2008年7月27日日曜日

日本サッカー、新たな時代が始まった。

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日本サッカー協会は、今月12日、評議員会、理事会を開き、11代目の会長に犬飼基昭氏(66)の就任などを正式に決めた。3期6年を務めた川淵三郎前会長(71)が任期切れと定年で退任。また、犬飼新会長の推薦で、ラグビー神戸製鋼総監督の平尾誠二氏(45)、プロテニスのクルム伊達公子選手(37)ら理事26人と、元日本代表の北澤豪氏(39)ら特任理事7人が正式に決まった。
川淵前会長は名誉会長に就任。また岡野俊一郎・前名誉会長(76)が最高顧問に、釜本邦茂・前副会長(64)が名誉副会長になった。


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強いリーダーシップで、Jリーグの発足から今日まで川淵三郎氏を筆頭に、種々済済に貢献されてきた人たちに労をねぎらいたい。Jリーグ発足から日本サッカー協会の会長として、時には強引とも言えるリーダーぶりを発揮された。今回の後任人事においても、後任の選考を検討する会のようなものがあったにも拘らず、「犬飼さんで、いいんじゃないの」、川淵三郎氏の鶴の一声で決まったというではないか。
釜本邦茂氏を組織の機能から外したのは賢明だった。釜本氏の一部を知っている私は溜飲を下げた。
元会長は、新聞の記者のインタービューに次のような抱負を述べた。
川淵三郎前会長の話=サッカーを愛している全ての人にありがとうと言いたい。常に前を向いてやってきたから、今日も過去を振り返らないことにした。これからはアジア・サッカー連盟に託されたアジア・チャンピオンズリーグの改革でアジアの発展に寄与したい。こころのプロジェクトなど日本のサッカーを草の根レベルで支えていく。

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よくぞここまで、基礎固めをしっかりしていただいたことか!!。サッカーファンならずとも感謝する人は多い。
そこで、頑張ってこられた人たちに、私からの我が儘な顕彰を試みた。
サッカーの競技としてのレベルアップに本気に取り組みだしたのは、東京五輪あたりからではないだろうか。東京オリンピックを控えて、ドイツサッカー協会からデットマール・クラマー氏を招いた。クラマー氏は代表に徹底した基礎技術を習得させた。そして日本代表の能力の可能性が甚大であること、将来、必ずや世界に雄飛できると確信した、と仰っていた。クラマー氏は「日本サッカー生みの親」とも言われ、「日本サッカー殿堂」の第1回の受賞者になった。彼の指導で代表のメンバーは自信をつけた。そして、メキシコ五輪へ。そこで、銅メダルの獲得につながったのです。代表のメンバーやスタッフには確信はあったのだろうが、それ以外の人たちにはこの偉業は、とんでもないハプニングぐらいにしか、思えなかったのではないだろうか。
この両五輪にかかわったスタッフや選手たちの、その後の活動が、今の充実したサッカー界につながっているのです。その間に、日本サッカーリーグが発足した。そして、Jリーグとして姿を変えて、進化した。両五輪に出場した選手やスタッフとして参加した人たちの、名前を一人ひとり挙げて、その人たちのその後の仕事っぷりを辿ってみると、如何に彼等が偉大だったか、頷けます。でも、詳細にレポートしなければならない責任感は誰よりも、私は強いのですが、それには私の能力の限界があります。実業の世界から干上がった暁には、きちんと本が一冊できる位、健筆をふるってみせます。待ってください。そんな先輩達に、サッカーを愛してきた者にとって、脱帽、感謝しております。
ここから、両五輪に出場したメンバーの名前と、その後の彼等のサッカーに関った仕事を簡単に紹介する。手落ち、間違いがあればご指摘ください。

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その前にちょっと、追記。
現在サッカーの発展ぶりを綴ってきたのですが、過去にも、世界を相手に、目を見張る大活躍があったことを書き足しておこう。
1936年ベルリンオリンピック大会でのことです。当時ドイツとイタリアと肩を並べていた第1回戦で、強豪スウエーデンを、日本代表が破る大番狂わせを演じたのです。サッカー競技は、このベルリンオリンピックが初めての参加だったのです。体格の面では明らかに劣っていた。下馬評では、圧倒的にスウエーデンが有利だった。前半に2点を入れられたものの、後半に入って3点を奪い、試合はそのまま終了した。終盤のスウエーデンの猛攻を耐え忍んだ。このときのフルバックに当時早稲田大学の学生だった堀江忠男がいた。この大会に参加した日本代表のメンバーの半数は、早稲田大学の現役学生、卒業生、高等学院生で占めた。
この堀江選手のプレーを紹介しよう。サッカーでは、誰よりも早くボールに触れて自分のコントロール下に置くことが、次の攻撃の起点になるだけに、一番大事なことなのです。だから、誰もがそのことに各々工夫するのです。走力のある者はその走力を活かす。スライディングで早くボールにタッチする。身長の高い者はその背の高さを活かす。競って、自分の体で相手の体をブロックする。遅れても、相手の次の行動を予想して、網をかける。堀江選手は、足からボールに向かってスライディングするのではなく、相手のボールに向かって、頭から突っ込むのです。玉砕式です。我々に話してくれた理屈は明解だった。時には、頭からの方が早くボールに触ることができることもある、その時には、その方がいいと考えてそうしたまでよ。頭で相手の足元のボールにアタック、堀江選手の足は空中に浮いていた。そんな報道写真を見たことがある。

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この人こそが、私が入学した大学のサッカー部で、お世話になった監督・堀江教授でした。先生は常に、学生は学生らしく、強く戦うサッカーをやることだ、と仰っていた。私は堀江先生の教えを、多少曲解していたかもしれないが、「不恰好でも、ぶきっちょうでも、チームに役立つことならば、思いっきりやればいいのだ」、と理解して大学4年を過ごした。与えられた仕事をきっちりこなすことだ、と。華麗なプレーができないことは、解りきっていたので、役に立つプレーに徹した。工夫次第では、俺にもこの名門早稲田大学で役に立つ選手になれそうな気がしたのです。そうして、私の第一歩は始まったような気がします。堀江教授と巡り会わなかったら、果たして、私のサッカーは、あれほどまでに頑張れなかったのではないだろうか。お蔭様で、4年生の時に、我が大学は関東大学サッカーリーグで優勝、全国大学選手権で優勝の2冠の栄誉に輝いた。この栄誉に多少の貢献できたことが、私の密やかな誇りだ。受講した科目でも、先生は「ヤマオカ、お前なあ、あのレポートでは単位をあげられないよ。優も良もつけられないよ。可だ。可しかない」と、怖いだけではない、優しい先生でもあったのです。先生は、今は天国です。

