(99年、都内の講演)
私が大学受験に失敗。その浪人時代、ベトナム戦争の激烈化していく模様をテレビや新聞で知り、ジュウタン爆弾を浴びた地表ではベトナムの生身の人たちが、どのように戦って、どのように生活をしているのだろうか、どんな悲惨なことがどのように続いて、どのような結果になるのだろうか、と不安に駆られ、目を瞑(つぶ)って眠るのさえ恐ろしくなったことが度々あった。
私は、昼間はドカタ仕事でくたくたに疲れ、夜は転た寝(うたたね)の序(ついで)に力(りき)の入らない勉強。名ばかりの浪人中の受験生だった。勉強はしなくちゃいかん、大学に入ってからの費用も稼ぎたい、世の中に対して何かを大きな声で叫びたかった。生来、私は学校で習う勉強よりも、実社会の政治や経済の動き、社会で起きる種々の事件に関心が向くタイプだったようです。殺戮されるベトナムの民衆の悲惨な痛苦、地上での阿鼻叫喚、沼に浮かぶ死体、焼け焦げた死体、銃弾で蜂の巣状態の死体、首の刎(は)ねられた死体が、夢の中でパノラマ映画のように次々に登場して、ブルブル震えながら目が覚めたこともあった。ベトコンが、不屈で規律正しく、イヤに威勢がよかったのが何故か、当時私にはよく解らなかった。米国のベトナムへの攻撃を日本政府、自由民主党、佐藤栄作首相は容認、援護した。沖縄など日本の米軍基地からは、米国の空爆機がどんどん飛び立った。日本は米国の同盟国なのだから、当然なのだと言われても理解できなかった。一方では、反戦の気運も高まっていた。政治活動家以外でも、学生運動や市民運動として、それに労働者も加わり、ベトナム反戦運動は激しさを日に日に増していった。
かっての数々の戦争で、日本は馬鹿なことをしでかしたとの猛省から、戦争放棄を掲げ、軍隊を持たない憲法を作った。だが、その後警察予備隊が総理府の機関として組織され、それが保安隊になり、自衛隊になった。その自衛隊は立派な軍隊に様変わりしてしまった。こんな自衛隊を違憲だと主張していた人も大勢いた。専守防衛が原則だった。集団自衛権も認めなかった。世界の中でも、日本は武力よりも民生に重きを置いた外交施策。世界で唯一の被爆国ゆえに、非核三原則を高らかに宣言した。これらは反戦青年、私の原点で、誇りに思ってきた。
でも、当時の日本政府は、私の理想としていた国とは、全く逆な方向に舵を向けだしたこと、他所の国まで出かけて行って戦争を吹っかける米国に、何故そこまで肩入れしなくちゃならんのか、と疑問を持ち出していた。京都で育った私は、社共公認の蜷川虎三知事がベトナム反戦を長年にわたって主張し、学校では先生が日本政府を強い口調で批判した。どんなことがあっても、戦争はしてはいけない、と反戦の精神を植えつけられてきた。日米安保条約なんて、そんなものに関係するな、要らない、邪魔だ、危険だと思うようになった。世界の中で、理想的な平和国家の建設をわが国は目指しているのだ、と思っていたのに、何だか可笑しいことになりかけている。世界平和絶対主義者の私は、未熟ながらも、なんじゃ、こりゃ、と不可解だった。
新聞では、米国政府はこの戦争の正当性を主張し、日本政府は米国の主張を是認、米空爆機からの爆弾の雨霰《あめあられ》状態の投下、ベトコンたちの地上戦、米原子力空母(エンタープライズ)の日本での寄港に反対するデモ、街頭での過激化する反戦デモ、こんな記事が踊っていた。世界から、共産主義や社会主義化する国家をつぶすためだったのだろう。南ベトナムに傀儡首相(グエン・カオ・キ)を立てて、反政府の社会主義者たちと戦わせ、最初は応援の心算だったのがドンドン主役に躍り出た。だが民族の誇りを賭けて立ち向かう敵には、危険な武器を幾ら大量に使っても、勝てなかった。果ては、逃げるように退却させられてしまった。米軍の最後のヘリコプターが、危機一髪、領事館らしき建物の屋上から飛び去った光景は、印象的だった。ベトナムの民族自決の勝利だった。
そこで、米国側からよくよく登場したのが、ロバート・マクナマラ国防長官だった。
1961年から1968年、私が中学三年から大学に入学するまでの期間のことだ、ケネディ大統領からジョンソン大統領の時代に米国の国防長官を務めた。私が、自分の人生の中で一番、感受性が高かった頃だ。不本意に他人を傷つけたこともあったろうが、一番傷つき易かった時期でもあったのです。ベトナムに戦火が始まったのは、ケネディの頃だった。自動車のフォードの社長になったばかりに、ケネディから要請を受けて国防長官に就任したとある。人気があって支持率の高かったケネディは、この戦火を鎮火させる前に、テキサスで殺された(私が中3の時)。
私は、マクナマラの名前を聞く度に、あの怖い顔を思い出します。冷酷な奴だった。主義主張が異なるからといって、異なる思想の人間たちを殺すことを命じるなんて、この国のリーダーたちの非情、不条理が理解できなかった。当時、この世で一番憎らしい男だった。ジョンソンの顔も怖かった。
米国より派遣された軍人は最大、53万人にのぼった。南ベトナム政府の反政府軍、ベトコン(南ベトナム解放戦線)との戦闘には、北ベトナム政府の関与があるとの理由で北爆を開始、拡大し続けた。手段を選ばぬ戦法と、化学兵器の多用。生物兵器も使っていたかもしれない。その後、1972年、私が大学4年生だった時、12万人の北ベトナム軍の大攻勢に米国、南ベトナム政府軍は敗走。米国は初めて経験した軍事的敗北だった。フィリピンでは勝ったかもしれないが、朝鮮半島では引き分け、ベトナムでは完敗。もう戦争で、ことをおさめようなんて不可能な時代になっていることを世界のリーダーは認識しなければならない。イラク侵攻においては、双方に甚大な被害を被りながら、何とも言えぬ失笑モノで終幕しそうだ。戦争が失笑モノで許されるか?理不尽なベトナムへの軍事的介入によって、米国は5万8000人の犠牲者が出た。朝日新聞の天声人語によると、この戦争を「マクナマラの戦争」と呼ばれた、と書かれていた。
ベトナム戦争は、1973年米国とベトナム社会主義政権がパリ和平協定を締結した。
国防長官を辞めた後、晩年まで貧困解消・核廃絶に取り組んだ。
そのマクナマラ元国防長官が、6日死去したことを、7日の新聞が報道した。享年93歳。
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20090708の朝日・朝刊
天声人語(一部)より
贖罪の意味をこめてだろう。晩年は沈黙を破り、回顧録やドキュメンタリー映画で「ひどい過ちを犯した」と率直に語っていた。人生で得た教訓の一つが「人は善をなさんとして悪をなす」だったという。5年前、かってベトナム反戦の中心だった母校カリフォルニア大バークリー校に招かれた。そして「人類は20世紀に1億6千万人を殺した。21世紀に同じことが起きていいのか。そうは思わない」と力を込めた。深い悔恨をへてたどり着いた、重い確信だったに違いない。