2020年7月27日月曜日

牛蒡(ごぼう)を創っている

 果実
 
牛蒡


Arctium lappa
生育中の牛蒡

今夏、我が愛しの農地・イーハトーブで初めて牛蒡(ごぼう)の生育に力を入れることにした。
どうして「ごぼう」が漢字で牛蒡と書くのだろうか、と思いきや中国植物名(漢名)では、牛蒡だとあった。
牛蒡は、「うまふぶき」とも読むらしい。
牛を「ご」と読むようなのだ、漢字も難しい。
私が生まれて育った京都では、牛蒡のことを「ごんぼ」と呼び、金平(きんぴら)牛蒡にしてよく食べた。
父が畑を2メートル近く掘り下げ、その列の上に畝を30センチほど盛り上げて種を蒔いた。
何本かできた作品のなかから上等のものをひとかかげ作って、農業協同組合が主催する品評会に出展して、いい成績を得ていた。


イーハトーブは元々宅地で、深く掘り下げることができなくそれはそれで諦めた。
2か月半ほど前に蒔いた種から芽がを出て、その芽がものの見事に生育していることに、今の状態については十分満足している。
芽から茎、葉になるまでは異常に調子がいい、このことについては義父も感心した。
化学配合飼料を適当に撒いたものが、良かったのか悪かったのか、これからの生育振りを確認したい。
理解しないで肥料を上げるものだから、さ~てどう~なることやら。
営農の知恵の豊富な、隣で野菜を作っている義父は、ヤマオカさん、心配することないよ、間違いなく好い根ができますよ、と太鼓判を押してくれている。
義父を信頼してないわけではないが、今後の地中のことはワ・カ・ラ・ナ・イ。
私の貧困な脳は、余りに茎と葉が立派過ぎて心配度は高くなっている。

そう言えば、芽が大きくなってから、間引きをしてないことに気付いたが、今回はこのまま突き進んでいくことに腹をくくった。
3週間前に、根の部分に盛り土をした。
誰かに指導を受けたわけではないが、少しは土を盛り上げた方が豊かな根が生まれるんではないかと勝手に思い込んだ。

牛蒡はユーラシア大陸原産のキク科ゴボウ属の多年草。
日本へは平安時代に中国から薬草として伝わった。
食用にするのは日本と朝鮮半島の習慣で、ユーラシア大陸北部や中国では薬用として使っていた。


金平牛蒡

立派な牛蒡が出来て、立派な金平(きんぴら)牛蒡を作れたら、最高だなと夢見ている。
立派な創り方ではないが、何回か金平牛蒡を創ったことはある。
私の母は、牛肉と牛蒡と蒟蒻(こんにゃく)の炒め煮をよく作ってくれた。
生家の食事のおかずは少なくて、金平牛蒡をいっぱい作ってくれたのを、争うように食べた。
懐かしい田舎での思い出の光景だ。
牛蒡の香りや旨味は根皮に多く含まれているので、調理の際は皮を剥(む)かずに泥を洗い落とす程度にして使われる。

後方から、ほかの選手を一気に抜き去ること、または多数抜き去ることを「ごぼう抜き」と日常的に使った。
小中学校での私の英姿を思い出した。




★下は、ネットで得たものをそのまま転載させていただいた。

ゴボウとは

ゴボウを食用としているのはわが国くらいで、原産地であるユーラシア大陸北部や中国などにおいては薬用としての利用が大部分です。
シャキシャキした歯ざわりと独特の香りが日本人の嗜好に合うようで、きんぴらや天ぷらのかき揚げなどの他、煮物に用いたり、細切りにしサッとゆでてサラダにも利用します。
食物繊維は野菜の中で最も多く、低カロリーのため、ヘルシー野菜として見直され消費量も多くなってきています。

ゴボウには従来、根が長い滝の川群と太くて短い大浦群がありますが、大浦群は一般には見られません。
現在のゴボウ品種は、滝の川を代表とする長根種とそれらの改良型の短根種(太系も含む)が中心となっています。

