2017年2月25日土曜日

糞!!又か?ヘルニアだ

参ったなあ、ヘルニアだってヨ!

又しても、この私の腰、臀部から下肢に強い痛みを感じてきた。
情けないことに、これは、椎間版ヘルニアによるものだ、と感じたのは最近のことだ。
この悪病! ヘルニアについては、誰よりも誰よりも多くの知識を持ち、今までに何度も体験しているので、痛みを感じてからほぼ10か月、ヘルニアだと気付くのに余りにも長く、情けないと思っている。
この10か月、この足や腰の痛みが、まさかのヘルニアだとは気付かなかった。
繰り返すが、何とも情けない話だ。

3年前に思わぬ工事で頭を強く打ってから、私の脳は勿論、身も心も痛んでいたからか、この痛みが本物のヘルニアだとは気付かなかった。

この痛みを感じ始めたのは、昨年のゴールデンウィーク、4月29日からだ。
自宅から会社までのほぼ10キロの道のりを徒歩で通勤することにしていた。その途中に保土ヶ谷公園があって、その入り口脇の駐在所の前で、ほんの少しギクッとよろめいただけで、クルブシ辺りに少しの痛みを感じた。
この痛みなんて、大したことはない。少し時間が経てば直るに決まっている、と思っていた。それから10か月、痛みが落ちるどころが日を追うごとに強くなってきたのだ。
調子がいいと思えば、悪い日もある。

それから、私の徒歩通勤は終わった。バスによる通勤に変った。

そして、今月の13日。
痛みの余りの酷さに我慢できなく、ここらでお医者さんに診てもらわなくてはナランと思いきや、20年か30年か前?腰痛でお世話になった国際親善病院へ行った。入院もさせてもらったことがある。
診断の結果、先生が仰った言葉は私が前もって気にしていた通り、間違いなくヘルニアですよ、言っとかなくちゃイカンのは、深度なのか震度なのか、状態は進んでいますよ。早い目に治療しなければエライことになりますよ。進度4レベルです。
聴く私の頭は狂いだしてきた。

ネットで調べてみた。
椎間板ヘルニアとは、椎骨と椎骨の間でクッションの役割を果たしている軟骨(椎間板)が変性し、組織の一部が飛び出すことをいう。
このとき、飛び出したモノの一部が付近にある神経を圧迫し、腰や足に激しい痛みやしびれなどの症状を起こす。

この病院には毎日通院できないので、自宅近くの東戸塚駅界隈で薦められる病院があったら教えて欲しい、とお願いした。その病院が、今、私が通っているところだ。
病院を経営しているお医者さんは、実に快活でよく話を聞いてくれる。
人気の高さがあって、老人をはじめ患者の何と多いことか。病院の開店時間に行っても、患者が多く、なかなか診てもらえないので、少しばかり遅くに行った方が待ち時間が少ない。

リハビリテーションの強化。
先ずは干渉波だ。
干渉波という低い電流を体内で発生させ、特定の患部を集中的に刺激する治療だ。
ブルブルと腰の辺りを刺激してくれる壷のようなものを、私は気に入った。電気の発動の強弱を看護婦さんが調整してくれるのだが、私はモット強くモット強くと言うものだから、看護婦さんは弱ってしまう。余り強過ぎても良くないんですよ、と注意してくれるが、回復を急いでいる私は、そんなアドバイスなんて気にしなく、只、強くしてくれることを願った。
干渉とは、複数の波の重ね合わせによって、新しい波ができることらしい。



 

2017年2月23日木曜日

日刊新聞創刊の日って?


