2019年2月25日月曜日

盗っ人、猛々しい(ぬすっとたけだけしい)

盗っ人 猛々しいとは?

ある程度意味と使い勝手は解ったけど、他人さまから聞かれて、澱(よど)みなく説明することができない。
そんな都合で、配慮の無い韓国の国会議長の発言を材料に纏めてみた。

慰安婦問題の解決には、天皇の謝罪が必要と米国メディアに語った韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長は、自身の発言に反発する日本に対し、「謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か。盗っ人 たけだけしい」などと批判した。
日本の首相か、天皇か、韓国の誰に対してなされなければならないのか?
こんな政治的なことについては、日本のどの首相だってなしているではないか。

仮にも一国の立法府のトップが、他国を泥棒扱いするとはさすがに常軌を逸している。
なぜそんなことが罷(まか)り通るのか。
「反日無罪」とでも言うべき、韓国の“狂気”の反日運動の現状や如何(いか)に。

自身の発言に安倍晋三首相が反発したことについては、「追い詰められた安倍首相の政略的な思考によるもの」と強調した。
この政略的な思考って、どういうことを言っているのか?
噛み砕いて話して欲しいものだ。

宮沢内閣の河野洋平官房長官談話以来、村山富一、橋本龍太郎、小泉純一郎の各内閣が謝罪と反省を表明た。
そして両国は協定を結び、アジア助成基金が償い事業を通じ、元慰安婦に「償い金」を支給するなどした。

安倍晋三首相は、2015年12月28日、日本政府として「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」と述べ、「改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験された心身にわたり、癒しがたい傷を負われた全ての方々に心からお詫びと反省の気持ちを表明する」とした。
首相が行う諸政策に、不安な私だって、この発言はよく憶えている。


★ネットで、笑える国語辞典より。

盗っ人、猛々しい

ぬすっとたけだけしい、ぬすびとたけだけしい

 盗人猛々しいの「猛々しい」は、いさましく強そうに見えるという意味だが、一方でどれだけ責められても平然としているずうずうしい態度を表現する言葉としても用いる。
そこから「盗っ人猛々しい」とは、犯罪者や悪人が逮捕されたり、悪事をとがめられたりしたとき、逆ギレして相手を責めたり、蕩々と自分の正当性を主張したりしている様子をいったもの。「盗人猛々しい」の最も理想的なモデルは、悪徳商法の首謀者がマスコミに取り囲まれたときの態度である。

盗っ人に追い銭

ぬすっとにおいせん、ぬすびとにおいせん

 盗人に追い銭の「追い銭」とは、一度支払ったうえにさらに追加して払う、いわゆる「追加料金」を意味し、「盗人に追い銭」とは、家財をあらかた巻き上げた強盗に「なにか他に忘れていることはありませんか」と尋ねられて、お人好しにも「そういえば、天井裏に金を隠していました」と余分に金品をくれてやるような、損の上に損をかさねることをいう。
 「盗人に追い銭」の用法としては、大企業が破綻の危機に瀕したとき、政府が救済に乗り出すと、われわれ貧乏人がくやしまぎれに「これじゃ、盗人に追い銭じゃないか」と愚痴るようなケース。
また、競馬で11レースまで全部はずし、最終レースに帰りの電車賃までつぎこんですってしまった男が、自分の不徳を顧みず「盗人に追い銭をくれてやった」と吐き捨てるようなケースが代表的で、その盗人呼ばわりされている相手はたいてい「盗人」というには堂々としており、言っている本人のほうが弱小だったり、素行が悪かったりする場合が多い。

2019年2月23日土曜日

井上光晴と瀬戸内寂聴

今日のブログは、いつもよりより正直になってしまうだろう。

文章の大明神か大魔神か、井上光晴氏(男神)と瀬戸内寂聴(女仏)さんだから、私の感心の全ては鵜の目鷹の目状態だ。
日本の宗教界で一番幅を利かせているのは、神さんか仏さんか、それともキリストさんかいな。
欲張りほど、欲する物を、どんなことがあっても自らの物にしたがるのだ。
熱心に物を探す際の、鋭い目つきと爪や歯などの牙(きば)の鋭さのことだ。
この2人のことについては、並々ならぬ思い入れがあって、気安く済まされない。

井上光晴の作品は「心優しき叛逆者たち」上巻・下巻の2冊のみが本棚に鎮座していて、瀬戸内寂聴さんの作品は割と多くあって目につく状態。
井上光晴の著作物については、いつかもっと多く読みたいと思いながら、実行していないままだ。
大学中、それからの数年間は、戦後に呻(うめ)きだした作家たちを、それはそれは勢いをつけて読み耽(ふけ)った。
繰り返すようだが、この井上光晴さんの本だけは、読む量が少なかった。

寂聴さんの本は、男女の恋愛ものに心ときめかして読ましてもらった。
寂聴さんには失礼だが、ちょっと娯楽趣味的な読み手だった。

そんな2人の間に生まれた子供が、立派な直木賞作家になっているなんて、夢にも思わなかった。
そんな2人を主人公にした本をこの直木賞作家・井上荒野(あれの)が書いた。
本の書名は「あちらにいる鬼」だ。
この「あちら」とは「鬼」とは、何処のこと? 誰のこと?
この「あちらにいる鬼」の題名にも、非常に感心が深くなって、考え込んでしまった。
この本の中では、井上光晴氏と寂聴さん、井上光晴氏の妻が、それに作者の井上荒野さんも出場するのだろうか。
この4人が、どんな人柄でどんな人間関係で著されているのだろうか。

そんなことが紙面の主だったものだが、読んで、ブログにしておかないと、私の心象は穏やかに収まらない。




★20190220の朝日新聞・文化の記事を、いつものようにそのまま転載させてもらった。

井上荒野

小説と純愛で結ばれた三角関係
父・井上光晴と母瀬戸内寂聴さんモデルの物語

直木賞作家の井上荒野(あれの)さんが、自身の両親、父の不倫相手をモデルにした小説『あちらにいる鬼』(朝日新聞出版)を出した。
父は戦後文学の旗手とも呼ばれた作家・井上光晴(1926~92)で、不倫相手というのは瀬戸内寂聴さん。
小説と純愛で結ばれた不思議な三角関係を柔らかい筆致で描き切った。

井上荒野さん「あちらにいる鬼」


井上光晴

父と寂聴さんの7年続いた不倫関係。
4年前、編集者から小説にしてみないかという提案を受けたという。
「私はスキャンダラスなことを書くタイプではないし、寂聴さんがご健在な間にそんな恐ろしいことはできない」。
母の郁子(いくこ)さんが亡くなったばかりでもあり、その時は断った。

その後、寂聴さんに会って気持ちが変わった。
江國香織さんや角田光代さんらが、寂聴さんは父のことばかり話した。
「本当に好きなんだなと、グッときた。私が書かなきゃと。今書いて寂聴さんに読んでもらおうと思った」

執筆にあたり、寂聴さんにも話を聞いた。
「何でも話してくださって」。
ただ父の葬儀で、性愛抜きの男女の関係だったと、弔辞を読んだことは有名だが、心境を聞いた時は「そんなのうそに決まっているじゃない」と一言だけ。
「話せないこともあると思うし、意識に表れないこともある。基本的には、創作しようという立ち位置で聞きました」。
エッセーなどで父のことを書いたことがあったが、本作はより想像力を働かせた。

不思議な感情 女性2人の視点で
物語は、母を加えた3人の関係を寂聴さんと母の2人の女性の視点で描く。
登場人物はいずれも名前を変えた。
人気作家の長内(おさない)みはるが戦後を代表する作家白木篤郎と出会い、男女の関係が始まる。
夫の小説の清書を手伝う篤郎の妻笙子は、気づいている。

父と寂聴さんの誕生日は同じ5月15日。
父は4歳の時に自分の母に捨てられたと言い、寂聴さんも幼い娘を残して家を飛び出した。
運命を感じたのか。
「符合する点はありますけど、なぜ愛し合えたのかは説明がつかないし、恋愛に理由はないと思う」

作中、みはるが文芸誌に掲載される前の原稿を篤郎に添削してもらうことを、〈もう一種類の性交のようなもの〉と表現した。
「父は他にも女の人がいましたけれど、男と女の関係以上に深かったのは、小説が介在していたからだと思います」

100人いれば100通りあるほど複雑な愛の形。
不倫を全肯定するわけではないが、単純化しすぎることには違和感がある。
「私は父のおかげで、そういうお仕着せの考えから自由(笑)。
それは不倫に限らず、小説家としてすごく幸せなこと。父も母も寂聴さんも純愛だったと思う」

父の名で出されたいくつかの短編は、母が書いていたことも本作で明かした。
母が書き続けなかった理由を考えることは、自身が小説を書く意味を考えることにもなった。
「自分とは無関係のことを書いても、自分が出てきてしまうことがある。それでダメージを受けることもある。母はそれを避けたかったのではないか。という気がしています」。
自身に小説を書く資質があるとすれば、描写の仕方や言葉の選び方、世界のとらえ方などは、母譲りのものだとも思っている。

