2013年3月31日日曜日

取締役会長に就任した

先月、私は取締役会長に就任して、現在、商業登記簿に取締役就任の登記申請中だ。私のことを何かと気に掛けてくれる銀子司法書士が手続きをしてくれている。寄る年波、意図的に仕事の量を減らしている彼だが、私に関する仕事は最優先事項だ。30余年前は、ニュースターを自負する不動産屋の卵と、新進気鋭の糞真面目な司法書士。二人が共に扱う仕事は仕事というよりも学習そのものだった。取締役就任を誰よりも喜んでくれている。

会長にもいろいろあるが、一般的に会長は、会の長や責任者、代表者を指す言葉で、その団体や組織を実質に代表する者だ。

ところが、今私が神経を尖らせているのは、弊社の内外において、俗に言う、社長が第一線を退いた後に就任する単なる名誉職とみなされる会長のことだ。このように見なされ、会長などと呼ばれたら、私はゾクゾク、羞恥で身震いするだろうな。挫(くじ)けるだろうな。

弊社には代表権を持つ中さんが社長で頑張っている。私はと云えば、慎重に時には蛮勇を奮(ふる)って、代表取締役の中さんの、取締役として経営面で、サポーター役に徹することだ。兜(かぶと)の紐を、ここらで、もう一回強く締め直さなければ。

社外においては、会社を背負っているわけで、会長でいいだろうが、社内においては、会長と呼ぶのを避けるようにお願いした。いつもの、ヤマオカさんでいいではないか。

全日本柔道連盟会長の上村春樹会長も、会長だ。湧き起こった不祥事の調査、改善策は第三者機関にお任せすると何度も述べるだけで、責任を問われても口を封じる。こんな会長だけにはなりたくないもんだ。

2013年3月29日金曜日

つくし(土筆)のつくだ煮だ

20130329の夕刻、空は曇り空。経営責任者の中さんと、彼方此方(あっちこっち)の物件を見ての帰り、ちょっと寄り道したくて、いつも利用している弥生台駅より1駅先のいずみ野駅に降りて、ぷらぷら歩いて帰ることにした。同じ駅を毎日利用することに飽きたこともあるが、実は、よもぎ(蓬)の群生を見つけたかった。よもぎの団子を作ってみたいと考えている。この季節、蕗(ふき)の薹(とう)が終わってつくし、同時によもぎ、ふきは未だ若く、わらび(蕨)にぜんまいはその後だ。春から初夏にかけての山菜には懐かしい故郷(ふるさと)の香りがする。こんなことに、私だけが特別に敏感なわけではない、田舎で幼少期を過ごした人なら、みな同じだ。

つくし 005 

相鉄・いずみの線に沿った駐車場の誰も寄り付かないような場所に、ふきではなく、つくしが群生しているのを見つけた。二十歳で東京に出てきてから、このように群れてニョキニョキ頭を突き出しているのを見たのは初めてだ。顔の表情が自然に緩むのを自分でも解った。でも、私の知っているつくしとは違い、ひ弱過ぎだ。田舎で見てきたつくしは、土が肥沃だったのだろう、太くて逞しかった。

つくしはすぎなの地下茎から出て胞子をつけた茎だ。その胞子が、まるで筆の先のように見えるところから、漢字では土筆と表すのだろうか。節々のはかまは葉が退化したもの。胞子を出し切ると枯れる。私の田舎では、つくしのことを「つくしんぼ」と呼んでいた。

 

つくし 006

 

水で何度も洗った。都会は私が育った田舎とは違って、何があるかわからない。食べ物は慎重に慎重に。指ではかまを取り除くには大変なので、私ははかまの部分を包丁で切り捨てた。

たっぷりのお湯で何分間か?茹でて、灰汁(あく)を出した後、水で洗って水気を絞った。小さい鍋にそれらを入れて何分間か?煮た。そこに、味醂、料理酒、昆布つゆを適当に入れて、さらに何分間か?煮た。それで、でき上がり。

つくし 006

熱い炊き立ての玄米ご飯にのせていただきました。

う!ま!か!っ!た!!!

贈る言葉

20130329、会社に向かう車中、NHKのラジオ放送で、立教新座中学・高校の校長の渡辺憲司さんのことが話題になっていた。渡辺校長の学校は2011年3月11日に発生した東日本大震災で被害を受けたことを考慮して、卒業式を中止した。

卒業式を中止したことで、卒業生に祝辞と前途への心構えなどを話すことが叶わず、代わりに、「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」と題して、学校のホームページにメッセージを掲げた。今朝、NHKでそのメッセージの一部が朗読された。これャ、俺だって、丸々読みたいと思った。高校生も、俺のような初老のジジイもみんな一緒だ。

出社して仕事につく前に、この文章を私のブログにも無断で参加してもらった。渡辺校長、私の衝動的に礼を失した行動を許してください。

 

           卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。
 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。
 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。
 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。
 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。
 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。
 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。
 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。
 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。
 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)
 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。 

