2018年10月8日月曜日
クロントイ・スラム/「闇の子供たち」
20181008の朝日新聞の記事の中で、『「スラムの天使」は休まない』にジーンとくるものを感じた。
この新聞記事は此の稿の最終コーナーに転載させてもらいました。
何故か、胸の中に不思議なモノが涌き起こってきた。
私の心の烈火岩が、この新聞を読んで再び燃え出した。
私の心情は、普通の皆様とはちょっと違うみたい。
誰もが、へえ!、そうなの?と感心を示すことにはな~にも関心を持たず。
誰もがどうでもいいと思うことに、何是(なんぜ)そこまで興味を持つの?と言われてきた。
実は、この3日前から梁石日(ヤン・ソギル)の「闇の子供たち」を読んでいるからだ。
この梁石日氏の作品で、何年か前に読んだ「血と骨」で、我のド頭(たま)をド太いハンマーで殴り飛ばされた。
私の生ぬるい血は凍(こご)え、全身の骨にさえひびが入り、今にも壊れそうになって仕舞った。
それほど恐ろしい作家で、作品だった。
「闇の子供たち」は、幻冬舎文庫。
ある中古本屋さんで100円だった。
470ページのうち、たかだか244ページしか読んでいないのに、どうしたんだよ、と思われそうだ。
取り敢えず、この本の舞台はタイとタイの北部山岳地帯なんだけれど、上の地図を見てもらっても、そう簡単には解かってもらえないが、ベトナム、ラオス、ミャンマーの山岳地帯には、数多くの民族がいた。
国の管理監督が行き届いていないばかりでなく、無法に避けられていた。
タイは、バンコクを中心に経済開発が進展していると言われる中で、なかでも北部山岳地帯は、その恩恵からまったく取り残され、そのうえバンコクに入ることすら禁じられていた。
北部山岳地帯の民族には、住民票や通行証が発行されないので、この地域から一歩も外部には出られなかった。
山からは町へ降りてくるのを禁止していたことになる。
タイやカンボジア国境沿いには50万人ともいわれる難民キャンプがある。
その難民キャンプを警備している警備兵が少女、少年を誘拐して人買いに売り飛ばしていた。
カンボジアの難民やタイの山岳地帯からの子供たちには、住民票や通行証だけでなく、国籍さえなかった。
この地帯の出身者には、反政府軍の秘密の拠点として利用されやすく、結果的に反政府軍のゲリラ兵が多かった。
農繁期になると、国境警備警察隊の網の目をかいくぐって隣国に出稼ぎに行くのだが、仕事にありつける者は少なかった。
経済的に苦しみに苦しんだ住民が、生活費の幾分かを得るために行ったことは、自分たちの子どもを、バンコクの売春宿に売り渡すことだった。
売り渡された子どもは、食べることも寝ることも十分できることもなく、その前に与えられた生活環境なんて貧の貧に蔑(さげす)まれた所に居つかされた。
そして、男の子にしても女の子にしても、世界中の富裕層の性的玩具にさせられてしまう。
幼児売買春や幼児売買、臓器売買だ。
この内容を読むだけで私の血涙は、簡単に枯れ果てていく。
私(=山岡)の子どもは、「何是(なんぜ)、お父さんはこんな悲しい本を読むんだろう」と妻に話していたそうだ。
生まれながら得た私の思想を、家族の誰にも話してはいない。
売られた子どもたちには、その売春宿のオーナーや係員に全てを剥ぎ取られ、なけなしの、たった小さなひとかけらの、お金だっていただけなかった。
だって、子どもたちを売春宿のオーナーやそこにいる係員たちが、親たちから仕入れてきたのだから。
それもできるだけ安価になあ!
そこにきて、もっと社会的に恐ろしいことに、警察や市が?国でさえ、こんな無骨で不法、無法なことを、認めていることだった。
取り締まりに来た警察や市の役人に、幾ばくかのお金を渡すだけで、勘弁され、お調べ抜きで済ましてもらえる。
そんなことが、東南アジアの中で、比較的高度な商業国を目指しているタイの闇夜で行われていた。
それも、十分大ぴらに。
ところが、この本の本題はこれからだ。
アジアの最底辺で今、子どもを含めて行われている非かつ性なる惨事!