母は「多いなる謎」だったという。
浮気する父と仲が良く、寂聴さんには友情のような感情を持っていた。
寂聴さんが出家する際、父に剃髪(ていはつ)式に行くことを勧め、死期(しご)が迫る中、寂聴さんの小説の感想を本人に宛てて書いた。

「寂聴さんのことが、本当に好きだったんだと思う。母が何か恨むとしたら、寂聴さんではなくて父。愛した者同士でシンパシーがあったのかな」

女性2人の対比も特徴的だ。
寂聴さんは出家して男女の関係を切ったが、母はどんなことがあっても、夫婦の関係を続けた。物語はこんな母の言葉で締められる。
〈ただ篤郎のことだけを考えている〉

(宮田祐介)












2019年2月22日金曜日

死海のほとり



11月6日(火)から、遠藤周作の「死海のほとり」=新潮文庫を読みだして12月の半ばに読み終えた

9月に同氏の「砂の城」=新潮文庫を、少し前には「沈黙」を読み映画も楽しんだ。

遠藤周作の著作物に手を出すきっかけは、俺はちょっと可笑しいのかもしれないが、先ずは「死海」とは何じゃ? 「砂の城」とは何じゃ? 「沈黙」とは何じゃ? 
書名の斬新さを、「この何じゃ」と気にして本を買う。
次に「深い河」、学生時代には「海と毒薬」、これらも本のタイトルに興味を持ち始めて、読むことになった。
深い河とは? 海と毒薬とは?

遠藤周作のキリスト系というか、イエスや信者、キリストの生い立ちと生長に関する本は、私のような無宗教者には、なかなか読み辛くて、読むスピードは他の本を読むよりも3倍近く時間がかかる。
何ページか読んで、いったいどういうことだったんだ?と思い始め、それが、それらしく理解できていなくて、再度読み返す。
そんなことをしながらの読書なので、時間は相当長くかかる。
それも、嫌味ではなく楽しいものなんだけれど。

そんなに難しい小説だったので、私は読むことは読んだが、小説の本説(粗筋)をよくよく理解してない状態だ。

だから、ネットで得た「死海」のこと、「死海の位置」のこと、小説「死海のほとり」に対して、カトリック司祭の「井上洋治」さんが著した「解説」によって、多少なりとももっと理解したいと考えた。
が、悲しいかな! 私はちっとも理解できていない。

その部分を飽きることなく転載させていただいた。
再度述べる、遠藤周作の本のなかで、初めて理解できなかったことが悔しい。



★一体、死海とは何ぞや? と先ずは思う。
死海とは、ネットで調べたらかくの如く説明があった。

ヘブライ語ではヤムハメラー、アラビア語ではバフルアルマイイト、ヨルダンとイスラエルの国境にある塩湖。
1967年の六日戦争後は西岸全域をイスラエルが占領している。

ヨルダン地溝帯の最も低い部分、地中海面下400Mに位置し、地球上最低の水域。
最長部は約80Km,最大幅18Km、最大水深426m。

ヨルダン川から日に650万tの水が流入するが、流出河川はなく、蒸発によって平均水位を保つ。
東側には湖面から最高1000mに達する断崖がそびえる。

崖下、湖底から湧出る温泉および流入水の塩分が濃縮されるため、海水の4~6倍の塩分(20~25%)と、海水の約100倍の臭素とを含み、生物は生息できない。
カリウム、臭素を生産する肥料、化学薬品工場が北端岸カルヤ、南端岸セヂムなどにある。
西岸絶壁のクムラン洞穴からは、1947年に旧約聖書などの「死海文書」が発見された。
この「死海文書」については、良く解からない。



★死海の位置





★解説  井上洋治(カトリック司祭)
昭和48年6月に出版された、小説『死海のほとり』は、それより7年前に発表された『沈黙』とならんで、遠藤氏の作品のうちでももっとも重要な位置を占めるものであると思う。

『沈黙』が、いわば氏にとっての「母なる宗教」としてのキリスト教の発見であったとしたならば、「死海のほとり」は、まさにそれを深めていった地点においてとらえられた「永遠の同伴者」としてのイエス像の呈示に他(ほか)ならないからである。

「父性原理」とは、自分のいうことをきく者には十分ないたわりと報いをあたえ、いうことをきかない者には厳しい裁きと罰をくわえる、という原理であり、その意味で父性の原理とは、善人と悪人、優秀な人間と駄目人間とを厳しく分断する原理であるということができよう。

それに対して「母性原理」とは、いうことをきく者もきかない者も、ひとしくその膝の上にだきあげる原理であり、その意味では、母性の原理とは、罪人をも駄目人間をも包みこみ、受け入れる原理であるといえよう。

この区別のうえにたてば、すでに多くの批評家の人たちが指摘したように、「沈黙」のクライマックスの場面で、ロドリゴ神父が踏絵に足をかけようとするときに、神父に語りかける「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。
私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」というキリストの言葉は、人間の苦悩と痛みと弱さとを、そのままゆるし包みこんでくれる、すぐれて「母なるもの」のやさしさを示しているものといえよう。

しかし遠藤氏が、このロドリゴ神父の行為を、あくまでも「裏切り」としてとらえていることは、神父が踏絵を踏んだときの描写にあきらかである。
「こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた」

この文章をかきながら、遠藤氏の頭の中にあったものが、「新約聖書」にえがかれている「ペトロの裏切り」の場面であったことは疑いをいれない。

イエスの直弟子であったペトロは、イエスが逮捕されてから、見つからないようにこわごわイエスのあとをついていって、大祭司カヤバの官邸にもぐりこむ。
ところが焚火にあたっていたところを女中に見つけられ、すっかり慌てたペトロは「あんな男は知らない」といって、三度にわたってイエスを裏切るのである。

「ルカ福音書」には、そのとき鶏が鳴き、イエスは振り返ってじっとペトロを見つめたと記されている。

とすれば、ここにいたって遠藤氏の問いかけは明白である。

ーーイエスは裏切ったペトロをゆるさなかっただろうか。
いや、イエスは確かにペトロをゆるしている。
それはペトロの弱さによる裏切りを明白に予測していながら、ペトロと一緒に最後の晩餐をイエスがとったことからも明白である。

しかも裏切りを予測しながら、それを力ずくで止めようとはイエスはしていない。
ペトロ、裏切るがよい。
お前の裏切りの哀(かな)しみと痛みとを、私はお前のために背負ってあげる。

あたかもイエスはペトロにそういっているかの如くである。
それならば、ロドリゴに対しても、イエスはこれをゆるしておられることは明らかであろう。

それならば一体ユダはどうなるのだろうか。
ゆるされているのだろうか。

「沈黙」から「死海のほとり」へと、この問いかけを深めていくことによって、善人と悪人、義人と罪人とを余りにも厳しく裁断する「父なる神」の西欧・キリスト教に対して、遠藤氏は「母なるもの」の復権を主張していく。

「沈黙」を発表した翌年の昭和42年に、「父の宗教・母の宗教」というエッセイを雑誌「文芸」に発表しているが、氏はこのエッセイを次のような文章で結んでいる。
断っておくがキリスト教は白鳥が誤解したように父の宗教だけではない。
キリスト教のなかにはまた母の宗教もふくまれているのである。

それはたとえばマリアに対する崇敬というような隠れ切支丹的な単純なことではなく、新約聖書の性格そのものによって、そうなのである。
新約聖書は、むしり「父の宗教」的であった旧約の世界に母性的なものを導入することによってこれを父母的なものとしたのである。

新約聖書のなかに登場する作中人物の多くはそのほとんどが転び者、もしくは転び者的なな系列の人間であることに我々は注意したい。
そしてペトロでさえカヤパの司祭館で基督を棄てたのである。
鶏がなく時刻、彼も亦(また)踏絵に足をかけたのだった。
その時、夜のたき火の向こうで基督のくるしい眼とそのペトロのおずおずした眼とがあったのだった。

駄目人間、弱い人間、罪深い人間を所詮キリスト教の神は救ってはくれないだろうかーー執拗に自らに問い続けたこの疑問に対して、『沈黙』によって一応の解答を明らかにした氏は、この「死海のほとり」の「同伴者イエス」像の呈示によって、「母なるもの」の復権を完成させたといえよう。

氏は江藤淳氏との対談で次のように語っている。
「同伴者イエスっていうのは、わたくしは「沈黙」以来、最終的な決め手になるもんだあっていう感じがしたんです。つまりあなたがさっき母親とおっしゃったけれど、母親っていうのは同伴者ですからね」

