2018年4月21日土曜日

農山漁村電気導入促進法の制定

3月に高橋和巳氏の「散華」の再読を終えて、先回のブログ(4月17日)を書き上げている最中に、4月4日の朝日新聞の夕刊で下の記事にでくわした。
余りにも、「散華」と関係の深い内容に縁を感じた。

「散華」は、大型の電気会社が自社で作った電気を各地に伝導するために、土地の購入や賃借をして、鉄塔やその他の施設を作るための行動を起こしていた。
その電気会社の地上げ担当者と、電気会社が用地として狙う孤島に一人で生きる老人との戦時中における思想や行動について、激しい戦いが生まれた。

電力会社の社員は、戦時中は「回転特攻隊」、老人は武士道の伝統をひく「ファシスト」。
この二人の交渉ごとから、国を想う気風・気概や精神内容についての戦い。
それらの経緯がメインテーマだ。
その内容に遮二無二になってしまった。
学校を卒業してから10年後、「高橋和巳」教に嵌(は)まってしまった私には、貴重な本の一つだった。

この電力会社の社名は本の中では記されていない。でも、可笑しな私は、今回の新聞記事と同じで、中国電力ではないか、と勝手に考えてしまった。
そうすると、私が読んだ「散華」とこの新聞記事がつながって、余計面白いのではないかと妄想した。
ヤマオカのそういうところが面白インや、と友人からいつも言われてきた。

「散華」の粗筋や読後感想を描いて、その余韻に慕っていた。
そんな時に、この新聞記事が私の目の前に現れたものだから、古新聞として捨てるわけにはいかない。
自宅の我が物コーナーに置いてあったのを改めて読んで、その内容に関心させられた。

そして現在は2018年。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災から1時間後に、高さ14~15メートルの津波に襲われ、福島第一原子力発電所が大きな災害を受けた。
1万人近くの人が亡くなったり行方不明の人たちが生まれた。
災害の種類は多く、被害は膨大だ。
そこで、今、人々の関心は日本全国にある原子力発電所の安全問題に駆られている。
現在の与党である自民党や公明党でも批判者が増えていて、野党ははっきり原発0(ゼロ)を目指している。
私は勿論、ゼロ派の一員だ。

そんな時期での、「散華」であり「小水力発電」、そして「原発の是非」だ。



 1952年(昭和27年)
農山漁村電気導入促進法の制定

小水力発電 自治の原動力に

銀行の大卒の初任給が1万5千円だった1950年代半ば、年100万円の利益をあげる事業が中国地方の農山村約50か所で成り立っていた。

小水力発電である。
農協などに限って政府の融資による発電所建設と電力会社への売電を認めた。
52年制定の農山漁村電気導入促進法のお陰だった。
その実現に奔走したのが中国電力の前身、中国配電の元取締役・織田史郎さん、日本初の五輪金メダリスト・織田幹夫さんの兄である。

「農村を豊かにして食糧増産を」。
戦後の食糧難打開のため織田さんは、のちに参院議長に9年在住、「天皇」と呼ばれた重宗雄三議員を頼る。
発電機などを製造する明電舎の社長を戦前から務める懇意の人物だ。
その後ろ盾を得て議員立法による売電の仕組みができたが、当時の通産官僚は「電気事業者に不当な負担を課さない」との一項を紛れ込ませていた。
これを盾に織田さんの古巣の中国電力以外は買おうとせず、小水力発電は中国地方が中心になる。

織田さんは全国の地形図から発電の敵地を探し、現地を歩いた。
水資源の活用を説いたが、原油価額が1バレル=2ドル弱の時代だ。
霞ヶ関の官僚は冷淡だった。
「石油だと1キロワット時あたり2円で発電できる。4~5円かかる小水力は不要です」。
織田さんは怒った。
「石油はいま安い。しかし、小水力なら高くても金は地元に落ちるじゃないか」

                  ★

戦前、電力会社は採算の合わない農山村に送電せず、各地の町村は小水力発電所を建てて地域に電気を供給した。

宮崎県南部の南那珂郡十六ヶ町村組合は発電事業の利益を財源に大正末期から高等女学校を経営した。
住民の払う電気料金が教育に生かされた格好だ。
銀行の初任給が70円だった36~40年には毎年8千円を電灯・電柱の数に応じて加盟町村に分配している。

戦後、郡北部の町村の合併で誕生した日南市を先頭に組合は、九州配電へ戦時中強制統合された事業を戻すよう政府与党に要求した。
日南市教委生涯学習課長を最後に3月退職した岡本武憲さん(60)は「特産の飫肥(おび)杉を輸出して盛んに外貨を稼いだ時期。
地域経済に勢いがあるから国にもモノが言えたのでしょう」。

