2019年4月25日木曜日

GIMICO

20190413(土)朝日新聞・夕刊1面より

photo-story
私らしく立つ


夕刊を新聞受けから取り出して、決して大きな写真ではなかったが、その1枚の写真のサマに驚いた。
小学校の時から朝日新聞をこよなく愛してきた。
そんな私がこのコーナーで正直に喋ることが、一寸(ちょっと)申し訳ないような気がするのだが、夕刊については、文化的なことや図書等についてはどの日も興味を持ったが、1面については特殊な記事でないかぎり、さらっと読み越した。

今日は記事ではなく、1枚の写真の迫力に私の神経は弾けた。

★これからは、記事そのものを転載させてもらった。
ーーーーー
東京都心、代官山のビル内にあるブラジリアンワックスサロン。
たたずむのは、この脱毛サロンのオーナーでもある。
義足モデルのGIMICOさん。

中学2年の時に骨肉種が判明し、約半年後に右足を切断。
高校卒業後に上京し、モデル活動を始め、蜷川実花、レスリー・キーなど、著名写真家のモデルに抜擢された。
2016年にはリオデジャネイロ・パラリンピックの閉会式に出演、世界中の目を引き付けた。
最近では大手企業のCMにも出演する。
それでも本人は淡々としている。
「自分だからできることを見つけていきたい」

(写真・文 北村玲奈)




アイヌ新法案成立



20190420(土)朝日新聞・朝刊、1面にて、
「先住民族であるアイヌ人々」明記
アイヌ新法成立
のタイトルの記事を見つけた。
下記は新聞記事そのもののを転載させてもらった。
左院本会議場の傍聴席で、アイヌ新法の成立を喜ぶ
北海道アイヌ協会の加藤忠理事長(前列左)ら。
=19日午後0時8分、岩下毅撮影


アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」と位置づけたアイヌ新法が19日、参議院本会議で可決され、成立した。
アイヌ文化を守り育てる施策を国の責務と定めたことに「一歩前進」という評価がある一方、土地や資源など先住民族としての権利に触れていないなど課題も残す。

「先住民族であるアイヌの人々」。
新法の第1条はこうした表現で始まる。
アイヌ民族にかわる従来の法律と大きく異なる点だ。
差別禁止を明記し、アイヌ施策を国や自治体の責務とした。
民族の儀式や文化伝承を目的にした国有林の利用、サケの採捕などに特例措置を設けた。

政府が公式に「先住民族」と法律で認めたことは評価する声も多い。

参議院の傍聴席では、北海道アイヌ協会の加藤忠理事長(80)が何度もうなずきながら笑顔を見せた。
一緒に成立を見守った協会の人たちと握手を交わしながら、喜びを分かち合った。

加藤理事長は「泣いています。うれしくて。北海道旧土人保護法からアイヌ文化振興法、そして今の新法へと、抱えきれないような苦しみと悲しみの歴史があり、長い時間がかかった」と話した。

だが新法の目的はあくまで文化や経済、観光の振興。国連の「先住民族の権利に関する宣言」に盛り込まれ、アイヌの人々が長年求めてきた「先住権」は明記されず、生活や教育の支援も含まれなかった。

国は北海道白老町に「民族共生象徴空間」を整備しており、来年4月にオープンする。
来年の東京五輪・パラリンピックを見据え、政府の先住民族政策をアピールする狙いもある。

こうした国の姿勢に反発する人々もいる。
新法に反対するアイヌ民族の団体「コタンの会」代表の清水裕二さん(78)は「生身のアイヌを観光の飾り物にすることは賛同できない。
学校でアイヌの歴史や文化をきちんと教え、生活支援を考えてほしい」と訴える。

(芳垣文子、松山尚幹)



★Wikipediaの文章を頼りにした。
アイヌは、北海道を主な居住圏とする先住民族である。
独自の文化を有する。
かっては北海道だけでなく北は樺太、東は千島列島全域、南は本州北端にまたがる地域に居住していた。
21世紀初頭の現在、日本国内では北海道の他に首都圏にも広く居住している。
昨夜、テレビではっ首都圏に住むアイヌの人々が寄り集まって、この法案が国会で成立したことを、肩を組み顔を見合わせて喜んでいた。
母語はアイヌ語。

アイヌは、元来は物々交換による狩猟採集民族。
文字を持たない民族であったが、生業から得られる毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州、カムチャッカ半島の地域で交易を行い、永くオホーツク海地域一体に経済圏を有していた。

1855年2月7日(安政元年)の当時のロシアア帝国との日露和親条約での国境線決定ににより、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民になった。
2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。

★「ウタリ」の本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが、長年の差別の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、行政機関の用語としてもでも長年使われてきた。



1986年9月24日のこと、中宗根康弘総理大臣はいわゆる知的水準発言の謝罪会見の際に「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなどの知的水準がまだ高くない。日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」という趣旨の教育に関する発言を行った。

アメリカから厳しい批判が起こったが、これは黒人やラテン系の知的水準が低いとの旨は人種差別ともとられかねない発言であるからで、この時点では日本国内での反発は少なかった。
ただし、アメリカでの批判には「単一民族社会が複合民族社会より優れているという考え方自体が、最も悪質な人種差別である」との表明が含まれていた。

中曽根はその釈明の中で「日本は単一民族だから手が届きやすいという意味だ」および「日本国籍を持つ方々で差別を受けている少数民族はいない」と国会で発言し、この発言が国内からはアイヌ系などから強い反発を受けた。



同年10月21日にアイヌのウタリ協会などの団体から「単一民族発言はアイヌ民族の存在を無視するもの」という抗議を受けた。規制緩和によりアイヌ民族の伝統的なサケ漁や、祭事に使う木材の伐採を後押しする。これまでは北海道庁などへの届け出が必要だったが、手続きを簡素にする。

2019年4月15日月曜日

蕗が今年もやってきた

1ヶ月前には、我が愛するイーハトーブ畑で、蕗(フキ)の薹(トウ)を採り、蕾(つぼみ)を天ぷらにして楽しんだ。
これ!! 日本酒に合うんですよ。
4回ほど食べた。
出てきた蕗の薹を全部採取できなくて、食べられないモノはカットして諦めた。
これだって、知らない人にとっては、面白くも何とも無いものだが、私にとっては貴重な春モノ、旬のモノだ。
畑の西北の隅っこ4畳ほどの広さに蕗が密集している。
1年中、肥料を一切あげなくて平気だ。
成長力が強くて、野趣で品の好いモノだ。

