2009年7月27日月曜日

記録破りの豪雨の影に、「湿舌(しつぜつ)」

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朝日新聞・朝刊(20090726)の1面に九州における豪雨の模様の写真と記事が載っていた。その小見出しに「湿舌」が前線を刺激したと書いてあって、私は奇妙な人間でして、こんな珍しい文字を見ると、その愛嬌さに魅かれ、記事を食い入るように読むんです。舌が何を刺激したんだ? じっくり新聞を読ませていただきましょ。

被害は甚大だ。大雨で多大な被害を受けている大勢の人たちが不安な日々を過ごし、まだまだ土砂災害などが拡大しそうだと懸念されている。心配だ。

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新聞記事より

九州北部を中心に24日から25日にかけて襲った豪雨は、各地で1時間の降雨量が観測史上最多となる記録的な大雨となった。福岡県と長崎県では24日、5ヶ所の観測地点で1時間の降雨量が100ミリを超えた。

なぜ短時間に雨が集中したのか。

気象庁によると24日の豪雨は九州北部付近に停滞していた梅雨前線に、東シナ海南部から暖かく非常に湿った空気が流入し、前線を刺激したことが原因だった。舌のような細長い形で流れ込むことから「湿舌(しつぜつ)」と呼ばれる現象で、これで大量の水を含む分厚い雲ができた。この前線付近では、積乱雲が次々と発達する「テーパリングクラウド(にんじん状の雲)」と呼ばれる現象も起きていた。

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舌という字を見つけて、一瞬ギョットした。子供がキャンディを他人の目を憚(はばか)ることなくペロペロ舐める、そのベロのことです。肉体の一部である舌は、いつもは口の中にしまわれていて、ちょっと恥ずかしい肉体の一部なのですが、この舌という字を用いて自然現象を表す言葉にした。直感!! エロっぽく感じた。けれども、記事を読んでみるとそうでもないらしい。力が入り過ぎていて、がっかりした。

今朝は新しい言葉を、一つ憶えたことに、感謝しよう。ーーーー「湿舌」だ。

 ☆ 話は変わりますが、関東地方の昨日、一昨日の暑さは、単純に暑かったね、では済まされない。文章では酷暑なんて書くんでしょうが。今朝、テレビを見ていたら、この暑さのことを、蒸暑(じょうしょ)、とか溽暑(じょくしょ)だとか言ってました。この書き言葉もゲットしておきましょう。

★ 再び、話は変わりますが、本日(20090727)仕事で浜松に行ってきたのですが、まだ東海地方は梅雨から抜け出していないとのことだった。関東は2週間も前に梅雨が晴れたというのに。梅雨明けは、沖縄から、九州、関西から東海、南から西から明けてきて、その順序に従って、我が関東が明けるものだと思っていたのですが、今年は今(20090727)だに、東海地方だけが明けてないようですと教えられた。こんなこともあるのですね。8月2日以後も雨が降れば、これも梅雨の最長記録を達成することになるそうです。

2009年7月24日金曜日

西山麗の五輪(ソフトボール日本代表)

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(日本リーグでの試合)

北京五輪は、テレビを観るだけ、新聞を読むだけだったのですが、感動的な場面で悲しんだり喜んだり、何度も泣かしていただきました。すべてのアスリートたちに感謝する。とりわけ日本女子のソフトボールの活躍は、野球が振るわなかったこととは裏腹に、その素晴らしい活躍ぶりは、テレビの画面に繰り返し映し出された。鉄腕上野投手の剛速球には、日本国中の人々が度肝を抜かれた。決勝戦までの、連日の三連戦を投げきった。守備は固かったし、数少ないチャンスをものにした。

ハラハラどきどき、接戦を勝ち駒で進めて行く実況中継のなかで、今回朝日新聞で取り上げられた内容の紹介があった。テレビでその話を聞いたとき、目がうるうるして感動したのに、その後次から次へと競技に目移りして、もう忘却のかなただった。ところが、斉藤監督と西山選手のことが、新聞で、難病とその闘病シリーズの企画モノで再び、光をあててくれた。私の心は、再び激しく感応した。

斉藤春香監督が打って良し守って良しの名選手だった頃、難病を抱えていた中学生の西山麗選手との交流のことだった。こんな感動的な話は、一度読むだけで、一度聞くだけでは、もったいなさ過ぎる。私の宝物として頂戴した。

20080822 オリンピック4連覇を狙うアメリカと決勝戦を戦った。3-1で日本が勝ち、初の金メダルを獲得した。

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20090709

朝日・朝刊/生活

患者を生きる

西山麗の五輪

心臓・血管 「グラウンドで死ぬのは怖くない」

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神奈川県では毎年1月上旬、各校から数人ずつ選ばれた中学2年のソフトボール選手が、地元の実業団チーム、日立ソフトウェアの選手の指導を受ける。

98年、大動脈弁の置換手術を数週間後に控えた西山麗(25)は、手伝いで参加した。

昼だった。グラウンドの横で見ていた西山に斉藤春香(39)が歩み寄り、声をかけてきた。96年のアトランタ五輪の本塁打王で、西山があこがれていた選手だった。

「絶対、ソフトボールができるようになるからね。将来、一緒に頑張ろう」

握手とサインもしてくれた。西山はうれしさと緊張とで顔が赤くなり、何も言えず、笑顔で応えるのが精いっぱいだった。

斉藤は午前中、西山のことを聞き、自分の小学3年のころを思い出した。ネフローゼ症候群で3ヶ月入院。尿に多量のたんぱくが出て、体がむくんだ。「一生、運動はできないかもしれない」と告げられた。

だが、中学で治り、五輪にも行けた。西山にも可能性があることを伝えたかった。

勇気づけられた西山は1月下旬、慶応大病院心臓血管外科の饗庭(あえば)了の執刀で手術を受けた。交通事故死した米国の14歳の女の子から提供された弁だった。

手術の間、父の義信(67)と母美千子(58)は、ソフトを続けさせるかどうかを話し合った。美千子はもともと運動に反対だった。義信は妻の心配は十分理解したが、「麗の気持ちを尊重しよう」と言った。

