2019年9月23日月曜日

多国籍ジャパンのことが解からなかった


ラグビーW杯 開幕

アジア初開催となるラグビーの第9回ワールドカップ(W杯)日本大会は20190920、東京スタジアム(味の素スタジアム)=東京都調布市=で行われた日本(世界ランク10位)とロシア(同20位)の試合で44日間の熱戦の幕を開けた。

















後半、トライを決めたラブスカフニ(左から2人目)を祝福するレメキ⑪、ムーア(右)ら=20日、東京スタジアム、上田潤撮影

1組は5チームで、A,B,C,Dの4組に分かれた。
各組で2位まで入ったチームが決勝トーナメントに出場できる。
観客4万5745人が集まった一戦で、日本は松島幸太郎の3トライの活躍などで30-10と白星スタートを切った。

ラグビーの競技でのルールについては、私もサッカーボケの経験上、アナウンサーや解説者の説明をさぼらないで聞いているせいか、100%は無理かと思うが、80%程度は理解できていた。
そこで気付いたことだが、メンバーのなかに外国人が多いことに驚いた。
0921の日本が初戦ロシアに30-10で勝った記事のなかに、「我ら 多国籍ジャパン」の題字で、その内容について詳しく書いてあった後で、それをダイジェストした。
サッカー直属の私には、日本代表になるには日本人なら何も問題はないが、代表に選ばれている外国人の扱いはどうなっているのだろうか。
そんな、低レベルなことに関心があった。

先ずは日本代表のサッカーはどうなっているかと言えば、やはり日本人にならなくては、日本の国籍を得ないわけには日本代表にはなれないのが原理原則だ。
例えば、1993年アメリカW杯アジア予選に出場したラモス瑠偉。
1998年フランスW杯アジア最終予選及び本大会に出場した呂比須ワグナー。
2002年の日韓W杯本大会に出場した三都主アレサンドロ。
2010年の南アフリカW杯アジア予選及び本大会に出場した田中マルクス闘莉王。
こんなことを常識平左衛門の山岡でも、ラグビーのメンバーの国籍問題については難解だった。


★先ず201920の朝日新聞では、
「BP狙い 4トライ以上で白星を 日本」
W杯の勝ち点にはボーナスポイント(BP)という制度がある。
4トライ以上を取ればボーナスポイント(BP)として1点が与えられ、勝利の4点に加えて1試合で「勝ち点5」を得られる計算だ。

4年前のW杯で、日本は3勝1敗の好成績を残しながら決勝トーナメント進出を逃した。
同じ組では南アフリカもスコットランドも3勝1敗だったが、この3チームのうち、日本だけがBPを獲得できなかったからだ。
当時を知るFW稲垣が「4年前はBPを取ろうと考える余裕がなかった」と振り返ったことがある。

選手たちはミーテイングでもBPの重要性を再確認した。流は「BP獲得を念頭に置いてプレーしたい。
開幕戦で互いにプレッシャーがかかるが、柔軟に対応したい、と語る。


★20190921の朝日新聞、
「我ら 多国籍ジャパン」の題字では、
この夜の日本は先発15人のうち8選手が外国出身選手だった。
登録メンバー31人をみると、6カ国から15人が名を連ねる。
国籍を持たなくても「3年以上継続して居住」などの条件を満たせば代表選手になれるのがラグビー。
その分、選手がまとまるための工夫が必要だ。

多数の外国選手を選んだことについてメディアから質問が飛ぶと、自らも日本代表として1999年W杯に出場したニュージランド出身ジェイミー・ジョセフヘッドコーチ(49)は答えた。
「私が日本代表だった頃は外国人の存在が珍しかったが、日本の環境は変わった」

試合後、殊勲の松島はチームのスローガンを用いて感想を語った。
「みんなでつないだトライは『ONE(ワン) TEAM(チーム)』でできたかな」

(熊田英二)

2019年9月19日木曜日

ラグビーのW杯を楽しもう

ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会の2019の開幕が9月20日、明日だ。

私は高校と大学それから今に至るまで、どうにもならないサッカー直属人間になって仕舞った。
幸か不幸か? 自ら選んだ自分の人生だ。
大学のサッカー部に入部して6ヶ月ほど経った頃のこと、4年生のキーパーからお前はサッカーよりもラグビーに向いていたかもしれんなあ!と言われたことがあった。