梅花春雨に涙す 2011年弥生15日

立教新座中学・高等学校  校長 渡辺憲司

2013年3月27日水曜日

レーザービームで勝利を汚した

遠藤のPKは攻守に阻まれる

 

サッカーの日本代表は、ヨルダンの首都アンマンで20130326(日本時間23時から)、2014年W杯ブラジル大会アジア最終予選B組でヨルダンと対戦した。私は昼から、みなとみらい地区にあるホテルの中華レストランで、社員全員による食事会で鱈腹(たらふく)食って飲んだので、夕方、ひと寝入りしてから、テレビの前に陣取った。日本代表にとって中東でのアウェーの試合だったので、内心、心配だったのだ。

嫌な予感が的中した。結果は1-2で負けた。

日本にとって、変な試合だった。攻めあぐねた。日本は勝つべくして、引き分けにもできず、負けてしまった。ヨルダンは引き分けにもされず、勝ってしまった。熱狂的なホームの声援を受けたヨルダンは、ここ一発というところで頑張った。脇目も振らず一目散にゴール目指して突進した。その勢いを日本は抑えられなかった。勝敗ははっきりしていた。

この試合で、嫌悪感を持ったのは、スタンドからのヨルダンサポーターによる、レーザービームの照射だった。

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遠藤保仁

 

PKを蹴る体勢に入ろうとしている遠藤保仁は、横顔に緑のレーザービームを浴びる。入れば日本は同点に追いつく重要な局面だ。目を攻撃して、視力を狂わせミスを誘う。なんと卑劣なことをしやがる、不愉快だ。だが、当の遠藤は、「レーザービームのことは知っていた。PKのときも受けました。その前からも受けていました。でも、プレーには影響なかった」と淡々と述べている。こんなことで動じない、安定した精神状態を維持できる、達人でもあるのだろう。これまでの代表戦で一度もPKを外したことのない職人だ。結果、遠藤のひと蹴りは、相手キーパーの好守に阻まれた。「自信を持ってあそこに蹴りました。コースもそんなに悪くはなかった。読まれていたのかな」とコメントした。

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川島永嗣

 

ゴールを守る川島永嗣の顔には、正面から照射されていた。大きく目を見開いて、レーザービームを気にしていないように見えたけれど、本人はさぞかし、鬱陶(うっとう)しかったことだろう。

ヨルダンのサポーターたちに告ぐ。

君たちの国の選手がこんなに頑張っているというのに、レーザービームの照射という、情けない悪質な行為を恥じれ。視力が低下することも、極端な例では網膜を焼かれることもあるそうだ。テレビに映っている限りにおいては、ヨルダンの選手のプレーは汚いところはなかった、立派な勝者だったのに、水を差した。ヨルダン国の品格を落としてしまった。

日本サッカー協会は、きちんと抗議すべきだ。

 

追記

それにしても、テレビの実況中継で、喋るのが商売なんだろうが、ピーチクパーチク、コメンテーターが、日本が2点差で負けているにもかかわらず、まだまだ時間はありますからねと何度も何度も言い続けた。そして終了時間が30分になり、10分になり、アディショナルタイムに入ってまで、言い続ける神経には、もうこりごりだ。これからは、音声を消して視聴してみるか。時間なんて、あってないようなものなのに。

限られた時間。負けている方は、早く追いつき追い越さなければ、勝てないんだ。

ツーランドット游仙境で食事会

20130326 13:00~

パンパシフック横浜東急ホテル3F

ツーランドット游仙境

 

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社員全員と、弊社の社業にまるで身内のような関係者3人を加えて、合計14人での食事会を、みなとみらい地区にあるツーランドット游仙境で行った。

パラディスハウスが2月で決算を終え、有り難い成果を得られたことを、みんなで確かめ合うためだ。食って、飲めば飲むほどにその確かめ度は一層深まる。会社側からの社員のみなさんに対する謝恩の気持ちでもある。

謝恩会と言えどもやはり会社の行事、冒頭、経営責任者の中さんに、この1年間の成績の発表とこれからの1年間の目標の再確認をお願いした。何度も、目標数値は提示しているが、今回も重ねて確認した。

そして、蛯(えび)さんの乾杯の音頭で酒宴は始まった。

振り返れば、苦しいこの5年間だった。世の景況は、瀕死寸前の重篤の20年、10年以上も資産デフレのスパイラル状態に陥り逼塞状態だった、それでも、苦しい状況を何とか乗り越え、今日、このような食事会ができることに感謝したい。私、個人的には職場を守り切れたことに大きな幸せを覚える。

弊社に何かと協力してくださっている金融機関の方々、各方面、各部門のサポーター、オブザーバー、建築やリフォームの協力会社の方々にもあらためて感謝したい。

出てきた料理はと言えば、それはそれは、中華料理をフランス料理風にアレンジしたものが次から次と出てきて夢中でいただいた。頭が美味しい紹興酒でグラグラし始めてから写真撮影を思いついたので、一部しか撮れなかった。この3点だけの写真では、シェフの脇屋さんに叱られそうだ。