9電力体制の成立後は九州電力と3年間交渉したが叶(かな)わず、九電が5500万円を組合に支払うことで62年に決着する。
その配分金を含む約1億円を投じて日南市は文化センター建設を決め、翌々年の東京五輪の舞台・国立代々木競技場を手がけた建築家丹下健三さんに設計を依頼した。
小水力発電の記念碑といえる建物は今も現役だ。

「小水力は半永久的な地域の資産です。織田史郎が70年前に造った発電機も手入れさえすれば回る」。
そう指摘する全国小水力利用推進協議会の代表理事沖武宏さん(76)は、冒頭の売電システムを考えた織田さんが創業者の広島・イームル工業の元専務だ。

 
「地形図を広げて小水力発電の適地を探すのが楽しみ」と語る織田史郎さん
(1979年)

                     ★

小水力利用のモデルケースとして沖さんは岡山県西粟倉村を挙げる。
人口1500足らず、森林が95%を占める。66年、農協名義で村が小水力発電を始めた。

2012年、再生可能エネルギーによる電気の買い取りを電力会社に義務づける制度(FIT)が創設される。
これに伴って設備を更新し、売電単価は約5倍、収入は年7千万円に増えた。
村の税収の半分に相当する。
売電収入を積み立てた基金から1億円を繰り出し、官製ファンドなどからの借入金も合わせて第2発電所を建設する計画だ。

村産業観光課主幹の白籏佳三さん(55)は「売電収入が増えたら地方交付税は減らされますが、ひも付きでない財源がある意味は大きい」。

補助金を活用し、村は木質バイオマスにも取り込む。
山に放置されるC級材が燃料の薪ボイラーを温泉施設3ヶ所に設けた。
運営を担うベンチャー・sonrakuの社長井筒耕平さん(42)の夢は各戸に薪ボイラー1台。「山村だから可能なことです」。

村は木質チップバイオマスボイラーを新設して地域熱供給に乗り出す。
燃料は製材の過程で出る端材だ。総延長4キロ弱の熱導管を巡らせて小中学校や子ども館の暖房・給湯に充てる。
目標は再生可能エネルギーによる100%自給である



岡山県西粟倉村の改修前の小水力発電所。建屋は開業当初のまま。水車に水を送る水圧管が背後の斜面に見える=2013年、村提供


日南市文化センターのモチーフは日南海岸の天然記念物「鬼の洗濯板」=宮崎県日南市


視察に訪れた男性に薪ボイラーについて説明する井筒耕平さん=岡山県西粟倉村

(田中啓介)



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★私ごときことではありますが、中国配電の元取締役の織田史郎さんの兄、織田幹夫さんは私がお世話になった大学の教授でもあった。
今から約50年前、織田教授の体育系理論の授業を受けて、その試験を受けた。

授業と言ったって、自分の競技者としての思い出話が60%で、残りの時間はそれなりのものだった。ユーモアに溢れた授業は楽しかった。

1,2年生の時はキャンバスの全部がロックアウトしていたので、まっとうな授業は受けていない。
だから、3,4年生のときのことだろう、試験の出来はどうだったのか、私自身でさえわからないが、何故か「優」をつけてくれた。
教授はサッカー部の理事でもあったので、答案用紙に「サッカー部です、いつも有難うございます」と記したのがよかったのだろうか!

広島県安芸郡海田町出身。
1928年、アムステルダム五輪で、アジア人としても日本人としても初めてのオリンピックで金メダル。
その後、彼のことを「陸上の神様」とか「日本陸上界の父」とか言われた。
早大時代に「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と長すぎる競技名を「三段跳」と訳した。
彼の後、三段跳は1932年に南部忠平、1936年に田島直人が連続して金メダルを獲得した。


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2018年4月17日火曜日

散華(さんげ)  

先月、高橋和巳作品集6《河出書房新社》の「散華」を読んだ。
散華の読み方は「さんげ」。

先ずは散華とは何ぞやと思った。
いつものようにネットで調べてみる。
散華とは、ネット・ウィキペディアで花を散布すること。
仏教では仏を供養するために華を散布する。
また華を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死することの婉曲表現として使われている。
仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降ろしたという故事にちなんで行われる、とあった。

昨年4月に「堕落」を読んでからの高橋和巳シリーズだ。
大学を終えて10年ほどした頃、シッチャ気(き)?になって読んだ。
シッチャ気って、俺の田舎の方便かな?と字引で調べたが、出てこなかった。
このシッチャ気は、標準語では「遮二無二(しゃにむに)」なのだろうか。
大学中は戯作文学類に酔っていたので、高橋和巳モノまで手を出すことはできなかった。
サラリーマンになって10年、高橋和巳作品集全9巻のうち6巻までを中古品で買うことができた。
7,8,9巻は私には難しかった。