確かに他の選手よりも、技巧的ではないし、繊細で先鋭な突っ張りができなかったが、ときには破天荒に猪突猛進漲(みなぎ)るラフ・プレーをしたことがあったものだから、先輩はそう思われたのかもしれない。
グラウンドが雨で大荒れ状態のなか、上手な人がボールさばきに苦慮しているところに、真正面からタックルして嫌がられた。
そんな自分だったから、サッカーを誰よりも真剣に愛したし、同時にラグビーのことも気が駆りだった。

中学時代はバスケットボール、この競技には何故か相性が合わなかったようで、何をやってもファールを採られ嫌になってしまった。
大学に入ってからは、この二つの競技の素(もと)が、私の心身を揉(も)みくちゃにした。
私が大学時代にサッカーに現(うつつ)を抜かした場は、サッカー、ラグビー、ハンドボール、陸上、ホッケー、馬術、水泳(水球、飛込みを含む)など、一部の競技を除く体育会系の修練場であった。
各部ごとに合宿所があって、会う奴はどいつもこいつも何処かの部の所属だった。
4年生になるまで、選手としては役に立たない端(はし)くれだった。
西武新宿線の東伏見駅の西部地域だった。
ここが、私の人生の第2の故郷と言っても、過言ではない。

勉強に余り興味を持たない私は、このエリア一帯で殆んどの時間を過ごした。
繰り返すようだが、こんな学生生活を真面目に遣り遂げた。
だから、気付かないうちに勉強なんて、社会人になってもやる気さえあれば、何とかなる、この一徹で生きてきたのだから、監督やコーチたちには申し訳ない輩(やから)だった。

4年生の夏の菅平での合宿中に、監督がグラウンドの隅っこから私は呼ばれた。
何の注意をされるか想像もつかなかった。
山岡、お前のレポートを拝見したが、こんな内容では好い成績をつけてあげられないよ、「可」にしておいたから、気を悪くするなヨ、こんな按配だった。
監督の考えよりも、監督が嫌っていた人の意見が面白くて、監督には怒られることは分りきってレポートを出していた。


私が4年生だったときの、全部員。
今は100人近くいるけれど、私たちの時代は少人数だった。

それほど、勉強を馬鹿にしていたのだ。

65歳を過ぎて、私の体は相当弱ってしまった。
この写真は、今から2年前のものだ。
6年前に高さ5,6メートルの樹木から落ちて後頭部を強打、高次脳機能障害を受けている。
ここまで良く回復したものだと感謝しているが、表情と体のバランスが悪過ぎる。
他にはテンカンの発症を怖れられ、精神的にもダメージを受けている。


20190915の朝日新聞・スポーツ欄に、あのニュージランドの試合前に行われる踊り、NZの先住民マオリの伝統の踊り、ハカのことをメインした記事を見つけた。

サッカーのW杯はテレビで観ることしか許されなかった私にとって、この日本で行われるラグビーのW杯を観ることが、この短い私の生涯で、夢の夢だった。
が、グラウンドで実際に観ることはできそうになく、唯(ただ)、唯(ただ)、新聞やテレビで観ることしかできないようだ。
どうしょうもない、ただ気が弾(はず)むだけだ。
そこで、その15日の新聞記事をここに転載させてもらって、夢を、まだまだ夢を見続けたい。

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★ つながる 強くなれる
  ハカと伝統を背負う


7日のトンガ戦でハカを披露するニュージランド代表。
先導するのがペレナラ(中央)=AFP時事

漆黒のジャージを着たニュージランド(NZ)代表、オールブラックスの選手たちが、目を見開き、叫び、体をたたいて相手を威嚇する。
「カ・マテ(私は死ぬ)」「カ・オラ(私は生きる)」
NZの先住民マオリの伝統の踊り、ハカ。

