2012年9月25日火曜日

きんぴらって?

20120924 今日は私の64歳の誕生日だ。

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先日、山田農園主から頂いた冬瓜(トウガン)を、どのように料理すればいいのか悩んでいた。冬まで保存がきくので冬瓜と言われているらしい、それなら、まあ、いいか!と食料棚にしまったままにして置いたが、流石に何とかしなくちゃイカンと、ネットで冬瓜の料理レシビを見た。

杏仁美友(きょうにん・みゆ)さんのコーナーに着目した。

冬瓜は利尿、解毒。美白に効果のあるすぐれた野菜だと紹介されていた。今の私の健康状態は、オシッコはちゃんと出るし、解毒作用が低下しているとも思えない、美白は必要ないが、これだけいいことが書かれていれば、嬉しくなる。中国では生薬だ。誰だって、急に体の調子が悪くなることだってある。野菜に感謝、野菜の神様に感謝。得(とく)をしたような気分だ。

冬瓜の果肉はあんかけに、果皮はきんぴらに、ワタは味噌汁にと、捨てるところがないと書かれていた。このときに見た、「果皮はきんぴらに」の文節が頭に残った。

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根っこをきんぴらにするとおいしい山形赤根ホウレンソウ

 

そして昨日のこと、日経新聞・文化欄で写真家の東海林晴哉氏が「野菜の味な姿 撮ったぞ」(山形・庄内の在来種を写真に、けなげさ守りたい」で、山形赤根ホウレンソウ、上山市の金谷ゴボウ、鶴岡市小真木の大滝ニンジン、月山山麓、櫛引地区の宝谷カブやその他の野菜を写真に撮って、野菜の歴史や文化をかみしめ生産者の喜びや苦労を伝えたい、という記事のなかでも、きんぴらがでてきた。

少し本題から脱線するが、前の写真家の東海林晴哉氏の苗字の読み方は「トウカイリン」さんで、「赤城の子守唄」の歌手・東海林太郎さんは「ショウジ」さんだった。子どもの頃、なんで東海林がショウジと読むのか不思議だった。

今日も10時ころから、夕方6時まで、経営責任者の中さんと二人は、スタッフが仕入れを検討中の中古住宅を見て回った。横浜港南区、鎌倉、茅ヶ崎、藤沢、大和を過ぎて横浜青葉区、川崎市麻生区だ。

中さんは、効率よくコースを選んで運転をする。物件ごとにあらゆる面から分析をする。互いの意見を交換する。中さんにはスタッフから、何かと相談の電話や決裁を求めてくる。

私は後部座席で、物件のことについてはそれなりのコメントをするが、道路網も不案内なので、ほとんどの時間を、新聞を読んだり居眠りをさせてもらっている。ぼけっと思いにふける。

そんな車中、無為無聊(ぶりょう)の私は「中さんよ、きんぴらゴボウのきんぴらと言うのは、なんや?」と話しかけた。私はメニューの名称の一つとしてきんぴらゴボウしか知らなかったのだが、話していて、どうもきんぴらとは料理方法のことらしいと気づいた。ゴボウをきんぴらにするからきんぴらゴボウだ。

きんぴらとは、材料を細く切って、醤油と砂糖や日本酒を入れて炒めることだと知った。材料には、ゴボウ、ニンジン、レンコンなどの根菜が一般的。鷹の爪や胡麻なども混ぜる。きんぴらゴボウは私の大好物の一つだが、他のきんぴらは食ったことがなかった。

それなら「きんぴら」の語源は? 中さんは得意のスマホで、語源由来辞典を調べてくれた。

元は、江戸時代に人気のあった「金平浄瑠璃」の登場人物の坂田金平(きんぴら)にあると言われている。金平は足柄山の金太郎として有名な坂田金時の息子。金平は親譲りの剛勇無双だった、それで強いものの例えに使われるようになった。金平糊とか金平足袋などとしても使われている。

そしたら、ヤマオカさん、ヤクザのチンピラはきんぴらからきてるんですかね、と中さんが言い出した。

すかさず、スマホで調べたが、この二つの言葉の関係を知るヒントは得られなかったが、中さんが言い出したことは、それなりに当を得ているように思われるが、いかがかな?

きんぴらは強いもの、丈夫なもの、立派なものに例えられ、チンピラは一人前でもないのに大人ぶったり、大物を気取って大きな口をきいたりする者を軽蔑した言葉だ。

2012年9月23日日曜日

いいのか政党乗り換え

威勢がよく、行け行けドンドンの「日本維新の会」、いまいちよく分からない。

党内がごじゃごじゃで綱領をもたない未成熟な民主党、この党こそ選挙互助会だったのではないのか。

政権を明け渡してから、どれだけ政策の練り直しができているのか、不安だらけの自民党。

風が止んで帆が張れない、難破寸前のみんなの党。

政治生命が絶たれた小沢一郎の国民よりも自分が第一?とか。日本の政治の世界はしっちゃかめっちゃか、悪夢を見ているようだ。

それに、真面目な公明党、未だに共産を冠名にして憚(はばか)らない共産党。

昨日、長い付き合いの友人・和民さんと、つけ麺を食ってコーヒー飲んで、日向ぼっこをしながら、今の政界、経済界、日本の歴史について話し合った。彼との無駄話はいつも楽しい。

現在の日本の政治について、政党や国会運営、(議会制)民主主義について「歴史」が重要やなあと二人は合点した。民主主義が発達すれば発達するほど、民意のオサメドコロは難しい。

「決められない政治」などと安易に言う前に、民主主義とは何かという根源的な問いに、ルソーは社会契約論の中で現代の課題に示唆しているという内容の記事を昨日の日経新聞・文化欄で見つけた。その記事の都合のいいとこだけ抜粋させてもらった。

ルソーは人間の基本的な権利を守るために個人が国家と取り決めを交わす「社会契約」の考え方を説いた思想家の一人だ。その際、社会全体の利益を目指す人々の総意を「一般意志」という概念で説明したことはよく知られている。「社会契約論」には「国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけだ」(中山元訳)とある。

「社会契約で合意した個人は(契約に)縛られる。一般意志を守るためには、自分が正しいと考えることが必ずしも実現しなくても仕方ない」(金沢大学仲正昌樹教授)。公共性のために人々の自由をどこまで制限できるかというのは現代的な課題だ。

「例えば脱原発が一般意志ならば、電力消費を抑えるために不便な生活に耐える義務が生じることをどう考えるのか。公共と個人の利益が相反する問題に向き合うときにルソーの思想は考えるポイントを示してくれる」と仲正氏は言う。

 