此処で蕗の薹と蕗を敢えて文章にしているのは、私の近辺で、会社のスタッフにもこれほどの珍味を知らない人が格別に多いことを、身をもって知ってしまったからだろう。
50年ほど前のこと、大学のグラウンドの傍の居酒屋・土筆(つくし)で、天ぷらのフキノトウをママの無料サービスでいただいた時の感謝の気持ちが、心の深くに染み付いている。

★そこで、フキノトウについてもう少し知ってもらうために、ネットで関連記事を見つけた
私流に少し追加させてもらった。
フキノトウはキク科フキ属の多年草で日本原産の山菜で全国の山野に自生しています。
フキノトウは蕾(つぼみ)の部分にあたり、この花が咲いた後には地下茎から伸びる葉=蕗(ふき)が出てきます。
春の季節を表現する、山菜として日本料理には欠かせない食材です。

古くから食用に利用されてきており、独特な芳香と、苦味を、香辛料として使用したり、早春の食材として、てんぷら、和え物に、広く利用されています。


蕾の様に見えるのがフキノトウ。

そして今回は、蕗のことだ。

そして今日、20190414(日)早朝8時に、2万歩の歩行の儀の後、蕗を掌(手のひら)2束(たば)分を採った。
採るべき日は今日か明日か? どれほど悩んだことだろう。
毎日毎日、畑に来るたびに、蕗の茎の長さを観察して採り時を考えていた。

この蕗を採るとき食べるときは、特に心が不思議な所へ向かうのです。
その向かう先は、私の故郷、京都府綴喜郡宇治田原町の貧家のことだ。
誰でも、それなりの思いはあるでしょうけれど、故郷で味わった光と風と草いきれ、空、山野や原っぱ、川と池、田畑が異常に懐かしく感じるのだ。
この粗雑でも風雅な田舎の味わいが、目に鼻に耳に口に肌に、体の全てで不思議に思い出される。

採って帰って、蕗の茎の表面に筋張っている表面をむしり取った。
なんぜ、蕗の表面がこんなに筋張っているもので守られているのか不思議だ。
この蕗を好物にしている動物なんかいやし無いだろう、それとも好き好む虫でも居たのだろうか。
この作業が割りと大儀で、昨日大きな大根の1本を「大根おろし」したのと同じぐらい時間がかかった。

できあがった料理は、小さく切り刻んだ醤油漬けだった。
美味かった。

2019年4月14日日曜日

切り干し大根

20190408(月)、会社での仕事を終え、相鉄線・天王町駅近くの全国的に有名なラーメン屋で、中華そばを食った。
麺大盛りをサービスしてくれるチケットを持っていたので、それを使った。
それでも御代(おだい)は易くお腹いっぱい、嬉しくなるのは俺だけだろうか。

それから、保土ヶ谷・今井町の我が愛するイーハトーブ畑に歩いて行った。
8、300歩、約1時間。
野菜の様子を見て、雑草を抜いた。
京ミズナは2株、サラダ菜は155株、大蒜(にんにく)は147株、春菊(しゅんぎく)は5株、葱(ねぎ)は24株、玉葱は22株の成長振りを把握。
種を蒔いて余り日時の経ってない赤カブ大根が1センチ、ほうれん草は5ミリの芽生えがしてきた。
多少の間引きをして水を撒いた。


  

雑草は春の季節らしく今までとは違う繁殖振りで、これからの草採りに気合が入ってきた。
夏に向け気を引き締めておかなければ、ナラン。
今のところは、ハコベや名の知らぬ草が途切れ途切れに生えているだけで、この程度ならば、意識して抜いていけば、嫌な気分にはならない。

そんな日だったが、嘘(うそ)偽(いつわ)りなく白状しなくてはならない事がある。
イーハトーブ畑に入る前の大きな道路に、この地域の大地主がいらっしゃる。
その人の家は大邸宅、その道路の筋向いには地主さん所有の大きなテナントビルがあり、その横には農作業に使う器具類の置き場と打ち合わせができる立派な小屋がある。
自宅の隣には畑があり、色んな野菜が植えられている。

1週間前にその畑に植えられていた大根が2,3本掘られて傍に捨てられていた。
根の太さは直径15センチ、長さ70センチ、風格は横綱級。
私にはその光景がどうしても納得できず、なんぜ、なぜ、そんなことをしているんだろう。
それからと言うもの、私の頭の底には、そんなにもったいないマグマが凝固してしまった。
地主さんの家族が少なくて食えないようでは、誰か他の人に差し上げることを考えなかったのだろうか。
そんなことを、この道を歩く度に考えた。
でも、このままで収まらないのが私の感度が悪性な証左だろうか。

8日の昼2時頃、この地主さんが一人で何か寂しそうにしていたものだから、「すみません、この抜かれている大根を易く分けてもらえないですか」と言ってしまった。
勇気が要(い)った。そう、万気(ばんき)を奮(ふる)ったのだ。
地主さんから「何をするんだ」と聞かれたので、「切り干し大根にしてみたいのです」。
私の言葉は正真正銘の「心の根から出た言葉」だった。
地主さんは、「何もあんなに干(ひ)乾(から)びたものを使わないで、新しいものを、俺が引き抜いてやるから」、何と温かいお言葉なんだと体じゅうの血が騒いだ。
それから1時間後、ナイロン袋を持ち込んでお邪魔した。
予定通り、地主は大きな大根を3本くれた。
以前に抜かれて干乾びた大根も貰って帰ろうとしたが、そんな物に手を出すなと指示された。
このオジサンは「切り干し大根」は、冷えた風がびゅうびゅう吹くのが好(い)いんだよ、この天気では巧くいくかな」と疑問文だった。
そのような言われ放し言葉なんかに、構ってはいられない。
やりたくなったから、やるんだ、、、、、それだけ。

自宅に着くやいなや、ベランダにゴミ入れのナイロン袋を広げ、まな板と包丁を持ち出した。
天はどこまでも青く穏やか、太陽が強く輝く、富士山がくっきり映えているなり。
この上なく幸せな気分!!
居郷で、母が「切り干し大根」を作っているのを見たことがあるので、母とぴったり同一のようにできないかもしれないが、やるだけやってみることだ。
3本のうち2本はいつもの料理用に使うこととして、一発必中(いっぱつひっちゅう)か? 
小さく長く強く切り刻んでいくので、包丁を押さえる掌(手のひら)にダイコン・コブができてしまった。
名誉印(じるし)のコブだ。


