2017年6月18日日曜日

20170618 天声人語

私の好きな天声人語は、毎朝、色とりどりの花盛りだが、今朝のような内容のものは古新聞として捨てられない。 だから、やっぱりマイ・ブログに納めておきたくなる。 これ、私の生まれながらの病気かしら。


2017年6月18日の朝日新聞・朝刊より ジョン・マッケンローといえば、1970年代から90年代にかけてテニス界を代表した米国の選手である。 速さと力に加えて、多彩なショットを武器に4大大会で17個のタイトルをさらった。 ダブルスにも好んで出場した。 4大大会の初優勝は18歳の時、幼なじみの女子選手と組んだ全仏オープンの混合ダブルスで達成したものだ。

近年のトップ選手の多くは体力の消耗を避け、シングルスに専念する。 判定への抗議や奔放な言動で「悪童」とも呼ばれたが、激しく攻撃的なスタイルはダブルスでは一変した。 互いの個性を頭に刻み、呼吸を測りながら試合の駆け引き楽しむ。

 人としての幅の広さが見えてくる気がした マッケンローの連想が浮んだのは、卓球の世界選手権混合ダブルスで石川佳純(かすみ)、吉村真晴(まはる)組が優勝したからである。 日本勢の頂点は実に48年ぶりだった。 
同じ93年生まれだが、学年は石川が一つ上。 ペアを組んで6年だという。 身長157センチと177センチ。体格が異なる2人は卓球台の前では流れるように体を入れ替えた。

 シングルでのとがった雰囲気は影を潜め、美しいリズムがあった。 体格差を考えれば、男女が一緒にプレーするスポーツはごく限られてしまう。 東京五輪では卓球の混合ダブルスに加え、いくつか男女混合種目の追加が決まった。 男女の協業による化学反応の妙を競い合うのは、興味深い。 種目増は運営側には歓迎ばかりではないだろうが、スポーツを楽しむ目を肥やしてくれるに違いない。

2017年6月10日土曜日

これからの私の生きがいは?

私の人生の最終章はどうあるべきなのか、通勤中、ふとしたことから考えだした。

今回は、会社を辞めてからの私の人生だ。
老後、何を何処でどうしたら充満な生活が送れるか。安定的な精神と闘志の充溢が一番望ましい。何とも難しい問題だ。
先日、長いお付き合いの和さんと、酒を飲み交わし話した。
「和さん、俺の最後の締めくくりはどうしたらエエのかな?」 和さんも頭を抱えながら同じようなことを考えているようだった。
楽(らく)して!! 儲(もう)かって!! なんてことは、チィートも考えていない。
この年で、お金に拘(かかわ)って暮らしたくない。

正直に言えば、生きがいのある老年を過ごしたいってことだ。世のため他人のために、何かをして充実した生活をしたい。
簡単に言えば、只、それだけのことなんだがーーー。
生きがいとは、人生の意味や価値などに、その人の生を根拠づけるものだ。


2017年6月4日。
今まで、それなりに頑張ってきた。
他人が何と言おうが、私は私のやりくりしてきた人生に自負がある。
豊かではなかったが、貧しくはなかった。
子供の頃から遊びが大好きだったから、山や野原や田畑で、思いっきり遊んだ。
小さな寒村での生活が、私には気に入っていて、何もかもが好都合だった。
父母は、山には薪の手入れや樹木の世話、主に茶畑や水田で働いていた。
山から運び出す薪や柴は、台所の竈に、緑茶の葉を茹でるのに必要だった。番茶の製作にも使った。

父は元気者の水呑み百姓だった。
※水呑み百姓とは、①江戸時代、土地を持たない零細農民の蔑称。本百姓の田畑を借りて耕作、または出稼ぎ・日雇に従事。無髙百姓 ②貧しい人
この①でも②でもない、貧しかったけれど頑張っていた本百姓だった。
祖父が山岡本家からいただいた茶畑に水田は、父にとって余りにも狭かったようだ。
ささやかな農地からの収入は、びびたるモノだった。
それのせいか、終戦10年ごろから国策で作りあげた金融機関からお金を借りて、農地を倍にした。
少しだけの農地では、生きてゆくには難しかった。
父が亡くなって、なけなしの貯金や田畑の権利書をチェックしていた時に、この金融機関からの融資を知った。
兄だって、何も聞かされていなかったようだ。
国として、農業をやる気のある人には、ドンドン資金を出して、豊かな農家を作ろうということだった。
金融機関の名は、何とか興業とか、何とか勧業、何とか殖産だとか、聞いたことのないものばかりだった。極めて低利だった。
小さい頃、あっちこっちの畑や田に連れて行ってもらったが、どの田畑が新しく買い込んだものか分からなかった。

