2008年7月15日火曜日

五輪代表選考、悲喜こもごも

今、世界の各国で北京五輪の代表選考会が華々しい。日本では、男子バレーボールが久しぶりの出場を決めたり、ハンドボールが不公平なジャッジ問題が発生して前代未聞の予選のやり直しがあったが、残念ながら出場できなかったり、どの各競技においても、涙なしでは語れない物語が繰り広げられている。
男子バレーボールは16年ぶりのオリンピック出場が決まった。16年前のバルセロナ五輪出場の経験ある荻野正二がキャップテンだ。植田辰哉監督は、記者会見で「ハッキリ言いますが、メダルを狙います」と堂々と発言していた。
そんななかで、新聞で報道されたもので、異常に気に入ったものだけまとめてみた。今後も、関心度の高い記事が報道されれば、その都度追記していく心算だ。
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先ずは、私が一番嬉しかったことから始めよう。
56年ぶりに、女子100メートルに日本代表を送り出すことになったことだ。


福島千里〈北海道ハイテクAC〉、20歳。出した記録よりも成長率を評価されたのだ。
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女子100メートルで五輪代表が出るのは、52年ヘルシンキ五輪の吉川綾子以来56年ぶりのことだそうです。南部忠平記念、北京五輪代表最終選考会を兼ねて開催された。北海道・函館市千代台公園陸上競技場。080706。夢を見ているような表情だった。福島は(信じられません」と繰り返した。
今季、頭角を現した20歳。あと0秒04まで迫った標準A〈11秒32〉を突破すれば代表入りの可能性も、と見ていたが、この日は11秒49.レース直後は「実力不足。五輪候補になったことで成長した」と敗戦の弁だった。吉報が届いたのも競技場から帰ろうと思っていた矢先だった。11秒36の自己記録は、昨年の世界選手権でいうと2次予選落選のレベルで、世界とはまだ力の差が大きいが、思い切り戦うつもりだ。
出場枠は男子3、女子1だったが、「突出した競技力があるか、若手であることを条件に男女の枠を入れ替えることは可能だった」と日本陸連の沢木啓祐専務理事。そういうことで標準Bのみ突破の福島は20歳の若さが当てはまった形だ。
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41歳トーレス  100自由 五輪出場。 米で最多の5回。
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北京五輪米国代表選考会。女子100メートル自由形は41歳のダラ・トーレスが53秒78で制し、00年シドニー五輪以来5回目の五輪出場を決めた。
41歳のトーレスが、2歳の娘を抱きながら大歓声に手を振った。米国競泳界史上、最年長五輪代表と最多5回目の五輪代表。ベテランスプリンターが女子100メートル自由形を制し、2度の引退から完全復活した。「信じられない。五輪に出るため娘と1ヶ月ほど離れるけれど、北京に行く」
疲れを恐れず飛び出した。前半50メートルは25秒61の首位で折り返した。アテネ五輪の銅メダルの25歳、コーダリンに追い上げられながら、0秒05差でかわした。「きつかったけれど、1年半前に亡くなった父が、観客席の娘が助けてくれたのだと思う。プールから上がったら涙が出てきて、座り込んでしまった」
17歳で初めて出た84年ロサンゼルスから3大会連続出場。最初の引退から復帰した00年シドニー五輪まで、金4、銀1、銅4のメダルを獲得した。ここで水泳人生を終えるはずだった。結婚、離婚を経て、新たな恋人との間に娘を授かった。マスターズ水泳を始めると、再び闘志が沸き立ち、第一線に復帰した昨年の全米選手権で自由形短距離2種目を制覇。自身の50メートル自由形の米国記録も7年ぶりに塗り替えた。40代でも可能性があることを知った。「予選、準決勝とレースをこなすたびにきつくなったけれど、精神力で乗り切った。次の50メートル自由形も頑張る」
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注)彼女は、この選考会を前に、自らドーピングのチェックを受けている。余りの強さに、なんだかんだ、と疑われるのを避けたかったようです。
