)

ここ2試合、途中出場に回っていた茨田(ばらだ)が先発に名を連ねた。ネルシーニョ監督は「守備もいいが、攻撃力のある選手」と起用の理由を明かす。

その茨田が試合を決める3点目を挙げた。J1初ゴール。20歳のボランチは大事な試合で決定的な仕事をした。

久々の先発や、途中交代で起用された選手が活躍してチームを救う。今季、柏で何度も繰り返されてきた光景だ。

ネルシーニョ監督の口癖は「レギュラーは11人じゃない」。日々の練習から選手の動きをつぶさに観察する。調子のよしあし、精神状態など鋭く見極め、出場選手を決める。誰一人としてポジションを約束された選手などいない。全力で練習に取り組まなければ、昨日の先発は明日の控えだ。

きつい練習で鍛えられたスタミナは抜群。運動量が落ちがちな後半16分以降の得点は全65点中半数を超える34点に達した。

選手全員が戦術を理解しているのも特長だ。特に守りの意識は高く、この日、浦和に打たれたシュートはわずかに4本。ピンチを未然に防ぐ試合ができた。

殊勲の茨田はいった。「誰が出ても同じサッカーができる」。優勝を決める試合でも新しいヒーローが誕生し、浦和を圧倒した。柏らしい試合で初栄冠を手にした。

(有吉正徳)

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(後半31分、柏・茨田(中央)は3点目のゴールを決め、ベンチに向かって駆け出す)

 

昇格1年目の衝撃

J1昇格初年度に優勝。史上初の衝撃をどう受け止めればいいのか。

まず思い浮かぶのは、サッカー界では存外に難しい「継続は力なり」という言葉。2009年7月に就任したネルシ-ニョ監督はJ1残留の使命を果たせず、J2降格。

結果が出なければ監督のクビをすげ替えるのはサッカー界の日常だが、「目指すサッカーは間違っていない」とフロントは監督を続投させた。

監督、選手、フロントが同じ方向を向いたチームは強い。昨季、J2で36戦2敗と独走して自身を深めた。格下が相手だから1戦ごとに目先を変えず、主体的にチーム作りを遂行できた。昇格1年目としては一昨季も広島が4位、昨季もセ大阪が3位と躍進した。J2の舞台をうまく利用してチームの土台を築き上げてJ1に乗り込んだのだ。

「他のJ1勢は何をやっているのか」という声も聞こえてくる。ACLで日本勢が準決勝にもたどりつけなかった通り、強豪と呼ばれるクラブが安定した力を発揮したとは言い切れない。最近は主軸が相次いで欧州に渡り、日本のクラブはチーム作りがますます難しくなっている。

ACLとの両立がなかった点で有利な面はあったが、柏は最後まで戦い方がぶれず、王者にふさわしいチームに成長した。現時点で日本代表ゼロのチームが攻守でよくまとまり、見ていて面白いサッカーを表現した。来年20年目を迎えるJリーグ全体にも大きな刺激になる。

(内海 亮)

 

 

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柏レイソルをJ1優勝に導いた

ネルシーニョさん(61)

優れた戦術家だ。劣勢をわずか一手で優勢に変えてみせる。8月の川崎フロンターレ戦は、その典型だった。2点リードされたところで一度に2人の選手交代を行うと、チームは勢いを得て、一気に3点を入れて逆転勝ちした。

時間があれば対戦チームのビデオを見ている。抑えるべき特長はどこか、弱点はないか。抜群の分析力が的確な戦術を生む。

「選手だった頃、何人かの偉大な監督の下でプレーできた。選手としての能力に限界があったが、それを補う方法を教えられた。今の私の基礎になっている」

本名はネルソン・バチスタ・ジュニオール。ブラジル・サンパウロ州で生まれた。現役時代のポジションは右サイドバック。しっかりした守備をベースにする柏のチーム作りは現役時代に培わされた。

冷徹な分析家でありながら気配りも細かい。選手たちから絶大な信頼を得る理由だ。北朝鮮代表の安英学(アンヨンハ)選手は控えに回ることが多く、今季はわずか2試合しか出場していない。それでも「選手を平等に見てくれる。ちゃんと練習をしていれば必ずチャンスをくれる」と話す。

Jリーグを率いるのはヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、名古屋グランパスに続き、3チーム目だが、年間優勝は初めてだ。「1回で終わらないよう、これからも勝ち続けた」

(文・有吉正徳 写真・小川智)

 

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日経新聞

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柏革命/J1初制覇

意識変え器を整える  フロント改革、経営を効率化

編集委員・吉田誠一

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(Jリーグアウェーズで壇上に登場した柏イレブン)

2008年夏、柏から監督就任の要請を受けたネルシーニョが気にしたのは「どんな選手がそろっているか」ではなかった。交渉に当たった強化本部統括ディレクター小見幸隆に、「自分を支えてくれるフロントはそろっているか」と尋ねたという。

ネルシーニョは「チームとフロントが一体とならなければ勝てない」と考える。この思想がクラブに及ぼしたものは大きいが、それ以前の06年から柏はフロントの改革に着手していた。

「チームが勝てないのは会社の責任であると、全職員が認識することから始めた」と常務の寺坂利之は話す。「どんなにいい選手がいても、クラブの器が整っていなかったら、力を発揮してもらえない」

06年から支持者の声を聞く場として、サポーターズカンファレンスとイエローハウスを開催。クラブが抱える課題を洗い出し始めた。「サイン会などイベントが減っている」「子ども連れが観戦しやすい席を設けて欲しい」「芝の状態が良くないのでは」「強化担当者は成績不振の責任を取らないのか」---。

2ヶ月に一度のイエローハウスの参加者は30人以上のこともあれば、1人だったこともある。議事録は公式サイトで公開し、ほかに「ご意見メール」も受け付けている。すべての要望には応えられないが、クラブが取り組んでいることの成果の確認の場にもなる。

器の整備の軸は当然、経営基盤の強化になる。今期予算の収入は27億3000万円で、J1の中では中規模。寺坂は「収入を急激に増やすのは簡単ではない」と踏む一方で、「今期予算で17億7000万円のチーム人件費をなるべく高くしたい」と考える。

「一般経費をできる限り削って、できれば30億円の売上げで、その70%をチームに投じられるようにしたい」。グッズ直営店の閉店で2000万円を削り、入場券の販路の限定で経費を半減。スカウト職をなくし、普及コーチを減らした。

一時的なサービスの低下の懸念はあるが、「まずはコンパクトで効率的な経営を目指す。その中でチーム人件費を高く保って、魅力あるチームをつくり、入場料収入を増やす。それから、おもてなしの質を上げていきたい」と寺坂は言う。

今春には親会社の日立製作所から日立柏サッカー場を譲渡してもらい、現物出資という形で1億円に増資し、債務超過を解消した。

日立専務の中村豊明の発案で、不動産鑑定士がスタジアムの評価額を10億円としたため、資本金を除く9億円は資本準備金とした。スタジアムは現在、3000席を増築中で、来春から1万5000人が入場できるようになる。

