東京演劇アンサンブル こども劇場
題名=【目をさませトラゴロウ】
作=小沢正
脚本・演出=広渡常敏
演出補=入江洋佑
音楽=林光
装置=岡島茂夫
照明=大鷲良一
効果=田村奈悳
舞台監督=入江龍太
制作=大田昭
20120508
19:00~
ブレヒトの芝居小屋
20120508。
ブレヒトの芝居小屋にお芝居を観に行ったのは、久しぶりだ。今年初めての観劇だ。今回はこども劇場。
孫の晴(長女の息子)と私の2人での観劇。やはり、我が血統は、男こそが、こういうことに関心をもつようなのだ。山岡一族の女系は、合理的で理性的、実利的で生活的、そのDNAが我が一族の大黒柱を貫いているのだ。
山の竹やぶにトラが住んでいた。名前はトラノ・トラゴロウといった。
トラゴロウはいつもおなかを空かせている。
トラゴロウが三番目に好きなのは居眠りすること。
そして二番目に大好きなのはにくまんじゅう。
でも一番大好きなのは、三番目に好きな昼寝をしているところへ、二番目に大好きなにくまんじゅうが転がってきて、それをパクッと食べること。
トラノ・トラゴロウと晴、龍太
入江洋佑さん
面白かった!!
孫の晴も、客席のみんなも大喜びだった。なんと言っても、原作「目をさませ トラゴロウ」の物語の奇抜さにあるのだろうが、愛らしい熊のトラゴロウと他の動物たちが途方もない展開を繰り広げる、その俳優さんたちの動きが、子どもたちの目に楽しく映るように演出され、それが大いに盛り上がらせた。楽しかった。
特に、2人で操るぬいぐるみの激しい動きが、私には職人芸的に観えた。俳優さんに向かって、職人芸的だと表現することは、大変失礼なことぐらいは解っている。クマゴロウの浅井純彦さんと、熊谷宏平さんには、帰り際、ご苦労さんとご挨拶した。彼らの額には大量の汗が溢れていた。彼らの顔は誇らしげだった。
粗筋は割愛。本を読んで楽しんでくださいなあ。お貸しします。
芝居を観に行くと決めてから、原作の「目をさませ トラゴロウ」の中古本をネットで見つけて、読んだ。新刊時には1200円もするものが、中古で520円、送料250円を入れて総額770円。売主は、長崎市のウイング書店だった。
この本屋さん、長崎市内のどんな商店街にあるどんな店なのだろう。本屋さんに売った人は、どんな人だったのだろうか。どんな店員さんが荷造りをしてくれたのだろうか、オバサンか娘さんか、堅物の頑固オヤジか。ネットでは、見ず知らずの相手と取引ができるなんて、今更ながら不思議に思うのは、私だけだろうか。
ジジイこと私は、瞬間的に2回読んで、孫の晴に回したけれど、此の本は、オジサンたち、大人たちにも、十分楽しめる本だ。この本をどのように芝居にするのか、それが楽しみだった。
先日、秋田県のクマ牧場で熊が脱出して、飼育係2人が襲われた事件が起こって、私らは、人間に危害を及ぼす可能性のある動物と人間との付き合い方について考えさせられた。人間と共存共生できる動物はよし、でも人間に危害を及ぼす可能性のある動物を、金を取って見世物にして稼ぐ、そんな発想は金輪際止めなくてはならん、と思われた。熊は、特に群れをなすことを嫌う性質らしい。そんな動物を食事も十分与えもせず、集団で監禁状態にすれば、あのような悲劇が起こったのも、何となく首肯できる。亡くなった人にはお気の毒だ。
舞台監督の入江龍太が、たまにはこのような芝居もいいでしょう、と話しかけてきた。入江親子と、孫の晴を挟んで写真を撮った。
芝居で使われた歌。
♪ まちがかわる日のうた ♪
あるあさ 目をさますと
まちが かわっている
サーカスからも どうぶつえんからも
おりが なくなっている
そして どうぶつたちが
とおりを あるいている
だけど まちの人は みんな
へいきなかおを してるんだ
どうぶつたちが まちを あるくのは
ずっと ずっと むかしから
あたりまえのことだった
とでも いうように へいきなかおで
どうぶつたちといっしょに
あるいているんだ
そんな日が
はやく くるといいな
ほんとに はやく
くると いいなあ ほんとに
そんな日が くるといいな
はやく はやく
くると いいな
帰途、車の中で晴は、「まちがかわる日のうた」を口ずさんでいた。彼が喜んでくれたことに私も嬉しかった。練馬のブレヒトの小屋から丁度1時間で、権太坂に着いた。晴は母親に抱きしめられていた。
NO101 a letter from the Ensemble 12,3,13
さあ 「トラゴロウ」だ
著・入江洋佑