「踊る時の感覚を説明するのは難しい。魂が足から体の中を通るような独特な感じがして、全身に鳥肌が立つ」。
マオリの血を引き、ハカをかけ声で先導するSHペレナラは語る。
「チームメートと兄弟になり、つながる」そして、自分たちが立っている土地、祖先とつながるためにやるんだ」

NZ南部のダニーデンにある博物館「スポーツの殿堂」の展示によると、ハカはチームの力を誇示し、集中を研ぎ澄ますため、1905年ごろから試合前にやるようになった。
「カ・マテ」というハカの詞は1820年ごろ、紛争を逃れたマオリの親族の首長が、九死に一生を得た体験から書いたものだという。

2005年には代表チーム独自のハカ「カバ・オ・バンゴ(黒のチーム)」を初披露。
今は試合によって使い分けている。

「ハカは生活の一部。小さい頃から身近にあった」とペレナラ。
NZでは学校にも独自のハカがある。
披露されるのは「戦い」の場だけではない。
卒業式や冠婚葬祭でも、様々な感情をのせて行われる。
欧州系、ポリネシアン系、アジア系など様々な人種が暮らす国で、マオリ文化は共通の下地になっている。

多様性にあふれる国を揺さぶる事件が今年3月に起きた。
イスラム教徒が集まるモスクが銃撃され、51人が犠牲になった。
アーダーン首相は事件当日、黒いスカーフ姿でイスラム教徒の指導者たちと会い、過激な白人至上主義に対抗する姿勢を示した。

代表選手も思いを発した。
主将のFWリードは自身のSNSに「事件は私たちを分断しようとするものだが、いつだって愛と連帯が勝つ」と投稿。
かってパナソニックでプレーした代表の主力バックス、イスラム教徒のウィリアムズは負傷者や病院職員を見舞い「支えてくれた人々に感謝したい。今こそ対話の時だ」とつづった。

あの時、ペレナラは空港で涙を流すイスラム教徒の女性に出会った。
「チームにも様々な人がいる。多様性のお陰で僕らは強くい続けられる」。
女性の首相が産休を取る国。
互いのルーツや生き方を認め合ったきたNZを象徴する存在がオールブラックスだ。

史上初の3連覇に挑むワールドカップ。
誇りを示すための戦いでもある。

(菅沼遼)



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そして、イングランドの代表監督を務めるエディ・ジョーン氏が語る日本ラグビーの記事があった。

その一部(下記★部分)をここに転載させてもらう。

イングランド代表を指導するエディ・ジョーンズ氏=ロイター
日本代表前HC イングランド代表監督

前回の大会で日本を指揮して3勝を挙げたエディ・ジョーンズは今回、優勝候補のイングランドを率いて日本に戻って来た。
かって指導した選手も主力として活躍する日本代表の動向は、この4年間、欠かさずチェックしてきた。
その名将に、日本の1次リーグをの戦いを占ってもらった。

日本の1次リーグ日程は
9月20日 対ロシア⑳
  28日 対アイルランド⑦
10月5日 対サモア⑯
  13日 対スコットランド⑦
※丸数字は世界ランキングで日本は10位



20190918の朝日新聞・スポーツからここに著したい。
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決勝T可能性ある 自分信じて
ロシアとサモア 勝つべき相手
 
限界分らない
日本代表は1次リーグで厳しい組に入った。
しかし(5チーム中で2位以上になって)決勝トーナメントに進める可能性はある。
誰にも人の限界は分らない。
自分たちの力を信じれば素晴らしいことを達成できる。
2015年大会の我々(日本)もそうだった。

ロシアとサモアは、勝つべき相手だ。
特に開幕戦のロシアに勝って日本中を盛り上げたい。
優勝候補でもあるアイルランドには分が悪い。
日本と違い、ボールを保持して攻めてくる。
いったんボールを渡してしまうと取り戻すのは難しい。

そして、全てをスコットランドとの最終戦にかける展開に持ち込みたい。

日本とスコットランドは、キックを多用するなどスタイルが似ている。
蹴り合いの中、相手が隙を見せれば勝機が出てくる。

警戒すべき選手は、SOラッセルとFBホッグだ。
ラッセルは長短のパスやキックの種類も豊富で、相手を欺く技術が備わっている。
勢いに乗れば手がつけられない。
ホッグは世界最速と言ってもいいFBだ。