ネルシーニョは寺坂に「自分たちを卑下しないでほしい」と諭したという。かっての柏には「我々はこのくらいで十分」という中流意識があったかもしれない。その甘えを溶かしたことが出発点となり。「すべてはクラブのために」という使命感が生まれ、全スタッフの視線が一つに定まり、クラブの総合力が上がった。

 

最後まで優勝が可能だった名古屋は、新潟との最終戦において、一度も勝てなかったアウェーでスコアーは1点差の1-0だが、試合内容においては完勝した。名古屋らしい攻撃サッカーを貫徹した。ケネデイは19得点で2年連続の得点王になった。

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(最終節に勝利するも逆転優勝を逃し、悔しさをにじませる名古屋の選手たち)

 

もう1チーム、ガ大阪は清水に3-1で勝った。勝たなければ、ガ大阪に優勝の可能性は生まれなかった。そして勝った、が、優勝はできなかった。

10年間指揮を執った西野監督の表情は穏やかだった。78得点はリーグトップ。攻撃的な姿勢を貫いた西野サッカーの終演だった。

2011年12月24日土曜日

和田、匠の技に期待する

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写真は、Wikipediaより拝借

12月20日、ダルビッシュ有(25)は、ポスティング(入札)制度でテキサス・レンジャーズが交渉権を得たと発表された。日本が代表するピッチャーだ。最速156キロ。さどかし、契約交渉金は高額なんだろう。年俸も目が飛び出すほどの高額な筈だ。それは、それで結構なことだ。松坂や黒田のように直球主体の本格派投手だ。

ところが、どっこい、ここに和田毅がいる。

今シーズン、オリオールズに入団が決まった。小さなテークバックで球の出どころが見えづらい投法が、どれほどメジャーの強打者のタイミングを外せるか、我々の興味は増すばかりだ。

入団するオリオールズのチーム防御率が、昨シーズン、メジャー30球団で最悪だった投手陣の立て直しの役目がかかっている。求められ、望まれ、期待されている。

和田君よ、働く環境は十二分に用意された。やるっきゃないぞ。世の中の誰よりも君の成功を祈っている。

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朝日朝刊

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EYE/和田 匠の技で開拓を

編集委員/西村欣也

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彼の後ろに新しい道ができるのではないだろうか。ソフトバンクから海外フリーエージェント(FA)でメジャーリーグのボルティモア・オリオールズに移る和田毅のことだ。

速球の平均は135キロほどだ。メジャー基準には遠く及ばない。体も華奢(きゃしゃ)な部類だ。しかし、彼には他の投手にはない大きな武器がある。

左腕で、球の出どころが極端に分りづらい。これは早大時代、友人のトレーナーと徹底的に研究しつくして生まれたものだ、それまで、「怪物」といわれた江川卓が持っていた東京六大学記録通算443奪三振を大きく上回る476奪三振を記録した。

スピードガンの球速表示が低くても、三振がとれる、メジャーでは珍しいタイプの投手。だからオリオールズの入団会見で和田はきっぱり言った。「僕は空振りをとってきた自負がある」。

思い浮かべるのはボストン・レッドソックスのテイム・ウェイクフィールドだ。速球は130キロほどで、あとはナックルボールで三振の山を築いていく。ヤンキース時代の松井秀喜が最も苦手にしていた投手の一人だった。

「どうして打てないの」と松井にぶすつけに聞いたことがる。「だって、練習できないんですよ。だれもあんな球、投げられないんだもの」。

和田の出どころの見えない球も、他の投手にはまねできない。匠の技がメジャーでの新しい道を開拓してくれることを願っている。

 

 

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嬉しい、岡田の中国進出

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日本サッカーの前代表監督だった岡田武史氏(55)が、今月15日、中国の杭州緑城足球倶楽部の監督に就任する契約をした。Jリーグで優勝経験のある日本人監督が海外のプロチームで指揮を執るのは、岡田氏が初めてだ。期間は来年1月からシーズンが終わる11月まで。

杭州緑城は、今シーズン、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)に初出場したものの、1次リーグで敗退。国内1部リーグ(中国サッカー・スパーリーグ)では、16チーム中8位の成績だった。

岡田氏は、日本の代表監督としてワールドカップ(W杯)で2回指揮を執った。1回目の1998年フランス大会では、本戦のグループリーグで1勝1敗1分、勝ち点4で決勝トーナメント進出を狙うとしていたが、3戦全敗で敗退。

2回目の2010年南アフリカ大会では、ベスト4を目標にしていた。本戦では、日本サッカー史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦は、90分では決着つかず、延長戦でも決着つかず、0-0のままPK戦に突入。結果、3-5で敗北した。目標は叶わなかったが、海外で開かれたW杯で、初めて決勝進出に導いた。ベスト16位だった。

Jリーグの監督としては、2003年から横浜F・マリノスをリーグ2連覇に導いた。その前には、1999年J2に降格したコンサドーレ札幌に就任。1年目は5位に終わったが、2年目にはJ1に復帰、翌年はJ1で11位で残留、そして退任した。

これだけの実績を引っさげての”岡田の中国進出”だ。

今や、経済でもスポーツでも、何でもかんでも、強大国中国だ。岡田氏の狙いは、Jリーグでの競り合いで右往左往するよりも、しがらみのない新天地で、アジアや世界に、新興国中国の旋風を吹かせたいと思ったのだろう。海外での最初の腕試しの場としては、一番最適だと判断したのだ。中国サッカーのフィジカル、技術もレベルは相当なものだと聞く。資金も鱈腹持っていて、今後容赦なく選手を集めるのだろうか。これァ、日本も兜の紐を締め直さなくては、イカン。

是非、ACLでJリーグのチームと競い合って欲しい。杭州緑城の幹部は岡田氏に選手を育ててもらいたいと話している。

私は、この岡田氏の中国進出を嬉しく思う。日本サッカー界にもいい刺激になることは明白だ。

それに、嬉しいこと序(つい)でに追記しておかなくてはならないことが、先日の新聞報道で知った。

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元日本代表主将で、J1神戸のDF宮本恒靖氏(34)が19日、神戸市内で現役引退の記者会見を開き、その席上、今後欧州でFIFAが運営しているスポーツ学に関する大学院で学びながら、欧州の指導者資格取得も見据える、と話した。FIFAマスターとは「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」のことだ。

この男は、日本代表ではU-17からA代表に至るまで全てのカテゴリでキャップテンを務めてきた、並みの男ではない。宮本の将来にも注目したい。私はかって、デフェンダーだったからかもしれないが、正直、A代表だったときの宮本のプレーについては、常にハラハラドキドキ、全幅の信頼をしていなかった。いっつも不安だった。それでも、彼はよく頑張っていた。

日本のサッカー選手が海外で活躍しているのを見るに、嬉しくって堪らない。それに加えて今度は、指導者として活躍の場を世界に求めていこうとする彼らを頼もしく感じる。

岡田武史氏や宮本恒靖氏のように、新たな分野に足を踏み入れようとしている人たちが居てこそ、優秀な人材が育つのだ。後進のためにも頑張って欲しい。

2011年12月19日月曜日

「悪童日記」を読む

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アゴタ・クリストフのことを知ったのは、今年の2月11日のことだ。