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がんと闘う、五輪で戦う
北島のライバル・米のシャントー
手術延ばし北京へ
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2位に入り、1位のスパン(左)と抱き合うシャントー(中央)。右端は4位でこの種目の代表権を逃したハンセン。
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ライバルだったハンセンの世界記録を塗り替えて、準備万端の北島康介。その北島の記録更新後の北京五輪米国代表選考会でハンセンは、100メートル平泳ぎで代表の資格を得たものの、200メートル平泳ぎでは失速した。彼の精神の脆さを指摘する人はいるが、その真相は私等には解らない。その200メートル平泳ぎの決勝では1位がスパン、2位がシャトー、4位がハンセンだった。よって、この種目の代表権を得たのは、スパンとシャトーということになった。
その後、シャトーは、自分が睾丸がんにおかされていることをを告白したのです。ガン進行の恐怖と戦いながら、200メートル平泳ぎに出場する。「がんに苦しむ人に勇気を与えられたら」と健闘を誓う。
*ここからは、新聞記事〔080717 朝日夕刊〕を転載させていただいた。
AP通信によると、体調の異変に気づいて医師の診断を受け、6月19日にがんが見つかった。五輪米国代表選考会(29日~7月6日)に出発する1週間前だった。「ぼうぜんとした」と振り返る。
それでも医師と相談し、選考会出場を決めた。
200メートル平泳ぎで前世界記録保持者のブレンダン・ハンセンをゴール直前で抜き、2位で初の五輪切符を手にした。4年前の選考会で、200メートルと400メートルの個人メドレーで3位に終わった雪辱を果たした。「うれしくもあり、つらくもあった。五輪代表入りしなければ、すぐに手術を受けられたのだから」
診断したブレッド・ベーカー医師は「どんながんでも、早期発見と早期治療が大切。それが私の忠告。(手術を先延ばしすることで)どうなるかわからない」と話す。
だが手術を受ければ、2週間は練習できない。シャントーは血液検査などで体調を見ながら、五輪後に手術することを決めた。
「難しい選択だったが、決して愚かな判断ではないと思う」
米国代表のマーク・シュバート監督は「健康が最優先だが、彼には五輪で戦って欲しい。彼の決断は他の選手にも勇気を与える」と話している、
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19歳小林祐梨子 女子5000メートル   初五輪
(080630) 朝日朝刊
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女子5000メートルで優勝した小林
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ラスト500メートルからのスピードの差は歴然。経験豊富な福士や渋井、赤羽に挑んだ19歳の小林が、五輪代表の座をつかみ取った。
自分らしさをぐっと抑えて勝負に徹した。いつものように先頭を走らず、残り1000メートルで福士が仕掛けても、すぐには抜き返さない。「20回くらい前に出ようと思った。残り200メートルでスパートしょうと思ったけれど、我慢できなくて」最後の最後に力を解き放った。
どうしても五輪に行きたかった。日本記録を持ち、こだわりのある1500メートルを棄権して、標準Aを突破済みの5000メートルに絞った。いつも付き添ってもらう姉にも遠慮してもらい、自分を追い込んだ。競技ではないことで悩んだ時期が長かったからだ。
高校を卒業した昨年、豊田自動織機に入社。社内制度を利用して岡山大にも進学した。だが実業団選手としての登録が「勤務実態がない」と認められず、仲間と実業団駅伝に出場できず、日本スポーツ仲裁機構に訴える問題に発展した。
この一件で一時、自分を見失い、故障もした。目標だった昨年の世界選手権出場も逃した。仲裁を受けてもらえず「登録不可」の結果を受け入れたのは今年4月だった。
ゴール後、恩師の前で号泣した。五輪では、思う存分、走るだけでいい。「決勝に進んで(世界)のスピードに肌で触れた」と目を輝かせた。会見の最後に「すべての経験が糧になったか」と聞かれて「はい」と答えた。迷いのない笑顔だった。