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東京とメキシコの両方オリンピックに、日本代表として出場した方々を列挙してみた。地名のみの表記は、オリンピックの開催地です。そのオリンピクに全日本代表として予選等に出場したことを記した。下の内容は、私の記憶が半分、友人に教えられたのが半分で、正確性には欠けるが、活躍の華々しさは理解していただけると思う。この内容以外にも、表立った肩書きはなくても、目立たないところでの活躍は枚挙に遑(いとま)がない。ユニバーシアード日本代表のコーチや監督、U-23日本代表のコーチや監督に大勢のスタッフが、指導に関っている。往年のスタープレヤーが名を連ねていることに、感謝、感激。これらの皆さんの熱意が、今の日本サッカーの底辺を支えてきたのだと想います。
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*故・長沼健=メルボルン。監督として東京、メキシコ、モントリオール。日本サッカー協会会長 日本体育協会副会長
*岡野俊一郎=コーチとして東京、メキシコ。監督としてミュンヘン。日本サッカー協会会長
*平木隆三=メルボルン、ローマ、東京。コーチとしてとして、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。 古河電工監督 名古屋グランパスエイト初代監督

*横山謙三〈 三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。三菱重工監督、全日本代表監督 浦和レッズ監督とゼネラルマネージャー
*鎌田光夫〈古河電工〉=ローマ、東京、メキシコ。古河電工監督
*故・宮本征勝〈古河電工〉=ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン。古河電工監督 早稲田大学監督 本田技研監督 鹿島アントラーズ初代監督 清水エスパルス監督
*故・宮本輝紀〈八幡製鉄〉=ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン。新日本製鉄コーチと監督 九州共立大学監督
*鈴木良三〈日立建材〉=東京、メキシコ。
*山口芳忠〈日立製作所〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。中央大学監督
*八重樫茂生〈古河電工〉=メルボルン、ローマ、東京。コーチとしてミュンヘン。古河電工選手兼監督 富士通監督 ジェフユナイテッド市原・千葉育成部長とスーパーバイザー グルージャ盛岡スーパーバイザー
*小城得達〈東洋工業〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。東洋工業コーチと監督
*森孝滋〈三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。全日本代表のコーチと監督 三菱重工監督、浦和レッズコーチと監督とゼネラルマネージャー 横浜マリノス監督 アビスパ福岡監督とゼネラルマネージャー
*故・渡辺正〈八幡製鉄〉=ローマ、東京、メキシコ。八幡製鉄コーチと監督 全日本代表監督
*杉山隆一〈三菱重工〉=東京、メキシコ、ミュンヘン。ヤマハ発動機監督 ジュビロ磐田スーパーバイザー
*釜本邦茂〈ヤンマー〉=東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール。ヤンマーディーゼル選手兼監督 松下電産監督 ガンバ大阪監督 衆議院議員 日本サッカー協会副会長
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(060713)朝日朝刊 /社説
新世代を結集し飛躍を


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日本のサッカーを引っ張ってきた東京五輪世代からその次の世代へ、指導者のバトンタッチが実現した。
3期6年にわたって務めた71歳の川淵三郎氏から、Jリーグ専務理事で66歳の犬飼基昭氏へ、日本サッカー協会の会長が代わった。
名誉会長となる川淵氏は、東京五輪で日本代表の中心選手だった。そのチームで監督、コーチを務めたのが、その後ともに日本サッカー協会会長となる故長沼健氏と岡野俊一郎氏だ。
ドイツから招かれ、戦後の日本サッカーの土台を築いたクラマーさんから直接教えを受けた仲間だった。
当時の名フォワードだった釜本邦茂副会長も名誉副会長へ退く。今回の役員改選は、一つの時代の終わりを象徴しているといえるだろう。
犬飼氏は三菱自動車の欧州現地法人社長を務めたビジネス経験に加え、Jリーグでも浦和レッズ社長として敏腕ぶりを発揮したことで知られる。
振り返れば日本サッカーの変化は劇的だった。93年のJリーグ誕生以来、W杯への連続出場や日韓W杯開催をへて力をつけてきた。
技量が高まり、選手層が厚くなっただけではない。「スポーツで、もっとも、幸せな国へ」と訴えるJリーグの百年構想をはじめ、地域密着によるスポーツの新しい姿を提案してきた。
Jリーグはクラブとしての自立を求め、企業名をチーム名から外した。企業丸抱えの従来のやり方とは違って、地域に根付いた新たな道を探るのが狙いだった。
学校のグラウンドを芝生化するための支援事業や、スポーツを通してリーダー養成を図る教育施設「アカデミー」の創設も新鮮だった。他の競技や自治体、教育界とも広く連携していく。そうしたアイデアや手法を高く評価したい。
しかし、こうした新しい構想や計画はスケールが大きいだけに、多くが道半ばである。これからが正念場だ。そこに犬飼新体制の力量が問われる。
どの取り組みも、協会に総資産185億円ともいわれる財政的な裏づけあるからこそだ。にもかかわらず、その財源はW杯や五輪の日本代表の人気に頼りすぎの印象は否めない。
その一方で、Jリーグの経営は不安定で、06年度は31クラブのうち半数近くが赤字だった。ビジネスモデルの確立を急ぐ必要がある。
アジア全体の底上げを図ることも日本の課題だ。欧州などのサッカー先進国ばかりに目をむけるのではなく、アジアで互いの選手が活躍できる場を広げたい。それには各国リーグの上位チームで争うアジア・チャンピオンズリーグへの参加数を増やしたらいい。
新会長は自らの経験を生かし、若い世代の力を結集していくことだ。
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惜別 元日本サッカー協会会長
長沼 健さん
6月2日死去 享年77歳
20080808 朝日朝刊より

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日韓共催となったW杯では、その真摯なあ人柄に韓国側の関係者も心を開いていった
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「お別れの会」では献花に1千人もの人々が列を作った。相手を優しく包み込む温厚さと私心を厳しくいさめた潔癖さと。老若を問わず、誰もが「健さん」と慕い、周囲に自然に人の輪ができる人だった。300人を超える一般のサッカーーファンたちが参列したことが、その人柄を物語る。
選手、監督、日本サッカー協会の裏方、そして幹部として、常に日本サッカーの先頭に立ってきた。メルボルン五輪でプレーし、代表選手としてワールドカップ(W杯)予選初得点を記録。東京五輪と、銅メダルを獲得したメキシコ五輪で監督を務めた。プロ化に奔走する後輩たちを支えて、Jリーグを設立。会長時代には02年W杯の招致とW杯初出場を成し遂げた。その歩みは、日本サッカーの歴史と重なる。
なかでも印象深いのは、協会会長として大きな決断を迫られる場面との巡り合わせと、その時に自身の責任から決して逃げなかったことだ。
95年11月、代表監督の交代を巡る騒動で加茂周監督の続投を決めると、「これでフランスW杯に出場できなかったら、責任を取って私が辞める」。
96年5月にW杯の日韓共催が決まると、15自治体から10に減らした会場候補地を気遣い、頭を下げて回った。97年10月、加茂監督をW杯予選途中で初めてとなる更迭に踏み切り、自身の責任問題と進退を協会理事会に委ねた。
このとき、コーチから昇格させられた岡田武史監督は「矢面に立って、男だなと感じたのを覚えている。生き方を勉強させられた。一番腹が据わっていた人だった」と話した。
「志」という言葉を好んで使った。
「よく見ると、十一の心と書くでしょう。まさにイレブンのスピリットなんです」。サッカーに無償の愛をささげ続けた生涯だった。
(編集委員・潮智史)