東京演劇アンサンブルのお芝居「道」を観に行って、貰ったパンフレットにこの芝居の脚本作家として紹介されていたのが、この人アゴタ・クリストフだ

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このお芝居のできふできは、私にはよく解らなかったが、劇団の人たちには、問題点が幾つかあったのだろう、難しそうな顔をして頭をひねっていた。

この作品は第二次大戦中か、大戦前のものだと思うのだが、よくもその時代に、今日の道路網としての「道」がいかにも可笑しな姿に成り果てたのを、見透かしていた。当時から、きちんと想定していたのだ。著者の、優れた先見性に感服した。

本題はこれからーーーーー。

そんな縁で、アゴタ・クリストフのことを知り、この作家のことを調べていたら、小説に面白そうな本があることを知った。「悪童日記」だ。これは、第二作目の「ふたりの証拠」、第三作目の「第三の嘘」と3部作になっている。

お芝居を観てから9ヶ月後の先月(11月)の中頃のことだ。ふらっと寄った古本屋さんで、この「悪童日記」を見つけた。

この本を読み終えて、2週間ほど経ってからその本屋さんに寄ってみたら、「第三の嘘」が100円であった。きっと、3部作を纏めて売った人がいたのだろう。第二作目の「ふたりの証拠」ももしかしてと思って、探したが見つからなかった。

この小説の原題を直訳すると、「大きな(大判の)帳面」らしい。訳者は、少年たちが秘密裏に書き残した私記を「悪童日記」とした。盗み読みのように楽しませてくれた。名訳だ。

双子は作文を書いて、互いに相手の文章を評価をし合った。この作文の記述には基本的なルールがあって、内容は真実でなければならないことだ。

早川書房111144の36ページ9行目からーーー。たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「おばあちゃんは”魔女”と呼ばれている」と書くことは許されている。それから、37ページ3、4行。感情を定義する言葉は、非常に漠然としていて、その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめた、とある。

この本では、徹底して感情の表現はない。頑固なまでに感傷のない語り口。その結果、読者には登場人物たちが時には怪物にも、倫理観の乏しい人間にも思えたりするのだが、けっしてそうではなく、登場人物らの個性的な素(す)を際だたせている。戦争の最中、このようにしか、生きられなかったのだ。双子は、混迷する世情を素手で受け止め、抵抗、巧知を活かして生きる。ドキドキさせられ放しで、本を握る手に力がはいる。そして、突然、涙が溢れ出る場面に出くわす。

脚本も手がける作家だけあって、文章は芝居を観ているようで、ドラマチックだ。章節は芝居の幕のよう。この章節で扱われた素材は、おばあちゃんの強烈な性格と仕打ち、賄賂、恐喝、獣姦、SM、殺人、戦争による空襲、爆死、連行、それにレイプなど、どれも現在の我々の日常生活とは程遠いものばかりだ。

その章節ごとの題名をここに列記しておけば、後々、思い出し易いだろう。この章節で扱われた素材は、おばあちゃんの強烈な性格と仕打ち、賄賂、恐喝、獣姦、SM、殺人、戦争による空襲、爆死、連行、それにレイプなど、どれも現在の我々の日常生活とは程遠いものばかりだ。

おばあちゃんの家に到着/おばあちゃんの家/おばあちゃん/森と川/不潔さ/体の鍛錬/従卒/精神の鍛錬/学校/紙と鉛筆と帳面を買う/僕らの学習/隣人とその娘/乞食の練習/鬼っ子/盲と聾の練習/脱走兵/断食の訓練/おじいちゃんのお墓/残酷さの習得/いじめ/冬/郵便配達人/靴屋さん/万引き/恐喝/非難/司祭館の女中/入浴/司祭/女中と従卒/外人将校/外国語/将校の友人/ぼくらの初舞台/ぼくらの見世物の発展/芝居/警報/”牽かれて行く”人間達の群れ/おばあちゃんの林檎/刑事/訊問/監獄で/老紳士/ぼくらの従姉/宝石/ぼくらの従姉とその恋人/祝福/逃走/死体置場/お母さん/ぼくらの従姉の出発/新しい進駐軍の到着/火事/終戦/学校再開/おばあちゃん、葡萄畑を売る/おばあちゃんの病気/おばあちゃんの宝物/お父さん/お父さんの再訪/別離

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備忘のために、あらすじを書き残そうと思い描いていた。

そうしたら、訳者の掘 茂樹氏の「異形(いぎょう)の小説ーあとがきにかえて」の文章と、『ウィキペディアの「悪童日記」』を読んで、成る程と感心させられた文章だったので、そのまま二つのの文章を拝借した。

異形の小説ーあとがきにかえて

時代は第二次世界大戦末期から戦後にかけての数年間。場所は中部ヨーロッパ、当時ドイツに併合されていたオーストリアとの国境に近いハンガリーの田舎町。戦禍はなはだしく飢饉(ききん)の迫る都会から、若い母親が双生児の息子二人を田舎に住む自分の母親、つまり息子たちの祖母の家に疎開させる。

ところがこの祖母は、働き者だが文盲にして粗野、桁外れの吝嗇(りんしょく)で身の周りは不潔を極め、しかもどうやら夫殺しの過去を引きずっているらしい。近所では魔女と言われていた。

この祖母に預けられた二人は、この老婆のもとで物質的にも、精神的にも、過酷極まりない。その上、全体戦争下の人々の生態は、彼らの眼前に文明の荒廃を容赦なく露呈する。そうした境遇に押しつぶされることなく、二人は持ち前の天才を発揮し、文字通り一心同体で、たくましく、したたかに生き延びる。

 

ウィキペディアの「悪童日記」

祖母は子どもに対して容赦なく、人並みに働かない限りは食事を一切与えない。二人はやがて農作業を覚えて食事をもらうようになり、家に置かれていた唯一の本である聖書でもって独学で読み書きを覚え、互いに協力して様様な肉体的・精神的な鍛錬をする。

時には盗みやゆすりも辞さず、家を間借りしている多国の性倒錯者の将校に助けられたり、隣人の兎口の少女を助けたりしながら、困難な状況を生き延びていく。

やがて町に〈解放者たち〉が進駐し、この国は他国の占領下に入る。終戦の間際に、双子の母親は子どもたちを連れて亡命しようとするが、双子はそれを拒否してこの地に残ることを選び、そして押し問答の最中に投下された爆撃によって、母親は赤ん坊ともども命を落とす。双子は学校に行くことも拒否して祖母のもとで暮らし続け、祖母が脳卒中を起こすと、彼女の頼みを聞いて毒を飲ませてやる。そうするうちに二人のもとに彼らの父親が姿を現す。この国で迫害を受けている父親は亡命を望んでおり、双子は彼の頼みを聞き入れ、国境を越える手引きをする。結果、父親は地雷原にかかって爆死するが、双子の一人は父親の死を利用して国境を越え、もう一人は祖母の家にもどり今までどおりの生活を再開する。

