2019年6月23日日曜日

尿(いばり)って?



尿(いばり)
遠藤周作(「週間読書人」昭和34年7月20日)の「夏と馬と私」のなかで、牛のことを描いている。
その表現とは、-----やっと5,6歩歩き出したかと思うと、また立ち止まって今度は長い長い尿(いばり)をしだしたのだ。

この文章を読んでいて、何故、遠藤周作は単純に尿(にょう)としなかったのだろうか? そして、(尿)を読み方として「いばり」とあった。


そこで、物知り不足の私は余計なことを考えてしまった。
何是、尿がいばりなんだ?


ネットで調べてみたら、下記(★)のような記事を見つけた。

泌尿器の概要。腎臓でつくられた尿は輸尿管を経由して膀胱へと送られ、一定量が溜まったら尿道を介して排尿される。

尿(にょう、いばり)は、腎臓により生産される液体状の排泄物血液中の水分や不要物、老廃物からなる。
小便(しょうべん)、ションベン、小水(しょうすい)、お尿(おにょう)、ハルン、おしっこ(しっこ)等とも呼ばれる。
古くは「ゆばり」「ゆまり」(湯放)と言った。
尿の生産・排泄に関わる器官泌尿器と呼ぶ。
ヒトの場合、腎臓で血液から濾し取られることで生産された尿は、尿管を経由して膀胱に蓄積され尿道口から排出される。
生産量は水分摂取量にもよるが、1時間あたり60ml、1日約1.5リットルである。
膀胱の容量は、成人で平均して500ml程度で、膀胱総容積の4/5程度蓄積されると大脳に信号が送られ、尿意を催す。
日本人が人生80年の間に出す尿の平均量は約35トンといわれている。


2019年6月22日土曜日

梨の礫(なしのつぶて)

梨の礫
先日読んでいた松本清張氏のベストセラー小説「砂の器」のなかで、見つけた「梨の礫」とは何じゃ?と直感的に感じた。
意味は何となく解るのだが、「梨(なし)」にしても「礫(つぶて)」にしても、何故この漢字を用いたのか、そのことがよく解らないので、これは何とかしなくてはイカンと思った。
★印以下の文章はネットで調べた物を転載させてもらった。

★印【なしのつぶての語源・由来】
「礫(つぶて)」は、投げる小石の意味。
投げた小石は返ってこないことから、つぶてのように音沙汰がないことを「なしのつぶて」と言うようになった。

音沙汰?、、、、これも不思議な言語だ。

漢字では「梨の礫」と書くが、「梨」は「無し」に掛けた語呂合わせで特に意味はない。
ただし、「無しの礫」では「何も無いものを投げること」になって意味をなさないため、形のある「梨」を用いて「梨の礫」としなければならない。
「つぶて」の使用が少ない割に「なしのつぶて」の使用が多い理由は、見て見ぬふりをする意味の「つぶる(目をつぶる)」と「つぶて」の語感が似ているせいかもしれない。

「梨の礫」をネットで調べていたら、こんな言葉の説明に出くわした。
そのうち3つを此処に掲げた。

ィ「音沙汰(おとさた)がない」
「音沙汰」だけでなく、「音」だけで、便り、連絡、訪れという意味がある。
通常使う際は、「音沙汰がない」のように「ない」をつけて使用することが多い。
「梨の礫」と同じように、「沙汰」?とはどういう意味なのだろうか。
この「沙汰」という奴も、もう少し理解力を高めたい。

ロ「鉄砲玉(てっぽうだま)」
使いなどに出たまま戻らないこと、またその人のこと。

ハ「音無(おとなし)の構え」
1、音を立てない姿勢。
2、行動を起こさないこと、働きかけに対して反応しないこと。



2019年6月15日土曜日

義父の法事で学んだこと



20190526(日)
10:30より京都の5条烏丸東の西念寺で、義父(妻の父)=小松良一(この後、義父と書かせてもらう)の33回忌の法事に参加した。
新幹線で京都駅に着いたのが09:30、お寺まで京都駅から歩いて、20分ほどかかった。

道々、古い京都の街並みや各商店の品揃えや職人さんの働きぶりをゆっくり見られた。
古風豊かな寺社関係のお店の職人さんたちには、訳の解らない一見物人に見えただろう。
東本願寺(お東さん)の前を通ったが、その通りには和尚さんが使う衣装や数々の仏具を売る店、染物屋、遠く離れたエリアからの参詣者用の宿がいくつもあって興味が湧いた。
中古住宅の玄関に掲げられた掲示板にしても、これから9人が宿泊できる旅館を作りたいと告ぐものが掲げられていた。
易く泊まれるこの小規模の宿泊施設も、この本願寺界隈では貴重なようだ。
我々、横浜に住んでいる人間には、珍しい光景だった。