SHとSOが鍵
日本は、歴代でも最も身体的に強い若手がそろった。
鍵を握るのは、FWが確保したボールをさばくSHとSOのコンビだ。
日本はボールを保持できる(限られた)時間を賢く使わなくてはならないので、彼らが試合のテンポをいかに操れるかが大事になる。
特にSHで誰を起用するのか。
流大(ながれゆたか)は先発に値する力をつけているか。
経験豊富なフミ(田中史朗)を選ぶのか。


応援 選手の力に
今回、日本には地の利がある。
サッカー・プレミアリーグ(イングランド)の人気チーム、リバプールやチェルシーのように相手を圧倒する雰囲気はないかもしれないが、約1億2千万人の応援は絶大。
一人でも多く(日本代表カラーの)赤と白の服を着てスタジアムに足を運ぶことだ。
観客席が赤白で埋め尽くされれば、必ず選手の力になる。

W杯開催は特別なこと。
初めてラグビーを見る人は、ボールの動かし方や戦術に注目してほしい。
スクラムやラインアウト、キックなど、様々なプレーを駆使して勝利できるのがラグビーのおもしろさだ、

自国開催を競技の発展につなげるため、お母さんたちも巻き込みたい。
子ども達がどのスポーツを好きになるか。
一般的に母親の影響が強い。
既にラグビーに熱中している子を持つお母さんたちにも、ぜひ、W杯を楽しんでほしい。
そして、子どもを愛したくさん基礎練習させてほしい。

基本プレーをどれだけ鮮やかにやれるかが、ラグビーで一番大事なことだ。

(構成・遠田寛生)



2019年9月18日水曜日

泰緬(たいめん)鉄道

8月の中頃、朝日新聞・朝刊で下のような記事を見つけた。
8月15日の終戦記念日に相応しい記事だと思った。
その記事をそのまま転載させてもらって、それからの話をしたい。




泰緬鉄道(たいめんてつどう) 
元捕虜の人生紡(つむ)ぐ
遺族に伝えたい 豪の男性が10万人分データ化
タイに博物館を建設

第2次大戦で、当時の日本軍は東南アジア全域に侵攻した。
終戦から74年を経た今も、戦争の記録を追い続ける人がいる。
日本が終戦記念日を迎えた15日、アジア各地でも犠牲者を悼む式典が開かれた。

映画「戦場にかける橋」でも知られ、戦時中に旧日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)を結んで建設した泰緬鉄道。
過酷な労働現場に動員されて亡くなった連合国軍捕虜らの人生をたどり、記録に残す活動を25年間続けている男性が、タイにいる。

豪州人のロッド・ビーティーさん(71)。
タイ中部カンチャナブリに自分で作った博物館「泰緬鉄道センター」で毎日、一人で集めた元捕虜たちの情報をパソコンに入力している。

ワラン・ロバート 1903年1月6日、豪州ニューサウスウェールズ州生まれ。
捕虜としてシンガポールからタイに移動し、豪州・英国人捕虜からなる「Fフォース(建設作業のグループ名)で鉄道建設作業。
43年9月18日、マラリアのため死亡。
共同墓地のA15区画に埋葬。

「事実を突き詰めて、歴史を伝える。犠牲者の数だけではわからないストーリーがあるのだ」とビーティーさん。
英国や日本からも資料を集め、元捕虜たちの人生を調べてきた。
ジャングルを歩き、鉄道部品や元捕虜の遺品を探した。
そうして集めたデータは、建設に携わらなかった元捕虜も含めて10万人分を超えた。

活動の原点ともいえる思い出がある。
24年前、元捕虜の80代の男性が息子に支えられてやってきた。
「自分が働いていた場所を思い出せない」という。
ビーティーさんが資料をもとに男性が当時いた現場を割り出し、連れて行くと、男性は「私は今、あの時の23歳だ」と言って、息子の腕を振り払って歩いたという。
ビーティーさんは歴史を残す意味を感じたと話す。

