2014年1月30日木曜日

忘れられた皇軍

 

大島渚監督が撮ったドキュメンタリー「忘れられた皇軍」が、日本テレビで今月13日の深夜に放送された。それを観た。

この番組は、1963年、東京オリンピックの1年前に大島渚が監督した作品の再放送だ。1963年といえば、私は15歳、中学3年生の時のことだ。その日のテレビ番組表の別枠で、この番組の紹介を見て、どうしても観ないわけにはいかないぞ、と目覚まし時間を深夜の00時30分にして20時に寝た。が、目覚ましに起こされることなく、深夜00時過ぎに自然に目が覚めた。番組が始まる時間は00時50分。

幾ら酒を飲んで寝ても、こういうことがある日は、必ず目が覚めるのだ。

子供の頃、母に連れられて、私にとって最大の都会だった京都の四条河原町に出かけた時に、街の角角に白装束姿で、腕のない人や足が片足だけの人や、両足ともない人が、楽器を奏でたり、のぼりを掲げたり、道路にうずくまっている人たちの群れを見たことがある。違う場所では、一人で立っている人もいた。小学校の遠足で東大寺の大仏さんを観に行ったときにも、そこらじゅうで見た。その光景は異様で不気味だった。立ち竦(すく)む私の手を母は強く引っ張った。

戦争で傷ついた「傷痍軍人」だと、母に教えられた。母もそうだったが、通行人が冷ややかに、避けるように通りすがるのを子供心に気になった。私の伯父は、風土病に掛かって復員、間もなく闘病の果てに亡くなった。小学生の私にも、戦争の惨(むご)さについては、祖母から聞いて多少は理解していた。

今回の番組が取り上げたのは、日本人ではなく、旧日本軍に従軍した朝鮮人の傷痍軍人だったのだ。

監督が、このフィルムで怒っているのは、日本人と同じように戦争に召集され、日本人と同じように皇軍の一員として戦って、傷ついて復員したが、待ち受けていたのは酷い仕打ちだった。戦後、朝鮮半島は、朝鮮戦争を経て大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分かれ、在日朝鮮人の元日本兵は、外国人になってしまった。

そして、旧軍人として、当然受けられるべき手当てや医療費は打ち切られた。その救済を求めて韓国の大使館に赴き窮状を訴えても、日本の戦争による被害なんだから、日本政府の責任であって、韓国政府はくみすることはできない、と拒否された。

この不条理にオ・オ・シ・マは怒った。

医療費や生活費に困窮する彼らは、街に出て、物乞いするしかなかった。それから半世紀、彼らが必死で訴えたことは、未だに梨の礫(つぶて)のようだ。

番組の終わりに、監督は「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」と、日本政府と日本国民に向って訴えた。

 

追記

約35年前のこと、安DOさんという住宅建築の発注者と請負会社の代表者としての私は、工事が終わってからも付き合いは続いた。安DOさんは在日韓国人、生い立ちを恨み、それでも真面目な勤労学生になって、日本軍の志願兵になることを夢見ている間に終戦を迎えた。付き合いが始まった頃、戦争が終わって随分経つというのに、それでも、在日韓国人として生きていくことのやるせなさに、日々悩んでいた。酒を浴びるように飲んでいた。彼は、日本人以上に、もっと忠実な日本人になろうとした、、、、が、なれなかった。

そんな彼が、夜な夜な酩酊の果てに電話を掛けてきた。ヤマオカ、俺は一体、どっち側の人間なんだ、お前が建てた俺の家には、どこの国の旗を揚げればいいのか、教えてくれ。朝鮮ピーの旗か、日の丸か! それは悲痛な叫びだった。

安DOさん、そんなときは国連の旗でも揚げとけばいいんだよ、と慰めたけれど何の慰めにもなっていなかった。最後に電話を受けたのは、肝硬変で急死する前々日だった。

 

20140126 日経新聞・朝刊

春秋

そのドキュメンタリーは怒りに満ちている。1年前に亡くなった映画監督の大島渚さんが1963年に撮り、日本テレビで放映された「忘れられた皇軍」だ。ずっと再放送の機会に恵まれてこなかった作品が先ごろ、監督の1周忌に合わせて半世紀ぶりに電波にのった。

旧日本軍の兵士として戦い、手足を、両目を失いながら、どこからも補償を受けられずに戦後を生きる在日韓国人たちーーーー。31歳だった監督は渾身の力を込めてその不条理をフィルムに焼きつけた。仲間同士の貧しい飲み会。軍歌と手拍子。そして眼窩(がんか)からあふれる涙。カメラはクローズアップでそれをとらえて離さない。

松竹ヌーベルバーグの旗手として邦画界を揺さぶった監督は、60年安保闘争を描いた「日本の夜と霧」の上映中止騒動を機に独立してイバラの道を歩む。送り出す作品はことごとく問題作と呼ばれ、そこには怒りと悲しみが横溢(おういつ)した。「忘れられた皇軍」はわずか28分。その短い映像がこの人の精魂をあらためて物語る。

「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」。作品は戦後18年の平和な街の表情を追い、こう訴えて終わる。あまりにもストレートな問いかけに、当時も戸惑った視聴者が少なくなかったろう。反発もあったろう。それを百も承知で、こういう力技(ちからわざ)を果たした表現者がいた。怒りというものの凄(すご)みを知るのである。

2014年1月29日水曜日

名護、辺野古反対の市長再選

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20140120 朝日新聞・朝刊 1面記事より

 

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設計画への賛否が最大の争点となった沖縄県名護市長選は19日、投開票され、同市辺野古への移設に反対する現職の稲嶺進氏(68)が、移設推進を掲げた新顔の前自民県議、末松文信(ぶんしん)(65)=いずれも無所属=を破り、再選を果たした。

この選挙の結果の新聞報道に各紙、大きく違いが出た。私は6紙を読み比べた。朝日が一番強く、東京が二番、三番は毎日の順で、辺野古移設を再考することを主張した。また、粛々と辺野古移設を進めるべきだとの論調では、一番が産経、二番が読売、三番が日経の順だった。私は、国策としての事業といえども、地元の民意を踏みにじってまでも進めるということについては、どうしても同意しかねる。日米安全保障問題も重要な問題ではあるだろうが、やはり、民意は尊重されるべきだ。