2011年12月13日火曜日

友が田舎より来る

20111208 私の生家がある京都府綴喜郡宇治田原町から、私が大学の受験勉強に精を出していた頃から、親しくなった4歳年下の男、桝村秀一がやってきた。私が勉強をしている横で、高校受験の勉強をしていた。彼がぶら下げてきた手土産は、宇治の茶団子と茶羊羹だ。甘さを抑えた懐かしい味だ。

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干し柿                     

 

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田原川

 

新横浜駅まで迎えに行った。会って早々に、お前、その顔、なんじゃ。オヤジそっくりになってきたなあと言うと、彼も負けずに、保っちゃんかて、お父さんそっくりになってきたで、よう言うわ、ときたもんだ。

現在、彼は病の母を看病しながら、百姓仕事と着物の販売を半々でやり繰りしている。絵が上手な子どもだった。京都の美術専門の高校から、大学へ、それから漆器のデザインから着物の帯びのデザインへとジャンルを変えていった。何故、絵描きを徹底しなかったんだ、との質問に、凄い奴を目の前にして怯(ひる)んだと言っていた。

彼の父は、農業を営みながら山から木を伐採して、材木屋さんに卸す仕事もしていた。外国産の材木が安価に輸入される前までは、国内産の材木が建設用資材として使われていた。私有林や区有林の区域を決めて、樹木の内容次第で入札する。この仕事で、財を築いたようだ。

桝村は、私の日頃の生活が心配になって様子伺いを思いついたのだろう。或る日電話があって、そちらに行きますので都合はどうですか?との質問に、良いも悪いもないよ、早く来いと答えた。本音は早く来て欲しい、と思ったのだ。それほど、私は疲れていた。田舎のとりとめもない話で、郷愁、疲れを癒したかった。

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茶摘み(今では、ハサミ刈りが多く、このような光景は余り見られない)

先々週に、本の整理をしていて、本棚の”懲役人の告発”の背表紙が気になっていた。本の題名に心を奪われていた。一度は読んだのだろうが、内容の記憶は全然なかった。

40年代前半から50年代は、猛烈に多読していた。読書に夢中だった時期だ。

少し前から、新本、古本にかかわらず、新しく2冊本を買ったら、以前に読み終えた本を1冊読み返すようにしようと決めている。ずうっと前に読んだ本でも、すごく記憶にあるのと、全然憶えてない本があるのだ。気分を昂揚して読んだ感覚は残っていても、何がそんなに感動したのだろうか、と覚束ない本もある。

そして、今回、気になっていた著者・椎名麟三の”懲役人の告発”を読み出して、ふと裏表紙を見たら、桝村秀一のサインがあったのだ。4日後に来浜する桝村が、私の貧乏学生だった頃に、見るに見かねて、私の指定した本を買ってくれたのだろう。40余年前のことだ。不思議な気がした。

何故、この時期にこの本を読み返そうと思ったのだろうか。彼とこの本、と私、それにこのタイミングが実に奇妙だ。

兎に角、じっくり読み返してみた。昭和44年の発刊は、新潮社。私が大学に入学した年だ。内容は、後日まとめてみるが、題材や物語の展開が、実に昭和の40年代そのものなのが、懐かしく、嬉しかった。作品の出来不出来を論じる程の知恵は、私にはないが、面白かったのは事実だ。

今回は、昔なじみの友人が10年以上も久しぶりに、私に会いにやって来たのだが、その彼が40年以上も前に呉れた本を、4日前から偶然読み返すという、ちょっとは不思議な出来事でした、という話です。

2011年12月11日日曜日

年末恒例、四字熟語

毎年、この時期になると住友生命が、この一年の世相を表す創作四字熟語を一般から募り、その中から幾つかを朝日新聞の天声人語で紹介している。

この企画は、住友生命の年末恒例の行事で、天声人語も恒例になってしまった。私は、いつもそれを楽しみにして、マイファイルしている。

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天声人語

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年中行事さながらに、今年もまた総理大臣(宰相)が交代した。5年で6人の体(てい)たらくに皮肉をこめて「年々宰宰」。住友生命が募った年の瀬恒例の創作四字熟語に、特別な年となった2011年を振り返る作が多く寄せられた。

東日本大震災は未曾有の被害をもたらした。夏には大型台風も襲い「天威無法」を見せつけられた。首都圏は交通ストップで「帰路騒然」。原発事故で多くの人が非難を強いられ、「帰郷村望(そんぼう)」の思いで年を越す。

だが災いの中、人は助け合い、励ましあった。「福幸(ふっこう)支援」のために内外から多くの「愛円義援」が届いた。人だけではない。岩手県陸前高田市の奇跡の一本松は「一松(いっしょう)懸命」に立ち続ける。神々(こうごう)しい姿に「願晴(がんばれ)東北」のエールを聞く。

不足して知ったのは電気のありがたみ。関東一円は「計欠(けいかく)停電」にあわてた。迎えた夏。電気食いのエアコンに代えて、うちわの風、緑のカーテンに涼を求め、「電考節夏」で猛暑をしのいだ。次には冬の節電が待つ。

政治は今年も頼りなかった。「賢泥鰌来(けんどじょうらい)」の野田政権が船出したが、賢い?泥鰌は国民に語らず、代わって大臣や官僚が「舌禍繚乱(ぜっかりょうらん)」のお粗末ぶり。TPPでは「参否農論」真っ二つ。「欧州憂慮(ゆうろ)」の経済危機も年を越す。

明るい話を忘れてはいけない。世界に誇る「才足兼美」のなでしこジャパン。各賞を総なめの輝きだ。2位じゃだめ、と奮起したスパオン「京(けい)」が計算速度でお見事「世界最京(さいきょう)」に躍り出た。熱あるところに、花が咲く。

2011年12月9日金曜日

天声人語でも、金、金か!

 

いつも朝日新聞の天声人語を読んでは、勉強させられている。

今回の文章には、私の出た学校の創立者が登場してきたので、ひときわ注目して読んだ。内容が実に面白かったが、時節柄、やはり、お金の話三昧(ざんまい)になってしまったようだ

野田佳彦首相は、政府・与党がまとめつつある社会保障と税の一体改革実行への前提として、増税へ向かおうとしている。少子高齢化がますます進む中で、財政立て直しは待ったなしの状況にある。このままでは、国家が破綻すると言われている。

欧州連合(EU)では、ギリシャからイタリア、スペイン、他にも幾つかの国が、国家財政の危機に瀕死寸前。あの世界の最強国家アメリカでさえ、もたもたしているようだ。ドイツとフランスの首脳が、政府債務(借金)の解決に向けて、各国の財政規律を高め、金融市場の不安を取り除くために、EUの基本条約の改正を検討しだした。

EU基本条約では、財政について各国の財政赤字が国内総生産(GDP)の3%を超えた場合、改善がないときにはEUが是正を勧告できると規定しているが、今回、危機に瀕している国はこの3%に抑える規定を破っていた。