素晴らしくカッコウのいい芝居をお届けしたい。小沢正作の『目をさませトラゴロウ』だ。「目をさませ」題名からして、毎日の暗い日常に眠っているぼくたちを目覚めさせてくれるようだ。トラゴロウは少年のトラだ。煙草など吸って、ちょっと不良っぽいところもある。二番目に好きなものは肉まんじゅう、三番目に好きなのは眠ること。ところが、一番好きなのは、三番目に好きな居眠りをしているところへ二番目に好きな肉まんじゅうがころころ転がってきて、それをぱくっと食べることだという。つまり、運動的に全く異なる二つの欲望を同一時点で合同させるという弁証法とかいう論理とソックリな夢を持っているトラなのだ。
作者の小沢正さんは1960年、大学生の時に安保闘争のデモに参加しながら、新しい児童文学を試みた。それは、どうしても教訓的で濕り勝ちな日本の文学に、乾いてシュールな文体を創り出すことだった。そうして生まれた「トラゴロウ」だったが、お父さん、お母さんたちには評判が悪かったようだ。最初はあんまり売れなかったのだが、こどもたちが読んで、口から口へ広まってついにはベストセラーになった。こどもの鋭い感覚だけがつかまえられる世界が「トラゴロウ」にはあるのだ。そのあたりのことを優れた児童書を出版しつづけてきた理論社の小宮山量平はこんな風に書いている。
「(略)この本には、へんなことがいっぱいある。お父さんだってお母さんだってすぐにはへんじできない事がいっぱいある。
しかたがない。じぶんでかんがえるんだ。かんがえるっておもしろいことだぞ。
ーーーー作者は、そういってわらっている。いじわるだ。でも、こどもは、このいじわる先生のトラゴロウものがたりをよみながら、とにかく、じぶんでかんがえるだろう。じぶんでかんがえたこたえをみつけたこどもたちは、ほんとうに、きらりきらい目をかがやかせるだろう。それから、にっこりわらうだろう」
ステキな紹介文だ。
そんな硬質なスタイルの文学をどのように演劇にすることができるか。アンサンブルがこどもの芝居に挑む時の基本の精神について広渡常敏の一文がある。「(略)こどもの芝居にはぼくら芝居屋の理想主義があるのだと、これまでぼくは言ってきたが、理想主義の中身について考えよう。理想主義には芝居のいちばん大切なことがつまっている。俗なことばかしらんが、凛(りん)としたものがなくてはならん。ストーリーに負ぶさっておもしろおかしく、あるいは情熱や迫力で、こどもを集中させることなんかじゃない、凛! としたものだ。〈役〉を演じるだけじゃない、役者本人のこどもに対する理想主義がなくてはならんのだ。エスプリなのだ。エスプリ(esprit)は精神とか機知、才気というわけだが、精神性の高いビューティフルな感覚だ。たとえば〈人間は人間の未来である〉というのはエスプリのことばだ。普通の人はこんなことばはいえない。普通の人はこどもの芝居をやってはいかんのだ。勿論、こどもの芝居だけじゃない、おとなの芝居もやってはいかんのだ。おとなの芝居はストーリーや意味・内容で観客は見てくれるところもあるが、こども(特に低学年、幼児)の場合はそうはいかない。芝居の、役者のエスプリに直観する。エスプリの乏しい普通の人は芝居なんか演ってはならんのだと思う。いまさかんに論じられているトラウマ(外傷)も感じないだろうし、不登校になったこどものトラウマも感じないで、登校する〈よい子〉に安心するだけ、これが普通の人なのだ。
こどもの芝居について考えることは、芝居というものの、芝居する役者の、演出者、制作者の、最も大切な〈精神〉を考えることになる。」
『目をさませトラゴロウ』初日まで50日。小沢さんのシニカルな眼と、暖かいユーモアとギャグ、ぼくたちはそれをどの位乾いてできるだろうか。すごく上質なスクラップスティック(日本ではドタバタ喜劇と言われているがーー)にしたいもんだと思っている。
ところで、話は変わりますが、、、、。
先日20120413に、この本を出版した理論社の元社長小宮山量平さんが95才で亡くなられたことを新聞で知った。
この小沢正さんの「目をさませ トラゴロウ」も小宮山さんの手によるものだった。
最初の本を出すまでは、誰もが無名の新人。小宮山氏は、新人の発掘名人で、見いだされた作家はいずれも生き(息ではないな?)の長い健脚の書き手になり、ずうっと走り続けている。
この小宮山氏に発掘された作家と作品を後の方に列挙した。私には縁の浅い本ばかりだが、いつかできるだけ読んでみたいと思っている。児童文学者の今江祥智(いまえ・よしとも)さんが小宮山氏を悼む文章を朝日新聞に寄稿していて、その中で知った。
「星の牧場」の庄野英二、「けんかえれじい」の鈴木隆、「ちびっこカムのぼうけん」の神沢利子、「兎の眼」の灰谷健次郎、「ぴいちゃあしゃん」の乙骨淑子、「北の国から」の倉本聡らの作品をやつぎ早に本にた。