2007年1月30日火曜日

星野の仙ちゃん、球界改革もたのみます。

北京五輪・星野ジャパン船出

燃える男

闘将 

25日、星野仙一・前阪神(60)の08年北京五輪出場を目指す野球の日本代表監督就任が正式に決定した。その記者会見での会見内容と、星野新監督の、記者に笑顔で応えている写真が載っていた。

コーチを、田淵幸三、山本浩二、大野豊の3人に要請しているとのようだ。

星野新監督の顔が青年のようにピカピカに輝いている、その顔に目が釘付けになった。今の心情を少年の気持ちのようになったと、話したとも書いてある。なんちゅう、こっちゃ、サンタルチア だ。

「少年のような気持ち」になった、なんて。よくぞ、ぬかして(言って)くれたなあ。私は、目蓋が熱くなって、新聞を握る手が震えた。つい、弛んだ口からご飯粒を、こぼしてしまった。瞬間、犬のツバサがご飯粒をパクリ、ご相伴にご満悦。

この記事を見つけたのは、毎朝幸せ気分が大いに高まる、朝飯中のことだった。

何じゃ、このオッサンは。何で、こんなに嬉しそうな顔ができるのだ? 星野さんを、最後にテレビ等で観たのは、阪神球団のゼネラルマネージャーを辞める発表記者会見だった。体の、不調を訴えていた。表情は曇っていた。会見後、会場から去る星野さんの背中が、非常に寂しげだった。

女房に、あの時は大変辛そうだったよね、と聞いたら、彼女は「あれはねえ、気分の問題だったようだよ」と、なんとも冷静なコメント。

年齢が60歳と、記してあるではないか。還暦だ。私も、後2年経てば、還暦です。

団塊世代の定年退職が、全国的に昨年頃から始まった。弊社にも、社内で最初に還暦を迎える川出のオヤジがいる。川出のオヤジは、今、脂がのりのりで、旬。働き盛りだ。謙虚な人柄故、若い奴らには絶対負けません、とは決して言いませんが。コンピューターを自在に操り、作業の質と量は抜群だ。

星野さんと、弊社の川出のオヤジは、団塊世代の生き方の見本を示してくれている。同輩・後輩には、ありがたいお手本だ。

それに、コーチ陣の人選に、心憎い配慮。よくも、あの方々を選んでくれましたね、私は非常に嬉しいのです。私が、好きだった人、私に、失望ばかり与えた人、私をいつも奮いたたせてくれた人。

星野さんには、何故、こんなにもファンが多いのだろうか? 少し思い巡らせてみよう。

中日時代には、投手として監督として、あの、憎(ニック)らしい巨人を相手に、全力で戦ったイメージが、脳裏から離れない。

ON全盛時代、巨人は前人未踏の9年連続日本一に輝いた。私、アンチ巨人にとっては、地獄だった。10連覇を阻止したのは、中日だった。中日の投手陣の要が星野投手で、その年の沢村賞の栄誉を受けた。さぞかし星野さんは、気持ちよかったことでしょう。

私は、いまだに、巨人に対してだけは、嫌悪感を持っています。華麗なプレーを見せてくれた長島茂雄さんに対しても、彼の非凡な才能には喝采を送ったが、それ以外、何も魅力を感じない。人間的魅力を何も感じない。彼の言動、チンプンカンプンだ。

バックに巨人球団がいて、読売新聞社がその巨人球団の株主で、そのオーナーが、正力某から悪名高い渡辺恒夫氏に、そして現在の滝鼻氏に代ってはいるものの、その巨人球団の体質は、スポーツとしての野球の根源も理解しないで、興行的感心・打算のみで球界を牛耳ろうとする企業体質が、イヤなのです。

それも、自球団だけの利得を優先させ、他球団を見下すやりかたは、ヤクザチックでもあるぞ。よって、巨人球団から輩出される有名人が、何を仰っても信用することはできません。

そんな巨人に、全身敵意丸出しで戦った。

コミッショナーも可笑しい、オーナー会議もオカシイ、唯、選手会だけは、真剣に明日の野球を考えている。

そんな、変な球界が心配でしょうがなかった矢先に、星野新監督の情報が入ってきた。星野さんは、私がグダグダ言っていることについては解っていただけると、確信しているのです。全日本の監督になって、成果を出していただきたい。そして、腐った球界の一部のボスに目を覚まさせて欲しい。

星野さんは、選手、監督、解説者、球団フロント、夫、父、傍観者、市民、をやってこられた。全てが、お見通しだ。

恵まれない子供達に、選手を支える奥方さまに、心配りをする星野さんには、野球界のゴタゴタや、改革しなければならないことが、痛い程感じておられると思う。球界の未来の理想像も見えているはずです。

球界へのご意見番になって欲しいのです。ヤクザチックな、球界悪餓鬼を追い払って欲しいのです。こんなゴロツキに球界が殺されかねないのです。

このことについては、後日改めてお願いしたいと思っている。

2007年1月26日 朝日

闘将の手腕 みせどころ       (山田佳毅)    

ユニホームーを脱いで3年あまり、22日には60歳になった。「自分を育ててくれた野球に恩返ししたい」。星野氏にそのチャンスがようやく来た。

いかに選手に普段の実力を出せるかが手腕の見せどころだ。ベンチのいすを蹴り上げたかと思うと、殊勲の選手を強く抱きしめる。感情を素直に表し、周りのやる気を引き出してきた闘将には最適の役といえる。

グラウンドの外でも、準備に抜かりはなかった。04年のアテネ五輪はテレビの解説者として赴いた。「いろいろ勉強させてもらっているよ」。そう電話で話す声は弾んでいた。この日、予選で戦う韓国、台湾チームについて問われると、「8割くらいのデーターはもう出している」と明かし、驚かせた。

ホームページや自分の言葉で「日本よ、しっかりしろ」とゲキを飛ばす。「もっと日の丸を意識してもいい」と、選手には伝えるつもりだ。中日、阪神の監督時代は3度、4勝で決まる日本一に挑み、いずれもかなわなかった。初期決戦をいかに戦うのか。

数日 後

星野全日本新監督に、北京五輪の健闘をお願いした。ついでに、いい成績をあげてもらって、それから、野球を愛するファンのために、球界のゴタゴタ整理の旗振り役を任じて欲しいと思って、拙文をだらだら書き綴った。そんな直後に、社説に取り上げられていたので、転載させていただいた。