改正案はまだ明らかにはされてはいないが、EUの欧州委員会が各国の財政を監視したり、予算編成に介入したり、また規則を破った国を無条件で制裁できるようにする。EUの司法(最高)裁判所に各国に借金を減らすように命じることができる権限を与える、とか。

このようにEUでは検討されているが、これをこのまま、日本でも見習ってはどうだろうか。極東の借金大国だ。財政の最高規律として国の赤字を、国民総生産の何%以上は超えないようにするとか、現在の状況を直視するならば何%まで減らすとか、国債発行の上限を規定する。EUでは、この規定を憲法に既に織り込んでいるとか、織り込もうとしているとか、そんな国があるように聞いた。

でも国によっては、そんな厳しい基準を守れないと思う国だって現れるだろう。リードするドイツやフランスとの間に相互不信が広がりかねない。EUから離脱したいと思う国が発生したら、それはEUの弱体化につながる。

私は、小さな会社の経営者の一人だ。業種、業態によってそれぞれに違いはあるのだろうが、弊社の財務諸表においても流用できるな思っている。遅くはない。

ふと、来年の初詣は鎌倉の銭洗弁天で、お金でも洗ってこよう、と思いついた。当然、自宅からは願をかけながら、歩いて行く予定だ。孫も参加するという。

 

20111207

天声人語

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短日にして多忙。慌ただしさの極まる師走が、1872年(明治5年)はたった2日で終わった。旧暦が新暦に改められ、12月3日が明治6年の1月1日になった。前にも書いたが、急なお触れには人々はてんわやんわだったそうだ。

唐突な改暦にはわけがあった。大隈重信の明かすところでは、新政府の財政は火の車だった。だが明治6年には閏月(うるうづき)があり、官吏の月給を13回払うことになる。太陽暦なら12回ですむと気づき、慌てて変えたのだという。

2日だけだった12月分も切り捨てたそうだから、都合2か月分を節約した。巧みな歳出カットと言うべきか。いささか乱暴だが、知恵は出るものだ。

ひるがえって今の国会である。復興財源にあてるため国家公務員給与を減らす法案の成立が、どうも難しいらしい。いまの時代に鶴の一声とはいかない。それにしても、国会議員の定数や歳費も含めて、「身を削る決意」が伝わってこない。

震災後、月50万円減らしていた国会議員の歳費は、半年で元に戻った。明後日のボーナス291万円は去年より9万円多い。先の小紙世論調査で消費増税に反対した4割強は、まず身を切れという民意とも取れよう。首相自ら語った「春風(しゅんぷう)を以(もっ)て人に接し、秋霜(しゅうそう)を以て自ら粛(つつし)む」を、よもや忘れていませんね、と。

そういえば「血税」の語源も明治5年にさかのぼる。もとは税ではなく兵役義務をそう称した。時をへて意味は変わっても重荷は変わらない。永田町が春風に座していては、賛意は遠い。

2011年12月5日月曜日

月曜日はカレー日だ

我が社では、月曜日の昼食は全員でカレーを食うことになっている。同じ釜のメシを食って一丸、連帯して頑張ろう、と言うことだ。

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先々週まで、このカレー作りは、経営責任者の中さんの専権事項だった。ところが、最近は私が素材を調達して、藤さんが仕上げることにした。中さんは非常に繁忙なのだ。今回は、いつものカレールウではなく、ハウス食品のバーモントカレーのルウを使うことにした。選んだときは何とも思わなかったが、手にとってまじまじ眺めると、子どものころの懐かしさが込み上げてきた。

このカレールウは、”リンゴとハチミツがとろ~りとけてる”ということは、子どもの頃から知っている。

何にしても晩生(おくて)の私が、テレビを観だした大学生の頃のことだ。このカレーのコマーシャルが鮮烈だった。若いお父さん役の西城秀樹が、出来上がったカレーの入った鍋とお玉を両手に、男の子と女の子、奇麗な奥さんに取り囲まれている光景が、馴染みのコマーシャルソングとともに、何度も繰り返された。幸せな家庭は、こういうもんだよ、そんな象徴的な作りだった。

バーモントって何じゃ?と容器を見ながら考えていたら、経営責任者の中さんが、バーモント州ですよ、アメリカ合衆国の。彼の娘さんは、アメリカの大学に現在留学中だ。ハウス食品のカレールウの商品名に印度とジャワが使われていて、それが地名だということは知っていても、バーモントがアメリカ合衆国の州の名前とは知らなかった。

Wikipediaにお世話になる。このカレーを開発していた当時、日本で流行していた米国・バーモント州に伝わる民間療法でリンゴ酢とはちみつを使った「バーモント療法」が由来となる、とある。現在では、バーモント州ではほとんど知られていない。収穫が多いのはどちらかと言えば、「リンゴとメープルシロップ」だそうだ。バーモント州とカレーは関係がなかったことになる。

外箱に「濃縮加熱製法」と表記されている。何と物々しい表現だこと。こんな漢字をツラツラ並べるのは如何にもっていう感じがする。大げさなんだよ、ハウスさん。内容は、使用する油脂量を控えながら、おいしさを凝縮し、じっくり加熱したヘルシーな製法です、とある。これって、意味が解りますか?私にはさっぱり理解できない。消費者を撹乱、幻惑させるこんな宣伝手法もあるのだろうか。

今回の稿で、出来上がった品を、写真で紹介しようと思っていたのですが、出来上がり次第、そんなことをコロッと忘れて、平らげてしまった。瞬時に跡形もなくなった、、、、、スマン。

来週は、鶏肉で作ろうと考えているんだが、調理に何か妙案でもあれば参考にしたいので、教えて下さいな。食材担当としては、具、だ。

1人当たり150円の個人負担、ご飯は会社負担。厳しい予算だ。

海鮮カレーにも挑戦したい!

2011年12月3日土曜日

朝日の世情記事、4編

現在の世情についての、朝日新聞の記事だ。切り抜きにしておいたものをここにファイルした。なかなか、いい記事なので、読んで欲しいと思った。

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①資本主義の「限界」

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経済気象台

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米国や欧州で、若者が格差是正を求めるデモを繰り広げている。

格差を生む源となっているのは、資本主義社会だ。経済成長で国民の生活水準は高まった反面、もともと社会的、経済的格差を生む構造もはらんでいた。

若者たちの叫びは、従来の資本主義の「限界」を警告しているように思えてならない。

考えてみると、これまでの欧米の経済成長は、実は「幻影」だったのではないか。米国では、多くの中間層がローンで住宅を手に入れた。所得の低いサブプライム層も証券化でその恩恵にあずかった。年収の10倍もの住宅ローンは、年収増と同じ心理効果をもたらした。

だが、このからくりには確実な雇用と不動産価額の上昇という条件が必要だった。リーマン・ショックで住宅バブルは崩壊した。

欧州連合はユーロの誕生で経済力が高まり、急成長を遂げた。だが、内実はベルリンの壁崩壊で生まれた統一ドイツの勢力拡大に、他国が歯止めをかけようとした政治の産物だった。2001年には放漫財政のギリシャが加わり、堅実財政のドイツと同じ通貨を使うようになった。矛盾が今、欧州債務危機という形で噴き出している。

