2019年2月8日金曜日

懐かしい友人が我家に来てくれた

昨日20190120、大学時代からの「友人」が我家に来た。
この日は友引だった。
この文章では、友人のことを姓名で著せばいいのだろうが、プライベートな問題その他で友人に迷惑を掛けたくないので、友人とする。
今までの私の人生50年において、掛け替えのない友人だ。

友引とはこういう日だ(ネットより)。
・陰陽道(おんようどう)で、凶禍が友人に及ぶとする方角
・中国の暦法の六曜のひとつ。
本来の意味は、「何をしても勝負がつかない日」。
日本では、「友を引く」という言葉のため、この日に葬儀を行うことを嫌います。

私が2年生、友人が新入部員として、私の前に現われたのは、寮の玄関前だった。
お前は、何処から来たんや? 学校は何処や?と矢継ぎはやに質問した。
友人は、兵庫県の明石や、学校はジュンシン学院(きっと淳心と書くのだろう)です。
何や、その学校名は?
学院というのは、大体キリスト系の学校が多く、きっと神父さんや修道女さんが、構内をうろうろしてるのと違うか(ちゃうか)、私の質問はどうも現場知らずだ。

力の無い、踏ん張りの効かないプレーは余り評価できるものではなかった。
しっかりやってくれよと応援した、それから暫くして、私は友人と仲良くなってしまった。
中学校からか高校からか、きっと立派な学校だったことだろう。
父母は、東京の学校へ行って、立派な会社に入ることを願っておられたようだ。

もうこの人には頭が上がらない。
大学2年生だったか3年だったか、私は私なりに、この大学のサッカー部でやり切れるかどうか、やり切れたとしても、それでエエのかどうか、悩みきっていた時期があった。
そんな時、いっつも私の傍に彼は居てくれた。
私の間の抜けた会話にも、懲りずに付き合ってくれた。
彼だって、彼なりに悩んでいたことがあったのではないか?と思うが? 彼には彼らしい根性があったのだろう。

友人の住まいを今の西武球場がある辺り、山口線の然るべき駅から歩ける場所のアパートに引っ越したのには興味が沸いた。
当然当時には西武球場はなかったので、何是、こんな田舎に住むことにしたのか、此奴はただ者ではないぞと、思った。
ポテトチィップか蝦せんを持って、アパートに行った時の興奮は、げらげら笑うだけではすまされめえ、だ。
アパートの周りは樹木に溢れていて、なんでこんな山場に住むことにしたのだろうか、と疑問をもった。
友人がこんな山場を好むんだったら、私の田舎だって、友人には恰好(かっこう)の住処(すみどころ)になる。

グラウンドの傍にある各クラブの部屋、その奥にあった共同浴場は、先に入るクラブ次第でその汚れが気になった。
たまには、砂の一部もあるし、余りそれらしき物に感じる神経をもってないのに、浴水の汚れが異常に汚いことだってあった。
その汚れが異常だった時に、浴槽に入ることなく、近所の銭湯に出かけることも度々あった。
この時に仲間うちになってくれるのは友人だった。
たらふく銭湯で楽しみ、お金をお支払する娘さんの可愛いことって、ありゃ、参りました。
それ以外にも、ナンダカンダと楽しむのです。
そして、それからの帰り、友人が肉屋さんがやっている鶏の手羽焼きを眺め、ヤマオカさん、美味そうやなと、堪らない声を出す。
そりゃ、美味そうやけど、俺は金持ってないから買えないけれど、お前、俺の分を買ってくれる。
ヤマオカさん、大丈夫ですよ、俺、お金持ちやサカイに。
そして、俺は友人のお世話になった。
友人とは、この手羽焼きだけではない、随分、いろんなこと、いろんな物で、大いにお世話になった。

食べ物に関して、二人には他人に話せない秘事をやってのけた。
今でこそそんなに珍しくないけれど、当時は元禄寿司か?何かそんな名前の回転寿司に2人して出かけた。
もう50年以上も経つから、そんな罪は求められないだろうから告白する。
三鷹か吉祥寺だったと思う。
回転寿司で食っても食っても、食い終えた皿を、持ち込んできた大きなバッグに次から次に入れ込み、当然、それは無銭飲食のための工夫だった。
友人はサッカー部をやめていたが、私は不甲斐ないサッカー部員。
友人は友人らしく大食で、私はずるいことには滅法強く、幾らでも食えた。
お金を払う時こそ、はち切れんばかり緊張したが、何とか無事に済んだ特は、100メートル前後の人にだって聞こえそうな大笑いをしたものだ。