ビーティーさんがタイに住み始めたのは1993年。
当時は宝石商だった。
たまたま、知り合いに元捕虜の追悼式の手伝いを頼まれ、生き延びた元捕虜の話を聞いて「忘れてはいけない母国の歴史だ」と感じ、泰緬鉄道について調べるようになったという。
95年からは、約7千人の元捕虜らが眠るカンチャナブリの墓地の管理も任された。

博物館をオープンしたのは2003年。
この墓地の脇に作り、集めた鉄道部品などを展示している。
その中には、日本語が書かれた、線路の枕木を固定する犬釘がある。
鉄道完成記念のものだ。
当時、鉄道連隊中隊長だった東京都の菅野廉一(てんいち)(100)から「あなたは信頼できる」と言われ、贈られたという。

捕虜や、東南アジア各地から集めた人々に過酷な労働を強いて作られた泰緬鉄道は、旧日本軍による残酷な行為の一例として語られることが多い。
だが、ビーティーさんの集めた情報で、豪州政府が主張する日本軍の暴行の事実が覆されたこともあったという。
ビーティーさんは「日本を擁護するつもりはない。事実の追求は、戦争で苦しんだ人への敬意だ」と言う。

毎年、数十人の元捕虜の遺族が「祖父の最期を知りたい」とやってくる。
「彼らの家族のストーリーを伝えるのは、私にしかできない。体が動く限り続けたい」と静かに語った。

(カンチャナブリ=染田屋竜太)












25年間、泰緬鉄道の建設に携わった連合国軍の元捕虜のデーターを集めてきたロッド・ビーティーさん=7月、タイ中部カンチャナブリ、染田屋竜太撮影




戦時中、泰緬鉄道の建設をする連合国軍の捕虜たち(1942年ごろ)

泰緬鉄道
日本軍が連合国軍の補給路遮断をねらい、英領だったインドの北東部を攻撃しようとした「インパール作戦」で、自軍の補給路確保のため1943年に完成させた。
タイービルマ(現ミャンマー)の約400キロを結ぶ。
東南アジア諸国の人や連合国軍捕虜が動員され、工期圧縮をめざした過酷な労働によって数万人が命を落とした。
鉄道の一部は今も使われている。


8・15アジア各地で慰霊式

○華人ら平和を祈念・マレーシア
マレーシアの首都クアラルンプールで15日、第2次大戦でマレー半島に侵攻した旧日本軍に殺害された多くの華人(中国系住民)を追悼する式典が行われた。
現地の華人団体が昨年末に700万リンギ(約1億7700万円)かけて建てた慰霊碑の前で主催。
華人ら約100人が平和を祈念した。

華人団体「中華大会堂」の翁清玉会長は「(戦後)74年が経った。若い世代にも戦争の歴史と平和の大切さを知ってほしい」とあいさつ。
参加者は「侵略者の日本は誠実に謝罪するべきだ」などとする共同宣言を読みあげて献花し、平和を願って風船を放った。

(クアラルンプール=守真弓)


○「インパール」追悼・タイ
第2次大戦中に旧日本軍のインパール作戦に参加して亡くなるなどした元兵士らの「戦没者慰霊祭」が15日、タイ北部チェンマイ郊外のバンカートなどで開かれた。
遺骨収集を続けた佐賀県の僧侶が現地の学校に建てた「タイ ビルマ方面戦病没者追悼の碑」前ではチェンマイの日本人ら約100人が集い、平和への思いを新たにした。

インパール作戦は旧日本軍が連合国側の補給路を遮断しようと実施。
インド北東部の攻略を狙ったが失敗し、多くの日本兵がビルマ(ミャンマー)を通ってタイ北部などに敗走する過程で犠牲になった。

(チェンマイ=貝瀬秋彦)

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今年の6月からは、毎週火曜日に保土ヶ谷図書館に通っている。
週1の図書館通い。
何も、図書館から面白い本でも見つけてやろう、なんて気障は気持ちはなく、館内で読む本は、日頃読んでいるものを、唯、読み進めるだけだった。
図書館から面白いと思われる本など探ってみたって、これは酷(ひど)いことになるだろう、と勝手に思い込んでいた。