「悲の器」「邪宗門」「我が心は石にあらず」「我が解体」「堕落」「白く塗りたる墓」を読んで、それから底知れずどっぷり嵌(はま)り込んでしまった。

友人と酒を飲んで読書の話をするときに、私は恥ずることなく、高橋和巳のことを話した。
私の傾向は、戯作文学から高橋和巳に移ったのだ。
純真、清純、清澄 反権力的な高橋和巳の信奉者になってしまった。
熱狂的なデカダン派だった私は、いつの間にか高橋和巳教に変わってしまったのだ。


★あらすじ
注=本書「散華」の文章から、多くそのまま使わせてもらった。それらをダイジェストして仕上げた。

電力会社の社員である大家次郎の仕事は、送電線設置に向けた地上げ交渉だった。
正確に言えば、用地の提供を渋る地権者に保証金を積んで翻意させることだ。
電力会社では、補償課長の西尾、補佐・大家および課員・水野の3名には、電線を将来架橋される自動車鉄橋に埋め込む可能性を考慮して、鳴門海峡ならびに明石海峡に張るべき電線の基点となる大鉄塔建設のための土地買収を命じられた。
大家次郎のことを、以後大家と称する。

この3人でまず造船会社をめぐって、将来建造されるべき最豪華客船の高さをはじめ、汽船会社で海峡の就航可能の幅を確かめ、本社に連絡して、予定鉄塔の高度・位置・底辺面積を再確認する。

仕事は土地買収のためのあわただしい出張だ。
頑迷な淡路島の*村の村会議員を相手に、鳴門海峡に面する丘陵の一画を買収する折衝は長引いた。
村役場のわきにある真言宗の寺院の一室に陣取り、一人ずつ交替に、3日間、村会議員と対面し続けた。

土地を提供することがこの僻地の発展にいかに貢献するか、日本最高の大鉄塔が観光資源としてどんなに膨大な利益を将来に約束するか、また国家的見地からも、この計画は早急に実現されねばならない、と訴えた。

夜、海浜の料亭に移され、芸者入りの宴会を行った。
そして課長が「どうやら大家君に2、3日、ロビンソン・クルーソーになってもらわにゃならんな」と言う。
それは、この孤島への出張のことだった。

どして、電力会社の大家は、孤島に上陸した。
老人が戦後にたったひとりで住みついた孤島は、大桑島の燐島を基点として、淡路島の東南端に架線する位置にある。

岩礁に腹ばいになって嘔吐せねばならなかった。烈しい船酔いだ。
胃液ばかりの嘔き物は、恐ろしく透明な海水が泡をたててさらっていった。
この孤島は、淡路島と四国の間をうずまく鳴門海峡のはずれ。
この島は目算で周囲ほぼ3キロ、激しく潮の流れる海峡に位置して3面はけわしい崖の断崖。

老人がいた。
彼の名前は中津清人だ。
これから、中津のことを老人と称させてもらう。
大家は老人に「こうして島の真ん中に立ってみると、わりあいに広いんですな」と言った。
瀬戸内の島の多くがそうであるように、島には男松が生え、中央部の平地が貧しく開墾されていた。
芋と南瓜、わずかな野菜。島の南端にある高みに2,3株の蜜柑。
縮れたいも蔓のあい間を野鼠が走った。
しかし、老人の肩の上の三毛猫は眠ったように動かない。

この老人、地上げのために向かった瀬戸内海の小島では、戦時中死の美学を唱(とな)え、戦地に向かう若者たちに影響を与えた国家主義の思想家。
特攻を煽動した思想家であった。
そのための罪悪感のために、世を捨て自給自足の隠遁生活を送っている。

大家はこの老人と話すことによって、長いこと忘れていた戦争中の記憶が蘇(よみがえ)る。
戦争中、家族を守ることになると信じて回転特攻隊に志願した。
小型潜水艇による自爆攻撃の訓練を受けていた。
偶然によって生き延び、戦後は火力発電の黎明期に電力普及によって社会の発展に貢献しようと生きてきた。電気会社の出世コースにも乗っていた。
結婚し子どももでき、家族旅行を楽しむ余裕も生まれた。

老人は人の顔を見ると涙の出るほどなつかしい。
君がどういう青年なのか、多少の予想がつく。
しかし、わしは一切の政治、一切の権力にまつわることどもから、はっきり自己流諦した人間だ。
老人は、17年前の、この国の亡国とともに亡(ほろ)びた男だ。

もうすぐ船頭がくるだろう。
三木と言う漁師だ。君のことは彼から聞いておこう。
第1回の訪島は完全な失敗だった。

ある新聞に、徳島と兵庫の県境になっている無名島に老人が住んでいるという記事があった。
大家は、沈み込むような老人の悲哀の表情を思い出した。
新聞社に勤める友人=野呂和義は、「戦争中、『八紘会』というのを奈良の方で組織していてね。その会は解散させられた」。
大家、「それは老人の著述の題名だ」。
野呂、『東洋の復活』『人間維新論』など、そして走り書きされた書名があった。
「それに、サンケの精神とあったが、そのサンケの精神って何だ」。
『懺悔(ざんげ)かな?』
『いや、散華だろう」』
『サンゲの精神?』って何だ?
そのような右翼関係の図書は、敗戦直後、直ぐに焚書された。
日本は戦後、歴史的な恥部の大抑圧をやった。
解明したんじゃなくて抑圧したんだ。