ただしかし、「母なるもの」から「同伴者イエス」にいたるためには、氏によってはイエスの生涯をつらぬく〈愛(アガベー)〉の発見がなお必要であった。
そしてこの〈愛〉の発見の過程こそが、まさに遠藤氏自身の分身ともいえる「死海のほとり」の主人公〈私〉のイスラエル巡礼の旅に他ならないのであある。

「死海のほとり」では、主人公〈私〉が学生時代の友人吉田と、イエスの足跡をたずねてイスラエルを「巡礼」する現代の話と、かってイエスの時代にイスラエルに住んでいた様々な人たちとイスラエルとの出会いを述べている「群像の一人」と題する物語とが、ちょうどフーガのように対位的に展開され、それが最後に「同伴者イエス」において鮮やかに一つにとけあっていくという技法がとられている。

主人公の〈私〉は、長い歳月の間にすっかり自分のなかで色あせてしまったイエスの姿を、今一度生き生きしたものにしようとイスラエルにわたるのであるが、そこでかっての学友吉田に巡礼の案内をたのむことになる。

学生時代は強い信仰の持ち主だったのであるが、今は「聖書だってエルサレムと同じさ。この町で本当のイエスの足跡が瓦礫のなかに埋もれて何処にも見あたらねように、聖書のなかでも原始基督教団の信仰が創りだした物語や装飾が、本当のイエスの生涯をすっかり覆いかくしているのさ。

俺のやった勉強は、聖書考古学者の発掘みたいなものだね」という吉田に案内され、イエスの足跡は主人公〈私〉にも、最初の意図とは逆に次第にうすれたものとなっていってしまう。

そして次第にうすれていってしまうイエスの足跡とはまさに対照的に、学生時代に寮の舎監の手伝いをしていた、ねずみという綽名(あだな)の修道士コバルスキの面影がだんだんと深く〈私)の心の中に刻みこまれていく。

コバルトスキは、首や手足が子供のように小さく、寮生が怪我しているのを見ると貧血をおこし、寮生のカンニングを知らないふりをいながらあとで教務課にいいつけるような、みじめったらしくて、卑怯で、弱虫な人間である。

のちに大学の掃除婦と関係したという噂もあって、修道士もやめさせられしまい、最後にはゲルゼンの収容所で殺されていくユダヤ系ポーランド人である。
そして、このねずみの泣きはらした顔が〈私〉のなかで、荒野のイエスの顔と重なりあっていくのである。

一般には、強く崇高で清らかだと考えられているイエスの姿が、遠藤氏にあっては、何故このみじめな弱い修道士の泣き顔と重なっていくのであろうか。
その理由は「群像の一人」を読み進めていくにつれて、次第に読者の目にあきらかになっていく。

愛〈アガベー)とは、共に喜び共に泣くことだと「新約聖書」の中のバウロの書簡にかかれている。
また、隣人を愛するということは、自分を必要としている人の隣人となるということであり、その人の哀しみや痛みを自分の心に感じとり、共に荷なっていくことであると、イエスは「ルカ福音書」のなかで語っている。

そうだとすれば、愛の深く大きな人ほど、もっともみじめで悲惨で無力な人々の痛みと苦しみとを、そのまま自分のうえに背負うということになるはずである。
「群像の一人」アルパヨは、みじめで無力な十字架上のイエスに、愛だけを語り生きぬいた姿をはっきり見つけている。

「アルパヨはほてった花崗岩に指をかけて、もう一度、崖の上から真下を見下ろした。十字架の横木に両手を拡げたまま、あの人は死んでいく小禽(ことり)のように首を横にかしげていた。むかしアルパヨを看病してくれた夜、疲れ果てたあの人は、同じような恰好で泥壁に靠(もた)れたまま眠っていたのだ。

あれは愛を尽くした者の姿だ。
あの人はたった一つのことしか語らなかった。
たった一つのことしか、しなかった。
それは今、あの十字架に釘づけにされた貧弱な体が示していることだった」

かってパレスチナの土地で、出会った人々の同伴者であったイエスは、その死と復活によって、コバルスキの〈私〉の、そして重荷を負って人生をとぼとぼと歩んでいるすべての人の「永遠の同伴者」となったのである。
遠藤氏にとって、イエスの復活とは、イエスが永遠の同伴者となることに他ならない。

巡礼を終えて日本に帰国する直前、ホテルで〈私〉は、かってねずみと同じ収容所にいたことのある一人の医師から手紙を受け取る。
その手紙には、飢饉室に連れていかれるねずみの最後が次のように記されていた。

「その時、私は一瞬一瞬ですが、彼の右側にもう一人の誰かが、彼と同じようによろめき、足を曳きずっているのをこの目で見たのです。その人はコバルスキと同じようにみじめな囚人の服装をして、コバルスキと同じように尿を地面にたれながら歩いていましたー」。

イエスの福音は普遍的なものであっても、そのイエスの福音を信じ生きている人たちは、必ずある時代のある文化のなかに生きている人たちである。
従って、父性文化のなかにイエスの福音が受け入れられれば、当然そこには父性的・キリスト教がうまれてくるはずである。

その意味で「死海のほとり」は、まさに画期的な作品であり、「イエスの生涯」とならんで、遠藤氏の名をたんに日本文学史上のみならず、日本キリスト教史上にも残す作品といえるである。
この書においてはじめて、明白に遠藤氏は、「永遠の同伴者」としてのイエス像を世に示したからである。



「死海のほとり」

2008/09/05/Fri
「この小説は、現代と古代、すなわちキリスト教研究に行き詰った聖書学者である戸田と主人公の「私」が、エルサレムからはじまるイエスの足跡を独自に追ってく様子を描く現代の物語と、イエスその人がどのような軌跡を描いてゴルゴダの丘までたどり着くのか、その一連の流れを遠藤個人の文学的問題をからめながら追ってく古代の物語、その両者が相互に立ちあらわれながら進行してく。この作品中、遠藤が示すイエス像というのは、これは事実イエスの正確な立ち上げというよりは、遠藤がイエスという人に対してどんな思いを自分の文学に託し、表現したのかという観点からみてくのが正解かなって思うかな。少なくとも、ここにあらわされてるイエスが歴史上存在したイエスその人のそれと一致するかなといえば、それはもう問題にならないものだと思う。肝心なのは、この作品で信仰を失いながらもイエスという人に追い髪を引きずられてる小説家の「私」の心中と、古代のイエスの像がある関係性をもつという点であって、そして宗教につよい関心をもってたがためにイスラエルに渡って聖書学を勉強しつづけたのだけど、結果として信心を見失うことになった哀れなニヒリストである戸田の半ば自虐的な言動の裏に、作者たる遠藤の諦念めいた、だけどそれでも失しきれないイエスの関心‥そう、純粋な関心の行末をうかがい知ることだと思う。宗教的にも、思想的にも、本書はあまりつよいメッセージ性を帯びてない。描かれるのは迷いと弱さだけ。そして、その迷いと弱さを表現せずにはられなかった遠藤の、思いを少しく予感することだけ。」
「この作品ではイエスは徹底して弱者として描かれているのよね。ひとつの奇跡も起せず、一人の人間との絆も実際的にはもてなかった敗者としてのイエスを描き、そしてそのイエスの周囲にいた取るに足らない人々の気持をただ追いつづけたのが、この作品における古代エルサレムの筆致のすべてといえるかしら。遠藤はあくまで弱者としてのイエス、そして弱者としてのイエスがすべての弱き者たちと共に歩む存在であろうという結論をもって、本書を終えるのよね。それが遠藤がイエスに感じた聖性かといえば、さて、どうなのかしら。」
「聖性といえば、そうなのかなって、ちょっと二の句に詰るものあるなって気がするね。‥遠藤は一貫して本書ではイエスを痛めつづけ、蔑まれつづけ、そしてけれどもそこに現実として無力な愛の万感を伴ったイメージとして、イエスを描くのだけれど、それは自身の生涯に弱くてみすぼらしい過去の「私」の灯影に、ずっと悩まされてきた遠藤だからこその、イエス像だったのかなという気がしないでないかな。作中、その弱き者、醜き者の象徴としていくつか戦時下のエピソードが挿入されるのだけど、「ねずみ」と呼ばれる後年強制収容所で殺されることになる、人間としても聖職者としても魅力に乏しい劣った人物に、イエスの同伴をラスト感知する「私」の描写に、私はこの作品で遠藤が試みたことのすべてがいい表されてたような気がする。彼は、たぶん、イエスを見捨てた弟子の一人の立場として、イエスを慕ったのであり、そしてイエスを見捨てた呵責に耐ええなかったからこそ、この作品の存在理由がある。そして、だからその弱さのためだけにある本書は、何も文学的なカタルシスを読者にもたらしてはくれてない。あるのは、弱さだけ。その弱さと血を吐くような言い訳の、懺悔の言葉が、波打つようにつづいてる。それにだまって、じっと耳を済ませるような読者を、本書はひたすら待ってる気が、私にはしてならない。それはまるでゴルゴダの丘の生気ない空の色のように、かな。」
「作者は明確な言辞を何一つとして提示していないということは、たしかにいえるでしょうね。遠藤はこの書によって何を変えられるとも思っていない。事実、主人公である「私」は、このイエスの足跡を追った旅が徒労であったことを深く自覚しているのよね。それゆえ物語としても本書は半端なのであり、しかしその半端さをもって遠藤は自身の宗教観の一端を明らかにした。そこはまったく、明瞭なほどにでしょうね。弱さをさらけ出すのが文学の役目のひとつというならば、本書はその役目を完璧なまでに果したのでしょう。それだけの本とも、いえるのでしょうけど。」

