2019年10月31日木曜日

対馬と済州島

私には大学時代のクラブを通じて50年以上仲の好い友人がいる。
その彼の家を訪れた30年ほど前のこと、洋間にあった書棚に、金石範氏の「火山島」が何巻かあった。
全7巻だったようだ。
その時、あれはどんな本なのと聞いた私に、彼は静かな口調で韓国では難しいことがあったんだ、それが済州島でな。
私の父もその影響を受けて嫌な想いをしたもんだ、と答えた。

特にそれを「4・3事件」という。
1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起した。
官憲らの容赦ない鎮圧が数年続き、数万の島民が虐殺された。
その鎮圧を避けるために幾数万の島民は、日本をそれも対馬を目指した。
友人の父はその4月3日に済州島を去ったのか、その前後だったのか、そのことは聞き忘れた。
とんでもない厳しい航行だったようだ。
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友人の父は済州島に住んでいたので、亡くなった際の納骨はその地の墓地で行われた。
私も友人は一緒に行こうと行ってくれたので、同行した。
今から50年前、済州島では土葬が常だった。
友人の父は大阪で亡くなったから、大阪で火葬された骨だけを持参して、人の形に墓地を掘って、あたかも寝ればこのような形になるんだろう、と言って骨をそれらしく置き、そこに砂をかけた。
墓場を準備された人、骨を置いた人、お坊さんは凄く緊張に慎重だった。
私は今まで得たことのない心配りを、知らず知らずにしていた。
仕上がった墓は、半円球の上ばったものだ。

納骨の仕方も日本とは随分違ったと思われた。
繰り返します、韓国の人たちは、凄く丁寧で緻密なやり方だったことに目を奪われた、

そして、今回の朝日新聞の記事に繋がってくる。
「4・3事件」と言われた事件の犠牲者の冥福を祈るための記事だったので、新聞から切りとって、机の隅っこに放(ほう)りぱなしにしてあった。
その記事をそのまま下に転載させていただいた。

そこで唐突に思いついたことは、来年は東京オリンピックがあるのでサボってはいられない。
ならば翌々年の1921年の夏過ぎにでも対馬に行ってみたくなった。
友人がそれほどまで、痛み苦しんでいる「対馬と韓国」のことを、実際に身をそこに納めてこそ、真に理解できるのだろう。
済州島のことは知ったが、対馬については何も解らない、このことに身がよじれる。


Tsushima island ja.png
★いつかの朝日新聞・朝刊の 社説余滴 中野 晃(あきら)
対馬と済州島を結ぶ碑
国境の海が広がる。
対岸の韓国・釜山(ぷさん)からわずか50キロ。
対馬(長崎県)の北端、佐護湾の海浜に「供養塔」と刻まれた四角い石碑が立つ。

9月の日曜日、日韓の市民約60人が集まり、記者も手をあわせ。
韓国の済州島(チェジュド)で約70年前にあった「4・3事件」の犠牲者の冥福を祈るためだ。

石碑は、対馬市の江藤幸治(ゆきはる)(62)が12年前に建て、追悼を重ねてきた。

その前年、亡父に海岸の岩場に連れ出された。

終戦の数年後、連日のように水死体が漂着、火葬して弔ったが、数が増え、穴を掘って埋葬したという。
あわせて数百体に及び、着衣から韓国の人と解ったそうだ。
「歴史を伝えた」父は間もなく他界しした。
対馬から潮流をさかのぼると、済州島沖に連なる。

1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起。
官憲の容赦ない鎮圧が数年間続き、数万の島民が虐殺された。
体を縛られて海に投げられた人も大勢おり、対馬にも流れ着いたとみられる。

「済州4・3犠牲者遺族会」の宗承文(ソンスンムン)会長(70)は約20年前に対馬を訪れ、漂着した遺体を取材した地元紙の記者に会った。
数珠つなぎにされ、柿渋で染めた済州島特有の着衣だったと聞き、目が潤んだ。

いにしえから朝鮮半島との交易の窓口になり、今は釜山と航路で結ばれる対馬も、こじれる日韓関係のあおりで韓国からの観光客の姿はまばらだ。

慰霊祭は、国境をこえた関係者の尽力で実現した。
宗さんは「政治と離れて、対馬でも慰霊祭が続き、痛ましい歴史多くの人に伝わって欲しい」と話した。

開催を呼びかけたのは奈良県に住む詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)。
4・3事件で官憲に追われ、生きるため、済州島から大阪へ逃れた。