政治家が育っていないことに、先ずは不安をもつ。

そんな話をした後の、本日20120923の朝日新聞の社説だ。

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20120923

朝日・社説

いいのか政党の乗り換え

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政党とはなんだろう。そう考えさせられるようなことが、また起きている。

民主、自民の2大政党の党首選のさなか、両党の比例区選出の衆議院2人がそれぞれ離党し、新党「日本維新の会」に合流する意向を示した。

これで、維新の会に参加する見通しの国会議員は民主、自民、みんなの3党の9人になった。このうち、6人が衆院と参院の比例区選出だ。

参院比例区では候補者名の投票もできるが、基本的に政党への投票だ。そこで当選した国会議員が、ほかの党に移ることが許されるのか。

そう思う人も多いだろう。この疑問には維新の会を率いる橋下徹大阪市長がネット上でこう答えている。

「日本維新の会は新党なので、政党間移動にはあたりません。比例議員が新党をつくるのは許されています」

その通りである。00年の国会法改正で、比例区選出の議員が別の党に移ることが禁じられた。一方、その議員が当選した選挙の時にはなかった政党への移動は許されている。

ただ、いくらルール違反ではないといっても、みずから一票を入れた政党を踏みにじるような国会議員のふるまいに、釈然としない有権者も多いのではないか。

新たに維新に合流するという民主党議員は、野田首相の社会保障と税の一体改革の進め方を「評価できない」と語る。

維新の会が掲げる「八策」には共感できる、23日に予定されている維新の会の公開討論会で意見をぶつけてみたいという。

だが、どう言葉を連ねても、結局は近づく選挙を前に、人気の高い維新の会という看板に飛びつこうとしている。そう見られてもしかたあるまい。

それは、選挙区選出の議員にしても、同じことだ。

維新の会に対し、既成政党からは「選挙互助会だ」という批判が出ている。

もっとも、民主党をふくめ離合集散を繰り返してきた日本の政党史を振り返ると、多くの新党にそうした側面があったことは否めない。

党員を集め、綱領や政策を練り、政治家を育てていく。政党がこうした地道な努力を怠ってきたから、議員は党首に「選挙の顔」の役割ばかりを求めたがる。所属する政党が劣勢と見るや、さっさと新しい政党に乗り換えていく。

こんなことでは、政党はますます弱り、政治が細っていくばかりだ。

2012年9月22日土曜日

今夜はサンマを食うゾ

ビジネスマンとしては不謹慎だが、出社してそのままコンピューターの前に座って、マイブログを綴っている。

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出勤途中の電車の中、新聞でサンマの記事に目を奪われ、どうしても秋刀魚を食いたくなった。大根は、昨日買ったものがある。

近くの横浜屈指の松原商店街で、連夜の晩飯のための秋刀魚を2、3匹買おう。冷凍であろうが、今漁(と)れたばかりのモノであろうが、そんなもの構うモンか。値段次第では少しでも多く買おう。連夜、食うんだ。猛烈に秋刀魚を食いたくなった。

太平洋側の秋刀魚の群れは、春から夏にかけて、餌を求めて北上し、一部は産卵してオホーツク海から樺太に達する。8月末から水温が低下するにつれて南方に向かう。

千島列島、北海道・道東から三陸海岸沖を南下、千葉・銚子沖を抜けて沖縄諸島付近まで回遊する。日本海側でも同じように日本列島に沿って南下する。1年半前の東日本大震災で荒れた沖合いをしんみりと泳ぎ過ぎたのだろう。魚の表情をよむのは難しい。

ネットで秋刀魚のことを調べていたら、この魚の寿命は1~2年?程度で、通常2年で30~40センチに成長する。寿命は2年。大群を作って移動する。漁獲法は、棒受(ぼううけ)網を用いる。これは、集魚灯で魚群を集め、その下に敷いてあった網をすくいあげて捕獲する。水揚げの際、鱗はほとんど剥がれてしまう。秋刀魚は傷つき易い魚だが、この漁法だと傷つけなくて捕獲できる。

気になることも書いてあった。それは、①生存したままでの捕獲が極めて難しいとのこと、②餌を食べて排出する時間が30分程度と短いため、内臓にえぐみが少ないこと、③「秋刀魚が出ると按摩が引っ込む」ということわざがあるが、按摩を引っ込ませるほど滋養があるということ、④食べる際の焼き方は、強火で遠火がいい。

 

子供の頃から、鰯(イワシ)、鯵(アジ)、秋刀魚はどれも同じように好きだった。鰯の小さな奴を丸ごと食って祖母から褒められ、その後この3種の魚を骨ごと丸々食うようになった。今でも、大きな鯵以外なら、大きな鰯、大きな秋刀魚でもきちんと完全に食う。頭も骨も尾も。大きめの鯵は骨が堅く、どうにもこうにも歯が立たない。

20年程前のことだ、プロスキーヤーの三浦雄一郎氏の父親で山岳スキーを極めた三浦敬三氏の食生活の様子をテレビで観て、私は丸ごと食い続けることに確信を深めた。90歳を過ぎての独り暮らしの氏が、魚ではなく鶏の骨付きを圧力鍋で煮て、骨ごと丸齧(かじ)りしている映像に影響を受けた。食事風景は鬼気迫る雰囲気だった。

少し前の新聞で、老人こそ肉類を食いましょうとの記事を読んだ。それは、貧血や骨粗しょう症の予防のためだと書いてあった。

氏は70歳のときにヒマラヤ、77歳のときにキリマンジェロをスキーで滑降した。88歳のときには、アルプス・オートルートをスキーで完全縦走を果たした。

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子供の頃、父からお頭(かしら)になりたければ頭を食いなさい。王さんになりたければ尾を食いなさい、と言われて育った。交通不便な山村では、魚は干物が主で生ものは貴重だった。冷蔵庫などなかった時代のことだ。孫には、目が良くなりたければ目を、お腹が強くなりたければお腹を、上手に泳ぎたければ、頭も口も、鰓(えら)も骨も、尾もみんな食おうと話している。

 

追記

買ってきた秋刀魚は5匹 350円。値段が廉いので当然と言えば当然の話し、痩せていて脂がのっていない。私にはこれで十分だ。風邪をこじらせていた同僚の短君に、精をつけるようにと2匹あげた。

2012年9月21日金曜日

白癬菌にやられた

20120919水曜日、今日は弊社の営業部の定休日だ。

朝06:00、イーハトーブの果樹園で、気まぐれに強く弱く降る雨の中、栗拾いをした。栗の木が2本あって、早生(わせ)の方は2週間前に収穫を終えた。実は大きくてお裾分けをして喜ばれた。

今日の栗拾いは晩生(おくて)の方で、この栗の実は早生の方よりも小さく、今年に限っては一段と小さかった。熟しかけた無花果(いちじく)の実をもぎってそのまま食った。空腹には快く甘い。それでも5キロぐらいは収穫できた。これは、誰にもあげないで、自分で全部食うことにしよう。