義信はベッドの西山に話しかけた。

「スポーツをするためではなく、普通の生活をするために手術をした。危険なことがあったら、やっぱりすぐに死んでしまうんだよ」

西山は答えた。

「グラウンドで死ぬのは怖くない」

この子の夢は、親が考えている以上に大きい、と義信は感じた。「じゃ、頑張りな」黙って聞いていた美千子は、帰宅途中、義信を「鬼」と怒ったが、美千子自身も西山の情熱を抑えつけることはしなかった。

約1ヶ月の入院だった。病棟で、西山は様々な病気と闘う子供たちを見た。手術で治る自分は恵まれていると感じた。

「自分が元気になって五輪に行けば、病気の子供たちの励みになる」

決意を胸に秘め、才能を開花させていく。

選挙にワクワクする。衆院解散、総選挙だ。

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(衆院の解散詔書が読み上げられ、万歳する国会議員たち)

衆院が21日解散され、与野党は8月18日公示、同30日投開票の総選挙へと走り出した。麻生首相は記者会見で「安心社会実現選挙」と位置づけ、「政党の責任力」を問うとして民主党との政権担当能力の違いを訴えた。自民党は公明党と過半数維持を狙うが、支持率低下や地方選連敗で守勢を強いられている。鳩山代表が先頭に立つ民主党は、社民、国民新党と選挙協力を進め、官僚主導の政治を打破するための「政権交代選挙」と打ち出し、初の政権奪取を目指す。40日間の真夏の選挙戦が幕を開いた。(20090722、朝日朝刊、1面より)

朝日新聞と毎日新聞の社説を転載させてもらった。

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20090722

朝日・朝刊/社説

衆院解散、総選挙へ

大転換期を託す政権選択

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政権交代の予兆が強まるなかで、歴史的な総選挙の号砲が鳴った。

戦後の日本政治を率いてきた自民党政治になお期待を寄せるのか、それとも民主党に国を託すのか。そしてどんな政権であれ、失敗があればいつでも取り換え可能な新しい政治の時代を開くのか、有権者が待ちわびた選択の日がやってくる。

内も外も大転換期である。危機を乗り越え、人々に安心と自信を取り戻すために政治と政府を鍛え直す。その足場作り、つまりはこの国の統治の立て直しを誰に託すか。これが焦点だ。

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失われた20年を超えて

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それにしても、自民党に対する民意の厳しさは尋常ではない。解散までの混迷を映し出したのは、それにうろたえるばかりの政権党の姿だった。

小泉首相の郵政選挙から4年。

衆参のねじれで思うにまかせぬ国会。2代続いての政権放り出し、麻生首相の迷走と政策の説得力の乏しさ。だが何よりも、明日の暮らしと国の未来への人々の不安や危機感を受け止められない自民党政治への失望だろう。

かって日本の強みだった「一億総中流」とは似ても似つかぬ格差と貧困、雇用不安、疲弊する地方、そこに世界的な大不況がのしかかり、社会はきしみを深めている。

一番の元凶は小泉改革だと、自民党内でも批判が熱い。だが振り返れば、20年前の冷戦終結とバブル後の「失われた時代」の到来はすでに、戦後の右肩上がりの時代を率いた自民党政治の終わりを告げていたのではなかったか。「自民党を壊す」ことで自民党の延命を図った劇薬も、それなりの効用はあったが、賞味期限は短かった。

官庁縦割りの政策や予算。政官業のなれあい。行政のムダ。霞ヶ関への中央集権。温存された矛盾を何とかしなければ経済危機への対応も難しい。それを国民はひしひしと感じている。

日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない。多極化した世界で、G20や米中のG2が重みを増す。中国の国民総生産は今年中に日本を追い越しそうだ。「世界第2位の経済大国」という看板は、巨大な隣国に移る。

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堂々と政権公約選挙を

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日米同盟が重要というのは結構だが、それでは世界の経済秩序、アジアの平和と繁栄、地球規模の低炭素社会化に日本はどう取り組んでいくのか、日本自身の構想と意思を示してほしい。それが多国間外交を掲げる米オナマ政権の期待でもあろう。現実的な国益判断に立って、国際協調の外交を進めるのは、そもそも日本の有権者が望むところだ。それができなければ、外交への国民の信頼は失われ、日本の国際的な存在感もますます薄れていく。

民意が今の流れのままなら、民主党政権誕生の可能性は高いだろう。確かに、政権を代えてみたいという期待は強い。だが懸念や不安もある。

民主党の言う「脱官僚」の政策決定の仕組みができれば、永田町や霞ヶ関は大変わりだろう。経済界や民間にも影響が及ぶ。混乱は最小限に抑えられるのか。この変革の先にどんな民主主義の姿を展開するのか。ばらまき政策に財源はあるのか。外交政策もあいまいなところが多すぎる。

一方の自民党が踏みとどまるには、みずからの長い政権運営の歩みを総括し、生まれ変わった「政権担当能力」を示すことだ。党内の派閥間で擬似政権交代を続けてきた時代はその必要を感じなかったろうが、これからはそうはいかない。

マニフェストづくりを急ぐ各政党に強く訴えたい。政権を選ぶ材料として、取り組む政策の優先順位を明確にしてもらいたい。

なすべきことは多く、資源と時間は限られている。公約の説得力を有権者の前で競う「マニフェスト選挙」にしなければならない。それを政権選択選挙の当たり前の前提にしたい。

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民主主義の底力を示せ

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選挙後の勢力図次第で、政局は予断を許さない。自民党内からは政党再編論が早くも聞こえてくる。自民も民主も基本的に差はない、危機には国を挙げて、という理屈だ。

しかし、政権交代しやすい小選挙区制度を導入して15年。民意が政権公約に基づく選択でそれを機能させようというところまできたのに、いきなりその選択を無にしようという発想はいただけない。複雑な大変化の時代だからこそ、選択の結果を大事にしたいというのが有権者の思いではなかろうか。