2008年7月24日木曜日

映画「靖国」を観てきた

7月18日、キネカ大森(東京テアトル系)で、映画「靖国」を観てきた
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この映画を巡って、世間は喧(かまびす)しい。
この作品の正体を見極めたいと思っていたところ、タイミングよく、友人に是非見たいので連れて行ってよ、とせがまれた。我社が大株主の映画館で上映中だから、友人はこの株主優待券をあてにしていたようだ。ここは大株主なんだから、太っ腹でなくっちゃ。
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映画を観終わった私の感想だけは、早い目に述べておこう。
この映画は、世間に物議をかもしているだけあって、刺激的だった。全編のシーンが、観る者の立場によって、誰もが一言言いたくなる映画でした。
相手に、「あなたはどう思いましたか?」と問うと、各人各様に立場、信念と信条が違うのだから、その感想は百花繚乱、喧々諤々大変なことになるだろう。大変なことになるだろうが、この映画が提示している問題には、国民の大多数が納得するまでの話し合いが必要だ。兎に角、今すぐに話し合わなければならない、と感じた。
その争論の前に、まずは話し合いができる環境を作りだす運動が必要だろう。
私は、世間に余り知られていない「靖国神社」の実態を知りたくなった。法制上、この神社はどうなっているのか、他の神社とはどう違うのか、学習する必要がありそうだ。
小泉元首相が言う「心の問題」、従軍後、生きて帰ってきた人たち、兵士として戦場に送り出した妻、親、子供、恋人たちの「心の問題」はどうだったのだろう。遺族の「心の問題」はどうなんだろう。
戦場で、散っていった兵士たちの「心の問題」は、果たしてどうだったのだろうか。天皇陛下の「心の問題」も、聞かせてもらいたい。
7月21日(海の日)、朝日新聞を読んでいたら、「風考計」で竹島問題について、朝日新聞本社のコラムニストの若宮啓文さんの一文の一部に目が奪われた。
その一文とは、「宗教争いのように異論を激しく排斥するばかりでは、話が進まない。『君の意見には反対だが、君が言う権利には賛成する』とはフランスの思想家ボルテールが残した自由主義の原則だ。この精神を忘れずに論じたい」、ということだった。この精神で、靖国問題の議論を戦わして、しかるべき到達点を導き出したいものだ。
靖国神社のこと、解らない。英霊のこと、判らない。祀る「神としてあがめる」って、分からない。
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洞爺サミット開催中、神奈川県警がサミット関係の警備に多数の応援を出しているという理由で、横浜の映画館が警備を求めたが、応じてもらえなくて上映を断念した、との新聞報道があった。
右翼が、映画の何に本気で怒っているのか、知りたかった。
この映画は、文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」の芸術文化振興基金から750万円の助成金を得て制作された。
自由民主党国会議員の一部から、「助成基準にある『政治的な宣伝意図を有しないもの』に該当しないのではないか」と疑問を呈され、物議をかもしたことから、それが新聞等で報道され、私も知ることになった。
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議員連盟「伝統と創造の会」と「平和を願い、真の国益を考え靖国参拝を支持する若手国会議員の会」(会長・今津寛)などが文化庁を通して、公開前に試写会を要請した。配給会社は、当初当然断ったが、全国会議員を対象にするという条件で承諾した。3月12日国会議員80人が参加した試写会が開かれた。
国会議員が圧力をかけて、作品にモノ申そうとしたことは、検閲を意図した心算ではなかった、と言えども気に食わなければ文句を言ってやる、とその意図は見え見えだ。政治家がこの類に口出すするのは危険だ。そんな非文明的な国家ではないはずだ、日本は。
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試写を終えた国会議員からは、一部の国会議員を除いて、明解なコメントはなかった。
試写を観た唐沢俊一は、「もっと靖国を諸悪の根源として徹底追及の視点で描いているのかと思ったら、そこらへんを非常にうまく回避してしている映画になっていた」上に「靖国を賛美する人と反対する人の姿を同一視線で記録することにより、賛成するとか反対するとかという視点ではなく、今の靖国をめぐる日本人(及び諸外国人)の混乱をありのままに描き、結論は観た人の考えに任す、といった姿勢を基本にしている」という。この唐沢氏の発言に、私は首肯した。
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試写会の頃、週刊新潮は、「映画は『反日的』」と論評した。
この論評を機に右翼団体の街宣車による抗議行動や電話による公開中止を求める抗議があって、4月12日から公開を予定していた東京都の4映画館と大阪府の1映画館は、「周辺の商業施設に迷惑をかけることになる」ので、中止を決めた。名古屋での5月3日からの公開も延期になった。
この映画で、初めて知ったことなのですが、靖国神社の御神体は何だと思いますか。
私達の世代の者には想像もつかなかったのですが、御神体は「神剣及び神鏡」だそうです。この映画のパンフレットでは御神体は「刀」であると記載されているのを、靖国神社の方から訂正を求められたそうです。
神剣って?又、私の疑問が増えました。
4月18日には、国会議員に次いで日本の右翼活動家を対象にした試写会が開催されたが、そこでは「労作」「駄作」と賛否両論あり、意見は大きく分かれた。
新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男は「靖国神社を通し、〈日本〉を考える。『戦争と平和』を考える。何も知らなかった自分が恥ずかしい。厳しいが、愛がある。これは『愛日映画』だ!」と絶賛した。
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ストーリー。   映画「靖国」のパンフレットのまま転載した。

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薄暗い鍛治場で、居合いを披露する一人の老人。刈谷直治、90歳。現役最後の靖国刀の刀匠である。


昭和8年から終戦までの12年の間、靖国刀と呼ばれる8100振りの軍刀が靖国神社の境内において作られた。
明治2年に設立された靖国神社は、天皇のための聖戦で亡くなった軍人を護国の神(英霊)として祀り続けている。246万6千余人の軍人の魂が移された一振りの刀が靖国神社の御神体である。