「幻影」に気づいた欧米の国民は、身の丈に合わない借金生活から身を引き始めた。超高齢化が進む日本の国民は老後の不安もあるうえに元々、預貯金に熱心だ。

借金をやめた国民の国では需要は拡大しづらい。借金まみれの政府も需要を生み出しにくい。低金利にしようが、通貨供給を増やそうが、効果は薄い。

経済成長もなければ、インフレもない。これが新しい資本主義社会だ。個人も企業も政府も、この構造の認識が必要だ。

 

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私の視点

②死刑/執行停止して徹底議論を

英上院議員=アルフレッド・ダブス

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私が死刑反対を訴える主な理由は四つある。まず高度な規範を持つべき国家が人命を奪うのは正しいことではない。次に誤審の可能性が常にある。死刑執行後に無実がわかっても元に戻れない。1949年にロンドンで起きた妻子殺人事件は夫の死刑執行後に真犯人が判明し、英国が死刑廃止に向かうきっかけになった。

三つ目として、だれにも更生機会は与えられるべきである。英国人女性リンゼイ・アン・ホーカーさん殺人事件で無期懲役を言い渡した判決が「(被告に)更生の可能性がないとはいえない」と述べたのは全く正しい。

最後に死刑廃止は文明社会の潮流だ。2010年12月に国連総会で採択された死刑執行停止決議は賛成109カ国、反対41カ国、棄権35カ国。予断は許さないが、中東の民主化「アラブの春」で賛成国が増える可能性がある。独裁からの脱却と民主化に伴って死刑が廃止される傾向があるからだ。

死刑が犯罪を抑制する確たる証拠はない。全てではないが死刑残置国は 概して殺人事件が多い。国が人を殺すという事実が、人命に対する感覚に影響を与えている可能性はある。死刑に頼らなくても、刑事司法制度を整備し、犯罪を断固許さない姿勢を政治が示せば安全な社会は実現可能だ。

死刑廃止の道に踏み出す第一歩として、モラトリアム(刑の執行停止)が検討に値する。一定の時間をかけて、犯罪が増えたかどうか検証しつつ、徹底的に議論すれば良い。死刑制度に関する情報がより一般に公開されれば、国民も議論に参加できるだろう。

英国にも「目には目を、歯には歯を」といった応報的な考え方がかってはあった。下院を中心とした議論を経て(65年に)死刑執行を停止した。その後も法律としては海賊行為などの罪に死刑が残った。正式に廃止されたのはずいぶん後のことだ。

ただ、私は死刑の存否を国民投票にかけるのは賛成しない。意見が沸騰し、落ち着いた議論ができなくなる。十分な情報も議論の積み重ねもなく、いきなり死刑の賛否を問われれば人は賛成するかもしれないが、議論を経ればより複雑な意見を示すはずだ。議論は政治家が先導すべきだと考える。

近年、日本の法相が「国民的な議論が必要」という考えを示していることに期待したい。私は多国の制度を非難したり、指図したりするつもりはない。英国の経験や英国政府が乗り越えてきた課題を日本と分かち合いたい。

死刑廃止に関する英国超党派議員団のメンバー。

(構成・沢村 亙)

 

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20111201

社説余滴

③民主主義のもろさ、危うさ

政治社説担当・松下秀雄

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欧州の政府債務危機を眺めて、うなってしまった。危機そのものよりも、民主主義のもろさについてである。まず、イタリアとギリシャで、政治家以外から首相を選んだことだ。危機を乗り越えるには歳出を切りつめ、増税するしかない。厳しい役回りを、落選を恐れる政治家たちは経済専門家に丸投げした。

ギリシャでは国民投票で民意を問おうとして、かえって危機を深めた。緊縮を強いられるのが嫌だからと、国民が各国からの支援を拒めば、自分たちの経済だけではなく、世界中を揺るがしかねない。もし、国民がそれを選択したら?不安が広がり、他国の国債の信用まで損なわれた。

民主主義は、有権者に痛みを強いる決断を迅速に下すのが苦手だ。それは、民主主義に権力の横暴を抑えるブレーキが組み込まれているからで、当然のことだ。

ただ、痛みから逃げ続ければ、より深刻な事態を招く場合でも、やはりブレーキが働く。この弱点を克服できないから、非議員の首相など「民主度」の高くない態勢を敷くほかなかったのだろう。

翻って日本政治をみると、民主主義の弱点が、まさに遺憾なく発揮されている。

いま消費増税の必要性が叫ばれるのは、高齢者が増えるのに、支える世代が減っていくからだ。このままでは国の借金の風船は破裂し、大増税や急激なインフレを招きかねない。そうなる前に負担を分かち合おうというのである。

風船を破裂させて、ひともうけを狙うハゲタカがうごめく時代、いつ日本が標的になるかわからない。

なのに、増税反対派はもちろん、増税を掲げる自民党までもが、「民主党は任期中は増税しないと公約したではないか」と歩み寄らない。

税に限らず、最近の政治は衆参ねじれのもとで、ブレーキが利きすぎ動かない。

停滞へのいら立ちは世にあふれている。大阪ダブル選で「橋下旋風」が起きた理由の一つは、それかもしれない。

ただ、いらだちが極端に高じるのは危うい。動かぬ政治より ましだと、ブレーキの利かない政治を生み出すことのないよう、注意が必要だ。

歴史をひもとけば、政治が争うばかりで動かなくなったとき、人々は民主主義や政党政治に見切りをつけた。日本では軍部が台頭し、ドイツはナチスの独裁を許した。

いま必要なのは、適度に動く民主政治なのだ。

 

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20111125

記者有論

④リベリア大統領選 ノーベル賞と「金権」の溝

ナイロビ支局長・杉山 正

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ノーベル賞のイメージが吹っ飛ぶ場面に出くわした。

西アフリカ・リベリアで今月、大統領選挙を取材した時のことだ。今年の平和賞受賞が決まった現職エレン・サーリーフさん(73)の故郷で本人を待っていると、彼女は多くの住民に囲まれながら現れた。一緒に居た陣営関係者の手には、ピ札の50リベリアドル(約50円)の束が握られている。何をするのかと見ていると、近づく住民に1,2枚ずつ渡して歩いていた。

日本で事件記者を長くやった。っしかし、「買収」の現場を目撃したのは初めてだ。

聞けば、リベリアでは選挙に際し、候補者が地方に行っては、現金や食料を渡して支持を求めるのはよくあること。記者が買収され提灯記事を書くのも一般的だという。だが、ノーベル賞をもらう人まで「金権選挙」に染まっているとはーー。本人に会って、直接聞いた。

「将来的には禁止すべき風習だ」。サーリーフさんも非を認めた。だが、「今やめることはできない」とも。失業率は8割を超え、1人当たりの国民総所得は約170米ドル(約1万7千円。選挙期間中、人々には施しへの期待が高まってしまうのだという。