本紙の世論調査では、政権を与えた党の実績が期待はずれなら次は他の政党に、という人が6割にのぼる。政党間の不断の競争と緊張。民意によって与党にも野党にもなる。重要政策で妥協が必要ならば、開かれた国会の場を使うことだ。

有権者もこの間、多くを学んだ。一時のブームや「選挙の顔」よりも、政権公約の内容、実行の態勢、指導者の資質を堅実に判断することの大事さだ。口に苦くても必要と思えば受け入れる覚悟がいることも。

この選挙で課題がすべて解決するわけがない。だが、まずは民意の力で「よりましな政治」へかじを切る。日本の民主主義の底力を示す好機だ。

審判は秋の気配も漂い始める来月30日。2009年の長い夏、目を凝らして日本の明日を定めたい。

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20090722

毎日朝刊/社説

政権交代が最大の焦点だ

ごまかさない公約を

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衆院が21日解散された。衆院選は8月18日に公示され、同30日に投開票される。民主党を中心とする政権に交代させるのか、それでも今の自民・公明政権が続いた方がいいと考えられるのか。有権者の選択が最大の焦点となる。戦後政治の大きな転換点となる選挙戦が事実上始まった。

「昨秋解散しておけばよかった」と麻生太郎首相は後悔しているはずだ。毎日新聞の世論調査(18,19日)によると麻生内閣の支持率は17%で前月より2ポイント下落。自民党の支持率は18%で36%の民主党に大きく引き離されている。有権者の間には「一度政権を交代させてみたら」というチェンジ志向が確実に広がっていると見ないわけにはいかない。

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結束にほど遠い自民

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衆院本会議に先立ち開かれた自民党の両院議員懇談会で麻生首相は「私の発言や『ぶれた』と言われる言葉が国民に政治への不安や不信を与え、自民党の支持率低下につながったと深く反省している」と語り、記者会見でも自身の「不用意な発言」や自民党の結束の乱れを挙げて国民にも陳謝した。しかし党内は結束とはほど遠い状態で、首相が陳謝しないと収まらないところに今の追い詰められた姿が表れている。

圧勝した95年の衆院選から4年。なぜ、こんな状態に陥ったのか。

郵政民営化のみを争点に掲げ、造反者の選挙区には「刺客」候補を送って注目された前回は、報道のあり方を含め確かに問題は多かった。ただ、反対を押しのけて進もうとする当時の小泉純一郎首相に多くの有権者が「政治が変わるのでは」と期待したのは事実だろう。

ところが政治はさして変わらなかった。小泉氏は格差問題など「小泉改革の影」が表面化する中で改革の後始末をしないまま退陣。続く安倍晋三元首相は郵政造反議員を続々と復党させた。

迷走はここから始まる。小泉改革路線を進めるのか、転換するのか。自民党は今に至るまできちんと総括してこなかった。そして国民に信を問うことなく次々と首相が交代し、場当たり的な対応をしてきたことが、現在の党内混乱の要因でもある。

安倍氏は憲法改正路線に軸足を置いた。だが、その間に国民の暮らしに直結する「消えた年金」問題が深刻さを増して、07年7月の参院選で自民党は惨敗。その後、体調不良で突如辞任した。福田康夫前首相も1年で政権を投げ出した。そして、経済危機を理由に解散から逃れてきた麻生首相が今、低支持率にあえいでいる。漢字の誤読もあって「首相の資質」まで問われる有様だ。

だが、「人気がありそうだ」と首相を交代させ、その後は選んだ責任を支えようとしない自民党そのものに多くの国民は「本当に政権担当能力があるのか」と疑問を感じ始めているのではないか。今回の「麻生降ろし」に国民の支持が広がらなかったのはそのためだと思われる。

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民主に問われるもの

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一方の民主党も政権担当能力と鳩山由紀夫代表の首相候補としての資質が当然問われることになる。「政治主導」をお題目に終わらせず、強固な官僚組織を変えられるのか。税金の無駄遣いをどこまで削れるか。子ども手当てや高速道路無料化、年金制度の抜本改革は実現するのか。消費税率は4年間引き上げないというが、財源の手当てはできるのか。党としての統一感に乏しい安全保障政策はどうするのか。それらの疑問に具体的に応えるのがマニフェストだ。鳩山氏の政治資金問題もさらなる説明が必要となる。

自民、公明はこれまでの実績を強調するだろう。だが、消費税率引き上げに関し、どこまで具体的に書き込むのかなどの課題が残る。自民党には反麻生勢力が独自のマニフェストを作る動きがあるが、これは政権公約とは言わないと重ねて指摘しておく。共産党や社民党、国民新党、新党日本、今後できるかもしれない新党も含め、大切なのはこの国をどんな形にするのかだ。未来に向けたビジョンを示してもらいたい。有権者の目は一段と厳しくなっている。何よりごまかさず、正々堂々と政策論争を戦わせることだ。それがむしろ支持を集める時代なのだ。

自民党は93~94年の細川護煕、羽田孜内閣時代に一度野党に転落した。しかし、引き金になったのは自民党の分裂であり、93年7月の衆院選は非自民各党が「細川氏を首相に担ぐ連立政権を目指す」と有権者に公約して選挙を戦ったわけではない。つまり55年体制ができて以降、私たちは衆院選で有権者が投票によって選ぶという形では、政権与党と首相を交代させた経験がないのだ。

そんな選択に初めてなるのかどうか。異例の長い選挙戦になるが、いずれにしても政治の行く道を決めるのは有権者=主権者だ。こんなわくわくする選挙はないではないか。

余興だ。アカペラでみんなを唸(うな)らせてやる

今から33年前、私たち夫婦に第一子が生まれようとしていたときに、大学の後輩で、私よりも経済的にも精神的にも強大で崇高なる賢者様のマサカツから、佐々木勉さんのレコードアルバム「めぐる季節ーーー」をプレゼントされた。そのアルバムの中の一曲が「幸福(しあわせ)」だったのです。このレコード、なかなか、エエデ、と言って呉れた。私は、この一曲だけを諳(そら)んじられるほど、歌いまくった。私に、私たち夫婦に子供を授かるのだ。母親になろうとしている妻は、堂に入ったものだが、私はといえば、心配で、心もとなく、不安だった。自分に子供が、私が父になる、どうしても実感が伴わなかった。幸福度は絶頂だった。至福というやつだ。当時、カラオケでは、この曲を探し当てるのが不可能だった。人前で歌ったのは2回ほどあるのですが、いつもアカペラだった。その都度変調、音はずれでしか歌えないものですから、本物を知っている者でさえ、この曲が佐々木勉の「幸福(しあわせ)」だとは気付きようがなかったようだ。

