2012年6月30日土曜日

司法書士・銀さんの老後に、幸あれ

20120627水曜日、会社は営業部が定休日。

司法書士の銀子(名ではなく、姓です)さんが、俺は今月であの事務所から身を引くことにしたからよろしく、と挨拶された。横浜天王町のビジネスパーク2Fの弁当コーナーで、390円弁当を食っている時のことだ。

昭和51年、私は昭和48年に大学を卒業して入社した観光会社から、子会社の某電鉄系不動産会社に移籍させられた。27歳になる少し前、入社してから3年目のことだ。このときに、司法書士・銀子さんに初めて会った。

不動産屋になるとは露ほども想像しなかったが、仕事は、興味をそそることばかりで、移籍してからの数年は無我夢中だった。面白かった。公私の別なく、夜は同僚たちと酒を酌み交わしての仕事談義、休日も休まないで仕事に没頭した。知的欲求を満たしてくれた。何故、そこまで夢中になれたのかと振り返ってみると、やはり、大学時代にサッカーにうつつを抜かし過ぎたことが影響していると思う。勉強しなければいけない学生時代に、勉強をしなかった後ろめたさもあったのだろう。

二浪して大学のサッカー部に入部した。が、二浪の時代に学資金稼ぎのためのドカタ稼業で、私の体はサッカーのようなスポーツにはふさわしくない体に変化してしまった。

この大学のサッカー部は、日本のサッカー界の歴史に大きく貢献した誉れ高いクラブだ。そこでの練習は私にとって過酷過ぎた。入部当時、体力、技量は素人並みだったから。

私は皆に追いつくために、多い日には1日9時間もグラウンドにいた。正規の練習、係属高校の練習に参加、それに自分勝手な練習。定休日の月曜日は晴雨にかかわらず、遠くまでランニングした。勉強は完全に放棄した。お母さん、お父さん、今はサッカーをやらせてください。社会人になったら、誰にも負けないほど勉強しますからと、誰も居ないグラウンドで、西の方の夜空に誓いをたてた。そんな日々を4年間過ごした。

そして、社会人になって、さあ、これから頑張るぞ、なんて意気込んだところで、何をどうすればいいのか、とっかかりが掴めなかった。勉強しなくちゃイカンことは、分かっている、頭から離れなかった。同期で入社した者のなかに、学生時代によく勉強してきたな、と感心させられる奴がいなかったことも、拍子抜けの原因だった。

そんな時期に、子会社の不動産会社への移籍の辞令をもらった。新しい仕事に着いてみて、驚かされたのが業務上の数々の法律の網だった。法律、条令、政令、指導要綱、施行細則などなど。何を判断するにしても、何法の何条を知っていないと、身動きが取れない、間違いを起こしかねない。

そんな意気盛んな素人不動産屋の私の前に現れたのが司法書士・銀子悪醜氏だ。この稿では不思議な名前をつけさせてもらったが、本当は見た目にも美しい文字を並べた姓名なのだが、今はこれで辛抱してくださいな。

知り合った当時、銀子さんも、又、ホッカホカの生まれたての司法書士だった。学んだ知識を実務で生かしたくて、ウズウズしていた時期だった。何でも知りたがり屋の私と、ピカピカ司法書士1年生の銀子さん。二人がどっぷり・ベタベタの人間関係に陥るのに、そんなに時間はかからなかった。彼は、サッカーファンでもあったから、尚更のことだ。

私が判断に悩むことが発生した時は、必ずアドバイスを受けた、作成した文章を添削してもらったり、各種の法的手続きを教えてもらった。法的な部門の私家版・知恵蔵だった。社内に、安全運行第一を旨とする電鉄出身者で、不動産の契約管理専門の上司がいたことも、幸いだった。教えてくれる先生は多い方がいい。

それから35年の付き合いになった。

銀さんは、長年、情熱的喫煙家だったが、お酒だけにはどういうわけか手を出さなかった。ところが、10年ほど前から、我等の立ち飲みグループ、初老たちの飲んベイ不良仲間に加わってきた。この年になって、酒の味を覚えた奴の悲惨な末路を多く見てきたから、私は秘かに、ちょっと可笑しな危険性も感じていた。

2年半前のこと、立ち飲み屋のカウンターで、毎年定期的に行っている健康診断で、食道に腫瘍の影が映っているらしいので再検査をすることになった、とこぼした。その程度の腫瘍なら、誰だって持っていますよ、大したことないですよ。本気で、彼の話に耳を貸そうとはしなかった。

ところが、その再検査の後の再々検査で、食道の胸の真ん中あたりに大きな腫瘍が見つかり、ベッドが空き次第手術することになった、と告白された。横浜市大病院だ。この時点でも、本人には、悪性の腫瘍だと伝えられていなかった。

この腫瘍が見つかる半年前、60歳を過ぎた頃のことだった。そろそろ、仕事を止めて、老後の生活に入りたいと思っているんだ、大型バイクを買ってあっちこっち走り回りたいんだ、と話した彼に向かって、不遜にも、そんな馬鹿げたことを考えてないで、もっと働こうよと説諭した。そんな間抜けたことを考えているから、変な腫瘍ができたんですよ。気の合う者同士、いつまでも一緒がいい。引退したって、何する心算? と半ば脅迫的だった。こんな暴言にも優しい表情で聞いていた。根っからの好人物なのだ。

本人には、腫瘍が悪性なのかどうかは、知らされていなかった。

そして、6時間の大手術をした。食道の中ほどにガンができていたので、それを全部摘出して、胃の入り口の部分を引っ張り上げて食道の切った部分に繋げた、手術はそんな内容だった。術後、医者から本物のガンだったとはっきり宣言された。

3ヶ月前には、以前の食道ガンの摘出手術の影響か、脱腸の手術をした。ガン摘出の際、腹腔の腸のおさまりが悪くなって、緩(ゆる)んで腹部に出っ張ってきたのを、再び腹を切り開いて、腸をおさめるべき所におさめた。これは、深刻な手術ではなかったようだ。

ガン摘出2年後の今日、弁当を食いながら、その後コーヒーを飲みながら、仕事を止める最終宣言を直に伝えたかったようだ。この時ばかりは、私は彼に冗談は言えなかった。そりゃ、そうやなあ、銀子司法書士は命拾いしたんだから、この辺で切り上げて、自由気ままな生活に入るのはいいことなんではないか。余生を楽しんでくださいな、と話した。

懐かしい、35年間の思い出話で、いつまで経っても椅子から立ち上がれなかった。

俺は、まだまだ10年以上はやらなければならないことがあるサカイに、仕事上で悩んだ時はいままでのように、相談にのってくださいな、とのお願いに、それは、なんぼでも、相談にはのるけど、報酬を頂いて、役所に行くことはできないからね、と釘をさされた。

会社の何かの行事には、お声をかけますから、その時はよろしく、と言って分かれた。梅雨の合間、青空が広がって、木々の緑は濃く、空気は爽やかだった。

彼は65歳、私はもう少しで64歳。

2012年6月26日火曜日

UEFA、今、欧州が熱い

MX-3500FN_20120627_112500_001[2]

決勝トーナメント、イタリア対イングランド。PK戦でゴールを決めるMFピルロ(イタリア)=AP

今月27、28日にサッカーのUEFA欧州選手権の準決勝が始まる。27日は、スペインとポルトガルによるイベリア半島対決。28日は、前回準優勝のドイツとイタリア対決だ。お金と時間が十分あれば、今すぐにも駆けつけて、興奮の観客席で世界のサッカーファンと共に楽しみたい、と思っても、、、、現実には無理。せめて、未明からのテレビ観戦を楽しむことにしよう。多少の寝不足は覚悟の上だ。

毎度お馴染みの強豪国が、当たり前のように残った。だが、優勝候補と目(もく)されたオランダは、決勝トーナメントにも出られなかった。

そこで、今回、オランダが1次リーグで何故に3戦全敗で終ったか、オランダには悪いが反面教師になってもらって、学ばせて貰おう。

私の愛するザック・ジャパンにとっても、得る教訓は多いと思う。まだまだ、日本代表チームは発展途上で、頼りなく、壊れ易く、ひ弱なチームだ。サッカーのナルホドを文章で紐解くのもいい勉強になるサカイ。

余りにも当を得た記事だったので、マイファイルさせてもらった。

ここまでの各チームの分析と、敗れ去ったオランダチームの敗因を指摘した、20120621の日経・夕刊・スポーツの記事を吟味してみたい。サッカーマガジン編集長・北條聡氏の文章だ。さすがサッカー専門雑誌の編集長、よく試合内容を分析、理解されている、と感心させられた。