2007年1月29日 朝日 社説

「お飾り」はいらない  プロ野球   

プロ野球が組織と運営の見直しに動き出した。半世紀以上も前にできたプロ野球協約に基づく仕組みは、現状に対応できなくなっている。改革は遅すぎるほどだが、それにしても及び腰に見える。改革の最大の狙いは、球団間の利害に引きずられ、思い切った手が打てない現状を変えることだ。そのためには、協約で「野球組織を代表し、管理統制する」となっているコミッショナーの役割や権限を明確にすることが必要だ。

コミッションーは、ずっと外部から招かれていて、04年2月に就いた11代目の根来泰周氏は法曹界の出身だ。東京高検の検事長や公正取引委員長を務めた。

歴代のコミッショナーのなかには協約通り、真剣に球界の刷新に取り組む人もいた。しかし、オーナーに煙たがられて成果を上げられなかったこともあり、多くは、功なり名を遂げた人による「お飾り」という印象が強い。

招くほうも招かれる方も、それでよしとしてきたのが近年の実情だ。しかし、これが04年に起きた球界再編やスト騒ぎの混乱を増幅したのは間違いない。

刷新案では、経営部門と紛争の処理部門を分けて独立させる。経営方針の決定は新たに設ける「最高運営会議」が担い、その議長をコミッショナーが務める。一方、コミッショナーが指令や裁定を示してきた球団や選手間の紛争解決は、第三者機関に任せる。

これが実現すれば、従来のコミッショナー像は大きく変わる。

疑問なのは、コミッショナーが会議の議決権は持たない方向で検討されていることだ。これまでオーナー会議では、オブザバーでしかなかったコミッショナーが、議事を進行するようになるのは前進かもしれない。しかし、権限がなければ、会議に伴う作業をこなす「事務局長」のような役回りにならないか。また、この会議には球団の代表に加え、親会社の代表も含める考えのようだ。メンバーが増えるほど、責任の所在はあいまいになりがちだ。

スター選手は、大リーグに流れ出し、野球人気は低迷している。ドラフトの裏金に代表される経営の不透明さや、一部の人気球団を除けば赤字が続く体質を改めるのは容易ではない。

この危機を乗り越えるには、個々の利害を超え、球界全体の将来をにらんで行動できるようなコミッショナー制度が必要だ。企業の最高経営責任者(CEO)のような存在である。

米国の野球やバスケットボールなどの大きなプロスポーツは、それが原則になっている。

刷新案の骨格は根来氏が作り、先日のオーナー会議で承認された。これを基に協約の改訂作業が始まり、年内にも改定される見通しだ。

コミッショナーが弱ければ、プロ野球全体も弱くなるという覚悟で、球界は臨んで欲しい。

 

 

2007年1月24日水曜日

伊勢神宮に御参りしてきました

神様、私は決して神頼みは致しません。

神様には、我々の行動を静かに見守っていただければ、それだけで、いいのです。

1月17日 伊勢神宮にお参りしてきた。

我社は女性を除く社員全員、1月5日に、例年通りに新年の挨拶をそこそこに、寒川神社にお参りをした。お参りを終えるやいなや、会社に戻って、出前のつまみで酒をたらふく飲んで、各自、今年の抱負を語り合った。

翌日から、激しい実業の世界に突入。三々五々、情報を求めて散った。仕事の開始です。

私には、課せられた重要な仕事があったのです。伊勢神宮に会社を代表して参ることです。

休日を利用しての参拝だから、社員を同行させるには、気がひける。飯つき、泊まりつき、ただし運転つき、で喜んで参加してくれるハルタさんが、去年同様付き合ってくれた。

ハルタさんのドライブさばきは、私の仲間では珍しく、慎重派。安全運転です。でも、どういう訳か、交通違反の累積点数がレッドゾーンらしいのだ。

昨年初めて参拝した。

伊勢神宮の規模の大きさに度肝を抜かされた。参拝者の多さにも驚かされた。どの神殿にも、昨年、無事に仕事を乗り越えられたことの報告と感謝。今年も、大過なく過ごせることを祈願した。

手を合わせて、お祈り中、社員の全ての名前と顔を頭に浮かべた。喜多方の先輩から、お祈りの作法として、教わった通りにした。家族の全ての名前と顔も浮かべた。会社の電話番号、住所、フャックス番号、車の番号、車種、ありとあらゆる、思い浮かぶものは、なんでもかんでも頭に浮かべて、無事に一年間を過ごせますように、と祈ってきた。

又、喜多方の先輩から、「ヤマオカ、参道の真ん中を歩くな、真ん中は神様が歩かれるのだ」と。私は、忠告通り、ぎりぎりの側を歩いた。

 

 

私には強い誓いがあるのです。神様には、神頼みを決してしません、と誓っているのです。そういう事態には、ならないように予知、察知能力を研鑽しながら、避けるようにしなければならない。このことを業務の遂行上、一番留意しているのです。

神様には、静かに、健闘する我々の行動を、見守ってさえいただければ、それでいいのです。神様、気長にお付き合いください。神様には、絶対、負担をかけません。

経理部長の澤大さん、私、今年は命がけで仕事しますから、来年は、今回のビジネスホテルではなく、風呂に入れて、浴衣に着替えて、一杯お酒をいただけて、ゆったり寝られる空間さえあれば、いくら質素でも十分ですから、そんなことを考慮して予約してみてくりゃさんせ。つつましく生きたいと思う私の本性を、よくご存知でしょ。古くても構いません、豪華は身に合いません。けっして、上等・高級を求めてもいません。仕事を頑張りますさかいに。

外宮・内宮・猿田彦神社を参ってきた。そのそれぞれの神社のことを紹介することにする。

伊勢神宮は日本人のふるさとといわれ、「お伊勢さん」「大神宮さま」とも呼ばれてきた。正式名称は「神宮」といい、宇治の五十鈴の川上にある皇大神宮(内宮)、山田原にある豊受大神宮(外宮)の両神宮を中心に14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管舎がある。

天照大御神をおまつりする「内宮」は、皇室の御祖先神として尊ばれ、また、国民の総氏神と仰がれています。

豊受大御神をおまつりする「外宮」は、五穀豊穣、衣食住の守り神としてあがめられている。

猿田彦神社は~

ものごとの最初に現れ、万事最も善い方へ、“おみちびき”になる大神です。建築、方除け、災難除け、海運、事業発展、五穀豊穣、大漁などに御神徳があるといわれている。一見怖そうな神様ですが、実はシャイで女性に弱いとか、、、、海で溺れてしまうあたりも憎めないエピソードです。(当 神社の発行パンフより、転載させていただいた)

 

  

 

 