家庭菜園では収穫までの日数が短く、掘り取りが容易な短根種(または太短根種)の栽培をおすすめしますが、耕土が深い畑では長根種の栽培に挑戦するのもよいでしょう。
他に、葉を食用にする葉ゴボウがあります。

ゴボウの生育適温は20~25℃で、地上部は3℃以下で枯れますが、根部は極めて耐寒性が強くマイナス20℃にも耐えます。

畑の準備

畑は水はけがよく、少なくとも3年はゴボウを作っていない畑を選びます。
タネまきの2週間以上前に、苦土石灰をまいて深く耕します。1週間前には完熟堆肥と化成肥料を施し、再びよく耕します。
その後、幅50~60cm、高さ10~30cmの畝を作ります。耕土が浅い場合は高畝にします。

〈POINT〉 堆肥は完熟したものを!

苦土石灰は1平方メートル当たり3握り(約150g)、堆肥(完熟)は約3kg、化成肥料(N:P:K=8:8:8)は2握り(約100g)とします。未熟堆肥や石ころ、かたい土塊などは岐根(また根)の原因となるので、完熟堆肥を用い、石ころやかたい土塊を取り除きます。

タネまき・発芽までの栽培管理

直径5cm、深さ1cmのまき穴を作り、あらかじめ吸水させたタネを1穴につき4~5粒まきます。
ゴボウのタネは好光性種子ですので、覆土はごく薄くします。
軽く押さえてからたっぷり水やりし、発芽まで水を切らさないようにします。
発芽(タネまき後10日~2週間)がそろったら1回目の中耕・土寄せをします。

〈POINT〉 こまめに除草する!

種皮がかたいので、タネを一晩水に浸して吸水させます。
株間は長根種と太短根種が10~15cm、短根種が3~8cmとします。
ゴボウは初期生育が遅いので、雑草に負けないようにこまめに除草します。

間引きから収穫までの栽培管理

間引きは、本葉1枚時(春まき:タネまき後30~40日)で2本立ちとし、本葉3~4枚時(50~60日)で1本立ちとします。
そして1回目の追肥・中耕・土寄せをします。その後、草丈が30cmになるまでに1~2回、追肥と中耕・土寄せを行います。
秋まきでの間引きは翌春本葉2~3枚の頃に1本立ちにします。

〈POINT〉 肥料不足にならないように!

追肥量は1平方メートル当たり化成肥料を軽く1握り(約30g)とします。
間引きは、葉が素直に上に伸びているものを残します。
ゴボウは比較的多肥条件が向いており、肥料不足になると、す入りが多くなります。

病虫害

ゴボウの病虫害では、連作による線虫の被害が大きく、岐根が多発するようになります。
この他、病害では黒斑細菌病、うどんこ病などが発生し、虫害ではアブラムシやヨトウムシ、ネキリムシ類などが発生しますので、早期発見、早期防除を心掛けます。

〈POINT〉 連作は避ける!

線虫の一種、ネコブセンチュウは多くの野菜に寄生繁殖するので、前作の野菜の根部を常に調べるよう心掛け、畑の選定に注意します。
イネ科植物、キャベツ、ネギなどとの輪作がおすすめです。

収穫

長根種は春まきでは150日前後、直径2cmほどまでに収穫します。
長期間収穫しないとすが入るので、適期に全部掘り取り、土をかぶせて保存します。
短根種はタネまき後約75日、太さ1.5~1.7cm、長さ30~40cmを目安に収穫します。
いずれも根が細くても(直径1cmほどから)若ゴボウとして利用できます。

〈POINT〉 若採りして風味を楽しもう!