毎年8月15日になると、靖国神社とその一帯は奇妙な祝祭的空間に変貌する。


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日の丸を掲げ、「祖国のため殉じ、戦争の犠牲となられた戦没者の英霊の御霊よ、安らかに眠れたまえ」と吼えながら、参道を進んで行く白髪の老人。
軍服姿の青年がこう叫ぶ。
「戦後の日本人は明治維新以来約246万柱の英霊の犠牲の上に今現在があり、そのお陰で我々が生かされているという事実から目を背け、いまだ大東亜戦争で散華された英霊の名誉を回復できずにいる」「侵略戦争だの防衛戦争だのと議論もいいが、祖国日本のため命の極限において戦った人を侵略者扱いする馬鹿な国はこの日本以外ない!」
海軍の格好で整列した一行は、拝殿のなかの「先輩戦友」に向かってラッパを吹く。
「次は、陸軍海軍ともに軍隊生活をもっていちばん楽しい食事ラッパであります」「天皇陛下万歳!天皇陛下万歳!」


一方、テレビでは小泉首相の会見が写しだされている。
「一国の首相が、一政治家として、一国民として戦没者に対して感謝と敬意を捧げる。哀悼の念をもって靖国神社に参拝する。二度と戦争を起こしてはいけないという事が日本人からおかしいとかいけないとかいう批判が私はいまだに理解できません。まして、外国政府がそのような心の問題にまで介入して外交問題にしょうとするその姿勢も理解できません。精神の自由、心の問題、これは誰も侵すことのできない憲法に保障されたものであります」


その小泉首相の参拝に関して、意見を述べる参拝客たち。兄弟が戦死したという高齢の女性は、「私はね、行ったっていいと思うの」と言いながら、同年代の女性と戦時中を振り返る。
「うちはね、3人兵隊行ってたの。陸軍と海軍と航空兵と3人兵隊に行って、戦死したのですよ」「遺骨を取りに行ったら父親がわんわん泣いてね。中を開けると〈英霊〉って紙だけ」「爪とか髪の毛くらいしかない」「あれだって誰かわかんないのよ」
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片手に「小泉総理を支援します」という看板、もう片手に星条旗を掲げたアメリカ人男性は、まわりの参拝客からなぜ靖国へ来たのかと問われ、「靖国の問題については、アメリカは黙っているが、それは世界のリーダーとしておかしい。だから私はここに来たんだ。」と返答する。その彼を褒め称え、サインを求める日本人参拝客たち。しかし、「ここは日の丸を掲げるところ!」と叫びながら詰め寄ってくる人たちによって状況は一転し、アメリカ人男性は退散を余儀なくされる。
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神社の外苑に集まってくるのは、これらの参拝者を相手に、署名を求める人々だ。
「支那中共がでっち上げた史上最大の歴史偽造、南京大虐殺を否定する署名運動を行っております。1人でも多くの方が署名をしていただいて、百人斬りの冤罪で苦しんでいるご遺族のために力を貸してください」
〈英霊〉を讃える人々の一方で、首相の靖国参拝に反対するグループや、合祀取り下げを求める遺族たちも声を張り上げる。
台湾原住民の母を持つ台湾国会議員の高金素梅は、戦没した高砂義勇兵(日本統治下の台湾で結成された台湾原住民からなる軍隊)の魂を靖国神社から取り戻すべく、何度も靖国神社を訪ねてきた。
「(台湾原住民は)2世代にわたる犠牲がありました。第1世代は土地と尊厳を守ろうとし、殺されました。その子供達は軍国主義の教育を受けました。太平洋戦争が始まると、日本軍・高砂義勇隊として、洗脳と欺瞞のもと南洋戦線に送られました。その戦死者がここに閉じ込められています」
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浄土真宗の僧侶として、また遺族の一員として、合祀取り下げを求めてきた真宗遺族会事務局長の菅原龍憲は、同じく僧侶だった父親を太平洋戦争で失った。命の尊厳を説くべき宗教者が戦争に行ったという事実を忘れないために、菅原は寺の仏間に軍服姿の父の写真を飾っている。その父に対し、昭和42年、日本政府から勲章が贈られた。
「〈遺族は〉大変理不尽な死を余儀なくされたわけです。国策によって駆り出されたわけだから、その怒りや恨みや悲しみを国にぶつけたいですよね。だけど国の方は勲章を与えて褒め称え、名誉の戦死だという。まさに遺族の思いは居場所を失うわけですね。(勲章贈与には)そういう倒錯した構図があると思います。つまり、国の戦争責任は問われないかたちで、遺族たちに文句を言わせないという機能を果たしていると思います」
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また、境内で開かれている追悼集会に乱入して「靖国神社参拝糾弾!」と叫ぶ若者もいる。参列者に袋だたきにされた一人の青年は、マスコミのカメラの前で血を流しながら警察に保護され、パトカーで連行されていくーーー
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このような狂乱から遠く離れた鍛治場で、刀匠は粛々と刀を打ち続ける。約800度の炎の中から取り出した刀を、水に沈め、荒研ぎを行う。そして最後に銘を切る。茎に光るその銘は「靖国一心子刈谷紫郎源直秀作」
                         *
ステレオからは、昭和43年に開催された明治百年記念式典での昭和天皇のスピーチが流れている。「今日のこの発展は、明治維新以来の先人が、英知と勇気をもってなしとげた業績と、国民が相携えて幾多の困難を乗り越え、たゆまぬ努力を重ねてきた成果によることを想い、感銘深いものがあります。いま、百年の歴史をかえりみ、また、内外の現状に思いをいたすとき、過去の経験と教訓を生かし、さらに創意を加えて、よき将来の建設に努めなければならないと思います」
                         *
詩吟「日本刀を詠ず」(作・水戸光圀)を披露する刀匠。
蒼竜(そうりゅう)猶〈な〉未だ雲(うん)しょうに昇らず
潜んで神州剣客の腰にあり
ぜんりょみなごろしにせんと欲す
策なきに非ず
容易に汚すなかれ日本刀

                                 


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製作者の言葉
監督・李纓(Li Ying)
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靖国神社のご神体は刀である。
それに対しての問いかけでもあるこの映画の(ご神体)は、ある意味に置いて(鏡)といえるだろう。靖国神社は戦争を祀る〈生〉と〈死〉の巨大な舞台であり、そこで私は戦争に関する様々な〈記憶〉と〈忘却〉、戦争の巨大な〈仮面〉を目の当たりにした。いまもなお世界において、戦争という名の亡霊が人類に接近する歩みを止めたことはない。
私は、靖国神社の中に残る(戦争後遺症)を通して、人類にとって永遠のテーゼでもある(戦争と平和)とは何なのかを、十年もの歳月をかけて追いかけてきた。
その問いかけにはそれぞれの観客の心の中の(靖国)を通じて考えてもらいたい。