2007年1月20日土曜日

ゴンは、専守防衛主義犬でした

名犬ゴンは、専守防衛主義に徹した。  

昨日、ゴンの犬仲間のH君とその保護者が、我が家にゴンの状態を看に来てくれた。ゴンは既に骨壷のなかに入っていることに、残念・無念と、保護者は悔しがった。

H君も、ちょっと何かが違うぞ、と察しているようだった。その顔が何かしら、淋しげに思えたのは、俺だけかな。

そこで、話題になったのが、ゴンの日常の生活態度が平和主義者然としたもので、相手に攻撃を仕掛けるようなことは見たことないですね、と言うことだった。

そう言われれば、小型犬なら幾ら嫌らしく付き纏っても、こつこつゴンの体を舐めまわしても、全然意に介しない。大型犬が近づいてきても、危険を感じさせない奴には、無関心。

不意に大型の乱暴犬に出くわす時もあったが、ゴンは、相手の動きをしっかり見続けながら、何か起こったときには、いつでも、どうにでも動ける態勢で、沈着冷静、相手が通り過ぎるまで見届ける。

けっして、自分からは絶対にしかけない。

この、ゴンの振る舞いこそ、平和を維持する基本的な秘訣があるように思われた。

関係閣僚等の失態が暴露され、下降気味の安倍支持率。

安倍総理は人気挽回を狙ってなのか、自民党大会においては当然、機会あるごとに、日本国憲法の改正(何が改正なのか、よくわからんが?)を叫ぶ。

何故? どうして? どのように変更したいの?

そこが見えてこないのに、何故、改憲だとか、加憲だとか、気楽に言うのだろうか。

新聞・放送などでは、政府・与党の発言がとりあげられる機会は多く、そして大きく取り扱われる。なんだか、世の中の大半が日本国憲法の改正をあたかも望んでいるような、報道のされ方に、疑問をもっていました。

私は、護憲派の誠実かつ過激な一人です。体制側言論人に抗して、護憲派の皆さんは、声を大にして、踏ん張って欲しいと思っています。

そんな折、朝日新聞 私の視点 ウイークエンド(2007年1月13日)での 平川克美氏(リナックスカフェ社長)の憲法改正についての主張が、動揺する私の心を、安心させてくれた。

9条 「理想論」で悪いか  

国論を二分するような政治的な課題というものは、どちら側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵があるものである。そうでなければ国論はかようにきっぱりと二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。

政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うこと実現してしまうのが、人間の歴史というものである。

その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接の利得がある好戦論者を除外すれば、この度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。

9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験をもつ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行憲法を守ってゆくべきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の中で国益を守るには戦力は必須であり、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。

なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば、必ず両論は膠着することになる。

では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。

「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。私は、この前提には全く異論がない。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。

もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が億段に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が、刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。

現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。

2007年1月19日金曜日

久々に、母校の試合の応援に行った

14日、国立競技場に、久々に母校の試合の応援に行った。サッカーの全日本大学選手権の決勝戦があったのです。母校・早大と上位定位置でお馴染みの駒大との対戦でした。とにかく、試合を観るなんちゅうのは、本当に久しぶりだった。栄光の歴史に輝く我がチームが、1部から2部落ちになるかもしれないので、OB等、関係者に応援のための緊急集合がかかったことがあった。今から10年程前のことだ。その時、私は、経済地獄の真っ最中だったけれども、なんとか参加した。その後、息子の参加した高校の試合だけです、試合ちゅうのを観に行ったのは。今回、決勝戦だということになれば、話は違う。いかにモノグサな俺だって、虫唾が走る? じっとしていられなくなって、青ちゃんに乗せて行ってよとせがみ、近所の子供・シュンちゃんを誘い、観戦に行こうか、行くまいかと悩んでいた後輩マサカッチャンを強引に誘い、頭の中100% 本格的応援モードに入った。私には、計算があった。来てくれた奴等には、必ずいい気分を味わってもらえる筈だ、と自分なりに勝利を期待していた。

私は、昔使っていたユニフオームを着て、応援した。母校の応援旗を会社に置き忘れたのが、悔やまれた。

ところがじゃ、どうしたことじゃ。

結果は無惨な1-6の完敗に終わった。内容は、新聞記事が的確に伝えているので、朝日新聞(2007年1月15日 朝刊 スポーツ欄)記事を転載させていただいた。

パワーで技ねじ伏せる  駒大 早大を圧倒    

力の駒沢に技の早稲田。そんな図式の対戦は駒大の力強さが完全にまさった。迫力あるセットプレーが、タレントをそろえ速いパス回しが得意な早大を押し切った。

象徴的な存在だったのがFW巻。ロングボールにはポストとして積極的に絡んでいき、前線からの献身的な守備で相手DFを圧迫する。前半6分、FKからのこぼれ球を押し込んで先取点をあげると、同34分にも左CKから得意の頭でねじ込んだ。「いいところにボールを運んでくれたチームメイトに感謝する」

後半早々にも、MF小林の追加点で、追いかける早大に気概をそいだ。ゴールラッシュの6得点で3連覇に花を添えた。

3連覇は史上4校目の快挙だ。「うちがやっていることは毎年変わらない。サッカーは体と体がぶつかるゲーム。練習から競り合いを怖がらないチームを作ってきた。」と秋田監督。FW原も「3連覇がついてきた感じ」と振り返る。

「粘り強く体を張ったプレーが勝利につながった」と秋田監督。来季も同じスタイルで、前人未踏の4連覇を狙う。

私の観戦記    

高さで負けた。

頭で負けた。何も頭脳の話ではない。ヘッディングで、気力とくに闘争心、競り合い局面で3-7の比率で負けた。サッカーでは足も、頭も、腕以外の体は全て、ボールを繋ぐ道具であって、どれも等しく重要なのです。足からの出球は、相手に防御体制を組みし易い。スーパースターは別ですよ、彼らは、敵が予測できないパスを、足技巧みに味方に配することができる。が、このことは、ワールドカップ級のハナシだ。

キーパーも高い位置でのパンチングが弱かった。手を使えるのだから、誰よりも高い位置でボールに触れることが可能、その仕事をきっちりこなさなくてはならない。高い位置でのパンチを決行するときは、どんなことがあろうが、ボールに必ず触ること。そして、できるだけ確実に、できるだけ強く、できるだけ遠くへ、安全圏に、ボールを追いやらないといけない。だって、キーパーには唯一手を使える特権が与えられているのですから。

又、ヘッディングやキーパーのパンチは、思わぬコースにボールが進行する。それからチャンスが生まれることが多いのです。そういう思わぬできごとの連発が、サッカーがこれほどたくさんの人に愛されるようになった原点ではないかと、私は思っている。