収穫は葉を刈り取り、根の脇を30~40cmほど掘り下げ、根の首部を両手で持って、掘り下げた穴側にやや倒すようにして引き抜きます。
土つきゴボウの調理では風味を生かすため、皮はむかずにタワシなどでこする程度にします。

2020年7月21日火曜日

日本は藤井聡太に沸いたぞ

藤井聡太(そうた)

藤井聡太の画像
2020年7月16日。
藤井聡太は、大阪府大阪市「関西将棋会館」にて第91期ヒューリック杯棋聖戦 五番勝負第4局で史上最年少となる17歳11か月で「棋聖」を獲得した。
そのことが、テレビや新聞で大騒ぎ、日本中が藤井棋聖に沸いた。
将棋のことをな~にも知らない私だからこそ、この藤井君の栄誉は二本の睫毛が瞬間的に剥ぎ取られたように、驚いた。
否、酔っ払って寝ている時に、頭の髪をすっぱり狩り切られ丸坊主にされたようでもある。


対戦相手は渡辺明棋聖に3勝1敗でシリーズを制したことになる。
この戦いの後から、藤井聡太は新「棋聖」になり、渡辺明さんは旧「棋聖」になった。
愛知県瀬戸市出身で杉本昌隆八段門下入った。
2016年に史上最年少(14歳2か月)で四段昇段(プロ入り)を果たすと、そのまま無敗で公式戦最多連勝記録(29連勝)を樹立した。
そして、19日に18歳の誕生日を迎えた。



★朝日新聞・社説 20200718
藤井新棋聖 「感想戦」に学びたい

将棋の藤井聡太七段が棋聖戦を制し、史上最年少の17歳11か月でタイトルを手にした。
プロ入りも最年少の14歳2か月、デビュー戦から29連勝するなど数々の記録を塗り替えてきた。

新聞を愛読し、「僥倖(ぎょうこう)」「望外」といった言葉を使いこなす高校生棋士が、若者らしさを一番感じさせるのは負けた時だ。
投了後に両者が一緒に対局をふり返って、勝因、敗因などを分析する「感想戦」では、何度もため息をつき、うなだれる。

藤井新棋聖は、多くの有力棋士と同じく、この感想戦を大切にきた。

かって好きな言葉を聞かれて「感想戦は敗者のためにある」だと答えた。
「感想戦という行為自体が他(の世界)では珍しいと思う。感想戦の意義をよく表わした言葉かな」。

別の場面で将棋の神様への願い事を尋ねられた際には、「お手合わせを」と応じている。

双方の言葉から伝わってくるのは、勝ち負けを超えて将棋の本質に迫りたいという思いだ。

おとといの対局後も、相手の渡辺明棋聖(棋王、王将)と30分ほどの感想戦に臨んだ。

それぞれの場面で自分が何を考えたのかを語り合い、より良い一手があったのかを共同作業で探求する。
人工知能(AI)でもすべてを解明することはできないといわれる将棋の奥深さと、そこに一歩でも近づこうという熱意。
悔しい負けを喫したばかりの渡辺棋聖がていねいな言葉づかいで19歳下の藤井新棋聖に意見を請うシーンには、胸を打つものがあった。

日本将棋連盟会長でもある佐藤康光九段は、感想戦での検討について「思いもよらない妙手が出てくると、震えるほど感動することもあった」と著書に記している。
敗れて腹が立ち、自身の感想戦を拒否して帰ってしまったことがあるとも明かし、「まったく自己をコントロールできていなかった」と省みる。

負けたり失敗したりした時、人はしばしば、ただ落ち込む。
言い訳を考える、忘れようとする。
逆にうまくいった時には、都合のいいことだけを記憶に残して、途中の過ちにはふたをする。

客観的に自分を見つめ直すのは難しいが、その機会を与えてくれるのが感想戦といえるだろう。

感想戦に時間の制限はない。
敗者が納得するまで続けるのが常だ。
藤井新棋聖も敗戦の経験を幾度も重ね、そこで得たものを次につなげてきた。

熟慮や対話を通じて自らを相対化する営みが敬遠されがちな現代。
将棋界が長い年月をかけて育んできた感想戦の文化から、生部べきことが多い。
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ネットにも藤井新棋聖のことで大騒ぎだ。
16日の対局終了後の記者会見には杉本昌隆八段も同席した。
下記の内容は、ネットをそのまま掲載させてもらった。

藤井新棋聖:
「(タイトル)獲得については、まだあまり実感がないんですけども、とてもうれしく思っています。
師匠には入門の時からずっとお世話になってきたので、1つ恩返しができたのかなと思っています」