2017 2月21日、今日は何の日?だろうかとネットで調べてみた。
今日は「日刊新聞創刊の日」とあった。

ネットにあった記事とは、1872(明治5年)2月21日、東京初の日刊新聞「東京日日新聞」(毎日新聞)が浅草で創刊された。世界で最初の戸別配達の日刊新聞だ。このことを記念して、「日刊新聞創刊の日」とした、とあった。

こんな記事を読んで、この表現はちょっと間違ってはいないか?と思いついた。それは、下のように表装されている本を、今、私が夢中に読んでいる。
内容については、今まで知り得なかったことばかりなので、よく理解できていない。
この本の内容については、後日、あらためて著述するつもりだ。

★ これからが、この稿のハジマリ,ハジマリだ。



本の表装に掲示された写真は、幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦いの前夜、函(箱)館で写された一枚の写真だ。
戊辰戦争とは、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥州越列藩同盟が戦った日本の内戦のことだ。
仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。
8人による何とも言えない信頼と親しみの雰囲気。
いったい彼らは何を話していたのだろうか。
日本人武士とガイジン?それもフ・ラ・ン・ス人との束の間の出会いに秘められた歴史の影に何があったのだろうか。

これらのことを、作家の鈴木明氏は、フランスをメインに、また国内での調査に駆け巡る作動がエネルギッシュで、なんとも興味深かった。

昭和54年の冬。函館山の中腹にある図書館で、ノンフィクション作家の鈴木明氏がこの写真を観て、写真の内容そのものが解らないものだらけなのに先ず驚き、その写像そのものをなんとか理解したいと思いついた。
それからの内容について、現在、私は鈴木さんよりもなあ~んにも知らないものなのに、解らないままの読書が、悔しい。
けれど、一つ一つの内容は解らないままだけれど、全体ば面白くて、堪らない。

五稜郭では榎本武揚のことだけは、知っていた。新撰組の副長の土方歳三も参加していたらしい。
榎本武楊の名前から、恥かしながら、王政復古側の重要人物かなと思っていた。
その榎本武揚のことを、この本の一部から知った。
函館脱走の前、5年近くもオランダに留学をし、帰国するとすぐ洋服を作らせたという「西洋かぶれ」と言われているが、函館に残されている写真は幕末の旗本らしく、日本刀だけは忘れていない。
だいたい、脱走軍として函館に集まったのは、旧徳川家の側に立ち、官軍に一泡吹かそうと志した保守的な集団だから、土方歳三などが武士の魂である日本刀を手放さなかったのは当然である。

徳川幕府から明治への移行時。
この時期、町民はどのように、あたふたしていたのか?そのことについて、多少なりにも想像はつくが、武士の世界,藩政なり幕政、天皇方の目論見は何だったのだろうか?
政治は、誰がどのように?日本をどのように仕向けていこうとしていたのか?
学校の先生は詳しく話してくれなかった。当然、教科書にも何も触れられていなかった。こういうことに、誰よりも、誰よりも、強く詳しく教えて欲しかった私なのだが、当時、そんなことまでは、どうでもよかったのだろう。能天気な子供だった。

この本の丁度半ばに、新しく発刊されていく新聞のことがでてきたので、此の稿の始めに書かれている「日刊新聞創刊の日」の内容に疑問を持ち始めた。
その部分を転載させてもらう。
新政府軍が江戸総攻撃をかける、という話が伝わった3月の初め、そして3月13日には、有名な「西郷隆盛・勝海舟」の話し合いがあり、4月11日、江戸は無血開城となる。
彰義隊が反乱を起こしたのは、5月15日未明である。
この慶応4年4月、新聞は、日本に「瓦版」ではなく、真実を伝えるため、日本歴史始まって以来、奔流のように市中に出廻った。

「もしほ草」の論説には、次のような記述がある。
「旧来の汚習を掃精し、文明なる法律を下したまふべし。旧政府の法律は、拘束を多くして、不便なる事のみを好み、何事によらず、たやすく整ふこと無きをよしとする風あり。これによりて、奸吏時を得て、みだりに暴威を振ふ、種々の悪計を設けて、商売を困らせ、以て自らを富ます謀(はかり)ごとをなせり。これらのこと、まことに憎むべきの至りなり」

どうも、新聞が発刊されたのは、この時期なのだ。
慶応4年は、日本歴史にとって、まさに「新聞元年」ともいうべき年であった。
新政府が有名な「五箇条誓文」で、「旧来の陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クベシ」と宣言した。
2月「中外新聞」、4月「中外新報」、閏4月「江湖新聞」「もしほ草」「日日新聞」「各国新聞」、5月「外国新聞」「曾よ吹風」などが創刊されているが、中でも、内容、文体などからいっても代表的なものが、柳河春三の「中外新聞」、岸田吟香の「もしほ草」、福地源一郎の「江湖新聞」であったことは、いま残されている資料からみても、一目瞭然である。

それで、此の稿を書きだした原因を確認したい。
「日刊新聞創刊の日」と上に掲げた幾つかの新聞の創刊とは、何が違うのだろう、か?
そのことを、今後確認してみたいと思っている。






















2017年2月18日土曜日

春一番を、識(し)る

茲(ここ)で、春一番のお勉強!