それから、本日のメインイベントは、11:00に皮膚科の診療所に行くことだ。

約2年前のこと、恥ずかしいところの裏側に痒みが発生した。当時、公私に狂ったような生活をしていてその処理を疎(おろそ)かにした。まさか、その痒さとその後長い格闘の日々になろうとは、想像もしなかった。この痒さに過去の懐かしい記憶を呼び覚ました。高校生の頃だ。その痒さが恐ろしいことも十分知ってはいたのに、不規則で乱れた生活は私を無防備のままに、律して治療をしなかった。

痒さなんかに負けられないと自力で完治を目指した。でも私にできることは少ない、株式会社近江兄弟社の「メンソレータム」、「メンターム ペンソールSP」や株式会社池田模範堂製造の「ムヒ」とかの痒み止めの薬を塗布、擦り込むことぐらいだった。大洋製薬株式会社の「オキシドール」で殺菌も試みた。一時的に痒みは消えても、そう簡単に完全には消えない。

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腕にできたタムシ(wikipedia提供)

 

そのうちに、痒みは恥ずかしいところの裏側から臀部に登ってきた。肛門の周辺ではなく、肛門を守る左右に丸く肉が厚い部分に痒みが移動してきた。顔なら頬っぺたの部分だ。肛門の近くなら、早い目に降参しただろうが。その臀部の厚みのあるところが、椅子に座っても、車の座席に着いたときにも擦れて、穏やかだった痒みが勢いを増してくる。段々耐えられない痒みになって、掻く、メンソレータムを擦りつける、勢いが衰えるのを待つ。

そうこうしているうちに、痒みが今度は腰の背面の部分に移動した。

最初のうちはトイレの中でやっていたことが、この頃になると、もう人が居ようが居まいがお構いなしに、会社の自分の机の前でズボンを脱いで、パンツを膝まで下げて、メンソレータムを擦りつけるようになってしまった。行儀も礼儀も、へったくれもあるもんか! 鈍感になってしまった。

この2年間で、人間が人間であるための尊厳の1つ、羞恥心を失ったようだ。

ここにきてやっと降参を覚悟した。自力で市販されている第3類医薬品を擦りつけるだけでは、治すことができないと諦めたのだ。

女医さんだったら、嫌だなあと思いながら近くのヒフ科の診療所に行った。医師の診察の前に女の看護師さんに予め症状を聞かれた。顔から火が出る思いで、パンツを下げて、彼女の顔の前に尻を突き出した。どこからこんな勇気が湧いてきたのだろう。

よくも、こんなになるまで辛抱しましたね、と医師から褒められた。患部の上皮をへらのようなもので採って、顕微鏡で調べた結果、これはカビです、陽性ですと温厚なお医者さん。

白癬(はくせん)菌というカビです。このカビは、インキンになったりタムシになったり、水虫にもなるんですと言われ、なんだ、インキン菌(子供の頃から私は、このように呼んでいた)なら、医師よりも馴染みにおいては私の方が上だ。発症直後から、この痒みに懐かしさを感じ取っていたのだが。

ここで、一つ謎が解けた。

一帯の痒みから30センチ程離れたところに、子どもの頃の飛び火のように、点々と痒みが発生するのが不気味だった。今回の検査で原因がカビだと教えられ、それなら種や胞子が風に吹かれてあちこちに萌え出すのと同じではないか、と納得した。

処方箋による薬を調剤薬局でもらって、患部につけると、驚くほど効くではないか。今までの私流の治療に要した膨大な時間はなんだったんだ!

ご心配をお掛けした会社の皆さん、もう少しで治りそうです。ご迷惑をお掛けしました。

2012年9月19日水曜日

ネット、ゲームが子どもを蝕む

 

柳田邦男さんの著書=『「人の痛みを感じる国家」の中の(情報の毒性は脳を直撃する)』の中で、精神科医で著作家の岡田尊司氏の著書=「脳内汚染」の一部を柳田氏が整理・要約したものを紹介していた。ゲームやネットに漬かり切ると、脳が壊れるというのだ。

私は何かにつけて晩生(おくて)で、それに不器用で、理解する反応が他人よりも鈍いという特性があ・り・ま・し・て、新しいものには億劫で自然に尻込みしてしまう。子どもの頃から藪睨み的なところもあって、皆が群がることには冷ややかだった。私の子供たちも、私のことを気遣ってか、私の前ではゲームなど流行(はやり)の類は遠慮していた。この親爺がついてこられるのは、せいぜいタマゴッチ程度だろう、と思われていたのだ。

何を言おうとしているかって? それはファミコンからゲームボーイ、テレビにテレビゲーム、今はインターネットのソーシャルゲームが、子どもの心に与える影響の怖さのことだ。

今の子どもは、私の孫の世代だ。この孫たちがいい子になって欲しいと思うのは1人、私だけではない。

晩婚で、小学生の子どもをもつ私の友人が、息子のゲームに夢中になるさまを心配していた。心配していたのは友人だけではないだろう、この本の一部を関心ある大人たちに知らせようと思った。

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前頭葉の機能は、生まれつき本能のように備わっているのではない。

乳幼児期から児童期、青年期と続く体験の積み重ねによって、後天的に機能を獲得していくのだ。それだからこそ、ゲーム、ネット、テレビなどの刺激にたえずさらされていると、脳の機能が強い影響を受けることになる。

その具体的なメカニズムは、こうだ。

ゲームの場合、敵との戦いでやるかやられるかという状況に置かれると、交感神経から心臓をドキドキさせるアドレナリンが体内の血液中に大量に放出される。そして必死の戦いの後に敵を倒すと、達成感とともに気分を高揚させるドーパミンが脳内にドッと放出される。脳はこのようなドキドキする昂奮と強い達成感とを経験すると、もう一度その昂奮と達成感を味わいたいと欲することになる。そのことが繰り返されていくと、同じ刺戟では昂奮と達成感をあまり感じられなくなり、もっと強い刺戟を求めるようになる。麻薬中毒の習慣性と同じ反応が起こるのだ。

ゲーム製作者は、ゲーマー(ゲームで遊ぶ人)ができるだけアドレナリンやドーパミンを放出させるような作品を製作するように、日夜知恵を絞っているという。

〈われわれは、毒性をもったものというのは物質的なものだという先入観をもっている。だが、それはもう過去の時代の話である。高度情報化社会においては、情報というデジタル信号も、物質的なものと同等以上に毒性を持ちうるのである〉