日本が支配した植民地朝鮮で生まれ育ち、解放後は南北分断の憂き目を味わった金さんは「歴史の共有」が日韓関係をほぐす鍵と説く。
密接に絡んでいながら日本で知られていないことがあまりにも多いと嘆く。

金さんは「韓日の民心をほぐす慈しみの塔」を建てた江藤さんの手を握り、頭を下げた。
心をひとつにする実直な取り組みの大切さを、国境の島で学んだ。

(社会社説担当)



済州島四・三事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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済州島四・三事件
Jeju SK.png
済州島の地図
場所済州島
日付1948年4月 - 1949年5月
標的済州島の島民
攻撃手段反乱の鎮圧
死亡者14000 - 30000人[1]、或いは全ての戦闘で死亡した国民の5分の1[2]
犯人南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察朝鮮半島李承晩支持者など
動機国家警察および韓国でのみ開催された選挙に対する抗議を鎮圧すること
済州島四・三事件
Jeju Massacre.jpg
処刑直前の済州島民
(1948年5月)[3]
各種表記
ハングル제주 4•3 사건
漢字濟州 4•3 事件
発音チェジュ サ サム サコン
日本語読み:さいしゅう よんさん じけん
英語Jeju massacre
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済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察朝鮮半島李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[4]
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[5]

背景[編集]

事件の現場となった済州島
済州島(1948年9月以降の地図)
洞窟に横たわる犠牲者の遺体(再現)
済州四・三中文面犠牲者慰霊碑(西帰浦市
1945年9月2日日本連合国に降伏すると、朝鮮半島アメリカ軍ソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[4]1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[4]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[4]

済州島民の蜂起と韓国による鎮圧[編集]

1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、これが在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めるともされる[6][7][8]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている[5]
1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[9]
1950年に米軍から朝鮮半島を解放すべく朝鮮人民軍が進撃し朝鮮戦争となると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[10]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[11]
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人[12]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[13]木村光彦青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる[14]。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている[15][16]
この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては右翼団体の妨害もあった。

現在の韓国政府の対応[編集]

長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。
2000年に金大中政権のもとで4.3真相究明特別法が制定され、4.3委員会が設置された。 21世紀になって、2003年2月25日に韓国大統領に就任した盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪し、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに事件の真相解明を宣言した[17]
事件から逃れて日本に渡った済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めた[18]
しかし、その後の保守派の李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)の時代には進展は見られなかった。むしろ2010年以後は中国観光客の増加と中国人による済州島不動産買い占め懸念が問題化し、過去の事件は忘れられつつあった。
2017年5月10日に大統領に就任した文在寅は、就任後初めての4・3事件犠牲者追念日である2018年4月3日の追悼式に2006年の盧武鉉以来、大統領として12年ぶりに出席した。
文在寅大統領は追念辞で「私は今日、その(金大中政権と盧武鉉政権の取り組みの)土台の上に4.3の完全な解決を目指し揺らぎなく進むことを約束します。これ以上4.3の真相究明と名誉回復が中断したり、後退することは無いでしょう。それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし犠牲となった方たちの怒りを解き名誉を回復するようにします。このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう最後まで続けて行きます。遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための政府としての措置に最善を尽くす反面、賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議いたします。」と事件の完全解決に意欲を示した。
文大統領はまた、「未だに4.3の真実を無視する人々がいます。未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。不幸な歴史を直視することは国と国のあいだでだけ必要なことではありません。私たち自らも4.3を直視できなければなりません。古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。」「恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。」と強調した[19][出典無効][20]
事件から71年目となる2019年3月4日、軍と警察が初めて公式に謝罪の意を表明した[21]

落花生だって大収穫だ

落花生は、恐れ多くも「豆」なんだ、決して芋などではない。

         
             収穫した落花生

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マメ亜科、ラッカセイ属の一年草。
原産は南アメリカとあった、ブラジルかな。

上の写真は我がイーハトーブ畑園で、少し前に収穫したものです。
お酒をいただくときなど、いくら皿やパックに載っていようが苦も無くいただいてしまう、私の行儀知らずをものともしない不思議な食べ物だ。