敗戦直後には、なぜ天皇の詔勅ひとつで、全戦闘員が一斉に闘いを静止したのかと、憤っていたこともあった。
いままでの犠牲はすべて無意味だったというつもりかと。
生き延びて帰還し、大学に入って左傾してからも、天皇制の崩壊は、8月15日の詔勅を聞いたときの、日本人の態度いかんにかかっていたのだと考え続けていた。

大家は一種の倦怠感のなかに沈み込んだ。
土地買収の交渉には、調査しておくことが有利なことは分かっていた。
だが、その老人の前歴をあかす端緒が見いだせた今、限りなくそれが億劫になったのだ。
ただ何となく、かかわりたくない、という気がしたのだ。

大家は戦時中の記憶をただ単に忘れていたのではない。
単に戦時中のことを忘れたのではなく記憶を抑圧してきたのだ。
終戦以前のことを忘れてしまわなければ、戦後という時代を生きてこれなかったのだろう。
勿論これは大家だけのことではない、日本人全体がそうしてきた。

高橋和巳は大家を特攻隊の生き残りとすることによって、彼を戦後日本人の象徴的存在とした。

しかし、そうした怒りも風化してしまっていた。
およそイデオロギー性を帯びる問題の一切から身をしりぞけ、自分を一介の技術屋として訓練しはじめてから、すでに10年余りの歳月がたつ。
一人の右派の思想家がなにかを悲しみつづけて、孤島にひとり隠遁している。
その男がそうしたいなら、そうさせておけ。
いま、おれ自身が一介の技術屋として会社のなかに『巷隠(こういん)』しているのと、それは同じことなのだ。

おれの前歴を表したくないように、あの老人も、その前歴は調べられたくないのだろうから。

そして、2度目の孤島を訪問した。
海には一面に細かい雨が降りそそいでいた。
大家は日常、元国家主義者との交流を求めつつも、自分の存在を耐え難いものに感じ始めた。
感覚的に感情的に不安なのだ。
もし彼が今の会社での、家庭での生活を続けようとするならば、自分の過去は封印したままにしておかねばならない。
頭の中がそんな状態では、日常生活が無理なのざ。

それとも、自分を過去へと連れ戻す老人の存在を消してしまわねばならない。
そんなことをやり切らないと、大家は生きていけないと考えた。
大家はこの男と対決して、自らの態勢を整え、そうして生きなければならない。

大家は老人と喋りながら奇妙な気がした。
彼にとっては、この老人を《招隠(しょういん)》すること、この老人が孤島の不十分な生活に嫌気がさし、絇爛たる都市の、たとえ消費文化であろうと享楽文化であろうと、それに好奇心をおぼえ、もう一度世に出てみたいという気にさせれば充分だった。

老人の顔に一瞬、何を憤るのか、ナイフを持っていた手が震えた。だが、その怒りはやがて悲哀の翳におおわれていった。

新聞社の小林利男は、老人のことを「ファシストさ」と、こともなげに言った。
「若いころは、いわゆる支那浪人でね。社会主義的傾向を持っていた」。
大政翼賛会ができたころには、しかし、社会主義的な側面を自己制御して、汎アジア主義とでもいうべきものをとなえだした。
階級矛盾と国家矛盾、それから先進資本主義と植民地の問題、それを混沌とした正義感のようなもので糾弾していたんだが、階級矛盾への矛先をふせたわけだ。

老人は日支事変中は、もたついていたが、大東亜戦争になってからは、息を吹き返し颯爽としだした。
戦中、中野正嗣が割腹したのと前後して、極端な破滅型の論理をふりかざしはじめた。
武士道の伝統をひく、死の哲学と言うものだろう。
老人が瀬戸内海の孤島に隠遁してしまったのは、自己満足というより、戦争裁判を逃れるためだったのではないか。

三度目の孤島を訪れたときのことだ。
大家は老人に対して、老人の前歴をある程度知っていることを告げ、なぜ隠遁したのかとその動機をたずねた。
「この島に隠遁した時、たしかに私は国家主義者だった。そして、ひとたび思想を思想として、他者に、とりわけ青年たちに説いた以上は、その説いたことに対して責任があると考えるゆえに、一切の公職、一切の社会的交わりから隔絶した」。
老人、「君自身はファシズムというものをなんだと考えているんだ?」。
大家、「そりゃ、資本主義の全般的な危機をきりぬけるための、反動独裁体制だろう」。