市街地にある普天間飛行場は世界で一番危険な基地で、その危険を回避するがために浮かび上がった移設だが、、、、今後、どのような進展を見せることになるのだろうか。政府は、それでも、計画通りに着手するという。

 

選挙に絡めての移設問題の記事を20140120の朝日新聞・朝刊から拾った。後日のためにダイジェストさせてもらった。

辺野古反対の現職再選

名護市長選 政権、推進変えず

 

那覇総局長・谷津憲郎

《解説》

米軍普天間飛行場を名護市の辺野古へ移すという計画に、市民は「NO」をつきつけた。稲嶺進氏は、その先頭に再び立つ。

カネと引き換えに米軍基地を押しつけようとする政権への「NO」であり、埋め立てを承認しながら「県外移設の公約はやぶっていない」とする仲井真弘多知事への「NO」である。

ここ数ヶ月を振り返ってみよう。政府・自民党は、辺野古容認に党県連を転じさせ、末松文信氏に市長選候補を一本化。応援演説では500億円の「名護振興基金」も表明した。知事も一体になった。思惑通りだったはずだ。

それらへの民意を示す初めての機会が、この市長選だった。結果は、見ての通りだ。移設問題が浮上してから計5回の市長選で、容認候補が連敗するのは、これが初めて。市民の意向は明らかだ。

だが稲嶺氏の当選で、辺野古への移設計画がついえたとは、残念ながら私には思えない。沖縄の問題ではない。私たちの政府が、そういう政府だからである。菅義偉官房長官は16日、BS番組の収録で、市長選の結果について、移設には「全く影響ない」と言った。末松陣営も「稲嶺氏が反対しても、移設は止まらない」と繰り返した。止まらないのではない、止めないのである。

私たちの民主主義社会は、投票で意思を示すというルールで動いていると教えられてきた。

しかし稲嶺市政の4年間に政府がとった態度で分かるように、沖縄の基地問題に限れば、このルールは通用していない。では、と違う道を選ぶと「結局はカネの問題か」と揶揄される。

そういう苦しみの中で、名護市民はそれでも「移設NO」を選んだ。実現させるかどうか。今度は本土が意思を示す番だ。

 

天声人語

17世紀末というから江戸の元禄時代、琉球からの僧を迎えた江戸の僧が、その帰郷に際して贈った漢詩が、「琉球は遥(はる)かな大海原に浮かぶ」と書き出し、〈其(そ)の民、天性礼譲に狥(したが)い/古(いにしえ)より未だ甲兵を用うるを聞かず〉と続いていく。礼儀正しく、武器をとって戦ったことがない、と。

その「武器なき島」が、19世紀の初めに「ナポレオンを驚かせた話は前にも書いた。英軍艦が琉球周辺を航海した帰途、セントヘレナ島に流されていた元皇帝に艦長が会って話した。ナポレオンは、武器を持たぬ民の存在を信じかねたそうだ。

それから60年ほどたって、明治政府は琉球王国をとりつぶして日本に組み入れる。沖縄県が誕生し、太平洋戦争での地上戦の悲劇に至った。それにしても、日本への併合措置をさす「琉球処分」は、何と酷薄な響きだろう。

この言葉は戦後、本土が沖縄に難儀を強いるたびによみがえった。講和条約による切り離し。米軍基地を残したままの復帰。そしていま、普天間飛行場の県内移設にも、その言葉が重ねられている。

沖縄基地の多くは米軍の「銃剣とブルドーザー」で有無を言わさず造られた。だが建設を容認した基地となれば違ってくる。何か起きたときに確固たる声を上げられるかーーそんなことも沖縄に住む知人は憂えている。

移転先の名護市民は市長選挙でノーの意思を示した。それは政府自民党のあからさまな「札束とブルドーザー」への軽蔑でもあったろう。押しつけはもはや限界である。

 

社説

名古屋市長選  辺野古移設は再考せよ

名護市辺野古への基地移設に、地元が出した考えは明確な「ノー」だった。

米軍普天間飛行場(沖縄市宜野湾市)の移設先とされる名護市の市長に、受け入れを拒否している稲嶺進氏が再選された。

沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は辺野古沖の埋め立てを承認したが、市長選の結果は移設計画や政府の手法への反発がいかに強いかを物語る。強引に事を進めれば大きな混乱を生む。政府は計画を再考すべきだ。

名護市長選で基地移設が争点となるのは5回目だ。

昨年末の知事の承認によって、日米両政府の合意から18年間進まなかった移設計画は一つのハードルを越えた。今回の市長選ではこれまで以上に「基地」が問われた。

移設反対派地元の民意を示す最後の機会ととらえた。一方、推進派の末松文信氏側には連日、大臣や知事、自民党国会議員が応援に入り、国や県とのパイプを強調。基地受け入れの見返りに国から交付される米軍再編交付金などを使った地域振興策を訴え続けた。

しかし、振興策と基地問題を結びつけて賛否を迫るやり方には、名護市だけでなく、沖縄県内全体から強い反発がある。当然だろう。

知事が承認にあたり安倍首相と振興予算の確保などを約束したことに対しても、「カネ目当てに移設を引き受けた、という誤ったメッセージを本土に発信した」と批判が上がった。知事は県議会から辞職要求決議を突きつけられる事態となった。

極めつけは自民党の石破幹事長の発言だろう。市長選の応援で「500億円の名護振興基金を検討している」と演説し、その利益誘導ぶりは有権者を驚かせた。稲嶺氏は「すべてカネ、権力。そういうことがまかり通るのが日本の民主主義かと痛烈に批判した。

この選挙をへてなお、政府は辺野古移設を計画どおり推進する方針だ。

稲嶺市長は、作業に使う海浜使用許可を拒むなど、市長の権限で埋め立て工事の阻止をめざす考えだ。政府が立法措置や強攻策を用いて着工することなど、あってはならない。

「普天間の5年以内の運用停止」という知事の求めを、国が約束したわけではない。普天間の危険性を考えたとき、辺野古移設が最善の道なのかどうか。政府は県外移設も含め、もう一度真剣に検討し直すべきだ。同時に、オスプレ配備の見直しや米軍の訓練移転など基地負担軽減を急ぐ必要がある。

2014年1月28日火曜日

望郷編その5 最後は三十三間堂だ

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20131215 

この望郷編の最後は、三十三間堂に出かけたことだ。

西念寺にある義父の墓参りを終えて三十三間堂に向かった。正式には蓮華王院(れんげおういん)という。

鴨川の流れをぼんやり眺め、七条通をぶ~らぶ~ら、余所見(よそみ)をしながら歩いた。50分から1時間ぐらいかかったかもしれない。小雨が降ってきたが、着替えはあったので、新撰組の近藤勇だったか、"春雨じゃ濡れて行こう" だ。今は冬、氷雨(ひさめ)っていう奴か?