畑の隣家のオジサンにも、来春の植え用のものとして私の畑用の種子から差し出した。
全収穫量は、写真の量の2倍ぐらいはあっただろう。
種子は地元の大地主から貰った12個だったので、無事にそれぞれ芽が出て立派に育ってくれたから、12株、そのどの根にも落花生が育ち、育ての良好な器用もなく、よくぞ採れたものだと嬉しかった。
初めての栽培だ。
この大地主から、収穫しても水で洗うと駄目だよ、来年用の種子をちゃんと貯めておくんだよと指示された。
 
今回の稿は、収穫高の高高(たかだか)と誇る問題ではない。
5月の終わりごろに植えて、11月の終わりに収穫した。
草丈は25センチ以上になった。


落花生の花

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   成育した落花生

夏に黄色の花を咲かせ、花が咲く前に自家受粉する。
受粉後、数日経つと子房柄が下方に伸びて地中に滑り込み、子房部分が膨らんで地中で結実する。
これを地下結実性という。
このように、花が落ちるようにして(花が受粉して落ちて)地中で実を生むことから「落花生」という名前が付けられた。

同一の個体において受粉しても受精すること、またはそうした植物の性質を意味する護。
他の個体同士で受粉しないと受精しないのは、他家受粉という。

中国語では「花生」(ホワション)、「落花生」(ルオホワション)。
ピーナッツ(Peanut)または、ピーナッツ(Peanuts)の語源はPeaピー(エンドウマメ)Nuts(木の実)であるが、名称のみで、実際はエンドウマメの木の実ではない。
「南京豆」とは子供の頃からよく使った言い方だ。
江戸前期、中国を経て渡来したものだから、馴染みの南京を枕に南京豆と呼んだ。

中国の南京市とは何の関係もなくよく使われるのが、「南瓜(なんきん)=かぼちゃ」「南京虫」「南瓜鍵」「南瓜袋」「南京玉すだれ」だ。

横浜に住んで最早50年を過ぎ去ろうとしている。
此処に居て、落花生と聞きば秦野産のものと千葉県産のものを思いつく。
神奈川県の秦野(はだの)の落花生は、ピーナッツの専門店「かまか商店」だ。
秦野の地に根をおろした落花生は豊かな太陽と 大地の恵みによって、皆さんに愛されてきた。
創業百余年、かまかでは初代嘉兵衛からの「おいしい豆で楽しい生活」をモットーに「落花生(らっかせい)」と名づけました。
上の文章は、かまかのホームページよりいただいた。
きっと、千葉には千葉なりの誇りをもって生産・出荷していることでしょう。

50年前、学校を卒業して入った会社で2年後、湘南の海を真ん前にした事業所に所属させられた。
そりゃ、気持ちの好い職場だった。
社員は冬には15人、夏にはアルバイトをいれると650人ほどの事業所だった。
入社して間なしの私にだって100人ほどのアルバイトを管理する、面白い職場だった。そんな事業所には、先ほど話題にした秦野からやってくる高校生や大学生がいっぱいいて、秦野ならではの噂話や、滑稽な痴話話を聞かされた。
そんな学生の中に、実家が落花生の生産者の者もいて、落花生の売れ行きの話をきかされた。
だから、落花生が懐かしいのだ。
アルバイトとの話中、落花生は土がそれほど肥沃じゃなくても、管理次第では大量に採れるものだと聞かされたが、それが事実かどうか確認していないので、間違っているかもしれない。
間違ったことならば、謝るしかない。








2019年10月3日木曜日

パリに見出されたピアニスト

映画・「パリに見出されたピアニスト」
パリに見出されたピアニスト

20191001(火)、9:00から横浜シネマ/ジャック&ベティで観てきた。

偶然、27日の朝日新聞の夕刊を見ていて、私が好む映画館のスケジュール欄でこの映画を知った。
供給管理会社は東京テアトル株式会社。
この会社が何らかの役割を果たしていると思えば、この映画に急に興味を持ち出した。