この年の端、恥かしい話ですが、何かを知りたくなったときには、ネットの画面を利用させてもらう。身も心も裂(さ)けるほど悔しいけれど、それでも、厭きることなく?性懲りもなく、、、、ネットのお世話になる。
この「春一番」を人並に知っていたかった。
この「春」という言葉を観たり聞いたりするだけで、私の体のエッチな虫が目を覚ましたり、山口百恵さんの何とか何とかの歌の文句を思い出したり、その程度のワタシなのだ。

そして、春一番の次の文章だ。
2月17日の早朝、気温が髙く風が強かった。

春一番とは、季節が冬から春へと変わる時期に、初めて吹く暖かい南寄りの強い風のこと。
具体的には、2月4日ごろの立春から3月21日ごろの春分までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南寄りの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のことである。南寄りとは、東南東、西南西からのことだ。

決められた期間以外に南風が吹いても、春~番の言い方はしないそうだ。

春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日などは寒さが戻ることが多い。これを「寒の戻り」と言う。

今年の2月17日ことだ。
午前中に強い南風が吹いた。私の唯一の家事であるゴミ出し、体にあたる風圧は大変なものであった。
有難いなあ、冬が終わって春が来たのだ。多少、足さばきが軽くなった。
これが、春一番かと思っていたら、夕刻になって急に気温が下がりだして、やっぱり、そう簡単に、冬を忘れさせてくれないワイと苦笑いした。
風の強さは以下のようだ。
東京・18、0メートル(午前9時10分)
横浜・19,1メートル(午前7時33分)

春一番が観測されたとき以降、同じ年に同様の南風が複数回発生した場合には、春二番とか春三番とか呼ぶことがある。

この強い南風は、竜巻などの突風(とっぷう)だけではなく、雪崩や融雪洪水などの気象災害や海難事故をもたらすこともある。

2017年2月9日木曜日

馬耳東風

先月、『ジイジー!「馬耳東風」ってどういう意味なの?』と、孫から尋ねられた。

その時の、私の返答は、この言葉は大事なことを教えられても聞いても、本当の意味をわからないままでも、平気で平気でいられる人のことで、対象になる人は余りいい性格ではないんだ、だった。
馬の耳には東風も西風も関係なく、吹いている風の意味合いなんて感じなかったのだろう。この時は、この程度のお答えだった。

ところが、孫は負けない、、、、、のだ。
何となく意味は解ったが、何故?西風ではなく東風なんですか?と追加の疑問点を突っ掛(かけ)ってきた。ここまで、ぎゅうじって質問されると、知識の足りない吾輩は、せめてネットだけでも調べてみることにした。

春が近づいてきた頃に吹く東風は心地よく感じる。
人の言葉に耳を貸さないこと、又心を留めないこともある。
そのような四字熟語なので、年長者に対しては使わない方がいい。

「粉骨砕身」の意味を教えてから、孫は俺様のことを何でもかんでも、知っている奴と思っているようなのだ。

★馬事東風の語源・由来『四字熟語』  ネットより。
馬耳東風の「東風」は東から吹く暖かい風で「春風」の意味。馬耳東風の「馬耳」は文字通り「馬の耳」のこと。
つまり、人は春風「東風」が吹けば寒い冬が去って暖かくなると喜ぶが、馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味で、他人の意見を聞き入れない態様、心に留めようともしない人のたとえとして、「馬耳東風」と言ったものである。

同じような意味で、「犬に論語」「牛に経文」「兎に祭文」がある、とネットで知った。


それにしても、吾輩の脳足り(ノータリ)んには情けないやら悲しいやら、死んでも死にきれんわ。