20120625、早朝、イタリアとイングランドの戦いをテレビ観戦した。結果は、イタリアが終始押し気味で進んだが、前後半0-0、延長戦も0-0で決着つかず、PK戦を制したイタリアがベスト4進出。緊張した試合だった。イングランドは、自分たちの5倍の20本のシュートをゴール枠内で浴びながら耐えに、耐え抜いた。面白かった。他の試合も北條氏の書かれた通りだ。だが、これからが、目を離せない。

それにしても、クラブチーム対抗のAFCチャンピオンリーグにおける日本のJ1チームのなんと、影の薄いこと。失望の深いこと。堪ったものじゃない。

日本代表が本気でW杯で上位に進出するには、UEFA並みに、アジア杯や、AFCチャンピオンリーグにおいて、日本代表にしてもJ1のクラブにしても、緊迫した状況のなかで常々勝ち続けられるチームになれるか、どうかでしょうな、ーーーーー。期待している。

 

この記事をマイファイルさせてもらった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

海外サッカー

オランダの3戦全敗/助け合いの精神の欠如

サッカーマガジン編集長・北條聡  

個人主義の限界ーーーー。乱暴に言えば、そういうことだ。ピッチに立つ11人が孤立した個として存在しているようだった。互いに助け合う相互扶助が、チームに欠けていた感がある。1対1の勝負なら俺たちが優位、という強い個を前提に押し出す戦いぶりが空転した。俺、攻める人、君、守る人。攻守を切り離す分業制は、仲間の仕事に積極的に関与する集団主義に、苦戦を強いられた。

これが、本当にかってトータルサッカーボール(全員攻撃・全員守備)を編み出した国なのだろうか。そんなため息が、聞こえてきそうだ。

個人主義むき出しの異才ロッペンが「エゴを捨てるべきだ」と仲間たちを批判したというのだから、変な話である。1対1で圧倒的な強さを誇りながら、個人勝負に固執して敵の包囲網に捕まったのがロッペンである。

極端な個人主義は孤立につながり、行き過ぎた集団主義は甘えやなれ合いを引き起こしかねない。どちらか一歩に自らの立場を規定してしまうと、ことはうまく運ばない。

今大会で前評判どおりの強さを披露するスペインとドイツの2強に共通するのが「強い個人に支えられた集団主義」だろうか。全員攻撃・全員守備という共同作業を、高いレベルでこなしている。

興味深いのは、今大会でその列に加わろうかとしているイタリアだ。全員守備の伝統芸であるカテナチオばかりではなく、従来は希薄だった全員攻撃の実践に取り組みつつある。

少人数による速攻は健在だが、大人数で球を動かす遅攻に、新しいイタリアの集団主義がみえる。過去の成功例に縛られ、時流から取り残されるリスクを嫌った「生存戦略」か。

選択肢を増やし、多様性の確保を狙ったイタリアと、一つの主義へと針が振られたオランダとは対照的だ。

ここ、、、、一部省略、、、、、、

多様性が生存戦略のカギならば、近年急速に選択肢を増やしてきたドイツが覇権をにぎるのか。

2012年6月24日日曜日

やっぱり巨人は、狂ってるわ

MX-3500FN_20120623_131209_001

原辰徳 読売巨人軍監督

 

プロ野球・読売巨人軍の原辰徳監督(53)が、2006年、過去の女性関係を理由に元暴力団員ら2人から1億円を要求され、支払っていたことが分かった。

巨人軍は20日の記者会見で、1億円の支払いを認めたが、「支払った相手は反社会的勢力に属する者ではない」と説明した、という記事を20120621日の朝日・朝刊・社会で読んだ。以下の文章は、その記事を参考にさせてもらっている。

21日発売の週刊文春で報道される前に、巨人軍は記者会見で、原監督が1億円を渡したことは認めたものの、受領した2人は反社会的勢力の者ではないので、同誌に対して、名誉毀損の損害賠償訴訟を起こすことを明らかにした。

話題が、実に巨人軍的?な内容なので、私は興味満々で読んだ。巨人軍からはこの類の醜聞(スキャンダル)は、いくらでも出てくる。この半世紀のプロ野球は、ネベツネや巨人軍の問題に揺すられっ放しだ。私のプロ野球に関する興味は、選手やプレーではなく、次から次に発生するナベツネ・巨人軍らの野球界における勝手放題な仕打ちを追うことだった。迷惑な話だ。

巨人軍の親会社の最高責任者がナベツネさんで、その大親分が野球(スポーツ)を文化と捉えることができない人。困ったもんだ。ただ興行、自分の会社の新聞を多く売るための手段にしか考えていない、今時、不思議な経営者だ。こんな経営者は、スポーツに口を挟まないで欲しい。ノンフィクション 作家の佐野眞一郎さんは、ナベツネのことを、官僚的で如才がなさ過ぎる。露悪的だけど単なるポーズだけで生きている、と新聞記事で読んだことがある。

原監督は、06年8月下旬、元暴力団員2人と遠征先の熊本市内のホテルで面会、過去の関係を記した女性の日記を処分する代わりに1億円を支払うよう求められた。面会数日後、原監督のプロダクション事務所関係者らが東京のホテルで2人に1億円を渡した。その場で、日記はシュレッダーにかけた。2人は暴力団関係者で、1人は既に交通事故死している。

ここからが、面白いのだ。

原監督は09年に暴力団追放のキャンペーンに関わっていて、「暴力団には金をださない」の警視庁のポスターのモデルに起用されていた。どの顔ぶらさげてモデルになったのだろう、必見だ。

原監督は、相手がどういう奴か知らなかったから、私には非がないとの認識止まりのようだ。原君、相手が反社会勢力かどうかが問題ではなく、不当な要求に対応したことに問題があったんだよ。その相手が元暴力団なら、そりゃ尚更のことだ。少し日時が経ってからでも、考え直して被害届けを出すべきだった。この程度の認識だから、スポーツ馬鹿と言われるのだ。

巨人軍は事件を把握した時点で、原監督に被害届を出すように知恵を授けるべきだった。朝日新聞は、週刊文春と同じく2人を元暴力団組員と認めての報道だが、読売新聞は2人は元暴力団組員ではない、そのような間違いで誹謗中傷する報道は読売新聞を名誉毀損するもので、よって週刊文春を訴えると。はっきりして下さい、白か黒か。

巨人軍の親会社は、日本の最大の発行部数を誇る読売新聞。社説という名で、あらゆる政事や社会の出来事を論じるマスコミの雄だ。御意見番でもある。

これからがもっと可怪(おか)しい。

原監督は先日読売巨人軍の球団代表を解任された清武英利氏をなじる文書を公表した。「こんなことがなぜ続くのか。清武さんのほかに、いったいだれがいるのか」、こんな内容の文書だ。この段階で、自分の非を顧みず、清武氏が暴露したことを決定的かの如く名指しで、また、悪いのは暴露した清武氏の方だ、そのような文意で書かれていた。この原監督、頭のできが普通並みではなさそうだ。

相変わらず、巨人は可笑しな集団だ。

2012年6月18日月曜日

日本の実力は、確かについた!