小学校、中学校は最終学年になると、皆の学業成績を学校に残さなくてはならないので、ちょっと勉強してくれよ、と担任から言われた。
だからか、小学校の6年生の時も中学校の3年の時も、クラスで2番以内、学年で5番以内には入った。高校も予定の学校に難なく入った。
公立学校で普通科は宇治の城南高校だけだった。
当時普通科は城南高校の1校しかなかったのに、今では10校ほどある。宇治界隈は、人口が猛烈に増えたのだ。
村には塾はなく家庭教師もいなかった。
農業中心の部落だったからか、誰もが目くじら立てずに勉強なんてしなかった。
今から60年前のことだ。

中学校の時はバスケットボールに高校の時はサッカーに自惚(うぬぼ)れた。
心と言うか精神というか、偏狭(狂)な私には見事にそれだけ、それしかなかった。
金がか無くて、やれることはこれしかなかった。
何もかもやれるほど器用でもなかった。
その時期に、器用でない私には勉強も頑張るなんて気は起こらなかった。
高校を終えてからの浪人であれば、頑張れば結果は何とかなると決めていて、案の定、その通りになった。
当時テレビで人気のあった素浪人・月影兵庫だ。
褒められることはない、間抜けな2浪だった。

サッカー日本一の大学に行くと腹を決めた。
この学校は東京にしかない。
技術は極めて貧困なのに、恥ずかしながら都の西北を目指すことにした。
有難いことに、法政、明治、中央にも受かったが、本気で行く気はなかった、サラサラ?なかった。各校に申し訳ないことになった。
恥ずかしながらゴールを狙い、逆に相手攻撃陣を打ち壊すことだけだった。

浪人と言っても、唯の素浪人では何にもなーれーない。こういうときの得策は、きっと土方(ドカタ)稼業だ。
土方は差別意識を伴って使われることが多く、土木作業員の中でも特に、資格や技術を必要としない部署で働く日雇い労働者をイメージして使われた。
土方には嘲笑う意を込めた派生語、「ドカチン」という表現もあった。
土方に関してのことは、心身ともによく理解していた。
竹馬の友からは、笑いながら、私のことをドカチンと呼んでいた。
4年間の大学での授業料や生活費を稼いでおけば、2兎を追えるものだと決めた。
そんなことで、2年間の浪人時代に300万円近くの貯金ができた。
宇治田原町農業協同組合に私の銀行口座を作った。
私は高校を卒業したばかりなのに、大人並みの日給だった。仕事の量は、十分大人並みだった。日給の額は忘れてしまった。
大学での3年間の授業料と入学金は自腹で処理できた。
父母は喜んでくれたのだろうか。
仕事は、山中に建つ関西電力の送電塔の基礎部分を創る作業だった。難しい部分は我々の組にはやらせてくれなかった。簡単な仕事だからこそ、私にもやれた。
朝から昼の1時頃までに、1日の仕事を終わらせた。休憩は勿論、ゆっくり話すことだって許されなかった。
労働時間は8時から午後1時までの5時間、と決まっていた。親方は、愚図愚図とゆっくり仕事をするのが嫌だった。
でも、1時頃からゆっくり昼飯を食って、帰途につく。
帰り道に親方の家に寄って、ビールをいただくことも多かった。

だが、このドカタ稼業のために、サッカーのプレーには良くなかった。
下手糞の言いわけではないが、悲しいけれど、効(よ)くなかった?
サッカーは、体力は勿論、技術が微に入り細をこなす。
悔しいことに、手足をはじめ体全体がコチコチに固まってしまった。

近畿予備校の国公立大学入試コースに半年は通った。
でも、このコースは、予備校なのに入試があってそれに合格しなければ行けなかった。
私は合格した。
でも、この学校群のどの学校でも、私の望みは叶えられないと思いきや、直ぐに止めた。

2年間の浪人の果てに希望通りに入試突破、内容は兎も角、人生行路は立派に進みかけた。それからの学生時代の4年間は、いつも通り器用でなかった。
サッカー以外は波乱万丈?だった。逆に言えば、それほど面白かったのだ。

1年生の初め2か月は普通に授業があった。
私の入った学部は、どうしても都の西北に行きたい、他の学部には入れなかったと悔しがる学生ばかりで、狭(せば)まれた意味では賎(いや)しかったが、訳もなく面白かった。
だから、数少ないクラス会ではもうどこの学校のことも、自分たちの能力の無さを悔しんだり、そんな馬鹿みたいなことはなく、楽しかった。
私には土方(ドカタ)とサッカー部員というプライドはあったが、ほとんどの学生が現役だったので、これからの生き方なのか、過ごし方なのか、皆とはズレを感じた。