『「聖書のなかでわかるのは、素直に謙虚にイエスに従った弟子よりも、彼を見棄てた連中のほうでして……」
 私は熊本牧師と周りの巡礼団の人を笑わせようとして冗談めかした声を出したが、牧師は表情を崩さなかった。笑ったのは、彼のすぐそばにいる眼鏡をかけた二人の青年だけだった。
「奇跡だけを求めてイエスに叱られた男や、自分の地位を守るためにイエスを裁いた卑怯者のピラトのほうが……かえって聖書のなかで生きて見えるんです」
「なぜ」
「ぼくもまた、その一人だからでしょう」』
  遠藤周作「死海のほとり」

2019年2月19日火曜日

池江選手 白血病公表

20190213(水)
朝日新聞・朝刊をそのまま転載させてもらう。

来年(2020)の東京オリンピックを前に、十代の高校生をはじめ、それぞれの人たちが勢熱を込めて、各スポーツに明け暮れている。
事務系建築系の人、ボランティア希望者、各種雑多な人たちが、手の込んだ準備に入っている。
五輪担当相の大臣だけは、国会内においてちぐはぐな発言が目立っているが、裏方ではきっと根を張った仕事をされているのでしょう。
その度に行われる国内や世界的な大会の模様を、新聞やテレビ、その他で知るだけで、私の心は狂喜し、悔しがったり、その心持の波動は治まらない。

そんな日常のなかで、池江璃花子(りかこ)選手が白血病と診断されたというニュースをテレビで知った。
私は、そんな難事を知ることなく、午後一番映画を観ていた。
帰宅間もなく、女房が「池江さんが白血病なんだって、このことを昼過ぎに聞いてしまってから、なんか!じっとしていられない」。
まるで狂ったような声だった。

その事を詳しく知るためにインターネットにしがみ付いて、実態を知ろうとした。
それなりに状況は解かったものの、私にできることは名もなき神仏に祈るだけ、回復を願うだけだった。
内容は把握したが、内容を知れば知るほど、池谷選手の踏ん張る力強さを知り、池谷選手そっちのけで申し訳ないが、彼女ならではの光り輝くもの、嬉しくなるものを与えてくれている。
感謝している。
彼女が元気にプールに戻ってくるまでは、私も私なりの頑張りをしなくちゃナランと思っている。



そして13日の夕刻から、いつもの私の仕事、朝日新聞をそのまま転載することだった。
★1面から。
ーーーーー
池江選手 白血病公表
「治療に専念 強くなった姿を」  競泳女子
  
池谷璃花子選手


ジャカルタ・アジア大会の競泳女子100メートルでバタフライで優勝し、スタンドに手を振る池谷璃花子選手=2018年8月

昨夏のジャカルタ・アジア大会で大会最多の6個の金メダルを獲得し、最優秀選手に選ばれた競泳女子の池江璃花子(りかこ)選手(18)=ルネサンス=が12日、自らのツイッターで白血病と診断されたと公表した。
その後会見した日本水泳連盟によると、東京都内の病院に入院中で、復帰の時期は未定。
病状の詳細や治療法については明かさなかった。

東京淑徳巣鴨高3年の池江選手は1月18日から豪州での強化合宿に参加していたが、体調不良をたびたび訴え、現地の病院で検査を受けた。
合宿を切り上げて8日に帰国して入院。
再検査した結果、白血病と診断されたという。

池江選手は、2020年東京五輪の有力なメダル候補。
ツイッターでは「さらに強くなった池江璃花子の姿を見せられるよう、頑張っていきたいと思います」とつづった。
会見した日本水連の上野広治副会長は「(東京五輪の出場権がかかった20年日本選手権に出られるかは)現状はわからない。(本人)はまずは病気を治すことに専念したいと言っている」と述べた。

担当する三木二郎コーチによると、池江選手はショックを受けていたものの「前向きな姿勢で白血病に必ず勝つんだという気持ちを見せている」と語った。
池江選手は高校1年で16年リオデジャネイロ五輪に初出場。
長水路(50メートルプール)では女子100メートルバタフライなど五つの個人種目で日本記録を持っている。

(照屋 健)



 



★池江選手 コメント全文

池谷璃花子

12日に自らのツイッターで白血病を公表した池江選手のコメントの全文は以下の通り。


応援してくださる皆様、関係者の皆様へご報告があります。

日頃から応援、ご支援を頂きありがとうございます。
この度、体調不良としてオーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、「白血病」という診断が出ました。
私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。
ですが、しっかり治療をすれば完治する病気でもあります。

今後の予定としては、日本選手権の出場を断念せざるを得ません。
今は少し休養を取り、治療に専念し、1日でも早く、また、さらに強くなった池江璃花子の姿を見せられるよう頑張っていきたいと思います。
これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。

(池江璃花子)



★19面から
ーーーーー
池江 豪州合宿中に異変  白血病を公表

昨年、ジャカルタで開催されたアジア大会の競泳女子100メートルバタフライで優勝した池谷璃花子。
大会では日本人選手で史上最多の6冠に輝いた

「今までみたことない、肩で呼吸」 コーチ
1月18日からの豪州での合宿中、異変を感じたのは三木コーチだった。
「今まで見たことのない、肩で呼吸するような場面があった。
休ませたら回復するかと思ったが、2月4日に現地の病院に連れていった」

検査の結果、早期の帰国を促がされた。
8日朝に羽田空港に着き、そのまま入院に。
その日のうちに白血病との診断を受けた。
付き添っていた上野副会長は「まさか、このような病名を言われるとは。
本人も相当ショックだったと思う」。
その一方で、「1時間もしないうちに本人から前向きな発言が出てきた。
病名を発表するのも彼女なりの決断だった。
病気に立ち向かおうという彼女の姿勢に本当に頭が下がる」と話した。

三木コーチも10日に本人に会った際の様子を明かし、「早く治して、また二郎さんと一緒に練習ができるよう頑張りたいと。
それに向けて自分もしっかり考えていきたい」と言葉を詰まらせた。
病状の詳細などについて、上野副会長は「お話しできる状況ではない」と語らなかった。
ただ、「水泳をしていたから異変に気づくことができた」とし、早期発見だったとの見方を示した。

7月の世界選手権(韓国・光州)の代表選考会を兼ねた4月の日本選手権は欠場する。
この世界選手権のリレー種目には東京五輪の出場権もかかっており、上野副会長は「池江抜きでのリレーは非常に厳しい」と漏らした。

今春から日大に進学する池江自身の競技への復帰時期も東京五輪出場への道筋も見通せない。
上野副会長は「厳しい道のりになると思うが、五輪選考会のスタート台に立てるよう見守ってほしい」と話した。
三木コーチは「この病気と闘っていくことで、また新たに池江璃花子という選手が強くなって戻ってくると信じている」と語った。

(竹田竜世 浅野有美)



克服し五輪「金」の選手も

練習拠点の米国で、池谷璃花子選手を励ます入江陵介選手(前列中央)と仲間たち=入江選手のツイッターから

これまでも、白血病と闘ってきた選手がいる。
サッカーJ2新潟のDF早川史哉(25)は2016年に「急性白血病」と診断されたが、手術やリハビリを経て今季、本格的に試合復帰を目指している。
自身の経験から「池江選手に温かい優しさをたくさん与えてほしい。
そういう思いが必ず力にある」という。

プロ野球では、オリックスなどで投手として活躍した岩下修一さん(45)は、プロ入り2年目の01年7月に「急性骨髄性白血病」と診断された。
抗がん剤治療を4カ月受け、翌年3月に公式戦での復活登板を果たした。

ラグビーの元豪州代表で、現在はトップリーグの豊田自動織機に所属するクリスチャン・リアリーファノ(31)は16年に白血病と診断された。
化学療法とと妹からの骨髄移植を受け、発症から約1年後に復帰している。