「狭い所だけど、あなたを私の家に一度招待したいような気がする」
正確に時間通り海峡にあらわれた連絡の小船を見ながら、大家は言った。
彼の任務は全然進捗しないままだった。

自宅に戻った。
出勤への電車中、3冊の本を表紙をなぜるようにして見た。
1冊は友人から送られた「労務管理」、1冊は翻訳されたばかりの「パーキンソンの法則」、いまひとつは小林から借りた老人の「人間維新論」だった。
結局かれは「人間維新論」のページをくった。
強い反発と索引、そしていつ背中から号令をかけられるかもしれないようなやりきれなさに困惑しながら。
「人間維新論」の書き出しは、「世界史が世界精神の合理、必然的進行であるなどと誰がいうのか。それはただ視ることのみを知っていて、行為することを知らず、悲しむことは知っていても激怒することをしらぬ机上の空論家の倨倣にすぎないのだ」。

老人。
人間における最高の意志は、動物が快を求め苦痛を本能的にさける、その本能の必然からも自由であろうと欲するところから生まれる。
いや、むしろ自己の意志を証明せんがためには苦痛すらあえて求めることに、人間の人間性がある。
発展とは苦痛への意志であり、歴史とは恨みの克服なのである。
一般的な意志哲学から、やがて個人の超越の哲学が説かれ、つぎに死してのち生まれいでよという、起死回生の哲学へとそれに進展する。
結論を早く読みとろうとする大家の目に、その性急さをとがめるように、苛立たしい言葉の断片が飛び込む。

老人は言った。
「革命とは国家の存亡の問題であり、人間維新は各人の存亡の問題である。座視して死を待つか」
「社会主義は社会への奉仕を説く。ロシアのニヒリストすら、社会のためには命を賭した。いま、日本の青年たちに課せられた任務は、横の世界ではなく、縦の社会、きたるべき日本の将来のための血の献身である」。
大家は一字一字を追うのはたえがたかった。

かって、青春の初期に自らを支配した情念の亡霊と対面せねばならなかった。
彼は、自身を追求することを怠った。
その怠慢の罪に、いま問われようとしている。
狼狽しながらおそるおそるいま考えねばならない。

特攻精神を嘲笑した日本の戦後の知性には、ニヒリストの運動を媒介せねばならぬ革命というものは、ついに理解しえなかったのだ。
大家が特攻隊に志願したのは、この老人の思想の影響を受けたわけではなく、ただ家族を守りたいという思いからである。

大家は老人との会談で、潮干狩に時を忘れ、翌朝まで海峡を渡ることはできなかった。
掘建小屋の片隅に藁と莚(むしろ)をしき、コートを羽織って横になった。

老人は支那浪人時代の思い出話をかたっていた。
その時期がおそらく彼にとって、無垢な、それゆえに回想して楽しい唯一の時期なのだろう。
上海の陰謀家とか、北京の買弁団とか。
老人は中国のいわゆる辛亥革命の際に、上海から南京、南京から漢口へと、一種の義勇軍として革命派の軍事行動に参加していた。
老人は日英同盟にうたわれた〔支那保全〕と信じていたが、日本政府も黒竜会もほんとうは、支那保全のために動いていたのではなかった。

老人は、若者を死地へと促した大家の戦時中の言論活動を批判する。
だがこの批判は、老人にも裏返しで批判されたことでもある。

そして、電力会社では、大家のやっている孤島での交渉について激しい求められることはあったが、大家には何も応えるものがなかった。

そして大家は島の入江の、ゆっくり渦巻く海に体を浮かべていた。
ふいと大家の体が回転し、激しい勢いで流された。流される速さが激しく、助けてくれと思った。
そして老人は大家の背後から両腕をとり、はがいじめにしていた。活を入れられたらしかった。

老人は大家のために煮た芋粥を一緒にすすりながら、敗戦当時のことを話し始めた。
大家は老人に対して、「インター・ナショナリズムというものを、観念としては、相当に理解していた。敗戦後、学校に復帰してからのことですがね」。
老人は、「熱烈なナショナリストだったさ」。
「国家ーーーー。現実的にいって、それがすべての問題の集約点だったからね。米騒動や農民一揆が頻発し、兵士たちの父母兄弟が飢えるのをみて、私は日本の国体の変革を考えた。そのころにはマルクスの著述も読んだ。しかし、日本のプロレタリアートにはまだ力がなかった。真に組織されているのは軍隊と官僚だけだった。わたしはその軍隊に期待した」。

「しかし、そこからどうしてあなたの散華の思想がでてくるのですか」。
老人は目を見張り、表情にゆっくりと亀裂が走る。
「わたしには、何もできぬーーーー。国家主義者にとっては、その国の文化的伝統が、つまりは精神が唯一の拠りどころだ。それゆえにわたしはそれを説いた。だが、わたしは、わたしが期待をかけた兵士たちと運命をともにしなかった」。