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宴の最後には、私に話す時間を作ってもらった。どうしても、話したいことがあった。それは、ここに参会している一人ひとりと私・中さんコンビとの縁を大事にしたいことを話したかった。

会社はまだまだ苦しいけれど、金融機関は支援してくれているし、我々もタフに頑張るので入社してくれないかと声をかけて、意気盛んに賛同してくれた仲の良い2人。会社が苦しくても、どこまでも一緒に頑張ろうと、微塵も動揺しなかった4人組。俺はお前の能力を信じているので参加して欲しいと願い出て、期待に答えてくれた、ニヒルな男。どん底の苦しいときにも、お前は絶対辞めるなと引き止め、ここにきてやっと能力の開花をみせる奴。30余年も前から知り合って、いつかは一緒に仕事をしようよと言いながら、やっとここで新会社を設立して同じ釜の飯を食うことになったオヤジ(ジジイっか?)。

これらの掛け替えのない仲間たちと、会社を再び盛り上げられることができたことは社員全員の誇りだ。これからも増々、中さんを中心にして、お客さんに喜ばれる会社として爆進したいものだ。できるだけ、沢山のお客様と接したいのだ。

 

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総料理長の脇屋友嗣(わきやゆうじ)さんは、テレビ番組で現在放映中のアイアンシェフとして腕を振るっていると聞いた。人気者の料理人だ。この脇屋さんと弊社の経営責任者の中さんとは、小学、中学の同窓生の誼(よしみ)で、このお店を選んだ。

2013年3月26日火曜日

ぬたねぎで、母の追憶にふける

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20130323の晩飯用に作った、ぬたねぎだ。

 

20130320、山田農園主が援助耕作のねぎらいに? ねぎをたくさんくれた。

ぬたにしたら美味しいよと言われる前に、ぬた作りにチャレンジしようと決意した。母のことを思い出したのだ。

何故、いきなり、母が出てきて、ぬたなんだ?と訝(いぶか)られるかもしれないが、本気だった。母は毎日、暗くなるまで野良仕事に追われ、それから料理に取りかかるので、さぞかし大変だっただろうと、能天気な三男坊は今になってその奮闘に感謝している。母は農作業には重要な父のアシスタントだった。

腹を空(す)かした子どもたち、帰ってきたら先ず食事を求める父のために、母は超特急の手際のよさで太い腕をふるった。見てくれは格別素晴らしいとは言えないけれど、味は最高に美味かった。きっと、味付けや手順に秘訣があったのだろう。本当の真意は?(不思議な表現だ) 他人が作った物を食ったことがなかったのだ。母の手料理については、あらためて別の稿で書いてみたい。ここはぬたに絞る。

そんな母が作った数多(あまた)のメニューの中で、ぬたねぎが好きだった。

茹でたねぎと、味噌を酢と砂糖で甘酸っぱくしたものをすり鉢で、擂(す)った胡麻とワカメを入れて混ぜていた。焼いた油揚げも入っていた。

二人の兄には内緒で、私だけが楽しみにしていたことがあった。それは、母がぬたを取り出した鉢にご飯を少し入れて、鉢にこびりついた味噌を混ぜたお握りを、誰も居ない時を見はからってくれたことだ。母もお腹が空(す)いてつまんでいたのだろうか。何とも、他人様に申し上げるような内容ではないが、夕食前の空きっ腹には堪(たま)らなかった。

今回、この稿を書くのに「ぬた」の意味を初めて知った。私にはこの年になって初めてというのが多過ぎる。よっぽどの知識不足、世間知らずだ。今まで、ぬたと言えばぬたねぎのことだと思い込んでいたが、ぬたは一般的には酢と味噌の合わせ調味料で和(あ)えた料理のことだと知った。

語源由来辞典には、味噌が沼田のぬるぬるしている感じに似ているから味噌に限定して言われることが多いが、古くはぬるぬるした和え物全てをぬたと呼んでおり、味噌だから沼田というわけではない、とあった。

2013年3月24日日曜日

この政権の民生に対する認識度は?

先(20130315)の私のブログ、「成年後見人規定に違憲判決」において、下された判決についてはいかにも当然のことだと記した。

成年後見制度による後見人が付いた知的障害者には選挙権を与えない公職選挙法の規定を違憲だとした東京地裁判決のことだ。この世の中にこのような規定が堂々と生きていることが不思議だと述べた。先進国にあるまじき法律だとも、恥じ入る思いだ。

そしたら、20130323の朝日新聞で、自・公の安倍連立政権は、この東京地裁判決を控訴するか、控訴を見送るか悩んでいるとの記事を見つけた。

私は、どっちに転ぶかで、この連立政権の持つ本質的な「障害者を含む国民、すべての民生に対する認識度」を計ってやる、と意気込んでいる。

この13日、国連総会では障害者に対する差別撤廃と社会参加の促進を求める初の国際条約「障害者の権利に関する条約」を全会一致で採択、成立させた。国連のアナン事務総長は「障害を持って生きる世界中の人々にとって、新しい時代の夜明けを約束するものだ」と高く評価する声明を発表した。