又、デフェンスの連携プレーが悪く、結果的に最終守備ゾーンがズタズタに引き裂かれた。守備的プレーヤーだった私は、激しい屈辱を味わった。これが、本当の力なら恥ずかしい、と真剣に思う。

監督の勉強不足だ。

大榎監督は、個人的にも好きな人物だし、よくやってくれていると、日々感謝している。人工芝になった際、何か部として必要なものがあれば、微力ながら協力したいと申し出したときにも、私に表した態度は十分立派なものでした。学生の話もよく聞く、話のよくわかるも兄貴分らしい。先輩・ご長老の話に敬意を込めて聞く態度は、並みの男ではないことを、ようく、証明している。

2部から1部に這い上がって、そのままの勢いで、この大学選手権の優勝決定戦まで駒を進めてきた。選手は頑張っただろうし、指揮官もよくチームをまとめてきたな、と賞賛しつつ感謝している。ここまでの一戦一戦が大変だったことも、十分想像できる。

でもだ、そこでだ、戦略に甘さがあったのではないのか?

駒大はこの数年上位チームだ。常勝チームだ。結果、この大学選手権でも3連覇をゲットした。対戦相手は、そんな、大それたチームだったのだ。

ならば、過去の駒大のゲームの進め方、主力選手の個性を事前にどれだけ調査をしたのだろうか?と疑問をもった。駒大の監督さんは「粘り強く体を張ったプレーが勝利につながった」と仰っている。この言葉こそ、駒大の戦法を象徴しているように思われる。

1部復活1年目としては、超上出来なのですが、欲に限りはありません。多分今シーズンも、駒大は、駒大のやり方で頑張るでしょう。我がチームも、次回は、こんな負け方ではなく、立派に勝って欲しい。

早稲田の復活を、心から喜んでいます。できの悪かった、一先輩より。

2007年1月20日

先日の大学選手権の決勝戦における、我母校の戦いぶりについて、ちょっと偉そうに、ちょっと先輩ぶった批評をしたことを、気にしていた。

少し、気分が高揚していたのだろう、御免。

でも、~だ。大学の4年間は貴重な期間なのだ。

北海道から九州から、日本のアッチこっちから、東伏見のグラウンドを目指してやってくる部友たちとの邂逅。限られた期間、せいぜい、いくら長くても4年、1年先輩とは3年間、1年後輩とも3年間しか過ごせない。それも、この東伏見のグラウンドで、だ。そのかけがえの無さ、の意味を理解して欲しい。
貴重な時間、機会を大事にして欲しいのです。

当日、応援席には先輩のクボタさんにも、卒業後、初めて会ったが、長い空白の期間なんて一瞬に吹っ飛び、37,8年前に即タイムスリップできる。J1リーグ ジェフ千葉の淀川社長にも会った。彼と私は同期だ。4年間一生懸命、寝食共に過ごした戦友でもある。

オシムさんが千葉の監督を辞めて日本の代表監督になったり、今シーズン終了時には阿倍が浦和に移籍問題などがあって、「いろいろ、大変だね」と言うと、「おお、そや、、、、、、、ところで奥さん元気か?」

グラウンドで過ごした者同士は、もう、何も、いらない。顔を見れば、何もかも、お見通しなのだ。

そしたら、昨日、WMWクラブ会報(シーズン終了号)が自宅に届いた。会報には、悔しさをばねに、来季も頑張るから応援をよろしくお願いします、と結んでであった。

その会報の表題の一文を紹介させてもらう。

悔しさをばねに  

今年1年を振り返ってみると、9年ぶりに復帰した1部リーグでは、序盤でのつまずきもあり、5位という成績に終わりました。夏の総理大臣杯では、学芸の堅い守備を崩せずにベスト8でした。1年の集大成として迎えたインカレでは,12年ぶりの優勝を目指しての戦いとなりました。好調な攻撃陣を軸に決勝まで進出しましたが、駒大の前に1-6と大敗を喫し、準優勝となりました。この悔しさをばねに、来年度こそ王者復活を果たしたいと思いますので、応援よろしくお願い致します。

 

 

2007年1月13日土曜日

今夜は、ゴンと過ごす最後の夜だ

今夜は、ゴンと過ごす最後の夜だ

10日 朝、ゴンは逝った。そして、今夜(12日)がゴンと過ごす最後の夜だ。2月28日で13歳になる予定だった。できるだけ長く一緒に居たいと思って、火葬を可能な限り延ばしたが、ついに明日になった。

ゴンとお付き合いのあった人たちが、弔問に引っ切り無しに来て頂いている。ゴンが安置されている周りには、頂いた花束であふれている。ゴンが如何に、たくさんの人たちに可愛がられていたかが,大いに偲ばれる。

幸いにも、大病を患うことがなかったせいか、亡き骸だけを見ると、毛並みは綺麗に乱れることなし、年老いて死んだなんて、どうしても見えない。若々しく、今にも立ち上がるのではないか、と錯覚するぐらいだ。

生来の腸の弱さはあったが、そんなことは用心次第で、へっちゃらだった。が、近所の猫好きの姉さん(通称・猫ニャンおばさん)が、この俺様の目を盗んで、不思議なモノをあげてくれることだけは、時々俺様の頭を悩ました。人に吼えない犬だったけれど、この猫ニャンおばさんだけには、吼えた。言っておきますが、私は、猫ニャンおばさんのことを、とっても好きなのですよ、誤解のないように。

今朝、ツバサとポンタの散歩のために、二階から下りてきたら、一階の居間にゴンが安置されている、その傍に、三女のSがゴンに添い寝をしていた。

Sはゴンとの今生の別れを惜しんでいるのだろう。死に顔を見ているうちに、そのまま眠りについたのだろう。寒い冬の夜、彼女は、ゴンと過ごした楽しい思い出の数々を夢見ていたのだ。末っ子のSはゴンのことを弟のように、思っていたのだろう。

私が、夜遅く酔っ払って帰ったとき、暗い部屋の中で、ゴンと子供が会話していることに出くわしたことがよくあった。

子供達は、どの子も多感な年頃で、先生に話せないこと、親にも話せないことをいっぱい背負っていたのだろう。相談者は長女のときもあったし、長男のときも、次女のときも、三女のときも。私も愚痴を聞いてもらった。企業戦士の端くれ者(私)の発狂寸前の神経衰弱症をも癒してくれた。

