2018年10月25日木曜日

三崎オバサンさんに会う

先週の水曜日(17日)、毎週恒例の「休日のための狂気の散歩」に自宅を出た。

散歩と言ったって、競歩!速歩!狂歩? 当然狂奔ではないが、ただ単純に足を運ぶことではない。
「休日のための狂気の散歩」には、歩数・歩調に基準値がある。
歩数は2万5千歩以上、歩調は2万歩で2時間ペース。
歩く総距離は13~15キロぐらいだろう。
晴雨にかかわらず、1か月70万歩は歩きたい。
だから、下を向いてトボトボとか、周辺の光景に拘(こだわ)っている訳にはいかない。
そんな条件付きの散歩は、楽しいだけではなく、真剣味一筋の苦闘でもある。

自宅から1キロほど離れたところで、前からくるオバサンに声を掛けられた。
このオバサンが歩いて来るのは、遥か遠い先から知っていたが、そのオバサンに声を掛けられて、初めてそのオバサンが「三崎」(プライバシー保護のため、これ偽名です)さんだと気づいた。
三崎さんが、私の直前2メートルの所で、私のことを、「ヤマオカさんだ」と気づいて声を掛けてくれた。
一通り、互いにご無沙汰していることを侘(わ)びた。

「サッカーボール」の画像検索結果
三崎さんの子どもが小学校の低学年だったころ、三崎さんたち仲間4.5人で、自治会のサッカー教室を作りたいと考え始めた。
仲の好いお友達同士だった。
考え始めたと言っても、コーチは神奈川大学の学生に任せる心算だった。
今から、約30年ほど前のことだ。
日本サッカー協会が、サッカーリーグを止めてJリーグを立ち上げようとしている時だったと思う。
自治会で募集をかけると、それなりの子どもが集まった。
2,3年後、私の子どもも参加させた。

ところが、コーチのアテにしていた学生が、連絡をせずによく休むわ、遅刻するわで、結果、どういう訳かこのコーチ・監督の役を私に輪を掛けられた。
当時、私は仕事の方も順調で、面白い役だと思い、快く請け合った。
私自身にも、運動不足を感じていたところだったのだ。
私の筋肉が血が、あらゆる細胞が運動不足、欲求不満で疼(うず)いていた。

自治会のサッカー教室なので、サッカーの基本技術を教えることは勿論、それよりも、みんなで、ボール1つにワイワイ騒ぎ蛇立てることをメインにメニューを組んだ。
父兄からは、私のコーチ塾の一つ一つを気に入って貰っていたようだ。
だから、他所のチームと試合をするときのメンバーの選定についても、十分我が儘を通した。
私のメンバー選定に気に喰わない人もいたかもしれないが、そのような事一切に文句を言わせなかった。
それが、私には良かったと思っている。
だからか?どうだか知らないけれど、私の遣り方に賛同してくれている人が多かった。
寧ろ、私の遣り方が気に喰わない人は参加しなかったのだろう。

そんなコーチ役、練習内容について、私と父兄とはウマが合ったようで、親近感に溢れた教室だった。
私は、一時的一カ所だけだが、「好漢」(こうかん)とでも思われたのだろうか!
中でも、最初にこういう教室を作りたいと思った三崎さんたちは、大いに喜んでくれた。

ちなみに、三崎さんは趣味が高ぶったのだろう、横浜・・・人形劇団をやっていた。
近所の子どたちを集めて、面白いお話を楽しくやっていた。
私は観に行くことはできなかったが、妻や子供たちはお世話になった。

三崎さんとご無沙汰の詫びのご挨拶が終わったら、きっと私に、彼女も知りたくて、機会ができたら聞きたいなと思っていることが多かったようだ。

★山岡さん、一番上のお姉ちゃんはアメリカに行ってましたよね?
・夫がニューヨークに転勤したものですから、付いて行ったのですよ。
・プロレスラーのアントニオ猪木が住んでいるマンションに住んでいました。
・韓国人や中国人の人たちが、各所で頑張っている人を多く見ました。
・主婦としては暇で、妊娠して出産の予定が決まりそうな時期に、幸いにも、日本帰国が
 決まったのです。
・今は我が家から200メートルの所に家を建てて住んでいます。
・孫も2人、上の娘は来年中学校、下の娘は小学2年生です。

★お兄ちゃんは東戸塚駅の前のマンションに居ましたよね?
・今はそのマンションを売って、家族そろって南の大国に行ってます。
 この国は、鉄鉱石と油が豊富な国のようだ。
・北の熱帯地域から南の温帯まで1つの大陸と周辺の島々とで、1国を形成している
 稀な国だ。
・油田の一部から採油したものを、色々と精油してそれを工場でそれなりに仕上げる。
・その会社は、工場を造り、トップのマネージャー会社になっている。
 各国の働き手を雇っているので、その管理をするのも大変なんですよ。
・今度は、どこの国へ転勤されるのだろうか? それは解らない。
・息子は、私よりも芯が強く、骨っ節の強い男だ。
・仕事が面白くなってきた時節なのだろう、中間管理職になったようだ。

★花子ちゃんはどうしてます?
・中学生、高校生時代には、親に随分面倒を掛けたが、今は老人対策に励んでいる。
・今年の年末には、3番目の子どもが生まれると聞かされたので、心配している。
・立派なマンションを買ったことも心配していたが、何とか遣り繰りしている。
・夫は電気屋、本人は老人のお世話さんを紹介している。
・長男はサッカーに加えて、ラグビーもやっていて志望する高校も決めているらしい。