女子学生が2人いて、その1人がラグビーのマネージャーになった。
サッカーのグラウンドの隣りがラグビーのグラウンドで、なんぜ、サッカーのマネージャーにならなかったんだ?と嫌な言葉を吐いた。
でも、でもだ、誰よりも、仲良くなったのは、判ってもらえるだろう、

昼間は朝から晩までサッカー一筋。
入学して2年間は、学生会館の管理体制や授業料減額の紛争のため校内には入れない。
ロックアウトだ。
世の中では、70年安保闘争。当然、授業は約2年半はなかった。

・朝、7時だったか8時だったか忘れたが、寮長の起床の号令で叩き起こされ、寮の前で体操した。
・午前中は体育の授業の補佐をした。
授業科目はサッカーで、講師はサッカーのコーチを兼ねていた吉さん。場所は東伏見駅近くのホワイトハウスと我がサッカー場。
ちょっとばかりのアルバイト料をいただいた。
この講師はいい加減な人で、雨の日などは来ない。でも、私にとっては面白かった。
学生にルールを教えたり、試合をさせて笛を吹いた。
・11:30から、近所の中華料理屋=芳葉で1時間、皿洗いや客席に品物を運ぶ仕事。
私は、レバー野菜炒め定食をいただいて、アルバイト料をもらった。
・13:00からは、サッカー部の正規の練習。
部の練習が終わったころに、大学の系属高校が練習にやってきて、彼らの練習に参加した。遊びながらでも楽にこなせたので、楽しかった。
・そして17時ころ、やっと私は義務から放される。
それからが、私だけの練習だ。
宙に吊られたボールにヘッデング、敵を意識してボールを操り、ボードに種々のコースを蹴りあげる。ゴールラインからゴールラインまで猛烈に早く走る。
それが終わったら、タッチライン、ゴールラインに沿って、サッカー場を何回も何回も、早く走ったり、ゆっくり走ったり。
暗闇が迫り、体もグロッキー気味。
今日もよくやったものだ、と小さな満足感。

・それから、グラウンドの傍の合同風呂に入って体を休めた。
歌を歌ったり、故郷の友人たちのことを思いだした。お世話になった小学校や中学校の校歌の放歌。
この風呂は学校のもの、無料だ。
晩飯はできるだけ、昼間にアルバイトした中華料理屋・芳葉に行った。
昼飯時にアルバイトをしていた縁で、ご飯はいっつも普通料金で大盛りだった。

・有り余るほどのお金に恵まれてはいないが、誰かが一杯飲みに行こうと誘ってくれる。俺なあ、お金ないンや!と言っても、何とかなるよの甘言。
人参をガブガブ喰らいつく馬みたいだ。このお相手は金さんだ。

グラウンド関係の管理を一手に引き受けているタキさんにビールを御馳走になることも多かった。ご自宅に飯をいただきに行ったこともある。
それにこのタキさんから、グラウンドの周囲のどこかに、直径5メートル深さ3メートルの穴を掘ってくれと、年に3,4度頼まれた。
タキさんはこの穴にゴミを捨てる。
浪人時代はドカタ稼業に精をだしていたので、この程度の仕事は軽かった。
幾等、お駄賃をくれたか忘れてしまった。お金の多少に気を揉むことはなかった。オジサンの言うことが、嬉しかったのだ。
変チョコリンでサッカー下手の私を可愛がってくれた。

あんなにみすぼらしい私だったのに、4年生では関東学生選手権と全日本大学選手権の2冠に輝いた。2試合に1度は試合に出してもらった。私にとって、夢のような出来事だった。そこでも知恵を得た。
現在の私のベッドの脇に、全日本でいただいた優勝を顕彰した金メダルがある。
何故か、この金メダルだけは放したくない。
サッカーを人一倍頑張っていけば、いい社会人になるための一要素になるだろう、と割と真剣に考えていた。

クドイように付け加えなければならないことを、くどく書く。
それは、この大学には日本の各地から優秀な人間がどうしてこんなに集まるのか?不思議なくらいだった。
当然、彼らの見つめる目標は、[ワセダ、ザ、ファースト]だった。
上手な選手がいっぱいいる中で、私は地平線なのか海面なのか、どうしても必要な水準に居なければいけないのに、大きく引っ下がった貧しい選手だった。
私にとって、この貧困さは、なかなか耐え辛いものがあった。

