「カーネーション」瀬戸秀美氏撮影
(日本をこよなく愛したピナ。長野でそば粉を練る)
ドイツ表現主義舞踊を継承し、独自の「タンツテアター(舞踊演劇)」を打ち立てたピナ・バウシュが、6月30日、68歳の生涯を閉じた。6月21日には、改装されたブッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテンコールに登場した。その後入院して、ガンと診断されたわずか5日後に帰らぬ人となった。彼女の死は、天命に任せるのではなく、自らの創作劇のようだ。
自宅で使っているP.C.のデスクトップには、「私のピナ・バウシュ」があって、今までに私が観に行ったときに手に入れたパンフレットや、ピナに関する新聞や雑誌の記事を、そのままのものもあれば、私流にダイジェストした文章も保存してきた。娘からは、お父さん、これ何よ、「私のピナ・バウシュ」? お父さんは変だよ、とこのように思われていたのです。
私がここで、ピナ・バウシュのことを述べることには、躊躇(ためら)いの果てに勇気を持って取り組んでいることを、先ずは自白しておこう。私のような極めて無粋な男が、選(よ)りに選(よ)って、天才的なダンサーであって、舞踊団の孤高なリーダー(創作・芸術監督)でもあったピナのことを、私の口から発することは、周辺の誰もの想像の域を越え、恐れもあって、内緒にしていたのです。数少ない秘め事の一つだったのです。他人にピナのことを話そうものなら、必ず私は自分の観賞能力や表現能力の無力さに落胆し、自滅自壊自爆自死したくなるだろう、と予想されるからです。私には、本質的にピナの真髄をきちんと見抜くこともできていない後ろめたさがあるのです。それにしても、魅(ひ)かれる。
だから、ピナの創作や作品や、その仕上がりについても、私が舞台で目にしたことについては、私は私の言葉ではコメントできないし、最初から賢い評論者に委(ゆだ)ね、受け入れている。私は、感動しっ放しで、それ以外何もできないのです。「口は閉(と)じておけ、目は開けておけ」ということだ。
私が38歳のときに、友人に勧められて観に行ったのが発端でした。それから、彼女主宰の舞踊団が日本に公演に来るたびに、大きな反響があって、マスコミを賑わした。今度は何をしでかしてくれるのか、胸をワクワクさせて来日公演を待った。私は今60歳です。あと2ヶ月で61歳。この25年ほどの間に、5、6回は観に行っている。1986年、正直、最初に観た時は感動したというよりは、吃驚仰天したのです、「カフェ・ミューラー」と「春の宴」だった。ピナのド壺(どつぼ)に、どっぷりはまってしまった。それから「カーネーション」、「過去と現在と未来の子どもたちのために」、「フルムーン」、「パレルモ、パレルモ」、演目が思い出せないものもあります。
私にピナを教えてくれた友人は、埼玉で観て東京で観て、東京の同じ会場で連荘(れんちゃん)で、来日した時には必ず最低2回以上は公演を追っかけていた。
フリーライターの佐藤友記さんの表現を借りると、ピナの仕事は「人間という複雑な生き物をまるごと把握するその比類なき想像力は、身体表現そのものだけでなく衣装、舞台装置、音楽と、あらゆる分野に及んだ」もので、私如きの感性と筆力では、どうしても観賞後の感想を、人さまの前に紙の上に文字として表現することは、どうしてもできない。公演の度に、入手する評論家や舞踊家のコメントを、サスガにうまい具合にピナの舞踊のことを著せるものだと感歎させられて、そのときはなるほどと納得するものの、時間の経過と共に、やっぱり私の感じたのと少し違うぞと感じて、その著作物からは関心が薄れていった。ある一人の表現者のもの以外は。その著作者は浅田彰氏のものだったのです。
新聞でピナの訃報を知ってから、何回目かの公演でのパンフレットに、浅田氏のものがあったのを思い出して、読み直してみたくなって探してみたのですが、その時のパンフレットはどうしても見つからなかった。この浅田氏の文章だけは、唯一、ピナの舞踊のことを、私が理解できる内容で書かれていたのです。見つけ出すことができずに、何となくピナのことをネットで調べてみようとして、あちこち手当たり次第にネットで検索していたら、偶然、かって公演用のパンフレットに載っていた浅田氏の小文に行き当たったのです。これは、最後の方に添付した。ーー(A)
浅田氏のかっての文章を探していた矢先のことだ、死の一週間後の7月7日の朝日新聞の文化欄に、浅田氏の、ピナの喪に捧げる文章が載った。図星(ずぼし)だ。やはり、こういう時には浅田氏の登場なんだ。ピナを愛した浅田氏の文章を読みながら、私もピナとの別れを惜しんだ。