2008年7月15日火曜日

五輪代表選考、悲喜こもごも

今、世界の各国で北京五輪の代表選考会が華々しい。日本では、男子バレーボールが久しぶりの出場を決めたり、ハンドボールが不公平なジャッジ問題が発生して前代未聞の予選のやり直しがあったが、残念ながら出場できなかったり、どの各競技においても、涙なしでは語れない物語が繰り広げられている。
男子バレーボールは16年ぶりのオリンピック出場が決まった。16年前のバルセロナ五輪出場の経験ある荻野正二がキャップテンだ。植田辰哉監督は、記者会見で「ハッキリ言いますが、メダルを狙います」と堂々と発言していた。
そんななかで、新聞で報道されたもので、異常に気に入ったものだけまとめてみた。今後も、関心度の高い記事が報道されれば、その都度追記していく心算だ。
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先ずは、私が一番嬉しかったことから始めよう。
56年ぶりに、女子100メートルに日本代表を送り出すことになったことだ。


福島千里〈北海道ハイテクAC〉、20歳。出した記録よりも成長率を評価されたのだ。
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女子100メートルで五輪代表が出るのは、52年ヘルシンキ五輪の吉川綾子以来56年ぶりのことだそうです。南部忠平記念、北京五輪代表最終選考会を兼ねて開催された。北海道・函館市千代台公園陸上競技場。080706。夢を見ているような表情だった。福島は(信じられません」と繰り返した。
今季、頭角を現した20歳。あと0秒04まで迫った標準A〈11秒32〉を突破すれば代表入りの可能性も、と見ていたが、この日は11秒49.レース直後は「実力不足。五輪候補になったことで成長した」と敗戦の弁だった。吉報が届いたのも競技場から帰ろうと思っていた矢先だった。11秒36の自己記録は、昨年の世界選手権でいうと2次予選落選のレベルで、世界とはまだ力の差が大きいが、思い切り戦うつもりだ。
出場枠は男子3、女子1だったが、「突出した競技力があるか、若手であることを条件に男女の枠を入れ替えることは可能だった」と日本陸連の沢木啓祐専務理事。そういうことで標準Bのみ突破の福島は20歳の若さが当てはまった形だ。
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41歳トーレス  100自由 五輪出場。 米で最多の5回。
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北京五輪米国代表選考会。女子100メートル自由形は41歳のダラ・トーレスが53秒78で制し、00年シドニー五輪以来5回目の五輪出場を決めた。
41歳のトーレスが、2歳の娘を抱きながら大歓声に手を振った。米国競泳界史上、最年長五輪代表と最多5回目の五輪代表。ベテランスプリンターが女子100メートル自由形を制し、2度の引退から完全復活した。「信じられない。五輪に出るため娘と1ヶ月ほど離れるけれど、北京に行く」
疲れを恐れず飛び出した。前半50メートルは25秒61の首位で折り返した。アテネ五輪の銅メダルの25歳、コーダリンに追い上げられながら、0秒05差でかわした。「きつかったけれど、1年半前に亡くなった父が、観客席の娘が助けてくれたのだと思う。プールから上がったら涙が出てきて、座り込んでしまった」
17歳で初めて出た84年ロサンゼルスから3大会連続出場。最初の引退から復帰した00年シドニー五輪まで、金4、銀1、銅4のメダルを獲得した。ここで水泳人生を終えるはずだった。結婚、離婚を経て、新たな恋人との間に娘を授かった。マスターズ水泳を始めると、再び闘志が沸き立ち、第一線に復帰した昨年の全米選手権で自由形短距離2種目を制覇。自身の50メートル自由形の米国記録も7年ぶりに塗り替えた。40代でも可能性があることを知った。「予選、準決勝とレースをこなすたびにきつくなったけれど、精神力で乗り切った。次の50メートル自由形も頑張る」
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注)彼女は、この選考会を前に、自らドーピングのチェックを受けている。余りの強さに、なんだかんだ、と疑われるのを避けたかったようです。
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がんと闘う、五輪で戦う
北島のライバル・米のシャントー
手術延ばし北京へ
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2位に入り、1位のスパン(左)と抱き合うシャントー(中央)。右端は4位でこの種目の代表権を逃したハンセン。
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ライバルだったハンセンの世界記録を塗り替えて、準備万端の北島康介。その北島の記録更新後の北京五輪米国代表選考会でハンセンは、100メートル平泳ぎで代表の資格を得たものの、200メートル平泳ぎでは失速した。彼の精神の脆さを指摘する人はいるが、その真相は私等には解らない。その200メートル平泳ぎの決勝では1位がスパン、2位がシャトー、4位がハンセンだった。よって、この種目の代表権を得たのは、スパンとシャトーということになった。
その後、シャトーは、自分が睾丸がんにおかされていることをを告白したのです。ガン進行の恐怖と戦いながら、200メートル平泳ぎに出場する。「がんに苦しむ人に勇気を与えられたら」と健闘を誓う。
*ここからは、新聞記事〔080717 朝日夕刊〕を転載させていただいた。
AP通信によると、体調の異変に気づいて医師の診断を受け、6月19日にがんが見つかった。五輪米国代表選考会(29日~7月6日)に出発する1週間前だった。「ぼうぜんとした」と振り返る。
それでも医師と相談し、選考会出場を決めた。
200メートル平泳ぎで前世界記録保持者のブレンダン・ハンセンをゴール直前で抜き、2位で初の五輪切符を手にした。4年前の選考会で、200メートルと400メートルの個人メドレーで3位に終わった雪辱を果たした。「うれしくもあり、つらくもあった。五輪代表入りしなければ、すぐに手術を受けられたのだから」
診断したブレッド・ベーカー医師は「どんながんでも、早期発見と早期治療が大切。それが私の忠告。(手術を先延ばしすることで)どうなるかわからない」と話す。
だが手術を受ければ、2週間は練習できない。シャントーは血液検査などで体調を見ながら、五輪後に手術することを決めた。
「難しい選択だったが、決して愚かな判断ではないと思う」
米国代表のマーク・シュバート監督は「健康が最優先だが、彼には五輪で戦って欲しい。彼の決断は他の選手にも勇気を与える」と話している、
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19歳小林祐梨子 女子5000メートル   初五輪
(080630) 朝日朝刊
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女子5000メートルで優勝した小林
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ラスト500メートルからのスピードの差は歴然。経験豊富な福士や渋井、赤羽に挑んだ19歳の小林が、五輪代表の座をつかみ取った。
自分らしさをぐっと抑えて勝負に徹した。いつものように先頭を走らず、残り1000メートルで福士が仕掛けても、すぐには抜き返さない。「20回くらい前に出ようと思った。残り200メートルでスパートしょうと思ったけれど、我慢できなくて」最後の最後に力を解き放った。
どうしても五輪に行きたかった。日本記録を持ち、こだわりのある1500メートルを棄権して、標準Aを突破済みの5000メートルに絞った。いつも付き添ってもらう姉にも遠慮してもらい、自分を追い込んだ。競技ではないことで悩んだ時期が長かったからだ。
高校を卒業した昨年、豊田自動織機に入社。社内制度を利用して岡山大にも進学した。だが実業団選手としての登録が「勤務実態がない」と認められず、仲間と実業団駅伝に出場できず、日本スポーツ仲裁機構に訴える問題に発展した。
この一件で一時、自分を見失い、故障もした。目標だった昨年の世界選手権出場も逃した。仲裁を受けてもらえず「登録不可」の結果を受け入れたのは今年4月だった。
ゴール後、恩師の前で号泣した。五輪では、思う存分、走るだけでいい。「決勝に進んで(世界)のスピードに肌で触れた」と目を輝かせた。会見の最後に「すべての経験が糧になったか」と聞かれて「はい」と答えた。迷いのない笑顔だった。
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男子バレー16年ぶり五輪  (朝日朝刊・平井隆介)
「お家芸)復活へ力と技磨く/男子バレー復活の舞台裏に、いったい何があったのか。
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五輪出場を選手らと喜ぶ植田監督
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今月7日、東京都体育館であった五輪の世界最終予選兼アジア大陸予選のアルゼンチン戦第5セット。20点目となる荻野正二主将(38)のスパイクが決まった。五輪出場権を手にした瞬間、植田辰哉監督(43)は床に突っ伏した。目に涙。インタビューで口にしたのは恩人2人の名だった。
「おじいちゃんのような松平名誉会長とお父さんのような大古さん。そのイズムを受け継いで勝てたことがうれしい」
ミュンヘン五輪で日本の男子バレーが頂点に立った時、松平康隆さん(78)=日本バレーボール協会名誉会長=は監督を務めた。
そのとき、中心選手だった大古誠司さん(60)=沖縄県バレーボール協会スーパーアドバイザー=は20年後のバルセロナ五輪で監督だった。
そのバロセロナで主将だったのが植田監督だ。
3世代にまたがる「遺伝子」が北京への道を開いた。
ミュンヘンを目指した当時の日本代表の練習は厳しかった。逆立ちで坂道を上がり、体操選手のように跳びはね、一見奇抜と思える練習で体を鍛え上げた。「体力は世界一だった」と松平さん。
それを今風のやり方で再現したのが植田監督だった。
長野、ソルトレイク冬季五輪のボブスレー選手で、瞬発力が必要なスタートダッシュでは世界屈指だった大石博暁さん(38)をトレーナーに招き、ユニークな練習を次々と選手たちに課した。
股関節の可動域を広げるため、100メートルを大股で歩く。四股を踏みながらの横歩きもした。自分の体を細部まで制御できるようにする訓練だ。ジャンプ力を強化するために、バーベルを担いでのスクワットを採りいれた。
3年半前に就任した植田監督は、選手達に技術以前の問題を感じていた。小食で線が細い選手が多かった。「体重を増やすとジャンプ力が落ちる」。そう思い込み、筋力増強を疎んじる向きさえあった。
そんな空気を一掃する厳しい練習で、サイドアタッカーの越川優選手(23)は垂直跳びの数値が15センチ近く向上した。チーム全体でも最高到達点は10センチほど上がった。
「世界レベルの肉体に少しでも近づける」。植田監督の体づくりの戦略は実った。
戦術面もミュンヘンへのチームにならった。世界との体格差を補う、抜きん出た武器を身につけることだ。
時間差攻撃、クイック、フライングレシーブ、--。ミュンヘンでは日本がコンビバレーを独自に編み出した・
そのコンビバレーがあたり前になった今、植田監督が選んだ武器は、早いサーブと正確なサーブレシーブだ。
今回の最終予選で日本が1セット当たりに決めたサービスエースの本数は、出場8チーム中1位、ネットにひっかけるミスを恐れず越川選手らが果敢に放った高速サーブは、勝負どころで相手の守備を乱して攻撃の芽を摘んだ。
サーブレシーブの成功率は2位。サーブを正確にセッターに返すことで、相手に的を絞らせない多彩な攻撃を繰り出すことができた。
「最近は選手の自主性を重んじる監督が多いが、それは甘えにつながる。植田君は妥協せずにやってくれた」。明確な意志を持ったチームづくりを松平さんは評価する。
さて、北京ではどこまで期待できるのか。
上位3チームがいち早く五輪出場権を得られた昨年のワールドカップで、日本は9位に終わっている。バレー界では決してレベルが高いとは言えないアジア大陸の代表として切符を手にしたというのが現実だ。世界ランキングは現在12位。北京で戦う12チームのうちでは8番目だ。
「早いバレーに磨きはかかってきたが、メダルはどうかーー」と大古さん。松平さんは「一度にあまり多くを求めるのは気の毒。植田君には次のロンドン五輪までじっくり強化してほしい」という。
16年ぶりの悲願達成とはいえ、いきなり「お家芸復活」まで望むのは酷なようだが、当の植田監督は「はっきり言って、北京ではメダルを狙います」と意気込んでいる。