情報の毒性には、さらに恐るべきことがある。物質の毒であれば、血液に入っても、血液脳関門(ブラッド・ブレイン・バリアー)と呼ばれる組織(いわば濾過膜)によって、脳内に入るのを防ぎ、脳の神経細胞を守る仕掛けがある。しかし、情報は信号であって物質でないから、眼や耳から入ったら、何のバリアーもなく、ストレートに脳を直撃することになる。

こうして脳が情報の毒性に侵されると、その子どもの心にどのような影響が現れてくるか、その主な変化を挙げると、次のようになる。

①我慢しようという意思がなくなる。

②行動する際に、どちらにしようかなどと迷ったりする緊張感がない。

③他者に対する共感性が欠ける。

最近の若者や少年の心の発達の未熟さがしばしば語られるが、とくに具体的に強調されるのは、中学生くらいになっても、心の発達は6~8歳止まりになっているということだ。

それでは、6~8歳の子どもは、どのような特徴をもっているのか。

①現実と空想の区別が十分でなく、結果の予測能力が乏しい。

②相手の立場、気持ちを考え、思いやる共感能力が未発達である。

③自分を客観的に振り返る自己反省が働きにくい。

④正義と悪という単純な二分法にとらわれやすく、悪は滅ぼすべしという復讐や報復を正当化し、その方向に突っ走りやすい。

⑤善悪の観念は、心の中に確固として確立されたものではなく、周囲の雰囲気やその場の状況に左右される。

このような心の未発達な少年が、ゲームやビデオで殺害、死体、強姦などの凄絶な映像を見てしまうと、そのシーンが記憶に強烈に焼きつき、逃れられなくなる。

2012年9月18日火曜日

公用語で、末期?高齢者って?

20120917、今日は「敬老の日」だ。

私は1948年(昭和23年)生まれなので、今月の24日で64歳になる。64歳になっても、分類上はまだただの老人だ。強いて冠をつければ初老ってとこか。医師の日野原重明氏の提唱する新老人会のジュニアの会にも入れてもらえない。

私たち1948年の前後の年に生まれた人たちを含めて団塊の世代と言われてきた。

総務省が「敬老の日」に合わせてまとめた15日時点での推計人口によると、65歳以上の高齢者人口は3074万人で過去最多だ。日本の総人口(1億2753万人)に占める高齢者の割合も24,1%と過去最高を更新した。このような記事を20120917の日経新聞で読んでいて、65歳以上がどうも高齢者扱いになっているようだ。

ちなみに65歳~74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者、85歳以上を末期高齢者という。この評判の悪い区分名については、未だに変更されていないらしい。そうすると、我輩は否が応でも、来年から前期高齢者になるわけだ。

 

1ヶ月程前のことだ。

弊社の経営責任者の中さんと、彼が入院中に病院の近くで見つけたラーメン屋さんに行った。その店は横浜市神奈川区、昭和30年から40年代によく見かけた懐かしい時代モノだ。私の幼少期 always 三丁目の夕陽の世界だ。面白い店を見つけたので行きましょうよと連れて行かれた。店内の壁・天井は油がびっしりで黒光り。カウンター席とテーブル席合わせて10席ほど。クーラーがない。夫婦と思われるオジサンが作って、オバサンはオジサンの料理の手伝いをしながら出来上がったものを客席に運んでいた。このオジサン、年齢は私より少し先輩のようで、静かで我慢強そうな男だった。

私らはラーメンと餃子のセットをそれぞれ食った。ラーメンは380円で安い。醤油のスープで、ファミレスでは味わえないこくのある深い味わいだった。餃子も美味かったが、私の感覚では少し高かった、5個で360円なり。

オジサンの顔から大粒の汗が滴り落ちていた。客は5人。私ら2人と、同じ会社の仲間と思われる同じ作業服を着たおじさん2人、この2人は入ってきて即、メニューをオーダーしたので常連さんのようだ。

もう1人、私たちの隣に座っていた客が、これから前の病院に行くんだよ、目を診てもらいに来たんだ、とオバサンに話しかけた。暑いなあ、ええ、とっても暑いですねと交わしながら。

話しかけられたオバサンは、「あなたはラーメンを食べていなさいよ。私が診察券を出してきてあげるから」。それから、オバサンが言った言葉が強い衝撃で鼓膜を揺すった。

「私も目が見えないんだけどさあ、何とかなるよ、診察券を出しなよ。出してきてあげるから」。前の病院といっても、片側3車線で道幅は40~50メートルの向かい側にある。横断歩道や信号はあっても車がビンビン走っている。オバサンの目に、外観からは異常は認められない。オジサンの調理の補佐は手慣れている、何ら不思議はない。なのに目が見えないなんて、それに、代わりに診察券を出して来てやるなんて。オバサンの言葉には微塵も億劫を感じさせない。この聖なる献身ぶりは、どう理解すればいいんだ。

「そうかい、でもいいよ。ラーメン食ってから、ゆっくり行くよ」と言って、それから、今度はおじさんが自分のバッグから手帳のようなものを取り出しながら発した言葉で、又、私たちはぎくりと目を見つめ合った。

「俺は、末・期・高・齢・者だからなあ」と言って、オバサンに保険証のようなものを見せた。

「ヤマオカさん、末期高齢者って、そんな言葉をホンマに使われているのですかね。本当にあるんですか?」。私に聞かれても答えられなかった。そんな疑問を抱きながらラーメンを啜り終え、車に乗ってから中さんがスマホで調べたら、「ありましたよ、ありました。末期高齢者というのが、ありました」。

へえ!! こんな無味で乾燥した言葉を公用に使う役所の無神経さに感心させられた。

末期高齢者の保険証を持つ客、目が見えないと言いながらも仕事に励み、且(か)つ、他人の診察券を変わりに受け付けてきてやろうと申し出るオバサン。オバサンとマッキコウレイシャの会話を何も言わず静かに見つめるオジサン。

小さな煤(すす)けたラーメン屋さんでの感動的なひと時でした。

2012年9月12日水曜日

堀江謙一と、石原知事と本多勝一

 

サンフランシスコに到着した「マーメイド号」

 

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堀江謙一

 

8月12日の朝日・天声人語は、堀江謙一さんが1962年22歳の時、小型ヨット「マーメイド号」(長さ5、8メートル幅2メートル)で、太平洋を単独横断してから50年が経つことを記念した内容だった。

堀江さんは1938年生まれだから、私よりもちょうど10歳年長の73歳だ。

当時ヨットによる出国が認められず、西宮港を深夜、二人の友人に見送られ、密出国の形で出航した。法に堅くるっしい日本では非難の砲火を受けたが、到着した米サンフランシスコでは、市長が「コロンブスもパスポートは省略した」「コロンブスが強制送還されていたら、今日のアメリカは存在しなかったではないか」とパスポートを持たない堀江氏を、責めるどころか名誉市民としてその快挙を褒め称えた。