この貧困さに耐えるために、この頃から読書に励みだした。精神的に参っていた。
よりによって選んだ本が良くなかったのだ。
学校は卒業さえすればいい、と決めていた。

大学に入って最初に目を通したのは太宰治だ。
自殺未遂や薬物中毒を克服し、戦前から戦後にかけて多くの作品を発表した。
普通の常識的な小市民的な生き方をしないで、荒れた生活をし、それらを作品に著した。
井伏鱒二さんが媒酌人になって結婚した。
その影響があって、井伏鱒二さんの本もいくらか興をもった。
中学校の教科書にも載っていた「山椒魚」、「黒い雨」これらも面白かった。
太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳、壇一雄、田中英光らをデカダン、無頼派とか新戯作派といわれた。

田中英光は三鷹・禅林寺の太宰治の墓の前で自殺した作家だ。
早稲田大学の漕艇部だった彼は、小説の中で、ボートは気で漕げ腹で漕げと度々雄叫びを上げていた。
ロサンゼルス・オリンピックに出場した。
その時の恋愛物語=「オリンポスの果実」などスポーツに激しく恋をしている私には最高だった。N機関区、国鉄の労働組合専従だった。

大学を卒業して10年以内に太宰、織田、田中の全集を買った。坂口は選集を買った。またまた、適度に読み漁った。

これもあれも、読む本は全部面白かった。
この本から得たモノも、社会人として、何かのためになるのではないか、と我儘に納得した。

本を読むことは、仲間とのコミュニケーションにも良いだろう。
地方色のある単語から種々彩々な漢字、副詞・助詞・助動詞、接続詞、修飾語に述語の数々。文節・文章の作り方、構文、新旧の物の言い方なぞ、道理で物知りにはなった。
時には面白い表現に出くわし、吃驚することもある。

卒業して20年前後に朝日新聞の本田勝一を読み漁った。
横柄な権力に反抗する本田さんを好きになってしまった。
探検物や冒険物の違いをあらわにし、その世界でのやり手とその作品の紹介が面白かった。何故か、私も反逆児になりたいと思い始めていた。
編集者の一人である「週刊金曜日」も創刊してから、しばらくは真剣に読んだ。

この本田勝一に並行して読み漁ったのは、高橋和巳だった。
河出書房新社から発行された高橋和巳作品集全9巻。
卒業して間もなく読んだ「悲の器」のシコリがこの作品集を買って、高橋爆弾は爆裂した。
高橋和巳の文学の特色は、否定の精神に基づきながら知識人の運命と責任、その倫理性を追究することにあった。

代表作は、「邪宗門」、「憂鬱なる党派」、「わが解体」、「堕落」、「散華」、「我が心は石にあらず」、「日本の悪霊」、「白く塗りたる墓」、「黄昏の橋」、などだ。
どの本も、涙しながら読んだ。
いくつもの大学で教鞭をとっていたが、京都大学の助教授時代、全共闘世代の間で多くの読者を得ていた。

夫人の小説家・高橋たか子さんの夫の死を知った時の文章をここで利用させてもらう。
高橋和巳の葬儀委員長は、高橋が尊敬していた埴谷雄髙氏だった。
高橋たか子ーーー絶望、破滅、堕落、暗黒に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光のある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。

本題の「これからの生きがいは?」の深い小さな原因がこれらの本の読書にあるのではないか、と考えだしたのだ。
他にも、野間宏、井上光晴、島尾敏雄、宮沢賢治、三島由紀夫、井上靖、開高健,野坂昭如を手当り次第に、盲滅法(めくらめっぽう)に読んだ。

そして、卒業後に入った鉄道系の会社が、余りにもノ・ー・チ・キ・リ・ンで革命を知らなかった。進歩して、社会の役に立つことなんて、これぽっちも考えていなかった。安全・安心・安楽に人を運ぶのが会社の極めになっていた。
いつまで経っても、心の奥底にまだまだ私的な革命論を秘めていた。
今までの会社のやり方に、異を唱えたかった。
よって、つまらなかった。

社長は経済界の二世モノだ。他人の目には優良で善良な経営者として評価されていただろうが。
全国的な種々のスポーツ団体や組織の会長に選ばれ、本人もだらしない勘違いでもしていたのだろう。
この会社からは、仕事の髄?人間の本当の生き方を教えてくれなかった。
その後の会社の崩落や社長さんの失楽ぶりが証明されている。
創業者は近江出の張りきりマンで会社を立ち上げた。地元では立派な経済人を輩出したことになる。その上に、衆議院の議長にもなった。
この会社が、俺を悩ましい人間にしてしまった。