国連でのこのような新しい動きがあったものだから、尚更、自民党がここで何を悩んでいるんだと、不思議に思った。

控訴せずに判決が確定しても、制度改正までの空白期間、被後見人の選挙権をどう扱うか、問題が残されるが、是々非々、改めるべきは、改めなければならない。

国政に地方と、選挙はひっきりなしに行われている現状をどう乗り切るか、それが問題だというけれど、立法府である国会がやる気があれば、なんだってできる筈だ。それも一刻を争う、少しでも混乱を避けるためにも早く国会で審議を開始しなければならない。

2013年3月22日金曜日

友の死 胸に刻んだ「球聖」

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ボビー・チャールトン

 

20130317の日経新聞/詩歌・教養に、後藤正治氏が、「ミュンヘンの悲劇」とマンチェスター・ユナイテッド(MU)、それにボビー・チャールトンを取り上げた小文が掲載されていた。

私も、かって興味をもった内容だったので楽しく読んだ。その文章は後の方で、全文転載させてもらった。

「ミュンヘンの悲劇」とは、1958年2月6日、西ドイツのミュンヘンのリーム空港で、乗員・乗客44名のうち23名が死亡した事故のことだ。事故を起こした飛行機は、MUのチャーター機で、主力選手が多数死亡した。ヨーロッパのクラブ選手権に、イギリス代表として初めて参加しての帰途、事故に遭った。当時、ヨーロッパでは厳しい寒波に襲われて、離陸するのに滑走路が凍てついて、離陸に必要な速度が得られないまま、周辺建物に直撃、大破した。

その10年後の1968年、MUは私が大学に入った年にヨーロッパクラブ選手権で優勝した。今回の後藤正治氏の文章はその辺りのお話だ。この優勝した夜、決勝ゴールを蹴りこんだボビー・チャールトンは大観衆の前で号泣した。でも祝勝会には出ずに、独り自室にこもり涙に暮れた。妻に「関係のないメデイアの連中と馬鹿騒ぎをするのには耐えられないんだ。この勝利は、僕たち(ミュンヘンの悲劇に遭った人たち)全員を含む物だ、と。

事故からこの優勝までのことを映画化され、昨年公開された。この時のチームの主将はボビー・チャールトンで若きジョージ・ベストがいた。校長先生と生徒が入り混じって試合をしている、そんな感じを受けた。当時、サッカー部の寮で、東京12チャンネルのテレビ番組「三菱ダイアモンドサッカー」に釘づけだった。

私は1990年のFIFAイタリアW杯のスタジアムで、ボビー・チャールトンのプレーを見た。エキジビションのゲームでペレーもベッケンバウアーもいた。確か準決勝戦の前だったように記憶する。かっての名選手たちが短い時間、和やかな試合を見せてくれたのだ。ボビー・チャールトンの禿げちゃびん?頭が光っていた。お腹がぽっこりふくらんでいて、愛嬌のある体型だった。存在が際立っていた。

本題とは少し外れるが、日本代表の若きエースの香川真司が、現在MUで大活躍中だ。今月の2日、イングランド・プレミアリーグのノリッジ戦においてハットトリックを達成した。日本選手では初めてだ。

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香川真司

 

これからは、後藤正治氏の文章だ。

 

友の死 胸に刻んだ「球聖」

あの日を思わなかった日は一日もない

「MAT 50-50」ーーー1958年2月7日付「マンチェスター・イブニング・ニュース」の大見出しである。サッカークラブ、マンチェスター・ユナイテッド(MU)を率いる名将マット・バズビーの生死が五分五分というのだ。見出しの下には、墜落した双発プロペラ機の破壊された機体写真が載っている。「ミュンヘンの悲劇」を伝える第一報であった。

悲報はユーゴでの試合を終えた帰路、給油に立ち寄ったミュンヘンの空港で起きた。チームがチャーターした飛行機で、乗客乗員23人が亡くなり、うち選手が8人。エースのダンカン・エドワードは十五日後、力尽きた。病院のベッドでエドワードが発した最後のうわ言が残っている。「ジム、土曜日のウルブズ戦のキックオフは何時だっけ?遅れるわけにはいかないんだーーー」。当時、ボビー・チャールトンが一番尊敬していた選手だった。(山岡記入)

バズビーは命を取り留めたが生き残ったものも全員が重軽傷を負った。この日、ボビー・チャールトンは二十歳。機内の中ほど、背中を進行方向に向けて座っていた。それが生死を分けた。機体から百ヤードも離れた場所で、安全ベルトを締めたまま吹っ飛ばされていた。「あの日から随分と歳月を経たけれども、あの日を思わなかった日は一日もない。かけがえのない友人と同僚を失った。われわれはマンチェスターの希望の星だった。いまなお完全には心の整理がついておりません」

チャールトンとはMUの本拠地、オールド・トラフォードのオフィスで会った。頭部がつるりと禿げ上がった初老の人物。グレーのスーツ姿。口調、内容、物腰。申し分ない英国紳士であった。