市長の陰には元米大統領のアイゼンハワーがいた。元大統領は、アンポ、ハンタイのデモが荒れ狂う日本に、訪日もままならぬ屈辱を噛みしめながら、日本の若者のために、と市長に助言した。

こんなことを思い出しながら天声人語を読んでいたら、どうしてもある人物の顔がチラチラする。この人物こそ、今、何かにつけて話題の東京都知事の石原慎太郎氏のことだ。

堀江さんが1974年に「マーメイドⅢ号」で世界で2番目に単独無寄港での世界一周航海を270日余りで成功させたことに、余計なイチャモンをつける男・石原氏が登場した。結果、この男は赤恥をさらした。「週刊プレイボーイ」(1975年の11月25日号)で、こともあろうに、堀江さんの偉業を可能性があり得ないものとして非難したのだ。

本多 勝一 | アルバム      石原慎太郎

本多勝一            石原慎太郎

石原発言は次のようなものだった。「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対やっていないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスのロビン・ノックスが312日間、チャイ・ブロイスーーーーーー」。

さらに、石原氏は堀江さんが世界一周を終えて日本に寄港寸前に、朝日新聞社のヘリコプターがヨットの堀江氏から航海日誌を吊り上げたことを、これは検疫法違反だとイチャモンをつけた。些少なことに口出して、目立ちたがる。

石原氏は当時衆院議員で渡辺美智雄や中川一郎、浜田幸一らと「青嵐会」を結成。血を滾(たぎ)らせ、金権政治を批判、憲法改正を謳っていた。

これらの石原発言に噛み付いたのが、当時、朝日新聞・編集委員だった本多勝一氏だ。徹頭徹尾、堀江氏を擁護した。本多勝一氏の少し過ぎた評論(こんな書き方をしたら、氏から叱られそうだが)を全て洩れなく読んでいた時期だったので、此の件はよく憶えている。

堀江氏に対しては1発目の太平洋単独横断では、旅券法違反だと批判轟々。そして2発目の世界一周単独無寄港では一度目は出航して間もなくマストが折れ、マスコミは中傷非難した。そして再度のチャレンジで成功しても、石原氏は恰も、堀江氏がウソをついたかのようにイチャモンをつけた。

堀江氏のような日本的価値観では理解を絶する冒険に対して、日本は、日本のマスコミは非難や攻撃を加える習性があるらしい。太平洋単独横断にさいしての日本のマスコミの非難、批判の激しさと馬鹿馬鹿しさは、石原的日本人の本質にかかわると、本多氏は取り上げた。

石原氏はよく冒険のことを口にはするが、真の意味での「冒険」を理解できないようだった。その後は、このような馬鹿なことは言ってないと思われるが、自分の発言についてのコメントを聞いてみたい。

石原氏が取り上げた検疫法違反についても、無寄港というのは日本を出て日本に帰ってきただけなので、検疫法には抵触しない、と。

両氏には失礼だが、私には痛快!面白かった!。本多氏が完璧に石原氏をやっつけた一幕でした。

 

20120812

朝日・天声人語

大志を抱け、というわりには「青年の向こう見ず」に世間は寛大ではない。堀江謙一さんがヨットで太平洋単独横断を成したときもそうだった。日本では快挙を讃えるより、無謀だの密航だのと難じる声が目立った。いつの時代も、出る杭は打たれる。

正規の出国に手を尽くしたが、冒険航海にパスポートは出なかった。やむなく夜の港からこっそり出航する。94日の航海ののち、米サンフランシスコに到着して、きょうで50年になる。

米国では密航扱いどころか大歓迎された。つられるように国内の空気も変わる。一躍時の人になったのは戦後昭和史の伝説だ。冒険や探検を大学などの権威筋が牛耳っていた時代、それとは無縁な一青年の「大志」は新しい挑戦となって羽ばたいた。

『太平洋一人ぼっち』を読み直すと、ミッドウエーあたりの記述が印象深い。「夕陽がからだをいっぱいに包む。長い黙祷を捧げました。---多くの海の先輩たちが散っていったところなのだ。---ぼくはいま花束を持っていない。許してください」。戦争の記憶はまだ色濃かった。

振り返るとその年には、国産旅客機YS11が初飛行し、世界最大のタンカー日章丸進水している。高度成長の矛盾を抱えながらも青年期の勢いがこの国にあった。

73歳になった堀江さんは、4年前にもハワイー日本を単独で航海した。なお現役の冒険家は、特別なことはせずに記念日を過ごすそうだ。青年の気を忘れぬ人である。懐旧に浸るのはまだ早いらしい。*

2012年9月10日月曜日

これや!ザック・ジャパン

サッカーマガジン編集長の北條 聡さんが、20120906日経新聞のスポーツ欄で、最強FCバルセロナ攻略法として、三原則を提案していた。

11-12 バルセロナ ホーム ユニフォーム NO.10 メッシ  オサスナ09/10 ユニフォーム ホーム半袖

FCバルセロナ                  オサスナ

 

この文章を読んでいて、視線を日本代表に向けると、元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が、まさしく代表チームに言い続けていたことだと理解した。北條氏とオシム氏は切り口は違うが、その内容は同じだ。それがここに至って、ザック・ジャパンの実力の下支えになっていると、私は思っている。

北條 聡さんの文章をそのままここに転載させてもらって、文章を吟味しながらザック・ジャパンを考えようではありませんか。

オシムは在任中、走れ、走れと言い続けた。

高い位置での守備を懸命にやる、そこでボールを確保できたとしたら、一気にチャンスが生まれる。中盤での動きを活発化することで、相手のパスをカットしたりコースを狭(せば)められる。下がるなとは高い位置を陣地(兵隊を多く集める)にして攻撃の基点とする。離れるなとはマークをしっかり抑えて、強制力を働かせるということだ。走り続けることで、数的優位を作る。数的優位に立つということは、当然、相手に数的優位を許さないことだ。これらの動きを忠実に正確にこなすためには、走って、走って、走り抜かないとオシムの要求を満たせない。

オシムのオジサンに教えられたことで、日本代表はかってよりも戦いやすくなっていることを理解して体得した。そのベースの上にザックの采配が重なる。

下の北條氏が認(したた)めた一文は、何もバルサ攻略だけではなく、普遍的なサッカーの基礎力水準表と考える。次の段階への課題は、これらの精度を高めることなんだろうが、そのことについては次の機会に記すとしよう。

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20120906

日経新聞・スポーツ

 

海外サッカー

バルサ攻略の三原則

下がるな、休むな、離れるな

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最強バルセロナ攻略法として、こんな三原則を提案したら、どうなるか。

1,下がるな(前進)