北米アイスホッケーリーグ(NHL)、ナッシュビル・プレデターズのブライアン・ボイル(34)も「慢性骨髄性白血病』を克服した。

北京五輪ではオープンウオータースイミングのマーテン・ファンデルバイデン(オランダ)が白血病を克服して金メダルを獲得。

白血病と同じ血液疾患になったプロスノーボーダーの荒井善政さん(39)は「これを乗り越えればもっと強くなれる。
あきらめないで欲しい」とエールを送った。


ライバルの「涙」



「ニュースを読んで涙があふれている」。
池江が最も得意とする100バタフライのリオデジャネイロ五輪金メダリスト、サラ・ショーストロム(スウェーデン)もインスタグラムに投稿した。
池江とは昨秋、合同練習した仲で、「私の全ての力と愛を送ります」とエールを送った。



20190213の読売新聞・朝刊 「編集手帳」
一首のなかに「いのち」という言葉が2回出てくる短歌がある。
〈桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり〉

岡本かの子が詠んだのは、散る気配もない生き生きと咲き誇る桜の姿だろう。
〈桜の花のいのちへの思いが分かるから、自分も精いっぱいの気持ちでながめるのだ〉と解釈されることが多い。
速報を聞いて胸が波打った。
すこしだけ落ち着きが戻ったとき、かの子の歌が浮んできた。

精いっぱいの気持ちでこれからを見守るとしよう。
競泳女子の池江璃花子さん(18)が白血病と診断されたという。

「いまだに信じられず混乱している状況です。治療に専念し、1日でも早くさらに強くなった姿を見せられるよう頑張っていきたい」と自らツィッターで明かした。
この「血液のがん」は昔に比べて、治る人がめざましく多くなった。
そのことを十分理解しているらしく、前向きさも伝わる。
この何年かで記録の壁をどんどんはねのけたように、病気にも打ち勝って欲しい。

快癒と五輪の金メダルはどちらの喜びが大きいか。
プールサイドでそんな質問ができる日を、みんなが待っている。



39面より
ーーーーーー
池江選手「温かく見守って」

地元・ファン回復祈る

「緊急帰国し検査を受けた結果、『白血病』という診断が出ました。未だに信じられず、混乱している状況です」。
12日午後2時、池江選手がツイッターでこう発言した。

約2時間後、日本水泳連盟が都内で記者会見を開いた。
連盟幹部らによると、池江選手はは診断後もコーチに「早く治してまた一緒に練習できるように頑張りたい」と声をかけたという。
三木二郎コーチはあ「本人が一番ショックだと思う。東京五輪はまだゼロではない。色々な面でサポートしていく」と話した。

トップアスリートの突然の告白に、関係者には衝撃が広がった。

スポーツ庁の鈴木大地長官は「初めて聞いた時は言葉を失った」と沈痛な表情を浮かべた。
「彼女は日本チームのエース。健康になっていただくことが一番だと思う」と話した。

池江選手が所属するルネサンス亀戸(東京都江東区)の水泳教室に通う小学4年生の女児(10)は「なんでこうなっちゃったんだろうーー」と落ち込んだ様子で語った。
「早く病気を治して、また記録を更新し続けて」とエールを送った。
池江選手の母校、江戸川区立小岩四中の茅原直樹前校長(58)は「彼女は気持ちが強いので、自分の病気をしっかり伝えたんだと思う」。
昼休みに校庭で友人とサッカーをしたり、給食をおかわりしたりする姿をよく見かけたという。
「焦らずに、回復してから元気に戻ってきてほしい」と励ました。

同じ病と闘う人たちにも激励の輪が広がる。

俳優で、自らも白血病の闘病経験のある渡辺謙さん(59)は「今の医学を信じ、自分の生命力を信じ、前を向いて焦らずにしっかり治療に専念して下さい」とツィートした。

池江選手と同じ高校3年生で、白血病の治療を東京で受けたばかりの小林聖(せい)さん(17)は「周りの期待の声が心配」と話す。
昨年5月、男子バレーボールのインターハイ目前、関東大会の予選中に病気がわかった。10月に骨髄移植を受け、今は検査を受けながら回復を図っている段階だ。

気になるのは「東京五輪に間に合わせて」「一刻も早い復帰を」などの言葉。
「治療は精神的にもつらい。強くなった姿を見せられるよう頑張っていきたいとつづった上で、こう締めくくった。
「これからも温かく見守っていただけると嬉しいです」
                 ◇
池江選手がめざす2020年東京五輪の競泳代表はどのように決まるのか。

日本水泳連盟は、五輪への選手派遣について「世界で戦える選手を送り込む」という姿勢をとっている。
主要国際大会での優勝者のタイムなどを参考に、独自に派遣標準記録を設定。
20年4月に行われる日本選手権(東京)で、この派遣標準記録を突破した選手のうち各種目の上位2人までが、東京五輪の出場権を得ることになっている。

唯一の例外が、今年7月の世界選手権(韓国・光州)。
この大会で優勝した選手を、日本水連は五輪代表に内定させる方針だ。
世界選手権(東京)で派遣標準記録を破った上で、各種目の上位2人までに入る必要がある。
池江選手は、ツイッター上で日本選手権への出場見送りを明言しており、今年の世界選手権には出られない。





早期発見「治療成績いい傾向」
白血病
白血病は血液のがんだ。
「一部を除き原因は不明だが、血液細胞のうちリンパ球など白血球ががん化する。
国立がん研究センターが、若年世代の患者データの分析結果から推計すると、15~19歳のがんのうち最も多いのが白血病(同世代のがんの約4分の1)だった。

がん化した白血球の種類により「リンパ性」と「骨髄性」があり、それぞれ病状が進行するスピードにより「急性」と「慢性」がある。
さらに原因となる遺伝子や染色体の異常により細かく種類が分かれる。
日本水泳連盟の会見では、池江選手の白血病の種類は明らかになっていない。
大半の白血病ではまず複数の抗がん剤を組み合わせた大量化学療法を行う。
種類や病状によってはその後、骨髄移植を行うこともある。

日本血液学会理事長の赤司浩一・九州大学教授は、「治るまでの治療期間は、白血病の種類により半年~2年程度と異なる。
一般的に体力のある若い世代ほど治癒率が高い」と語る。

また、水連は「早期発見ができたと(医師から)説明を受けている」とした。
赤司教授は「多くの場合、早期でがん細胞が少ない方が治療成績がいい傾向がある」と話す。




「今の素直な気持ち」
池江選手 ツイッターを更新


昨日から沢山のメッセージありがとうございます。

ニュースでも流れる自分の姿に、まだ少し不思議な気持ちにもなります。

そんな中で皆さんにどうしてもお伝えしたく、更新させていただきます。

皆様からの励ましのメッセージの中に「骨髄バンクの登録をした」「輸血、献血をした」など、沢山の方からメッセージをいただきました。
私だけではなく、同じように辛い思いをしている方達にも、本当に希望を持たせて頂いています。

私は、神さまは乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

もちろん、私にとって競泳人生は大切なものです。

ですが今は、完治をめざし、焦らず、周りの方々に支えて頂きながら戦っていきたいと思います。

しばらくの間、皆様に元気な姿をお見せすることができないかもしれません。

そしてしばらくの間、私も皆様と同じく応援側に回ります。
引き続き、トビウオジャパンの応援、支援、そして沢山の様々なスポーツの応援、支援を宜しくお願い致します。

改めて皆様のメッセージとご協力に心から感謝します。

必ず戻ってきます。

(池江璃花子)


 

2019年2月17日日曜日

幼保無償化

先日(20190213)、私たち夫婦と三女の3人で昼飯のために、日本全国でいくつもあるフアミリーレストランに行った。
誰もが知っているレストランです。

前夜にそのレストランの中枢を果たす料理工場で、餃子をいかに大量に安価に製造できるか、それを見極めるような番組をやっていた
直後、明日の昼飯はここのレストランだと決めてしまった。

妻が運転、後部乗車席に乗った三女が私に言い出した。
「今年の10月から、幼保は無償になるんだってね」
「我が家は、今年から幼稚園に上がるけれど、助かったわ」
こんなことを、三女は嬉しそうに話し出した。
何も知らない私は、へ~、あ、そ~、黙って聞き流した。
幼稚園の料金は、相当高いもので、低収入の娘夫婦にとって有り難い話だとおもった。

昼飯は私の小遣いの余り金で出費したものだから、車中は楽しく陽気に過ごせた。
こんなことも、小さな家族の小さな幸せ者たちには並々ならぬ小喜(こよろこ)びであった。
私の心の隅っこに「幼保の費用が無償」の言葉は残った。



そして翌日。
朝日新聞の記事に目を瞠った。
ーーーーー
幼保無償化 千行の韓国は
来日した研究者が現状報告

「必要な質の保証できていない」

10月から実施される見込みの幼児教育・保育の無償化法案が、今国会で審議されます。
実は韓国では7年前から無償化が始まっていますが、ここへきて廃止の議論も出ているといいます。
来日した韓国の研究者が、現状を報告しました。