回転寿司だけではない。
高田馬場の本屋さん、友人は本を盗むことだって上手だった。
私は現役のサッカー部、そんな大胆なことできそうになく、じっと友人の手際の好さをチェックしていた。
お前、将来、お金を多少儲けた際には、何かお礼でもしなアカンで。

無闇矢鱈(むやみやたら)に、何でもかんでも、腹の底を割って話せるものではない。
こんなに下手繰(へったく)れな私が、この状態をこのままやって行っていいものか、この際止めて、違うことを考えた方がいいのではないか、私の頭の中は、大いにコンガラガッテいた。

1日前(0119)に友人から電話があって、明日午後3時頃にお邪魔しますが、エエですか?と電話を受けた。
私は、何があろうとお前が来てくれるなら、具茶具茶、滅茶苦茶、言うことはないよ、誰が何と言おうが、朝から晩まで、いつでもイイから待ってるぜ、と承諾した。
彼は、ヤマオカさんはソウ言うけれど、奥さんに電話して確認させてもらいますから、なんてことを申す。
私を信頼してない大(おお)一番の鬼証拠だ。

奥さんと一緒に立派な車に乗って、やってきた。
私は昨日に我がイーハトーブ(畑)に行って、伊予柑(いよかん)と八朔(はっさく)をそれぞれ20個ほど土産用に用意しておいた。
友人の家族だけではなく、働いている社員にも上げてくれよ、と諭した。
ミズナも何株かを袋に入れておいた。
一口にミズナと言うけれど、味噌汁、酢の物、鍋物に使えると言うと、ヤマオカさん、何是、そんなに詳しいの?ときた。
今期はどういう訳か、ミカン、ミズナがいっぱい採れた。
もうこれ以上食べたくない、と苦痛に近い状態だった。
そんなこと言ったって、私は悔いることなく、毎日毎日きっちり食べていた。
多くの柑橘類を纏めて、土産だよと上げても、貧相に見えるのが嫌だった。
そんな貧相なものでもない。
高級品だと言うことは、友人は理解していた。
それで、友人が我家に入ってくれたところで、丁寧に説明をしたが、友人はよく理解しているようで、有難うと返答してくれた。

それから、テレビの脚本づくりをやっていた馬島さんに会い、共有の仲間になった。
友人はこの仲間になった理由は詳しく話していないが、私はこの親父に頭を可笑しくさせられてしまった。
たまたま、私がよく読んでいた作家のことに理解を示してくれた。
私は学業は兎も角、サッカーだって今いち優れない状態で、何かその空いた隙間を埋めてくれる人を求めていたようだ。
夜遅く会話をしていて、何かの拍子で、とんでもないことを喋る事だってあった。
私の心の奥底に潜めている、他人に言えないようなことを何気なく喋ると、異常に同情してくれたことがあった。
太宰治は新戯作派、無頼派と称された。
その仲間たちは、坂口安吾、織田作之助、石川 淳、檀 一雄、太宰の死体を運んだ山岸外史、太宰の墓前で自殺した田中英光。
津島佑子、愛人太田静子との間に太田治子、玉川上水に入水した山崎富栄。
この作家や人物の話をすると、私の知らないことをどんどん教えてくれた。
そんな夜話に、私は狂って行った。
友人もその折、一緒だったこともあるが、彼は何をどのように考えていたのだろうか。
そして、私は昼間はサッカー部、夜、革マルのヘルメットを被り角棒を持って、恰も革命軍の心算で、デモに参加していたこともある。
見かけだけで、本格的なデモ隊にはなれなかった。

深夜、デモに参加しての帰り、高田馬場の福山君のアパートに辿り着いて、そのまま寝付いてしまった。
早朝早く、福山の母が秋田からやってきて、私が持ち込んだヘルメットを見るや、ヤマオカさん、ここに座りなさいと怒鳴られた。
貴方のお父さんやお母さんは、こんな姿を見たら大変な勢いで怒られますよ。
私は寝不足のこともあって、黙って頭を下げたまま、聞き入った振りをしていた。
よそのオバサンに、これほど怒られたのは初めてだった。