東山連山の峰々に虹が出た。歩行者の視線は山に向いた。東の山から下りてきたハイカーさんらと一緒に振り向いて眺めた。「虹」っか!!、と、次女の数日後に迫る出産のことを考えていた。6番目の孫だ。母になる私の次女は、生まれてくる子の名前に、虹の一文字を考えている。

東西に走る七条通を東に歩いて行くと南北に通じる大和大路通にあたる、その角に、七条通を挟んで北側に京都国立博物館、南側に三十三間堂がある。観光バスが数台停まっていた。アメリカ人の高校生と思われる団体や、地方からのお年寄りの団体が多かった。団体の引率者の説明を盗み聞きしながら観覧した。

小学生か中学生の頃にも、学校の遠足か何かで来ているので、その雰囲気は蘇った。静寂の中にじとっと歴史の重さを感じた。仏像たちの数が圧巻、さながら仏像の森だ。その一体一体の形の不思議さにも魅(ひ)かれるが、それらの総量がなす空間は、異状だ。中央の中尊千手観音坐像を囲うように前後10段の階段状に1001体の「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音像が並ぶ。

見たことのない人は、早く見てくださいな、私にはこの不思議さを著す言語を持ち合わせていない。

創建当時、後白河上皇は院政の立場で、血の気の多い武士ども、平清盛や源頼朝らと、丁々発止と渡り合っていた。保元、平治の乱では武家の力を利用して、朝廷内における地歩を固め、武家政権との共存を目指した。混乱の時代、民衆も武士も朝廷も、穏やかな治世を求めていたのだろう。上皇は仏教を厚く信奉(しんぽう)していた。

三十三間の間は、我々が日常的に使う長さを表す単位の間(けん、1.818メートル)ではなく、社寺建築において柱間の数を表す。

 

いただいたパンフレットから説明と写真をここに使わせてもらう。

 

日本唯一の千体観音堂

正式には蓮華王院〈国宝〉といい、長寛(ちょうかん)2年(1164)鳥辺山麓(とりべさんろく)(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁(いんぜいちょう)「法住寺殿(ほうじょうじどの)」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し、文永(ぶんえい)3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋(いりもや)・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀(たいこうべい)」と呼ばれる築地塀(ついじべい)と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

 

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無限の慈悲・千体の観音立像

中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年かけて復興された。

 

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国宝雷神と風神像

堂内両端のひときわ高い雲座(くもざ)にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する畏(おそ)れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰された。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品〈国宝〉である。

 

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国宝観音二十八部衆像

観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像〈国宝〉は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に刻んで接着し、漆を縫って彩色(さいしき)仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼(ぎょくがん)」という技法が用いられている。

 

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楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)と通(とお)し矢(や)

「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行われる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益(りやく)があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内に残る多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、いまや正月の風物詩となっている。

 

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曇空、閉門の4時で、巷間、夕闇が急に迫ってきて、東寺まで足を伸ばそうと思っていたが諦めた。

その後は、京都駅前タワーでウドン(うろん)を食ってビールを飲んで、京都駅構内探索と京都駅前タワーの地下で風呂に入って、たっぷりと時間調整をした。風呂は意外にも空いていた。

2014年1月17日金曜日

詰めが甘くなる理由の1つ

日経新聞の武智幸徳氏が、20140110の日経新聞・朝刊スポーツ欄、「アナザー ビュー」で、長年、ドイツをメインの舞台にして、選手の海外挑戦やチームの海外遠征の仲介等の仕事をしている近江孝行さんから、日本とドイツのサッカー事情の違いなどヒヤリングしたものを、記事にしていた。

私は高校、大学とサッカー部に所属して、まじめに活動した。大学の卒業年度には、全日本大学サッカー選手権、関東大学サッカー選手権の2冠を獲得する栄誉に輝いた。私のたった一つの自慢だ。40余年前のことだ。

記事は、近江さんが、ドイツの練習環境や育成部門の指導内容について、日本と比較して話していた。その会話の内容が、みんなには「目から鱗(うろこ)落ち」級だろうが、私にとっては、前々から感じていたことだった。

私のサッカー漬けの日々も、下の記事のようなことを当然のように教えられ、受け入れ、練習ではそのように忠実にプレーしてきた。

昨今の日本代表の守備の甘さの元凶は、この辺りにありそうな気がする。

日本の選手はボールにアタックに行かずに間合いを取って見ることが多い。それが相手を十分に制御できていないようにドイツのコーチには見える。小さい頃から「簡単に飛び込むな、という指導を受けているせいかもしれない」と近江さん。

技術、戦術、判断、いろんな武器の土台としてまず「1対1の戦い」に勝つことをドイツは求める。日本は正面衝突を避けながら数的優位な場所に追い込んで最終的に数の力でボールを奪い取ることを教える。身体能力の低さを知恵と工夫でカバーするそんな身の処し方が、「消極的」「戦えない」となって叱声の対象になる。

 

ところが、試合では、、、、、

私が大学時代にFBをやっていた時には、私の後ろにはスゥイパー役の全日本代表の後輩がいて、私がマークしている相手がパスを受けようとすると、私は素早く限界まで、無我夢中で、それでも安心して間合いを詰めた。そのためには、試合の流れの先を早く読み取り、1歩でも早く動き出すことが、肝要だ。私には、様子を見て間合いを詰めるような余裕はなかった。相手が確実にボールをキープすると、もう私の技術ではどうにもならないので、詰められるときにできるだけ詰めたのだ。