入社したのが35人。
私の入社試験の総合得点は15番。
私と同じ大学の人間が私より先に1人、付き合いの長い友人はその5,6番後だった。
ここで、私の得点に怒ったわけではないが、何故15番なんだと頭にきた。
誰もが認めるように、私は学校に行っていない、、、、だけどそれで、何で15番なのか! 
私以外の人間たちは、特別の勉強やクラブをこの4年間何もしていないのに、どうしてもっと点を採れないのか、と腹が立っのだ。
立派な学校の卒業生ばかりで、もっと勉強できた筈だ。

そこでも、私に心を強めることが得られた。
何でもいいから、頑張っていれば、アホのように過ごしている奴に比べて負けることはないのだと。

鉄道会社の持ち株会社に入社したが、グループ会社の都合で不動産会社に転籍した。
この会社を9年7か月目に退社することを決めた。
昭和57年ゴールデンウィークあけだ。
何故?と聞かれても、応答できない。
だって、それほど大した原因があったわけではない。10年以上は居たくないと決めていた。
不動産に関しての全ての知識から技術について、一不動産屋の社長以上に身につけていた。
変な社長さんなんかには、絶対負けなかった。一人前になっていた。
寧ろ、サラリーマンよりも経営者になりたかった。
退社?風邪ではない。隙間風がそれこそ、突然吹いてきただけのことだ。
退社届を出すと決めたのは、提出する日の前夜だった。誰にも相談していない。

夜になると多少お酒を飲む時間がとれて、それなりの大家(たいか)と言われる人たちと会話を楽しんでいた。世の不動産屋に興味をもった。
そのなかに、2人の痛快な人にあった。

奇人の鈴さんと左翼系知識人の渡さんだ。
商売人としての魅力いっぱいの鈴さんが、熱心に私の入社を願ってくれた。この人の会社では、私の能力が一番活かせるのではと思った。
仕事だけならば、楽しい人だ!!と思った。案の定、横浜にいる間は、常々彼のお世話になった。
泥酔のあげくビールを頭に引っかけられたこともあるが、これも楽しい思い出だ。

渡さんは、学生時代、反帝学評の学生運動家で、ちょっと警察にもお世話になった。
そのことはちょっと、隅っこに置いて、彼と話をしていて、私の反権力精神がムキムキ、反社会人になりたかったようだ。
灯に火と油を注いだ形になった。
私にだって、友人に革マルがいた。
母から、東京では偉くならなくてもいい、金持ちにならなくてもいい、けれど、警察や税務署のお世話だけにはならないでくれ、これが田舎を去る時の母からのお告げだった。
実家の農業に精を出す兄貴のことを思ってのことだった。
話していて、このような渡さんと一緒に仕事をしたいものだ、と実感した。
御利巧で、考えることも利に叶っていることが多かった。

そんなことで、渡さんの会社に入社することになった。
入って3,5年は楽しいことばかりだった。私は不動産部の部長さんらしく、面白いことは何から何まで私にやらせてもらった。
そこで、私の不動産屋としての能力は磨かれた。
そんなことでアタフタしていたら、本業の方の出来栄えが悪くなって、それよりも一番拙かったのは、渡さんに事業欲が薄らいできたようで、決定的に敗北のタネだった。
それでも、渡さんのように仕事をお利口にやれば、何とか生きていける、私にだって小さな知恵はある。

そんなある日、山岡さん、俺たちの会社はこれで終わりにしようと思うのだが、君は別の会社を創って自由にやってみてくれないか。
渡さん、私が別会社をやることについては、何も異論はありません。でも、社長さんはこの会社からは辞めてもらうことになります。
この話を伺ったとき、持ち込まれた話がイイもワルイもなかった。
今やりかけている仕事をやり遂げるには、今のまま、仕事をやるしかない。
こんなことで、私は思わぬ不動産屋の社長になってしまった。

その後、仕事が順調に進んでいたある日、本業は倒産した。
私はお世話になっているいくつかの金融会社に、ことの実態を話した。
これが不思議なのだが、担当者は本業の批判はしたけれど、弊社に対しての批判は殊(こと)の外(ほか)なく、これからも頑張ってくださいな、と励ましのお言葉。
仕事は順調にドンドン進んだ。しかし、好悪色んなことで苦戦していた。

そんな時、今弊社の社長でなんとか頑張ってくれている中さんが入社してくれた。
中さんの兄が私の友人の一人で、中さんの頼みなら断る理由は何もなかった。
それから、社長の中さんとの激しい付き合いが始まった。
この顛末については、いつか詳しく話すことがあるだろう。
そして、今に至るのだけれど、私の老後に気を使ってくれる人がいない。中さんは性格的によく考えてくれるが、何よりも仕事が多過ぎる。

私はこれからの老後のことを本気で考えだした。これが、この稿の根拠だ。
誰か? 心ある人たちよ、私に何かを教えてくださいな~。
お金に胸は乱れていない、健康や生活の苦楽に差はあるだろうが、幸せになりたいのだ。