だが、そんな私だけれど、7月に暇を見つけて棚に整理されている本を、気楽に見て廻った。
そこで、私の目の中にグサリと入り込んできたのが、
「泰緬鉄道 吉川利治(著)
機密文書が明かすアジア太平洋戦争」だった。

決して泰緬鉄道という書名のことは当然のこと、その内容についても詳しくは知らなかった。
泰緬鉄道という言葉だけは知っていた。
そして立ち読み状態で、ぺらぺらとページをめくってみて、これはとんでもない内容が書かれていることに、先ずは吃驚仰天。
タイ(泰)とビルマ(緬甸(めんでん)、現ミャンマー)の国境地帯を結ぶ415キロの鉄道を、旧国鉄の現職職員を主体として編成された軍属部隊、第四特設鉄道隊、第五特設鉄道隊に満鉄(南満州鉄道株式会社)が合流して事業を始めた。
その程度のことなら多少なりとも知っていても、この本の中身は、あっちこっちの資料も含めて、とんでもないことを知った。

それから何度も図書館に通ったが、いつも通りの時間潰ししかしなかった。
日照りが強く、気温には頭が可笑しくなるほど苦しみ、夕方のビールを飲む所定の時間までなかなか待ち難かった。



2019年9月7日土曜日

むかわ竜

20190905 朝日新聞・天声人語を読んで、私自身の物知り貧困、知識不足を恥じた。
小学校の頃から、この天声人語を楽しみに暮らしてきた。
今回の天声人語を読んで、朝日新聞も私のような知識不足の人間がいることを少しは考えてくれと言いたくなった。
先ずは、その天声人語の転載コーナーです。


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★天声人語(20190905)

頭や背骨など黒光りする化石一つ一つの迫力に息をのむ。
東京・上野の国立博物館で開催中の恐竜博で、展示の目玉である「むかわ竜」を見た。
発掘された化石は全体の8割を超す。
国内で類のない全身の化石だ。

今から16年前、北海道むかわ町化石収集家・堀田良幸(ほりたよしゆき)(69)が近所の山中で尾の骨を見つけた。
ワニかと思ったが、後に専門家の調査で恐竜と判明。
町を挙げて発掘し、222個の化石を見つけた。
「神様からの贈り物だと思いました」と堀田さんは話す。

郵便局に長く勤めた。
採集を始めたのは30代半ば。
採ったアンモナイトを客に贈ると喜ばれた。
バンダナを頭に巻き、ピッケルを手に山野をめぐる。
色や形を手がかりに石を探しては割る。
「化石が私にシグナルを出してくれます」

7200万年前の白亜紀、一帯は海だった。
浜で群れをなして植物を食べていたのがむかわ竜だ。
ときにはティラノサウルスのような肉食恐竜の餌食に。
いま風に言えば、気の優しい「草食系」だったが。

全身の骨格は昨年9月の4日、町の体育館で公開された。
わずか2日後、町は地震に襲われる。
1人が亡くなり、家がなぎ倒された。
隣の厚真町では山が崩れ、多くの命が失われた。
ただ化石は地元の博物館に保管されていて難を逃れた。
発掘されたのが奇跡なら、地震に耐えたのも奇跡だろう。

明日で地震から1年。
町は、恐竜化石を生かした街づくりを進めている。
白亜紀の大地を闊歩(かっぽ)した竜が、復興の一助を担う。
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ところが本日(0906)、朝日新聞・朝刊の1面に、この「むかわ竜」のことを実物化石の写真を含めて、詳しい「むかわ竜」の記事を見つけた。
私の知識の無さを恥じるのは、当然のことで、それにしても悔しかった。
な~んだ、そういうことだったんだ。


このむかわ町の隣では、昨年9月6日午前3時ころ、北海道の胆振(いぶり)東部地震が発生した。
厚真町の吉野地区では震度7、大規模な土砂崩れが発生した。
山岳一帯に発生した山崩れの後は、いまだに何の手も付けられない状態だ。
そんな大きな地震が発生した隣町で、恐竜の化石が大量に見つかったなんて、夢にも想像しなかった。
その化石を並べて、恰も動き出そうとしている恐竜の姿が撮影されていた。