杉本昌隆八段:
「タイトルというのは私たち棋士にとって夢の舞台ですし、すべての棋士の目標です。わが板谷一門では、私の師匠の板谷進九段が東海地方にタイトルを持ち帰るというのが長年の悲願でした。
孫弟子の藤井七段が今回実現してくれて、東海地方にタイトルをついに持ち帰ってくれるんだなと思うと感慨深いですね」「東海地方にタイトルを」。
師弟3代にわたる悲願達成です。



感想戦(かんそうせん)とは、囲碁将棋チェス麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局まで、またはその一部を再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。
なお、「感想戦」は本来将棋用語であり、囲碁では通常「局後の検討」という言葉が使用されることが多い(NHK杯の司会者もそのような言い方をしている)。
感想戦は双方の対局者の間で行われるが、対局者以外の観戦者も参加することが多い。
対局の再現が必要となるため、棋譜を記録するか、記憶しておく必要がある。プロの囲碁・将棋の棋士は、大抵はその対局の棋譜をすべて記憶している。
囲碁・将棋においては、プロの公式戦では感想戦はほとんどの場合に行われ、アマチュアでも高段者、上級者の対局では感想戦が行われることが多い。
感想戦を行うことによって、一局を客観的に見直すことができ、棋力の向上につながるためである。
囲碁では対局後に行わずに帰っても問題とされることはない。チェスでは重要な大会では行われるが、時間的な余裕がない場合は省略してもよく、大会によって異なる。
将棋ではルール上明文化されているわけではないので、感想戦を拒否して帰っても特にペナルティはない。
実際、プロの公式戦でも体調不良等を理由に感想戦を拒否したり、手短に済ませるケースがある。
しかし観戦記者がいる対局における感想戦は記者に対するサービスという側面もあるため、行われないのは異例とされる。
以下、感想戦を辞退した著名なプロ公式戦の例をいくつか挙げる。





2020年7月17日金曜日

入江さんを想う


新型コロナウイルスで、日本中の人たちが突(つ)っ張(ぱ)りが利かない悲し気分になりかけているのではないか、そんなことを心配するのです。
昨今のコロナ禍を伝えるニュースに暗澹たる気分に陥らざるを得ない。



私はと言えば、何年か前に遭った事故で、悲しいかな誰よりも元気がない。
新型コロナウイルスの国内感染を何とか避けようと緊急事態宣言を実施し、政府や知事が言うように自粛に耐えながら生きている。
そんなに世知辛い首都圏に居る。
が、感染者の数が何とかようやくにして収まりかけたというのに、この何日間は不思議にその数が増えようとしている。
新型コロナウイルスは第2波に入って、その勢いは増している。
ヤバイヤバイと、言っていたってしょうがない。

そんな日に、下のような劇場での感染が始まった。
劇場クラスターが発生したのだ。
クラスターが発生した舞台は「THE★JINRO-イケメン人狼アイドルは誰だ!!-」(6月30日~7月5日)
劇場は東京・新宿シアターモリエール。
有村崑(44)は観劇した際に感染しており、2次感染。
同舞台関連の感染者は1都9県で65人となり、劇場から全国、家庭や職場に広がる最悪の事態を迎えている。
同舞台は全観客約800人が濃厚接触者に指定され、15日までに39人の感染が確認。
島根県の10代女子大生、長野県の20代OLら1都9県におよび全国に広がっている。

このうち5回観劇した川崎市の40代女性看護師は、勤務先の病院で担当した新生児11人が濃厚接触者としてPCR検査の対象になり、これまで8人が陰性だった。
群馬県の20代女性保育士の感染では65人の園児にPCR検査が行われている。
15日に陽性が確認された濱川英也(23)ら出演者17人、スタッフ8人の感染者が出た。
その中の俳優、榊原徹士(30)と朗読劇で共演した中島礼貴(25)ら4人の俳優も濃厚接触者となり、中島は15日に開催予定だった所属グループの無観客ライブを延期した。