それが、うまくいったのだ。

万が一、間合いを詰め過ぎて、私がフェントをかけられて、ちょんと外されても、相手の懐深くアタックさえしていれば、相手がボールコントロールを少しは狂わす、後ろに控えたスゥイパーが、すかさずカバーリングをする。二人で守り切る暗黙の了解があった。ヤマオカさん、どっちつかずだけはやめてくださいね、と言われていた。

そして、2冠を取ったときに、部員のみんなに言ってはばからなかった。それは、俺程度のプレーヤーが活躍するようでは、大学サッカーのレベルは低過ぎる、その認識を持たなアカンで、と。

2014年1月15日水曜日

望郷編その4、墓参りはこれで終わり

20131215 横浜に戻るために実家を12:00に出た。朝からは、中学校の恩師の吉岡先生の仏壇に挨拶をしてきた。

JRと京阪電車の宇治駅かJRか近鉄の新田辺駅まで送ろうと、甥は言ってくれたけれど、時間はたっぷりあるので、ゆっくりゆっくりこの田舎を楽しみたいと断った。一人でぶらぶら歩きたかった。

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左・田原川 右は高尾〈こうの〉への道からの眺め

 

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宇治田原町高尾地区 水を飲んでいるのは後輩の桝君

 

久しぶりに味わう故郷だ、できるだけ多くの山の気のこもった空気を吸って、できるだけ多くの山々の姿を眺めておきたかった。バス停に向かって歩いていくと、役場の裏を流れる田原川にぶつかる。橋の上から河原を眺めていると、子どもの頃の私が蘇る。春から夏にかけて、笊(ざる)や籠(かご)や網でハヤ、フナ、ドンコ、ザリガニ、ゲンゴロウを捕った。芹(せり)を摘んで帰って母に喜ばれた。魚捕りに飽きたら、石を投げて水面(みずも)を滑らせたり、潜って遊んだ。泳ぎに飽きたら河原で寝転んだ。

こんな町にもスーパーマーケットができていて、買い物客がちらほらいた。かって役場の前にあったバス停はもうそこにはなく、向かいの家で車を洗っている人に教えてもらって、新しく設けられたバス停まで、来た道を戻った。スーパーの隣は祖母、父母たちが眠る墓がある宝国寺だ。墓参りに来た時に、そこにバス停があることは気づいていたが、まさか、このバス停が宇治や新田辺に向かうバス停だと思いつかなかった。

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高尾からの帰り道

 

宇治へはよくバスに乗ったことがあるので、その日は青谷経由の新田辺駅行きに乗ることにした。新田辺駅の駅前のロータリーには一休和尚さんの像があって、その像の前で同志社の大学生らがたむろしていた。

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一休和尚  

 

今回の最後の墓参りだ。

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京都の高倉通り五条下るところにある西念寺で、妻の父のお墓参りをした。京都駅から歩いて15分ぐらいの近さだった。道に面した商店には、仏具店や骨董品、着物の反物を広げている店が多く見られた。仏具店といっても、さすが京都だ、僧侶用の着物や履物、僧侶として身にまとう小物なども多く並べられていた。やっぱり、これらの品物も売っているんだ、と認識した。

義父の眠る墓は周囲の墓石よりも一段と大きく、古く、威容だった。何代ものお骨が入っているのだろう。卒塔婆の小さいのに、私の名前とその日付を、住職さんは筆でさらさらと書いてくれた。お花を買って墓前に供えた。甥っ子の嫁が用意してくれたお線香を焚いた。

義父の葬儀の日、私は4番目の子どもを抱いて、葬儀に来た人々の群れの外で、僧侶たちの読経を聞いていた。23~25年前のことになる。ガンが原因だった。

義父はお酒が大好きな人だった。時々、好きな酒の肴を市場で買ってきた。大阪の銀行に勤めている時でも、早朝、毎日日本酒を1.5合ほど、コップになみなみと注いで、それを飲んで会社に行っていた。傍目には、一切変調や異常は見られなかった。初めて、その光景を見たときは吃驚した、銀行では、始業前に屋上で全員揃って体操をすることになっていて、義父だけが汗まみれで体操している様子が、他の行員からは不思議がられたようだ。支店長さんだけは、その由を知っていた。

体の不調を訴えだしてから、病院を転々とするのだが、ガンとは知らない義父に、どこの病院の医師も、酒が原因ではないと思いますよと言ってくれた。義母の気遣いに、医師も発言に配慮してくれた。どの医師も義父の体の状態の全てをお見通しだった。義父は、せめての気休めのつもりだったのだろうか、妻や娘には、お父さんの病気は酒を飲み過ぎたからではないらしいよ、と弱弱しく言い訳をしていた。何故か、酒は「万長」を好んで飲んでいた。

自分の生い立ちや、幼少の頃の家族のことに関しては、何も話してくれなかった。話したくなかったようだ。私のことも、突っ込んで聞いてこようとはしなかった。

晩年は、地元の商工ローン会社に勤め、その会社の上場準備室長として上場を果たし、その後は業務の拡大を重ねる繁忙の日々を過ごし、その繁忙中に亡くなった。それからの20年後の会社の果てを知らないまま亡くなったのは、彼にとって、良かったのかもしれない。商工ローンは運営において世間からこっぴどく叩かれた。

2014年1月13日月曜日

あそこに、渡し船があるんですよ

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3~4ヶ月前のこと、経営責任者の中さんと、横須賀市の浦賀湾に添って車で走っていたら、運転中の中さんが、この辺に船着場があって、向こうの岸まで渡し船が出ているんですよ、と話しかけてきた。その時は、視界の隅っこに乗船場のようなものを確認しただけで、それほど感心は向かなかった。

ええ~、今どき、そんな悠長な!! この辺りで、渡し船なんて本当にあるの? 半信半疑、その程度の反応だった。

歌謡曲で名高い、矢(や)~♯~切(ぎり)~♭~の~渡(わた)~ア~し~、なら、歌は下手だけれど、名前だけは知っている。葛飾柴又から江戸川を渡って千葉に着く、東京唯一の渡し船だ。

そして、今年の1月6日の朝日新聞の朝刊・横浜版に、”渡し船に乗ってロトロ当選祈願、叶神社が人気”のタイトルで、半年前に中さんが話題にした渡し船のことが、叶神社と合わせて記事になっていた。私の目は、急に色めき立った。なむ!! あの渡し船のことだ。