今回は、次女の結婚報告会(20090719)で、オヤジ、余興が足りないので、歌でも歌ってくれないか、と進行係の長男に勧められた。そこで、思い当たったのが、この曲だったのです。数多あるリパートリの中から、特出しだ。どうせ歌うならば、立派に歌ってみせましょ。

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幸福(しあわせ)  佐々木勉《作詞・作曲》

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何が僕の幸せかって

もうじき、生まれる赤ちゃんの

男か女か、どっちに似てる

君に似てたら可愛いね

男だったら、太郎かな

女の子だったら、君の名前の一文字をつけてあげたい

愛してるよ、愛してるよ、君だけを

 

今日は僕がパンを焼こうを

君はお花に水あげて

食事が済んだら

散歩にでも

港の見える公園へ

 

何が僕の幸せかって

朝、目を覚ますと

君が僕の横にいて

おはようの、KISSくれる

やわらかなコーヒーの香が夢さそう

やさしいその微笑が僕の目覚まし

愛してるよ、愛してるよ、君だけを

 

やがて二人が、三人になり

四人になったら

庭のある

小さな家(おうち)を建ててあげよう

君と子供のために

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この曲の作詞・作曲家であった佐々木勉さんの名前は、本名はささきつとむ、仕事上はささきべん、としていた。ほぼ同時期に、寺尾聡さんを輩出したザ・サベージの楽曲の多くを作詞・作曲した人も、これまた佐々木勉さんなのです。この方は、ささきつとむさんです。

もう一人、声帯模写、特に歌手の物まねで人気を博していた人に、佐々木つとむさんがいました。

昔懐かしい、ササキツトムさんたちでした。

2009年7月22日水曜日

ロバート・マクナマラ氏死去。元米国防長官

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(99年、都内の講演)

私が大学受験に失敗。その浪人時代、ベトナム戦争の激烈化していく模様をテレビや新聞で知り、ジュウタン爆弾を浴びた地表ではベトナムの生身の人たちが、どのように戦って、どのように生活をしているのだろうか、どんな悲惨なことがどのように続いて、どのような結果になるのだろうか、と不安に駆られ、目を瞑(つぶ)って眠るのさえ恐ろしくなったことが度々あった。

私は、昼間はドカタ仕事でくたくたに疲れ、夜は転た寝(うたたね)の序(ついで)に力(りき)の入らない勉強。名ばかりの浪人中の受験生だった。勉強はしなくちゃいかん、大学に入ってからの費用も稼ぎたい、世の中に対して何かを大きな声で叫びたかった。生来、私は学校で習う勉強よりも、実社会の政治や経済の動き、社会で起きる種々の事件に関心が向くタイプだったようです。殺戮されるベトナムの民衆の悲惨な痛苦、地上での阿鼻叫喚、沼に浮かぶ死体、焼け焦げた死体、銃弾で蜂の巣状態の死体、首の刎(は)ねられた死体が、夢の中でパノラマ映画のように次々に登場して、ブルブル震えながら目が覚めたこともあった。ベトコンが、不屈で規律正しく、イヤに威勢がよかったのが何故か、当時私にはよく解らなかった。米国のベトナムへの攻撃を日本政府、自由民主党、佐藤栄作首相は容認、援護した。沖縄など日本の米軍基地からは、米国の空爆機がどんどん飛び立った。日本は米国の同盟国なのだから、当然なのだと言われても理解できなかった。一方では、反戦の気運も高まっていた。政治活動家以外でも、学生運動や市民運動として、それに労働者も加わり、ベトナム反戦運動は激しさを日に日に増していった。

かっての数々の戦争で、日本は馬鹿なことをしでかしたとの猛省から、戦争放棄を掲げ、軍隊を持たない憲法を作った。だが、その後警察予備隊が総理府の機関として組織され、それが保安隊になり、自衛隊になった。その自衛隊は立派な軍隊に様変わりしてしまった。こんな自衛隊を違憲だと主張していた人も大勢いた。専守防衛が原則だった。集団自衛権も認めなかった。世界の中でも、日本は武力よりも民生に重きを置いた外交施策。世界で唯一の被爆国ゆえに、非核三原則を高らかに宣言した。これらは反戦青年、私の原点で、誇りに思ってきた。

でも、当時の日本政府は、私の理想としていた国とは、全く逆な方向に舵を向けだしたこと、他所の国まで出かけて行って戦争を吹っかける米国に、何故そこまで肩入れしなくちゃならんのか、と疑問を持ち出していた。京都で育った私は、社共公認の蜷川虎三知事がベトナム反戦を長年にわたって主張し、学校では先生が日本政府を強い口調で批判した。どんなことがあっても、戦争はしてはいけない、と反戦の精神を植えつけられてきた。日米安保条約なんて、そんなものに関係するな、要らない、邪魔だ、危険だと思うようになった。世界の中で、理想的な平和国家の建設をわが国は目指しているのだ、と思っていたのに、何だか可笑しいことになりかけている。世界平和絶対主義者の私は、未熟ながらも、なんじゃ、こりゃ、と不可解だった。

新聞では、米国政府はこの戦争の正当性を主張し、日本政府は米国の主張を是認、米空爆機からの爆弾の雨霰《あめあられ》状態の投下、ベトコンたちの地上戦、米原子力空母(エンタープライズ)の日本での寄港に反対するデモ、街頭での過激化する反戦デモ、こんな記事が踊っていた。世界から、共産主義や社会主義化する国家をつぶすためだったのだろう。南ベトナムに傀儡首相(グエン・カオ・キ)を立てて、反政府の社会主義者たちと戦わせ、最初は応援の心算だったのがドンドン主役に躍り出た。だが民族の誇りを賭けて立ち向かう敵には、危険な武器を幾ら大量に使っても、勝てなかった。果ては、逃げるように退却させられてしまった。米軍の最後のヘリコプターが、危機一髪、領事館らしき建物の屋上から飛び去った光景は、印象的だった。ベトナムの民族自決の勝利だった。