今、私は68歳。この9月23日で69歳になる。昭和23年生まれだ。
こんな年になって、こんな具合にしか自分の老生活を考えられないとは! 第三者的に考えて恥かしい話だ。
70歳がビジネス社会でのゴールだとすれば、これからの半年間で道筋をつけたいものだ。











2017年6月5日月曜日

『「死の棘」日記』

『「死の棘」日記』 著作島尾敏雄を読んだ。

      
(一番上の写真)
昭和30年夏   国府台病院の中庭
右から島尾敏雄 ミホ 林和子  
マヤ 伸三

「死の棘」を読んだのは、今から何年前だったか、記憶が定かではない。
読書中の2週間、それから2,3か月は、頭の中を島尾敏雄と島本ミホさんが走狗のように暴れ回り、私までもが、苦衷の日々を過ごした。

敏雄は「死の棘」で日本文学賞、読売文学賞、芸術選奨を受賞した。
別の本で知ったことだが、島尾敏雄は枯淡で万事にこだわり少なく、誠実で温厚な性格だったそうだ。

読書好きで割と本のことをよく知っている私なのに、当時、よくも、こんな本を見つけたものだ、と感心していた。
同時に、この作家をもっと知りたいと思った。尊敬も憧憬もした。
その時に、『「死の棘」日記』なる本があることは知っていたが、もうこの「死の棘」を読むだけで、エネルギーを使い果たし、それ以上読む根性はなくしていた。

敗戦の色濃い昭和19年。
海軍震洋特攻隊の隊長として奄美群島加計呂麻島に赴任していた青年将校は、琉球皆南山王の血をひく旧家の娘と出会い、戦後神戸でこの娘さんと結婚することになった。
敏雄は特攻の発動命令を受けながら、特攻出撃をまぬがれた。何故か? そして、15日の敗戦迎えた。

この青年将校がこの小説の作家の島本敏雄で、娘さんは田村俊子賞作家で歌人の大平ミホだ。
島尾敏雄は戦後「純文学の極北」と言われた。
極限とは、デジタル大辞泉では、極北=物事が極限まで達したところ、とあった。



今度の読書は、小説『「死の棘」日記』だ。小説「死の棘」の拠りどころだ。島尾夫婦にとって、もっとも大きな試練のときであった。その苦難に堪えて夫婦二人して復活が叶った。
親子の縁は一世、夫婦の縁は二世と言う絆の深さが知れた。

ミホさんはこの本『「死の棘」日記』の刊行に寄せてのなかで、次のように書かれている。
「日記」を読み返しながら、几帳面に書かれた文字の跡にさえ、当時の夫の苦衷が偲ばれて、涙が降る降る零れました。その時私は精神異常の状態にあったとは申せ、顧みて自分の姿が悲しく慙愧に堪えません。

この本の裏表紙に書かれていた文章そのものが、この本の全てだ。
愛情の無間(むげん)地獄に堕ちていく。
夫の不実を知ったことから精神を病んだ妻。
妻の責め苦に、身も心も追いつめられた夫の記録。

小説「死の棘」をもっと奥深く理解しようと、「死の棘」の背景なり直接的な素材として読むことにした。
「死の棘」で書かれていなかった部分の謎を詳細に解き明かしていく妙味?と言えば叱られるか。
そんな謎解きに興味を持ち過ぎたかもしれない。

「新潮」にこの本を刊行するに至っては、名瀬市の市役所職員、20人を越す人たちが3日間にわたって、2階の部屋と書庫に積み上げられた蔵書の詰まった段ボール箱約千個のなかから、日記、夢日記だけを探し出した。
小学校入学間もないころから、69歳で帰天する前々日までの日記だ。
膨大な量であった。

昭和27年、敏雄家族は東京都江戸川区小岩町四に引っ越す。
着々と作家としての地歩を築きつつあった。広い範囲で、作家仲間を持ち続けた。
精神が可笑しくなったミホの世話をしながら、著述に精をだした。
作品を着々と書き上げていた、筆無精ではなかった。
ミホは精神分裂症だった。

精神が可笑しくなったのは、何もミホだけではなかった。敏雄もやられていた。
精神病の悪化のために、信濃町の慶応大学病院に入院する。

筆料だけでは生活が困難なため、都立向丘高等学校定時制の非常勤講師として働いた。
世界史と一般社会を担当した。
友人、知人が貧困な敏雄のために、何かと協力してくれた。