その記事をダイジェストさせてもらった。写真も全て新聞掲載のものを使わせてもらった。

 

横須賀市の浦賀湾を挟み、渡し船で結ばれる東西の叶(かのう)神社。西の神社の勾玉(まがだま)を東の神社のお守り袋に収めると、恋愛や友人関係、仕事での良縁に恵まれるといわれる。最近では「叶」を「ロト」と読み、宝くじの当選祈願の地としても人気を集めている。

勾玉は水晶、ヒスイ、メノウの3種類。

鳥居近くの船着場に向った。「ポンポン舟」の愛称で親しまれる渡し船は約300年の歴史がある。150円を払い、のどかな湾の風景を2分ほど眺め対岸に到着。東叶神社は勝海舟が咸臨丸で渡米する前、航海の安全を祈願し、絶食した地だ。

(前田伸也)

2014年1月12日日曜日

初詣

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神明社 社殿前

神奈川県神社庁より拝借

 

営業部のスタッフは4日から働いているが、管理部の仕事始めが6日なので、みんなが揃った6日の朝、9時過ぎに天照大御神(おおみかみ)を祀る神明社に初詣にでかけた。

本家がが伊勢神宮だとしたら、相模国一の宮が寒川神社。横浜地区では、同じ神を祀る神社としては、神明社が最も由緒の古い神社だそうだ。

各自神殿の前で、お祈りした。私は社員と社員の家族、仕事でお世話になっている方たちのご加護をお願いした。会社は堅実に、確実に、誠実に運営しますので、静かに見守っていてくださいと宣誓した。欲深いことは何も申すまいと腹に決めていた。

お参りを済ませ、通常の業務に入った。

 

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業務に取り組む心構え、スローガンは昨年と同じだ。

・強い意志

・広範な知識

・大胆な行動

次女夫婦にエールを送る

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた


シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた


風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

 

野口雨情の作詞で、中山晋平作曲の童謡だ。野口雨情の2歳で亡くなった次女の鎮魂歌だったと学生時代に知った。風、風、吹くな、なんて弱気でどうするんだ、風なんか、君の屁で、ふっ飛ばしてやれ。

師走の終わりに、次女夫婦にも悲しいことが起こった。

子供の頃から親しんできたこの歌を、今、この歳になって、悲しく歌うなんて、運命の悪戯(いたずら)にしては、酷(ひど)過ぎる。独りっきりになると、気づかないうちに口ずさんでいるのが、、、、実に滑稽だ。

次女らに気の利いたことを言ってやれない、してやれない、そのもどかしさが、私を苦しめる。そんな折、天声人語を読んでいて、新聞に親しまぬ彼女たちに、この天声人語の一文を献上しようと思いついた。

 

20140110

朝日・天声人語

一昨年、97歳で亡くなった詩人の杉浦平一さんに、「通過」という詩がある。たった3行の作品だ。〈急行にのって駅を通過するとき ベンチに腰かけている人がチラリと見える その人を私のように 思う〉。

自分の人生は急行ではなく鈍行列車のようなものだ。そんな感懐だろうか。この詩の内容を紹介しながら、脚本家の山田太一さんがきのうの本紙オピニオン面で語っている。「ぼくは、各駅停車の駅にいる人が、豊かでかっこよく見える」と。

プラスとされる価値でなく、マイナスとみられることが実はしばしば「人間を潤している」と山田さんはいう。「災害や病気を経験している人とそうでない人とでは、人間の差が生じていると思います」。長年、漫然と日々を送ってきた身には、ぐさっと刺さる言葉である。

艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす。仮に、そんな経験を封じられたらどうなるか。英国の小説家オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』。舞台は未来の「ユートピア」である。人々は試験管で「製造」される。厳しい階級社会だが、薬や教育によってだれも不満や疑問を持たず幸せに生きる。

一見楽園でも実はがんじがらめの管理社会。外からきた「野蛮人」はその本質を見抜き、統治者に向って言う。「わたしは不幸になる権利を求めているのです」。病気になる権利も、不安や苦悩に苛(さいな)まれ、それらすべてを要求する、と。

生きるのは実際、楽ではない。鈍行でいいから、えっちゃらおっちゃら行ってみよう。

2014年1月10日金曜日

望郷編 その3 吉岡先生の2

体育の成績が、牽引力になった。

年の瀬の15日、中学時代の恩師、吉岡由造先生の仏壇の前にいた。奥さんと長々と先生との思い出を話し終えて、お別れの挨拶をすませ、一人とぼとぼ田舎の道を歩きだした。懐かしい道だ。歩きながら考えたのは、先生が何故に私を可愛がってくれたのだろうか、私に一体、何故、あんなことを言ったのだろうか、ということだった。深い謎だ。

小学校は絶好調で過ごした。絶好調とは、自分にとって最高に気分よく過ごせたということで、その絶好調が、傍目(はため)、先生たちにはどのように映っていたのか、それは私には解らない。元気で、元気でどうしょうもなく、元気に過ごした。最高の気分だった。友達ができて、先生は日毎に知らないことを教えてくれる。教えてもらったことを家に帰って家族に話すと、みんなは喜んで聞いてくれた。

そんな子供が、そんな調子で中学校に入学した。絶好調は小学時代と変わらない。バスケットクラブに入部した。同期の入部に山岡保、福井保、奥村保と保が3人揃ったのが可笑しかった。体育クラブに入部したせいか、体育の授業は面白くて、この教科だけは真剣に授業を受けた。飛び跳(は)ねていた。先生が吉岡先生だった。

だからと言って、誰よりも足が速いわけでもなく、どの種目でも格段に秀(ひい)でていたわけでもなかったが、兎に角、体を使ってグラウンドや体育館で行う運動が快感だった。それだけのことだった。

通信簿の体育の評価が飛び抜けて良かったのには、本人も吃驚した。な~んだ、俺よりも優秀な奴がいるのに、みんなはどうしたんだろう?