何故、ここまで「切り干し大根」にこだわるのか? そのことにも触れておきたい。
田舎育ちの70歳の私に、この「切り干し大根」には子供の頃の格別の思いがある。
この私のブログを読んでいてくれている誰よりも、この食材については山岡流変節!哀愁的♯~♭なのだ。
茶摘み、田植えの時季には、私たち子どもが起きて朝飯を食うときには、父も母も祖母さえも家に居ない。
早起きして茶畑や田植えに出かけて行った。
そんな環境のなかでの腹ごしらえには、この「切り干し大根」の煮付けたものだけで、飯をカッ食らいした。
それほど、名残り豊かな食べ物だった。

0409も晴れて、乾燥は好調な具合。
でき上がりの良否は? どのようになるかは神さまだけにしか解らない。
それから雨の日が続き、それにしても13日には立派に出来上がった。
それでもまだまだ慎重な私は、晴れが明日から何日間続くか分らないが、ここで完成品にはしたくない。
日照りが鋭く、14日には乾燥を止めた。





★切り干し大根 の料理例をネットからいただいた。

たべれぽ
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2019年04月03日
おいしくできました!
たべれぽ
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(๑╹ω╹๑ )
2019年03月31日
れんこんをプラスしました♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪
美味しかったですー!
たべれぽ
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purincoco
2019年03月30日
優しい味で美味しかったです(^^)
定番の副菜になりそう✨
たべれぽ
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くまこ
2019年03月28日
油揚げの代わりに平天いれました。基本の〜 はいつも参考にさせてもらってます。美味しい♪
たべれぽ
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🍀四つ葉🍀
2019年03月26日
とっても美味しく出来ました(๑˃̵ᴗ˂̵๑)
リピしてます♬.*゚
たべれぽ
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あい
2019年03月26日
干し椎茸も入れました🎵水は干し椎茸を戻した汁を使いました❣️ちくわもあれば入れたかったな✨
たべれぽ
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AS
2019年03月25日
味が少し濃かったので少し薄めて作りました!リピートします!
たべれぽ
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るん
2019年03月25日
大根50gで多くしたので、めんつゆ足しました!!
人参が少し固くて残念泣
またリベンジします!!
たべれぽ
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帰蝶
2019年03月25日
美味しかったです!
たべれぽ
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星野 優太
2019年03月22日
とても美味しくできました☺
また、作ろうと思います🍀
たべれぽ
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ひろろん
2019年03月18日
優しい味に 出来上がりました!美味しいかったです😊
たべれぽ
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Haruna
2019年03月13日
美味しくできて良かったです〜
たべれぽ
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cool
2019年03月12日
美味しくできました!
たべれぽ
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コチ
2019年03月05日
丸切り干し大根で作ってみました!優しいお味☘️
たべれぽ
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りす
2019年03月05日
何回もリピしてます(*^ω^*)
たべれぽ
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aiai☆
2019年03月04日
やさしいお味でたくさん食べれました!簡単にできたので、また作ります♪
たべれぽ
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nami
2019年03月03日
優しい味がして箸が止まりませんでした❤️また作りたいと思います😊💕
たべれぽ
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えぽぽ
2019年02月28日
何度も作っています!簡単で美味しいです💕
たべれぽ
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ピリ辛さん
2019年02月25日
かなりのリピーターです。
美味しくできました!授乳中のなので、健康なものを作るのが楽しいです!( ˇ͈ᵕˇ͈ )
たべれぽ
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はる
2019年02月23日
切り干し大根初めて作りました!にんじんたっぷりで作りました🎶
大好きなメニューなので美味しく作れて良かったです💗
彼からも大絶賛でした💗リピします✨

2019年4月12日金曜日

病院を変えてもらった

20190409 何度目なのだろうか?新百合ヶ丘病院へ行った。
髙い樹木から転落して5年。
この病院での3か月の入院、そして新横浜にある新横浜リハビリ病院にも3か月の入院。
退院してから、新百合ヶ丘病院へは3カ月毎に担当の医者と面談、体の調子その他の報告に行く。
診断してくれる医師は何人も変わったけれど、どの先生も親切で丁寧だった。

医者との面談のなかで、山岡さん此の頃体の調子はどうですか?と聞かれて、私は随分良くなっているように思いますと言った後、このようにも告げた。
「・調子が好いときは、何ともなく過ごせるのですが、夕方、時によってはムズムズすることがあります。
頭が重たく感じることがあるのです。
・地震があるわけでもないのに、机や天井や壁に何か振動らしきものを感じ、スタッフに今、地震があったか?と聞く」。
何もありませんでしたと聞いても、何やら嫌な気分になる。

そして医者は女房にも聞いて、本人が話す通りですと聞いて、判りましたと答えた。

「山岡さんこれは短く言えば、高次脳機能障害の一つの現れですよ、だから、時間が経ってもすっかり、全くゼロにはならないのですよ。
横着な言い方で許してもらえば、この細少な弊害を何とか、薬のお陰にもなって低めに治めていくしかないんですよ。
もっと横着に言わしてもらえれば、貴方の頭の中には、10分の1か2?の割合で、「仮面のヤマオカ」さんが生きているんですよ」。

医者の話を聞いていて、私は45年ほど前に読んだ三島由紀夫の「仮面の告白」を思い出していた。
私の病状と三島由紀夫の「仮面の告白」とは、な~ン~ら関係のないことだったのだが。
三島由紀夫の作家としての原点の作品なので読んだ方がいいよと言われて、読んだもののよく理解できなかった。
表現が繊細で美しいのは解ったが、感性が難しく私には理解できなかった。
同性愛を扱った三島自身の自伝的な作品だと言われていた。

そして病院の変更をお願いした。
「そりゃそうですよね、保土ヶ谷の権太坂からだったらたいへんですよね、保土ヶ谷なら前には○△脳神経病院とか言っていた病院ならいいんじゃないかな」。
「その病院なら、私も前から知っていて、自宅から歩いて行けるので、とてもグッドです」とお願いした。
この○△病院は、今ではイムス横浜狩場脳神経外科病院と言われている。
「紹介状を書いて、ご自宅に郵送しますから、待っていてください」。
これで、病院変えの話は終わった。
二度とこの病院には来ないとわかると、2階のレストランでちょっと無理してでも、いいものを食いたくなった。
できるものなら、頭の調子もこのようにちょっとづつでカマワナイ!から好くなって欲しい。

そんな事とは関係ないが、私は生まれながらの癖で、病院が性(しよう)に合わない。
病院の敷地を早い目に去りたくなる。

2019年4月11日木曜日

「韓日友情賞」 小平・李の友情を称(たた)えた

20190408(月)の朝日新聞・朝刊・社会面の一枚の写真を観て、相変わらず私の心は弾(はず)んだ。
平昌冬季オリンピックの開催中、この二人の交(厚)情を何も知らなかった私は、日本選手の誰かれなく応援していた。
それが、頗る嬉しかった。