AinuGroup.JPG
北海道にはアイヌ民族がかくも立派に集落を形成して、暮らしていたことも私には不思議なことだ。
もっともっと、知るべきだと痛感する。


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そして翌日の朝日新聞・朝刊1面より。
むかわ竜 学名は「カムイサウルス」


アイヌ語で「神」
北海道むかわ町で見つかった「むかわ竜」は新属新種の恐竜で、学名は「カムイサウルス・ジャポニクス」とする北海道大などの研究グループの論文が6日、英科学誌サンエンティフィック・リポーツで公開される。
頭部にトサカがあった可能性など、新たな研究成果も盛り込まれている。

グループの小林快次・北大総合博物館教授によると、学名には、アイヌ語で神を意味する「カムイ」を用い、全体で「日本の竜の神」という意味が込められている。
発見、発掘したグループが学名を付けることが多く、論文掲載でこの名前が定着するとみられる。
むかわ竜はハドロサフルス科。
群れを作って植物を食べる。
2003年、むかわ町穂別の約7200万年前(白亜紀後期)の海の地層から最初の化石が、その後、全身の約8割の骨が発掘された。
9歳以上の成体で体長8メートル、体重4~5・3トンとみられている。
論文は、頭の骨を詳しく調べ、トサカがあった可能性を指摘した。

むかわ竜の化石は東京・上野の国立科学博物館で10月14日まで開催の「恐竜博2019」(朝日新聞社など主催)で展示されている。

(田之畑仁、米山正寛)

2019年9月6日金曜日

私、71歳になる!!

今月24日で、私は71歳になる。
昭和23年9月24日生まれだ。

昨今、残暑は厳しく陽射しはなかなか衰えない。
気温や海の水の温度が冷めやらず、九州、中国、四国、三重、大阪、横浜、千葉は大雨洪水に苦しめられている。
台風にもやられた。
昨年の夏の暑さに、生まれて初めての熱射病にやられた。
両の手指の関節が痙攣を起こして、一晩中寝られず半眠状態だった。

数え年、70歳の時には、何も行事らしきことはなかったが、晩飯にはいつものとは違った一品を余計に付けてくれたような気はするが、確(しっか)りした記憶はない。
中国の唐代の詩人杜甫の一節「人生七十古来稀(まれ)なり」から、そのように呼ばれているようだ。
どうせ七十歳まで生きられることは稀なのだ。

それじゃ71歳は何と呼ばれているのかと、色々調べてみたがそれらしき呼称は見つからなかった。
77歳は喜寿だ。

そして、この頃の私の生活は一体全体どうなっているのだ?
身も心も、ガッツーンと締まりなく、言い方を変えれば、しっかりしていない。
精神障害に伴う身体症状を時には感ずることもある。
ヤマオカ、君は給料をもらうことを止めて、天(あま)の神(がみ)の如く社会のためになるようなことをしたかったのではないか?
昭和48年卒の同じ大学のクラブの部友・同輩たち10人、大学を終えて入った会社の同期生たち37人のなかで、私のように会社勤めをやっているのは大阪の友人、ただ一人だ。
この大阪の友人は、社長さんを弟にやってもらって、自分は多少気分を薄めてでも許される状態だと言っている。

この私はどうかと言うと、これも大事な仕事から外され、気ままな状態のサラリーマンだ。
週3日の休暇、4日の出勤した日だって業務は午前中だけだから、給料について、社長さんに気が引けてしょうがない。
社長さんヨ、仕事のしない俺に給料を払って、それは、俺にも彼方自身に対しても余りエエことないやろう。
俺は、彼方が気の毒に思われてならないんだ。
そんな私のことを長女の旦那に話したら、ヤマオカさん、私が以前に勤めていた会社にはそんなジジイがいっぱいいましたよ、
気にしなくて良(い)いんですよ、そんなモンですよ、と大笑いされた。
長女の旦那の今の勤務先は、日本では誰にも負けない外資系の会社だ。
事態は神に任せるのも一方あり。