サミット閉幕

(080710)・朝日朝刊・社説
  数字は一夜で消えたが
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地球温暖化を引き起こす二酸化炭素など、温室効果ガスの排出をどう減らすか。その流れをつくることが求められていた洞爺湖サミットが、幕を閉じた。
残念ながら、主要排出国が一緒になって数値目標の入った旗を立てることはできなかった。主要8カ国〔G8〕に中国やインドなどが加わった16カ国の首脳会合で、先進国と新興国の歩調が合わなかった。
前日に発表されたG8首脳の文書では、世界全体の排出量を「50年までに半減」させるという長期目標を国連の気候変動枠組み条約のもとで採択するよう求めていた。
先進国だけではなく、より広い枠組みで国際目標にしようと呼びかけたのである。腰が引き気味だった米国を引き込み、先進国が声をそろえたのは一歩前進だった。
ところが一夜明けて、枠を新興国に広げてみると「50年までに半減」という数字は消えてしまった。新興国側は、経済成長が制約されかねないという懸念をぬぐえなかったのだろう。先進国側が率先して大幅削減を引き受ける姿勢を示せなかったのが大きい。
ただ、16カ国首脳会合の宣言は、気候変動枠組み条約のもとでの交渉で「世界全体の長期目標を採択することが望ましい」とまでは歩み寄っている。これを足がかりに議論を先に進めるしかあるまい。
現役世代が責任もってかかわれるここ10~20年でどれだけ排出量を減らすか。排出量の増大傾向をいつ減少に転じさせるか。これらについてもG8や16カ国首脳の会合は目標を詰められなかった。
脱温暖化の決意を数字で表すという点では、めずらしい成果があったとは言い難い。だが、そんななかで期待がもてる変化は見えてきた。
一つは、先進国が「野心的な中期の国別総量目標」を掲げると明言したことだ。もう一つは、新興国の側も野放図に排出量を増やさないようにブレーキを踏む責任を、条件付きながら引き受けたことだ。
16カ国首脳の宣言はもって回った表現になっているが、技術や融資などの支援を前提に新興国側も国ごとに適切な行動をとるとしている。
先進国も新興国も、負担を一方的にかぶらないよう警戒しつつ、同じ方向をむいて動き出したように見える。この流れを強めていくことが大切だ。
京都議定書が12年に終わった後の排出削減の国際枠組みは、気候変動枠組み条約の締約国会議が09年までにつくる予定だ。その枠組みでは中国などの新興国も何らかの形で責任を負ってもらわなくてはならない。
今回芽生えた流れをどう肉付けするか。次の難題が待ち構えている。