そして、2年生になった頃、担任でもない吉岡先生から、「君も学校の先生になれるヨ、もう少し勉強に気合を入れて大学を目指しなさい、期待しているヨ」と言われたのだ。先生の意図はどこにあったのか、突拍子もない事を言われて、一瞬戸惑った。先生は何故、そんなに元気なんですか?という私の質問に、その的(まと)外れの返答として、このように言われたのだ。気に留めていただいていることが、嬉しかった。

父や母からは、中学校を卒業して高校に進学するのもよし、就職するのもよし、お前の好きなようにしていいと言われていたので、青天の霹靂、いきなり大学への進学を勧められたので面食らった。よく解らなかった私は、先生の言葉をそのまま鵜呑みにして、誰にも話さなかった。我が家においては、学業成績が悪かろうが良かろうが、大した問題ではなかった。当時、私の田舎では高校への進学熱が高くはなかった。

それから、ちょっとは勉強するようになった。ちょっと勉強すると嘘のように成績が上がった。みんなは勉強をさほどしてなかったのだろう。体育は勿論、算数、国語、英語、社会、理科は5段階の5に、生まれつき感性やセンスがなく、音楽と図工はどうしても普通の3~4をうろちょろ。成績が上がれば自信もつく、反則ばかりとられて嫌になりかけていたバスケットボールの練習にも一所懸命に励めた。

普通の成績だった私に、どうして先生は、君も先生になれるよ、大学を目指しなさいなんて言ったのだろう。いくら考えても謎だ。

生きているうちに問い質(ただ)したかった。

2014年1月8日水曜日

望郷編、その3 吉岡先生

20131215、横浜に帰る朝、吉岡先生の奥さんのご自宅を訪ねた。3年前に先生が亡くなられた時には、仕事の都合で駆けつけられなかった。亡くなる1年前に、病院にお見舞いに行ったときには、体だけではなく精神的にも弱っておられた。先生は、中学時代の恩師、体育の先生だった。大学への進学を大いに勧めてくれた。受験浪人中、度々お邪魔してお酒をご馳走になった。

先生は、野球部と陸上部の顧問をしながら、学校の全ての体育クラブの総括もされていた。クラスの担任ではなかった。

私たちの学校は、どのクラブも特別に強いことはなかったが、スポーツの盛んな学校で、私が所属していたバスケットボール部の休みは、年間を通じて3日もなかった。放課後、休日でも運動場や体育館は各クラブの活動で大賑わい。私はバスケットボール部員で、バスケットボールそのものに悩みを持ちながら、それでも今はやるしかない、と決め込んでいた。私が気合を入れてプレーすればするほど、ファウルをとられた。相性が合わなかった。

吉岡先生と呼んでいるけれど、実は奥さんの籍に婿養子に入られたので、姓は森田。その新しい苗字に慣れない私は、いつまでも、吉岡先生と呼んだ。死因は、多年の大量の酒飲による多臓器機能不全による疾患だ。それほどまで酒を飲むようになった理由は、いろいろ思い巡らすことはできるが、今回はそのことには触れない。仏壇に妻が用意してくれた品を供えた。

20131213同窓会、墓参り 067

壁には、先生の遺影と当時の野田佳彦総理大臣が、先生の長年に亘る教育者としての功労に対して、褒美なのか感謝状なのか、大きな賞状が掲げられていた。奥さんは、遠慮がちにこんなものをこんなところに飾って良いものか、と大いに悩んだけれども、勇気をもって飾ることにしたのよ、と仰っていた。事実、親戚の者から嫌味なのか、僻(ひが)みなのか、心無い声を聞かされたと、奥さんは嘆いていた。

実は、私が大学に行くために田舎を去った頃から、先生は強度のアルコール依存症になった。現役時代、酒魔にとり憑かれた先生を学校に家から送り出し、教育委員会に通っていた時には自殺をほのめかされ、小学校の校長で職を辞めるまでは、悲嘆に明け暮れる惨憺たるものでした、と述懐されていた。他人には言えないけれど、ヤマオカさんなら聞いてくれるよね、と先生の酒を飲んで酔っ払ってのだらしない行状を、涙をこらえて話してくれた。内助の功なんて、そんなものではなかった。でも、時間の経過と言うのは有難いもので、今では、お父さんを恨んではいません、あんなお父さんだったからか、反面教師だったのでしょう、子どもたちはいい子になりました。

ところが、私の中学時代の吉岡先生は、ムチャクチャ輝いていた。年がら年中、校内を生き生きと活動していたのに、感銘を受けたのだ。こんな大人になりたいと思った。何故?そこまで頑張れるのだろう、か?一日中グラウンドにいるので、顔は真っ黒だった。

ところで、気安く「吉岡先生」と言っているが、小学校から大学まで数多くの先生にお世話になったけれど、心底、先生と敬意を込めて言えるのは、大学時代のクラブの監督だった堀江忠男教授と、この吉岡先生の二人だけだ。欠陥だらけの吉岡先生と、人格的にも完璧で、畏(おそ)れ多い雲上の人、堀江教授。二人の先生から、学ばせていただいたことは、大だ。

二人の先生が鬼籍に入られる前に、もう少しいい教え子でありたかったと思う。

2014年1月3日金曜日

今年は、W杯ブラジル大会だ!!

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今年の6月15、20、25日(現地時間は、14、19、24日)、日本はサッカーファンのみならず多くの国民にとって、熱い日になりそうだ。

サッカーをこよなく愛している私にとって、首を長くして待ちに待つ日々、地獄を見せられて悄然とさせられるのか、欣喜雀躍、天国を見せてもらえるのか、ウ~ン、それが問題だ。

20131224の日経新聞で、FIFAマスターを終了した元日本代表で、04年のアジアカップと06年ドイツW杯で日本代表の主将を務めた宮本恒靖氏が、トークショーで語った内容が記事になっていた。宮本氏は現在、日本サッカー協会の国際委員だ。組み合わせ抽選会が行われた後の1208の、これも日経新聞のスポ-ツ欄で、日本が1次リーグで対戦するチームの分析記事を見つけてファイルをしておいた。

話は少しずれるが、宮本氏の日本代表でのプレーについては、私は終始不満だった。

サッカーが好きだと言っても、外国のチームの戦力の詳細な情報まで持ち合わせていない。孫の持つ知識にも到底及ばない。よって、世界のサッカー事情に知見ある宮本氏の談話や新聞記事をダイジェストして、本大会に備えたい。