2,止まるな(無休)

3、離れるな(接近)

この3つを忠実に守るとバルサは思いのほか、苦戦する。そんなたくらみを実践した伏兵がいる。

オサスナだ。

バルサと同じスペインの地方クラブだが、侮るなかれ。昨季、バルサに3-2と競り勝っているのだ。

そして、今季の第2節で早くも対戦。1-2で敗れたものの、再び、三原則を守って、追いつめた。

バルサ最大の強みは、球を失わないこと。対戦相手は簡単に球を奪えない。それを前提にして対策を施すチームは少なくないが、オサスナは違う。球を奪えない?では、何とかして奪えるようにしてしまえば、有利になるのではないのか。逆転の発想だ。

なぜ、バルサは球を失わないか。数の優位をつくっているからだ。常に、2対1、3対2の局面をつくり、余った味方へやすやすと球を逃してしまう。

バルサ主義を植えつけたヨハン・クライフが「パスの流れは(フリーの)受け手で決まる」と話しているように、数の優位が保持の決め手となる。

逆に、数の優位が消えると、バルサが苦しくなる。1対1の争奪戦に持ち込む。そこが攻略の狙い目だ。

バルサを狭い空間に閉じ込め、人への距離を詰めて素早く仕留める。その仕事をやりやすくするのが、あの三原則なのだ。

前から順番にフリーの敵を捕まえ、パスの出す選択肢(受け手)を消していく。後ろで余った敵の攻撃陣はオフサイドの網にかける。すると、数の優位を失った球の持ち手が孤立し、1対1に持込みやすくなるわけだ。

1対1なら、オサスナも五角以上の勝負ができる。バルサを上回るフジカル(速さ、高さ、強さ)という長所を最大化できるからだ。接触必至の肉弾戦なら軽量級の多いバルサの面々から、球を奪いやすい。

こうしてバルサの長所を可能なかぎり最小化した。オサスナが、ほぼ互角に戦えた理由だろう。

一人でも三原則を破る者がいれば、無謀な試みになりかねない。覚悟と信頼、1対1なら優位という力量と自信が必要だ。オサスナには、それがあった。

玉砕を恐れぬ勇気の産物。オサスナと同じ志を持った刺客が続々と現れるのではないか。そんな予感に満ちたシーズンの到来だ。

自死文化の系譜

20120906の朝日新聞の社会面の記事に、札幌市教育委員会は5日(20120905)、同市の1年生の男子生徒(12)が同日朝、自宅マンションから転落して死亡したとあった。やっと小さな実になったばかりの青柿は、落下した。市教委によると、いじめを受けていたことを示すようなメモが見つかったという。

青柿たちの自殺はあまりにも悲し過ぎる。

嫌な記事だ。この数年こんな悲劇をもう二度と聞きたくないと何度思ったことか。でもその想いは儚(はかな)く、悲劇は続いている。自殺といじめの二つの問題を包合した現代版、悲劇だ。

何故、そう易々と子どもは自殺するのだろうか。大人の影響をモロに受けたのだろうが、それでは大人は?日本人とは?一体どうなっているんだろう。

子どものことだけではない、私の縁遠くない人も一昨年自殺した。初老の彼は事業の失敗を苦にしていた。年間自殺者は14年連続で3万人を超えている。

日本人には特有の自死文化が長年培われ、無防備な子どもは否応なしにその影響を受けたのだろう。人間という生きものは、生物学的存在であって、精神学的存在、また社会学的存在でもある。自殺に向かう仕組みや防止策は困難だ。

スクラップしておいた宗教学者で評論家の山折哲雄(やまおり・てつお)氏の文章を、此処でご披露したい。日本人の自殺(自死)文化といっていいような心的傾向性について述べられたものだ。

 

20120715の日経新聞・朝刊の「詩歌・教養」欄に寄稿されたものをそのまま転載させていただいた。

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危機と日本人

「自死文化」の系譜

思想に潜む「涅槃(ねはん)願望」

筆者・山折哲雄

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もっとも、自殺者3万人を超えるという声は、もう十数年のあいだずっとつづいていた。いじめによる自殺、集団自殺、芸能人や政治家による自殺、飛び込み自殺、ネットで自殺相手を探すゲーム感覚の若者たち。そして老人たちの孤独死。そのためか外国のメデイアなどで「自殺大国ニッポン」などと冷やかされる。そんなとき、ふと思うことがある。日本の文化にはもしかすると「自殺文化」あるいは「自死文化」とでもいったものが底流しているいるのではないか、と。

まず切腹による自死の伝統が目立つ。「平家物語」の源頼政、明治の乃木希典(まれすけ)、昭和の三島由紀夫などが思いつくが、それが殉死という形をとることもある。殉死については森鴎外や夏目漱石も関心をもち、小説にしている。もうひとつ、源平合戦の時代、負けいくさで追いつめられた平家の公達たちのほとんどは海に飛び込んで自死を遂げている。

江戸時代に流行する心中事件も見逃せないだろう。近松門左衛門の「心中物」が浄瑠璃や歌舞伎で大流行し、それが世間の心中事件を誘発している。一家心中、無理心中と、その種の悲劇は今日なお絶えることがない。戦争中には集団「玉砕」などというまがまがしい行動が発生した。捕虜になることを恥辱とみなしたからだ。これなども「自殺大国ニッポン」と言われる原因をつくったのだろう。

それで記憶に蘇るのが昭和2年(1927年) の7月、みずからの人生に終止符を打った芥川龍之介の自殺である。その死がときの世相に与えた衝撃は予想以上の広がりをみせた。一作家の自殺を、文学的な死、思想的な死として社会の祭壇にまつりあげたのだった。それはたんなる「自殺」ではない。思想的な「自死」なのだという主張である。だが、芥川龍之介が自殺したとき、それをいち早くとりあげ、「敗北の文学」として否定したのが宮本顕治だった。昭和4年のことだ。彼は「改造」の懸賞論文で1位をとり、戦後になって日本共産党の書記長になった。

宮本は、自殺は敗北であると断じ、その救済には社会の改造、政治の改造、国家の改造が必要であると説いた。あらためて思うのであるが、その論調が今日の私の目には、社会による支援、政治による支援、国家による支援、という掛け声と重なって映る。大量発生の自殺にたいしては支援のネットワークをつくり、政治的な支援の仕組みをつくれ、という声である。そしてその背後には「死(自殺)は敗北である」という世論と、生きよ、生きよ、という上から目線の合唱圧力がひかえている。ところが一方われわれの社会では、さきの芥川や川端康成の自殺、それに三島由紀夫の自殺などをいぜんとして熱く語りつづける傾向が止まない。そして気がついてみれば、3万人超の自殺者たちにたいしては人生の「敗北」のレッテルを用意して、人みな支援、支援と叫びつづけている。やはりこれはどう考えても均衡を失したおかしな現象ではないだろうか。