「無償化で巨額の保育予算を使っているにもかかわらず、少子化が進んでいるという非難が、韓国社会の中で出てきています」。
1月27日東洋大で講演した韓国の白仙姫(ペクソンヒ)国立育児政策研究所長が現状を紹介すると、日本の官僚や研究者は聴き入った。

韓国は、超少子化に対する目玉政策として無償化を導入した。
結果、利用者が急増し、保護者への保育料補助にかかる予算が肥大化する一方、保育の中身や保育士に投資できなくなったとの指摘が、一部専門家から出ている。

白所長は、無償化後、保育所内の虐待が社会問題化し、背景に保育士の待遇の悪さが指摘されたことも紹介。
「必要な質の保証ができていない状態」と話した。

「保育士の待遇改善や給食の質の向上、7%しかない国公立保育所の増設に国はもっとお金を出すべきだと思うが、保護者に保育を無料で提供することを最優先にしている現状では、おろそかになる」とし、限りある予算の中で、保護者負担がないままでは質を保つことは難しいとの見方も示した。

さらに、韓国の昨年7~9月期の出生率は、世界でも最低水準の0・95まで低迷。
「無償化を廃止すべきだ」という声も出てきている。
白所長は「無償化で、所得が低くても利用できる人が、以前よりも増えたのも事実」と一定の効果を主張する一方、「無償化の開始は国公立の保育園や幼稚園をもっと確保し、質を向上させた後にすればよかったのでは」と振り返った、

会の主催メンバーの金子光一東洋大教授は、「無償化は基本的に望ましいものだが、日本でも優先順位を間違えて質を後回しにすれば、子どもの安全や健やかな育ちが脅かされかねない」と話す。

(田淵紫織)


幼保無償化
韓国では2012年、「無償保育」を導入し。
当初は子どもの年齢や保護者の所得で制限を設けていたが、19年から0~5歳児全員に対象を拡大。
自宅で子どもをみる専業主婦世帯にも手当てをだす。
日本では、主に3~5歳を対象とした無償化が始まる見込みだ。
無償化は先進国の潮流だが、半日分の幼児教育・保育料のみを対象とする国が多く、韓国や日本のように全日分を無料にするのは珍しい。

寛解(かんかい)とは

今、競泳界において、立派な実績を残し、且(かつ)これからという先に思わぬ病気になった選手がいる。
池谷璃花子(りかこ)さんのことだ。
並み居る優秀なアスリートのなかでも、私は何故かこの人を異常に愛してしまった。


この何週間前、強化合宿の名目で、豪州に派遣されていた池江璃花子さんが、体の調子が悪そうなことを担当の三木二郎コーチが察知し、病院に行ったところ、早く日本に帰って正確な診察を受けてくださいと言われ、日本の病院で診察された結果、彼女は白血病に罹っているとの診断が出た。
去年の12月頃から、体の不調を感じていた。
私の生半可な記憶で申し訳ないが、種目と競技距離の記憶もないが、ある大会で記録が4秒も遅くなっていた。
私には、そんなことって有りか? そんなことは絶対無いよと思った。
その大会はいつだったのか? きっとその辺りから体の変調があったのだろう。

今回は豪州での強化合宿でのこと。
豪州に行く前から体の不調は自覚していたようなのだ。
泳ぐと体が重たく感じ、特に肩の方から痛みを感じて、可笑しい、可笑しいと思ったと言っている。

この診断に関して、どれだけのファンや競泳界の仲間たちに与えたショックは大きいことだろう。
でも、そんな心配や激励のメッセージよりも、私を驚かされたのは、彼女の気力、意力の強さ、必ず戻ってきますとブログしたそのことに、私は異常な喜びを感じている。

国内のアスリートは言うまでも無く、俳優さんやそれ以外の職業の人たち、海外からの多数のアスリートから、励ましのメッセージが彼女に届けられている。
肩の部分が特に痛みを感じ、体の疲れが酷く感じるようになりましたと言うのは、あるアスリートが述べるに、彼女はいっつも限界まで張り詰めて闘っているので、自分の体の異変は感じられるのですよだった。

池江選手のこの白血病についてのテレビなどの報道で、時々使われる「寛解」とは、なんじゃと思った。
それなりに語句に関しては興味を持って生きてきた。
それにしても、この寛解はどういう意味なのだろうか、今まで聞いたことがないのだ。
その語句をネットで知って、我がボキャブラリーも値を高めたか!!


★寛解とは
デジタル大辞泉では。
[名](スル)病気の症状が、一時的あるいは継続的に軽減した状態。
または見かけ上消滅した状態。

癌(がん)白血病など、再発の危険性のある難治の病気治療で使われる語。
例えば、癌が縮小して症状が改善された状態を部分寛解、癌の症状がなくなり検査の数値も正常を示す状態を完全寛解という。


ーーーーー

白血病公表の池江璃花子「早期発見」報道に違和感を抱く専門医の重要な助言〈週刊朝日〉

2/17(日) 10:30配信
AERA dot.
 白血病を公表した競泳女子の池江璃花子選手。2月13日、自身のツイッターを更新し、「神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています」と率直な気持ちをつづった。

 12日、日本水泳連盟が緊急会見を開き、発覚までの経緯を説明。会見では「早期発見だった」と繰り返されたが、それに違和感を持ったのは元東京大学医科学研究所特任教授で、血液腫瘍内科医の医療ガバナンス研究所の上昌広理事長だ。

「白血病は血液のがんです。発見された時点でその血液は全身に回っている。早期発見だから進行していないので助かる、早期発見できなかったから進行していて手遅れだという考え方はしない。治療がうまくいくかどうかという予後に影響するのは、遺伝子や染色体の異常に基づく分類です」

 治療の成否という予後に加え、白血病の影響で怖いのは出血だという。血小板が減り、出血しやすくなり、一度出血すると血が止まりにくくなるのだ。脳出血すれば、突然死することもある。

 そこで気になるのが、1月13日に、都内の競技会で自身の日本記録から4秒遅れたことや、18日からのオーストラリア合宿中、肩で呼吸するような異変が見られたこと。

「白血病による貧血がかなり進んでいたと思われます。血小板も減っていたのでは。出血しなかったのは幸いでした」(上医師)

 こうしたことを踏まえ、上医師が指摘するのは、女性アスリートの定期的な血液検査の重要性だ。池江選手が定期的な血液検査を受けていたがどうかは不明だが、ヘモグロビン濃度をチェックしていれは、早い段階で病気の診断につながるという。早く診断できれば、出血のリスクを減らすことができる。

 日本水泳連盟に、アスリートへの検査はどのように実施しているのか質問したところ、「代表に選ばれた時には選手全員に血液検査などのメディカルチェックは行っていますが、それ以外にどのようなメディカルチェックを行っていたかはつかんでおりません」と返答。池江選手が代表に選ばれたのは昨年4月。以降は選手らに任されていたようだ。
「筋肉量の多いアスリートは貧血になりやすく、女性は生理があるのでなおさら。貧血はパフォーマンスにもダイレクトに影響するから、血液検査を定期的にすべきです」(上医師)

 池江選手の回復を祈るとともに、女性アスリートの健康問題にも光があたることを願いたい。


(本誌/上田耕司)

※週刊朝日 2019年3月1日号


2019年2月12日火曜日

小さな独裁者

20190212(火)
13:20~
映画館=ジャック&ベティ

「小さな独裁者」を観て来た。
先月の17日にブログした映画=「家(うち)に帰ろう」の残像が未だに頭の隅っこにある。
70年前の「ホロコースト」の際に、どれだけ無慚で無惨で無残なことが、ドイツを中心に行われたのか!
日本だって関東大地震のときに、東京に住んでいた韓国の人たちに何と惨めなことをなしたことか。
そんな頃に、この映画にどうしても繋がって考えてしまいそうな「小さな独裁者」の広告が目に入って、観に行きたいという私の行動は、もうどうしようもなく収まることはできなかった。
午前の仕事を終わり次第に映画館に向かった。

私の妄想だけれど、よくぞこの日本で、この映画のようなことが起こらなかったなあ!としみじみ想うのは、私の個人的な見解か?
ヤマオカ、お前は余計なことを考え過ぎるんだ、と納めたいものだ。


画像8
大戦最末期、敗色濃厚なドイツ。
戦時の実話が打ち鳴らす、現代への警鐘。

画像1 
これは
国家にも組織にも
学級にも生ずるパワーゲーム



あらすじ
ナチス・ドイツの敗色が濃厚となっていた第2次世界大戦末期の1945年4月。
部隊を脱走した空軍上等兵ヘロルトは、憲兵隊に追われてさまよっていた。
追っ手から逃れた彼は、打ち捨てられた軍用車両の中をあさっている際に空軍将校(大尉)の軍服一式を発見した。
ヘロルトは軽い気持ちで、ボロボロの洋服を脱ぎ捨て、軍服を身にまとってみた。
そうして、しばらくこの姿を見ながら、考えることがあった。
どうしたら、巧く生き延びられるか。