★一番下の女の子「苑子」は?
・今、一緒に暮らしています。
・1階が我々と義母、2階が苑子家族です。
・夫婦共稼ぎだけれど、私の妻の協力があって、尚且、生活費を贅沢しなければ。
・子どもは来年から幼稚園です。
・無茶苦茶、迫力のある子どもです。

そんな話題をアッと言う間、10分ほどで終わった。
それにしても、あなた、ヤマオカさんは今、何処で何もしているんですか?
なんて質問は受けなかった。
もう、私のことなんて三崎さんには、どうでもイイことになって仕舞ったのだろうか。
私自身は、三崎さんの息子さんも東戸塚駅界隈のマンションを買ったそうなんだが、今はどんな仕事をしているのか?
聞きたいことはいっぱいあったのだが。



2018年10月19日金曜日

教誨師

教誨師 (きょうかいし)

画像1

20181018(木)
13:05~15:00
住所=横浜市中区若葉町
映画館=シネマ ジャック&ベティ
京浜急行・黄金町駅より徒歩5分
帰途、自宅まで歩いて1時間40分なり



この映画のことを紹介されてから、私の小さな脳の片隅に塊りとなり、その塊りはいつまでも、溶けなかった。
大杉漣さんの元気だった頃の映画やテレビ番組で見せた演技の残像が、不思議に回生してくる。
その塊りから抜け出すためには、映画館に行くしかないではないか。

この映画は、今年(2018年)2月に急逝した俳優・大杉漣の最後の主演作だ。
大杉漣の初プロジュース作で、6人の死刑囚と対話する教誨師・佐伯を主人公に描いた人間ドラマ。
後で知ったことだが、教誨師は業務に対して無報酬だ。

心を開かない無口な男
おしゃべりな関西の中年女
お人よしのホームレス
気のいいヤクザの組長
家族思いで気の弱い父親
自己中心的な若者


死刑囚専門の教誨師である牧師・佐伯は、独房で孤独に過ごす死刑囚にとって良き理解者であり、格好の話し相手だ。
佐伯は、聖書を常に手にするクリスチャンだ。
死刑囚は刑務所でなく、拘置所に拘置されている。
ただ、ひとつの部屋(教誨室とでも呼ぶのか)での、佐伯と死刑囚との会話シーンだけだ。
刑務官と呼ばれるのか、立会人は1人いるので、人間は3人だけだ。
本物の部屋にこの映画では模したのだろうか? 室内は比較的広く何故か壁や天井が斜めに見えた。
俳優たちの命がけの演技が、真に迫ってくる。
こんな映画は、今まで観たことはなかった。
佐伯は死刑囚から、ひたすら聞きつつ反応し、彼らの嘘のない言葉を引き出そうとする。
そして、それに反応する。
佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、そして死刑囚が心安らかに死ねるよう導くのは正しいことなのか苦悩していた。

死刑囚との会話が進んでいくなかで、自らの忘れたい過去が思いだされる。
自らの子ども時代の自分と兄、友人と友人の父。
河原で火を焚き魚を焼いていた時、友人の父の言葉に怒りを感じた兄は、友人の父に大きな石を頭に振りかけた。
そして、その父は死んだ。

死刑囚に、過去の犯罪の理由や是非、良し悪しについて答えを出してあげることは、そう簡単にできない。
佐伯は、苦しい葛藤の思念に苦しむ。

自己中心的な若い男が絞首刑を受けることになった。
佐伯は死刑囚に、日々の話し合いの中で、気の利いた答を出して挙げられなかったことに残念がる。
この死刑囚! 若い死刑囚ならではの最終の答えが出せなかったのではないか。
むなしい果てに、刑は執行された。
映画のストーリーについては、下の新聞記事を読んでもらえば、大体は分ってもらえると思う。

スクリーンに向かって、右のおじさんは20分過ぎた頃に、鼾(いびき)をかき始めた。
左のおばさんは、30分過ぎた頃にゴックリごっくり寝だした。
どうしても夫婦とは思えない、前のおじさんとおばさんは、手を握り合って気持ちよさそうだった。
何故?夫婦と思えないなんて、よくも、君は言い切れるね、と言われそうだ。
そのことについて、裏話をちゃ~んと知っているからだ。

「ランニング・オン・エンプティ」の佐向大が監督・脚本を担当した。

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★20181006の朝日新聞・夕刊/社会面の記事を転載させてもらいます。

死刑囚の現実 向き合う牧師

監督「考える契機に」 大杉漣さんの遺作

映画「教誨師」公開

大杉漣さん演じる教誨師(左)がホームレス
だった死刑囚に読み書きを教える場面


故・大杉漣さんんの遺作となる映画「教誨師」が6日、公開された。
大杉さんが演じる牧師と、6人の死刑囚との対話をひたすら描く異色の会話劇だ。
取材をもとに脚本も手がけた佐向大(さこうだい)監督(46)は「死刑の是非が議論になるなか、制度を考えるきっかけになれば」と話す。


教誨師とは。
受刑者の道徳心の育成や心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く人だ。
刑務所や拘置所などに出向き、希望者に宗教の教えに基づく話などをする宗教家。
1872(明治5)年に真宗大谷派の僧侶が監獄で説教したことが始まりとされる。
2018年1月現在、全国教誨師連盟に1848人が登録、内訳は仏教系1199人、キリスト教系264人、神道系222人などとなっている。