今回は、小平奈緒(金メダル)と李相花(銀メダル)のスピードスケート500メートル争での友情の巻だ。

今までは、日本代表に選ばれた選手は自分の所属するリンクで練習に励んでいた。
ところが、今回からはチームジャパンとして、日本代表に選ばれた選手たちは、指定されたリンクで合同で練習した。
そんなことがあってかどうかは判然としないが、どの選手たちも仲良く日本の成績の向上にシッチャキになっていた。
多くの頑張った選手の一人一人の名前をここで挙げることもないだろう、だって、私に感動を与えてくれたアスリートの何て多かったこと。


ーーーーー
  
授与された盾を持ち、「指ハート」のポーズを作って記念撮影に応じる小平奈緒(左)と李相花=7日、ソウル、武田肇撮影


平昌五輪で女子500メートルを制した小平(右)は、2位の李と抱き合った

記事のタイトルは、小平選手・李選手の友情たたえ

韓国の財団授賞 
平昌(ピョンチャン)の抱擁話題
韓国の2018平昌(ピョンチャン)記念財団は7日、昨年2月の平昌冬季五輪スピードスケート女子500メートルでライバルとして金メダルを争い、レース後には互いの健闘をたたえ合った小平奈緒と韓国の李相花(イサンファ)に「韓日友情賞」を贈った。
五輪の遺産を後世に伝えるという財団の活動趣旨に合うと判断した。

平昌ではレース後、金メダルに輝いた小平が、3連覇を逃して泣く李を抱きかかえ、「チャレッソ(頑張ったね)」とねぎらう場面が話題になった。

ソウルでの授与式に出た小平は「思いがけず大きな注目を浴びたが、私たちにとってあの情況は特別なものではなく、ごく自然なものだった」と笑顔で語った。
五輪後に李から「奈緒がいて私がいる。私がいて奈緒がいる」というメッセージを受け取ったエピソードを明かした。

(ソウル=武田肇)

2019年4月10日水曜日

「しんどい」ナア~

私の近辺に病苦に悩む人がいて、仕事の合間合間に、ふっと思わぬ休み時間ができた時などに、口走るのが「ああ、しんどい!ナア」、「えろう! 疲れたワ」だった。

私は関西の出、京都と滋賀県との国境の寒村から東京、横浜にやってきた。
そんな人間には、この表現はそれほど珍しくなく、普通に聞き取れる。
私だって、バスケットボールやサッカーの練習などで、ちょっと体に疲れを感じた時には、普通に使った。
けれど、そんな「しんどい」よりも小さい頃を振り返ってみると、「えろう、疲れたワ」のように「えらく」「えらい」「えろう」を使ったものだ。
ネットで調べると、「『えらい』は、おっさんがよく使う言葉」、「しんどい」は新興の言葉とあった。
「えろう、疲れたワ」は郷里だけの特別方便か?


言葉を調べる際に、私流には必ずどんな漢字を使って表現するのだろうかと念じる。
今回も、そのことについてはどうなんだろうか、と調べてみたがその答えは得られなかった。
それじゃ辞典ではどのように表現されているか調べてみたら以下の通りだ。

★実用日本語表現辞典より。
「しんどい」は有ったが、「えらく」「えらい」「えろう」は無かった。

しんどい

心身辛さ感じているさまを表現する言い方
肉体疲労心労発熱などによる体調不良重労働などの過酷環境身を置く状況等々さまざまな意味合いで用いられる。

「しんどい」は関西広く用いられる方言であるが、表現そのもの全国的に知られている。

より口語的な俗な言い方としては「(あー)しんど」のように語末の「い」が省かれる言い方もある。

2019年4月8日月曜日

金田一春彦の「日本語のこころ」


日本エッセイスト・クラブとは、昭和26年6月に結成されたこの種のものとしては我が国としては最も権威ある組織だ。
評論家、随筆家、著名作家、新聞記者、編集者、俳優、医師、主婦等の一般人に至る現在380名の会員を擁している。
昭和28年以降毎年、日本エッセイスト・クラブ賞を選定し、エッセイの振興に努めている。
多士済々、立派なエッセイが綴られていた。
その中から、今回は金田一春彦氏の「日本語のこころ」を、素晴らしかったとか優秀だったとかでではなく、私の日頃の生活のなかで、内容が普段っぽく、興味深く感じたのでここに抽出させてもらった。
私の友人たちにも、この種の読み物を読ませてみたくなった。
私はこの金田一春彦のことは何も知らなかったが、父の金田一京助氏のことは国語辞典でよく知っていた。
金田一京助はアイヌの言語体系を整理、探求に一生を捧げた。
京助がいなければ、アイヌ語は残らなかったともいわれている。
「アイヌは偉大な民族だ」、「あなた方の文化は、決して劣ったものなどではない」と強調した。

今回の本には、プロアマの枠を超えた61名のかたがたの、各人各様で各種雑多!妙妙とした美辞麗句が、頗(すこぶ)る読みやすくて楽しかった。
面白さ満載、今後このエッセイ集の虜(とりこ)になりそうだ。
その中で、簡単に読みきるだけでは納得できないシロモノ(こんな行儀の悪い表現では怒られるかもしれないが)があって、今の時期、私の都合に合わせて転載させてもらいたいと思った。



日本のエッセイスト・クラブ編
’00年版ベスト・エッセイ集
日本語のこころ
金田一春彦(玉川大学客員教授)

イギリス人に日本語を教えていた時のことである。
「先生!『腰を掛ける』というのはどうすることですか?」と聞く。
こんなことも知らないのかと、私は椅子を引き寄せて腰を掛けてみたら、彼は「先生は尻を掛けました、腰を掛けてはいません」と言う。
なるほどそう言えばそうだ。

日本語では、肉体に関してあまりはっきり言わないことがある。
『膝枕(ひざまくら)』と言うが、関節のあるごりごりしたところを枕にして寝ることだ。
『小耳にはさむ』は小さい耳で聞くのではなく、ちょっと耳にとめることだ。
『大手を振る』は大きな手を振るのではなく、手を大きく振ることだ。
『後ろ指をさされる』も、人間には鶏などと違って後ろ向きの指はない。
後ろから指をさされるの意味だ。

日本語はよく論理的ではないと評価される。
アメリカへ行って理髪屋へ入り、『頭を刈ってください』と言って、驚かされたという話がある。
たしかに頭を刈ったら頸から上がなくなってしまうだろう。
あれは頭を刈るのではなく髪を刈るのだ。
『昨日病院へ行って注射して来た』と言ったら、ドイツ人に「君は誰に注射を打ったんだ?」と聞かれたそうだ。
なるほど『注射して来た』のではなく注射してもらって来たのだ。
写真屋に行って写真を撮ってもらったことも、「写真を撮った」というのが一般的である。