1960年代、ファンを魅了したロングシュートの異名は「キャノン(大砲)シュート」。イングランド代表キャップ数百六、通算ゴール数四十九は歴代一位。「球聖」とも呼ばれる。旅行会社を営み、MUのフロント・ディレクターもつとめた。「サッカー大使」として世界各地を訪れ、英王室よりサーの称号も受けている。

世界一美しいといわれるサッカー場を案内してくれた。フィールドは艶やかで広々とした緑が広がっている。靴裏からふかふかした芝の感触が伝わってくる。週末、収容人員七万六千人のスタジアムは満員となる。「昔は冬場になると芝はグラウンドの片隅しかなかった。シューズも粗末でひどく重かった。裂傷を負っても自分で消毒をして縫うだけ。万事、素朴で慎ましやかなものだったね」

1990年代、プレミアリーグが発足し、テレビマネーに支えられたサッカービジネス時代が到来した。法外な移籍金。クラブチームが投資の対象ともなる。往時には考えられない事態が起きている。「いまなら私も現役引退後の心配はしなくてもよかったでしょう。でも別段うらやましいとは思わない。私はただ好きだからサッカーをやっていた。サッカーはロマンだった。いまの選手たちはお金持ちにはなっても、果たして私のような思い出をもっているのかどうかーー」

すべからく何かを一方的に得ることはない。いまサッカー界は多くを得、また失いつつあるのではないか。ふとそう思う。

                               ☆

一番の思い出のゲームは?と訊(き)いた。予期したのは1966年のワールドカップ。イングランドが決勝で西ドイツを破り、初の栄冠を得た。「球聖」対「皇帝」ベッケンバウアーの死闘は語り草となっている。

けれどもチャールトンが挙げたのは、この二年後、欧州チャンピオンカップの決勝戦、MUがベンフィカ・リスボンと戦った試合だった。監督は復帰したバズビー。試合は延長に入り、最後、主将チャールトンがキャノンシュートを決めた。大観衆の前でチャールトンは号泣したと伝えられている。

ーーあの日のことを?

「そう、あの日のことをーーー十年前のあの日のことを完璧に思い出していた。ダンカン・エドワードはじめ死んでいったチームメイト一人ひとりのことを思い出していたんだーーー」

そういって、声を詰まらせた。ボビー・チャールトンを、マンチェスター・ユナテッドというクラブを特別な存在としているのは、このような痛切な思い出を人々とともに共有しているからなのだろう。

(後藤正治・ノンフィクション作家)

2013年3月20日水曜日

友がやってきた

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居酒屋「いっすんぼうし」で、痛飲中。カメラマンは弊社の佐藤

20130318 17:00、友人の「関の山」君が、勤めていた会社を辞めて、悠々自適の隠居生活に入るんだと、その宣言を兼ねて、一杯飲みに来てくれた。関の山(せきのやま)とは、「(うまくいっても)それ以上はできないという限界のこと」を意味する(学研 国語大辞典より)。本人はそんな限界に臆するような男ではない、立派な大人(たいじん)だ。久しぶりの1杯のつもりが、数十杯になってしまった。昨年68歳の兄が脳梗塞で亡くなってから、自分の余生を考え直したことが、仕事を辞める引き金になったようだ。

関の山君、私のブログではプライバシーという認識がないので、悪しからず。

「それにしても、お前と会ってからもう40年以上も経った!! 不思議な気もするなあ!!」、互いの口から発する言葉には、嘆息まじり。 

関の山君とは、学校を卒業して入った会社の同期だ。同期入社は35人。私鉄系の観光会社で、関連会社でつくる企業群の中核(持ち株)会社だった。その後10~15年で、同期の半分はグループ会社に残り、残りの半分は辞めて別の会社に移った。私は隙間風に吹かれるままに勤続9年半で辞めた。それから、6年後に不本意な独立をした。現在は、ほとんどの者がお勤めを終えている。

彼も、私の退社数年後に元の会社を辞めた。そして、私の最も信愛する人が役員に名を連ねる某、映画の配給もやっている会社に、突然入社した。これには驚いた。それから約20年、個人的に友好を交わしながら、仕事では彼の会社と弊社で共同事業をすることになった。野心に燃え盛る私を、冷静に見守ってくれた。共同事業はことごとく巧(うま)くいった。そのように二人は幸せな関係を持ち続けられた。

彼には、今後の余生に色々な計画はあるようだが、朝起きて、これから何をしようなんて、そんな惚(とぼ)けたような生活だけはしたらアカンよ、と諌めた。充実した生活でないと、ボケるぞ。彼は、地方にいくつもある古城の歴史を詳(つまび)らかに調べたい、それに伴っての城巡りをちょっと真面目にやってみるんだと言っていた。成果を楽しみにしている。

関の山君、、、。だってヨ、朝起きて、卓袱台にあるコップをお茶だと思って飲んだら、昨夜の飲み残しの焼酎のお湯割りで、喉元通り過ぎて、まあいいか、しょうがないなあ、、、、、、と思っていたら、もう少し飲みたくなってしまって、新たな焼酎のお湯割りを作るようになって、昼、日なかに酔い痴(し)れるようになったら、、、、、アカンよと今度は警告した。