そんな時、敏雄夫婦に悲劇が始まった。敏雄の不倫がもとでミホに異常をきたした。
それから、この日記は始まる。

この日記は昭和29年の秋から翌30年の大晦日まで、敏雄家族の壮絶な生活記録だ。
敏雄とミホ、子供2人(伸三6歳とマヤ4歳)の生活。一匹の猫がいた。
夫の不倫で、思いやりの深いミホの神経は異常をきたし、憑かれたように夫の過去をあばき立てる。

敏雄はもはや女のところへは行かないことを約束し、ミホに隷属する。
受動的に発作に襲われた狂乱の妻。
ひたすら侘び許しを求める夫、果てに至上の苦しみに陥る。
父母の仲に気を揉む伸三とマヤ。

平穏な日々は長く続くことはない。
そして、苦しくてやりきれない日々は確実に迫ってくる、家の中は死片のかたびら、真っ暗闇だ。
ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。

ミホには恐怖感、不安感強く幻覚被害妄想あり、それに自殺念慮あり。
悲し過ぎるほどの病人だ。ミホはなにかと祈祷文を詠う。

雄が不倫した女性からは、「アクマデヒキョウデオクビョウモノ。ニゲマワルカ。ジブンノヤッタコトニセキニンヲモテ。サイゴマデタタカッテヤルカクゴシロ」。
留守中、そのように書かれた紙片が自宅に張られていた。
「イツカエルカオシラセコウ○○○○○」という女からいやな電報。

小石町の自宅を売却するべきか、住み続けるべきか。
売却した場合の引っ越し先は、相馬か、宇都宮か、小岩か、ミホの身内のの誠九郎さんのところか、丈夫兄の所か、悩みぬいた。

29日、病院の二人の医師と話す。精神分析をすすめられたが、退院をすすめられ、ミホは島帰りを希望した、

昭和30年3月30日、ミホ退院、自宅に帰る。
自宅を売却して、佐倉の藤野一郎氏の家を借りる。佐倉市並木町に7日に引っ越す。

30年6月6日、千葉県市川市の国立国府台病院第二精神科二十七病棟3号室に入院する。
敏雄とミホは夫婦二人して入院。
与えられた病室を何とか綺麗にした。
敏雄が不倫した女性は近づいてこなくなった。

6月19日、伸三とマヤ、林和子と共にミホの故郷である奄美大島へ向かう。
ミホは持続睡眠治療を受ける。

7月5日。ミホは病院内で、たびたび敏雄が悲しむことを口走る。
ジョウヘキトッテクダサイ、モットモットミホヲスキナ人の所ニ行ケバヨカッタ(ガラリと変わる)ナイヤガラの滝(ナイル川)で誰もいない所でオトウサントクラシタイ。

そばにいるだけでいい、本当というので手をさすっているとニャンコのヨソ行きの顔をして、うれしそうな顔で眠りに入る。
早く病的な状態から治したい。
その寝顔を見て今は一日の疲労もふきとび、打たれる。
キチガイになってさえ離れられぬ程おとうさんが好きなんです。分かってください分かってください。

ミホやがて眠りにつく。すると僕は深い安堵を感じ、どっと正常に戻る。
絶対に腹を立てずにミホの神経症を救いあげねばと思う。
一個の二律背反のブレーキと化した頑固で執拗な病巣が、眠ってしまうとふしぎにそうは思えない。

8月16日、ミホが部屋に帰ってこないので外へさがしに出る。見当たらぬ。看護婦と中庭をさがす。見つからないので、中庭の池の底を竿で掻いて探す。
当直医師も探す。
4時ごろ2メートルばかりの板塀をそれと同じくらいの高さの有刺鉄線の塀を越えて帰ってくる。
奄美大島に行っている筈なのに、マヤの所に帰ろうとどんどん歩いたが敏雄の泣く声が聞こえて帰ってきたと言う。

8月23日、神経科病棟に移転。
ミホはなかなか眠られない。神経は間をおかず可笑しくなる。
かたや敏雄はミホの世話をみながら、自らの小説づくりに励む。こんな状態と言えども、作品は続く。
他人の書いた本に対しての書評も多い。
作家友達や友人が病院に訪ねてくれる。これほどたくさんの人間が病院の主にきてくれたことを書いた本はない。

お会いできない知人たちには、電話やハガキを数多く書いた。1冊の本のなかで、これほどハガキや手紙を書いたものを読んだことはない。電話の回数も多い。

9月、ミホが調子悪い日もあれば、比較的調子の良い日もあった。
調子の良い日に、ミホは、生まれ育った鹿児島の奄美群島加計呂麻島に帰りたいと言う。
子供の伸三やマヤ、育ててくれた姻戚の方々のことを思い出したのだろう。