その事実の克明な報告が、私にはどうしても想像できない幼児売買春、幼児売買、臓器売買だった。
モラルや憐憫を破壊する冷徹な資本主義の現実と、人間の飽くなき欲望の恐怖を見せるドラマでもある。
1頁を読んだだけで、尻抜け? 私の尻は見事に抜けてしまった。
前記した性に関する悪事の実態を把握し、その改善策を真剣に講じようとする社会福祉センターがあった。
アメリカに本部があって、日本にはアジア地区の支所があり、タイにだって支部があった。
このセンターは上記したような幼児売買春や幼児売買、臓器売買、ストリート・チルドレン、この無限級数的な連鎖を断ち切る方法を得て、それを阻止したいと考えていた。
今、ブラジル、コロンビア、ペルーを回り、それらの国のストリート・チルドレンの現状をつぶさに観察して、いったんニューヨークに戻って児童虐待阻止のための国際会議に報告書を提出していた。
この報告書とはタイにおける幼児を含む秘められた闇の話だ。
この社会福祉センターに勤める音羽恵子は、センターの業務に理解を示してくれるA新聞社会部の記者と、日本に一時的に帰国した。
豊かな家庭の子どもの臓器が悪く、命はよくもっても半年だと日本の医者に言われ、その臓器を求めてタイへ行くという。
その母に、臓器移植を止めるように説得するためだ。
タイでは子どもの臓器を、買われてきた子どものモノで、何の顧みもせず、易い値段で売買されていることを知り、その準備に入っていた。
センターの女性・音羽恵子は、この子どもの母にそんなことは止めてもらいたいと願うつもりだ。
元気なタイの子どもの命が奪われることになる。
音羽恵子は東京にあるアジア人権センターの責任者に、タイにある社会福祉センターの現状をつぶさに語り、今年の12月に労働組合や学生や一般市民と一緒に全国統一大行進を実行することをA新聞社の協力を得て、暴くのだと話した。
そして、2,3日後に同じ事を、子どもの母にも話した。
タイに戻ると、A新聞の社会部の担当者から、「幼児売買春・幼児売買・幼児臓器売買の実態」と名の付く原稿をもらった。
大山満男らしき仲介者、東京のB暴力団と九州のE暴力団の関係、E暴力団と福建省のマフィア、ヴェトナム、ラオス、タイ、カンボジア、フィリピン、インドネシア、インドなどの闇ルートの存在。
そのコネクションはアジア全体にひろがり、世界をまたにかけて幼児が売買されている。
同時にそれらのルートは麻薬ルートと重なり、政治家、財界、軍、マフィア、官、大病院にまでおよび、1年間だけでも2千人以上の犠牲者が出ている。
そして、全国統一大行進の日。
会場には20万人の巨大な群集が集まり、開会のための各挨拶は恰も何もなかったように進められた。
この大会はある意味で権力に対峙している意志を見せ付ける大会、恣意的な挑発行為であった。
この大行進は、一部の破壊者がデモを壊すような非道な行為に出て、それも作戦通りだったのか、軍や警察に加えてデモ反対者たちが催涙弾や銃砲をデモ隊に向かって撃った。
社会福祉センターのメンバーの幾人者が被害者になった。
A新聞社会部の担当者から,もうこれ以上タイにいないで日本に帰ろうと促(うなが)された。
だが、音羽恵子の意思は硬かった。
音羽恵子は、
「日本にわたしの居場所はないのです。
ーーわたしの居場所はここです。ーーここ以外ありません。
ーーわたしは所長、その他の人たちが帰ってくるまで、ここで待ちます。
ーーたとえ彼女たちが死んだとしても、私は彼女たちの魂を探し求めます。ーー子どもたちと一緒にーーーーーー」。
そして涙をぬぐい、毅然とした態度になって、「さあ、みんなで食事をつくりましょう」と声をかけた。
★新聞記事とはーーーーーーーーーー。
朝日新聞・アジア総局長=貝瀬 秋彦
「スラムの天使」は休まない
ようやく人がすれ違えるような狭い路地。
両側に、木材やトタンなどでふいた小さな家々がぎっしりと立ち並ぶ。
「クロントイ・スラム」は、数万人が暮らすバンコク最大のスラムだ。
シティチャーさん(23)はその一角で生まれ育った。
12歳の時に、両親が離婚。
数か月後、火事で焼き出されて近くの祖父母の家に母、弟と身を寄せた。
母は父との不仲が原因で麻薬におぼれ、働けなくなっていた。
食べ物を売って生計を立てる祖母を支えようと、飲食店で皿洗いを始めた。
同居する親戚の子たちの面倒も見なければならない。
中学を出たら職業専門学校を経て働くつもりだった。
★
そんな彼女の人生を変えたのは、地域にある「ドゥアン・プランティープ財団」の奨学生だった。
高校に通い、有名私大に進学。
今は外資系の五つ星ホテルの会計担当部署で働く。
「財団が私に機会を与えてくれたことですべてが変わった。教育の大切さをかみしめています」
財団は1978年8月31日に設立され、今年で40周年を迎えた。
その源は、創設者プラティープさん(66)が半世紀前に姉とクロントイ・スラムで始めた「学校」にさかのぼる。
自らもスラムで育ったプラティープさんは貧しさゆえ、小学校を終えると働かざるを得なかった。
港で船のさび落としをしていた時、別の少女がいた足場が崩れ、高所から落ちて半身不随に。
だが、何の補償もない。
なぜ、虫けらのように扱われるのか。
考えた末に、たどり着いたのが「教育」だった。
★
16歳で、小学校に行けない子どもたちに自宅で読み書きを教え始めた。
「無認可」を理由にした当局の閉鎖命令を乗り越え、存続運動の末に公立学校へと発展。
プラテイープさんは78年にアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞し、その副賞を基金に財団ができた。
以来、奨学金を受けたスラムの子どもたちは3万人を超える。
大学の教員や中央省庁の役人になった人もいて、初の医師も近く誕生する。
住環境の改善にも取り組み、電気や水道がほとんどの家に届くようになった。
それを可能にしたのは「民主主義」だと、プラティープさんは言う。
選挙があれば政治家は、貧しくとも一票を持つ人たちに耳を傾ける。
2000年には自ら上院議員に当選し、6年にわたり貧困、麻薬対策に奔走した。
クーデターが繰り返されるタイで、脅しや嫌がらせを受けながら「反軍事政権」を置いてきた。
それも「民主主義だけが貧しい人たちの苦しみを軽減できる」との信念からだ。
★
スラムの状況は徐々に改善されてはきたものの、スラムの外との格差はむしろ広がっているという。
それを解くカギもまた教育にあると、プラティープさんは考える。
新たな夢は、英語教育などを充実させた学校をこの地域につくることだ。
「スラムの天使」と呼ばれて半世紀。その羽を休める日はまだ来そうにない。