2012年9月10日月曜日

自死文化の系譜

20120906の朝日新聞の社会面の記事に、札幌市教育委員会は5日(20120905)、同市の1年生の男子生徒(12)が同日朝、自宅マンションから転落して死亡したとあった。やっと小さな実になったばかりの青柿は、落下した。市教委によると、いじめを受けていたことを示すようなメモが見つかったという。

青柿たちの自殺はあまりにも悲し過ぎる。

嫌な記事だ。この数年こんな悲劇をもう二度と聞きたくないと何度思ったことか。でもその想いは儚(はかな)く、悲劇は続いている。自殺といじめの二つの問題を包合した現代版、悲劇だ。

何故、そう易々と子どもは自殺するのだろうか。大人の影響をモロに受けたのだろうが、それでは大人は?日本人とは?一体どうなっているんだろう。

子どものことだけではない、私の縁遠くない人も一昨年自殺した。初老の彼は事業の失敗を苦にしていた。年間自殺者は14年連続で3万人を超えている。

日本人には特有の自死文化が長年培われ、無防備な子どもは否応なしにその影響を受けたのだろう。人間という生きものは、生物学的存在であって、精神学的存在、また社会学的存在でもある。自殺に向かう仕組みや防止策は困難だ。

スクラップしておいた宗教学者で評論家の山折哲雄(やまおり・てつお)氏の文章を、此処でご披露したい。日本人の自殺(自死)文化といっていいような心的傾向性について述べられたものだ。

 

20120715の日経新聞・朝刊の「詩歌・教養」欄に寄稿されたものをそのまま転載させていただいた。

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危機と日本人

「自死文化」の系譜

思想に潜む「涅槃(ねはん)願望」

筆者・山折哲雄

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もっとも、自殺者3万人を超えるという声は、もう十数年のあいだずっとつづいていた。いじめによる自殺、集団自殺、芸能人や政治家による自殺、飛び込み自殺、ネットで自殺相手を探すゲーム感覚の若者たち。そして老人たちの孤独死。そのためか外国のメデイアなどで「自殺大国ニッポン」などと冷やかされる。そんなとき、ふと思うことがある。日本の文化にはもしかすると「自殺文化」あるいは「自死文化」とでもいったものが底流しているいるのではないか、と。

まず切腹による自死の伝統が目立つ。「平家物語」の源頼政、明治の乃木希典(まれすけ)、昭和の三島由紀夫などが思いつくが、それが殉死という形をとることもある。殉死については森鴎外や夏目漱石も関心をもち、小説にしている。もうひとつ、源平合戦の時代、負けいくさで追いつめられた平家の公達たちのほとんどは海に飛び込んで自死を遂げている。

江戸時代に流行する心中事件も見逃せないだろう。近松門左衛門の「心中物」が浄瑠璃や歌舞伎で大流行し、それが世間の心中事件を誘発している。一家心中、無理心中と、その種の悲劇は今日なお絶えることがない。戦争中には集団「玉砕」などというまがまがしい行動が発生した。捕虜になることを恥辱とみなしたからだ。これなども「自殺大国ニッポン」と言われる原因をつくったのだろう。

それで記憶に蘇るのが昭和2年(1927年) の7月、みずからの人生に終止符を打った芥川龍之介の自殺である。その死がときの世相に与えた衝撃は予想以上の広がりをみせた。一作家の自殺を、文学的な死、思想的な死として社会の祭壇にまつりあげたのだった。それはたんなる「自殺」ではない。思想的な「自死」なのだという主張である。だが、芥川龍之介が自殺したとき、それをいち早くとりあげ、「敗北の文学」として否定したのが宮本顕治だった。昭和4年のことだ。彼は「改造」の懸賞論文で1位をとり、戦後になって日本共産党の書記長になった。

宮本は、自殺は敗北であると断じ、その救済には社会の改造、政治の改造、国家の改造が必要であると説いた。あらためて思うのであるが、その論調が今日の私の目には、社会による支援、政治による支援、国家による支援、という掛け声と重なって映る。大量発生の自殺にたいしては支援のネットワークをつくり、政治的な支援の仕組みをつくれ、という声である。そしてその背後には「死(自殺)は敗北である」という世論と、生きよ、生きよ、という上から目線の合唱圧力がひかえている。ところが一方われわれの社会では、さきの芥川や川端康成の自殺、それに三島由紀夫の自殺などをいぜんとして熱く語りつづける傾向が止まない。そして気がついてみれば、3万人超の自殺者たちにたいしては人生の「敗北」のレッテルを用意して、人みな支援、支援と叫びつづけている。やはりこれはどう考えても均衡を失したおかしな現象ではないだろうか。

問題は、なぜそんなことになったのかということだ。この日本列島にはもしかすると、「自死文化」もしくは「自殺文化」といってもいいような心的傾向性が根づいているかもしれないという問題である。その背後にいったいどんな思想の核がかくされているのか。これはこれできわどい問いであるのだが、あえて一口にいってしまえば「涅槃(ねはん)願望」ということになるのではないかと私は思っている。「涅槃」とは釈迦の入滅を意味し、仏教に由来する言葉であるが、要するにローソクの火がゆるやかに消えていくように、生命の火を静かに燃えつきさせる願望のことをいう。生命の上昇する盛りが過ぎれば、あとは生命衰滅のリズムに我が身をゆだねるばかり、そのように実感する自然の願望のことだ。生きよ、生きよの一面的なイデオロギーによってすっかり忘れ去ってしまった、もう一つの郷愁のような生命感覚である。試みに、口ずさんでみよう。

散るさくら残るさくらも散るさくら

うらを見せおもてを見せて散るもみじ