気に入った作品は出版会社の編集員が窓口になることが多いが、この敏雄の作品に関しては、何故か、作家仲間が出版社に持ち込んでくれることが多い。
この作家・敏雄ファンが、いかに多かったことだろう。
又逆に、自らが気に入った誰かの作品を、出版社に持ち込むことも多かった。

10月17日。
医師、婦長、看護婦さん、婦人患者たちに挨拶して、病院を後にした。
国府台病院を退院して、奄美大島に2人して帰るのだ。
省線に乗って桜木町駅に、そして高島桟橋に荷物を置いた。出発を待つばかりだ。
沢山の友人たちが見送りに来てくれた。二人には想うことが何と多かったことだろう。
4時出帆、別れのテープ。
積荷を続ける。
8時頃動き出す。

10月18日。朝食の頃、船は浜松沖あたり。
ミホ爽快なり。
10月19日。
明け方6時頃大阪港沖に一時碇泊。友人や作家友達親戚の方々にハガキ。
10月20日。七時出航。
10月21日。八時出航。

10月23日。5時40分、あと40分で入港。
6時過ぎ名瀬が見える。トラガリ肌にソテツの段々畑。
立神島。港外にいかり。7時頃税関員来る。ハシケに乗りうつる。桟橋にはミホの親戚連中と伸三とマヤ。伸三もマヤも眼がぎょろついてやせて見えた。
認めた瞬間目頭があつくなった。
戦時中に加計呂麻島の瀬相聚楽にはじめてきた時と同じ気分が空気の底にあるのは空気のせいか。陽が照ると夏になり、かげると秋、うすら寒い、冬口のようでもある。
明日24日は、ミホ36歳の誕生日。

11月9日。叔父と敏雄は、大島高校に嘉野校長を訪ねる。敏雄の大島高校への就職は異存がない。来年度転勤者が出れば採用したい。
今県の人事係が来ているから会っておくようにと指示された。
作家仲間に転居のお知らせの手紙を書く。
ミホの叔父が西南戦争に出たこと。医学勉強の為薩摩に滞在していた時、西南役に従軍したが、銃弾が人に当たらぬよう、鉄砲は常に上に向けて撃った。
当時の鉄砲を今も保存している。

12月3日。屋仁川の方からウン火の粉がとんでくる。ウンバックの家が気がかりだ。ウンバックに所に行くと、既にミホの兄夫婦が来ていた。
山際の避難場所に家財道具を運ぶ。火の手広がり次第に近づいてくる。
加勢がふえる。
殆ど運び終わり、夜もしらじらとあけ、火も近づき、頬に痛い程照り返す。
この火事で焼失1500世帯、市街地の三分の1とも4分の1だ。


カトリック奄美大島フランシスココンベンツアール修道会司祭ジェローム・ルカシェフスキーは、公教要理を説明した。
ゴミサのサマタゲになります。
説教、ミサの意義、犠牲ということば多し。さわぐ子供の親たちをたしなめる。いいたくありませんが、これ大事なことです。
これあたりまえの事です。親たちは子供をしつけなければいけない。
ミサのあと神父が儀式のこと勉強してほしい。ぼくに神学的哲学的に研究してほしいことなど言う。又特別に教えたいと思うが、周囲のたねよくない、できないことなど言う。
★印 本の中にでてくる公教要理という言葉が、私にはよく解らなくて、ネットで調べた内容をそのまま転載させてもらった。
公教要理(こうきょうようり)とはーーー(私にはよく解りません) カテキズム (英語: Catechism )は、キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説の事で、伝統的には洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育(catechesis)で用いられる。 文体は問答形式をとることが多い。

11月15日。夕ぐれ時、伸三宿題するそばで、「地球詩集」(菊川より受贈)を読む。このグループの詩の言葉ゆたかなりと思う。
自分の「のがれ行くこころ」。埴谷の解説をゆっくり読み返す。
新刊雑誌を見ると、胸にいらだちの小波が起こる。それを鎮めて、先ず自分の家族の生活と自分の仕事を、たしかな歩みの上にのせなければならぬ。

ミホの精神病なのか神経分裂症なのか?なかなか治らない。敏雄の苦労も、東京の病院での生活と余り変わらない。敏雄はそんなことで、気が滅入るばかり。

でも文章を書く作業は踏ん張っていた。作品は徐々にでき上がっていく。
東京新聞より稿料来ている。10枚11、000なり。広島郵政より選稿料、2、500。又東京の朝日より新人発言なる原稿依頼。
南海日日新聞社に原稿渡し、郵便局で東京朝日に承諾打電。
朝日西部本社学芸部より依頼のあった原稿「文学は果つるところ」を渡す。
これらは、著作で得たほんの一部だ。もっと、もっと活動の幅は広い。