我々は『提灯に火をつけた』と普通に言うが、ドイツ人は「提灯の蝋燭に火をつけた」と言うそうだ。

『お湯を沸かす』、『飯を炊く』は変だ。
あれは「水を沸かす」、「米を炊く」だ、というのは弥次喜多の膝栗毛に出てくるのでよく話題になる。
この類のことは多く、野球で『ホームランを打つ』は投手の球を打ってホームランになったと言うべきことになる。

落語で与太郎が父親に、「お前もそろそろ嫁をもらわにゃいけないな」と言われ、びっくりして「俺が誰の嫁さんをもらうんだい」と聞き返す。
「お前の嫁をもらうんだよ」と言われ、「親父も変なこと言うなあ、『お前の嫁』ったって俺は嫁なんかもっていないし、自分で自分のもってる嫁をもらってもしょうがねえじゃねぇか」と言う。
たしかに、与太郎がもらってくるのはどこかの娘さんで、それが与太郎のところへ嫁いではじめて与太郎の嫁になるわけであるが、このような場合、「娘を嫁にもらう」と言わずに、簡潔に『嫁をもらう』と言うのが日本語の言い方である。

一般に日本人は短く言おうとすることが多い。

食堂に入って、「こちらは何になさいますか」と聞かれ、「ぼくはウナギだ」と答える。
別にウナギのような髭の生えた男でなくてもそう言う。
これは私が以前本に書き、文法学者の間で話題になった。
同じようなものに「あそこの店の寿司はうまいよ」と言わずに、「あそこの寿司屋さんはうまいよ」と言うことがある。

先に触れたドイツ人が理屈っぽいことは、「ぼくは昨夜実験室に行ったが誰もいなかった」と言うと、「お前がいたじゃないか」と言うそうだ。
ドイツ人はその場合「ぼくは昨夜実験室へ行ったが、そこには僕以外には誰もいなかった」と言うのだそうだ。

アメリカ人に日本語を教えている時にこんな質問が出た。
昨日、本屋へ行って、「漱石の『坊ちゃん』はありますか」と聞いたら、「ございませんでした」と言われた。
『坊ちゃん』がないのは現在の話です。
それなら「ございません」というのが正しいので、「ございませんでした」は間違いでないかと言うのである。
理屈で言えばたしかにそうだ。
然し、もし本屋が「ございません」と言ったら、言われたお客はあまりいい感じをもたないだろう。
「ございませんでした」と言う方がいい感じをもつ。
何故だろう。

ここに大切な問題がある。
本屋さんはこういう気持なのだ。
「私のところでは当然『坊ちゃん』を用意しておくべきでありました。
然し、不注意で用意してございませんでした。申し訳ありません」と言って自分の不注意を詫びている、その気持がこの「でした」に現れており、それをお客は汲み取るのである。
日本人は短く言おうとする一方、自分を責めて相手に謝ろうとする。
それは常に相手を慮(おもんばか)る日本人の優しさの現れではないかと思う。

お手伝いさんが台所でコップを手からすべり落として、コップが割れてしまったとする。
日本人はこのような時「私はコップを割りました」と言う。
聞けばアメリカ人やヨーロッパ人は「コップ(グラス)が割れたよ」と言うそうだ。
もし「私がグラスを割った」と言うならばそれは、グラスを壁に叩きつけたか、トンカチか何かで叩いたような場合だそうだ。
「私がコップを割りました」というような言い方をするのは、日本人にはごく普通の言い方であるが、欧米人には思いもよらない言葉遣いかもしれない。

これは日本人の責任感の強さを感じさせる。
自分が不注意だったからコップが割れたので、割れた原因は自分にある。
そういう意味では自分が壁に叩きつけたりしたのと同じである。
そう思って「私が割りました」と言うのだ。
そう思うと、この簡潔な言い方の中に日本人の素晴らしい道義感が感じられるではないか。
誰が言い出したか、教えたか分らないが、日本人にそういった気持を根付かせてくれた先祖たちに謹んで頭を下げたい。



2019年4月6日土曜日

カレル・チャペックの『クラカチット』

東京演劇アンサンブルの拠点劇場・ブレヒトの芝居小屋の最終公演は、『ロボット』でおなじみのチェコの作家のカレル・チャペックの『クラカチット』だった。
化学者・プロコフはなぜ原子爆薬「クラカチット」を作りだしたのか?
まさか、この「クラカチット」が、その後の極めて破壊的な兵器になるとは、想像しなかっただろうか。

人間の欲望を描くSFファンタジー。

話しは少し変わるが、朝鮮民主主義人民共和国(この後は北朝鮮と呼ぶ)により核兵器の開発及び核拡散に関する問題が、今一番大きな国際問題になっている。
核を支配する北朝鮮をテロ支援国家だと、米国は指定している。
この北朝鮮の核の脅威をなくし、米国と北朝鮮の双国は休戦協定から平和協定を結び、さらに北朝鮮は米国からの経済の援助を願っている。
そんなことを、2019年2月に、和親的に米朝会談で締結したいと考えて、会談を開いたが成立しなかった。

北朝鮮が現在保有する全てのウラン濃縮施設を廃棄すると、米国と韓国に約束していると明らかにされていたのに、会談での合意はなかった。
こんなに、核の脅威が世界の重要問題になっていることは、他国の人々でも誰もが知っている。
なのに、早くも1900年の初めに、原子爆薬「クラカチット」ができ上がった。
原子爆薬「クラカチッチ」が、原子力爆弾、原子力発電その他の、こんなにも怖いモノになるとはカレル・チャペット氏は想像でもしていただろうか。

そんなこんなで、この芝居の案内書をいただいた時に観劇を決意した。


20190324(日)
14:00~17:15
TEE東京演劇アンサンブル公演
ブレヒトの芝居小屋 最終公演

演目/「クラカチット」

作/カレル・チャペック
訳/田才益夫(楡出版刊『クラカチット』より)
脚本/小森明子・桑原睦
演出/小森明子

同伴者は姪一人(私の長女の長女)だけ。
今春から中学生になる。小学校を卒業して、今は十分な期間の春休み。
短い人生のなかで、こんなに休みを貰えるのもそう度々ではない。
私にも小学校から中学校、中学校から高校、何年かの浪人生活から大学。
それぞれの狭間(はざま)、気分が真新しく新たな生活への希望に燃えていた時の、何と幸せな日々だったことか。
姪はこの何年間か?受験勉強に精を出していた。
それに対する私なりのご褒美の心算だ。
高次脳機能障害者で足腰のガタガタの私が一人で、西武新宿線の武蔵関町駅まで電車で行って、それからノコノコ劇場まで歩くのがちょっと大変に思われた。