2008年7月14日月曜日

「ピック病」って知ってました?

私の女房が興奮して、私に食って掛かった。「アパートに住んでいる南海さんね、あの人、ピック病じゃないの?」。
「ピック病? そりゃ、なんじゃ」。病名の差別的表現は慎まなくてはなりません。
この会話の発端は、どこにもある、ゴミ問題からなのです。
我が家の敷地は、東道路と南道路の角地です。私の家も、東向かいにある我社のアパートも、家庭ゴミを出す場所は決められていて同じ場所なのです。長年ゴミ置き場は、私の家の前の道路の南向かい側、Yさんの敷地に接している道路部分に設けられていた。
四つ角になっていて、誰もが利用しやすくて、格好のゴミ置き場だった。昼間、我が家の庭には今は亡き賢犬ゴンが居て、ゴミを襲うカラスに吼えては、追い散らして、周辺住民からは大層喜ばれたのです。他の地域のゴミ置き場がカラスや猫で荒らされても、私達のゴミ置き場は、比較的整然としていた。
そのゴミ置き場の清掃はほとんどがY夫人が行って、我が家人がヘルプしていた。
どこのゴミ置き場でも共通の悩みだと思うのだけど、やはりこのゴミ置き場も頭痛の種を抱えていた。心ない者が、決められた日ではなく、決められた時間でもなく、決められ分別方法でないやりかたで何もかもメッチャ苦茶にビニール袋に詰めて出す。決められた日でない時に出されたゴミや、決められた時間外に置かれたゴミは、、そこに置きっ放しになるので、猫やカラスが荒らす。汚いものが路上に散らかる。嫌な臭いがする。そんな時に、誰がその処理をするかというと、ゴミ置き場に接している敷地所有者・Y夫人の仕事になる。Y夫人には、なにもかも、負んぶに抱っこ状態になっていたのです。Y夫人は、なかなかの人格者で、呆れながらも、苦笑しながらも、時には怒りながら、清掃をしていただいた。我が家人も、気づいたときには手伝った。彼女に負担を掛けっ放しというわけにはいかない、と常々思っていた。
分別をきちんとされてないゴミは、有志が、やっぱりY夫人が、ヘルプは我が家人が、ビニール袋をひっくり返して区分するのです。そのゴミの中に捨てたであろう人物が特定できるような物証があれば、そのゴミを本人の住まいに届けるのです。注意書きを添えて。
それじゃ、Y夫人と我が家人以外の人は、どうだったのだろう。このゴミ置き場に、どのような関わりを持ちながら、今までやってきたのだろうか。
それは、何も無し。協力的ではなかった。そこに捨てる家庭が、申し合わせをして、掃除の当番などを決めるやりかたもあっただろうが、そんな気運は誰からも生まれなかった。
そんな日々が、少なくとも私が引っ越してからでも25年は経つのですから、相当長い期間こんな状態だったのです。
が、いつまでも、そういう訳にはいかなくなった。
やはり、他所の地域でもやっているように、捨てる家庭が申し合わせて、掃除の当番や、ゴミの置き場所を順番に交代しようということになったのです。
一大改革でした。
そして、今年の4月から、新しいゴミの置き場所が決められ、掃除当番はゴミ置き場の前の家の方が担当することになった。私の家を中心に、両隣20軒くらいの近所においては、シッカリ者で有名なご夫人がいらっしゃるお家が、ピンポン、当たったのです。くじは厳正に挙行された。今後は時計の針が廻る方向に一軒づつ隣りに移る。決定から移行作業は、円満に穏やかに進められた。
そんなある日のことです。
シッカリ者で有名なご夫人から、我が家の家人は呼び出しを受けたのです。決められた曜日のゴミではない物が混ざっていたと言う事だった。具体的には、私の住んでいる地域では、プラのゴミを出す日は木曜日なのに、プラの入っているビニール袋にプラでないゴミが大量に混じっていて、収集車が回収しないまま、放置されていたのです。当番のシッカリ者のオバサンは、袋の中をチェックした。ゴミは我社保有のアパートの住民の物と思われるので、家人は呼び出されたのです。アパートと我が家の関係は、近所の人なら誰でも知っている。シッカリ者のご夫人からは、アパートの住民に対して、きちんとルールが行き届いてないのではないか、もう少し真剣に住民に注意を徹底してくださいよ、家人は社長の代わりに怒られた。
我社のアパートには、外人が多く住んでいて、私も家人も神経過敏な程気を使っているのですが、外国人は私等ほどには真剣に考えていないようで、迷惑をかけたことはしばしばでした。ゴミの出し方を息子に頼んで、英文にしてもらい壁に張り出したり、ことあるごとに私が拙い英語で注意を促しているのです。可能な限り、たびたびです。
ところが、今回の犯人は、要注意の外人ではなく日本人で、かつ我社に長いこと在籍していた奴で、同じ注意を何回も何回もした奴なのです。アホじゃない。通常に仕事をしている奴なのです。
当番のシッカリ者のオバサンのお叱りが、ちょっとばかり威勢がよかったものだから、我が家人は頭に血が昇ったのでしょう、そこでこの稿の冒頭部分、女房が私に食って掛かってきたセリフになるのです。
「アパートに住んでいる南海さんね、あの人、ピック病じゃないの?」
何で、あなたがピック病なる病名を知っていたのかと聞くと、新聞の記事で知ったようなことを言っていた。
その新聞記事を紹介する。
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(080712) 朝日朝刊    (松本建造)
ピック病で万引き 救済へ障害年金 / 懲戒免職の元市課長に支給へ
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スーパーで万引きしたとして懲戒免職になった神奈川県茅ヶ崎市の元文化推進課長、中村成信さん(58)に対し、神奈川県市町村職員共済組合は10日までに、若年性認知症の「ピック病」による障害を認知し、近く障害年金を支給する。働き盛りでピック病などを発病し、万引きなどで失職する例は各地で起きている。今回の決定は、同様の事例の救済策となりそうだ。
中村さんは要介護2と認定されている。公務員共済制度の一つ「障害共済年金」に加入していたため、家族等が昨年、診断書などを提出。上部団体の「全国市町村職員共済組合連合会」の専門医が審査した結果、ピック病による障害が認定された。同連合会は「病名別の統計はないが、ピック病での認定例は聞いたことがない」としている。
中村さんは06年2月、自宅近くのスーパーでチョコレート4個とカップ麺3個(計3300円相当)を盗んだとして現行犯逮捕され、16日後に懲戒免職になった。その前から同じものを繰り返し買って帰るなどの行動があったため、家族が大学病院などで診察を受けさせたところ、若年性認知症の前頭側頭型認知症(ピック病)と診断された。
中村さんは茅ヶ崎市に懲戒免職処分の撤回を申し立て、市公平委員会で審理中だ。