*ピナの舞踊を観てみたいと思われた方は、ネットで一部動画で紹介されているので、一見されてはいかがかな。ネットって凄いですね、私も初めて観て、驚きました。
追記、ピナ・バウシュ中毒患者(楠田枝里子さんの本の名前から)の皆さん、~せえっので、言葉と文字を失った私に、コメントをくださ~い。
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20090707
朝日・朝刊/文化
時が作った舞台と人生
浅田彰(京都造形大大学院長)
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「カフェ・ミュラー」瀬戸秀美氏撮影
ドイツ表現主義舞踊を継承し、独自の「タンツテアター(舞踊演劇)」を打ち立てたピナ・バウシュが、去る6月30日に68歳の生涯を閉じた。世界は、1人の天才ダンサーのみならず、舞台の上に幻のようにゆらめいていた一つの世界をまるごと失ったのだ。
継承といっても、戦前の表現主義舞踊そのままに、自己の情念を身体で表現したわけではない。むしろ逆だ。とくに80年代以降、ピナは、自らの率いるブッパタール舞踊団に世界中から集まってきた多種多様なダンサーたちに、さまざまな質問を浴びせるようになる。嬉しいときどのように笑い、悲しいときどのように泣いたか。なぜそうしたかではない。そのようにして、他者の情動、それも物語的な脈略から切断された情動がサンプリングされ、精妙に組み合わされて、ナンセンスでありながら感動的な、しかしまた濃密でありながら解放感に満ちた、奇跡的な舞台が生み出されるのである。モダンな表現主義を裏返しにしたそれは最良の意味でポストモダンな舞台だったともいえるだろう。
現に、ピナは自己の表現を舞踊団のメンバーに押し付ける独裁的な振付家とは対極的な存在、むしろ、自己を抑え、限りない忍耐をもって他者の恵みを待ち続ける存在だった。他者が自分もその素晴らしさに気付いていない表現に到着するまで待つというのだから、それには途方もない時間がかかる。その間、ダンサーが失敗を繰り返しても、ピナは「ノー」とは言わず、ただ黙って深い溜息をつく。
実のところ、ダンサーにとってもそれほど恐ろしいことはない。そういうわけで、ピナの舞台は初演前夜のドレスリハーサルでも支離滅裂なことが珍しくなかった。ところが、本番になると、舞台上には、支離滅裂でありながら確かにピナのものとしかいいようのない高次の一貫性をもった作品が、奇跡のように立ち上がっているのだ。ゆっくりと滴る時の一瞬、一滴を見つめ、ついには貴腐ワインのように甘美になった最後の一滴を味わう。舞台芸術が時間芸術であるかぎりにおいて、そこに舞台芸術のエッセンスを見ることもできるだろう。
こうした姿勢は、私生活でも変わらなかった。3時間に及ぶ舞台がはねた後も、ピナは仲間や友人たちと食事を共にし、深夜ーーいや、翌朝の4時、5時に至るまで、ワインやタバコを楽しみながら濃密な時を過ごす。「フラメンコの最高の瞬間を見ようと思ったら、翌7時くらいまで粘るのよ」と語ってくれたことがあるくらいだ。
そんなピナのことだから、体調不良を感じながらも、ぎりぎりまで病院に入るのを延ばしたに違いない。そして、ガンと診断されてわずか5日後に、枯れ木が折れるように逝ってしまう。ファンにとってはあまりにショッキングな、しかし、いかにもピナらしい見事な終幕だったと言うべきだろう。
もうピナの新作を見られないというのは、耐え難いことに違いない。だが、性急な落胆ほどピナにふさわしくはない姿勢はないだろう。幸い、日本を愛したピナは、初期のダンス・オペラ(グルックやワイルの完成度!)から代表作(「カフェ・ミュラー」のピナ自身の踊り、そして「ヴィクトール」や「パレルモ、パレルモ」の圧倒的なスケール!)をへて新作(「フルムーン」の若々しいアナーキー)に至るまで、素晴らしい舞台の数々を来日公演で披露してくれた。今は、忘れがたいそれらのシーンの一つ一つを想起しながら亡きピナを偲びたい。それは、限りない忍耐をもった一人の女性への、終わりのない喪の作業となることだろう。
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浅田彰《そしてダンスは続くーピナ・バウシュの奇跡》
ピナ・バウシュとブッパタール舞踊団の日本公演パンフレット(1999年)
(A)です。