20190927の朝日新聞・夕刊から(★)部分を転載させていただいた。


芸術への献身が断絶溶かす
パリ北駅、バッハの調べ。
演奏するのは革ジャンの青年マチューだ。
荒れた団地育ちの彼は、仲間と強盗に手を染め警察に追われる身の上。
かって近所の老紳士にピアノの手ほどきを受けたが、今は駅に置かれた公共のピアノで慰みの演奏をする。
通りかかるのは音楽院ディレクターのピエール。
不意打ちの旋律に胸打たれ、ただ立ち尽くす。

ピエールはマチューを強引に音楽院に引き入れ、国際コンクール出場を後押しする。
課題曲はラフマニノフのピアノ協奏曲。
楽譜も読めぬ不良少年の無謀な挑戦だ。
しかし、問題は技術の習得より、未来を切り拓く勇気を持てるか否か。
夢見ることを禁じられてきた人間には、それが難しい。
複雑で抒情的な旋律は苦悩や怒り、葛藤と絡み合い、やがて陶酔の境地へと誘う。

格差社会とは持たざる者に夢を挫(くじ)けさせるシステムでもある。
だが芸術は断続を溶かす力を持つ。
エリート教師も不良少年も、結局は音楽なしで生きられぬ似たもの同士。
違いを強調し対立を煽(あお)る不穏な時代、共感と感動で人を繋(つな)ぐ芸術こそ社会に必要不可欠だろう。

反逆性とナイーブさが同居する青年に扮するのは名優ジャン=ルイ・トランティニャンの実孫ジュール・ベンシェトリ。
監督は英仏双方で活躍する職人肌の仏人ルドヴィク・バーナード。
曖昧さと革新性が魅力の仏映画を期待すると肩透かしを食らうが、ドラマティックな照れがない手堅い人間ドラマに身を任せれば実に心地よい。
炭鉱町の少年がダンサーを目指す英国映画「リトル・ダンサー」の影響下にある本作は、芸術に献身することの崇高さを思い出させる。

(林瑞絵・映画ジャーナリスト)


バッハ、ショパン、リスト、 ラフマニノフなどクラシックの名曲満載

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マチューの楽しみは、自分を追う警察官の目を盗んで、そのピアノを弾くことだった。
そこへ通りかかった音楽学校のディレクター、ピエールはマチューの才能に強く惹かれ、ピアニストとして育て上げたいと声を掛ける。

乗り気ではないマチューだったが、実刑を免れるため無償奉仕を命じられた音楽院で、ピエールや厳しいピアノ教師エリザベスの手ほどきを受けることになる。
生い立ちに恵まれず夢など持たずに生きてきたマチューは、周囲との格差や環境の壁に直面しながらも、本気で音楽と向き合うようになっていく。

ピエールは所属する音楽学校のディレクターとして、マチューに国際コンクール出場を進めた。
上司には上司ご自慢の学生がいたが、どんなことがあってもマチューを出すと意気込んだ。
ピエールは音楽学校における自分自身の教師としての資格までマチューに賭けた。
マチューが出場して、悲しい結果になれば、自分はこの学校を去るという。
ピアノの全てを教えた女性の教師・エリザベスとピエール、マチューの3人はコンクールの日までの暫らくの日時をピアノに嵌(は)まり込んでしまった。
3人は一房の蓮に、共同運命的に乗っかったのだ。
その音楽学校で、弦楽器を弾く女学生と愛に陥る。
彼女は直(ひた)向きなマチューを陰で表で支える。

マチューは母にもコンクールのことは話さなかったが、最後の最後の段階になって話すことになる。
コンクール開催の当日、今まで一所懸命に練習をやってきたけれど、やはり、こんな状態ではコンクールに出場することはできないと、一時は断念すると腹を決めた。
でも、コンクールの開始時間が確実に迫りきってきた、その数時間前に弟が走り回るオートバイと接触して病院に入院、手術をすることになった。
母とマチューは病院にて、弟の状態を案じた。

しばらく経って、マチューはコンクールに出場することを決意した。
仲間たちの車に乗せてもらい急いだが、道路は車両が異常に混んで進めなくなり、車から降りて人ごみの中を猪突猛進、走って会場に向かった。

会場のピアノ前の椅子に座ったが、心の弾みの静まるのを待った。
そして、演奏が始まった。

マチューの見事な演奏に、会場の人びとはスタンディングで拍手をした。


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館内でいただいたパンフレットの一部をそのまま掲載させてもらった。