話しかけられたゴンは、いつも真剣に聞き役を任じてくれた。聞き役のゴンの目は、マザーテレサのような慈しみ深い眼差しでした。どんな苦悩も、全て包み込んでしまいそうな、底知れない深さをもった目でした。

今、その目は、深く閉じられ、最期のときからどんどん落ち込んでいる。この世からの、旅立ちが始まったようです。

思い出は尽きない。あらためて、ゴンの紹介をさせて頂きたい

今夜は、ゴンと過ごす最後の夜だ。

明日は、火葬だ。

ゴン ありがとう。 感謝。

ゴンより~

ワン ワン 献花やお供え、ありがとうございました。

ゴンは、ワン みんなに可愛がられて、とっても幸せでした。

でも、もう少しは、ワン ワン みんなと遊びたかった ワン。

ヤマト一家,ダナ一家、カエデ一家、ユカちゃん、チョビ一家、和泉さん、小見さん、浅田君、溝呂木さん、コットンテールさん、田中君、ミッチャン一家、ヨシズさんのおばさんとお孫さん、松山のおばあちゃん、アツミちゃん、モモちゃん、ラブちゃん

名前も知らないおじいちゃん(毎日、見舞いに来て頂いた、ワン 優しいおじいちゃん。ワン さようなら。おじいちゃん。体に気をつけて、ワン 長生きしてください。 ワン)

たくさんの小学生たち!ゴンは、君たちが、とっても、ワン 好きだった。みんな、優しかった。ワン 楽しかった ワン。

逝って、ほぼ一ヵ月後の昨日(02 07)

マー君と保護者が遺骨に花を供えにきてくれた。マー君はゴンだけには甘えることができた。マーは、ゴンちゃんが居なくなって、淋しいそうです、と保護者は言っておられた。

(02 10)シュンが、今日はゴンちゃんの月命日だと言って、花を供えにきてくれた。中2のシュンが月命日なんて、オッサンくさいぞ、と言って笑った。

遺骨の前には、花が絶えない。どんどん増えていっている。

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2007年1月11日木曜日

含蓄のある記事!勝者は何もとらない

含蓄のある記事を見つけてしまった。モノの見方が甘い私には、朝日新聞は、何もかも教えてくれる教本です。

前の文で、教本なんて文字を選んでしまった、その瞬間に、あるシーンを思い出した。本題は、ちょっと後回しにして、その思い出したシ-ンについて書かせてもらうことにする。

私の息子のことです。

息子は、正月休みが終わって、再度オマーンに戻る。石油プラントを建設するために向う旅支度中、私は、息子が大型カバンに入れている2冊の本に目が留まった。2冊とも高校の化学の教科書であった。多分自分で高校時代に使っていたと思われる古びた教科書と、今回の帰省時に買い求めたと思われる新品の教科書だった。

大学時代は、土木学科だったので、物理だ、土だ、水だと言っていた。大学院時代は環境だ、と言っていた。入社した会社は、石油プラント建築を専業にしている。遊びにやってくる友人に「仕事は、物理じゃないんだよ、化学なんだよ」と言っているのをよく耳にした。足りない化学の勉強のために、息子は努力しているのだ、と感心させられた。父に似ず、学習意欲の強い、いい奴だ。

これから本題に入ります。

 勝者は何もとらない    2007年1月10日 朝日(夕 )

ヘミングウェーには、「勝者には何もやるな」という短編集がある。「Winner take nothing」というその原題を直訳すれば、「勝者は何もとらない」か。

7日、高校ラグビーの決勝を見ながら、ふとそのフレーズが頭をかすめた。

勝負の行方が見えた試合終了直前、19点をリードした東海大仰星は左ウイングに足を引きずった選手を入れた。

準々決勝で右足首脱臼骨折の重傷を負ったこの選手のために、勝ち進んで最後の1分間でもピッチに立たせてやりたい。チームはその思いで一丸になった。

「勝負や相手には失礼かもしれないが、教育の一環として出してあげたかった」。監督はそう言った。

気持ちはわかる。しかし、と思う。

東福岡は、歩くのもままならない選手にぎょっとしたに違いない。彼をかばって仰星の守りが左側に偏った隙間から、この日唯一のトライをあげた。これを、最後まで試合をあきらめなかった証として、東福岡は素直に受け止められたろうか。

この選手がもし密集に巻き込まれたらというけがへの心配も、決勝を貫いていた透明な緊張感に水を差した。選手交代に、相手チームへの視線は感じ取れなかった。

仰星は今季の公式戦を無敗で終えた。敗者の誇りや競技への敬意をどう考えるか。それはけがの選手を最後に登場させる以上に教育的な題材になったはずだ。

勝者は勝利だけ。それ以外のものまでとってはいけないのだ。

 

 

2007年1月10日水曜日

ゴン ありがとう 感謝してる。

ゴン 永眠。我が家の守護神だった。  

昨年11月中旬、ゴンの腰が立たなくなって、家族全員、ぎょっとした。永年付き合ってくれているM獣医さんに相談したら、「大型犬は多にして、そういうことはあるのです。小型犬よりも大型犬の方が間接を弱めることが多いのです。大型犬の8割方、関節をやられるのです」というもっともらしい説明。それで、腰を持ち上げる介護用品を買い求めた。その介護用品を使っての散歩を1週間ほど続けていたら、ゴンは自らの力で歩こうとしだした。神様、仏様、お天道様、有り難うございました、天にも昇る、喜びだった。

ところが、じゃ。俺のような不信心な心得の奴を、神様、仏様、お天道様、はそう簡単に赦しては、頂けなかった。

今月の6日。いつものように散歩に出かけようと声をかけても、ゲージから出て来ようともしない。抱きかかえて外へ出しても、その場にヘタリコンダまま、動こうとしない。ゴンの容態が急変した。唯、腰が立たないだけではなく、生きる意欲が減退しているように思われて、私は涙ぐんでしまった。ゴンを前に、俺自身も生きる力が抜けていく。情けないぞ、そんなに弱気になって、どうするんだ。今後どのようにゴンを介護してやれるのだ? 共に 強く、生きよう、と改めて覚悟した。

8日、私がゴンの腹に手を廻してお尻を持ち上げ、前脚だけで5メートル程前進、おしっこを一度しただけ。缶詰の肉と、ドライフーズを少し、自分の力で喰った。

9日、表情は、昨日よりもイイように思われた。昨日と同じだけ前進、おしっことウンコをした。我等家族全員で拍手、よかったね、と一時の安堵。おしっこが赤茶色で、臭いが強い。でも、最高級の缶詰の肉を、食おうとしない。手で少しずつ口の中に入れても、嬉しがらない。むしろ、迷惑そうなのだ、それが、私には非常に辛い。私は、不安で、心細く、おろおろするだけで、何をしてやればいいのか、さっぱり分からない。