サーリーフさんは2006年、大統領に就任した。03年まで14年続いた内戦で27万人が死に、荒廃を極めていた。国の立て直しとともに、女性の社会進出などさまざまな改革を推し進めた。

米国での生活が長く、国連開発計画などで活躍した人だ。しかし、米国流をそのまま持ち込んでも立ち行かないことを熟知しているのだろう。急激な変化は反発を招きかねない。サーリーフさんは、汚職の役人らの刑事訴追を避け、決選投票前には、内戦中の拷問で悪名高い元武装勢力指導者まで陣営に引き込んで物議を醸した。

いずれも、国家再建を果たすための必要悪ということなのだろう。その手腕にはしたたかさや、しなやかさとともに、リベリアが抱える問題の闇の深さがうかがえる。

アフリカには、内戦などから立ち直れない「失敗国家」と呼ばれる国が多い。リベリアもそこから抜け出す戦いを始めたばかりだ。この挑戦の成否はアフリカ各国にも影響する。ノーベル賞は、サーリーフさんに対してだけではなく、アフリカの将来に希望を込めて贈られるのだと私は考えている。真のモデルになりうるよう彼女の2期目に期待したい。

2011年12月2日金曜日

ミャンマーの民主化を見極めたい

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写真は提供写真(2011年 ロイター)

20111202の朝、テレビを観ていたら、ミャンマーの最大都市ヤンゴンでアウン・サン・スー・チーさんとアメリカのクリントン国務長官が、お互いに微笑み合いながら、食事のためにレストランに揃って入っていく映像が流れていた。己が眼(まなこ)に活(かつ)を入れた。アメリカの国務長官としては56年ぶりのミャンマー入りだそうだ。

二人とも真っ白い服を身に纏って、いい感じだった。派手さなし、シンプルで清潔。それに二人の笑顔が印象に残った。世界を又に凛々(りり)しさ変わらぬクリントンさん、穏やかな表情の中にも静かな闘志を秘めたスー・チーさん。二人の談笑の写真を見ていると、本当にミャンマーに民主化が進みそうな予感がする。

ミャンマーは北朝鮮の支援を受けて弾道ミサイル・スカッドの製造を進めていることや、核開発疑惑を世界にどのように説明するのだろうか。それに、さらなる民主化、政治犯の釈放、少数民族との和解、人権問題、広範囲な政治勢力の政治参加の改革をどのように進めようとしているのだろうか。

軍政から民政移管されたものの、まだまだ民政とは言い難く、軍政のままと言っても過言ではない状態だ。今後のテイン・セイン大統領、政府の動きに注目したい。

ちょっと前までは、こんな時期がいつ訪れるのか、予想もつかなかった。

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朝日・朝刊

社説

ミャンマー  民主化を見極めたい

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ミャンマー(ビルマ)政府が民主化勢力との対話やメデイア規制など新機軸を矢継ぎ早に打ち出している。真の民主化への第一歩であればと願う。

20年ぶりの総選挙が昨年11月に実施され、「民政移管」が宣言された。しかし軍事政権が制定した憲法の規定もあり、国会議員の6割以上は軍人や軍出身者が占める。実質的には軍政の継続とみられていた。

ところがテイン・セイン大統領は8月に民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんと面談。9月には中国の援助で建設中の水力発電ダムの工事凍結を指示した。環境問題などで少数民族が反発していた事業だ。

政府はさらに、亡命活動家らに帰国を促し、外国人記者に国会の取材を認めた。

出版物などの検閲を緩めた結果、スー・チーさんが表紙を飾る新聞や雑誌が街に出回り、外国報道機関や反政府団体のサイトが閲覧できるようになった。

政府は、東南アジア諸国連合(ASEAN)の議長国を3年後に務めたい、と立候補した。

これをステップに国際社会への復帰を果たし、欧米の経済制裁を解除させて、最貧国から脱したいと考えているのだろう。

急な展開に欧米諸国はとまどいつつも歓迎している。だが民主化勢力は疑心暗鬼の様子だ。

02年にも軟化政策の時期があった。軍政トップがスー・チーさんと会談したものの、その後の揺り戻しでスー・チーさんは再び拘束され、対話を主導した首相が失脚した経験がある。

今回も政府・軍内部で、改革派と守旧派の争いがあると推測されており、民主化が定着する保障はない。議長国が決まるマデノポーズだとの見方もある。

注目のスー・チーさんは「対話はまだ十分ではないが、変化が始まったところだ」と、政府の働きかけに応じる構えだ。民主化勢力には局面を打開する他の選択肢がない現実もある。

変革が本物と認められるにはまず、2千人とされる政治犯の釈放が求められる。対立が続く少数民族との対話も必要だ。総選挙への参加を拒否したスー・チーさんの国民民主連盟に改めて、政党登録と補欠選挙への参加を促してはどうか。

日本政府は早速、人道部門に限っていた途上国援助を人材育成などに広げた。日本企業の現地視察も始まった。

変化にあわせて援助を再開したり、経済交流を加速したりするのはいい。肝心なのは、改革が後戻りしないかを絶えず見極めながら、さらなる民主化を後押しする姿勢で臨むことだ。

2011年12月1日木曜日

井上靖 「孔子」

現代小説というときの現代の定義はよく解らない。が、少なくとも、存命中の作家の本は、今暫らくは読むまいと決めた。

氾濫する現代小説には、作家の手管(てくだ)に疲れる? 題材にも気分が乗らない、読了、虚(むな)しいのだ。私の現在の精神状態が余り好くないことも理由のひとつかもしれない。

先日、磯子駅近くで、弊社の提携工事会社のスタッフとの待ち合わせに時間があったので、古本屋のいつもの何とかオフ店ではなく、何とか船とかいう店に入って仕舞った。

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見つけた本が、井上靖の「孔子」だった。この店の本の売価は、消費税込みで表示されていて、100円だった。新潮社。

「氷壁」は中学か高校の教科書で読んで感想文を書いた記憶がある。社会人になって「猟銃」、「蒼き狼」、「あすなろ物語」を読んだ。今回の「孔子」は井上靖の晩年の作だそうだ。

高校時代の漢文の教科書には孔子や孟子の論語がいくつも取り扱われていた。私は、高校の授業を真面目に出席していなかったので、論語のことは皆目解らない、理解できない。論語読みの論語知らずの優等生だ。勉強しなかったことに悔いはある。人並み以上の興味はあったのに、あの時は馬鹿にしていた。だからかこそ、この本をしっかり握って、放さないのか。

 

時は、中国の春秋時代のことだ。

Wikipediaの知識をお借りした=中国の春秋時代とは、紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまで。その時代でも、紀元前403年に晋が、韓・魏・趙の3国に分裂するまでを春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い、とあった。

孔子は、魯の国で前551年に生まれ、魯の国の大教育家であり、高級仕官でもあったのだろう、提案した施策が思い通りに進まず、失望の果てに旅に出る。中原(ちゅうげん)地域を14年間、遊説、放浪の旅をした。その旅の途中で、この篶薑(エンキョウ)が同行することになる。旅の世話役として雇われたのだ。篶薑(エンキョウ)とは、エンキョウによると”ひね生姜”とか”萎(しお)れ生姜”という意味だそうだ。