こんな時期に、こんな環境の世の中で、よくぞ舞台でのお芝居をやったものだ!又、ファンもよく観に行ったものだと感心した。
芝居を行うもの、芝居小屋を提供するオーナーたち、観劇する者たち、その全ての人々が何から何まで気を配って身を守ったのだろうか?
大変だ、大変だと叫びたくなったのは、私ひとりじゃ無い筈だ。


この「新宿シアターモリエール」の「事件」をテレビで観て新聞を読んでいる隙間に、私は私の大好きだった入江洋祐さんと洋祐さんの息子・龍太、伊藤克さん、そして45年仲良く付き合わせてもらった芝居の関係者のことで、怒涛のように頭をぐらぐらさせられた。
芝居小屋のことも気になる。
それは劇団・東京演劇アンサンブルのことだ。
「東京演劇アンサ...」の画像検索結果














銀河鉄道

日刊ベリタ : 記事 : 「一年、一年。」 入江洋佑 (東京演劇 ...
入江洋祐さん

山岡保の横浜一元気なブログ: ウェスカーの「シャイロック」
私と現代表

上記の「THE★JINROーイケメン人狼アイドルは誰だ!!-」の話とは少し違うのだけれど、今、現在、昨日の今日の明日の東京演劇アンサンブルも大変だろうと思われて、その苦しみに私の胸はキュンキュン!!
私は大学中に仲良くしてくれた脚本家の牛さんが、この劇団とその関係者を紹介してくれて、どうにもならない程、付き合いは深くなった。
この東京演劇アンサンブルは入江洋祐さんが俳優座の俳優養成所を経て、劇団三期会(現・東京演劇アンサンブル)を創立した。
「私は大学を卒業する前に俳優養成所のテストを受けたものだから、正確には大学を卒業していないんですよ」と話していたのを憶えている。
創立したときのメンバーは愛川欣也、塚本信夫、伊藤克さんらもっといらっしゃっただろうが、私は知らない。
テレビでお馴染みの愛川欽也、リンゴを丸齧(まるかじ)りしても歯並びにはダメージを受けない歯磨きのコマーシャルの塚本信夫さん。
テレビの画面に白い歯を見せてニッコリ笑う塚本さん。
後に演出家の広渡常敏さんも加わった。
彼が演出した劇のどれにもうっとりさせられ、劇団員の演技に魅入られ、嬉しくなって帰宅した。
代表で俳優、演出家の入江洋祐さんは昨年(2019)8月5日、先に亡くなった息子・龍太さんの納骨の日に亡くなった。
この息子とは彼の姉も含めて何度も飲みに行ったし、病院への見舞いにも行った。
親子してほぼ同時期に亡くなったように思われる。
入江さんは60年以上舞台を創り上げてきた、最期は84歳だった。
劇団員の伊藤克さんが同年7月7日に亡くなった。

入江洋祐さん親子、伊藤克さんの3人のしのぶ会を劇団員とその関係者で行ったけれど、今までの文章で触れなかったが、劇団にとって重要なことが行われた。
それは「ブレヒトの芝居小屋」が、練馬区関町から新座市野火止に引っ越したことだ。
関町の地主さまとの賃貸借契約については、地主さまにはそれなりに条件を和らげて能々(よくよく)付き合ってもらったが、これ以上お付き合いしてもらえなくなったそうだ。

そんなことを考えてこの東京演劇アンサンブルの運営にも鳥肌が立つように心配になるのです。
新型コロナウイルスがどことなくはびこるこの世間。
このウイルスは何処に、どのような形で人間に忍び寄ってくるのか。
今の社長さんは高齢のご婦人、私にも随分仲良くしていただいた。
年老いた人も居ればそれ以上に若い人が群れ立っている劇団に、ちょっとぐらいのショックでも強く生きる力を私は見逃してはいない心算だ。
この劇団のことが、上記で知らせた新しい劇団ではなく、苦しくなるほど心配なのだ。









2020年7月14日火曜日

封印されていた文書(ドシエ)