MX-3500FN_20120618_140719

20120613 日経・朝刊・スポーツ 前半シュートを放つ本田=共同

 

20120612、この試合を楽しみにしていた。

ブラジルW杯アジア最終予選の対オーストラリア戦のことだ。日本は、FIFAランク23位、オーストラリアは24位。

対オーストラリア戦の試合の内容次第で、5大会連続5回目の出場を狙う日本〈ザック ジャパン〉の実力がはっきりと確かめられるからだ。日本国内では、オマーンとヨルダンに快勝したものの、オーストラリアはアジア屈指の実力国、W杯ドイツ大会でも苦しめられた。このチームとどのような試合運びができるのか、多くのサッカーファンは期待した。会場がオーストラリアのブリスベン、当然99%の観客が日本にとっては敵だ。

オーストラリアは、前半の前半から力でねじ伏せてやる、そんな攻撃を仕掛けてきた。観客も一体になって。先取点が欲しかったのだろう。前線に長いボールを放り込んで、それを力で押し込もう、そんな単純な戦法だった。日本は、よくピンチを逃れた。内田の不運なファウルでPKを献上したが、それ以外失点を重ねなかった。守りきったことも褒められていい。

欲を言えば、日本にはもう1、2点ゲットできるチャンスがあった、それをものにして欲しかった。

結果、1-1の引き分けで勝ち点7、Bグループ首位になった。

この3連戦を振り返ってみて、日本が目指している攻守のスタイルができ上がったように思う。

守備ではマークを厳しくチェック、パスをカット、相手攻撃を中盤までで崩す。そして、攻守の切り返しを早める。攻撃においては、ディフェンスラインを上げて、相手の深いゾーンに切り込み、その狭いエリアの中でボールを回す、相手の裏をかく、ドリブルで相手バックスを外す、マークをずらしてフリーになる、そしてゴール前にボールをできるだけ多く交差させることで、ゴールチャンスを増やす。此の頃の日本のスタイルはこのようになるのだろう。

ーーーーーーーーーーーー

以下、20120613 朝日・朝刊・スポーツ 河野正樹氏による記事を転載させてもらう。試合内容がよくわかる。

 MX-3500FN_20120618_140641_001

20120613 朝日・朝刊・スポーツ 後半、攻め上がる本田=福留庸友撮影

 

日本ドロー 勝ちきれず

敵地初戦 守備落ち着かず

ホーム2試合の快勝は本物だったのか。それが問われた試合だった。

アジアトップレベルの実力を持ち、W杯ドイツ大会などで苦しめられたオーストラリアとのアウェーでの戦い。この日の試合運びには、日本の強さと弱さが同居していた。

相手の攻守の切り替えは予想以上に早い。日本が守備に戻っていないと見ると、すかさず、FWケーヒル、アレックスにロングボールをつなぎ、こぼれ球を拾ってたたみかけてくる。日本は何度もピンチを招いた。

「最初が悪くても立て直せるのが今の日本の強み」とDF長友は言う。前半途中から、相手をいなし、こぼれ球を拾って攻撃につなげる。後半になると、退場者が出たことに加え、序盤から飛ばしていたオーストラリアの足が止まった。そこを見逃さず、後半20分にCKからDF栗原が先取点。ここまでは磐石だった。

その後も落ち着いてボールを回せれば良かったが、相手が仕掛けたロングボールの応酬に乗っかってしまった。後半25分、微妙な判定とはいえ、内田がPKを与えて同点を許した。「相手が少ないのに受けに回ったのは、自分たちの未熟さ」とMF長谷部は悔やむ。

最大のライバルに敵地で引き分けは悪くない。ただW杯での飛躍を目指すならば、勝ちきる強さをこのチームは求めてもいい。永友は自覚している。「世界で戦うにはまだまだ。満足していない」

 MX-3500FN_20120618_140752

20120613 日経・朝刊・スポーツ 後半、FKをセーブしほえるGK川島=共同

 

川島好セーブ連発

川島が再三のピンチを好守で救った。前半6分、オーストラリアFWケーヒルの至近距離のシュートを止めると、後半46分にはMFウィルクシャーの直接FKを間一髪ではじき出した。PKで1失点するも、日本守護神は「アウェーではどんなことが起きても仕方がない。自分たちの良さは要所で出ているので、前向きにとらえたい」。

 

 

主力の海外組み 綿密に調整

編集委員・潮 智史

最初の3連戦で2勝1分けは上々の滑り出しだ。ザッケローニ監督は「勝ち点7の事実より、いかに勝ち点を手にしたのか、その過程が気に入っている」。細部にこだわった周到な準備が実を結んだ。

チームはスタートダッシュにこだわっていた。目の前の一戦に集中しろと説きながら、監督も「勝ち点9を目指していた」と豪州戦後に明かしている。

背景にあったのは海外組の存在だ。主力の多くが欧州に足場を置く中で臨む最終予選は初めて。強みになる一方で、未体験ゆえの課題が出てくる可能性もある。欧州がシーズンオフの間に、予選の戦いを有利に展開しておきたかった。組み合わせによって、来年6月18日の最終節の前に全日程を終えなければならない事情もあった。

シーズンを終えたばかりの海外組に自主トレの場を与えたのは約1ヶ月前。体調管理を促し、予定になかったアゼルバイジャン戦を組んで試合勘を保たせた。最初のオマーン戦直前まで負荷をかけた練習で追い込んでいる。「体力調整は3連戦を想定してプログラムしてきた」。指揮官は試合中の交代でさえ、頻繁にドクターに意見を求めた。

コンビネーションは試合ごとに高まり、3次予選でもたつくことの多かった試合の入り方も改善された。すきの見あたらない試合運びで急速に力を伸ばした。

ただし、「3戦がつながっていたことでチームはよくなっていった」と答えた監督はさらに言葉をつなげている。「でも、これからは一緒にいる時間が減っていくーーー」。欧州のシーズンが始まれば、チームを支える選手は移動と時差を抱え、コンビネーションを合わせる時間は限られる。

「これでチームを離れてしまうのが代表の難しさ」。香川も手放しで喜ぶことはなかった。残り5戦にはまた別の戦いが待っている。

Wの文字に、血が騒ぐ

ロンドン五輪代表最終選考会を兼ねた日本陸上選手権でのことだ。男子やり投げで優勝したディーン元気の胸のWが、私には眩(まぶ)し過ぎた!!早稲田大学現役の3年生。この大会の優勝とロンドン五輪代表をつかんだ。

MX-3500FN_20120618_140844

20120610 朝日・朝刊・スポーツ 男子やり投げで優勝したディーン元気=矢木隆晴撮影

 

20120610の朝日・朝刊の記事を参考にさせてもらった。

表彰式では、えんじのブレザー姿の日本陸上競技連盟会長の河野洋平氏から、賞状をもらった時も、胸にはえんじにWの白抜きだった。河野洋平も早大卒だ。

ここにきて、これから綴ろうとしている文章が、自己中心主義的でセクショナリズム的、偏狭なものになるなあ、と危惧したが、甘んじて進める。寛容な友人たちに感謝する。

すでに五輪参加標準記録A(82メートル00)を突破した2人が競り合い、ディーン元気(早大)が84メートル03の大会新で初優勝した。2人のうち、もう1人は村上幸史(ゆきふみ・スズキ浜松AC)だ。

村上は、2投続けて大会記録を更新、3投を終えて2メートル以上の差をつけた。ところが、デイーンの4投目が、84メートル03、村上の記録を8センチ上回った。「手拍子だと自分のリズムでいけないから」と、人差し指を立てて観客に静かにするように求めた。「自分の投げに集中できたのが勝因」。冷静さが僅差の逆転を生んだ。

20120610朝日・朝刊 スポーツ面に載ったものが、上の写真で、その写真を眺めながら、この文章を綴っている。この写真を観て、不覚にも涙ぐんでしまった。

このWに今でも鋭く反応する、変な私なんだ。

ここまで拘(こだわ)るのは、やはり、私が稲門会スポーツのOBの端くれだからだろう。

彼らのように優秀ではなかったけれど、40余年前は、胸にWのユニホームを着用してプレーしてきた。優秀な選手は勿論、私のようなウジムシのような選手にも、稲門会スポーツに所属した者は、当然と言えば当然なんだが、Wへの想いは強烈に身に付いた。私は、誰もが認めるウジムシだったが、この「誰も」とは、私の先輩から同輩、後輩のことだ、この熱い想いは誰にも負けまいと4年間必死で過ごした。

1978年12月3日、福岡国際マラソンで当時早大3年生だった瀬古利彦が、胸にWの白抜きしたえんじのランニングシャツでゴールのテープを切ったとき、私はテレビの前で号泣していた。私は30歳。トップを快走する瀬古選手に、涙ぐみながら「紺碧の空」で励まし、このままゴールしてくれと祈っていた。このときの、感慨が蘇ってきた。

正月(1日、2日)恒例の箱根駅伝でも、我が校の走者に向かって、喉が裂けんばかりの声援をおくってきた。

ディーンと村上ががっちり握手しているのをテレビで観た。村上は、12連覇中だ。09年の世界選手権では第3位の記録を持っている。ここで、先輩の村上は「悔しいけど、負けてすっきりした。僕にとって価値のある負けにしないといけない」と話した。この男も格好良かった。勝者のデイーンの優勝を祝ったその顔は爽やかだった。村上さん、デイーンのためにも、頑張ってくださいな。

20120619の新聞で、村上選手はロンドン五輪の主将を務めるとあった。

2012年6月12日火曜日

あなたのことは、知ってました

昨年、弊社の商品(中古住宅)を買っていただいたお客さんから、やっと住み慣れましたが、物件について知りたいことが発生したので、忙しいでしょうが、ちょっと時間をとってくださいとの申し出があった。