10日、今朝9時頃、永眠した。

昨夜初めてのオムツをした。朝、オムツから糞尿が溢れていたので、お風呂で下半身を洗った。ベッドに戻して、食事を上げようとしても、口にしなかった。水はスプーン5杯ぐらいしか飲めなかった。

友人から、昨夜、頑張れなんて言うな、感謝をこめて、安らかに眠れるように、お祈りするのだ、とアドバイスを受けた。家族にその通りに話した。

 

 

ゴンの死を迎え、思い出が、知らず知らずのうちに、次から次と蘇ってくるんだ。

ゴンの10歳の誕生日(04 2 28)に記した文章です。   

 

ゴンが生後2ヶ月ぐらいで我が家に来たのは、今から丁度10年前。当時、我が家には凄まじい嵐が吹き荒れていた。

何と言っても嵐の中心は次女のHさんだった。

ゴンが我が家にやってきた時は、私45歳、女房K・41歳、長女M・16歳・高校1年生、長男S・14歳・中学2年生、次女H・12歳・小学6年生、三女SO・8歳・小学2年生。

その頃を思い出ししてみよう。

長女は多感な中学時代を苦しく耐えながら、K先生の指導のもと、SA女子大の付属高校に目出度く入学、長女なりに女子高校生として頑張りだした。

長男はサッカー部の顧問とは折り合いが良好ではなく、でも部友には滅茶恵まれ、サッカーと受験勉強に充実した生活を過ごしていた。

問題は次女のHさんだった。

自分は親からの愛情薄い、可哀想な存在だと一人合点をしていたのだろうか、私よりも女房である母・Kになんでもかんでも逆らっていた時分だ。

母・KはKで何事についても、筋の通った常識派、かつ、間違いをけっして許さない正義派。家庭内での口論や諍いは絶えなかった。学校での生活態度についても悪い評判ばかりが聞こえてくる。私たち両親は、肝を冷やりとさせられることばかりだった。

そんな時期に犬を飼おうということになった。

ほんとは、その時よりも随分前から子供達の間で、犬を飼いたいと話していたのを聞いていた。せめて三女が小学校に入ったら考えようと、女房・Kと相談していた。

そんな、ある夜。だから10年前の夜。

スナックで飲んでいた時のこと、ママと犬の話になった。私は即自宅に電話をして、犬を飼おうと思うのだが?と、家族の全員に賛否を採ってくれないかとKに話した。ママはスナック経営と犬の販売を兼業していた。私の希望は大型犬。ちっちゃくてちょろちょろする犬は神経質そうで御免被りたい。頭のいい奴、馬鹿な犬で余計な苦労はしたくない。そんな理由で犬種は私とママで、ラブラドールレトリバーに決めた。色は?黒がいい、白がいいと意見は散発したが、結局は馴染み深い茶毛にした。

我が家に来た時は、両手の上に載るほど、ネズミと猫の中間程の大きさ。可愛くて 可愛くて、見る者の全てに愛くるしい感覚を与えてくれた。生まれたままだから、当然のことながら行儀作法は何も身につけてはいなかった。けれど、そんな生後2ヶ月の犬でも、畳の部屋には入るなと教えたら、その時から畳の部屋には絶対入らなかった。小便と糞のシモ処理を教えるのに1週間はかかった。部屋の中で糞をしそうな時、小便しそうなふりをした時には、手身近にあるタオルや新聞紙を持って走って行って受けてやった。いつも、滑り込みセーフで、てんやわんやの大騒動。ほとんどこの仕事はKがやってくれた。

ゴンは生まれながらに腸が弱く、定食にしているドッグフード以外のちょっと変わったものを食った時は、必ず下痢をした。乳製品や油を含んだものには、滅法弱い。ゴンの健康に関しては、この弱い腸対策のみで、その他飼い主として頭を悩ましたことは何もない。

名前はどうしよう? 

俺には腹案があった、名前はゴンだ。住んでいるのが権太坂、当時のコマーシャルでタンスにゴン、日本のA代表でジュビロ磐田の中山がゴン、もうゴンしかない。家族の誰も反対しなかった。

それからの毎日、朝一番の散歩はこの俺様の担当で、私とゴンの特権だ、と家族に認知させた。。

雨の日も雪の日も、ゴンと私は幸せな時間を共有することになった。

強い雨の日はビニールで体を纏って家を出るのだが、途中で着崩れしてだらしない風体、終いには剥がれて濡れっぱなし。

ゴンは夜の間は家の中に居るので、朝、散歩のために家を飛び出すさまは、喜びに満ち溢れている。散歩の後の楽しい朝飯のことも、当然予測しているのであろう。雨の日も冷たい風の吹きすさぶ日も、ゴンは喜んで家を飛び出す。

仕事を前にして気分の高揚している私、元気いっぱいのゴン。嬉しそうなゴン、おのずから私も幸せな気分になる。仕事を控えての朝一番にとって、私の心身に及ぼす影響は絶大だ。

いい糞をした時はホットするが、軟らかい糞をした時は心配になる。最初の頃下痢でもした日には一日中気になって、仕事中でも家に電話することがあって、Kに笑われたこともしばしば。

子供が小さかった頃、あなたは子供の健康をちょっとも気に掛けなかった癖に、どうしたの? 又、ゴンとの散歩によって思わん喜びを味わうことにもなった。

散歩中、どこのお家の庭にもさまざまな庭木や手入れの行き届いた花壇、この頃は色鮮やかに配色をこらした寄せ植え鉢が、俺とゴンの目を楽しませてくれる。季節ごとに咲くように、一年を通して絶やさないように工夫されている。

~ ここまで。

 

 

追筆、私達家族はゴンに感謝することがいっぱいあります楽しかった

った思い出、ゴンが我々に教えてくれたことを、後日、あらためて

書かせていただきますので、その節はよろしくお願いします。

 

 

今日(10日)は、今後のことの打ち合わせのため、今、会社を出

て自宅に向います。

 

 

2007年1月7日日曜日

カラマーゾフの兄弟、4回目の読書進行中

物欲の権化のような父、放蕩無頼な情熱漢の長男、冷徹な知性人の次男、敬虔な修道者の三男、女。愛憎の地獄図絵。あ~ァ! 神様も参加しきたぞ、こわ~い。  

私、現在、「カラマーの兄弟」の4回目の読書進行中です。3回目は、今から6年前のことだから、ストーリーについては、割と憶えているのだが、読了後の感想が明瞭でなく、まして、感想を文字などにして表現できるどころか、「なんじゃ、こりゃ!」と思ったのは、前2回の読了時と同じだった。