「わたしが、あなたにここを出てもらいたいと思っていることは事実です。またそうすすめることがわたしの任務でもあります。しかし、その理由は別な理由なのです」。
「どういう理由か」。
「権力や政治にまつわる団体の要請によってですーーー」。
「わしは一切の社会と絶滅している。そんな義務はない」。

「かってあなたが死ねとすすめ、そして自らも捨石になろうとして、あるいは実際に死に、あるいは生き残った亡霊の一員として、あなたを八つ裂きにしたいほどの憎しみすらもっていた。
一皮はげば、あなたを抱きしめてしまうかもしれない奇妙な憎しみを。
ただ扇動しただけであり、見ていただけであるゆえに、苦しむことも死ぬことも、心を襤褸(ぼろ)のようにもみくちゃにされることもなかったあなたを、少なくともわたしたちは殴りつけ、たたきのめす権利がある」。

「帰れ!」と老人はしぼりだすように言って、囲炉裏の灰を蹴ちらした。

老人は、どこに隠してあったのか、いつしか日本刀を持って大家の前に立ちはだかっていた。
じりじり戸口から戸外へ後退する老人に向かって、大家は鉄瓶を投げつけた。
老人は顔の半分を熱湯でただらせ、自ら耕した畑の中をころげまわりながら号泣していた。
刀は空しく水槽につかって光っていた。
さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
批判され、自責の念に駆られた元国家主義者・中津は結局自殺する。


さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
電気会社の大家は、何事もなかったかのように元の会社員生活、家庭生活に戻る。

冬、高圧線が具体化への一歩を踏み出し、測量班が具体化への一歩をふみだし、測量班が、鳴門海峡の無名島に上陸した。
測量班が無人島だと思って上陸したその島に崩壊寸前の掘建小屋があり、しかもそこに、半ばミイラ化した老人の死体を発見したしたからだった。
野呂は、大家が一時、老人にかかわっていたことを記憶していて、彼のところに記事を取りにきた。
大家はしかし、何も知らないと言い通した。

空と溶け合う青い海。
命を産み出し、命が戻って行く海。
65年前の海。

 

2018年4月6日金曜日

考古学者が、湿原「発掘」し再生


発生が進む葦毛湿原を語る贄(にえ)元洋さん

2018年3月17日の朝日新聞の夕刊より。その新聞記事をそのまま、転載させてもらった。
こんなことがどうして成り立つのか、科学知識不足の私には、熟読しなければどうにもならん。
まして、科学に弱い私のこと、当ったり前だのこと。
60年前なら、当ったり前のクラッカーだよ、とテレビでは賑(にぎ)わっていた。
世の中には不思議なことが、私には理解できないほどいっぱいある、それはそれは愉快なことなんだけど。



新聞記事の題字は、考古学者の手法応用
湿原「発掘」し再生だった

貴重な動植物の宝庫でありながら、減少や環境悪化が進む湿原。その再生手法として、近年注目される試みがある。考古学の発掘のノウハウを応用し、植生回復に成果を上げた。湿地っを持つ各地の自治体が導入の検討を始めている。

1月末、愛知県豊橋市にある葦毛(いもう)湿原。豊橋湿原保護の会と豊橋自然歩道推進協議会の30人が木々の伐採に励んだ。市文化財センターの(にえ)元洋所長(59)が「動植物の活動が少ない冬こそ植生回復を促すチャンス」と説明する。面積約3万2千平方メートルに広がる葦毛湿原は県の天然記念物。かっては植物220種、昆虫410種が記録され、「東海の尾瀬」と呼ばれた。1970年代以降森林化が進み、2010年代には湿原部分の広さは半分以下に。葦毛湿原調査員の吉田雅章さん(63)によると、20種を超す稀少植物が姿を消した。

14種が復活
贄さんが再生に関わるようになったのは8年前。保全活動は20年以上続いてきたのに、「植生回復がうまくいっていなかった」。

贄さんの専門は埋蔵文化財。その発掘調査では事前に土地の一部に溝などを掘り、土の堆積(たいせき)状況を確かめる。基本に立ち返り、湿原でも発掘した土の層を観察すると発見があった。

多くの場所で、わっずかな表土の下に厚さ2~5センチの「土壌シードバンク」が埋もれていた。地表で植物が絶滅したかに見えても、種子が保存されている層だ。

雑木やササを刈り取り、根を引き抜き、シードバンクを露出させて発芽しやすい環境を作る。「土を見分ける考古学者の目と地層を掘り分ける技術が必要」と贄さん。13年からこうした手法で新たな試みを始め、県絶滅危惧種の植物など14種が復活。10輪程度だったカザグルマの花は300輪に、ヒメミミカキグサはゼロから58株に、ミカワバイケイソウは群落をつくるまでになった。