エンキョウは、旅の道中、孔子と高弟三人の顔回、子路、子貢らの考えていることや、彼らの会話のやりとりから、人間学を学び、次第にこの人たちに心を奪われていく。仲間同然に扱われた。

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孔子の没後、中原の各地において、孔子の研究会が行われていた。

この本の物語は、主人公、孔子の架空の弟子エンキョウが、孔子の研究者たちに向かって語る形式をとっている。その研究者たちがその後、各自それぞれ孔子が語った言葉を持ち寄り、書物にまとめたものが、どうもそれが「論語」らしい。

孔子の言葉が、どのような状態の中で発せられたのか、その時の状況を説明することで、孔子が伝えたかった真意が如何なものだったのか、孔子を知るエンキョウが、研究家に語る。孔子の意図する天とは、天命とは如何なるものか、これには随分時間をかけて、話した。

孔子や高弟三氏の人柄、旅の様子、旅の意図、各国の事情や様子なども合わせて、話した。

エンキョウは、孔子の死に前後しての高弟たちの死、その喪に服し、それから山深い里で篤志家から家や畑が提供され静かに暮らしている。

中原(ちゅうげん)とは=(学研国語大辞典によると)ー黄河中流域の中国文明発祥の地。漢民族活動の中心地であった。 (Wikipediaよると)ー狭義では、春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯をさしていた。

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  Wikipedia 中原

本文中、難しい漢字が沢山出てきたが、語意の解らない漢字も、なんとか語感で理解しながら、読み進めた。ちょっと危ない読み方だけれども、色んな漢字に出くわして久しぶりに刺激的だった。

 

★ 此処から,本にも出てくる孔子の語った言葉を本の中に出てくる順に、いくつか随時紹介する予定です。

注 各項目前の算用数字は本文の頁です。

*69p 君子、固(もと)より窮(きゅう)す。小人、窮すれば、斯(ここ)に濫(みだ)る

 

*71p われに陳蔡に従う者は、みな門に及ばざるなり

陳・蔡は、中原の旅で巡り歩いた国々のうちの二国。

 

*76p 周は二代に鑑(かんが)みて、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾は周に従わん

(郁郁乎として文なり)は、文化的気運が花開いていること。

 

77p 甚(はなはだ)しいかな、吾が衰えたるや。久しいかな、吾れ復(ま)た夢に周公を見ず

 

83p この紊(みだ)れに紊れた世から眼をはるかに逸(そ)らせてはいけない

 

88p 憤りを発して食を忘れ、楽しんで以て憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らず

 

94p 近き者説(よろこ)び、遠き者来る

 

108p 帰らんか、帰らんか。吾が党の小子(しょうし)(わが郷党の若者たち)、共簡(きょうかん)にして(大きな夢、大きな志の持ち主)、斐然(ひぜん)として章を成すも(美しい布を織り上げているが)、これを裁するゆえんを知らず(仕立てることを知らない)。

 

115p これは楚の昭王の言葉だー武という字は、戈(ほこ)を止める、とある。

 

128p 朝(あした)に道あるを聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり

 

130p ああ、天、予(わ)れを喪(ほろ)ぼせり

高弟顔回の死に対して

 

133p その食をはむ者は、その難を避けず

高弟子路が領主救出に向かう心構え

 

*君子は死すとも冠をぬがず

子路が領主救出で倒れた際の発言

 

135p 逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず

大河の流れを前にして

 

147p 美なる哉、水! 洋々乎たり。丘(きゅう)が渡らざるは、これ命なるか

黄河を渡る前に、晋国に政変が起こって、晋国行きを中止した

 

153p 天、何をか言うや、四時行なわれ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天、何をか言うや。

道の将(まさ)に行なわれんとするや、命なり。道の将に廃(すた)れんとするや、命なり。

天命についての考察のようだ

 

157p 五十にして天命を知る

 

174p 鬼神は敬して、これを遠ざく

足場に気をつけよう

 

184p 命なるかな。斯(か)くの人にして斯くの疾(やまい)有り

 

 

191p 天、何を言うや、四時行なわれ、、百物生ず、天、何をか言うや

つべこべ言わずに黙ってやれ。天は天で、大きな仕事をしながら黙っているではないか

 

199p 天、予(わ)れを喪(ほろ)ぼせり

子の亡き顔回に対する信頼と愛情が子の心を無残に引き裂いた

 

249p 北辰(ほくしん)、その所に居て、衆星、これを廻(めぐ)る

ーー-これを囲む。---これを迎う。---これを捧ぐ。

北辰が居るべき場所に居れば、他の諸々の星は、ーーー 囲む、迎う、捧ぐ。

 

256p 子、怪・力・乱・神を語らず

怪は、怪異、怪奇、妖怪、物の怪。力は暴力、蛮勇。乱は背徳、不倫、乱逆。神は霊魂、霊力。

 

260p 鳳鳥(ほうちょう)至らず、河(か)、図(と)を出ださず。吾れ巳(や)んぬるかな

聖天子が現れる際には、鳳凰が姿を見せ、黄河からは天下を治める大法を説いた図面を背負って、亀や龍が現れるというが、現れない。私も御仕舞いか。

 

271p 喪は哀を致して止む

子游の詞。人の死の悲しみに情を、涙の枯れるまで尽くす。

 

*284p 巧言令色、鮮(すく)なし仁

お世辞とつくり笑顔の者には、仁の徳はない。

 

 

285p ただ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む

仁の徳を具えた者だけが、好む人を好み、悪むべき人を悪むことができる。

 

287p 剛毅(ごうき)木訥(ぼくとつ)、仁に近し

 

287p 仁遠からんや、我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る

 

288p 人にして仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば、楽を如何せん

仁の心を持たない人が礼など学んでも、無駄だ。楽も同じ。

 

290p 志士、仁人は、生を求めて、以て仁を害することなし。身を殺して、以を成すこと有り

仁を志す人、仁を生活信情にする人は命惜しさに仁を犠牲にすることはない。仁を完成させるためには死だって厭(いと)わない。

 

297p 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は壽(いのち)ながし

 

 

325p 死生、命あり、富貴、天にあり

死生も富貴も結局のところは天命で、人力の如何とも成し難い

 

 

331p 民の義を務め、鬼神は敬して之を遠ざく。知と謂うべし

民が正しいとするところを尊重し、鬼神には敬意を表すも慎重を期す、これが知の政治。

 

 

331p 未だに人に事(つか)うることを能ず、焉(いずく)んぞよく鬼(き)に事(つか)えん

生きている人にも仕え得ないのに、どうして死者の霊に仕えることができよう。

 

331p 未だ生を知らず。焉(いずく)んぞ死を知らん

死の何かたるかも判らないのに、どうして死が判ろう

 

332p 子の慎む所は斉・戦・疾

用心したのは、潔斎(ものいみ)と、戦争と、疾病だ。