問題は、なぜそんなことになったのかということだ。この日本列島にはもしかすると、「自死文化」もしくは「自殺文化」といってもいいような心的傾向性が根づいているかもしれないという問題である。その背後にいったいどんな思想の核がかくされているのか。これはこれできわどい問いであるのだが、あえて一口にいってしまえば「涅槃(ねはん)願望」ということになるのではないかと私は思っている。「涅槃」とは釈迦の入滅を意味し、仏教に由来する言葉であるが、要するにローソクの火がゆるやかに消えていくように、生命の火を静かに燃えつきさせる願望のことをいう。生命の上昇する盛りが過ぎれば、あとは生命衰滅のリズムに我が身をゆだねるばかり、そのように実感する自然の願望のことだ。生きよ、生きよの一面的なイデオロギーによってすっかり忘れ去ってしまった、もう一つの郷愁のような生命感覚である。試みに、口ずさんでみよう。

散るさくら残るさくらも散るさくら

うらを見せおもてを見せて散るもみじ

2012年9月5日水曜日

「せどり」、私も思いついた

何とかオフなどの古本チェ-ン店で古本を安く買って、インターネットで高く売る。その差金が利ざやだ。この手法で、結構稼いでいる人がいることを、新聞やネットで知った。このように稼ぐことを「せどり」、彼らのことを「せどらー」と呼ぶらしい。月収30万円の凄腕主婦も現れているらしい。アルバイト感覚で小遣い分ぐらいは稼いでいる人は相当いる。

20120715の日経新聞で、このせどりの実態を知った。

このようなことに関心を持つ私にせどりの経験はないが、ここにニッチな商機はあるなあと感じていた。なんせ、私は何とかオフの常連で上顧客、105円コーナーの厳しいチェッカーを自負している。せどらーが仕入れるのは、大体この105円コーナーからだ。

一冊の本からどれだけの利ざやが獲得できるか、その多寡(たか)はよく分からないが、私にだって転売が可能な本を見つけることはできる。

古本チェーン店の何とかオフでも、何とか船でも、何処の店でも線香花火的に盛り上がっては消え、今じゃ誰もが見向きもしない本、出版社は一流でも耐え難いほど軽率な作家の本は、いつまで経っても売れないでいる。並んでいる本の60%がそのような本で、30%は一般的。が、残り10%の中によく探すと、本好きにとっては、手にとって読んでみたいと思う本があることは、ある。これこれ、こいつを見つけることだ

せどらー諸氏、ここで、大事なのは自分の趣味や好みに走ることなく、実質的にメシのタネになる本を探すことだろう。ーーーこりゃ、失礼しました、釈迦に説法だったかな。

私の理解できるテリトリーは文芸コーナーだがこの部門での仕入れは比較的難しいかも知れないが、文芸でも訳本、絵本や女性向けの本や雑誌には、掘り出し物、もっと仕入れし易い本があるらしい。このせどりを現実に行うには、広い視野が求められる。当たり前だ、稼ぐには人よりも沢山知恵を絞って、沢山体を動かさなくっちゃ。

古本屋を回って掘り出し物を見つけて、他の店で高く売って稼ぐ手法は江戸時代からあるそうで、「競取り」や「背取り」と呼ばれていたと新聞記事にはあったが、少し前に読んだ藤沢周平さんの本の名前は忘れたが、そのような内容のものを読んだことはある。

何とかオフ店はせどりとの共存共栄は認めながらも、やはり粗利を上げるためにセールを減らすと、インターネットの取り継ぎサービス屋はサービスの手数料を引き上げると、いうではないか。

せどらー諸氏、身に降る火の粉は払わにゃならぬ、健闘を祈って止まない。

アームストロング船長 追悼

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1969年、アメリカの宇宙船アポロ11号で、人類が初めて月面に降り立ったのは、私が大学2年生の時だった。

直ぐに、特集を組んだ週刊誌やグラフ雑誌が発売され、私は朝日グラフを買った。朝日グラフって今でもあるのかな。立ち読みのままではすまされなくて、食生活を脅かす思いも寄らぬ出費になってしまった。この類のグラフ雑誌を買ったのは生まれて初めてのことだった。

寮の万年布団に寝そべって、何度も眺め入った。先輩がその雑誌を持ち去り、人から人に回し読みされ、ボロボロになって手元に戻ってきた。それを、今回、本のダンボール箱の中を探しても見つからない。何処かで失くしたようだ。

8月25日、元自転車ロードレース選手のランス・アームストロング氏が、ドーピングで、ツールドフランス7連覇を含む全タイトルを剥奪、自転車競技から永久追放されたという新聞記事を読んで、何だよ、自転車競技界は。ドーピングまみれじゃないかと倦(う)んだりしていた。

腕っ節の強そうなその名前をよくも汚したもんだワと思っていた。

 

そして数日後には、今度はホンモノの腕っ節の強かったニール・アームストロング船長さんの話だ。

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アームストロング氏のポートレート=1969年7月

 

20120828

朝日・天声人語

「静かの海」と聞けば、天文小僧だった12歳の夏に引き戻され、胸が熱くなる。月に浮かぶ「餅つきウサギ」の顔あたり、1969(昭和44)年、ここにアポロ11号が着陸した。人類初の一歩は日本時間の7月21日、月曜日の正午前だった。

左の靴底でそれを刻んだニール・アームストロング船長が、82歳で亡くなった。名言「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」は、月面に着陸してから考えたそうだ。

10分後、着陸船のバズ・オルドリン操縦士が続く。眼前に広がる景色を眺め、、両者が交わした言葉もいい。「これ、すごいだろう」「壮大にして荒涼の極みだね」。人類初の月上会話である。

残るマイケル・コリンズ飛行士は指令船から見守り、はるか地球には米航空宇宙局(NASA)のスタッフたち。幾多の脇役と裏方に支えられ、「人類」を背負う重圧はいかばかりか。着陸時、船長の脈拍は156を数えたという。

以後、17号までのアポロ計画で、事故で引き返した13号以外の6回が成功。計12人が月面を踏んだ。しかし一番は永遠に一番だ。栄光を一人占めしたという罪悪感もあってか、物静かな船長は英雄視を嫌い、華やかな席や政界への誘いを拒み続けた。

静かな海の足跡は、人類史に刻まれただけではない。少年少女を宇宙へといざない、たくさんの後輩を育てることになる。東西冷戦、ソ連との競争の産物ではあるが、ここまで世界を沸かせ、夢を見させた一歩を知らない。