封印されていた文書(ドシェ)
昭和・平成裏面氏史の光芒

著者=麻生 幾
出版社=新潮社

この本を買って読み出すことになったのは、株式会社講談社発行の著者・大泉康雄の「あさま山荘銃撃戦の深層 上巻」を読み終え、それならば下巻も読みたいと考え、古本屋で探している時に気付いたのが、この「封印されていた文書(ドシェ)」だった。
目次を見る限り、この内容ならば買って読むしかないと思ったが、店内では見つけることができなくて、友人にネットで探索してもらって買い求めた。
この本については読了後、このブログに書いてみたいと思う。


★三菱銀行事件犯人「梅川昭美(あきよし)」
VS大阪府警捜査第1課

〈三菱銀行北畠(きたばたけ)支店  猟銃立て籠もり事件〉
昭和54年1月26日、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が乱入し、森岡浩司支店長ら行員を射殺した他、駆けつけた楠本正巳警部補と前島和明巡査を射殺し、行員と客を人質に立て籠った。
借金苦と遊興費欲しさからの凶行だが、籠城中に女子行員を全裸にしたり、男子行員の耳を切り取るなど、その猟奇的な犯罪は全国を震撼させた。



★幻のオウム
VS自衛隊治安出動

〈オウム真理教強制捜査〉
坂本弁護士一家拉致事件や松本サリン事件、相次ぐ信者の失踪など多くの疑惑にまみれていたオウム真理教は、平成七年三月二十日、東京の地下鉄にサリンをばら撒き、十二名の死亡者と数千名の被害者を出した。
さらなるテロの恐怖に騒然とする中、捜査当局は三月二十二日山梨県上九一色(かみくいしき)村や東京・青山のアジトを強制捜査。
五月十六日には教祖・麻原彰晃が殺人及び殺人未遂容疑で逮捕された。


★〈あさま山荘銃撃攻防〉
未公開資料の全貌
〈連合赤軍あさま山荘事件〉

昭和四十七年二月十九日、長野県軽井沢町のあさま山荘に武装した連合赤軍兵士五人が乱入、管理人の妻、牟田泰子さん(31)を人質に十日間立て篭もった。
警察の強行突入で逮捕された坂東国男(ばんどうくにお)(25)ら犯人は取り調べに完全黙秘で臨んだが、その後、同志十四人を「総括」と称してリンチ殺害していた事が判明。
妙義山や迦葉山(かしょうざん)のアジトから続々と遺体が掘り起こされた。
この事件で、左翼勢力に対する国民の支持と理解は失われていった。


★ホテルニュージャパン大火災 埋もれたままの消防隊
六百七十七名全記録

〈ホテルニュージャパン火災〉
昭和五十七年二月八日午前三時十五分頃、千代田区永田町のホテルニュージャパン(故・横井英樹(ひでき)社長)の9階客室から出火。
火は十階と七階部分まで延焼し、死者三十四人を出す大惨事となった。
都心の一等地にあるホテルだが、防火設備など安全管理を怠った横井社長の経営方針に批判が集中した。
警視庁麹町署は同年十一月、横井社長ら幹部を業務上過失致死傷容疑で逮捕。
同社長は最高裁まで争ったが、禁固三年の実刑判決が確定した。


★特捜部VS田中総理
知られざる密室の攻防

〈ロッキード事件〉
昭和五十一年二月、米上院外交委多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社が旅客機売込みのため、日本の政治家などに工作資金を贈った事実が発覚。
東京地検特捜部は桧山広(ひやまひろ)丸紅前会長らを贈賄などの疑いで逮捕。
捜査のメスは田中角栄元首相にまで及び、五億円の受託収賄罪で起訴された。
田中元首相は一、二審で懲役四年、追徴金五億円の判決を受けたが、最高裁審理中に死亡。
が、「総理大臣の犯罪」は桧山らに対する最高裁判決で確定した。


★ペルー日本大使公邸事件
存在しなかった「国家の決断」

〈ペルー日本大使公邸人質事件〉
平成八年十二月十八日午前十時十五分頃(日本時間)、天皇誕生日の祝賀パーティーを開催中の日本大使公邸を、ペルーのテロ組織MRTAのメンバー十四人が襲撃。
人質を楯(たて)に獄中の仲間の釈放などを要求した。
日本政府は当初から「平和的解決」を主張、セルパ容疑者ら犯人グループも人質を段階的に開放しながらペルー政府と交渉を続けたが、翌年四月二十三日午前五時二十三分、ペルー国軍の特殊部隊が公邸に突入、犯人全員を射殺し、人質七十一名を解放した。