気のいいヤクザの親分、関西弁でまくしたてる中年の女性、冤罪をうかがわせるホームレスの男性ーーーー。
映画で牧師は、拘置所の教誨室で6人の死刑囚と向き合い、その言い分にときには戸惑いながらも、「魂は生き続ける」となだめる。

1つの山場(やまば)は、挑戦的な態度を崩さない若者との対話だ。
「そもそもさ、国が国民の命奪うなんてありえなくない?」「なんの情報も公開しないくせに(死刑制度の)支持も何もないでしょう」。
次々と問いを浴びせる若者に、牧師も翻弄される。

「社会復帰を手助けするのが教誨師のイメージだった。じゃあ死を待つだけの人に対する教誨は何の意味があるだろう、と興味があった」と佐向監督。
死刑を執行する刑務官を題材にした「休暇」(2008年公開)の脚本を書いた経験から、制度を取り巻く現状に対する関心が強くなった。

「世界では廃止の流れがあるようだけど、日本では8割の人が容認しているという。なぜなんだろうと」。
死刑囚の実態に近づくことで考えを深めようと、今度は教誨師に焦点を移した。
複数の教誨師や元刑務官に取材し、実在の事件も参考に脚本を書き上げた。

日本キリスト教団広島西部協会の山根真三牧師(74)は映画について「なかなか報じられない死刑の一側面に光を当てようとした。社会的に意義のある取り組みだ」と語る。

これまで3人の死刑囚の教誨をした。
月1回、10年以上にわたって対話を続けた相手もいる。
「欲望は誰にもある。あなたと私はちょっとしか違わない」。
そんな話を続けるうちに、相手は自ら聖書の原典にあたり、洗礼を受けるほどだった。
変化を見せた末に、刑を執行された。

「彼は『死刑囚は公人でもある』と言ったが、社会に教訓を還元させる存在という意味では、その通りだと思う」と山根牧師。
「取り返しのつかないことをした人が、死んでいくまでに何をし、どう変わったのか。
映画は6日から東京、名古屋、大阪などで先行上映され、全国57か所の劇場で順次公開される。

(阿部峻介)


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20181005の朝日新聞を転載させてもらった。

教誨師
(森直人・映画評論家)

今年2月に急逝した大杉漣がボランティアの教誨師、6人の死刑囚の話し相手となる牧師役を演じる。
舞台はほとんど拘置所内の狭い部屋から出ない。
大仰な動きや音楽を排した簡素な状況設定の密室劇ながら、そこに渦巻く魂の交感は極めて濃厚。
人間存在の底を揺さぶる地鳴りのような迫力が熱く煮えたぎる。

前半は全くの対話劇だ。
スタンダードサイズで描かれる閉鎖的な、しかし親密さもある限定空間で教誨師が一人ずつと向かい合う。
軽い与太話しの時も問答の重心は崩さない。
後半になると教誨師の過去が掘り起こされ、時空を超越する文法が画面に重層性を呼び込み、映像の表情が豊かになる。
その中で貫かれるのは真摯な言葉の密度だ。
人を殺した者を刑法が殺す、という連鎖の軋(きし)みを起点とし、生死をめぐるジレンマに感情ごと肉薄していく。

死刑制度を扱った日本映画の傑作といえば、大島渚監督の「絞死刑」が挙げられるだろう。
あれから50年経つがシステムは存続したまま。
大島がスマートな論理構築で風刺の刃を突きつけたとしたら、こちらは罪と罰、人間と世界の闇へと必死に言葉を届けようとする愚直さが胸を打つ。

監督は佐向大。
脚本を手がけた吉村昭原作の「休暇」でも死刑を主題にした彼が、今度はオリジナルで難題に喰らいつく執念を見せた。
その血と汗と涙にまみれた思考を、ベテランの烏丸せつこや光石研、新星・玉置玲央らのキャスト陣が生っぽく肉体化する。
掛け値なしの力作だ。
この映画が観客に持ち帰らせるのは、通りのいい答えではない。
さらに奥行きを広げた問いの哲学的な重みである。

2018年10月12日金曜日

希林さん、ありがとう

20181012(金)の記事を転載させてもらった。

社説 余滴  「希林さん ありがとう」
高木智子(たかき ともこ)


樹木希林さんにお礼を言いたいことがある。

3年前の映画「あん」で、ハンセン病だった老女の主人公、徳江を演じたことだ。

原作者のドリアン助川さんは、映像化するなら樹木さんだと願っていた。
「人はなぜ生きるのか、死ぬのか。喜びとは何か、悲しみとは何か。哲学になるまで必死に考えて生きた人を描いたから」と聞いて、納得した。

しかし難しい役だ。
ハンセン病を取り上げた映画には、松本清張の「砂の器」(74年)がある。
それから40年。
「あん」が、元患者の姿をどう描き、社会がどう受け止めるか、気になった。

物語はこうだ。
療養所で閉ざされた生活を送る徳江がある時、どら焼き屋で働き始め、生きる意味を問うーーーー。

全身がんだった樹木さんは治療で鹿児島入りした際、主人公のモデルになった、お菓子づくりの上手な上野正子さん(91)に会いに行った。

素の姿を知りたかったのだろう。
アポなしだった。
女優だと気づかず「農家のおばちゃん」と信じた上野さんに、お菓子をつくるところ、しゃもじを操る手元を隠さずに見せて欲しいと頼んだそうだ。