視察相次ぐ
葦毛湿原の再生事業は2月、日本自然保護協会の自然保護大賞に入選。導入を検討する自治体関係者や研究者が視察に訪ねてくる。

国天然記念物の成東・東金食虫植物群落がある千葉県山武市でも、発掘に使う機械を用いて掘削や湿生植物の種子検出に成果を上げてきた。同市職員として携わった平山誠一さん(61)は「土地に習熟した文化財担当が再生に関わるのは自然な流れ」と話す。

中央大学の藁谷いづみ教授(保全生態学)は「土壌シートバンク」の活用はその土地の過去の植生を『発掘する』ようなもの。考古学の専門家が成果をあげているのは心強い」と話す。

(編集委員・宮代栄一)

「湿原発掘」の画像検索結果

「湿原発掘」の画像検索結果
葦毛(いもう)湿原



(ウィキペディアより)

概要

石巻山周辺の山域とともに、愛知県の石巻山多米県立自然公園に指定されている。
 一帯は、標高75mから60mくらいの小高い山の緩やかな斜面にあり、広さは、約5haである。木の遊歩道が作られており、湿原を1周することができる。
湿性の植物が250種類ほど、その他にトンボカエルその他の昆虫、動物などが見られる。
尾瀬などの、植物が長年にわたり堆積してしっかりとした水量を蓄えた湿原とは異なり、チャートの基盤岩の上にあり、岩盤から湧き出してくると思われる水がその上を流れていくような湿原で、渇水の季節には水枯れのようになることもある。

葦毛湿原の植物

ここで見られる植物には、環境省レッドデータブックにおいて絶滅危惧種II類に指定されているミカワバイケイソウカザグルマシラタマホシクサ、トウカイコモウセンゴケミミカキグサなどがある


2018年4月5日木曜日

サッカーと桜とお芝居巡り

『ビーダーマンと放火犯たち』


事務所内での読み合わせの風景

●最初は、グラウンドでの巻き。
グラウンドに着いたのは13時。
午前中に練習を終えた選手たちが、思い思いの練習を、勝手気ままに楽しんでいた。
50年程前には、俺だって奴らと同じことをしていた。

正規の練習を終えた後の、自分勝手な練習ほど楽しいことはなかった。
誰彼の視線を気にすることなく、走ったり、ボードにボールを蹴り当てたり。
ポールから垂れ下がったボールを、ボレーキックにヘッディング。
そんなことをしていたら、早稲田実業高校のサッカーがやってきて、私は彼らの一員として練習に参加した。その練習が終わると、私の一日も終わりになる。
練習の定休日である月曜日は、私にとっては特別の日。
寮から井の頭公園、善福寺公園まで、走ったり歩いたり、突然猛烈にスピードを上げて走ったり。ウサギ飛びもやった。こんなに楽しい休日はなかった。

総監督のKOがやってきて、応援席で並んで観戦。
「KOよ、お前が年賀状でも、暫らく前に電話で話した時も、言っていたなあ」「ガツガツ、走らせますよ」と。
そんな事を話したら「ヤマオカさん、今しばらくは様態を見ているんです。イザという時には、がっちりやりますよ」言葉に勢いがあった。

「ヤマオカさん、今は昔ほど、3時間も4時間もがちがち練習をしないのですよ。練習は1時間半ほど。後はみんなが、勝手に好きなことを、やるんですよ」。
そうか!そうなんだ。
時間の経過と共に、何もかもが違ってきているんだ。

「高校のサッカー部を去年の年末まではやってきたんでが、そんなことも知らないで、、、、、総監督になっちゃんたんですよ」。
東伏見駅の近所にアパートを借りたこと、1週間に1度は藤沢の家に帰ることも話した。

15時より。
対戦相手は、室蘭大谷高校。
35分*3回、試合は当然我が大学が勝ったものの、試合そのものは面白くなかった。激しさも、厳しさも足りない。
寧ろ、相手チームの方こそ頑張っていたと褒めたい。
大学のチームには新入生も沢山いて、彼らの腕試しでもあったのかもしれない。

試合が終わって、我がサッカー部の連中が全員、50人程が一緒くたに私ともう1人の人間に対して、よくぞ観に来てくれましたね、と挨拶に来てくれた。
全員で深く腰を曲げての挨拶だ。
私ともう一人は、恥かしいなあと声をかけた。

KOは、暫らくの間、選手たちに気づいたことを話していた。その光景は、私にとっても嬉しかった。
昔々に、私の身や心、血脈までもが戻りかけていた。


●KO総監督も観劇に同意した。
私は招待されているので無料でよかったが、KOの観劇料は私が負担した。

東伏見の早稲田のグラウンドを通り越した。私たちが過ごした約50年前とは何もかも変わっていた。
何種類ものグラウンドや室内の競技場が真新しくなっていた。私は目を魚の鱗のようにバタバタ潤ませて見回した。
昔を懐かしむのではなく、何処か知らない所へ来たような感慨に耽った。