私は宅建業者の売主の立場で、センチュリー21のチェーン店の管理課長のオさんは宅建業者の媒介業者の立場で、買主の要望に応えるべく、買っていただいたお家(うち)にお邪魔した。

広い敷地に大きい建物。日当たり良く、周囲に緑が豊富で静か、住まいとしては秀逸の環境だ。相鉄線の最寄駅からは、歩いて20分。これだけの好条件で、販売価額はぐ~んと控えめだった。いい買い物をして頂いた。

リビングルームで、主人が現れるまで畏(かしこ)まって待っていた。その待ち時間に、管理課長のオさんが私に話しかけてきたことが、私には興味ある話しだったので、ここでそのことを書き記しておこうと思った。

ヤマオカさん、実は、私はあなたとは、10年以上も前にお会いしているんですよ、名刺交換をさせていただいたのですよ。あなたは、憶えていらっしゃらないようですが、私には印象深くて、よ~く憶えています。

お会いした場所は、栄区豊田の中古物件でのことです。私は、その週末に栄区でお家を探しているお客さんがいて、そのために数棟、案内する物件の下見をしていたら、その家にあなたが居たんですよ。それも、屋根に上って、2階のベランダや壁に水を撒いていたのです。あなたは、雨漏りのテストをしている最中だと言っていました。

その時に名刺交換したら、あなたの肩書きが代表取締役とあったので、吃驚したのです、とこれからどれだけの緊張した時間を過ごすことになるかもしれない、そのチョイの間に、そんな話をしてくれた。変な社長もいるもんだと、その時は不思議に思いましたよ、と付け加えた。

只、それだけの話なんだけれども、私には快い気分だった。でも、このような快い話ばかりではない。お叱りを受けたことだって、どれだけあったことやら。

私、63歳、まだまだ仕事は続く。

話が終わってお家を出ると、主人は、突然、庭で栽培している幾種類ものハーブ系植物の説明をしてくれたが、私が知っていたのはラベンダーだけだった。説明を受けたハーブ系よりも、主人が余り興味なさそうな蕗(フキ)の方に食指が動いた。主人さんが貸してくれたハサミで、晩飯用に初めは20本ぐらいくださいね、と言っていたが、採り終えたときには倍の40本はいただいていた。

慎み深く、誠意をもって、努力する。そのように生きなくてはイカン。

2012年6月11日月曜日

目をさませトラゴロウ

 

MX-3500FN_20120318_124134_001

 

東京演劇アンサンブル こども劇場

題名=【目をさませトラゴロウ】

作=小沢正

脚本・演出=広渡常敏

演出補=入江洋佑

音楽=林光

装置=岡島茂夫

照明=大鷲良一

効果=田村奈悳

舞台監督=入江龍太

制作=大田昭

 

20120508

19:00~

ブレヒトの芝居小屋

MX-3500FN_20120324_172342_001

 

20120508。

ブレヒトの芝居小屋にお芝居を観に行ったのは、久しぶりだ。今年初めての観劇だ。今回はこども劇場。

孫の晴(長女の息子)と私の2人での観劇。やはり、我が血統は、男こそが、こういうことに関心をもつようなのだ。山岡一族の女系は、合理的で理性的、実利的で生活的、そのDNAが我が一族の大黒柱を貫いているのだ。

 

山の竹やぶにトラが住んでいた。名前はトラノ・トラゴロウといった。

トラゴロウはいつもおなかを空かせている。

トラゴロウが三番目に好きなのは居眠りすること。

そして二番目に大好きなのはにくまんじゅう。

でも一番大好きなのは、三番目に好きな昼寝をしているところへ、二番目に大好きなにくまんじゅうが転がってきて、それをパクッと食べること。

 2012.5.9 006

トラノ・トラゴロウと晴、龍太

 

2012.5.9 003

入江洋佑さん

 

面白かった!! 

孫の晴も、客席のみんなも大喜びだった。なんと言っても、原作「目をさませ トラゴロウ」の物語の奇抜さにあるのだろうが、愛らしい熊のトラゴロウと他の動物たちが途方もない展開を繰り広げる、その俳優さんたちの動きが、子どもたちの目に楽しく映るように演出され、それが大いに盛り上がらせた。楽しかった。

特に、2人で操るぬいぐるみの激しい動きが、私には職人芸的に観えた。俳優さんに向かって、職人芸的だと表現することは、大変失礼なことぐらいは解っている。クマゴロウの浅井純彦さんと、熊谷宏平さんには、帰り際、ご苦労さんとご挨拶した。彼らの額には大量の汗が溢れていた。彼らの顔は誇らしげだった。

粗筋は割愛。本を読んで楽しんでくださいなあ。お貸しします。

芝居を観に行くと決めてから、原作の「目をさませ  トラゴロウ」の中古本をネットで見つけて、読んだ。新刊時には1200円もするものが、中古で520円、送料250円を入れて総額770円。売主は、長崎市のウイング書店だった。

この本屋さん、長崎市内のどんな商店街にあるどんな店なのだろう。本屋さんに売った人は、どんな人だったのだろうか。どんな店員さんが荷造りをしてくれたのだろうか、オバサンか娘さんか、堅物の頑固オヤジか。ネットでは、見ず知らずの相手と取引ができるなんて、今更ながら不思議に思うのは、私だけだろうか。

ジジイこと私は、瞬間的に2回読んで、孫の晴に回したけれど、此の本は、オジサンたち、大人たちにも、十分楽しめる本だ。この本をどのように芝居にするのか、それが楽しみだった。

先日、秋田県のクマ牧場で熊が脱出して、飼育係2人が襲われた事件が起こって、私らは、人間に危害を及ぼす可能性のある動物と人間との付き合い方について考えさせられた。人間と共存共生できる動物はよし、でも人間に危害を及ぼす可能性のある動物を、金を取って見世物にして稼ぐ、そんな発想は金輪際止めなくてはならん、と思われた。熊は、特に群れをなすことを嫌う性質らしい。そんな動物を食事も十分与えもせず、集団で監禁状態にすれば、あのような悲劇が起こったのも、何となく首肯できる。亡くなった人にはお気の毒だ。

舞台監督の入江龍太が、たまにはこのような芝居もいいでしょう、と話しかけてきた。入江親子と、孫の晴を挟んで写真を撮った。

 

芝居で使われた歌。

♪ まちがかわる日のうた 

あるあさ  目をさますと

まちが かわっている

サーカスからも  どうぶつえんからも

おりが なくなっている

そして どうぶつたちが

とおりを あるいている

だけど まちの人は みんな

へいきなかおを してるんだ

どうぶつたちが  まちを あるくのは

ずっと ずっと むかしから

あたりまえのことだった

とでも いうように  へいきなかおで

どうぶつたちといっしょに

あるいているんだ

そんな日が

はやく くるといいな

ほんとに はやく

くると いいなあ ほんとに

そんな日が くるといいな

はやく はやく

くると いいな

帰途、車の中で晴は、「まちがかわる日のうた」を口ずさんでいた。彼が喜んでくれたことに私も嬉しかった。練馬のブレヒトの小屋から丁度1時間で、権太坂に着いた。晴は母親に抱きしめられていた。

 

NO101 a letter from the Ensemble 12,3,13

さあ 「トラゴロウ」だ

著・入江洋佑

素晴らしくカッコウのいい芝居をお届けしたい。小沢正作の『目をさませトラゴロウ』だ。「目をさませ」題名からして、毎日の暗い日常に眠っているぼくたちを目覚めさせてくれるようだ。トラゴロウは少年のトラだ。煙草など吸って、ちょっと不良っぽいところもある。二番目に好きなものは肉まんじゅう、三番目に好きなのは眠ること。ところが、一番好きなのは、三番目に好きな居眠りをしているところへ二番目に好きな肉まんじゅうがころころ転がってきて、それをぱくっと食べることだという。つまり、運動的に全く異なる二つの欲望を同一時点で合同させるという弁証法とかいう論理とソックリな夢を持っているトラなのだ。

作者の小沢正さんは1960年、大学生の時に安保闘争のデモに参加しながら、新しい児童文学を試みた。それは、どうしても教訓的で濕り勝ちな日本の文学に、乾いてシュールな文体を創り出すことだった。そうして生まれた「トラゴロウ」だったが、お父さん、お母さんたちには評判が悪かったようだ。最初はあんまり売れなかったのだが、こどもたちが読んで、口から口へ広まってついにはベストセラーになった。こどもの鋭い感覚だけがつかまえられる世界が「トラゴロウ」にはあるのだ。そのあたりのことを優れた児童書を出版しつづけてきた理論社の小宮山量平はこんな風に書いている。