かくして映画は完成した。
あんを炊くにあたり、徳江は小豆の声を聞く。
小豆をいとおしむ。
私が取材でこれまで出会ってきた元患者のみなさんの顔が次々浮かんできた。

観客動員数は予想を上回る44万人。
カンヌ国際映画祭を機に50か国以上で上映された。
樹木さんが真正面から演じきったからの広がりだろう。
反響に背中をおされ、樹木さんは全国へ出かけた。

昨年、大阪市でハンセン病だった人たちを交えた催しに登場した。
「どうしょうもない寂しさはみんなある。家族がいても、どこにいても。あなただけ、私だけじゃない」。

病や老いーーー。
人生どうにもならないことはあるけれど、絶望せず生きていこう、考え方ひとつで道は開けると、励ましていたのだろう。

今、異例の規模で追悼上映が続く。
若い観客が増えた。

差別が壮絶だった時代やその背景すべてに、「あん」が迫っているわけではない。
しかし、私が大学で、樹木さんの登場する場面をみせて、人種について語ると、学生は顏をあげる。
知らなかった人々を振り向かせる力を感じた。

1本の映画がハンセン病だった人たちの未来を確かに変えている。
日本中のだれもが知っている女優が演じた意義は大きい。

(社会社説担当)


2018年10月8日月曜日

クロントイ・スラム/「闇の子供たち」

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20181008の朝日新聞の記事の中で、『「スラムの天使」は休まない』にジーンとくるものを感じた。
この新聞記事は此の稿の最終コーナーに転載させてもらいました。

何故か、胸の中に不思議なモノが涌き起こってきた。
私の心の烈火岩が、この新聞を読んで再び燃え出した。

私の心情は、普通の皆様とはちょっと違うみたい。
誰もが、へえ!、そうなの?と感心を示すことにはな~にも関心を持たず。
誰もがどうでもいいと思うことに、何是(なんぜ)そこまで興味を持つの?と言われてきた。

実は、この3日前から梁石日(ヤン・ソギル)の「闇の子供たち」を読んでいるからだ。
この梁石日氏の作品で、何年か前に読んだ「血と骨」で、我のド頭(たま)をド太いハンマーで殴り飛ばされた。
私の生ぬるい血は凍(こご)え、全身の骨にさえひびが入り、今にも壊れそうになって仕舞った。
それほど恐ろしい作家で、作品だった。

「闇の子供たち」は、幻冬舎文庫。



ある中古本屋さんで100円だった。
470ページのうち、たかだか244ページしか読んでいないのに、どうしたんだよ、と思われそうだ。

地図の説明

取り敢えず、この本の舞台はタイとタイの北部山岳地帯なんだけれど、上の地図を見てもらっても、そう簡単には解かってもらえないが、ベトナム、ラオス、ミャンマーの山岳地帯には、数多くの民族がいた。

国の管理監督が行き届いていないばかりでなく、無法に避けられていた。

タイは、バンコクを中心に経済開発が進展していると言われる中で、なかでも北部山岳地帯は、その恩恵からまったく取り残され、そのうえバンコクに入ることすら禁じられていた。
北部山岳地帯の民族には、住民票や通行証が発行されないので、この地域から一歩も外部には出られなかった。
山からは町へ降りてくるのを禁止していたことになる。

タイやカンボジア国境沿いには50万人ともいわれる難民キャンプがある。
その難民キャンプを警備している警備兵が少女、少年を誘拐して人買いに売り飛ばしていた。
カンボジアの難民やタイの山岳地帯からの子供たちには、住民票や通行証だけでなく、国籍さえなかった。

この地帯の出身者には、反政府軍の秘密の拠点として利用されやすく、結果的に反政府軍のゲリラ兵が多かった。
農繁期になると、国境警備警察隊の網の目をかいくぐって隣国に出稼ぎに行くのだが、仕事にありつける者は少なかった。

経済的に苦しみに苦しんだ住民が、生活費の幾分かを得るために行ったことは、自分たちの子どもを、バンコクの売春宿に売り渡すことだった。
売り渡された子どもは、食べることも寝ることも十分できることもなく、その前に与えられた生活環境なんて貧の貧に蔑(さげす)まれた所に居つかされた。
そして、男の子にしても女の子にしても、世界中の富裕層の性的玩具にさせられてしまう。
幼児売買春や幼児売買、臓器売買だ。

この内容を読むだけで私の血涙は、簡単に枯れ果てていく。
私(=山岡)の子どもは、「何是(なんぜ)、お父さんはこんな悲しい本を読むんだろう」と妻に話していたそうだ。
生まれながら得た私の思想を、家族の誰にも話してはいない。

売られた子どもたちには、その売春宿のオーナーや係員に全てを剥ぎ取られ、なけなしの、たった小さなひとかけらの、お金だっていただけなかった。
だって、子どもたちを売春宿のオーナーやそこにいる係員たちが、親たちから仕入れてきたのだから。
それもできるだけ安価になあ!