そこで、米国側からよくよく登場したのが、ロバート・マクナマラ国防長官だった。

1961年から1968年、私が中学三年から大学に入学するまでの期間のことだ、ケネディ大統領からジョンソン大統領の時代に米国の国防長官を務めた。私が、自分の人生の中で一番、感受性が高かった頃だ。不本意に他人を傷つけたこともあったろうが、一番傷つき易かった時期でもあったのです。ベトナムに戦火が始まったのは、ケネディの頃だった。自動車のフォードの社長になったばかりに、ケネディから要請を受けて国防長官に就任したとある。人気があって支持率の高かったケネディは、この戦火を鎮火させる前に、テキサスで殺された(私が中3の時)。

私は、マクナマラの名前を聞く度に、あの怖い顔を思い出します。冷酷な奴だった。主義主張が異なるからといって、異なる思想の人間たちを殺すことを命じるなんて、この国のリーダーたちの非情、不条理が理解できなかった。当時、この世で一番憎らしい男だった。ジョンソンの顔も怖かった。

米国より派遣された軍人は最大、53万人にのぼった。南ベトナム政府の反政府軍、ベトコン(南ベトナム解放戦線)との戦闘には、北ベトナム政府の関与があるとの理由で北爆を開始、拡大し続けた。手段を選ばぬ戦法と、化学兵器の多用。生物兵器も使っていたかもしれない。その後、1972年、私が大学4年生だった時、12万人の北ベトナム軍の大攻勢に米国、南ベトナム政府軍は敗走。米国は初めて経験した軍事的敗北だった。フィリピンでは勝ったかもしれないが、朝鮮半島では引き分け、ベトナムでは完敗。もう戦争で、ことをおさめようなんて不可能な時代になっていることを世界のリーダーは認識しなければならない。イラク侵攻においては、双方に甚大な被害を被りながら、何とも言えぬ失笑モノで終幕しそうだ。戦争が失笑モノで許されるか?理不尽なベトナムへの軍事的介入によって、米国は5万8000人の犠牲者が出た。朝日新聞の天声人語によると、この戦争を「マクナマラの戦争」と呼ばれた、と書かれていた。

ベトナム戦争は、1973年米国とベトナム社会主義政権がパリ和平協定を締結した。

国防長官を辞めた後、晩年まで貧困解消・核廃絶に取り組んだ。

そのマクナマラ元国防長官が、6日死去したことを、7日の新聞が報道した。享年93歳。

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20090708の朝日・朝刊

天声人語(一部)より

贖罪の意味をこめてだろう。晩年は沈黙を破り、回顧録やドキュメンタリー映画で「ひどい過ちを犯した」と率直に語っていた。人生で得た教訓の一つが「人は善をなさんとして悪をなす」だったという。5年前、かってベトナム反戦の中心だった母校カリフォルニア大バークリー校に招かれた。そして「人類は20世紀に1億6千万人を殺した。21世紀に同じことが起きていいのか。そうは思わない」と力を込めた。深い悔恨をへてたどり着いた、重い確信だったに違いない。

2009年7月12日日曜日

舞踊家ビナ・バウシュを偲ぶ

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「カーネーション」瀬戸秀美氏撮影

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(日本をこよなく愛したピナ。長野でそば粉を練る)

ドイツ表現主義舞踊を継承し、独自の「タンツテアター(舞踊演劇)」を打ち立てたピナ・バウシュが、6月30日、68歳の生涯を閉じた。6月21日には、改装されたブッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテンコールに登場した。その後入院して、ガンと診断されたわずか5日後に帰らぬ人となった。彼女の死は、天命に任せるのではなく、自らの創作劇のようだ。

自宅で使っているP.C.のデスクトップには、「私のピナ・バウシュ」があって、今までに私が観に行ったときに手に入れたパンフレットや、ピナに関する新聞や雑誌の記事を、そのままのものもあれば、私流にダイジェストした文章も保存してきた。娘からは、お父さん、これ何よ、「私のピナ・バウシュ」? お父さんは変だよ、とこのように思われていたのです。

私がここで、ピナ・バウシュのことを述べることには、躊躇(ためら)いの果てに勇気を持って取り組んでいることを、先ずは自白しておこう。私のような極めて無粋な男が、選(よ)りに選(よ)って、天才的なダンサーであって、舞踊団の孤高なリーダー(創作・芸術監督)でもあったピナのことを、私の口から発することは、周辺の誰もの想像の域を越え、恐れもあって、内緒にしていたのです。数少ない秘め事の一つだったのです。他人にピナのことを話そうものなら、必ず私は自分の観賞能力や表現能力の無力さに落胆し、自滅自壊自爆自死したくなるだろう、と予想されるからです。私には、本質的にピナの真髄をきちんと見抜くこともできていない後ろめたさがあるのです。それにしても、魅(ひ)かれる。

だから、ピナの創作や作品や、その仕上がりについても、私が舞台で目にしたことについては、私は私の言葉ではコメントできないし、最初から賢い評論者に委(ゆだ)ね、受け入れている。私は、感動しっ放しで、それ以外何もできないのです。「口は閉(と)じておけ、目は開けておけ」ということだ。

私が38歳のときに、友人に勧められて観に行ったのが発端でした。それから、彼女主宰の舞踊団が日本に公演に来るたびに、大きな反響があって、マスコミを賑わした。今度は何をしでかしてくれるのか、胸をワクワクさせて来日公演を待った。私は今60歳です。あと2ヶ月で61歳。この25年ほどの間に、5、6回は観に行っている。1986年、正直、最初に観た時は感動したというよりは、吃驚仰天したのです、「カフェ・ミューラー」と「春の宴」だった。ピナのド壺(どつぼ)に、どっぷりはまってしまった。それから「カーネーション」、「過去と現在と未来の子どもたちのために」、「フルムーン」、「パレルモ、パレルモ」、演目が思い出せないものもあります。

