2007年1月20日土曜日

ゴンは、専守防衛主義犬でした

名犬ゴンは、専守防衛主義に徹した。  

昨日、ゴンの犬仲間のH君とその保護者が、我が家にゴンの状態を看に来てくれた。ゴンは既に骨壷のなかに入っていることに、残念・無念と、保護者は悔しがった。

H君も、ちょっと何かが違うぞ、と察しているようだった。その顔が何かしら、淋しげに思えたのは、俺だけかな。

そこで、話題になったのが、ゴンの日常の生活態度が平和主義者然としたもので、相手に攻撃を仕掛けるようなことは見たことないですね、と言うことだった。

そう言われれば、小型犬なら幾ら嫌らしく付き纏っても、こつこつゴンの体を舐めまわしても、全然意に介しない。大型犬が近づいてきても、危険を感じさせない奴には、無関心。

不意に大型の乱暴犬に出くわす時もあったが、ゴンは、相手の動きをしっかり見続けながら、何か起こったときには、いつでも、どうにでも動ける態勢で、沈着冷静、相手が通り過ぎるまで見届ける。

けっして、自分からは絶対にしかけない。

この、ゴンの振る舞いこそ、平和を維持する基本的な秘訣があるように思われた。

関係閣僚等の失態が暴露され、下降気味の安倍支持率。

安倍総理は人気挽回を狙ってなのか、自民党大会においては当然、機会あるごとに、日本国憲法の改正(何が改正なのか、よくわからんが?)を叫ぶ。

何故? どうして? どのように変更したいの?

そこが見えてこないのに、何故、改憲だとか、加憲だとか、気楽に言うのだろうか。

新聞・放送などでは、政府・与党の発言がとりあげられる機会は多く、そして大きく取り扱われる。なんだか、世の中の大半が日本国憲法の改正をあたかも望んでいるような、報道のされ方に、疑問をもっていました。

私は、護憲派の誠実かつ過激な一人です。体制側言論人に抗して、護憲派の皆さんは、声を大にして、踏ん張って欲しいと思っています。

そんな折、朝日新聞 私の視点 ウイークエンド(2007年1月13日)での 平川克美氏(リナックスカフェ社長)の憲法改正についての主張が、動揺する私の心を、安心させてくれた。

9条 「理想論」で悪いか  

国論を二分するような政治的な課題というものは、どちら側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵があるものである。そうでなければ国論はかようにきっぱりと二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。

政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うこと実現してしまうのが、人間の歴史というものである。

その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接の利得がある好戦論者を除外すれば、この度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。

9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験をもつ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行憲法を守ってゆくべきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の中で国益を守るには戦力は必須であり、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。

なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば、必ず両論は膠着することになる。

では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。

「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。私は、この前提には全く異論がない。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。

もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が億段に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が、刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。

現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。