そこにきて、もっと社会的に恐ろしいことに、警察や市が?国でさえ、こんな無骨で不法、無法なことを、認めていることだった。
取り締まりに来た警察や市の役人に、幾ばくかのお金を渡すだけで、勘弁され、お調べ抜きで済ましてもらえる。
そんなことが、東南アジアの中で、比較的高度な商業国を目指しているタイの闇夜で行われていた。
それも、十分大ぴらに。

ところが、この本の本題はこれからだ。

アジアの最底辺で今、子どもを含めて行われている非かつ性なる惨事!
その事実の克明な報告が、私にはどうしても想像できない幼児売買春、幼児売買、臓器売買だった。
モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と、人間の飽くなき欲望の恐怖を見せるドラマでもある。
1頁を読んだだけで、尻抜け? 私の尻は見事に抜けてしまった。

前記した性に関する悪事の実態を把握し、その改善策を真剣に講じようとする社会福祉センターがあった。
アメリカに本部があって、日本にはアジア地区の支所があり、タイにだって支部があった。
このセンターは上記したような幼児売買春や幼児売買、臓器売買、ストリート・チルドレン、この無限級数的な連鎖を断ち切る方法を得て、それを阻止したいと考えていた。

今、ブラジル、コロンビア、ペルーを回り、それらの国のストリート・チルドレンの現状をつぶさに観察して、いったんニューヨークに戻って児童虐待阻止のための国際会議に報告書を提出していた。
この報告書とはタイにおける幼児を含む秘められた闇の話だ。

この社会福祉センターに勤める音羽恵子は、センターの業務に理解を示してくれるA新聞社会部の記者と、日本に一時的に帰国した。
豊かな家庭の子どもの臓器が悪く、命はよくもっても半年だと日本の医者に言われ、その臓器を求めてタイへ行くという。
その母に、臓器移植を止めるように説得するためだ。

タイでは子どもの臓器を、買われてきた子どものモノで、何の顧みもせず、易い値段で売買されていることを知り、その準備に入っていた。
センターの女性・音羽恵子は、この子どもの母にそんなことは止めてもらいたいと願うつもりだ。
元気なタイの子どもの命が奪われることになる。

音羽恵子は東京にあるアジア人権センターの責任者に、タイにある社会福祉センターの現状をつぶさに語り、今年の12月に労働組合や学生や一般市民と一緒に全国統一大行進を実行することをA新聞社の協力を得て、暴くのだと話した。
そして、2,3日後に同じ事を、子どもの母にも話した。

タイに戻ると、A新聞の社会部の担当者から、「幼児売買春・幼児売買・幼児臓器売買の実態」と名の付く原稿をもらった。
大山満男らしき仲介者、東京のB暴力団と九州のE暴力団の関係、E暴力団と福建省のマフィア、ヴェトナム、ラオス、タイ、カンボジア、フィリピン、インドネシア、インドなどの闇ルートの存在。
そのコネクションはアジア全体にひろがり、世界をまたにかけて幼児が売買されている。
同時にそれらのルートは麻薬ルートと重なり、政治家、財界、軍、マフィア、官、大病院にまでおよび、1年間だけでも2千人以上の犠牲者が出ている。

そして、全国統一大行進の日。
会場には20万人の巨大な群集が集まり、開会のための各挨拶は恰も何もなかったように進められた。
この大会はある意味で権力に対峙している意志を見せ付ける大会、恣意的な挑発行為であった。

この大行進は、一部の破壊者がデモを壊すような非道な行為に出て、それも作戦通りだったのか、軍や警察に加えてデモ反対者たちが催涙弾や銃砲をデモ隊に向かって撃った。
社会福祉センターのメンバーの幾人者が被害者になった。

A新聞社会部の担当者から,もうこれ以上タイにいないで日本に帰ろうと促(うなが)された。
だが、音羽恵子の意思は硬かった。
音羽恵子は、
「日本にわたしの居場所はないのです。
ーーわたしの居場所はここです。ーーここ以外ありません。
ーーわたしは所長、その他の人たちが帰ってくるまで、ここで待ちます。
ーーたとえ彼女たちが死んだとしても、私は彼女たちの魂を探し求めます。ーー子どもたちと一緒にーーーーーー」。

そして涙をぬぐい、毅然とした態度になって、「さあ、みんなで食事をつくりましょう」と声をかけた。





★新聞記事とはーーーーーーーーーー。
朝日新聞・アジア総局長=貝瀬 秋彦

「スラムの天使」は休まない

ようやく人がすれ違えるような狭い路地。
両側に、木材やトタンなどでふいた小さな家々がぎっしりと立ち並ぶ。
「クロントイ・スラム」は、数万人が暮らすバンコク最大のスラムだ。

シティチャーさん(23)はその一角で生まれ育った。
12歳の時に、両親が離婚。
数か月後、火事で焼き出されて近くの祖父母の家に母、弟と身を寄せた。
母は父との不仲が原因で麻薬におぼれ、働けなくなっていた。

食べ物を売って生計を立てる祖母を支えようと、飲食店で皿洗いを始めた。
同居する親戚の子たちの面倒も見なければならない。
中学を出たら職業専門学校を経て働くつもりだった。

                  ★

そんな彼女の人生を変えたのは、地域にある「ドゥアン・プランティープ財団」の奨学生だった。
高校に通い、有名私大に進学。
今は外資系の五つ星ホテルの会計担当部署で働く。
「財団が私に機会を与えてくれたことですべてが変わった。教育の大切さをかみしめています」

財団は1978年8月31日に設立され、今年で40周年を迎えた。
その源は、創設者プラティープさん(66)が半世紀前に姉とクロントイ・スラムで始めた「学校」にさかのぼる。

自らもスラムで育ったプラティープさんは貧しさゆえ、小学校を終えると働かざるを得なかった。
港で船のさび落としをしていた時、別の少女がいた足場が崩れ、高所から落ちて半身不随に。
だが、何の補償もない。
なぜ、虫けらのように扱われるのか。
考えた末に、たどり着いたのが「教育」だった。