「(略)この本には、へんなことがいっぱいある。お父さんだってお母さんだってすぐにはへんじできない事がいっぱいある。

しかたがない。じぶんでかんがえるんだ。かんがえるっておもしろいことだぞ。

ーーーー作者は、そういってわらっている。いじわるだ。でも、こどもは、このいじわる先生のトラゴロウものがたりをよみながら、とにかく、じぶんでかんがえるだろう。じぶんでかんがえたこたえをみつけたこどもたちは、ほんとうに、きらりきらい目をかがやかせるだろう。それから、にっこりわらうだろう」

ステキな紹介文だ。

そんな硬質なスタイルの文学をどのように演劇にすることができるか。アンサンブルがこどもの芝居に挑む時の基本の精神について広渡常敏の一文がある。「(略)こどもの芝居にはぼくら芝居屋の理想主義があるのだと、これまでぼくは言ってきたが、理想主義の中身について考えよう。理想主義には芝居のいちばん大切なことがつまっている。俗なことばかしらんが、凛(りん)としたものがなくてはならん。ストーリーに負ぶさっておもしろおかしく、あるいは情熱や迫力で、こどもを集中させることなんかじゃない、凛! としたものだ。〈役〉を演じるだけじゃない、役者本人のこどもに対する理想主義がなくてはならんのだ。エスプリなのだ。エスプリ(esprit)は精神とか機知、才気というわけだが、精神性の高いビューティフルな感覚だ。たとえば〈人間は人間の未来である〉というのはエスプリのことばだ。普通の人はこんなことばはいえない。普通の人はこどもの芝居をやってはいかんのだ。勿論、こどもの芝居だけじゃない、おとなの芝居もやってはいかんのだ。おとなの芝居はストーリーや意味・内容で観客は見てくれるところもあるが、こども(特に低学年、幼児)の場合はそうはいかない。芝居の、役者のエスプリに直観する。エスプリの乏しい普通の人は芝居なんか演ってはならんのだと思う。いまさかんに論じられているトラウマ(外傷)も感じないだろうし、不登校になったこどものトラウマも感じないで、登校する〈よい子〉に安心するだけ、これが普通の人なのだ。

こどもの芝居について考えることは、芝居というものの、芝居する役者の、演出者、制作者の、最も大切な〈精神〉を考えることになる。」

『目をさませトラゴロウ』初日まで50日。小沢さんのシニカルな眼と、暖かいユーモアとギャグ、ぼくたちはそれをどの位乾いてできるだろうか。すごく上質なスクラップスティック(日本ではドタバタ喜劇と言われているがーー)にしたいもんだと思っている。

MX-3500FN_20120324_172406_001

ところで、話は変わりますが、、、、。

先日20120413に、この本を出版した理論社の元社長小宮山量平さんが95才で亡くなられたことを新聞で知った。

この小沢正さんの「目をさませ トラゴロウ」も小宮山さんの手によるものだった。

最初の本を出すまでは、誰もが無名の新人。小宮山氏は、新人の発掘名人で、見いだされた作家はいずれも生き(息ではないな?)の長い健脚の書き手になり、ずうっと走り続けている。

この小宮山氏に発掘された作家と作品を後の方に列挙した。私には縁の浅い本ばかりだが、いつかできるだけ読んでみたいと思っている。児童文学者の今江祥智(いまえ・よしとも)さんが小宮山氏を悼む文章を朝日新聞に寄稿していて、その中で知った。

「星の牧場」の庄野英二、「けんかえれじい」の鈴木隆、「ちびっこカムのぼうけん」の神沢利子、「兎の眼」の灰谷健次郎、「ぴいちゃあしゃん」の乙骨淑子、「北の国から」の倉本聡らの作品をやつぎ早に本にた。

2012年6月9日土曜日

新藤兼人監督 死去

MX-3500FN_20120602_123534_001

20120531朝日・朝刊 新藤兼人監督=2010年

 

20120531の朝日新聞と日経新聞の記事をそのまま、マイファイルさせてもらった。

新藤兼人氏を偲ぶことにしよう。

この稿全ては新聞記事をそのまま転載したものだ。

1面

新藤兼人監督 死去

映画「原爆の子」「裸の島」

「原爆の子」「裸の島」など社会性あふれる作品を数多く生み、日本最年長の現役映画監督だった新藤兼人(しんどう・かねと、本名・兼登)さんが、29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。100歳だった。

広島県出身。1934年、京都の新興キネマに入り、興亜映画を経て44年に松竹に入社した直後に召集される。復員後に脚本を手掛けて評判になり、50年、吉村公三監督らと独立プロ「近代映画協会」を設立。翌年「愛妻物語」で監督デビューした。52年に「原爆の子」で社会派として注目される。広島で被爆した子どもたちの作文をもとに、保母と子どもたち、その家族がたどる悲惨な生活を描いた。「原爆」は終生追ったテーマの一つで、原爆で全滅した移動劇団の最期を追った「さくら隊散る」(88年)なども監督している。

61年、瀬戸内海の小島の家族の生活をせりふ抜きで表現した「裸の島」(60年)でモスクワ国際映画祭グランプリに。ほかに「第五福竜丸」(59年)や「本能」(66年)「裸の十九歳」(70年)「竹山ひとり旅」(77年)「北斎漫画」(81年)など、人間の苦悩や生きる力、社会とのあつれきを粘り強く追求した作品が並ぶ。

76年に朝日賞、2002年に文化勲章。

独立プロ時代から苦楽を共にした女優の乙羽信子さんと78年に結婚。乙羽さんとの最後の出演作「午後の遺言状」(95年)の舞台化で99年、舞台演出も手がけた。

最後の作品となった「一枚のハガキ」(2011年公開)もキネマ旬報1位など高い評価を受けており、「周囲が許せば、もう1本、100歳の映画を作りたい」と語るなど、創作意欲が衰えることはなかった。

 MX-3500FN_20120602_124025_001

20120531朝日・朝刊  「北斎漫画」で樋口可南子さんに演技をつける=1981年

 

37面

戦争体験 強烈に映す

新藤兼人さんの映画は強烈な反戦主義で貫かれていた。これは自身の戦争体験に負うところが多い。召集をうけた仲間100人がクジ引きで次々出撃して帰らぬ人となり、終戦を迎えた時に生き残っていたのはわずか6人だったという。

亡くなった仲間のことがずっと頭から離れなかったと、晩年の新藤さんは記者によく語っていた。「なぜ自分が生き残ったのか。なぜ生かされているのか」。反戦を訴え続けたのは、自分のやるべきことがはっきり見えていたからだ。

硬派な映画でも、観客を退屈させないサービス精神を発揮した。それは長いキャリアの初期を脚本家として過ごしたためだ。溝口健二監督に「これは脚本ではない」と一蹴されて奮起。吉村公三郎や木下恵介ら名監督に重用され、商業映画の脚本を量産した。その時に培われた映画屋魂が監督作にも息づいていた。

もう一つの特徴は、人間の強さやしたたかさをユーモアと愛情をもって描いた点だ。代表作の一本「裸の島」は瀬戸内の小島で淡々と暮らす夫婦の生命力をセリフなしで表現しきって、海外でも高い評価を得た。

高齢になっても創作意欲は衰えなかった。「これが最後の作品」と何度も言いつつ、無手勝流とも呼べる自由な境地でコンスタントに作品を発表した。

「本当にこれが最後」と宣言したのが「一枚のハガキ」だった。応召した100人のうち6人残ったという原体験をモチーフに、反戦主義と人間のしたたかさをひょうひょうと描き、新藤映画の集大成となった。しかも新藤さんらしく、きちんとヒットさせた。

2010年6月末、群馬での撮影現場にお邪魔したことがある。冷房の利かない酷暑の屋内で、孫の新藤風さんの押す車椅子に乗っててきぱきと指示を出す姿は、とても98歳のものではなかった。

撮影終了の日、無人になった現場で、涙が止まらなくなったという。「こんなことは初めて」と話していた。万感の思いの中心には、すべてを出し切った満足感があったと思う。映画に全てを捧げ尽くした人生。今頃は戦争で逝った仲間に再会し、褒められているに違いない。(右飛徳樹)