検問に行き当たる度(たび)に、自分の立場や上長のことを、言葉巧みに嘘をついた。
本物の将校と信じたフライタークから指揮下に入るよう頼まれ、このまま将校になりすました。
ヘロルトが、威光を手に入れた脱走兵のお話だ。
ヘロルトは道中に出会った兵士たちを服従させ、指揮下へ収めることに成功し、"ヘロルト戦闘団"のリーダーとなった。
彼が主張する「ヒトラーの特使」は、即決裁判を偽装し、周囲の人々をだまし続けた。
道中で受けた検問でも正体は暴かれなかった。
そこから、恐ろしい話が進んでいく。
ヘロルトは次第に傲慢な振る舞いをエスカレートさせ、地元の突撃隊幹部から脱走兵収容所の指揮官を任されると、規律維持を名目とした大量殺戮・処刑を行う。
その収容所で処刑所になった場所は、敵機から爆弾攻撃を受け、粉々になってしまう。
収容所が空襲を受けて壊滅した後も、ヘロルトの暴走は止まらず、即決裁判所を自称して、都会に出かけた。
行き会った人々のみならず、自らの部下さえも次々に処刑し続ける。

そして、都会のど真ん中でも、馬鹿な力を奮い立たせ、取り返しの衝(つ)かない独裁者になっていく。
日本だって愛国心に光り輝く戦士たちが、軍部の中枢の者たちに刃を向かせ、銃弾を放ったことさえあった。
このことに関して、一部の軍人や知識層から共感されたこともあった。

こんな不思議で、奇怪な「小さな独裁者」のお話です。



今日のお勉強は「たおやか」なり

20190211(月)、会社に行く前に新聞を読みながらテレビを観ていた。
昼過ぎに自宅に帰って、テレビを観た。

そのどちらにも、少しの時間だったけれど、「八千草 薫」さんが昨年、膵臓に癌が見つかり、肝臓にも転移しているので、暫くの間、療養のためにテレビ出演を休むという、そんなニュースがあった。

好きな女優さんなので、彼女が出ている番組は、自(おの)ずから力が入って真剣に観て来た。
目鼻立ちが繊細で、嫌(いや)らしく聞こえると避けたいのですが、体全体から発する気勢か気性か、気品に堪らなく私は夢中になった。
品格が上質で厚高な女優さんなのだ。

その八千草 薫さんの病状の説明があって、その説明のなかで使われた言葉が「たおやかなお人(ひと)ですよね」と言うアナウンサーの言葉だった。
私には「たおやかなお仁(ひと)ですね」と聞こえた。
テレビから目を背けても、この「たおやかなお顔、仕草」が頭の中に残って離れない。

八千草 薫さんのちょっと辛い話だけれども、私には55年ほど前に、仲良く付き合ってくれていた脚本家の馬島さんの、彼女に感ずる思いを聴かされたことがあった。
その内容は、ここで文字にするようなことではないと堪忍して、避ける。
そんなちょっとだけの話はいとも簡単に逃げ切れるけれど、「当たり前、そんなことはあっちゃ向いてホイ」と投げ捨て、今は彼女の病状の今後のことが気に痛む。




★そんな時、頼りになるのは、ネット情報だ。
ーーーーー
三省堂大辞林

★たお やか たを- [2] 【嫋やか】

( 形動 ) [文] ナリ
〔「たお」は「たわむ(撓)」の「たわ」と同源
姿・形動作しなやかでやさしいさま。たわやか。 「 -な乙女」 「 -な山の峰々」 「 -な舞の手振り
派生] -さ ( 名 )
ーーーーー
★たおやかの意味
①<たおやかの意味>

これは、「姿・形・動作がしなやかで優しいさま」
という意味です。

「しなやかで、折れそうで折れない」と、
姿・形は細く少女のようでありながら、
しとやかでなまめかしい様をあらわします。

「たお」は「たわむ」と同じ意味。
枝などが曲がる様子を表わす言葉です。
そのような、しなやかな女性のイメージとなります。
曲がるが折れることのない、強い女性、優しい女性、そんな良いイメージを表わす言葉です。

古典的文章の中に、たおやかな人と言うくだりが出てくる事があります。
昔からの良い印象の人だったことがうかがえます。
戦後、女性の活躍の場が増え、体格的にも素晴らしく進歩した現代の女性。
女性のたおやかさは現代に無くてはならないものです。

たおやかさは、どんな困難にも負けない
本当に真の強さをもっていることを意味する、そうとも考えたい言葉です。

ただ、「君はたおやかだね~」といやらしく言うと、
「セクハラ!」とか言われかねないので気を付けたい。

②<たおやかの使い方>

・たおやかになびく髪だろう。

・彼女はたおやかさが溢れている。

・たおやかな身のこなしの女性。

以上、たおやかの意味とはでした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  • 画数:8
  • 音読み:エン、 オン
  • 訓読み:たおやか


  • 画数:11
  • 音読み:ワ、 カ
  • 訓読み:たおやか、 はべる
  • ピンイン:wo3
  • 対応する英語:maid


2019年2月8日金曜日

懐かしい友人が我家に来てくれた

昨日20190120、大学時代からの「友人」が我家に来た。
この日は友引だった。
この文章では、友人のことを姓名で著せばいいのだろうが、プライベートな問題その他で友人に迷惑を掛けたくないので、友人とする。
今までの私の人生50年において、掛け替えのない友人だ。

友引とはこういう日だ(ネットより)。
・陰陽道(おんようどう)で、凶禍が友人に及ぶとする方角
・中国の暦法の六曜のひとつ。
本来の意味は、「何をしても勝負がつかない日」。
日本では、「友を引く」という言葉のため、この日に葬儀を行うことを嫌います。

私が2年生、友人が新入部員として、私の前に現われたのは、寮の玄関前だった。
お前は、何処から来たんや? 学校は何処や?と矢継ぎはやに質問した。
友人は、兵庫県の明石や、学校はジュンシン学院(きっと淳心と書くのだろう)です。
何や、その学校名は?
学院というのは、大体キリスト系の学校が多く、きっと神父さんや修道女さんが、構内をうろうろしてるのと違うか(ちゃうか)、私の質問はどうも現場知らずだ。

力の無い、踏ん張りの効かないプレーは余り評価できるものではなかった。
しっかりやってくれよと応援した、それから暫くして、私は友人と仲良くなってしまった。
中学校からか高校からか、きっと立派な学校だったことだろう。
父母は、東京の学校へ行って、立派な会社に入ることを願っておられたようだ。

もうこの人には頭が上がらない。
大学2年生だったか3年だったか、私は私なりに、この大学のサッカー部でやり切れるかどうか、やり切れたとしても、それでエエのかどうか、悩みきっていた時期があった。
そんな時、いっつも私の傍に彼は居てくれた。
私の間の抜けた会話にも、懲りずに付き合ってくれた。
彼だって、彼なりに悩んでいたことがあったのではないか?と思うが? 彼には彼らしい根性があったのだろう。

友人の住まいを今の西武球場がある辺り、山口線の然るべき駅から歩ける場所のアパートに引っ越したのには興味が沸いた。
当然当時には西武球場はなかったので、何是、こんな田舎に住むことにしたのか、此奴はただ者ではないぞと、思った。
ポテトチィップか蝦せんを持って、アパートに行った時の興奮は、げらげら笑うだけではすまされめえ、だ。
アパートの周りは樹木に溢れていて、なんでこんな山場に住むことにしたのだろうか、と疑問をもった。
友人がこんな山場を好むんだったら、私の田舎だって、友人には恰好(かっこう)の住処(すみどころ)になる。

グラウンドの傍にある各クラブの部屋、その奥にあった共同浴場は、先に入るクラブ次第でその汚れが気になった。
たまには、砂の一部もあるし、余りそれらしき物に感じる神経をもってないのに、浴水の汚れが異常に汚いことだってあった。
その汚れが異常だった時に、浴槽に入ることなく、近所の銭湯に出かけることも度々あった。
この時に仲間うちになってくれるのは友人だった。
たらふく銭湯で楽しみ、お金をお支払する娘さんの可愛いことって、ありゃ、参りました。
それ以外にも、ナンダカンダと楽しむのです。
そして、それからの帰り、友人が肉屋さんがやっている鶏の手羽焼きを眺め、ヤマオカさん、美味そうやなと、堪らない声を出す。
そりゃ、美味そうやけど、俺は金持ってないから買えないけれど、お前、俺の分を買ってくれる。
ヤマオカさん、大丈夫ですよ、俺、お金持ちやサカイに。
そして、俺は友人のお世話になった。
友人とは、この手羽焼きだけではない、随分、いろんなこと、いろんな物で、大いにお世話になった。