2008年7月2日水曜日

愛は際限のないエゴ

朝日新聞に、島尾敏雄の小説「死の棘」についての桐野夏生さんの書評が出ていたので、記録することにした。
私は随分以前にこの本を読んで、頭をおかしくさせられた。苦しまされた。読書中はもちろん、読了後もしばらくは、頭が痛たくて、体はしゃきっとしなくて、ゆうらゆうらと揺れているような感じだった。その後、映画を観て頭の芯に鉛の塊でも入れられたように、頭がずどう~んと重たくなった。見終わって、座席から立ち上がれなかった。しっかりと歩けない。これも2~3日続いた。そして敏雄とミホは、私の脳の深底に滓(おり)のように沈殿してしまった。本を読んで、映画を観て、その後しばらく経って演劇に関する本を読んでいて、ミホさんが精神病院に入院した際、敏雄も付き添いで一緒に入院したことを知った。
私は、この本のことを、敏雄とミホのことを、私の脳の深底に沈殿した滓のことを、書き残したいと思いながら、悶々としてきた。そしたら、売れっ子の人気作家桐野夏生さんが、私がどうにも表現できなかった読後の感想を、氏の視点から紙上に書評として著したのが目にとまった。この書評で、なるほど、と合点(ガッテン)した。沈殿していた滓が、部分的に氷解した。私の読解力は、悲しいけれどこれほどまでに深耕しきれてはいない。卑小な私だけれども、立派な共感者の思わぬ降臨に嬉しかった。氏には大変迷惑だろうが。氏の力量に驚嘆しながら、感謝した。さすが、現在を代表される作家だと思った。
会社の同僚にもこの本を薦(すす)めた。彼は、博識で知識の量も相当な奴で、かつ理数にも長(た)けている。
その彼が、相当難しい問題に対しても明快に言辞でもって説明や分析ができるのに、この本の読後感想を求める私に、結果、両手で頭をかかえたまま、うん、う~ん、あっあ~、ぐらいにしか答えてはくれないのだ。彼も、愛妻との問題で彼なりの悩みを抱えていたのだろうか? だから、か、その表情は。この本の主人公を自分のことのように感情移入してしまったら、感想は述べられない。主人公を自分と置き換えて、読んでみようものなら、もうあなたは生きてはいけません〈本当は、そんなことありませんが〉。
そんなこんなで、私は彼に余計な悩みを背負わせたのだろうか、と私の軽率さを悔やんだ。
愛すること、と愛されること。
この小説は、男にしても女にしても、真剣に愛について悩んだことがある人にしか、薦めてはならないのだ、ということを理解した。愛される恐怖に耐え得る人でないと、読み通すことが困難なのです。この愛される恐怖と、劇烈に愛することが、気が遠くなるほど永く続くのです。
私がこの小説に拘(こだわ)るのは、私も愛されることにに悩んでいたのかな? 愛することに悩んでいたのかな? 〈笑ってください〉 この一節は冗談ですから、余り深読みしないで流し読み。
同業の知り合いの女性にもこの本を薦めた。どう、面白かった? 感想はどうや? と尋ねた。彼女は、私の瞳孔を覗き込みながら、ニタッと、不思議な笑みを浮かべたまま、その後、何も喋らなかった。彼女は、私の美しい虹彩の奥の奥の奥で、何を見たというのだろう。
「あなたも、敏雄さんのように、狂ったように愛されたいの」、と言わんばかりの顔をしていた。
私は、自分の顔が強張(こわば)っていくのが分かった。
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(080622) 朝日新聞「たいせつな本」
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愛は際限のないエゴ
    死をも自分のものに 
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《桐野夏生》  
島尾敏雄「死の棘」の書評より
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最近、加計呂麻(かけろま)島の島尾敏雄文学碑の奥に墓碑が建てられ、夫婦と娘のマヤさんの遺骨が納められた、という記事を読んだ。三人の納骨は、昨年亡くなったミホさんのご遺志であったらしい。文学碑・墓碑は、特攻艇・呑之浦(のみのうら)を見下ろしているのだそうだ。
とうとう家族がまた一緒になったのだ、とまるで自分に縁のある人々のことのようにほっとする半面、墓碑が島尾敏雄とミホ夫人が出会って恋に落ちた場所を見据えていることに、いささかの戦(おのの)きも感じるのだった。縁がある、とする妄想に縛られること。これも愛の一つのバージョンではあるまいか。
『死の棘」を、何度読み返しただろうか。最初に読んだのは二十代だった。その頃は、狂ったと言われたミホさんがかわいそうでならなかった。が、今はただ、愛が怖いと思う。
愛に生きることは、加害者や被害者を作ることではない。誰も悪くはないのだ。が、あるきっかけから、確実に互いを蝕(はぐく)むものがどっかと根を下ろし、関係を捩(ね)じらせていく。これで終わり、と底を打つこともなく、収まったように見えても、またぶり返し、延々と棘が心を刺し続けて、いつしか現実を変える。あるきっかけとは「不信」である。
「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの。あなたさま、と言いなさい」「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」「死にますとも。そうすればあなたには都合がいいでしょ。すぐその女のところに行きなさい(中略)」
形を変えて、繰り出される言葉。怖ろしいのは際限がないことだ。愛は底なしのエゴでもある。だから、すべての人間を平等に愛することを、愛とは言わないのである。そして、激しい愛は、相手の死をも含めた全てを得たい、とする営みなのだ。『死の棘』は、そのことを教えてくれる、誠に怖ろしい小説である。