友人は、学校を卒業して何日間は、葉山の森戸海岸にあるソニーの保養所で働いたこともある。
その保養所の業務の責任者は、サッカー部の1年先輩で、何かと面倒を見てくれた。
お陰で、私たち家族もよくこの保養所に行って、砂浜に隣接したプールで、思い切り泳がせてもらった。
温かいシャワーがあって更衣室を唯で使い、プールも無料、幸せ者だった。
秋田支配人は、こんなちょっとルーズは使用にも、目が甘かった。
私だって、友人がアルバイトに行っていた時より10年ほど経ってから、1ヶ月アルバイトをさせてもらった。
年を採っているからか、学生アルバイトよりも時給ちょっと張り込んでくれた。
私たちはいっつも、楽しいことばかりやっていたことになる。

友人が保土ヶ谷にある私の自宅で何ヶ月間か一緒に過ごしたこともある。
友人の布団は、2階にある屋根裏だった。
そんな環境でも、寝る時は大人しくなる訳だから、喜んでくれたと思っている。
その当時は、友人は日本00新聞とか言う会社に勤めていた。
友人の出身地の兵庫か岡山の地縁なのか金縁なのか、縁をどうしても付けようとしてくれた人がいたのか、いなかったのか、私には何もかも解からん。
良く解からん新聞社でなあ、と入社したころから、友人は余り気乗りしていなかった。
道理で、割と早い目に退社した。

そんな日を過ごした、ある夏の日。
私が大学を出て、入った会社の入社訓練1年後にして配属になった事業所が大磯海岸に沿った所に作ったプールだった。
支配人さんは私がお世話になった大学の競泳部出身だった。
この支配人とは好き、嫌いがはっきりしていて、この場では何とも果てない。
当時、割と生半可過ぎる管理的な従業員だった、そこで日常やらなればいけなかったことは、場内の整備が滞りなく行き渡って入ることの管理だった。
そしたら、何と友人が水色のビキニ・スタイルの女の子と仲良くしている風情だった。
そのビキニ・スタイルが、晴れやかな友人の現在の奥さんだ。
その時、イマジネーションだけれども、彼女のことに思いついたのがトンガだった。
このトンガということについて、話せば難しいことになるので、避けたいが、トンガという言葉と友人の奥さんが、何是(なんぜ)こんなところで一緒になってしまうのか、と思われる方は多いと思う。
許せ、友人。
それが、君と奥さんの私が描いた最初で、今だに続いている骨格なんだ。

それから、お互いに自分たちの結婚から何人かの出産と生長、自宅を購入したことや工場兼住宅の改築、当たり前だけど忙しいことばかりの時代を健康に過ごした。
その何かがある度に、お互いに助け合ったり喜び合ったり、この50年は大変濃い時間を過ごしたと思う。
知恵を出し合ったことには、誇れる。
でも、そこで、私は悔いばかり残すような振る舞いをしたことに、すまないと思う。
そのことに関して、友人は常に常識ばった、良識に溢れる行為をしてくれたことに、今さらながら深く感謝する想いだ。


友人たちは我家に入った。
お茶を前に、友人たちに、ここで話しておかないと忘れてしまうので言いますけれど、奥さん、この友人はとっても好い奴で、彼方は感謝しなアカンで。
それに、貴方の父たちが育てた家業に、よくこの男は頑張ってくれていると思うけど、奥さんは、どう思われますか。
奥さんは、笑みをたっぷりと微笑んでいた。

今だに、ヤマオカさん夏にはどこか? 丹沢山系の一角にでも登りましょう、と粋なことを言ってくれる。
昨夏はサッカー部の後輩と大菩薩峠を登った。
それには、登る前から足腰のことが悲観していたが、なんと3時間近く登りきった。
そんなことを友人に話し、ひょっとして今年ならば、滅茶苦茶激しい山道は無理かもしれないが、難とか実現できそうだ、と話すと友人は喜んでくれた。
このことを、どんな状況になるかは知れないが、実行してみたい。

★思いだしてきたことを、前も後ろも気にすることなく、気ままに著してみた。
今日以降も、何かとあれば、書き添えていこうと思っている。

これが、友人と私の人生共同物語りだ。
よろしく。