それよりも、この東京演劇アンサンブルの芝居・「クラカチット」が、ブレヒトの芝居小屋での最終公演になることが重要なことだった。
このブレヒトの芝居小屋の敷地と建物を、大家さんにお返しするのだ。
今後の拠点になる場所を探しているようだが、兎に角、このブレヒトの芝居小屋が好きなんだ。
社長さんとお知り合いになったのは40年前のこと、30年近く、この芝居小屋にお芝居を観に来た。
社長夫婦の娘さんや息子さんが、小学生時代からここまで、気ままに付き合ってくれた。
その成長のさまを、見届けてきたものだ。
社長さんに先輩同輩後輩の役者さんたち、この芝居小屋だって、よくぞ付き合ってくれたものだ。




役者の大幹部=志賀澤子さんが立っているのが、
ブレヒトの芝居小屋だ。
「銀河鉄道の夜」の看板が掲げられている建物。





★このお芝居の脚本家で演出家の小森明子さんの文章を、
東京演劇アンサンブル発行のNO127のLETTERで見つけた。
この文章を下記に転載させていただいた。
ーーーーー
カレル・チャペック  「クラカチット」
「クラカチット」は、1922年から23年にかけて書かれ、その後の新聞連載を経て、1924年に出版されたチャペックのSF長編ドラマ。

主人公プロコプは、何年もの研究の末、ようやくある物質を作った。
それはある晩ひとりでに爆発し、大きな破壊力をみせる。
原子爆薬「クラカチット」。
この男に悪意はなかった。
ただ、物質にはエネルギーが潜むこと、それをとことんまで解放したい、という執念があった。
人間も同じで、折角生を受けたのだから、朽ち果てる前に、潜在している能力やエネルギーすべてを解放し最高をめざして生きたい、と。
それは解放なのか破壊なのか。

ここで描かれる王女との大恋愛は、伝統に縛られて生きる王女と監禁されているプロコプの解放と自由を意味していた。
一方でこの恋愛は欲望と破壊的なエネルギーをも解放した。
どうしても相手を信用できず、互いに優位に立つことを望み、椅子取りゲームのような争いを繰り広げる。

最高、最密、最新ーーーーもっとも、誰よりも何よりも完全に完璧をめざして、と加速する文明はどんな未来をもたらすだろう?
それを形にしたのが「クラカチット」、原爆の予告だと思う。
わたしがこの本に惹かれたのは、そのような警告を男女の恋愛にも置き換える機知だった。
自由と解放は人間にとって是であり善だ。
科学者が宇宙のエネルギーである原子力に行きつくのも、多分当然。
制御できるかどうかなんて考えずに人は恋愛してしまうし、制御できるかどうかなんて考えずに人は探求してしまう。
そういう人間のサガをチャペックは描いてみせる。

一方で、この作品は以下のようなチャペックの主張のドラマといえる。
私は、人間の価値を貶めることなく、人間を屈辱と弱さにおいて示したかった。
結局のところ、これもまた、人間と人生の評価の試みである。
完全さの極致や、高尚で偉大な魂や、絶対的な真実や、超人的な理想や、その他の同様の事柄を描く者たちがいることを、私は知っている。
けれども、もしもその完全さの高みからは、私が出会う最初の隣人の人生が、私にとってなおさら無価値で矮小で救い難く見えてくるとしたら、その完全さは何になるだろうか?
私に言わせれば、人間性自体、心の社会主義自体、人間愛自体が、無限の寛容によって養われなければならないのだ。

我々にとってーーーカントによれば―――人間が、つまりあらゆる人間が、手段ではなく目的であるためには、自分の心と自分の脳から、あらゆる暴力を取り除かなけれなならないだ。
我々の理想や真実や布教や評価には、あまりにも多くの暴力がある。
(『苦悩に満ちた物語』)

こんなサガを持った人間が、どのようにして暴力と縁を切れるのか。
自由や解放の名の下に振るわれる暴力、発明される暴力装置を回避する道は、どんな発想から生まれるのか?
当時の未来予告を遙かに踏み越えてしまったいま、プロコプの終焉は、原作から離れて稽古場で作っていくしかない。
もろもろ大博打ですが、ぜひ観にいらしてください。

(小森明子)


ーーーーー
妄想

『ガリレイの生涯』の14場の広渡演出は忘れられません。
4時間の大作のラスト直前、弟子のアンドレアに『新科学対話』を渡した後の食事のシーンです。
広渡はガリレイ役の俳優に、延々と食事をさせます。
ゆっくりと、ひとさじひとさじ。
ガリレイがかみしめていたのは何なのかーーーカモを食べるガリレイを見つめながら考えるーーー観客はそういう時間を味わいました。

演出の妙だけではなく、ブレヒトが食を愛したガリレイを描いたことは、ガリレイも人間であったというだけでなく、食欲も知的欲求も欲望なんだ、とわたしには伝わりました。
知的欲求が、いわゆる忌避すべき「欲望」だなどと思ってもみなかった若いわたしには、それは驚くべき事件でした。
(それが自分の思い込みに過ぎなくても)。

つまり『クラカチット』に惹かれたのはそういう理由です。
知的探究心はプロコプの情欲と等価といっても過言ではない。
チャペックはこの作品で、ヴェールの娘アンチ、カーソン、ヴィレ王女、デーモン、娼婦の娘などを配して、「クラカチット」を生んだプロコプの欲望の根源を描いている、と感じました。
その姿は、ことの大小はあれど全ての人間に共通するものです。
なんせ人間は制御不能になることの多々ある肉体によって縛られているのですから。
疑うべきは自分自身ーーーそれが上演したいと思った動機です。

原子力が未開だった1920年代に書かれたこの本に放射線は登場しませんが、核分裂という莫大なエネルギーの連鎖反応がわたしたちの細胞や遺伝子に作用を及ぼし続けるように、人間の行動や言動は発した途端に運動を始め、作用が続く。
そのことにかなり無自覚なプロコプからは、原作の意図しなかったあやうさが見えるように思えました。
チャペックのSF空想小説は、わたしのなかに諸々の妄想を広げていったのです。

しかし、「何がやりたいのかわからないーーー」と、わたしの言葉のマズさや不足、わたし自身の欠陥と無能さを思い知らされる日々。
自然、稽古場は俳優たち自身が考える場、動く場、話す場、となりました。
スタッフワークでも、大道具・小道具・衣装それぞれが知恵を絞って得意分野を生かして、フルに動いています。
ブレヒトの芝居小屋で新作をつくる最後の時間。
稽古場に感謝しつつ、おもしろい恐ろしい舞台になることを目指します。