★金丸逮捕劇の知られざる真実

〈金丸信元自民党副総裁脱税事件〉
建設業界等の裏献金を不正な蓄財に充てていたとして、平成五年三月六日、東京地検特捜部は金丸信元自民党副総裁(78)と生原(はいばら)・元第一公設秘書(49)を所得税法違反の疑いで逮捕した。
前年九月、特捜部は金丸が東京佐川急便の渡辺広康元社長から五億円の献金を受けて居ながら略式起訴で済ませたため、世論の厳しい非難を浴びていた。
金丸は同八年三月二十八日死去。
公訴は棄却されたが、生原は有罪判決を受けた。


★下山事件50年目の解決

〈下山国鉄総裁轢死事件〉
昭和二十四年七月五日、初代国鉄総裁・下山定則(49)が登庁途中に行方不明になり、翌六日未明、常盤線線路上で轢死体となって発見された。
当時は占領下に加え、朝鮮戦争を控え、GHQ主導によるレッドパージが横行。
国鉄では人員大整理を巡り、経営側と労組が一触即発の状態にあった。
「自殺」「他殺」「謀殺」など、様々な憶測や情報が飛び交い、昭和史を代表する”ミステリー”として語り継がれた。


★ペレンコ亡命で第3次世界大戦への悪夢

〈ミグ25函館空港強行着陸事件〉
昭和五十一年九月六日午後一時五十分、ソ連極東防空軍のメグ25戦闘機が函館空港に強行着陸した。
パイロットのベレンコ中尉(29)は即座に警察に身柄を拘束されたが米国への亡命を希望。
同国も受け入れを表明し、九日に日本を出国した。
一方、最高機密である機体の扱いについては、強硬に返還を申し入れるソ連と日本との間で激しい応酬があったが、九月二十五日米軍輸送機で茨城県百里基地に輸送、分解調査することになる。


★北朝鮮「侵入船」を迎え撃った緊迫の8時間

〈不審船領海侵犯事件〉
平成十一年三月二十三日早朝、新潟県沖の領海内で「第2大和丸」「第1大西丸」と船体に書かれた不審船二隻が発見された。
海上保安庁の停船命令や威嚇射撃を無視し、二隻はスピードを上げながら北へ逃走。
政府は二十四日午前零時五十分「海上警備行動」を発令。
護衛艦「はるな」「みょうこう」、p-3cが追尾して警告射撃を行う。
二隻はそのままロシア領海から北朝鮮に逃げ込んだ。
その形状や逃走先から「北朝鮮の工作船」と断定された。







2020年7月3日金曜日

「金閣寺」が天声人語に


あれほど真剣に読んだ三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「金閣炎上」が、7月2日(2020)の朝日新聞・天声人語に書かれていた。
前日の7月1日、嗚呼(あ~あ)今日から今年の後半の始まりになるんだね、と感慨深げに話して、家内から、あなたちょっと可笑しいねと笑われた。

天声人語は下記★ーーーにそのまま転載させていただいた。
生まれも育ちも京都と滋賀と奈良の丁度真ん中部分の京都府綴喜郡宇治田原町。
山間谷間(やまあいたにあい)の寒村だった。
京都のことは何も知らず、聞かず、学びもしなかったが、ただ金閣寺と銀閣寺については名称だけは知ることは知っていた。

鹿苑(ろくおん)寺金閣は昭和25年7月2日、未明焼亡した。
臨済宗相国寺派の寺院だ。
三島由紀夫の「金閣寺」は三島の美意識が最大限に表現された文学作品。
金閣寺を美の象徴として憧憬していた青年が、金閣寺の徒弟となってから、自らその金閣寺を焼失させるまでの心の屈折を描いた作品だ。