私にピナを教えてくれた友人は、埼玉で観て東京で観て、東京の同じ会場で連荘(れんちゃん)で、来日した時には必ず最低2回以上は公演を追っかけていた。

フリーライターの佐藤友記さんの表現を借りると、ピナの仕事は「人間という複雑な生き物をまるごと把握するその比類なき想像力は、身体表現そのものだけでなく衣装、舞台装置、音楽と、あらゆる分野に及んだ」もので、私如きの感性と筆力では、どうしても観賞後の感想を、人さまの前に紙の上に文字として表現することは、どうしてもできない。公演の度に、入手する評論家や舞踊家のコメントを、サスガにうまい具合にピナの舞踊のことを著せるものだと感歎させられて、そのときはなるほどと納得するものの、時間の経過と共に、やっぱり私の感じたのと少し違うぞと感じて、その著作物からは関心が薄れていった。ある一人の表現者のもの以外は。その著作者は浅田彰氏のものだったのです。

新聞でピナの訃報を知ってから、何回目かの公演でのパンフレットに、浅田氏のものがあったのを思い出して、読み直してみたくなって探してみたのですが、その時のパンフレットはどうしても見つからなかった。この浅田氏の文章だけは、唯一、ピナの舞踊のことを、私が理解できる内容で書かれていたのです。見つけ出すことができずに、何となくピナのことをネットで調べてみようとして、あちこち手当たり次第にネットで検索していたら、偶然、かって公演用のパンフレットに載っていた浅田氏の小文に行き当たったのです。これは、最後の方に添付した。ーー(A)

浅田氏のかっての文章を探していた矢先のことだ、死の一週間後の7月7日の朝日新聞の文化欄に、浅田氏の、ピナの喪に捧げる文章が載った。図星(ずぼし)だ。やはり、こういう時には浅田氏の登場なんだ。ピナを愛した浅田氏の文章を読みながら、私もピナとの別れを惜しんだ。

*ピナの舞踊を観てみたいと思われた方は、ネットで一部動画で紹介されているので、一見されてはいかがかな。ネットって凄いですね、私も初めて観て、驚きました。

追記、ピナ・バウシュ中毒患者(楠田枝里子さんの本の名前から)の皆さん、~せえっので、言葉と文字を失った私に、コメントをくださ~い。

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朝日・朝刊/文化

時が作った舞台と人生

浅田彰(京都造形大大学院長)

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「カフェ・ミュラー」瀬戸秀美氏撮影

ドイツ表現主義舞踊を継承し、独自の「タンツテアター(舞踊演劇)」を打ち立てたピナ・バウシュが、去る6月30日に68歳の生涯を閉じた。世界は、1人の天才ダンサーのみならず、舞台の上に幻のようにゆらめいていた一つの世界をまるごと失ったのだ。

継承といっても、戦前の表現主義舞踊そのままに、自己の情念を身体で表現したわけではない。むしろ逆だ。とくに80年代以降、ピナは、自らの率いるブッパタール舞踊団に世界中から集まってきた多種多様なダンサーたちに、さまざまな質問を浴びせるようになる。嬉しいときどのように笑い、悲しいときどのように泣いたか。なぜそうしたかではない。そのようにして、他者の情動、それも物語的な脈略から切断された情動がサンプリングされ、精妙に組み合わされて、ナンセンスでありながら感動的な、しかしまた濃密でありながら解放感に満ちた、奇跡的な舞台が生み出されるのである。モダンな表現主義を裏返しにしたそれは最良の意味でポストモダンな舞台だったともいえるだろう。

現に、ピナは自己の表現を舞踊団のメンバーに押し付ける独裁的な振付家とは対極的な存在、むしろ、自己を抑え、限りない忍耐をもって他者の恵みを待ち続ける存在だった。他者が自分もその素晴らしさに気付いていない表現に到着するまで待つというのだから、それには途方もない時間がかかる。その間、ダンサーが失敗を繰り返しても、ピナは「ノー」とは言わず、ただ黙って深い溜息をつく。

実のところ、ダンサーにとってもそれほど恐ろしいことはない。そういうわけで、ピナの舞台は初演前夜のドレスリハーサルでも支離滅裂なことが珍しくなかった。ところが、本番になると、舞台上には、支離滅裂でありながら確かにピナのものとしかいいようのない高次の一貫性をもった作品が、奇跡のように立ち上がっているのだ。ゆっくりと滴る時の一瞬、一滴を見つめ、ついには貴腐ワインのように甘美になった最後の一滴を味わう。舞台芸術が時間芸術であるかぎりにおいて、そこに舞台芸術のエッセンスを見ることもできるだろう。

こうした姿勢は、私生活でも変わらなかった。3時間に及ぶ舞台がはねた後も、ピナは仲間や友人たちと食事を共にし、深夜ーーいや、翌朝の4時、5時に至るまで、ワインやタバコを楽しみながら濃密な時を過ごす。「フラメンコの最高の瞬間を見ようと思ったら、翌7時くらいまで粘るのよ」と語ってくれたことがあるくらいだ。

そんなピナのことだから、体調不良を感じながらも、ぎりぎりまで病院に入るのを延ばしたに違いない。そして、ガンと診断されてわずか5日後に、枯れ木が折れるように逝ってしまう。ファンにとってはあまりにショッキングな、しかし、いかにもピナらしい見事な終幕だったと言うべきだろう。

もうピナの新作を見られないというのは、耐え難いことに違いない。だが、性急な落胆ほどピナにふさわしくはない姿勢はないだろう。幸い、日本を愛したピナは、初期のダンス・オペラ(グルックやワイルの完成度!)から代表作(「カフェ・ミュラー」のピナ自身の踊り、そして「ヴィクトール」や「パレルモ、パレルモ」の圧倒的なスケール!)をへて新作(「フルムーン」の若々しいアナーキー)に至るまで、素晴らしい舞台の数々を来日公演で披露してくれた。今は、忘れがたいそれらのシーンの一つ一つを想起しながら亡きピナを偲びたい。それは、限りない忍耐をもった一人の女性への、終わりのない喪の作業となることだろう。