(脚本・演出/小森明子)

ーーーーー
クラカチットの公演にあたって

私の翻訳家としてのキャリアは、遅まきながら1992年の、まさにカレル・チャペックの『クラカチット』の翻訳出版によって実質上始まる「楡出版、その後青土社に引き継がれる)。
とはいえ名声もキャリアもない無名の自称翻訳家が己の成果を顕示すためには、それなりの苦労が要る。
その苦労については以前、どこか別のところで述べた記憶があるのでここでは略す。

ところで、我が国での読者の反応は、いささか冷淡だと言ってもいいほどのものだった。
翻訳者自身はきっとすぐにも版を重ねることになるだろうと期待していたのが、そうはならず、(出版社側の言い分によれば)一向に売れなかったとーーーー。

ではチェコ人にとってはどうだったのだろう?
チェコ文壇の大御所、作家イヴァン・クリーマはチャペックの評伝『カレル・チャペック』(拙訳・青土社2003)で述べている。

『クラカチット』は空想科学小説である以上に、はるかに多くのこと、かなえられる愛についての、また、自分の可能性をはるかに超える大きな、むなしい願望についての比喩にもなっている。
最後に読者の心に残るのは、危機と絶望からの脱出の道をさぐろうとする哲学的思索というよりは、むしろ謙虚な和解の響きである。
このロマンにおいてチャペックは私事的主題を仮構の物語と自分の哲学のもとに、緊密に結びつけ、最高の成果をあげた。
まさしく、その結合のゆえに『クラカチット』はカレル・チャペックの頂点を極める作品の一つと見なすことができると評価する。

カレル・チャペックがほぼ百年前(正確には1924年)に発した警告は今でも有効であることは先日の、もの別れに終わった米朝会談からもわかる。
それは、チャペックの警告の延長線上にあるものだし、なぜか『クラカチット』のデーモンのセリフを思いだしてしまった。
現代の世界の情勢を見てみても、相変わらず、戦争は世界中のどこかで、絶え間なく起こっている。
それにまた、核兵器を持とうと望む、あるいは、より強大なものを作ろうとする企てもなくなろうとしない。

デーモンのセリフには次のようにある。
「おわかりですか?あなたは世界を支配することになるんです。クラカチットと電信局を操ればね。あなたのお望みのところにクラカチットをパラパラっと。そして決められた時間に大爆発。何日かすれば奴らは和平を求めてきます。地球を一つの国家にすることだってできる。あなたが世界になるのです」

そんな国際情勢の中で、東京演劇アンサンブルがこのテーマを取り上げ、苦心の末、舞台用の台本を作り上げ、上演の運びにまでこぎつけたことは、アンサンブルの公演史の中でも特筆すべき出来事だと確信する。

(翻訳/田才益夫)

ーーーーー
21世紀にも通じる科学
   および技術の正邪の両義性

『クラカチット』が書かれたのは1924年で、欧州の人々にとって空前の悲惨な体験だった第一次世界大戦の終戦(1918年)の直後です。
大戦で初めて大量殺戮兵器が使用されました。
毒ガスがそれで、本作でもその体験を主人公のプロコプに語らせています。

科学や技術の両義性、すなわち、科学や技術の果実は人々の幸福のために使われる義にもなり、戦争などで人々を不幸に導く悪にもなりうるという事実は、ドイツ帝国の毒ガスの開発と実戦使用の指揮を執った科学者のフリッツ・ハーバーによって体現されています。

ハーバーらは、空気の体積8割を占める窒素を工業的に(即ち採算がとれるほど安価で大量に)アンモニアとして固定する方法を1906年に発明し、そのアンモニアを原料に窒素肥料が作られて食糧が増産され多くの人々が救われ、賞賛を浴びました。
その一方、同じ合成アンモニアはニトロ基の非天然的供給源として使われ、それを用いたニトロ系爆薬が第一次世界大戦で破壊のために使われます。

こういう時代に、核兵器を思わせるフィクションの「爆薬」である「クラカチット」(名称は1883年大噴火したクラカタウに因む、2018年にも山体崩落)を登場させ、それを巡る人々の思惑を描いたのが本作です。
粉末状であること、電波によって爆発する設定、放射線の害が語られていないのは、科学的知見が乏しかった当時の事情によりますが、「学問的興味」が大量破壊兵器を生む科学者・技術者の社会的倫理・道義の問題は、約100年経った21世紀の現代にも共通です。

上に述べた合成アンモニアの「民」から「軍」への移転とは逆に、第二次大戦後は核兵器、ミサイル、軍事電波技術から原子力発電所、民生用人工衛星、民生用電波技術という「軍」から「民」への移転がありました(但し原子力発電が幸福につながるのかは甚だ疑問)。
21世紀初頭の現代は、民生用で大発展した情報通信技術および宇宙技術(この2つは出発点は軍事用)や最近急成長した人工知能(AI)といった技術を、戦争のためあるいは監視社会化のため、あるいは監視社会化のために使用することが画策されています。

科学や技術が社会でどう使われるのかに無頓着なのが21世紀初頭の現代の日本の科学者・技術者の陥りがちな態度です。
しかし、昨年(2018年)戦争利用を拒否する声明を出したテスラ社やグーグル社の一部の社員のように、専門知識を持つ者として社会的責任を果たすべきです。
科学者・技術者も恋もすれば生活もする人間なんだから。

(石附澄夫/国立天文台・天文学)


ーーーーー

人間てどんな生き物だ?
クラカチットはチャペックが生み出した架空の物質だが、わずかな量でとんでもない力を発揮する人間の手におえない物質というものが実在して、それが莫大なお金を生んだり外交のカードに使われたりするのが当たり前の世界に生きる現代の私たちには、その悍ましさがより身近に感じられる。
クラカチットは二度の爆発を起こし多くの人が犠牲になる。

私は考える、一体プロコプはどこで人間の道を踏み外したか?