                   ★

16歳で、小学校に行けない子どもたちに自宅で読み書きを教え始めた。
「無認可」を理由にした当局の閉鎖命令を乗り越え、存続運動の末に公立学校へと発展。
プラテイープさんは78年にアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞し、その副賞を基金に財団ができた。
以来、奨学金を受けたスラムの子どもたちは3万人を超える。
大学の教員や中央省庁の役人になった人もいて、初の医師も近く誕生する。

住環境の改善にも取り組み、電気や水道がほとんどの家に届くようになった。
それを可能にしたのは「民主主義」だと、プラティープさんは言う。
選挙があれば政治家は、貧しくとも一票を持つ人たちに耳を傾ける。
2000年には自ら上院議員に当選し、6年にわたり貧困、麻薬対策に奔走した。

クーデターが繰り返されるタイで、脅しや嫌がらせを受けながら「反軍事政権」を置いてきた。
それも「民主主義だけが貧しい人たちの苦しみを軽減できる」との信念からだ。

                   ★

スラムの状況は徐々に改善されてはきたものの、スラムの外との格差はむしろ広がっているという。
それを解くカギもまた教育にあると、プラティープさんは考える。
新たな夢は、英語教育などを充実させた学校をこの地域につくることだ。

「スラムの天使」と呼ばれて半世紀。その羽を休める日はまだ来そうにない。

2018年10月6日土曜日

創作の現場から

渡辺淳一
1933年10月24日札幌生まれ。
札幌医大卒。
医学博士。
元札幌医大講師。
「光と影」で70年度上半期の直木賞を受賞。


「創作の現場から」






















渡辺氏が自らの創作活動において、いろいろ考えたことを、エッセイ集として「創作の現場から」にまとめた。
この作品は1994年2月、集英社より刊行されたが、文庫収録にあたった。
このエッセイをダイジェストにと思ったが、バラバラに書かれている内容を、纏めて、一つの文章にするのはさぞかし難しい。
それで、皆さんには、この本を読んでいただくのが一番良い方法だと思う。
そんな結果、せめて、本の目次だけですまないけれど、書かしてもらう。
文章を書きたいと思っている方は、その程度のことだけれど、お付き合いくださいな。

私は70歳を先月に迎えた老人です。
でも、老人になっても、なんとか他人さまに、気の効いた文章を書きたいと思い続けていた。それでも、自らのありふれた感性を何とか、物(もの)怖(お)じなく書けたら好いなと思っている。
決して、今回の渡辺淳一さんのことを惚れこんでいるわけではないが、古本屋で100円で買ったこの本はそれなりに、私には大いに勉強になった。
小説や評論、もしくは各種の小論にちょっと面白、可笑しく、興味たっぷりに書きたいと思われている方なら、この本をお買い上げになられたらどうでしょうか。

目次
第一章
・主題の発見
・書き出しとエンディング
・題名とネーミング
・視点・会話・地の文
・人物デッサンとは
・実生活と小説の世界
・短編と長編
・書斎の周辺
・新人のころ
・体力と気力

第二章
・作家と編集者
・作家と読者
・作家と読書
・作家と年齢

第三章
・歴史・伝記小説について
・小説と映像について
・男女小説について




★この本の最後に「あとがき」として自らの本の内容とは違うコメントを出していた。
この「あとがき」をここに転載させてもらった。

「あとがき」
このエッセイ集は、大きく分けて三つの章から成り立っている。

しかし、「小説すばる」誌上での連載の順番からいうと、第三章が初めてであった。
ここでは、日頃、わたしがいろいろ小説に抱いていた感想を、実作者の立場から記したもので、いわば実感的小説論、とでもいうべきものである。

これを書くうちに、実際の創作の現場そのものに触れてみようということになり、それが結果として、小説の書き方というところまで広がり、第一章ができあがった。
したがってこの章が、これから新しく小説を書こうとする人、あるいは少し書きはじめた人への参考、または指針となりうれば幸いである。

これに続く第二章は、これまで三十年間、小説を書いてきた足取りを基に、小説とその周辺との関わり合いについて記したものである。

各回、それぞれテーマが決まっているが、みな一つのつながりがあるもので、どこから読みはじめ、どこで終えても一向にかまわない。
いずれも、わたしが編集者に話しかける形でつくられたので、そのまま語りの口調が残されている。

これから社会がどのように変わり、小説がどのように変わろうとも、いまの時点でわたしはこう考え、こう歩んできた。
いわばわたしという作家の手の内のほとんどを、このエッセイで記したことになる。

1994年1月

2018年10月5日金曜日

検察審査会

ある日、テレビを観ていたら、検察審査員が登場してきて、ストーリーはこの人が中心になって進んだ。
この検察審査員は、何をどのように務めるのか?
詳しいことは分らないが、この検察審査員のことを深く知りたいと思った。
審査委員は誰がなるのか? 審査補助員とは誰がなれるのか?
そして、検察審査会とは、何ぞや?とこの数か月考えていた。

それもそうだったが、それよりも、どんな事件がこの検察審査会で対象になるのか?
ネットでは、刑事事件のうち、検察官が不起訴処分にした事件が審査対象になるとあった。
ただし、内乱罪と独占禁止法違反の罪は除くとあるが、そりゃそうだろうなと納得した。