 月面を歩く

20120828

日経・春秋

「スペースシャトルの原寸大モデルをアメリカから運んできて、首都の中心に展示する国民は世界中探しても日本以外にない」。米国のジャーナリスト、ボブ・ウォードさんは「宇宙はジョークでいっぱい」(野田昌宏訳)で日本人への宇宙への愛着を、こう評している。

探査機はやぶさが小惑星イトカワから帰還した際の熱烈歓迎ぶりを思い返しても、確かにうなずける。この原点はやはり、1969年にあるのだろう。米国の宇宙船アポロ11号が送ってくる映像を日本中が 見守った。荒涼とした月面をスローモーションのようにふわふわ歩く宇宙飛行士と、闇に浮かぶ青い地球の神々しさ。

日本は高度成長期のまっただ中にあった。訃報が伝えられた船長のニール・アームストロングさんはまさに開拓精神を体現するアメリカンヒーローだった。同時に、無限の科学の発展を信じる日本人の英雄であったのかもしれない。日本政府は外国人に対して初めての文化勲章贈り、来日した際にはパレードで歓迎した。

日本人宇宙飛行士の野口聡一さんは、ツイッターで「月面初着陸のアームストロング氏、静かの海に還る」として、月を見ようと呼びかけた。「静かの海」は元船長が着陸した月面の平原の名だ。寝苦しい暑さが続く夜、しばし窓を開いて月を眺めながら、私たちに壮大な宇宙のロマンを見せてくれた恩人をしのびたい。

2012年9月3日月曜日

カワウソが絶滅種に

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カワウソの剥製(wikipediaより拝借)

 

学校を卒業して入社した会社の都合で、昭和51年に入社同期のほとんどの仲間と共に不動産関係の会社に移籍になった。私は当時大磯に住んでいたので、横浜の支店に配属になった。

仕事は、その会社が分譲する建売やマンションの買い替え客が、住んでいる住宅を売却してその資金を新しい住宅の購入資金に充当する、そのような客の買い替え物件を調査して、売却を担当するセクションのスタッフに組み込まれた。

日々の仕事は面白くてしょうがなかった。担当する物件がことごとく個性的なのだ。その面白さに現(うつつ)を抜かして、快適にサラリーマン生活を満喫した。

或る日、調査の指示を受けた物件が藤沢市獺郷の中古住宅だった。

私の国語の勉強の教本の全ては新聞だった。この話をし出すとエラク大変なことになるので、ここは割愛させてもらって、兎に角、新聞の記事ぐらいは理解できて、読み書きできるように努めていた。それが、入学や入社試験だけでなく、社会人として絶対必要なことだと思っていた。

回りくどい言い方だが、人並に文字や言葉、言語を知ることに真面目だった。人並みの知識ぐらいは身に付けなければならないと思っていた。その程度に漢字に興味をもっていた。

上司から貰った資料の「獺郷(おそごう)」という文字が、先ずは読めないことにショックを受けた。読み方だけは教えてもらって、ただ、その時はそれ以上の関心をもたなかった。目先の仕事に夢中だったからだろう。

そして、35年後のことだ。私はお世話になった会社を辞めて、中古住宅にリノベーションを施して再販する会社を経営していた。そこで、ダダダ、ダ~ン、再び獺郷の物件が出てきたのだ。

でも、私の感性は鈍いまま。「獺」の字を「おそ」と読むことは解ったがそれが、何を表すものか、漢字に関心があるなどと言いながら、深く調べなかった。

そして、今回、カワウソ君が絶滅種になったという新聞記事で、「獺」は、カワウソともオソとも読んで、カワウソのことをオソとも呼ぶことを教えられ、やっと理解したのだ。いつものことながら、一つのことを理解するのに、時間がかかり過ぎる。

それじゃ、かって藤沢市獺郷というところは魚が泳ぐ川や沼地が多い在所で、カワウソ君がたくさん、大いに楽しく過ごしていた村里だったのだろう。ザリガニやカエルもいた。そして獺郷と呼ばれるようになった。

ニホンカワウソが最後に目撃されたのは、高知県中西部の須崎市内の新荘川で、1979年8月のこと。須崎市は「かわうそのまちづくり」事業をはじめ、街おこしのシンボルにしてきた、と朝日新聞の記事で知った。

 地元、神奈川県藤沢市でカワウソを地名にしていることに興味をもつ。日本では藤沢市の獺郷だけなんだろうか。

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藤沢市獺郷

 

高知県須崎市よりも、藤沢市の方が早く都市化が進み、遠い昔にカワウソ君は村人の記憶の果てに消えたようだが、高知県須崎では、今でも、まだまだ市民の記憶の中に、愛嬌のある面影を残している。河童のモデルにもなっている。「非常に残念でさびしいが、市としては引き続きカワウソと共生できるような街づくりを進めたい」と須崎市企画課の課長さんは話した。

愛媛県は、ニホンカワウソを64年から「県獣」に指定している。

それにしても残念だ。

 

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朝日新聞。1979年6月に撮影されたニホンカワウソ=高知県須崎市の新荘川、全日写連高橋誠一さん撮影

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朝日・天声人語

今月19日、正岡子規の命日は糸瓜忌(へちまき)として知られるが、もう一つ「獺祭忌」(だっさいき)という呼び名がある。〈獺祭忌わがふるさとも伊予の国〉轡田幸子。「獺」の字はカワウソとも読む。

カワウソは多くの魚を獲り、祭るように並べて食べると言われ「獺魚(かわうそうお)を祭る」が春の季語にある。、子規は、書物を散らかし置く自分をカワウソになぞらえて「獺祭書屋主人」と号した。それにちなむ忌日の名だが、今年は故人が天上で線香を焚いていよう。

30年あまりも目撃がなく絶滅危惧種だったニホンカワウソに、とうとう環境省から「絶滅種」の判断が下された。昭和まで生息していた哺乳類の「絶滅種」は初めてという。開発など人為に追われての悲劇である。

最後に確認された高知県で、かってカワウソ探しの取材を試みたことがある。語り継がれる姿はどこかユーモラスだった。たとえば、川遊びをしていた子どもの股をするっと泳いでくぐり抜けた。

あるいは、麦わら帽子をかぶせようとしたら、おこってかみついた。漁師が川船で一服していたら、目の前の水面にポコンと顔を出して驚かせたーーー。そんな姿は、もう幻なのだろうか。

俳句には「豺獣(やまいぬけもの)を祭る」という秋の季語もある。豺とは狼のことで、やはり獲った獣を祭るように並べると想像されてきた。だが森の狩人だったニホンオオカミは、人に追われて明治の末に姿が絶えた。時は流れて、人は水辺の愛嬌者にも滅びの道をたどらせた。罰当たりな後世だと、子規は怒っていないか。