それはクラカチットを作り出した時ではなくクラカチットに価値を見出し利用しようとした時なのではないか。
危険で厄介な代物であったクラカチットを、戦争のためであれ世界平和のためであれ利用できる有用なものであると認識した時に、彼は人の道を踏み外したのではないか?
彼は自分で自分の生み出したクラカチットの価値を転換させてしまった。
そのことに気づかず「どうして私はこんないろんな目に遭ったんですか」と最後に神様に問う。
神さまは「原因があんたの中になかったのなら、あんたの発明の中にもなかったはずじゃ。人間が自分からそれを作りだすんじゃ。いいかな、この際、よう考えて見るんだな。」と答える。

私事だ、去年子どもを産み一児の母になった。
小児科の先生が「子どもはどうすれば親から愛されていると感じると思いますか?
それは子どもが心地よく過ごしていると感じること。その積み重ねです。」とおっしゃっていたことを思い出す。

愛、思いやり、やさしさーーー

暗い欲望を実行するのを阻止するものがそういう身近な愛であればいいと思う。
使命感や正義感や義務や命令でなく。

プロコプは間違える。
人の道を踏み外してそのことに鈍感である。
私はプロコプの鈍感さに割り切れないじくじくとした嫌悪感を抱きつつ、同時に鏡を見ているような思いがする。
人間てどんな生き物だ?
「クラカチット」が私にずっと問いかけているようでならない。

(脚本/桑原睦)







ーーーーーー
■あらすじ

①プラハ
プロコプは新型原子爆薬「クラカチット」の製造に成功する。
直後、予期せぬ爆発で大怪我を追ったプロコプは、友人トメシュに助けられ、その製造の秘密を明かす。
借金まみれのトメシュは、金策のため実家へ戻ると告げて姿を消す。
そのトメシュを訪ねてひとりの女性がやって来る。
自殺をほのめかしていたトメシュを追って、小さな包みを届けて欲しいというヴェールの娘。
その娘の一途さにほだされたプロコプは、トメシュを追う旅に出る。
それは「クラカチット」をめぐる長い旅の始まりだった。

②ティーニツェ
トメシュを追って実家を訪ねたプロコプは、大病で倒れる。
目覚めたプロコブは記憶をなくしていた。
そこでトメシュの父のドクトルと娘のアンチに手厚い看護を受け癒された。
そのプロコプの目に、新聞の3行広告が飛び込んでくる。
「尋ね人  クラカチット!住所をしらせられたし カーソン」

③カーソン
慌(あわ)ててプラハに戻ったプロコプだが、トメシュの手掛かりが掴めぬまま自分の研究室に入った。
そこに新聞広告の主カーソンがやってきた。
カーソンは、あれやこれやと言って「クラカチット」を手放せと迫る。

④バルチン
トメシュの居場所を知るカーソンに連れられて、バルチン王国を訪れたプロコプは、そこで軟禁状態に置かれていることを知る。
自由を奪われたなか、プロコプは王女ヴィレに出逢い恋に落ちる。
東京演劇アンサンブルが約40年間拠点として来た「ブレヒトの芝居小屋」最後の本公演は、本邦初、チェコを代表する作家カレル・チャペックのSF長編ロマンの脚色上演。
小森明子、桑原睦の書いた本をベースに、稽古場での討議を経て脚本が作られた。

⑤デーモン
ヴィレとの恋に破れたプロコプは、実業家のデーモンに拾われる。
デーモンは巨大な電信局を所有していた。
そこでプロコプはヴェールの娘に似た娼婦に出会う。

⑥グロトゥプ
デーモンからトメシュの居場所を聞き出したプロコプは、トメシュのグロトゥプ爆薬工場へたどり着いた。
そこで、工場の係員にトメシュに会いたいことを求めた。


王女ヴィレとの大恋愛は、伝統に縛られて生きる王女と監禁されているプロコプの解放と自由を意味していた。
それとも恋愛の破壊だったのか。
否、何も王女との恋愛だけではなくプロコプはどの女性とも、可能なものではなかった。
実業家・デーモン、新聞広告主のカーソン、この二人だって何を考えていたのだろうか。
デーモンは巨大な電信局を持ち、自分の作戦のことをイの一番に考え、新聞広告主人のカーソンだって、王女を巻き込み自分の作戦を練った。

ところでプロコプは、この「クラカチット」が末には原子爆弾という極めて破壊的な兵器になるとは知らなかったのだろうか。
何故、こんな大量殺戮破壊兵器になるであろう、こんなモノを作ってしまったのだろう。
原爆の予告を意味することになった。
そんなことを秘められていたのが、不思議な気がした。

※原子爆弾の予告編とも考えてみた。


ーーーーーー
■作品について
原子爆薬……まだ原子核の中に陽子しか発見されていなかった1923年、SFならではの発想で書かれた『クラカチット』。

科学的には荒唐無稽だが、後のアインシュタインら科学者の責任と後悔を先取りした問題意識が描かれる。


純粋な科学的追究であれ、莫大なエネルギーの放出が人間や地球に何をもたらすのか?
それを考えずに開発に走ってよいのか?


制御不能な爆薬を作ってしまった主人公プロコプに対する問いは、そのまま原子力政策を推し進める日本初め世界各国への問いとなる。


プロコプに対してくり返される問い「何のために?」
また、この新型爆薬の強大なエネルギーに吸い寄せられるように様々な誘惑がプロコプを襲う。

男たちは囁く――戦争、名誉、金、自由な研究、世界の覇者……。
女たちは誘う――清楚、若さ、情欲……。
プロコプは自分の中に様々な欲望が渦巻くことを知る、
そんな自分だからこそ、クラカチットを造ってしまったのだということを。
人間の好奇心は留まることを知らない。
それが人間の原動力である一方、それは破滅へ向かう道にもなり得る。

第一次世界大戦を経験したチャペックは、
『ロボット』『山椒魚戦争』『絶対子工場』『クラカチット』などで繰り返し破滅への警鐘を鳴らしてつづけている。


カレル・チャペック/作 
田才益夫/訳 
(楡出版刊『クラカチット』より)
脚本/小森明子+桑原睦
演出/小森明子
音楽/国広和毅
衣裳協力/稲村朋子
音響/島猛
振付/原田亮
舞台美術/入江龍太 
照明/真壁知恵子
映像/三木元太
宣伝美術/奥秋圭
制作/太田昭
※ 入江龍太さん、体に注意してくれよ。
出演
プロコプ     雨宮大夢
イジー・トメシュ 大橋隆一郎
秘書       山﨑智子
大プリニウス   坂本勇樹
ヴァルト教授   松下重人
ヴェールの娘   正木ひかり
アンチ      仙石貴久江
ドクトル     浅井純彦
ナンダ      奈須弘子
カーソン     公家義徳
ハーゲン公    坂本勇樹
ヴィレ王女    永野愛理
ホルツ      小田勇輔
ローラウフ中尉  篠原祐哉
ドレーバイン   真野季節
ポール      永濱渉
シャルロッテ伯母 志賀澤子
デーモン     松下重人
ジョン      洪美玉
ロッソ      永濱渉
娘        正木ひかり
門番       小田勇輔
助手       篠原祐哉
少年       山﨑智子
老婦人      原口久美子