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浅田彰《そしてダンスは続くーピナ・バウシュの奇跡》
ピナ・バウシュとブッパタール舞踊団の日本公演パンフレット(1999年)

(A)です。

2009年7月6日月曜日

まるまるとまるめ

瀬戸内寂聴さんの本「おしゃべり草子」(中央公論社)を読んでいたら、面白い和歌の紹介があった。この歌は後ろの方に記した。

昨今、殺人事件が絶えない。バラバラ殺人事件ぐらいでは、驚くこともなくなった。年がら年中殺人事件だらけ、猫灰だらけだ。百年に一度の大不況、貧富の差がついたと言われている、それらが反映してか、金品を狙っての事件が多い。恨みつらみ、痴情の果ての殺し合いなら、まだしも理解できるのですが、この頃は、理解に苦しむ事件が多過ぎる。一週間ほど前、男子高校生が同じ学校に通う、かっては友人だった高校生の最近の態度が気に食わぬと電車のホームで包丁で刺し殺した。包丁は2,3日前にホームセンターで買って用意しておいた。殺した高校生は「腹が立っていた」と供述。また2,3日前のこと、大阪此花区のパチンコ店にバケツに入ったガソリンを持ち込んでばら撒き、火を点けて、4人が亡くなった。犯人は、生きているのがつまらなくなった。人が混み合っている所なら、どこでもよかった。誰でもいいから殺したかった、と供述しているそうだ。

与党・自民党の不人気な麻生首相は、解散総選挙をダラダラ引き伸ばし、政策もブレ放しで、そんなこと言ったことはありませんとかなんとか、すっきりしない首相だ。かたや民主党の方は、頼りない小沢党首を鳩山新党首に変えても、またもや新党首に資金管理団体の虚偽記載が判明した。わが党だけは、絶対清廉なのだ、という党が何故、産まれないのでしょうか。前の党首の非を第三者委員会で調査したにもかかわらず,いい加減に処理を済ませ、きちんと総括しなかった前幹事長=新党首ならではの、今回の失態だ。鳩山さん、次期の総理大臣を狙っているのでしょ。気を引き締めて、再度身体検査が必要のようですな。下半身の検査も序にしてもらった方がいいのでは。政権交代だ、政権交代だ、と何度大声張り上げても、これじゃ、国民の信は得られない。

そして、今は梅雨真っ最中。経済指標にちょっと薄明かりが見えそうだと言われているけれど、まだまだ景況は土砂降り状態だ。

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すっきりしない天気と、土砂降りの経済と、殺人が絶えない暗澹たる社会。

そんな世の中で、偶然見つけた文字の並びに、ホット一息つきました。

江戸時代の木喰行道(もくじきぎょうどう)(1718~1810)の作品だ。歌集「青表紙歌集稿本」より。

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まるまるとまるめまるめよわが心

まん丸丸(まるまる)く丸(まる)くまん丸(まる)

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みる人の心をまるくまん丸に

どこもかしこもまるくまん丸

唯心心の月をまん丸に

いつもすずしき十五夜の月

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木喰行道と自称して、全国を廻国修行する大願を立てた。旅の行く先々で、後世、木喰仏と呼ばれる微笑仏を彫り続けた。荒削りな細部を略した様式の微笑仏は、素朴で個性的で、一目で木喰仏とわかる。

木喰行とは五穀を断ち、木の実を食べて生命をつなぐ苦行をすることで、真言宗の宗派の行である。

(『寂庵だより』「今月のことば」1996年10月)より、拝借させていただいた。

2009年7月4日土曜日

竹内一家の結婚報告会、挨拶の下書き

(090719)

DOGDEPT 鵠沼店

1600~1900

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本日は、お忙しい中、竹内一晃さんと娘の花子の結婚報告会に出席していただいてありがとうございます。

私が花子の父親で、隣にいるのが花子の母親で、私の妻です。

竹内一晃さんと花子との本日までの事には、今さら私が、ここで縷縷(るる)とご説明することもないと思っています。皆さんは十分、色んなことまでご存知でしょうから。

竹内さん一家は、私の自宅の真向かいに住んでいます。その家は私の会社の持ち物だったのですが、弊社も流動資金が欲しかったので、竹内さん一家に買う意志があるか、と尋ねたところ望むところですとの返答をもらった。昨年、年末に購入して、婚姻届を出して、今年の4月に引越してきたのです。この引越しに際しては、竹内三兄弟と、仕事仲間や友人たちの協力、その躍動感溢れる仕事っぷりは見る者にはとっても心地良かった。若者達のパワーには驚かされました。また、三兄弟の仲の良さには微笑ましいものを感じました。

竹内さん一家に私の望むことは、夫婦仲良くして、子供をきちんと育てて欲しいと願うばかりです。願いは、ただこれだけのことです。

親孝行なんかしなくてもいい、とは言わないけれども、自分たちの子供のことに関しては、絶対手を抜かないで欲しいということです。親の背中を見て子供は育つとも言われています。君達の子供たちには、無限の可能性を秘めているのです。その可能性をどうか実りのあるように導いて欲しいのです。

私は私の友人のお母さんから言われた言葉が忘れられません。「山岡さん、子供の教育にはお金をかけなさい」ということでした。お金と言っても、現金だけではないのです、手塩にかけることも含むのです。手塩にかけるということは、手間をかけて(と言うことは手を抜かないということ)、時間をかけて、苦労して、努力して、真剣に対処することです。

永六輔さんの著作物に「職人」という本があって、その本で永六輔さんは子育てに対する重要なアドバイスをしてくれています。「子供は親の言う通りに育つものじゃない。親のする通りに育つんだ」ということだと。「子供は親の背中を見て育つ」と言うことと同じことでしょう。私も子供を育ててきて全く同感です。