これまで、彼の仕事の節目節目に見せる喜怒哀楽の表情は豊かだった。苦しいときには苦しいそうに、悩んでいるときには首を振り振りしかめっ面、如何にも悩ましげな表情をした。嬉しいときの表情はいたって陽気に、顔をはち切れんばかりな笑顔を見せてくれた。

一杯飲みながらの話はと言えば、入社してから今に至るまでの数々の出来事に出くわした際に、その時々に感じたり考えたことの確認だった。当時、嫌な出来事も今では懐かしいひとコマだ。

私は多少自由な時間を過ごすことになるであろう彼に、我らが一番最初に入社した会社の同期会を開催できるように働きかけた。大半が自適に過ごしているようなので、予定を早い目に立てることができれば、一堂に会することだって可能だろう。幹事を多方面に募れば、ひょっとして多くが参会してくれるだろう。

酔ってきて、彼に記念品のつもりで、半年前にユニクロで買ったハンチング帽をプレゼントした。2、3日前からかぶりだしたもので、失礼のないものだ。彼の頭にかぶせてみて、なかなか好く似合ったからだ。たまには、変装とまではいかなくても、いつもとは違うことをやってみるのも楽しいもんだぜ、セキのヤマ君。

2013年3月15日金曜日

成年後見人規定に違憲判決

何人も、法の下では平等だ。

下の文章は全て20130315の日経新聞・朝刊・社会の記事をダイジェストさせてもらった。こんな、人権、人倫に関わる重要なことが、今まで置き去りにされていたことに憤(いきどお)りを感じた。

これまで通り選挙に行きたいと主張する原告の名児耶匠(50)さんはダウン症で、2007年、自分が被後見人、父親が後見人となった結果、選挙に投票できなくなった。この成年後見人が付くと選挙権を失うとした公職選挙法の規定の是非を問う訴訟において、その規定は違憲で、無効との判決が言い渡された。

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「勝訴」の垂れ幕の前で笑顔を見せる(左から)原告の名児耶匠さん、母親の佳子さん、後見人で父親の清吉さん(14日、東京・霞ヶ関)

 

公選法の成年後見規定→選挙権喪失に違憲判断  東京地裁

「一律に奪う事情ない」

 

成年後見人が付くと選挙権を失うとした公職選挙法の規定は違憲として、茨城県牛久市の女性が国に、選挙権の確認を求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。定塚誠裁判長は「成年後見人から一律に選挙権を奪うことに、やむを得ない事情があるとは言えない」などと述べ、同規定を違憲で無効と判断。女性の選挙権を認める判決を言い渡した。

裁判長が判決を言い渡した後、「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張って、良い人生を生きてください」と原告の女性に語りかけた。

訴訟では①知的障害などを理由に選挙権を制限すべきか②制限が必要だとしても、成年後見を受けているかどうかを判断基準とすべきかーーーなどが争われた。

判決理由で、定塚誠裁判長は「様々な境遇にある国民がどんな施策がされたら幸せかなどの意見を、選挙で国政に届けることが民主主義の根幹」と憲法の理念を説明。国が国民の選挙権を制限できるのは「やむを得ない事由がある極めて例外的な場合に限られる」と判断基準の枠組みを示した。

判決は、成年後見制度の利用基準は「自己の財産を管理・処分する能力の有無」とし、選挙権を行使する能力とは異なると指摘。その上で「被後見人とされた人が総じて選挙権を行使するに足る能力を欠くわけではないのは明らか」と判断した。

選挙権を奪う「やむを得ない事情」はないと判断した理由として、第三者による不正投票の働き掛けや白票の投票などで「選挙の公正が害されるおそれは見いだしがたい」と述べた。

さらに選挙権を奪うことは、精神障害者らの選挙権制限を見直す国際的な潮流に反するとも言及。「憲法が保障する選挙権の制限は原則として許されない。やむを得ない事情がない制限は違憲」と結論付けた。

 

成年後見制度

知的障害や認知症などで判断能力が不十分な人の暮らしを支援するため、本人などの申し立てを受けて裁判所が「後見人」を指定する制度。2000年に禁治産・準禁治産制度に代わって導入。後見人は被後見人の代理で財産管理や介護サービスの契約などを行う。能力に応じて「後見」「保佐」「補助」の3類型あり、後見を受けている人のみ選挙権がない。

2013年3月14日木曜日

時間を空費しないで

下記は、20130313の日経新聞・スポーツ欄の吉田誠氏の記事だ。サッカーに興味を持つ者ならば、この視点からの指摘には、誰もが関心を高く持つだろう。学生時代、体力が乏しかった私は、このロスタイムを大いに利用していた、が、そんなことでは高度なサッカーには通用しないことを当然解っていた。私の限界だった。