食べ物に関して、二人には他人に話せない秘事をやってのけた。
今でこそそんなに珍しくないけれど、当時は元禄寿司か?何かそんな名前の回転寿司に2人して出かけた。
もう50年以上も経つから、そんな罪は求められないだろうから告白する。
三鷹か吉祥寺だったと思う。
回転寿司で食っても食っても、食い終えた皿を、持ち込んできた大きなバッグに次から次に入れ込み、当然、それは無銭飲食のための工夫だった。
友人はサッカー部をやめていたが、私は不甲斐ないサッカー部員。
友人は友人らしく大食で、私はずるいことには滅法強く、幾らでも食えた。
お金を払う時こそ、はち切れんばかり緊張したが、何とか無事に済んだ特は、100メートル前後の人にだって聞こえそうな大笑いをしたものだ。

回転寿司だけではない。
高田馬場の本屋さん、友人は本を盗むことだって上手だった。
私は現役のサッカー部、そんな大胆なことできそうになく、じっと友人の手際の好さをチェックしていた。
お前、将来、お金を多少儲けた際には、何かお礼でもしなアカンで。

無闇矢鱈(むやみやたら)に、何でもかんでも、腹の底を割って話せるものではない。
こんなに下手繰(へったく)れな私が、この状態をこのままやって行っていいものか、この際止めて、違うことを考えた方がいいのではないか、私の頭の中は、大いにコンガラガッテいた。

1日前(0119)に友人から電話があって、明日午後3時頃にお邪魔しますが、エエですか?と電話を受けた。
私は、何があろうとお前が来てくれるなら、具茶具茶、滅茶苦茶、言うことはないよ、誰が何と言おうが、朝から晩まで、いつでもイイから待ってるぜ、と承諾した。
彼は、ヤマオカさんはソウ言うけれど、奥さんに電話して確認させてもらいますから、なんてことを申す。
私を信頼してない大(おお)一番の鬼証拠だ。

奥さんと一緒に立派な車に乗って、やってきた。
私は昨日に我がイーハトーブ(畑)に行って、伊予柑(いよかん)と八朔(はっさく)をそれぞれ20個ほど土産用に用意しておいた。
友人の家族だけではなく、働いている社員にも上げてくれよ、と諭した。
ミズナも何株かを袋に入れておいた。
一口にミズナと言うけれど、味噌汁、酢の物、鍋物に使えると言うと、ヤマオカさん、何是、そんなに詳しいの?ときた。
今期はどういう訳か、ミカン、ミズナがいっぱい採れた。
もうこれ以上食べたくない、と苦痛に近い状態だった。
そんなこと言ったって、私は悔いることなく、毎日毎日きっちり食べていた。
多くの柑橘類を纏めて、土産だよと上げても、貧相に見えるのが嫌だった。
そんな貧相なものでもない。
高級品だと言うことは、友人は理解していた。
それで、友人が我家に入ってくれたところで、丁寧に説明をしたが、友人はよく理解しているようで、有難うと返答してくれた。

それから、テレビの脚本づくりをやっていた馬島さんに会い、共有の仲間になった。
友人はこの仲間になった理由は詳しく話していないが、私はこの親父に頭を可笑しくさせられてしまった。
たまたま、私がよく読んでいた作家のことに理解を示してくれた。
私は学業は兎も角、サッカーだって今いち優れない状態で、何かその空いた隙間を埋めてくれる人を求めていたようだ。
夜遅く会話をしていて、何かの拍子で、とんでもないことを喋る事だってあった。
私の心の奥底に潜めている、他人に言えないようなことを何気なく喋ると、異常に同情してくれたことがあった。
太宰治は新戯作派、無頼派と称された。
その仲間たちは、坂口安吾、織田作之助、石川 淳、檀 一雄、太宰の死体を運んだ山岸外史、太宰の墓前で自殺した田中英光。
津島佑子、愛人太田静子との間に太田治子、玉川上水に入水した山崎富栄。
この作家や人物の話をすると、私の知らないことをどんどん教えてくれた。
そんな夜話に、私は狂って行った。
友人もその折、一緒だったこともあるが、彼は何をどのように考えていたのだろうか。
そして、私は昼間はサッカー部、夜、革マルのヘルメットを被り角棒を持って、恰も革命軍の心算で、デモに参加していたこともある。
見かけだけで、本格的なデモ隊にはなれなかった。

深夜、デモに参加しての帰り、高田馬場の福山君のアパートに辿り着いて、そのまま寝付いてしまった。
早朝早く、福山の母が秋田からやってきて、私が持ち込んだヘルメットを見るや、ヤマオカさん、ここに座りなさいと怒鳴られた。
貴方のお父さんやお母さんは、こんな姿を見たら大変な勢いで怒られますよ。
私は寝不足のこともあって、黙って頭を下げたまま、聞き入った振りをしていた。
よそのオバサンに、これほど怒られたのは初めてだった。

友人は、学校を卒業して何日間は、葉山の森戸海岸にあるソニーの保養所で働いたこともある。
その保養所の業務の責任者は、サッカー部の1年先輩で、何かと面倒を見てくれた。
お陰で、私たち家族もよくこの保養所に行って、砂浜に隣接したプールで、思い切り泳がせてもらった。
温かいシャワーがあって更衣室を唯で使い、プールも無料、幸せ者だった。
秋田支配人は、こんなちょっとルーズは使用にも、目が甘かった。
私だって、友人がアルバイトに行っていた時より10年ほど経ってから、1ヶ月アルバイトをさせてもらった。
年を採っているからか、学生アルバイトよりも時給ちょっと張り込んでくれた。
私たちはいっつも、楽しいことばかりやっていたことになる。

友人が保土ヶ谷にある私の自宅で何ヶ月間か一緒に過ごしたこともある。
友人の布団は、2階にある屋根裏だった。
そんな環境でも、寝る時は大人しくなる訳だから、喜んでくれたと思っている。
その当時は、友人は日本00新聞とか言う会社に勤めていた。
友人の出身地の兵庫か岡山の地縁なのか金縁なのか、縁をどうしても付けようとしてくれた人がいたのか、いなかったのか、私には何もかも解からん。
良く解からん新聞社でなあ、と入社したころから、友人は余り気乗りしていなかった。
道理で、割と早い目に退社した。

そんな日を過ごした、ある夏の日。
私が大学を出て、入った会社の入社訓練1年後にして配属になった事業所が大磯海岸に沿った所に作ったプールだった。
支配人さんは私がお世話になった大学の競泳部出身だった。
この支配人とは好き、嫌いがはっきりしていて、この場では何とも果てない。
当時、割と生半可過ぎる管理的な従業員だった、そこで日常やらなればいけなかったことは、場内の整備が滞りなく行き渡って入ることの管理だった。
そしたら、何と友人が水色のビキニ・スタイルの女の子と仲良くしている風情だった。
そのビキニ・スタイルが、晴れやかな友人の現在の奥さんだ。
その時、イマジネーションだけれども、彼女のことに思いついたのがトンガだった。
このトンガということについて、話せば難しいことになるので、避けたいが、トンガという言葉と友人の奥さんが、何是(なんぜ)こんなところで一緒になってしまうのか、と思われる方は多いと思う。
許せ、友人。
それが、君と奥さんの私が描いた最初で、今だに続いている骨格なんだ。

それから、お互いに自分たちの結婚から何人かの出産と生長、自宅を購入したことや工場兼住宅の改築、当たり前だけど忙しいことばかりの時代を健康に過ごした。
その何かがある度に、お互いに助け合ったり喜び合ったり、この50年は大変濃い時間を過ごしたと思う。
知恵を出し合ったことには、誇れる。
でも、そこで、私は悔いばかり残すような振る舞いをしたことに、すまないと思う。
そのことに関して、友人は常に常識ばった、良識に溢れる行為をしてくれたことに、今さらながら深く感謝する想いだ。


友人たちは我家に入った。
お茶を前に、友人たちに、ここで話しておかないと忘れてしまうので言いますけれど、奥さん、この友人はとっても好い奴で、彼方は感謝しなアカンで。
それに、貴方の父たちが育てた家業に、よくこの男は頑張ってくれていると思うけど、奥さんは、どう思われますか。
奥さんは、笑みをたっぷりと微笑んでいた。

今だに、ヤマオカさん夏にはどこか? 丹沢山系の一角にでも登りましょう、と粋なことを言ってくれる。
昨夏はサッカー部の後輩と大菩薩峠を登った。
それには、登る前から足腰のことが悲観していたが、なんと3時間近く登りきった。
そんなことを友人に話し、ひょっとして今年ならば、滅茶苦茶激しい山道は無理かもしれないが、難とか実現できそうだ、と話すと友人は喜んでくれた。
このことを、どんな状況になるかは知れないが、実行してみたい。

★思いだしてきたことを、前も後ろも気にすることなく、気ままに著してみた。
今日以降も、何かとあれば、書き添えていこうと思っている。

これが、友人と私の人生共同物語りだ。
よろしく。