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男子バレー16年ぶり五輪  (朝日朝刊・平井隆介)
「お家芸)復活へ力と技磨く/男子バレー復活の舞台裏に、いったい何があったのか。
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五輪出場を選手らと喜ぶ植田監督
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今月7日、東京都体育館であった五輪の世界最終予選兼アジア大陸予選のアルゼンチン戦第5セット。20点目となる荻野正二主将(38)のスパイクが決まった。五輪出場権を手にした瞬間、植田辰哉監督(43)は床に突っ伏した。目に涙。インタビューで口にしたのは恩人2人の名だった。
「おじいちゃんのような松平名誉会長とお父さんのような大古さん。そのイズムを受け継いで勝てたことがうれしい」
ミュンヘン五輪で日本の男子バレーが頂点に立った時、松平康隆さん(78)=日本バレーボール協会名誉会長=は監督を務めた。
そのとき、中心選手だった大古誠司さん(60)=沖縄県バレーボール協会スーパーアドバイザー=は20年後のバルセロナ五輪で監督だった。
そのバロセロナで主将だったのが植田監督だ。
3世代にまたがる「遺伝子」が北京への道を開いた。
ミュンヘンを目指した当時の日本代表の練習は厳しかった。逆立ちで坂道を上がり、体操選手のように跳びはね、一見奇抜と思える練習で体を鍛え上げた。「体力は世界一だった」と松平さん。
それを今風のやり方で再現したのが植田監督だった。
長野、ソルトレイク冬季五輪のボブスレー選手で、瞬発力が必要なスタートダッシュでは世界屈指だった大石博暁さん(38)をトレーナーに招き、ユニークな練習を次々と選手たちに課した。
股関節の可動域を広げるため、100メートルを大股で歩く。四股を踏みながらの横歩きもした。自分の体を細部まで制御できるようにする訓練だ。ジャンプ力を強化するために、バーベルを担いでのスクワットを採りいれた。
3年半前に就任した植田監督は、選手達に技術以前の問題を感じていた。小食で線が細い選手が多かった。「体重を増やすとジャンプ力が落ちる」。そう思い込み、筋力増強を疎んじる向きさえあった。
そんな空気を一掃する厳しい練習で、サイドアタッカーの越川優選手(23)は垂直跳びの数値が15センチ近く向上した。チーム全体でも最高到達点は10センチほど上がった。
「世界レベルの肉体に少しでも近づける」。植田監督の体づくりの戦略は実った。
戦術面もミュンヘンへのチームにならった。世界との体格差を補う、抜きん出た武器を身につけることだ。
時間差攻撃、クイック、フライングレシーブ、--。ミュンヘンでは日本がコンビバレーを独自に編み出した・
そのコンビバレーがあたり前になった今、植田監督が選んだ武器は、早いサーブと正確なサーブレシーブだ。
今回の最終予選で日本が1セット当たりに決めたサービスエースの本数は、出場8チーム中1位、ネットにひっかけるミスを恐れず越川選手らが果敢に放った高速サーブは、勝負どころで相手の守備を乱して攻撃の芽を摘んだ。
サーブレシーブの成功率は2位。サーブを正確にセッターに返すことで、相手に的を絞らせない多彩な攻撃を繰り出すことができた。
「最近は選手の自主性を重んじる監督が多いが、それは甘えにつながる。植田君は妥協せずにやってくれた」。明確な意志を持ったチームづくりを松平さんは評価する。
さて、北京ではどこまで期待できるのか。
上位3チームがいち早く五輪出場権を得られた昨年のワールドカップで、日本は9位に終わっている。バレー界では決してレベルが高いとは言えないアジア大陸の代表として切符を手にしたというのが現実だ。世界ランキングは現在12位。北京で戦う12チームのうちでは8番目だ。
「早いバレーに磨きはかかってきたが、メダルはどうかーー」と大古さん。松平さんは「一度にあまり多くを求めるのは気の毒。植田君には次のロンドン五輪までじっくり強化してほしい」という。
16年ぶりの悲願達成とはいえ、いきなり「お家芸復活」まで望むのは酷なようだが、当の植田監督は「はっきり言って、北京ではメダルを狙います」と意気込んでいる。