2017年2月23日木曜日

日刊新聞創刊の日って?


2017 2月21日、今日は何の日?だろうかとネットで調べてみた。
今日は「日刊新聞創刊の日」とあった。

ネットにあった記事とは、1872(明治5年)2月21日、東京初の日刊新聞「東京日日新聞」(毎日新聞)が浅草で創刊された。世界で最初の戸別配達の日刊新聞だ。このことを記念して、「日刊新聞創刊の日」とした、とあった。

こんな記事を読んで、この表現はちょっと間違ってはいないか?と思いついた。それは、下のように表装されている本を、今、私が夢中に読んでいる。
内容については、今まで知り得なかったことばかりなので、よく理解できていない。
この本の内容については、後日、あらためて著述するつもりだ。

★ これからが、この稿のハジマリ,ハジマリだ。



本の表装に掲示された写真は、幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦いの前夜、函(箱)館で写された一枚の写真だ。
戊辰戦争とは、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥州越列藩同盟が戦った日本の内戦のことだ。
仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。
8人による何とも言えない信頼と親しみの雰囲気。
いったい彼らは何を話していたのだろうか。
日本人武士とガイジン?それもフ・ラ・ン・ス人との束の間の出会いに秘められた歴史の影に何があったのだろうか。

これらのことを、作家の鈴木明氏は、フランスをメインに、また国内での調査に駆け巡る作動がエネルギッシュで、なんとも興味深かった。

昭和54年の冬。函館山の中腹にある図書館で、ノンフィクション作家の鈴木明氏がこの写真を観て、写真の内容そのものが解らないものだらけなのに先ず驚き、その写像そのものをなんとか理解したいと思いついた。
それからの内容について、現在、私は鈴木さんよりもなあ~んにも知らないものなのに、解らないままの読書が、悔しい。
けれど、一つ一つの内容は解らないままだけれど、全体ば面白くて、堪らない。

五稜郭では榎本武揚のことだけは、知っていた。新撰組の副長の土方歳三も参加していたらしい。
榎本武楊の名前から、恥かしながら、王政復古側の重要人物かなと思っていた。
その榎本武揚のことを、この本の一部から知った。
函館脱走の前、5年近くもオランダに留学をし、帰国するとすぐ洋服を作らせたという「西洋かぶれ」と言われているが、函館に残されている写真は幕末の旗本らしく、日本刀だけは忘れていない。
だいたい、脱走軍として函館に集まったのは、旧徳川家の側に立ち、官軍に一泡吹かそうと志した保守的な集団だから、土方歳三などが武士の魂である日本刀を手放さなかったのは当然である。

徳川幕府から明治への移行時。
この時期、町民はどのように、あたふたしていたのか?そのことについて、多少なりにも想像はつくが、武士の世界,藩政なり幕政、天皇方の目論見は何だったのだろうか?
政治は、誰がどのように?日本をどのように仕向けていこうとしていたのか?
学校の先生は詳しく話してくれなかった。当然、教科書にも何も触れられていなかった。こういうことに、誰よりも、誰よりも、強く詳しく教えて欲しかった私なのだが、当時、そんなことまでは、どうでもよかったのだろう。能天気な子供だった。

この本の丁度半ばに、新しく発刊されていく新聞のことがでてきたので、此の稿の始めに書かれている「日刊新聞創刊の日」の内容に疑問を持ち始めた。
その部分を転載させてもらう。
新政府軍が江戸総攻撃をかける、という話が伝わった3月の初め、そして3月13日には、有名な「西郷隆盛・勝海舟」の話し合いがあり、4月11日、江戸は無血開城となる。
彰義隊が反乱を起こしたのは、5月15日未明である。
この慶応4年4月、新聞は、日本に「瓦版」ではなく、真実を伝えるため、日本歴史始まって以来、奔流のように市中に出廻った。

「もしほ草」の論説には、次のような記述がある。
「旧来の汚習を掃精し、文明なる法律を下したまふべし。旧政府の法律は、拘束を多くして、不便なる事のみを好み、何事によらず、たやすく整ふこと無きをよしとする風あり。これによりて、奸吏時を得て、みだりに暴威を振ふ、種々の悪計を設けて、商売を困らせ、以て自らを富ます謀(はかり)ごとをなせり。これらのこと、まことに憎むべきの至りなり」

どうも、新聞が発刊されたのは、この時期なのだ。
慶応4年は、日本歴史にとって、まさに「新聞元年」ともいうべき年であった。
新政府が有名な「五箇条誓文」で、「旧来の陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クベシ」と宣言した。
2月「中外新聞」、4月「中外新報」、閏4月「江湖新聞」「もしほ草」「日日新聞」「各国新聞」、5月「外国新聞」「曾よ吹風」などが創刊されているが、中でも、内容、文体などからいっても代表的なものが、柳河春三の「中外新聞」、岸田吟香の「もしほ草」、福地源一郎の「江湖新聞」であったことは、いま残されている資料からみても、一目瞭然である。

それで、此の稿を書きだした原因を確認したい。
「日刊新聞創刊の日」と上に掲げた幾つかの新聞の創刊とは、何が違うのだろう、か?
そのことを、今後確認してみたいと思っている。