日本が決勝トーナメントに進出するためには、絶対に相手チームのエースを抑えること、失点を極力少なくすることだ。

そのためには、DF陣だけではなく、全員が危機感を共有すること。1人で無理なら2人、2人で無理なら3人で囲い込む。カバーリングを重層で行う。ボールを持つ相手を追い回して効果的なパスを出させないこと、最終ラインでは相手巧者の技を安全確実にどの程度制せられるか、が鍵だ。

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6月15日(レシフェ) コートジボワール戦

アフリカ予選を5勝3分けの負けなしと安定感ある戦いを続けてきた。中心にいるのがFWドログバだ。体の強さや驚異的なバネを持つ母国の英雄。チェルシー(イングランド)で数々のタイトルを獲得してきたその存在感は35歳の今も健在だ。トゥーレ兄弟ら「黄金世代」と呼ばれる仲間とともに最後のW杯になる可能性が高い。

宮本:「トップレベルの選手が多い。ドロゲバは35歳で全盛期とは違うが、強さもうまさもシュート力も健在。ワントップのドロゲバに対し、日本はCBが強めに当たって前を振り向かせず、ボランチと挟み込みたい」。

:「逆に守備はけっこうルーズ。CBの2人が細かい動きにあまり強くなさそうなので、日本のワントップがうまく動いて、相手を混乱させることができるのではないか」

:「日本は90分間集中力を保って規律よくできるが、コートジボワールは70分良くても残りの20分でいきなりレベルが落ちるときがある。日本はそういう心のすきを突くべきだろう。最初から飛ばして先制点を取れれば」

 

6月20日(ナタル) ギリシャ戦

伝統の堅守は今回も変わらない。欧州予選では組み分けに恵まれた部分もあるが、10試合でたった4失点だった。逆襲速攻の中心となるのが1トップのミトロゲル。トラップやフェントなどの足技もあり、カウンターの仕留め役は適任。ルーマニアとの欧州予選プレーオフでは2試合3得点。大舞台に強いだけに、日本にとってはやっかいな存在になる。

宮本:「日本のように90分間頑張れる。守るべき時に守り抜く力もある。ただ、本来ならDFラインをペナルティーエリアの手前ぐらいで止めておいた方がいいのに、CBが少し下がり過ぎるところがある。CBとボランチとの間を突けばチャンスはあるのではないか。中盤の選手もスライディングで止めにくるので、ドリブルや早いパス交換で崩すと反則をもらえてFKをもらえるチャンスが生まれる」

:「もちろんカウンターは危ない。欧州のトップチームのカウンターのスピードはJリーグと全然違う。アスリートとしての能力がすごく高い」

:「ミトログルはワントップでサイズがあり、右足でも左足でもシュートを打てる。何でもできてスケールが大きい。でも、トップスピードに入るまでに少し時間がかかる。日本は、オフサイドに掛けたり、うまく駆け引きして特徴を出させないようにしたい」

:「CBのパパスタソプーロスはマンマークがとても協力。日本のワントップはマークされないように、もう一人のCBのところに行って、この選手にはカバーリングをさせる方がいい」

 

6月25日(クイアバ) コロンビア戦

シード国。世界ランキング4位。南米予選をアルゼンチンに次ぐ2位で突破。1次リーグ突破の最有力候補であることは間違いない。怖いのは予選13試合で9得点のFWファルカオ。何でもできる万能型だが、ゴール前に飛び出すスピードと、人垣の間を絶妙にすり抜ける緩いシュートのうまさは特筆もの。今大会屈指のストライカーの一人だろう。

宮本:「力があるし、選手層も厚い。南米開催ということを考えると、グループ1位になる可能性が高い。ファルカオはペナルティーエリアの中で強さを発揮する。自分の長所を自分でよく知っているので、ポストプレーでもシンプルにボールをはたいてまた動きなおす。華麗ではないが、ボールをいいところに置いてしっかり足を振って流し込む。正統派のストライカー。日本はシュートを打たれるときに間合いを詰めておくなど、しっかり応対してほしい」

:「ボランチのサンチェスもすごく効いている。ボールをつないでしっかりと堅実なプレーをする。フィジカルの強さを生かしたデフェンスもある。CBのペレアはスピードを生かしたカバーリングで、1対1で抜かれそうになっても最後に追いついてタックルする。日本のワントップの選手は2人のCBのうちこの選手にマークされておいた方がいいだろう」

荒ぶる魂が、吼える

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20131220 私の一番身近なところで、小さな命が果てた。悲しい師走になってしまった。

泣いても泣いても、体のどこでこれだけ大量の涙が作られるのか。いつまで経っても枯れない、人体の謎だ。このような時に、何をして?気を晴らすかは経験的に身につけている。

軽症のときは、身辺の整理整頓と掃除で気分転換を図る。学生時代はスポーツだった。部員が揃っての練習を終えてから、とんでもない特別メニューを考えて自らに課した。社会人になってからも基本的には変わらないが、肉体労働で体をくたくたになるまで追い込むことだ。肉体を虐(いじ)めて追い込めば、私の魂が荒ぶる、野生的に吼える、そして、やがて精神は静穏になる、これが私の習性だ。このようにして、何度もピンチを乗り越えてきた。

そして今回思いついたのは、住宅の解体作業で体に鞭打つことだった。港北区で仕入れた土地には古い住宅が残っていて、この家を壊して、土地だけの売却も視野に入れているが、それよりも、建売住宅として販売したいと考えている。

年の瀬の27、28、29日の3日間を解体作業で過ごすことを決めた。この解体作業こそ復活の糸口だ。スタッフは経営責任者の中さんの義弟のスチィーブ君と私の二人だ。彼は30歳になったばかりの若者だ。解体と言っても、柱や梁などの主要な構造部分はプロの解体業者さんにお願いすることにして、私たちは建具、床、天井、壁と、建物に施された付着物などの撤去だ。

それでも、大きなバールやハンマーを振るうことは多く、私たちには充分過酷な作業だ。かって、同じような作業を何度も経験したが、今回は、加齢のせいか体に堪(こた)えた。屋根裏、天井からの土ぼこり、土壁のため粉塵の多さにもまいった。

初日、二人は無我夢中で働いた。捗(はかど)った。年はとっても、私は平均的な一人前の仕事はできる。もう一人のスタッフのスチィーブ君は、一人で二人前の仕事をこなす。3時間みっちり仕事に没頭、二人で三人前の仕事の成果に満足した。が、私は疲れていた。