 MX-3500FN_20120602_123631_001

20120531朝日・朝刊 「原爆と戦争責任」について、ドキュメンタリー作品に取り組む=1976年

 

映画ヒロシマ 晩年まで意欲

「死ぬまでに映画『ヒロシマ』を作りたいんです」。2009年の朝日新聞のインタービューに、新藤さんは故郷の悲劇を改めて映画化する意欲を見せていた。戦争から復帰して戻った広島は焦土と化していた。その光景が原爆孤児らの群像を描く「原爆の子」を作る原動力になった。「我々が百ぺんしゃべるよりも、『原爆の子』をいっぺん見ただけで人の心をひきつける」と広島県被団協の坪井直理事長。「亡くなっても映画は残る。たくさんの人に見てもらいたい」

新藤さんは当時を伝える被爆建造物が減ることに危機感を抱き、学者らによる「被爆建造物を考える会」が89年に発足した際に記念講演。被爆証言の大切さも説いていた。

 

俳優「魂に触れ感謝」

「一枚のハガキ」に出演した俳優は30日、一様に死を惜しんだ。主人公を演じた豊川悦司さんは「すさまじくも美しき100年、その魂に少しだけ触れさせていただけたことに感謝しています」。大竹しのぶさんは「私の中で、映画も監督も、永遠に生き続けます。監督、これからも私たちに正しいことを教えてください」と、それぞれコメントした。柄本明さんは4年前の出演作品を振り返り「『まだ撮れる、まだ(時間が)ある』と言っていた。撮影に入れば、年齢を一切感じさせない人だった」と話した。

 

山田洋次監督の話

仰ぎ見るような先輩でした。ヒットするとかしないとかまったく考えないで、地をはうようにして映画を製作する。でも、経済的に苦労されたのではないか。僕なんか想像できないような苦しい思いをたくさんしてきたのではないか。肉声がスクリーンから聞こえてくるような作品でしたね。

 

  top_main

 

20120601

朝日朝刊

天声人語

「これは日本人だけが作れる映画だ。日本人だけが作る権利を持ち、より以上に作る義務を持っている」と、60年前の小欄が書いている。新藤兼人監督の「原爆の子」を見て、当時の筆者は「すぐにはペンを執れぬほどの強い感動をうけました」と記した。

占領下の日本で、原爆をめぐる記述や映像は厳しく検閲された。封じられ、忘れられたようだった原爆の悲惨を、この映画は真っ向から描いて突きつけた。「作りたい映画をつくる」を貫いてきた新藤さんの代表作である。

その訃報を聞いて、硬骨にして濃密な人生軌跡を思う。反戦平和への信念は、兵役の体験が根底にある。「ゴミみたいな中年兵の一人だ」だった。殴られ、しごかれ、「もう敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわからなかった」。召集仲間100人のうち、実に94人が戦死していった。

終生のパートナーになる乙羽信子さんには、亡妻をしのんだ監督デビュー作「愛妻物語」の妻役として出会う。すでに新たな家庭があった。それぞれの葛藤は想像に余るが、長いときののちに結婚に落ち着いた。

乙羽さんの自伝にある言葉がいい。「(好かない男の砂糖より)好いた男の塩の方が甘い」。がんで余命わずかな乙羽さんが、夫のメガホンで燃焼しきった「午後の遺言状」は名作の誉れが高い。

「新藤組はシンドイ組」と言われた撮影への執念。それを携えての旅立ちだろう。4月の小欄で満100歳をお祝いしたばかりだった。天界では新たなロケが始まるころか

 

20120531 日経新聞 文化

新藤兼人さんを悼む  地道な労働への愛と誇り

映画評論家・佐藤忠男

新藤兼人監督がなくなられた。

つい先日100歳の誕生日を迎えて、たくさんの弟子や後輩やスタッフ、そしてもちろん家族の人々の集まる誕生祝いのパーティーで祝福されたばかりである。

かって、日本映画には、小学校、あるいは旧制中学だけの学歴の巨匠がたくさんいて、撮影所の下積みの苦労を重ねることのなかから自分の独自の表現を作り出してきた。新藤兼人はその最後の人である。農家の出身だが、父親の破産で農業を継ぐことはできず、映画界の仕事は撮影所の現像場の肉体労働から始めた。その労働に対する愛と誇りは新藤兼人の映画に一貫する重要なテーマになっている。

新藤さんは敗戦直後の頃にシナリオ作家として注目され、売れっ子になるが、まもなく同士とともに近代映画協会という独立プロを起こす。当時、思想的な理由で撮影所から追われて独立プロを起こした映画人は少なくなかったが、新藤さんの場合はそうではなく所属していた松竹の撮影所で吉村公三郎監督との名コンビを引き裂かれようとしたことに抗議して独立プロを起こしたのである。

独立プロでは経営的にとても難しいということは誰にもわかっていたので、、みんなびっくりしたものだった。あくまで作りたい映画だけを作るという信念、あるいは一緒に仕事する仲間をなにより大事にするという態度からそうしたのであろう。そして結局、60年もそれを続けてきた。これは大変な記録だと言っていい。

経営の難しい独立プロだから派手な映画は作れない。作品自体が貧相に見える場合もないではない。しかし、反戦、平和、そして貧しい人々のけんめいな生き方に対する一貫した支持、さらには自分を育ててくれた母親や姉たち、妻、そして小学校時代の教師、仕事仲間など、深く恩を感じる人たちに捧げる感謝。そういう主題は変わらない。「愛妻物語」「原爆の子」「第五福竜丸」「裸の島」「母」「竹山ひとり旅」「落葉樹」「さくら隊散る」「わが道」「三文役者」などの作品にそれらは結実している。

こんなに自分の心からあふれる思いを映画で描き続けることができたなんて、なんという幸せな映画作家だったことかと思う。それらの作品が、時として暗くてしんどく、エンターテインメント的には弱かったことは否定できない。しかし、年齢を重ねるに従ってそこに、初期の鋭さや叙情に加えてなんとも言えない滋味とユーモアもにじみ出てくるようになった。その結晶が遺作となった「一枚のハガキ」である。戦争反対を遺言のように真剣に語っているが、その語り口のなんという土くさい笑い。その笑いが怒りと同じくらい力強くて良かった。

日本の文化的伝統は階級によってそれぞれ独特のものがある。そのうち武士の伝統は黒澤明が表現しているし、町人の伝統は溝口健二が受け継いでいる。小津安二郎はかっての文人から近代の市民層の文化を表現していると思う。そして最も人口の多い農民の文化的伝統を映画で受け止めて映画で表現したのは新藤兼人である。地道な労働を価値ある大切なものとして描くことと、仕事の仲間や家族への感謝を大事にすること。個人のというより、仲間や身内の声として社会的主張を表現すること、などが特色である。

洒落た笑いよりも集団的でエネルギッシュな笑いがそれに加味されて、それがどう発展するか、楽しみにしていたのに、なくなられて悲しい。しかし本当にお手本にしたい生き方である。合掌。

ドクダミは、十薬だ

今度はドクダミに挑戦しようと思った。

img_5342.jpg

どこにも生えて、特に庭や畑では邪魔者扱いされているアイツのことだ。私の生家は農家で、この草を見つけると、父は忌(い)ま忌ましい顔をして、引っこ抜いては、畑から遠い所に処分をしていた。

子供の頃、父も母も、それほど関心を見せなかったが、祖母はひたすらドクダミを乾して番茶を作るように煎じて、私には飲ませてくれた。誰かが、病気した時に、にわかに作ったようでもないし、さりとて、番茶のように常飲していたわけでもない。

十薬(ジュウヤク)とか、センブリ茶?とかそんな言葉として、記憶にある。祖母から、虫下し(むしくだし)によく効くので飲みなさいと言われてよく飲んだ。家族の他の者はどのようにしていたのだろうか。当時、野菜の施肥には糞尿が使われていて、ぎょう虫をお腹に持っている人が多く、そんなことを心配してのことだったようだ。

実際、小学校では毎年恒例で検査を受けた。昭和の20年代は、ぎょう虫卵の保卵率は70~80%で、結核と並んで国民病と呼ばていた。現在では、化学肥料の普及や下水道の整備によって、幼稚園児、小学校の児童の保卵率は1%に減った。

