2009年7月24日金曜日

西山麗の五輪(ソフトボール日本代表)

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(日本リーグでの試合)

北京五輪は、テレビを観るだけ、新聞を読むだけだったのですが、感動的な場面で悲しんだり喜んだり、何度も泣かしていただきました。すべてのアスリートたちに感謝する。とりわけ日本女子のソフトボールの活躍は、野球が振るわなかったこととは裏腹に、その素晴らしい活躍ぶりは、テレビの画面に繰り返し映し出された。鉄腕上野投手の剛速球には、日本国中の人々が度肝を抜かれた。決勝戦までの、連日の三連戦を投げきった。守備は固かったし、数少ないチャンスをものにした。

ハラハラどきどき、接戦を勝ち駒で進めて行く実況中継のなかで、今回朝日新聞で取り上げられた内容の紹介があった。テレビでその話を聞いたとき、目がうるうるして感動したのに、その後次から次へと競技に目移りして、もう忘却のかなただった。ところが、斉藤監督と西山選手のことが、新聞で、難病とその闘病シリーズの企画モノで再び、光をあててくれた。私の心は、再び激しく感応した。

斉藤春香監督が打って良し守って良しの名選手だった頃、難病を抱えていた中学生の西山麗選手との交流のことだった。こんな感動的な話は、一度読むだけで、一度聞くだけでは、もったいなさ過ぎる。私の宝物として頂戴した。

20080822 オリンピック4連覇を狙うアメリカと決勝戦を戦った。3-1で日本が勝ち、初の金メダルを獲得した。

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20090709

朝日・朝刊/生活

患者を生きる

西山麗の五輪

心臓・血管 「グラウンドで死ぬのは怖くない」

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神奈川県では毎年1月上旬、各校から数人ずつ選ばれた中学2年のソフトボール選手が、地元の実業団チーム、日立ソフトウェアの選手の指導を受ける。

98年、大動脈弁の置換手術を数週間後に控えた西山麗(25)は、手伝いで参加した。

昼だった。グラウンドの横で見ていた西山に斉藤春香(39)が歩み寄り、声をかけてきた。96年のアトランタ五輪の本塁打王で、西山があこがれていた選手だった。

「絶対、ソフトボールができるようになるからね。将来、一緒に頑張ろう」

握手とサインもしてくれた。西山はうれしさと緊張とで顔が赤くなり、何も言えず、笑顔で応えるのが精いっぱいだった。

斉藤は午前中、西山のことを聞き、自分の小学3年のころを思い出した。ネフローゼ症候群で3ヶ月入院。尿に多量のたんぱくが出て、体がむくんだ。「一生、運動はできないかもしれない」と告げられた。

だが、中学で治り、五輪にも行けた。西山にも可能性があることを伝えたかった。

勇気づけられた西山は1月下旬、慶応大病院心臓血管外科の饗庭(あえば)了の執刀で手術を受けた。交通事故死した米国の14歳の女の子から提供された弁だった。

手術の間、父の義信(67)と母美千子(58)は、ソフトを続けさせるかどうかを話し合った。美千子はもともと運動に反対だった。義信は妻の心配は十分理解したが、「麗の気持ちを尊重しよう」と言った。

義信はベッドの西山に話しかけた。

「スポーツをするためではなく、普通の生活をするために手術をした。危険なことがあったら、やっぱりすぐに死んでしまうんだよ」

西山は答えた。

「グラウンドで死ぬのは怖くない」

この子の夢は、親が考えている以上に大きい、と義信は感じた。「じゃ、頑張りな」黙って聞いていた美千子は、帰宅途中、義信を「鬼」と怒ったが、美千子自身も西山の情熱を抑えつけることはしなかった。

約1ヶ月の入院だった。病棟で、西山は様々な病気と闘う子供たちを見た。手術で治る自分は恵まれていると感じた。

「自分が元気になって五輪に行けば、病気の子供たちの励みになる」

決意を胸に秘め、才能を開花させていく。