そして二日目、同じように夢中で働いた。前日よりも、力任せの仕事は減って、細かい部分の撤去作業だ。建物内の壁はなくなったので、室内の全体が見通せるようになった。

作業中振り向くと、スチィーブ君が猛烈に働いていて、その気迫に圧倒された。私だって負けてはいないぞ、と自らを叱咤。が、疲れは増すばかり、休もうと話しかけても、彼はただ笑うだけで休もうとはしない。階段を壊そうとしたが、構造がよく解らなくて手のつけようがない。仕事を始めるときに決めていた終了時間よりも、1時間半も長く仕事をすることになった。

こなした仕事の量の多さにもう少し感動的になっても、いいのに、、、、、、私はただ終わりだ、メシだ、とスチィーブ君に告げるばかり。

家の周りには廃材で溢れた。

年の瀬、隣家にも気兼ねをしなければならない、と考えて予定していた29日の作業は休みにした。体の各所の筋肉が痛いことも中止の理由だ。スチィーブ君は仕事をしたがっていた。正月気分を吹き飛ばすためにも、仕事始めの1月4日には、解体を始めることにしよう。

大晦日の夜、鮟鱇(あんこう)鍋。来年はいい年にしたい。

2014年1月2日木曜日

大楠山に登ってきた

2013- 021

この数年の私の初詣は、大晦日の夜七時前後に自宅から歩いて出かけ、カウントダウンの始まる前に着いて、新年を迎えていた。次女夫婦と孫、孫のサッカー友達とその母親らと一緒だ。行き先は、寒川神社や鶴岡八幡宮、川崎大師だった。

昨年の年末に、私の身近で悲しい出来事があって、今年は初詣の代わりに山へ行くことにした。山にだって、谷にだって神様はいるだろう。第一希望の丹沢連山には雪が積もっていて断念した。次女の婿の竹ちゃんと孫の晴も一緒に行きたいというので、それならば、以前から気になっていた大楠山に行こうと、前日に決めた。大楠山に決めたことを知らせるメールで、次女にお握りを作って欲しいとお願いした。横須賀市の広報には「おおぐすやま」で、日常使っている「おおくすやま」ではなかった。

2013- 015   2013- 016   2013- 018   2013- 019

20140101の朝、9時頃に次女に東戸塚まで送ってもらった。山行は、私、竹ちゃん、晴の男衆3人だ。

JR横須賀線の衣笠駅に10時過ぎに着いて、そこから歩き出した。竹ちゃんは駅構内のコンビニで、ビールと「氷結」とツマミ、晴にはジュースを買った。歩き出して、早速缶ビールの栓を開けた。衣笠運動公園、城北小学校を右に見て、大楠山はあの辺りですよ、なんて指をさしながら、気楽に歩を進めた。

そのうち、大楠山入り口の看板があるだろうと、多寡を括(くく)りながら歩いていたが、それらしき道案内はなかった。衣笠中学校を過ぎ、疎水に沿って進んだ。横須賀市立しょうぶ園の告知板があったので、大楠山の方向だけは確かめられたが、山への入り口らしきところが見つからず、戸惑っているところに、粋のいい3人の男の人が私達を追い抜いていこうとした。その時、私はこの人達も大楠山を目指しているものと察知、どちらを目指されているんですかと尋ねたら、オオクスヤマと答えが返ってきた。

よかった、この人達について行けばいいのだ。缶ビールは空になり、「氷結」に手をつけた。間もなく、大楠山入り口の看板があった。民家の間を縫うように走る狭い道をてくてく進んだ。そのうち山道に入り、登山道は整備されていた。一気に深山幽谷の趣だ。人里が急に遠く感じられる。上から下りてくる大勢の人たちに出くわした。今日はと挨拶をし合った。

小川があって橋がかかっているところで、硫黄の臭いがした。晴が最初に気づいた。川底の近くに山の斜面から3本の管が出ていて、その管の下には白いペンキでも塗られたようになっていた。竹ちゃんは、川底に下りてその白いものを手にとって臭いを嗅いだ。これはSの臭いだと、叫んだ。なるほど、阿部倉温泉が近くにある。

晴が前を歩きながら藪から棒に、ジジイ、元旦と元日はどう違うか知ってる?と聞かれた。学のない私は、そんなもの字が違うだけで、どっちも同じ様に使っていいんだ、と言い張った。冷静な晴はジジイを諭(さと)すように、元旦と元日は全く違う意味です、元旦の「旦」の下の「一」は水平線を表していて上の「日」は太陽を表しているのです、太陽が水平線の上に上ってきて、太陽が水平線から離れるまでを元旦と言うのです、太陽が水平線から離れてしまうと、元旦ではなく元日なんです、と教えてくれた。晴に教えてくれた、クラスの担当の山田先生に感謝。ガンタンはうちの会社の社長の名前です、では孫の質問の答えにはなってない、どこまでも馬鹿なジジイだ。

山頂に到着したのは、正午頃。1時間半か2時間かかったことになる。頂上では、家族連れの人たちが十数人休んでいた。

2013- 023

東京湾と相模湾が一望だ。三浦半島最高峰の標高242メートル。低い山だが、周囲に高い山がないので、ナイスビューだ。展望台と、NTTの大楠無線送受信所の鉄塔が2基ある。丹沢連山、房総半島はよくわかったが、空は青空なのに富士山や伊豆大島はよく見えなかった。眼下には尖(とんが)ったり、凹(へこ)んだりの三浦半島の入江や岬が面白い。

関東百名山の百番目の山だ、とウィキペディアにあったが、何が百番目なんだ?

下山して県立塚山公園に向った。この公園までの道のりが長かった。

横浜横須賀道路の横須賀インター入り口のコンビニで、晴が男用トイレで、私は女用のトイレで脱糞。悪しからず、急がねばならなかったのだ。アイスクリームを竹ちゃんが買ってくれた。

2013- 027

 

 2013- 025

 

 2013- 029

この三浦按針の墓のことも、以前から見てみたいと思っていたので、大願成就、よかった。京浜急行の安針塚駅に着いたのは午後の3時頃だった。道中、晴にはジョン万次郎のことを話してやったが、間違って話してないか、馬鹿なジジイは心配になった。