先生から説明された内容は、今でもよく憶えている。だって、子どもには余りにも面白い話だったから。成虫のメスは、寝ている夜中に、肛門から出てきてその周辺に卵を産み付ける。その産み付けた卵をセロハンテープのようなものを張って有無を確認する、そのような検査だった。検便ではぎょう虫の検査はできなかったのだろうか。夜中に、肛門から抜け出したぎょう虫が、我物顔で活躍しているなんて、不思議だった。成虫が動きまわった肌は痒かった。

思えば俺たちはの子どもの頃、お尻をよく掻いていたもんだ。

ここで、私は大きな勘違いをしていたことに気づいた。センブリ茶はセンブリ茶として私のこの稿とは別にあった。我が家では、ドクダミを煎じて飲んでいたので、煎(せん)じるをセンブリ茶のセンと、いつか混同してしまったようだ。

現実にこのドクダミの煎じたものを飲んだ後、排便の中に白い小さな虫を見つけたことはあった。

このドクダミが会社の周りの日陰に沢山生えてきたのだ。除草して捨てるには、勿体ない。乾燥させたものを煎じて飲んだ感想をブログする。採集するのは20120614日の金曜日だ。金曜日は、社員全員で社屋の内外を掃除する特別の日だ。

 

最後に、ネットで得た知識をまとめておこう。

薬草としては十薬と呼ばれ、利尿・湿疹・腫れ物・蓄膿症に効能がある。生薬としては、生葉を揉んで柔らかくしておできに当てると吸出しの効果がある。食用にもなる。若芽や若葉は加熱すれば悪臭は消えて、天ぷらなどがおすすめ。またドクダミ茶は、便秘・むくみ・動脈硬化に効果あり。入浴剤にして薬湯にすれば腰痛にもいいとか。

北島の今の心境は?

MX-3500FN_20120609_091608

20120412日経新聞(探検学校・三浦豪太)

高速水着を着用して出した自らの日本記録を上回った北島(日本選手権)

 

4月、ロンドン五輪の日本代表選手の選考も兼ねていた日本選手権で、ひょっこり日本に帰ってきて、100メートル平泳ぎで日本記録を上回り、3日後には200メートルでも優勝してしまった。

優勝してしまった、と言う表現は、私にとって、なんだか拍子抜けしたというのが、正直な思いだったからだ。五輪派遣の基準タイムを軽々とクリアし、初の4大会連続の五輪代表を決めたのだ。4大会連続とは、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神だ。

2000年のシドニー五輪では、100メートル平泳ぎで4位入賞。次の04年アテネと08年北京の両五輪では、100メートル、200メートルの平泳ぎで金メダルを獲得した。

0、01秒の差を競う個人競技だ。

北京五輪が始まる前まで、アテネ五輪で2種目金メダルを獲得してから、どのように過ごしたのだろうか、それが知りたかった。最高の栄誉の金メダル獲得して、さらに次回に向けて緊張をどのようにしたら持続できるものなのか、知りたかった、心配もしていた。高速水着が話題になったときにも、目もくれず泰然自若、「泳ぐのは僕」と言い切った。ところが、どっこい、私の心配を露ほども感じさせない泳ぎで、2大会連続で2種目とも金メダルを掻(か)っ攫(さら)ってしまった。

そして、今度はロンドン五輪を目指している。

北京五輪後の1年以上の休息の後、2009年の11月に「今、復帰しないと、ロンドン五輪に間に合わないと体が言ってきた」と話した、といつかの新聞記事で知った。

そして、先の日本選手権で見事な記録で、我々の目の当たりに健在ぶりを証明した。

それじゃ、アメリカで、泳ぐってことをどのように考えて過ごしているのだろうか、と気になっていたら、ちゃんと新聞がその辺りを記事にしてくれていた。記者は女性だった。取材の的は、他ならぬ北島康介なのだから、もう少しの突込みが欲しかった。

この記事を逃すまい。今の北島の様子がよく解る記事だったので、いつも通り、マイファイルさせてもらった。

 MX-3500FN_20120609_090543_001

20120605日経新聞 自己責任の国、米国で「水泳の楽しさ知った」という北島。

(米カリフォルニア州サンタクララ)

 

20120605 スポーツ

日経・朝刊  北島、考えて泳ぐ

米で開いた新境地

「結果がわからないからことに挑戦 楽しい」

ロンドン五輪で平泳ぎ2種目の3連覇に挑む北島康介(日本コカ・コーラ 29)が、米カリフォルニア州で3日まで行われたサンタクララ国際に出場した。二人三脚で歩んできた平井伯昌コーチのもとを離れ、米国に拠点を移して2年余り。独りで試行錯誤を楽しみながら泳ぎを仕上げ、五輪史上初の偉業がかかる本番を迎える。

五輪前の最後のレースとなるサンタクララ国際では、100メートル、200メートルとも低調な記録に終わった。もっとも、この結果は予想通り。むしろ良い刺激を受けたようだ。「これでいい練習をしたい気持ちでいっぱいになった。スイッチが入る」

悪い理由はわかっている。五輪代表選考会だった4月の日本選手権の後、再び追い込んだ練習をしていた。また、米国では腕のかきを重視するが、北島の持ち味はかって蹴った瞬間に肉離れを起こしたことがあるほどのキック力。この2つがまだかみ合っていない。

理屈では、キック力に強い腕のかきが加われば、速くなる。「自分の良さを生かさないといけない。でも、これをやったら速くなるとか、分からないよ。結果が分からないことに挑戦するのが楽しい」。

いいコーチの指導を受ければ「努力する選手、才能ある選手はある程度までは伸びる」と北島。だが「そこから先は何が正しいか分からない」。すでに誰も成し遂げたことがない場所にいる。その先の解を考えるのが、今は面白くて仕方ない。米国で新たに知った水泳の楽しみ方だ。

米国では練習メニューこそあるが、選手がそれぞれの意志を持って、自分の感覚を大事にして練習する。「人に流されないんだ。僕も(コーチの)デーブの話を半分聞き流している感じ」。体調やモチベーションを自分で保たなければならない一方で、「周りにガタガタ言われない。ダメだったら全て自己責任。失敗の原因を分析するのも楽しいしね」。

この2年、試行錯誤してコツコツ積み重ねてきたことは「徐々に生きている」。故障の多い北島がケガらしいケガや体調を崩していないのもその証しの一つか。今後のテーマは腕のかきとキックを合わせること。「自分のタイミング、水の感覚を頼るしかない」。

4年前、8年前は「絶対、金メダル」と目をギラギラさせていた。勝負そのものが楽しかった。今回は違う。「落ち着いているね。成し遂げたい気持ちはない」。今の醍醐味は自分で考えて泳ぐこと。そのために努力する。

「もう僕の勝負は(多く)見てもらったでしょ。でも十分な状態で五輪に出れば、みんなにも楽しんでもらえると思う」。自分の考えの正しさに手応えを感じている。

(サンタクララ〈米カリフォルニア州〉=原真子)

2012年6月7日木曜日

後輩と久しぶりに、痛飲した

大学時代のサッカー部の後輩が、久しぶりに弊社に顔を出してくれた。

松さんだ。

卒業して入った日本でも有数な重電系大手を35年勤めて、定年後に再就職した会社の営業を兼ねての訪問だった。営業をしかけられた内容には、今後できるだけ協力すると約束を交わした。かって、15年ほど前には、私も経営に参加したトナーカートリッジのリサイクルの仕事で、松本さんが勤めていた会社から常時、大量に受注させていただいていたので、その恩返しの意味も込めて、協力したいと思う。

その重電系大手は、色んな分野を手がけていたが、彼は、街角などでよく見かける飲み物などの自動販売機を扱うセクションに所属していた。自社で製造したものを、いろんな方面に販売する営業の係だった。銀座のクラブで女性を侍らかし、お酒を飲んでのサービス残業に精励、お陰様で糖尿病になっちゃいました、と笑っていた。ゴルフは、接待ゴルフで相当腕に自信をつけたようだ。

H24.6.5 

彼は、昭和44年頃のこと、浦和南高校が高校サッカーで三冠を獲得したときのメンバーだった。有名な松本暁司先生率いるチームだった。その勢威(いきおい)で、我らの大学に入部した。優秀な選手だった。このチームからは、その後、古河電工に入社した永井良和氏、日本サッカー協会の田嶋幸三氏やサッカー解説者の水沼貴史氏らを輩出した。

私が大学でサッカーに明け暮れていた頃、サッカーが盛んだった地域は、北から埼玉、東京、静岡、京都・大阪、広島だった。明治40年代に大学でサッカーをしていたのは、東京帝国大学と東京師範学校だった。この東京師範学校の卒業生が教職員として散らばったのが、埼玉、静岡、広島だったようだ。私の出身である京都府も教員のサッカーチームが強かった。この影響が教育にも行き届いたのだろう。中でも、群を抜いていたのが、埼玉、静岡、広島だった。

