2013年3月10日日曜日

進化した、ヨイトマケ

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美輪明宏の「ヨイトマケの歌」を最初に聞いたのは、多感で、夢みる青二才の頃だった

「よいとまけ」という言葉は、この歌の中だけでしか知らないし、未だに馴染みがない。土木、建築の現場で大勢で一斉に鎚(つち)を滑車で上げ下げするときの掛け声だと教えられても、まだまだ、ぴーんとこないが、「えんや、こら、せ~」の掛け声と同じだと聞いて理解できた。

1966年のヒット曲のようだ。彼がテレビで歌っているのを観たとき、聞いたときは不思議な歌手もいるものだと思った。この年に私は高校を卒業した。歌詞にある土方(どかた)を始めた年でもあったのだ。土木作業員として、大学に行くための資金稼ぎをした。東京の学校へ進学を夢見ていたが、卒業1年目も2年目も、行きたくても受け入れてくれる大学はなかった。ここは、じっくり金を貯めて準備に入ろう。ちょっとぐらいの学力不足なんか、どうにでもなると信じていた。

見習い土方として土木作業に携わってみれば、それはそれなりに充実した。生半可なアルバイト気分では勤まらない、常態化した筋肉痛にもめげずに人一倍頑張った。日給は大人と同額だった。在日韓国人の一人親方(社長)だったが、自分たちのことをドカタとは言わずにツチカタと呼んで、土方稼業に誇りをもっていた。色んな過去を背負って働く仲間たちとの付き合いも楽しかった。

この歌手は、自分で作詞をしたというではないか。青春時代の入口だった私には不思議な存在だった。並み居る歌手のなかで、異色だった。本音(ほんね)で話そう。正直、当時、「こんな素材を歌にして、人前で、ようやるわ」とひねくれて観ていた。貧しいとか、苛(いじ)められたとか、女々(めめ)しいぞ、と突き放した。こんなことは、腹の内、胸の内に秘めておくものだと思っていた。

当時、よいとまけとか土方が肉体労働者に対する差別用語だとして放送禁止曲に指定されたことにも、腑に落ちなかった。私の身の回りでは、土方は決して差別用語ではなかった。勝手な奴らが、勝手なことを言ってやがる、ぐらいに冷ややかだった。

貧乏な家に生まれ育った少年が、そのために、よいとまけの子ども、きたない子どもといじめられたにもかかわらず、土方で頑張る母の姿を見て成長した。そして、今は立派な~♭ エンジニア~♯。そんな母の愛情を思い出しての歌だ。

そして、昨夜20130309のことだ、19:30からのNHKの番組『”明日へ”コンサート生放送! 復興へエール』で、その美輪明宏が「ヨイトマケの歌」を歌っていたのだ。

この歌を初めて聞いてから40余年が経つ。美輪(当時は丸山)明宏の歌い方には工夫を加わえ磨きがかかって、久しぶりのよいとまけに、メロデイーが歌詞が、私の目から、耳から、皮膚から、頭の芯に心臓に骨や肉に、無防備な私にガンガン打ち奮(ふる)うではないか、そして静かに涙腺が緩んだ。

机の上の小さいテレビを覗き見る私も、風体(ふうてい)だけではない、心のありようも変わった。私には定年はないけれど、その年齢になってしまった。この9月で65歳だ。

確実に私は年をとった。まさかの進化? いやいや退化したのでは? それとも老化したの?だろうか。

40余年前が嘘のように、昨夜は美輪明宏の歌に聞き惚れてしまった。