ところがじゃ、今回は違うのです。

文章が難解で、すっきり理解できないところは、繰り返し読んだり、後戻りしながら読み返したり、おや?と思ったときはじっくり時間をかけて読むように努めているせいか、今のところ、理解しながら進行中です。読書する環境が初めて整ったのか、私自身の頭の中が変わってきたのか、今までとは違うのです。 

私には、「カラマー兄弟」を読みたくなる、不思議な周期があって、読みたいなあ!とちょっとでも思いつくと、もうそのまま重症患者になってしまうのです。その読みたいと思いつく時には、共通していることがあります。日々の暮らしのなかで、身の周りが異状にざわついていて、私もつられて異常に精神が高揚している時に、発生した熱帯低気圧が、急に台風になり嵐になるのです。そして、本屋さんに駆け込むのです。

フョードル(父):「イワン(次男)、答えてみろ、神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!俺は今まじめにやりたいんだ」

次男 「ありませんよ、神はありません」

父:「アリョーシカ(三男)、神はあるか?」

三男:「神はあります」

父:「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」

次男:「不死もありません」

父:「全然か?」

次男:「全然」

父:「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何もないってわけはあるまい!」

イワン:「まったくの無ですよ」

父:「アリョーシカ、不死はあるのか?」

三男:「あります」

父:「神も不死もか?」

三男:「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」

(注)これは、作中の一部の会話なのですがこのようにして、一つひとつに、こだわり続けるのです。

父と息子3人とそれに係わる女性たち、金と欲、神の存在と信仰、人間の尊厳、放蕩と知性、女と男、真理と不信、真実と不実、侮辱と屈辱が入り乱れてストーリーは進む。神と人間の根本問題を据え置いた、屈指の名作と言われているだけに、私、充実しています。

2007年1月5日金曜日

皆様 あけおめ。今年も頑張ろうヨ

07年 アーバンビルドの営業活動骨子 

07 01 01                                       山岡 保    

07年の年頭にあたって、皆さんに明けましておめでとう、と言った後、何らかのメッセージを出さなくてはいかんと思いつき、文章を綴っている。07年の日本経済を予測する、何冊かの経済誌(紙)のなかから、よく解り易くまとめてあったものを見つけたので、後の方で転載した。

下記の内容を総括すると、昨年同様、強気で業容を拡大することが可能だ、ということのようだ。でも、我が社は規模が大きくなっているだけに、各部における慎重深さは昨年以上だ。財務面は尚一層慎重に、ということだ。「慎重(繊細)かつ大胆」は我が社の創業以来、一番気を配ってきたことだ。

営業面では、仕入れは、多彩な情報から広範に積極的に行う、商品化に知恵を最大限駆使する、商品化してから売却までの滞留期間を短縮する、商品化の多様化を図る、企画の多様化を模索する、などは従来通りだ。

昨年入社したスタッフは、流石、我が社の目に適った、大なる可能性を秘めている者達だと思う。会社の成長は、君たちスタッフの成長なくしては考えられないのです。若きリーダーの出現を期待する。日々精進して欲しい。昨年ことあるごとに喋ってきたことだけれど、新しく参加してくれたスタッフが、一人前になったら、もう一度スタッフの募集を企てる。今度は営業のみ5~10人程度だ。今年の夏前後か秋にかけて行う心算だ。

社長の私は、野心家だ。スタッフの皆も野心家になって欲しい。そのためには、「俺は、野心家だ」と誰に対しても、憚ることなく、大きい声で吼えるのだ。「俺は、野心家だ」と。

野村證券金融経済研究所 シニアエコノミスト 木内 登英氏

寄稿日:2006 12 13

2006年年初までの高成長軌道は一巡し、日本経済は現在軽微な踊り場局面にあると考えられる。

軽い踊り場を生じさせた最大の要因は、世界経済の変調を映した外需の鈍化であろう。しかし、国内経済に大きな不均衡が未だ見出されないなか、景気が失速に至る可能性は低い。

戦後最長に達した景気回復期間は、2007年もなお記録を伸ばし続けると考えられる。

2007年前半の輸出環境の改善を契機に国内景気は踊り場を脱し、同年後半には再び増勢を強めると見込まれる。

軽い踊り場を乗り越えた後には、個人の経済活動が次第に活性化し、また政府の経済政策が企業活動に好影響を与える。

今次景気回復の後半戦とも言える新たな局面へと日本経済は移行していこう。

野村證券金融経済研究所は、2006年度の実質GDP成長率を+1.8%、2007年度については+2.2%と予測した。

今年も、あの易者・塚原先生(昭和23年生まれ。私と同じ大学同じクラブの先輩です。現在、福島県喜多方市にて水産業を営む)がのたまう。その内容は以下のごとし。 私は、木星のプラスの星で、今年は「財成」らしい。「財成」とは、12年に1回しか回ってこない。やること全てがお金になる絶好の機会だそうです、大いに稼ぎましょう、ということ。運気横溢、年まわりがかってないほど、いいらしいです。 来年は、「安定」。よって、今年、来年のうちに、会社の基盤固めをきっちり、行いなさい、ということのようです。そのあとの3年は、大殺界です、要注意です。陰影に突入。その後、延滞、停止に向う。この時期は、何事につけても、慎重に行動せよ、と言うことだそうだ。

箱根駅伝

母校の名を口にして、叫ぶと、胸がきゅっととなるのは、何故?。

母校の名を叫ぶと、何故、胸に熱いものが込み上げてきて、心臓が激しく高鳴り、きゅっと締め付けられ、息苦しくなるのだろうか。今だに? 卒業して、35年も経過したというのに。私だけが、ちょっとおかしいのか? 競走に賭けるアスリートの熱い思いが、私の心を共振するのだろう。学生時代 体育会に所属していたものだから、所属していなかった人よりも、当然、母校の名を叫んだ回数は多いと思う、その後遺症か。 今まで、この箱根駅伝で、何度母校の名を叫び、選手を励ましてきたことだろう。ほぼ33年間神奈川県に住み続けている。最初の3年間は大磯町、その後は権太坂、横浜市は保土ヶ谷。毎年の正月の2、3日は箱根駅伝を必ず応援することにしている。往路は鶴見を過ぎたら、復路は戸塚を過ぎたら、自宅を出る。その時がきたら、盃と徳利から手を離し、自然に、手袋、コートと準備に入る。初めの頃は夫婦だけ、それからは子供が加わって3人になり、4人になり、5人になり、それからは、子供が一人欠け、二人欠け、今度は犬が加わり、この頃は犬も老いのため欠場、今回は孫と私の二人っきり。嫌がった孫も、選手がやってくると、頑張れ、頑張れの大応援団。