この記事をそのままマイファイルさせてもらった。

かって「ロスタイム」といっていたものを、Jリーグでも2010年から国際基準に合わせて「アディショナルタイム(追加時間)」と呼んでいる。そもそもロスタイムは和製英語で、競技規則には「空費された時間」と書かれている。選手交代や負傷者の退出などに時間を空費した場合、前後半の最後にその分を追加するわけだ。

もちろん、空費されている時間はもっとある。安易にボールを蹴り出したり、接触で簡単に倒れたりすると、スローインやFKでの再開までに時間が掛かるため、無駄な時間が積み重なる。

そうした中断時間を除き、実際のプレー時間を示すのがアクチュアル・プレーイング・タイム(APT)で、、昨季のJ1の平均は55分37秒、J2は52分25秒だった。

J1、J2を通じての最長は浦和の60分2秒。

2008年から11年までは広島が最長だったので、ペトロビッチ監督が率いるチームが5年続けてもっとも長くプレーしたことになる。監督がボールをきちんとつなぐサッカーを志向すれば、必然的にAPTが長くなる。

ちなみに10年ワールドカップ(延長戦は除く)では、どちらかが勝った試合のAPTは68分0秒、引き分けた試合は67分2秒だった。準決勝のスペインードイツ戦は76分にも及んでいる。

Jリーグに話を戻すとプレーの中断時間が35分もあるわけで、観客にすれば、その時間を最後に追加してもらいたくなる。リードしているチームの時間稼ぎも戦術のうちかもしれないが、時間稼ぎを楽しみに来ているファンはそういない。

そうした時間の浪費を防止するにはフットサルやアイスホッケーのようにプレーの中断の間は時計を止めればいいのではないか。そうすると、試合時間が3時間近くなってしまうかもしれないが、、、、。

2013年3月10日日曜日

進化した、ヨイトマケ

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美輪明宏の「ヨイトマケの歌」を最初に聞いたのは、多感で、夢みる青二才の頃だった

「よいとまけ」という言葉は、この歌の中だけでしか知らないし、未だに馴染みがない。土木、建築の現場で大勢で一斉に鎚(つち)を滑車で上げ下げするときの掛け声だと教えられても、まだまだ、ぴーんとこないが、「えんや、こら、せ~」の掛け声と同じだと聞いて理解できた。

1966年のヒット曲のようだ。彼がテレビで歌っているのを観たとき、聞いたときは不思議な歌手もいるものだと思った。この年に私は高校を卒業した。歌詞にある土方(どかた)を始めた年でもあったのだ。土木作業員として、大学に行くための資金稼ぎをした。東京の学校へ進学を夢見ていたが、卒業1年目も2年目も、行きたくても受け入れてくれる大学はなかった。ここは、じっくり金を貯めて準備に入ろう。ちょっとぐらいの学力不足なんか、どうにでもなると信じていた。

見習い土方として土木作業に携わってみれば、それはそれなりに充実した。生半可なアルバイト気分では勤まらない、常態化した筋肉痛にもめげずに人一倍頑張った。日給は大人と同額だった。在日韓国人の一人親方(社長)だったが、自分たちのことをドカタとは言わずにツチカタと呼んで、土方稼業に誇りをもっていた。色んな過去を背負って働く仲間たちとの付き合いも楽しかった。

この歌手は、自分で作詞をしたというではないか。青春時代の入口だった私には不思議な存在だった。並み居る歌手のなかで、異色だった。本音(ほんね)で話そう。正直、当時、「こんな素材を歌にして、人前で、ようやるわ」とひねくれて観ていた。貧しいとか、苛(いじ)められたとか、女々(めめ)しいぞ、と突き放した。こんなことは、腹の内、胸の内に秘めておくものだと思っていた。

当時、よいとまけとか土方が肉体労働者に対する差別用語だとして放送禁止曲に指定されたことにも、腑に落ちなかった。私の身の回りでは、土方は決して差別用語ではなかった。勝手な奴らが、勝手なことを言ってやがる、ぐらいに冷ややかだった。

貧乏な家に生まれ育った少年が、そのために、よいとまけの子ども、きたない子どもといじめられたにもかかわらず、土方で頑張る母の姿を見て成長した。そして、今は立派な~♭ エンジニア~♯。そんな母の愛情を思い出しての歌だ。

そして、昨夜20130309のことだ、19:30からのNHKの番組『”明日へ”コンサート生放送! 復興へエール』で、その美輪明宏が「ヨイトマケの歌」を歌っていたのだ。

この歌を初めて聞いてから40余年が経つ。美輪(当時は丸山)明宏の歌い方には工夫を加わえ磨きがかかって、久しぶりのよいとまけに、メロデイーが歌詞が、私の目から、耳から、皮膚から、頭の芯に心臓に骨や肉に、無防備な私にガンガン打ち奮(ふる)うではないか、そして静かに涙腺が緩んだ。

机の上の小さいテレビを覗き見る私も、風体(ふうてい)だけではない、心のありようも変わった。私には定年はないけれど、その年齢になってしまった。この9月で65歳だ。

確実に私は年をとった。まさかの進化? いやいや退化したのでは? それとも老化したの?だろうか。

40余年前が嘘のように、昨夜は美輪明宏の歌に聞き惚れてしまった。

2013年3月6日水曜日

大根役者って、なぜ大根なんだ?

