2019年4月8日月曜日
金田一春彦の「日本語のこころ」
日本エッセイスト・クラブとは、昭和26年6月に結成されたこの種のものとしては我が国としては最も権威ある組織だ。
評論家、随筆家、著名作家、新聞記者、編集者、俳優、医師、主婦等の一般人に至る現在380名の会員を擁している。
昭和28年以降毎年、日本エッセイスト・クラブ賞を選定し、エッセイの振興に努めている。
多士済々、立派なエッセイが綴られていた。
その中から、今回は金田一春彦氏の「日本語のこころ」を、素晴らしかったとか優秀だったとかでではなく、私の日頃の生活のなかで、内容が普段っぽく、興味深く感じたのでここに抽出させてもらった。
私の友人たちにも、この種の読み物を読ませてみたくなった。
私はこの金田一春彦のことは何も知らなかったが、父の金田一京助氏のことは国語辞典でよく知っていた。
金田一京助はアイヌの言語体系を整理、探求に一生を捧げた。
京助がいなければ、アイヌ語は残らなかったともいわれている。
「アイヌは偉大な民族だ」、「あなた方の文化は、決して劣ったものなどではない」と強調した。
今回の本には、プロアマの枠を超えた61名のかたがたの、各人各様で各種雑多!妙妙とした美辞麗句が、頗(すこぶ)る読みやすくて楽しかった。
面白さ満載、今後このエッセイ集の虜(とりこ)になりそうだ。
その中で、簡単に読みきるだけでは納得できないシロモノ(こんな行儀の悪い表現では怒られるかもしれないが)があって、今の時期、私の都合に合わせて転載させてもらいたいと思った。
日本のエッセイスト・クラブ編
’00年版ベスト・エッセイ集
日本語のこころ
金田一春彦(玉川大学客員教授)
イギリス人に日本語を教えていた時のことである。
「先生!『腰を掛ける』というのはどうすることですか?」と聞く。
こんなことも知らないのかと、私は椅子を引き寄せて腰を掛けてみたら、彼は「先生は尻を掛けました、腰を掛けてはいません」と言う。
なるほどそう言えばそうだ。
日本語では、肉体に関してあまりはっきり言わないことがある。
『膝枕(ひざまくら)』と言うが、関節のあるごりごりしたところを枕にして寝ることだ。
『小耳にはさむ』は小さい耳で聞くのではなく、ちょっと耳にとめることだ。
『大手を振る』は大きな手を振るのではなく、手を大きく振ることだ。
『後ろ指をさされる』も、人間には鶏などと違って後ろ向きの指はない。
後ろから指をさされるの意味だ。
日本語はよく論理的ではないと評価される。
アメリカへ行って理髪屋へ入り、『頭を刈ってください』と言って、驚かされたという話がある。
たしかに頭を刈ったら頸から上がなくなってしまうだろう。
あれは頭を刈るのではなく髪を刈るのだ。
『昨日病院へ行って注射して来た』と言ったら、ドイツ人に「君は誰に注射を打ったんだ?」と聞かれたそうだ。
なるほど『注射して来た』のではなく注射してもらって来たのだ。
写真屋に行って写真を撮ってもらったことも、「写真を撮った」というのが一般的である。
我々は『提灯に火をつけた』と普通に言うが、ドイツ人は「提灯の蝋燭に火をつけた」と言うそうだ。
『お湯を沸かす』、『飯を炊く』は変だ。
あれは「水を沸かす」、「米を炊く」だ、というのは弥次喜多の膝栗毛に出てくるのでよく話題になる。
この類のことは多く、野球で『ホームランを打つ』は投手の球を打ってホームランになったと言うべきことになる。
落語で与太郎が父親に、「お前もそろそろ嫁をもらわにゃいけないな」と言われ、びっくりして「俺が誰の嫁さんをもらうんだい」と聞き返す。
「お前の嫁をもらうんだよ」と言われ、「親父も変なこと言うなあ、『お前の嫁』ったって俺は嫁なんかもっていないし、自分で自分のもってる嫁をもらってもしょうがねえじゃねぇか」と言う。
たしかに、与太郎がもらってくるのはどこかの娘さんで、それが与太郎のところへ嫁いではじめて与太郎の嫁になるわけであるが、このような場合、「娘を嫁にもらう」と言わずに、簡潔に『嫁をもらう』と言うのが日本語の言い方である。
一般に日本人は短く言おうとすることが多い。
食堂に入って、「こちらは何になさいますか」と聞かれ、「ぼくはウナギだ」と答える。
別にウナギのような髭の生えた男でなくてもそう言う。
これは私が以前本に書き、文法学者の間で話題になった。
同じようなものに「あそこの店の寿司はうまいよ」と言わずに、「あそこの寿司屋さんはうまいよ」と言うことがある。
先に触れたドイツ人が理屈っぽいことは、「ぼくは昨夜実験室に行ったが誰もいなかった」と言うと、「お前がいたじゃないか」と言うそうだ。
ドイツ人はその場合「ぼくは昨夜実験室へ行ったが、そこには僕以外には誰もいなかった」と言うのだそうだ。
アメリカ人に日本語を教えている時にこんな質問が出た。
昨日、本屋へ行って、「漱石の『坊ちゃん』はありますか」と聞いたら、「ございませんでした」と言われた。
『坊ちゃん』がないのは現在の話です。
それなら「ございません」というのが正しいので、「ございませんでした」は間違いでないかと言うのである。
理屈で言えばたしかにそうだ。
然し、もし本屋が「ございません」と言ったら、言われたお客はあまりいい感じをもたないだろう。
「ございませんでした」と言う方がいい感じをもつ。
何故だろう。
ここに大切な問題がある。
本屋さんはこういう気持なのだ。
「私のところでは当然『坊ちゃん』を用意しておくべきでありました。
然し、不注意で用意してございませんでした。申し訳ありません」と言って自分の不注意を詫びている、その気持がこの「でした」に現れており、それをお客は汲み取るのである。
日本人は短く言おうとする一方、自分を責めて相手に謝ろうとする。
それは常に相手を慮(おもんばか)る日本人の優しさの現れではないかと思う。
お手伝いさんが台所でコップを手からすべり落として、コップが割れてしまったとする。
日本人はこのような時「私はコップを割りました」と言う。
聞けばアメリカ人やヨーロッパ人は「コップ(グラス)が割れたよ」と言うそうだ。
もし「私がグラスを割った」と言うならばそれは、グラスを壁に叩きつけたか、トンカチか何かで叩いたような場合だそうだ。
「私がコップを割りました」というような言い方をするのは、日本人にはごく普通の言い方であるが、欧米人には思いもよらない言葉遣いかもしれない。
これは日本人の責任感の強さを感じさせる。
自分が不注意だったからコップが割れたので、割れた原因は自分にある。
そういう意味では自分が壁に叩きつけたりしたのと同じである。
そう思って「私が割りました」と言うのだ。
そう思うと、この簡潔な言い方の中に日本人の素晴らしい道義感が感じられるではないか。
誰が言い出したか、教えたか分らないが、日本人にそういった気持を根付かせてくれた先祖たちに謹んで頭を下げたい。