私がときどき漏らす言葉で「子供は国の宝ものです」、と聞いた人が居ると思います。子供は両親だけの宝物ではないのです。私たち、ジジイやバアバの宝物でもあるのです。社会も国も、世界もが、いい子になって欲しいと求めているのです。子供は、みんなの公の宝物なのです。

次に私の心配事と言えば、花子の性格のことです。自己中心的で、視野が偏狭で、我が儘で、我が強いことです。悪い性格だけをことさら取り挙げたけれど、悪く思うな、今日は特別な日だ、君たちの幸せを祝福してくれている人々たちの前だ、寛容になって聞き耳を持ってくれ。夫に対しても、子供に対しても、職場の同僚や先輩に対しても、幼稚園の先生や父兄の方々に対しても、ひと呼吸おいて、頭の中を整理してから、自分の意見を述べるようにしよう。花子、貴女は厳しい社会においても、子育てをしながら、立派な職業婦人として、良く頑張っている。花子の頑張りは、私の誇りでもあるのです。そうしたら、次には、自立した女性らしく、行動や言葉づかいには、気をつけましょう、ってことなんだ。

私達夫婦はくれぐれも幸せ者だと喜んでいる。

長女、実子の家庭、長男、草太の家庭、今回の竹内さん一家、そのどの家庭も健康で元気いっぱい、活力に溢れた家庭を築いているからです。秋には、草太夫婦にも子供が生まれる予定です。嬉しいことが続きます。

ここに参集していただいた皆様の、今後のご健康とご繁栄を祈っています。また、今回の竹内家の結婚報告会開催にあたっていろいろお世話をしてくださった方々に感謝しています。有難うございました

どうかみなさん、今後とも竹内さん一家をよろしく見守ってください。この家族がアホなことをしたときには、よくわかる言葉で諌めてください。叱ってやってください。

今後とも、竹内一晃さん、花子をよろしくお願いします。

2009年7月2日木曜日

佐々井秀嶺さん(73)

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今年の初め、105円で買った古本、遠藤周作の「深い河」を読んで、インドのカースト制度における身分差別の実態を知ったことをこのブログに著した。ガンジーがインド「独立の父」と言われて尊敬されている。が、身分階層からも排除された不可蝕民を「神の子」と認めながらの統治には、やっぱり偉大な為政者と言うには無理がある。人口11億人のうちの8割の人がヒンズー教を信仰していて、そのヒンズー教がカースト制度を土台に成り立っていて、インド社会において、不可触民はどうすれば自らの人間としての権利の復活が可能なのか? そんな状況下で、身分制度に異を唱えた人が出現した。その人こそアンドーベカルでした。

アンドーベカルは、ヒンズー教ではカースト制度として認められてきた身分差別を絶対認めなかった。自らも不可触民出身であった。篤志家の援助で、アメリカでの就学の後、帰国して差別を禁じるインドの現憲法を起草した。そして最初の法務大臣に就任した。憲法の条文の随所に被抑圧、被差別、不可触民の人々に対する配慮や人間復活を実現する為の指針が細やかに仕組まれている。現憲法は1950年に発効した。アンドーベカルのことを、インドの「憲法の父」と言われている。

やがて、アンドーベカルはガンジーの率いるヒンズー教とは、カースト制度や不可触民に処する考え方の違いから、距離を置くようになり、ついにはヒンズー教から仏教に改宗した。ガンジーの偽善性を衝いた。彼の「カーストを破り、宗教、教育、社会の革命を成し遂げた精神と行動力」に影響を受け、仏教への改宗に走った人たちは、50万人にものぼったらしい。

そしてアンドーベカルの遺志を受け継ぎ、インド仏教のリーダーになったのが佐々井秀嶺さんだったのです。今尚、インドでの、仏教による人間解放のための闘争が続いているようだ。佐々井秀嶺さんは「インド仏教徒にとって、往生、成仏とは人間解放のこと」、そして「人間解放とは、人権、生命を尊重し、いかなる人種、いかなる言語を使う人とも手をつなぐ状態」と説く。

私にとっては、狐狸庵さんの本を読んで、それから、それから、紆余曲折を経て、佐々井秀嶺さんの存在を知ることになった。その佐々井秀嶺さんが、44年ぶりに日本に帰ってきた記事を朝日新聞で見つけたので、これらを回想した。

「不可触民と現代インド」(光文社新書)を著した山際素男さんの活動も知った。

マザー・テレサの日常の活動のことも、この本で知った。

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20090620

朝日・朝刊

44年ぶりに故郷の地を踏んだインドの荒法師

文・写真:竹内幸史

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借金や女性関係で悩み、放浪も自殺未遂もした青年時代。得度し、日本を旅立ったのは東京五輪後の65年のことだ。移り住んだインドで、仏教復興運動に身を投じた。今春44年ぶりに帰国し、2ヶ月間、赤い衣と金剛杖姿で各地を講演行脚した。

仏陀が悟りを開いた仏教の聖地、ブッダガヤで大菩提寺の奪還闘争を率い、「バンテージ(上人様)ササイ」は一躍有名になった。「仏陀はヒンドゥー教の化身」とするヒンドゥー教の委員会が管理していたのに抗議し、5千キロデモ行進を決行した。国外追放の脅かしを受けながら首相らに直談判し、共同管理をもぎとった。宗教者でつくる政府機関の仏教徒代表にもなった。

インドの仏教徒は被差別カースト出身が多い。ヒンドゥー教から仏教への改宗は差別との闘いでもある。「インド仏教の礎になる」とインド国籍を得て、大勢の改宗を導いた。

「インドで仏教がいかに貧しい人の救済に役立っているか」。死ぬ前に日本の仏教関係者らに支援を感謝し、報告したかった。「日本の仏教が活性化する手がかりになれば」と考え、主な宗派幹部と積極的に交流した。23日、インドに帰る。

新幹線も、高速道路も初体験。「浦島太郎」の気分だ。「日本列島が箱庭みたいに見えるんですよ」。その一方、「街に人が減り、活力が無い。義理人情と助け合いが薄れ、貧しい人は暮らしていけない国になってきたのではないですか」。