酒を飲めば、出てくる話は昔の学生時代のことばかり。話は、喜怒哀楽込み込みの四方山盛り?沢山。私たちの青春時代、4年間、熟(う)れることなく青い果実のままだった。

彼は私たちの大学のサッカー部(私たちの大学ではア式蹴球部と呼んでいる)を、一時的に抜けたことがあった。その原因は、OBで日立製作所サッカー部の三太郎さんに、練習時間中ではなくプライベートに呼び出されてイチャイチャ文句を言われ、それに対して若者らしく激しく逆らった結果だったらしい。実に、下らない先輩から下らない忠言を受けたらしい。馬鹿はいつの時代も健在だ。

しばらくグラウンドから遠ざかった彼は、やはり、再びグラウンでプレーすることを部に対して切望した。申し出を受けた我ら4年生は、8人、この件で話し合いをもった。学生自治だ。ある者は、我が栄光の大学サッカー部を舐めているんではないか、軽く見くびっているんではないか、と言う。ある者は、失敗やミスや愚かな行為を、強く反省しているのならば、何度でも、受け入れていいのではないか、と言う。

松さん、俺はあのとき、あなたの復帰を支持する最左翼だったんだよ。

話し合いの内容は、こんな内容だった。私は、栄光だとか名誉あるチームだということは理解できても、この件を判断する何の基準にも成り得ないと思っていたから、彼の復帰を迎えたかった。

本音で、仲間が一人でも多く居て欲しかったのだ。こんな話し合いだったが、腹を割って話し合うと、随分、自分と異なる意見を持っている者もいることに、気付かされた。これから巣立って行く社会も、このように千差万別、色んな考えが入り乱れているのだろう。

話は、転職した会社のこと、今までの会社でのこと、家族、とりわけ子供たちのことについては、力を入れて話していた。話しは尽きなかった。私の会社の、今の状況についても詳しく話した。

大学時代に同じ釜の飯を食った仲間は、いいもんだ。自宅は新小岩だそうだ。

2012年6月6日水曜日

ジャンクフードって?

晴 189

私の孫、晴だ。(20120101の鎌倉八幡宮へ初詣)

 

20120606の日経新聞・夕刊の社会面に、『「ジャンクフードCM流しません」米ディズニー系TV局 子ども番組で方針』のタイトルの記事に目を取られた。

なんじゃいな、このジャンクフードちゅうのは。

先ず、このジャンクフードという言葉を調べた。ネットでオーガニックレストラン・ショップ=きのまま、さんの説明文がいかにも手馴れている感じだったので、ここに無断で引用させてもらう。

ジャンクフードとは、塩分や糖分、脂肪分が多く、ビタミン類が乏しく、栄養価が低い食品で、英語でJunk-food、つまり「ガラクタのような食べ物」という意味をもつ。

ジャンクフードは、口当たりの良い「パーム油」などが多用され、味覚を過剰に刺激し、次から次へと食べるように調味づけられている。このため、一度袋を開けたら、やめたくてもなかなかやめられない、しかもカロリーが高いため少量でもカロリー過多になってしまう。

ジャンクフードは「ダイエットの大敵」とも言われている。

ネットでのジャンクフードの説明は、このようだった。

アメリカでは、お馴染みのジャンクフードを、子どもたちの目から逸(そ)らせようとする動きを、子どものエンターティンメントを扱う会社が始めたというニュースだ。それほど、アメリカでは子どもの肥満問題が深刻なのだろう。

下の方にその新聞記事を転載させてもらったが、この新聞記事を、先ずは、目の中に入れても痛くない、我が孫と、その孫の両親、私の娘夫婦のことだが、彼らに捧げたい。孫には、罪はない、大人たちの問題なのだ。ジジイからのささやかな遠隔プレゼントだと思って、この新聞記事を読んで、そして、孫にも解るように話してくれませんか。

それじゃ、新聞記事を転載しまっせ。

MX-3500FN_20120609_132815_001

米娯楽・メディア大手ウォルト・ディズニーは5日、ABCなど傘下のテレビ局が放映する子供向け番組で、糖分などが多く、高カロリーで健康に良くない「ジャンクフード」のCMを流さない方針を発表した。

深刻化する子供の肥満など健康問題に対応する狙いがあり、こうした広告規制の導入は米主要メデイアで初めてという。

米国ではブルームバーグ・ニューヨーク市長が先に、特大サイズのソフトドリンクの販売を禁止する方針を打ち出したばかり。肥満の改善に向けて官民挙げた取り組みが広がってきた。

ディズニーは、同社施設でのスナック類の販売は最大30グラム、150キロカロリー以下とするなどの栄養基準を独自に設定している。15年以降は、テレビ、ラジオ、インターネットで提供する子供や家族向けの番組では、基準を満たしていない食品の広告やCMは扱わない。

また、ディズニーランドなどでの物品販売に際し、基準を満たした食品に認定マークを付ける取り組みも始める。

(ニューヨーク=時事)

俺が、マイコプラズマ肺炎?

2週間前から、咳が止まらなくて、多少微熱を感じたり、寒気を感じていた。時には激しく倦怠感を感じて、どうにも元気が出ない日もあった。会社でも、臆面なく咳をするのを見るに見かねて、スタッフは、病院へ行くことを進めてくれた。

でも、日に日に、症状は微々たる好転をして、イヤイヤと言いながら耐えていた。

2014FIFAワールドカップ(W杯)ブラジル大会のアジア最終予選があった6月3日、対オマーン戦を、竹ちゃんの家でテレビ観戦した時も、テレビの前でゴボゴボ咳をする私に、オヤジ、俺たちに風邪をうつさないでくれよ、と娘から言われた。彼らの冷たい視線を背に、身をすくむ思いでテレビにかじりついた。嫌な思いをさせてしまった、と反省はしている。

そして、0604の月曜日。営業の定例会を終えた頃、体の怠(だる)さを強く感じ、スタッフからは、その咳はただモノではなさそうですよ、きっと肺炎になっていますよ、と言われて、元気がないところに、その言葉はきつかった。そして、ある人は、あなたのその症状は間違いなくマイコプラズマ肺炎ですよ、と断言した。

ネットでマイコプラズマ肺炎を調べたら、成る程、書いてある内容はまさしく私の今の症状通りだったので、尚更、落ち込んだ。そして、午後、会社を早退して国際親善病院へ診てもらいに行った。呼吸器系の診察は、水曜日のみだったので、ここでの診察を諦め、近くの診療所で問診、触診だけをしてもらった。診察を終えて自宅に戻ると、邪念が沸き起こった。明日の診察の結果、必ず、何らかの抗生物質を飲まされるか、注射されることになるだろう、そういうことなら、今夜こそ酒を飲める最後の夜だ、とガブガブ焼酎を飲んで、夜7時には寝てしまった。

 

私に恐怖を与えたマイコプラズマ肺炎とは=(ネットより)

 

MX-3500FN_20120606_111723_001

そして、翌朝は0605。

十分睡眠をとったせいか、気分がすっきり、気怠(けだる)さは微塵も感じなかった。昨日が嘘のように快適、すっかり好転していた。こんなに気分が良いのなら、何も病院へ行くこともないのではないか、とまで考えてしまった。今までの不調の原因は、全て睡眠不足だったのか、と疑った。

国際親善病院で、レントゲン撮影、血液検査の結果を見ながら、総合内科の医師から診断を受けた。この医師から酸素濃度テストも受けた。この酸素濃度テストは、ヘモグロビンに酸素がどれだけの割合で運ばれているかを測定するものだった。指標は、97で普通ですと仰っていた。

肺炎の症状はレトゲンの画像から、全く見受けられない。

血液検査から、マイコプラズマは見つからない。

悪質な点は何も見つかりません。空咳(からせき)も、徐々に少なくなってきているのを自覚しています、と話すと、それなら薬も要りませんね、と答えられたので、お金のことが気になっていたので、ハイ、要りませんと元気に返答した。

あなたは、きっと強い体をお持ちなのでしょう、とも言って、検査の全ての項目から、大丈夫ですよ、とお墨付きをもらった。何か、具合が悪くなったならば、再度、来てください、だった。

張り切って会社に出て、みんなに報告した。

 

 MX-3500FN_20120606_111808