第83回東京箱根間往復大学駅伝は、順大が6年ぶり11度目の総合優勝を果たした。 * 最優秀選手には(MVP)は5区で区間新をだした今井正人(順大)と1区でやはり区間記録を更新した佐藤悠基(東海大)。今井は3年連続MVPだ

*     早大シード権 5年ぶり

*     日大 15年ぶり2位

*     1位順大 2位日大 3位東海大 4位日体大 5位東洋大         6位早大

今井選手の活躍ぶり(2007年1月3日 朝日)より

誰もが苦しむ5区をむしろ楽しむように突き進む。トップをいく東海大と4分9秒あった差をひっくり返し逆に1分42秒の差をつけ、2年連続で往路優勝のテープを切った。「4分の差はちょっと届かないかな」。5位でタスキを受けた今井はそう思った。しかし、9,5キロの大平台で東海大との差は2分15秒、14キロ過ぎの小涌園では40秒に縮まり、順位も2位へ。16キロで東海大をかわした。2年生のときに11人、3年で5人、4年で4人を抜き去り、3年連続の区間賞。昨年作った区間記録を25秒縮めた。標高差約860メートルを駆け上がる走りの極意は何か。今井は「怖がらず、気持ちにブレーキをかけずに走ることですね」と説く。山登りの場合、前傾にこだわるあまり、腰まで引けてしまうものだが、今井の場合は、それがない。常に最短をたどるコース取りも熟練の域だ。「山登りは自分を成長させてくれた」と言う今井は卒業後、トヨタ自動車九州に就職する。バルセロナ五輪銀メダルの森下広一監督のもと、今度はマラソンという頂を目指す。

2007年1月4日木曜日

川が好き 川にうつった 空がすき

*がんと向き合い3年  15歳 最期の言葉 「みんなありがとう。ぼくは往きます」 

小児ガンと3年向き合った山口県周南市立狩野中3年の有国遊雲君(15)が、今月、生涯を閉じた。迫り来る死を両親と語り合いながら生き抜いた遊雲君の最期の言葉は、周囲への感謝だった。

川が好き 川にうつった 空も好き

地元の清流を詠んだ句が国土交通省の河川愛護の標語に選ばれ、地元有志が碑を建ててくれた。

抗がん剤は効かなくなりつつあったが、遊雲君は、抗がん剤の治療を望んだ。「支えてくれた人に何が返せるか。世の中の役にたちたい」との思いからだ。だが、今月2日の未明。母の手を握りしめた。「お母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」。その夜、「ぼくは往きます」と言い残し、3日午前、息を引き取った。

 

フセイン元イラク大統領 絞首刑

フセイン元大統領(イラク)、死刑執行
イラクのサダム・フセイン元大統領(69)の死刑が30日、バグダッドで執行された。米英が主導したイラク戦争で、旧政権が崩壊してから、3年半。約四半世紀にわたり独裁体制を敷いた旧指導者は、26日の死刑確定から4日後に絞首刑となった。イラク政府は旧体制と決別を強調し、復興に向けた国民の統合を呼びかけたが、激しい宗派対立で治安状況が改善する見通しは立ってない。


自他共に認める、ヒューマニストのこの私が、フセインの死刑執行を当たり前のことだと認めているのです。いや、自然的です。
 国の政治を掌る執行責任者(為政者)は、先ずは、国民全ての生命の安全を確保することではないのか? 国民の一人一人が、安全で、安心して、将来の豊かさを確信して暮らせるような状況を作りだすことではないのか。当然、諸外国とも協調しながら国益も考えなければならない。そこで、以前、私は私のブログで、朝日新聞の天声人語の記事を利用したその文章を又、ここで使わせて頂くことにする。


ここから~

230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館)。 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。~ここまで

*     注 今、現在のブッシュ大統領は、初代大統領のワシントンの考えとは、全く逆方向に進んでしまった。ワシントンさんは、さぞかし草葉の陰で嘆いていらっしゃることでしょう。このイラクのフセインを、かってイラン・イラク戦争において、欧米は支援した。今度は、手の裏を反す様にイラクそのものの国潰しを行った。歴史的にも、アメリカは、ブッシュは、破廉恥な国、破廉恥な大統領に成!り!果!て!て!し!ま!わ!れ!た。  

 

誰が言ったのか知らないけれど、人間一人の命の重みは、地球よりも重いと。この意味が分からない人は、政治執行者になる資格がない、と同時に間違っても絶対になってはいけない。冒頭、フセインが絞首刑で死んだと知って、そんなことは当たり前だと記したのは、いろいろあるフセインの悪政のなかで、クルド地域における毒ガス兵器による住民殺害、キルクークにおけるクルド人やトルクメ人虐殺、特定の宗派に対する容赦ない弾圧を知ると、こんな奴、早くこの世から抹殺しなければならない、と思っていた。 自由はなくとも暮らしは安定する「独裁社会」か、それとも、明日の命もしれない混乱の「民主化」か、と選択を求められたら、必ず「民主化」です、と手を挙げるだろう。独裁社会で、社会が少しばかり安定していても、差別されたり、弾圧されたり、虐げられた人々が存在する事実に、注目しなければならない。一部の体制側の人には、結構、都合いいものだろうが、そんな国家なんて砂上の楼閣に過ぎない。そんな定理を、イラクはあらためて世界中に知らしめた。このことと、同じ意味で、同じだけ重要なことは、米国のブッシュも同罪だということです。

サダム・フセイン元イラク大統領(2006年12月31日 朝日)
1937年4月28日、バグダッドの北約150キロのティクリートに生まれた。20歳でアラブ民族主義を掲げるバース党に入党。59年、当時の首相暗殺計画に加わったとして死刑判決を受け亡命。63年に帰国。68年のクーデターで指導的役割を演じ、79年に大統領に就任。80年から88年までイラン・イラク戦争。末期に国内のクルド人を化学兵器で攻撃した。90年、クウェートに侵攻し併合を宣言するが、翌91年の湾岸戦争で米国を主力とする多国籍軍に敗れた。イラクの大量破壊兵器廃棄のための国連査察を拒否し98年に米英軍の空爆を受ける。03年には米国から亡命を求められが拒否し、イラク戦争に。政権は崩壊、逃亡中の同年12月に米軍に拘束された。