私はKOに余計なことを嘴(くちばし)ってしまった。
30年か?40年前に、彼が恋していた女性の話をしてしまってからの、彼の挙動はただ者ではなかった。
彼女は、この芝居、東京演劇アンサンブルの社長さんの娘さんだ。
芝居のことよりも、頭の九分九厘が彼女占めになってしまった。
これ以上に狂われても困ると、私は恐々(こわごわ)だった。
話しかけてくる彼に、俺の身の毛は逆立った。
これ以上、話すまいと決心した。

●桜の巻き
関町公園を歩いた。
池の周りの桜の花が満開だ。家族連れや恋人同士たち。
公園を出て武蔵駅へ向かう線路づたいは、桜の古木の花が満開だった。
この古木たちは余程老齢なのだろう、幹は大人2人でも抱きかかえられないほどの物だった。
どの公園にも桜の見学に人が溢れていることを告げてはいたが、私には、皆さんほど関心が向かなかった。が、流石(さすが)にこの桜には驚いた。
50年前には、第二の田舎のつもりで過ごしていた、筈だったのに。

●お芝居の巻き
武蔵関駅の前で、カツを食ってビールを飲んで、腹ごしらえ充分、劇場に向かった。
劇場にはいつもの係りの人が愛想よく応えてくれた。
共同経営者の入江さんは、劇場に関係或る書籍の売場に、いつものようにいた。書名は馴染みのある物ばかり。
微笑が可愛らしいと言えば、叱られるだろうか。

共同経営者の志賀さんは、気丈夫さを遺憾なく発揮、客間でお客さんに丁寧な挨拶をしておられた。
彼女とも付き合いが長くなったなあ、と思わず嬉しくなる。
彼女の劇団、お客に対する心配りには、頭が上がらない。

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       マックス・フリッシュ

演出は小森明子さん。
『屠畜場の聖ヨハンナ』で演出デビューを果たした。

テキストの読み込みに定評があり、大胆で小気味よいテンポのある舞台が好評だった前回から、さらに磨きのかかった演出が期待されている。
芝居の案内書には、ブレヒト生誕120年となる2018年、東京演劇アンサンブルの新しい仕事に注目してくださいとあった。

キャストというか俳優さんたちとは、もう長い付き合いになる人々なので、その人たちと会うのも喜びだ。
胸襟を広げてくれた牛さんがこの劇団を教えてくれた。この牛さんから、文学のことやいろんな作家のことを教えてもらった。
それの成果か?結果か、幸か不幸か!私は変な文学好みになってしまった。
それから45年位経つ年月の速さに驚いた。

最初に劇団の社長さんに会ったのは、私が大学4年生の時だ。
それから、この劇団のためにちょっとでもなればと思って、小さい力で申し訳ないが、応援団の一人だった。
脚本家の牛さんが亡くなり、牛さんの娘さんとは仲良く付き合っているけど、息子は俺の顔を見れない程迷惑を懸けてくれた。

劇団の様相を変えようとしたときにも、微力ながら協力できた。劇団さんとも引き下がりのない付き合いになってしまった。



▲芝居の内容は、パンフレットにあった記事を読んでもらえば解ってもらえるでしょう

放火による火事が頻発しているある町
行商人が家にあがり込んで火を放ち
街の広範囲を焼き尽くしている
いつも同じ手口
それなのに止められないーーー
連日の報道に怯えながら
人びとは消防隊を組織した
さて、ビーダーマン氏は
毛生え薬で儲けた会社社長で
共同経営者を解雇したばかり
ある雨の晩
そのビーダーマン宅に
元レスラーが訪ねて来るーーー

消防隊のコーラスとともにおくる
エンターテインメント・ブラック・コメデイ
スイスを代表する作家
マックス・フリッシュの代表作



●作=マックス・フリッシュ 
訳・ドラマトゥルク=松鵜功記 
演出=小森明子

●2018 3/23~ 4/1
開演23金24土25日26月2728水29木30金31土4/1日
14:00
19:00
 ★はLow Price Day 2500円

音楽 国広和毅
舞台美術 入江龍太
照明 真壁知恵子
音響 島猛
映像 三木元太
振付 町田聡子
衣裳 仙石貴久江・永野愛理
舞台監督 浅井純彦
制作  志賀澤子・辻尾隆子
●キャスト
ビーダマン         公家義徳
バベッテ          洪美玉
アナ            山﨑智子
シュミッツ         小田勇輔
アイゼンリング       松下重人
警官            大橋隆一郎
学者            篠原祐哉
クネヒトリング       坂本勇樹
クネヒトリング夫人     志賀澤子
コロスのリーダー      原口久美子・竹口範顕・永野愛理
コロス           雨宮大夢・上條珠理・坂本勇樹・篠澤寿樹・関英雄・仙石貴久江・永濱渉・奈須弘子・町田聡子・真野季節・三木元太・和田響き