テレビは視聴者の支持が下がってきているとか、新聞を宅訪購読している人は減っているので、我が社の中古住宅の宣伝物をどのような遣り方、処方があったら、それに注力したいと考えていることも事実だ。
新聞好みの私こそ、何をどうして、今後のニュースや宣伝、出来事や政事やその素因のことを考えればいいのか、頭を使っていた。
当然、そんな私だからか、ネットからの情報は極めて少なく、新聞の記事に拘らざるを得なかった。
そんな私が、新聞記事とネットでこの検察審査員、検察審査会のことを、知った。

★検察審査会の概要については、下記にネットで知り得たものを転載させてもらった。



2018年10月3日。
朝日新聞の記事を此処に転載させてもらった。
この新聞記事で、今、検察審査会に審査を申し立てている大学の教授がいることを、あらためて知った。

不祥事省庁の再生 大丈夫?
全員野球内閣を掲げ、第4次安倍改造内閣が2日に発足した。
不祥事続きだった各省庁では、留任する大臣や新たなトップに、賛否が入り交じる。
女性閣僚の数や自民党役員人事について、識者から厳しい意見も上がった。

学校法人森友学園をめぐる問題で、国有地取引に関する決裁文書の改ざんや、交渉記録の廃棄が明らかになった財務省。
麻生太郎氏の留任について、神戸学院大の上脇博之教授は「都合の悪い証拠は隠し、証拠を残さなくていいという、官僚への誤ったメッセージになる」と指摘する。

上脇教授は、「一連の問題で、公文書変造などの容疑で佐川宣寿・元財務相理財局長らを告発。大阪地検が不起訴とした処分を不服として検察審査会に審査を申し立てている。

麻生氏は、改ざんを「個人の問題」と言い、国会対応で問題があった佐川氏を「適材適所」と評価している。

上脇教授は「文書の廃棄は民主主義の根幹が崩れる出来事だ。麻生氏がいち早く辞めなければいけない人だった」と話す。



★検察審査会の概要

 20歳以上で選挙権を有する国民の中からくじで選ばれた11人の検察審査員が,検察官が被疑者(犯罪の嫌疑を受けている者)を裁判にかけなかったことのよしあしを審査しています。
 昭和23年の法施行から,これまで60万人以上の方が検察審査員又は補充員に選ばれています。

審査はどういうときに行われるのか

 犯罪の被害にあった人や犯罪を告訴・告発した人から申立てがあったときに審査を始めます。
 申立てがなくても,新聞記事などをきっかけに審査を始めることもあります。

      申立ての費用は

       審査の申立てや手続案内には,費用はかかりません。

          審査の方法は

           検察庁から取り寄せた事件の記録などを調べ,国民の視点で審査します。
           法律上の問題点などについて,弁護士(審査補助員)の助言を求めることもできます。
           会議は非公開で行われますので,自由な意見を活発に出し合うことができます。

              審査の結果は

               審査をした結果,更に詳しく捜査すべきである(不起訴不当)とか,起訴をすべきである(起訴相当)という議決があった場合には,検察官は,事件を再検討します。
               起訴相当の議決に対して検察官が起訴しない場合には,改めて検察審査会議で審査し,その結果,起訴をすべきであるという議決(起訴議決)があった場合には起訴の手続がとられます。

                  これまでに審査した事件は

                   これまでに全国の検察審査会が審査した事件数は17万人(被疑者数による延べ人数)に上り,その中には,交通事故や窃盗など身近で起こる事件だけでなく,水俣病事件,日航ジャンボジェット機墜落事件,薬害エイズ事件,明石花火大会事件といった社会の注目を集めた事件もあります。
                   また,検察審査会が審査した結論に基づいて,検察官が再検討した結果,起訴した事件は約1,600人(被疑者数による延べ人数)であり,その中には,懲役10年といった重い刑に処せられたものもあります。



                  ★検察審査員・補充員とは

                   検察審査員は,検察審査会の構成メンバーであり,20歳以上で選挙権を有する国民の中から,それぞれの地域ごとにくじで選ばれ,任期は6か月です。
                   補充員は,検察審査員に欠員ができたときなどに,これに代わって補欠又は臨時で検察審査員の仕事をします。選定方法及び任期は検察審査員と同じです。

                  検察審査員・補充員に選ばれたら・・・

                   検察審査員や補充員に選ばれると,検察審査会事務局から,選定された旨と会議期日への出席を依頼する旨の書面が届きます。ご不明な点がありましたら,出席することとなる検察審査会事務局にお問い合わせください。
                   なお,視覚,聴覚,言語などに障がいのある方や介護が必要な方が検察審査員又は補充員として選ばれた場合,検察審査会に参加しやすいよう検察審査会事務局において準備をしますので,検察審査会事務局までお問い合わせくださ



                  2018年10月2日火曜日

                  遺言手続きが法改正した

                  昨日(20180930)の朝日新聞の記事に「遺言手続き 法改正で円滑に」の記事が載っていた。

                  遺言書のイラスト 11400961

                  今春に、義母の持つ京都府向町市の住宅の持分を、娘2人と息子の3人で相続するための、遺言書を公証人に作成して貰ったことがあったので、条件反射的、この記事に注目した。
                  だから、遺言書作成について、公証役場の公証人の存在と仕事の進み方については、熟知している。
                  公正証書遺言とは、公証人が遺言の法的有効性をチェックし、公証役場に保管してもらうことを言う。
                  チェックを受けるため、遺言そのものが無効にならないことや、紛失、偽造の危険がないメリットがある。