当時の他の作家や文芸評論家たちの反響も総じて良好で、連載中から「傑作」と称され、評価が高かった。戦後派文学に対し懐疑的で黙殺していた旧『文學界』同人や鎌倉文士を中心とした主流派の文学者も、三島を自分たちの正統な後継者と認め出し、それまで珍奇な異常児扱いであった三島が一目置かれるようになった。また三島を日本浪漫派の「狂い咲きの徒花」、ブルジョア芸術派と敵視していた左翼文学者たちも、三島の才能や実力をそれなりに認めるようになった、とネットにはあったが、この作品については私には特別な想いは何もなかった。
表現の仕方や言葉の使い方については、それなりの感激をしたことはした。
が、三島由紀夫と私とは心の奥まったところ、心情についてどうも相容れないものがあるようです。

私は、いつの頃か、この作品を映画化したものを観て、頭の隅っこに数々の映像がしこりのように残っていた。



水上勉の「金閣炎上」はノンフイィクションに近い記録文学作品だ。
そのため事件そのものについて興味があったので、この作品は我武者羅(がむしゃら)になって読んだ記憶がある。
物語は長編になっていたが、生まれも育ちも京都府宇治田原町なもんだから、京都以外の地域は、それはそれは真剣に中学校時代に買ってもらった地図を脇に置いての読書になった。
それほど、本に密着したのは久しぶりだった。
下記のwikipediaの内容を詳細に追っているので、その長編にも余り気にすることなく読めた。
水上勉に痛く興味を持ち始めていたので、読書中、当面のことには注意が集中しない、何も興味を持てないほどの上(うわ)の空(そら)状態。



★---------(天声人語)-----------------------

70年前のきょう、京都で金閣寺が焼失した。
14歳の徒弟僧だった江上泰山(たいざん)(84)は午前3時ごろ、異様な音に眠りを破られた。
障子には炎が映る。
慌てて飛び出すと、天を突く火柱が見えたという。

「シャッ、シャッと松の葉が音を立てていました。散水器も消火用の砂も役に立ちませんでした」。
すさまじい火勢にだれもが立ちつくす。金閣を囲む鏡湖池(きょうこち)に火の粉が花火のように降り注いだ。

21歳の兄弟子が火を放ったとわかったのは夜が明けたあと。
点呼に一人だけ姿がない。
居室はもぬけの殻で、碁盤と目覚まし時計が残されていた。
夕刻、寺の裏の左大文字山で発見され、連れていかれた。

兄弟子は出所からまもなく26歳で病死する。
「いくら考えても、火を放たなくてはいけないような事情は思い当たらない。あの夜、あの一瞬だけ何かが外れたとしか言いようがありません」と江上さん。
刑務所からは「お許しください」と懺悔する手紙がたびたび届いたという。

取材後、三島由紀夫の『金閣寺』を読み直した。金閣の美に魂を奪われたとの見立てはなお古びていない。
もう1冊、水上勉が20年かけて動機に迫った『金閣炎上』は、地味ながらズシリと心に響く。
終戦から5年、貧しい学僧の胸には、復興の上り坂からひとり取り残されるような焦燥がなかったか。

梅雨の晴れ間に金閣寺を歩く。
再建がかない、昭和の大修理をへて、世界遺産にもなった。70年前の青年僧の一瞬の狂気の跡は、境内のどこにも見えなかった。

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焼失後の金閣寺

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事件の経緯


焼失する前の金閣(1893年

焼失する前の金閣(1905年

木造足利義満坐像
1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。
鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物カルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

動機

逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
また、服役中に統合失調症の明らかな進行が見られた(詳細は後述)ことから、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。

その後

事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、実弟の実家がある大江への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺している。
林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院精神科を設立し医長となる加藤清である。1950年12月28日、林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死した。
親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。

再建


再建後の金閣舎利殿
現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。
事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。また修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。

事件をテーマにした作品

この事件を題材に、長編小説では三島由紀夫金閣寺』や(その小説を原作とする映画『炎上』もあり)、水上勉五番町夕霧楼』が書かれた。
水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている[2]。水上が1979年に発表したノンフィクション『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次史料となっている。