今、読書中の「新聖喜劇」・(著者=大西巨人)の文章の中で、「大根役者」が出てきた。

大根役者の大根は、あの野菜の大根のことだ。私にとって、年間を通じて特別親しくしている野菜だ。おでんに、糠漬け、生野菜としてアルプス盛り(かって、居酒屋山ちゃんの名物メニューだった)、今日の朝飯にも、味噌汁には大根を入れた。存在感は絶大だ。

物語の中で、教育練習兵が、「毎日毎日三度三度大根のおかずばっかり食べておりますので、大根中毒しそうです。このごろは戦友たちの顔までが大根のように見えてきました」と、葉書に記したことが検閲で見つかった。教官は、副食に大根が多いという軍事機密?が軍の外に漏れると、練習兵を責める。制裁が厳禁されているにもかかわらず、公的制裁だとか、何とか言って。

大根役者という言葉を、ヘボな役者のことぐらいしか認識がなかった。どうもこれって、少し調べる必要があるなあと感じて、本棚の「常識として知っておきたい日本語」(幻冬舎)・著者=柴田武を手にとった。

大根役者という言葉は、大根は煮ても焼いても当たらない(食中毒にならない)ところから、いくら頑張っても客席が沸かないことにたとえられたという。

昭和50年だから、私が学校を卒業して2年目のことだ。新聞やテレビで八代目坂東三津五郎が河豚(ふぐ)の毒に当たって死んだことを知った。若いころから、敵役や老役(ふけやく)を得意として、人間国宝にもなった歌舞伎の名優だ。この死因の、大当たりの「河豚」の毒と、当たることのない(食中毒ならない)「大根」を引っ掛けて、「大根役者」を説明してくれている。

それまでに、河豚なるものを食ったことがなかった私には、なんぜ、そんなにまで危険を冒して、食うんだろうと不思議だった。大騒ぎだった。この八代目は、毒の強い肝をもう一皿、もう一皿と板前にせがみ、とうとう四人前を食ってしまった。

河豚の毒に大当たりしてこの世を去った八代目坂東三津五郎は、「もしかして、歌舞伎の隆盛を願うあまり、わざわざ危険な部分に箸をつけたのではなかろうか」と著者の柴田武氏。

2013年3月3日日曜日

薬膳果ボケ 天下一

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商品名は「天下一(てんかいち)」、宣伝用のキャッチフレーズか? サブ名称か?「薬膳果ボケ」なる果樹を、昨年、鎌倉で仕入れた中古住宅の庭に鉢植えされていたものを、個人的に頂戴した。頂戴して、我がイーハトーブの果樹園に定植したが、果たしていかなるものが実るのか、楽しみにしている。

今、この天下一は花盛り。バラ科バラ属、落葉低木。幹や枝の樹皮、花の形は、ボケそのものだ。移植した時の状態がいい加減だったので、根付くかどうか心配していたが、どうやらしっかり根付いたようだ。

鉢植えされていたときに、幹に針金留めされた天下一の商品の説明書きが面白かったので、俄然興味をもったのだ、、、、。中国四千年歴史より発見された幻の秘果とあるが、四千年?の歴史がどうしたというのか? 何がどうして秘果なのか? 食べるために改良されたとあるが、これはいつの頃改良されたのだろうか? 加えて効能書きが盛りだくさん。これらの文章が、中国から持ち込まれたときの売り言葉だったとしたら、嘘っぽいなあと思ってしまう。誇大広告? 特に食料品の、この点に関しては中国は要注意国だ。気温が-20度まで耐えられる、また耐暑性も強く、日本のどこでも栽培ができる。

ところで、名前のボケは余り感心しないなあ、と常々思っていた。どうしても、名を聞いてボケっとしている人様を思い起こしてしまう。その名の由来を、ここではウィキペディアさんのお世話になるが、各自で調べてくださいなあ。木になる瓜で「木瓜(もけ)」と呼ばれたものが「ボケ」に転訛(てんか)したと言われる。また「木瓜(ぼっくわ)」から「ボケ」に転訛したとも言われる。

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以下は、説明書きの一部だ。

「医食同源」を追求してきた中国ならではの食材です。洋梨に似た食感で健康の維持効果のある成分が多く含まれている。

中国では、抗癌、免疫力の向上、器官系の消炎、血液軟化、血糖値降下、胃や肝臓機能の向上、便秘、貧血。高血圧、肉体疲労、老化防止、二日酔い等に効果が期待できると言われてきた。

実の大きさは500グラムから最大3キロに達する超巨大果実で、収穫は10月下旬から11月中旬に実が黄色づいた頃がベストだが、早い目に収穫して保管追熟させてもよい。

調理方法は手軽に作れるのが甘露煮。他に実を煮込んでからシロップや砂糖漬け、ジャム、ボケ酒、ジュース等にできる。