                  ところが、私が経験した公証人による遺言書作成ではないが、「自筆証書遺言」に関して、改正があったとの新聞記事だ。
                  このことは、現在の私の仕事の上でも大事なことなので、この記事を下に転載させてもらった。


                  ★新聞記事は下記の通りだった。
                  ーーーーーーーーーーーーーーー
                  民法の相続に関する規定が約40年ぶりに改正されました。
                  家族の形が変化し、相続争いが増えたことなどに伴うものですが、円満な家庭が相続に備えやすくなる改正もあります。
                  ポイントを順に見ていきましょう。

                  まず、「自筆証書遺言」に関する改正です。
                  自筆証書遺言は一人で手軽に作れる遺言書で、筆記用具と印鑑があればよく、費用もかかりません。
                  半面、全ての文章を自筆で書く必要があり、途中で間違いが生じたり、法律上求められる方式に従わず遺言が無効になったりするケースがありました。

                  改正後の来年1月13日からは、遺言の本文だけを自筆で書けば、財産目録についてはパソコンで作った財産リストや不動産の登記事項証明書、預金通帳のコピーなどを別に添付する形でも認められます。
                  ただし、財産目録の全ページに署名押印が必要です。

                  自筆証書遺言を法務局で保管する制度もできます。
                  2020年7月13日までに始まる予定です。

                  封をしていない遺言書を住所地や本籍地などの法務局に持参すると、日付の記載もれや押印もれなど、方式に不備がないかの形式的なチェックを行った後、原本とデータ化した内容を法務局で保管してくれます。
                  遺言書の紛失や変造のリスクがなくなり、故人の希望が実現されやすくなります。

                  従来の自筆証書遺言は、遺言者の死後、相続人が家庭裁判所で「検認手続き」を行う必要があり、公正証書遺言と比べ手続きに時間や手間がかかりました。
                  法務局で保管された自筆証書遺言は、検認手続きが不要になります。

                  当面の生活費などに充てられるよう、遺産分割協議前でも、相続人が故人の預金を一定額まで払い戻せる「預金の仮払い制度」も創設され、相続手続きがよりスムーズになります。

                  相続人同士の関係が良好ではない場合に備え、「配偶者」の住まいを守る仕組みもできました。

                  婚姻期間20年以上の配偶者に自宅が生前贈与や遺言で残された場合、自宅は遺産分割の対象から除かれます。
                  配偶者が自宅を相続できなくても、例えば、遺産分割協議がまとまるまでは無償で住める「配偶者短期居住権」や、相続税の課税対象にはなるものの、生涯無償で住める「配偶者居住権」といった権利も創設されています。

                  相続トラブルを解決しやすくなる改正も行われています。

                  従来は、亡くなった方から相続人への全ての生前贈与を遺産に合算し、遺留分(遺言がある場合の取り分)を計算しましたが、改正後は、原則過去10年間の生前贈与に限られます。生前贈与の有無による争いは減りそうです。

                  相続人以外の親族が無償で故人の介護をしていた場合は、相続人に金銭の支払いを請求でき、長男の妻などの苦労に報いる手段もできました。

                  今回の改正を機に、相続税への備えに加え「もめない相続」についても家族で話し合っておくのが理想的です。

                  (ファイナンシャルプランナー・税理士 福田真弓)







                         

                  本庶佑京大教授にノーベル医学・生理学賞


                  佑氏は説く、常識を疑う大切さを

                  10/1(月) 20:40配信
                  BuzzFeed Japan
                  ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】




                  冒頭発言「自分の研究、意味があったと実感」(全文)
                  この度は、ノーベル医学生理学賞をいただくことになり、大変名誉なことだと喜んでおります。

                  これはひとえに、長いこと苦労してきました共同研究者、学生諸君、様々な形で応援してくださった方々、長い間支えてくれた家族、本当に言い尽くせない多くの人に感謝致しております。

                  1992年の「PD-1」の発見と、それに続く極めて基礎的な研究が新しいがん免疫療法として臨床に応用され、そしてたまにではありますが「この治療法によって重い病気から回復して元気になった。あなたのおかげだ」と言われる時があると、私としては自分の研究が本当に意味があったと実感し、何よりも嬉しく思っております。

                  その上に、このような賞をいただき、大変私は幸運な人間だと思っております。

                  今後この免疫療法が、これまで以上に多くのがん患者を救うことになるように、一層私自身もうしばらく研究を続けたいと思います。

                  世界中の多くの研究者がそういう目標に向かって努力を重ねておりますので、この治療法がさらに発展するように期待しております。

                  また、今回の基礎的な研究から臨床につながるような発展というようなことを実証できたことにより、基礎医学分野の発展が一層加速し、基礎研究に関わる多くの研究者を勇気づけることになれば、私としてはまさに望外の喜びでございます。
                  研究で大事なのは「自分の目で確信ができるまでやる」
                  会見では、報道陣から「研究にあたって心がけていることやモットーは」と問われる場面も。

                  本庶氏は著名な科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」を挙げてこう語った。


                  私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。

                  よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

                  まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。
                  つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。

                  子どもたちに育んでほしい「不思議だなと思う心」
                  将来、研究者の道に進む夢を見る子どもたちに、どんなことを伝えたいか。

                  本庶氏は、こんなメッセージを語った。
                  研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。

                  自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。

                  そういう小中学生に、研究の道を志してほしいと思います。


                  あくまで「自分の目」で確かめて納得することの大切さを重んじる、本庶氏らしいメッセージだった。