郷里を後にするとき、母は、タモツあなたの兄は田舎で百姓を一生懸命やっているんだから、偉くならなくてもエエ、金持ちにならなくてもエエ、警察や税務署などにはお世話にならないで呉れ、これがあなたに対するせめてのお願いだ。
20年ほど前に亡くなった両親には、無駄な迷惑はかけなかった。

「蝶々 種類」の画像検索結果
会社からの帰路、横浜公園の上り坂を歩いていたら、大きな黒い蝶々が頭の上をぐるぐる水平に廻りだした。
子供の頃なら嬉しくなってとっ捕まえようと腕を振り上げたかもしれない。
この老人は、そんな物騒なことはするまいと、ひたすら耐えた。
何故か、私の頭の上から去ろうとしない、そんな5メートルだった。

蝶々も、なかなか粋(すい)なことをしてくれるもんざ!
わっはぁ~はぁと一人笑いをしていた。

そして、公園の頂上辺りで、今度は白い蝶々の餌食(えじき)になった。
この蝶々も先ほどの黒い蝶々と同じように私にこびりついた。
白い蝶々は、私の前を、恰も私の歩行を導くように先行して離れない。
なぜだろう?
10メートルほどのアベック歩行だった。 
この黒い蝶々と白い蝶々は、私と仲良くしたがっているように思えてならなかった。

横浜公園を過ぎて、私にとって夢溢れるイーハトーブ農園に寄った。
そしたら、そこでも不思議な蜘蛛に遭った。
仕事をする気をなくした私が、ブロックの塊に座ってぼやっとしていた。
そしたら、蜘蛛が私の肩に足を伸ばして佇んだ。
不思議な蜘蛛だと思って、ただ、静かに目を向けていた。
そしたら、何を思ったのか高くに身を翻したかと思いきや、再び戻ってきて私の頭に飛びかかった。
何度も飛んだり,はねたり、髪に食らい付いたり、仲良くして欲しかったのか。
私は大きな声を出すこともなく、に~ゃ・に~ゃとしていた。
不思議な時間だった。
宮澤賢治さんじゃあるまいが、俺って、蝶々や蜘蛛たちと同じ世界の生き物だよと宣言した、気持ちよかった。

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会社では、社長さんに嫌な思いをさせるんではないぞと思い馳せていたのに、公園でのこの蝶々たちの、仲良くしようぜの親密な羽ばたきは感無量だった。

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上の写真はネットでお借りした蜂だ。
0906の、イーハトーブ農園から自宅までの帰り道、交差点で信号の変わるのを待っていた。
この日は栗の収穫で頭は幸せ感でいっぱいだった。
3度目の収穫で、ここにきて良く分ったのだが、比較的虫に冒されないことを知った。
以前には落っこちた栗の実を収穫するまで時間をかけ過ぎた、その間に、栗の実に蟻らしき小さな虫に襲われる、それが常識だった。
その日、信号を待っている私の頭に、虫らしいものが降りかかってきて、私は戸惑いなくそれを右手で振りかざした。
そして、その虫が遠ざかるのを見て、ギョットした、蜂だったのだ。
この蜂の種類は分らないが、一刺(ひとさ)しされれば、刺されたところは当然、死に至らしめられることだってあるのだ。
スズメバチではなかったのは、当然だった。
蜂は、この俺さまを嫌らしい人間(動物)と見なかったのか、果てしなく遠ざかって行った。
不思議な出来事だった。

頭痛の原因は、樹木の上から落下して受けた高次脳機能障害の影響かもしれない。
休暇の日にすることは、毎日の散歩、日によっては水泳、読書、図書館通いを間抜けのないように丁寧に過ごすことだろう。
何とか充実した日時を過ごしたい。

次の私の悩み事は、会社勤めを辞めたときにすることは何なんだろう。
お金のことは一切合財気にしないで、人の為になって喜ばれることを見出し、それに励むことだろう。
ヤマオカ、それを君が選び出すことだ、具茶具茶(ぐちゃぐちゃ)泣き言を抜かすな。
栄枯盛衰、有為転変、生者必滅は世のならいじゃ。