思えば、この33年間は長かった。
私の近縁では、33回忌までやるのは初めてのことで、頗(すこぶ)る関心した。
それよりも、何よりも、法事というモノについて何も知識がなかった。

33年前だとすれば、亡くなったのは1987年の5月、昭和62年になる。
病気は癌、満62歳だった。
義父が体の不具合を言い出した時には、癌が随分進んでいて病院に通い出してからは、見かける第三者には辛かった。
それにしても、62歳は若過ぎたワ。


法事のことを、ネットで知ったことをここに著しておこう。
法事を責任もって行おうとするものを、施主と呼ぶ。
法事をつとめる人の中には、法事は先祖供養のためだと思っている人がいますが、そうではありません。
お釈迦さんは、死んだ人の周りでお経をあげたところで、死者が浮かばれるものではないと教えられている。
法事をしたからといって、死者がよりよい世界に生まれるわけではではないのです。
では、何のために法事をするのかというと、むしろ法事をする意味は、亡くなられた人のためではなく、法事を営む人々のためのものです。
その法事をご縁として、今生きている人も、やがては必ず死んでいかなければならないことに気づかされます。
亡くなられた人をご縁に、自分もやがて死ななければならない。
という無常を見つめるご縁になるのです。

今回、この西念寺の和尚さんは念仏を口語文で唱えあげた。
お坊さんに確認すべきだったのだが、上で述べたような結果、「弥陀たすけたまえ」から、やがて、「たすけてくれて有難うございました」に変わってきたのだろう。
仏教のことを何も知らない私が、「念仏者はすべて平等である」と唱えられているように感応した。


昭和61年は、チェルノブイリ原発事故、スペースシャトル「チャレンジー号」の爆発事故、ハレー彗星の大接近、三原山の大噴火があった。
昭和62年には石原裕次郎が、翌々年には美空ひばりが両氏とも52歳、癌で亡くなった。
当年、翌年と色々あった年だった。

参加者は義父の子供と子供たち夫婦、その夫婦の子供たち、義父の甥(おい)叔母(おば)。
参加者の総人員は20人ほどだった。
義母は92歳の高齢で、今は横浜の我が家で私たちと同居している。
足腰が弱く、法事の為に横浜からはどうしても無理で、出席できなかった。
私が家を出ていく際に、義母に「貴女(あなた)の夫の33回忌に、京都まで行ってきます」と声を掛けた。
嬉しいのか、嬉しくないのか、「ご苦労さん」とだけは言った。
私の妻(長女)が介抱しているので、妻も出席できなかった。
よって、この法事についての責任者は、妻の弟(長男)がなしとげた。

会食=「お斎(おとき)」が、鴨川に沿ったところの料亭だった。
「お斎」の「斎」という字は、仏教用語「斎食(さいじき)からきている。
結婚式や披露宴などにも随分使われているような、古風で高級感に溢れた料亭だった。
法事での会食を「お斎」と言うらしい。
施主の長男がみんなに、会食開始のご挨拶をし、私がカンパイと言って飲み物を注いだ杯とグラスを胸の前から上に掲げた。
それから、何時間か?お斎は進んだ。

その料亭のお店の名前は、問題があると困るので、明らかにするのはやめましょう。
鴨川の流れを眺めながら爽やかな心地よい風を味わえ、初夏の京都をう~んと楽しめる立派な料亭だった。
大きい広間の各席に出された料理は、鮎や鮒、鱧、夏の京野菜など、この季節ならではの食材をふんだんに使った絶品の数々。
お酒はいくらでも用意してくれた。
私は、他人のことなど意に介せない無器用者ぶりを大いに奮い立たせて、誰よりも誰よりも大いに飲んで、好きなことを喋らせてもらった。
みなさん、すまなかったです、御無礼を謝ります。
最後の挨拶は、施主の息子が行った。

葬儀の日のことを思い出してみた。
33年前の葬儀の日、少し雨が降って、私の4人目の子がまだまだ幼女のままの身勝手なところがあって、私は傘を差しながら、4人目の子どもを抱きかかえて寺の外回りをうろうろしていたのを思い出す。
私の両手を振り払うよにして、掌(てのひら)を大きく広げ雨の滴に触れていた。
そんな33年前だった。
きっと私は36,7歳だったのだろう。
私の長女、長男、次女は寺の中で、和尚さんの読経その他の仏事を神妙な顔をして接していたのだろう。
義父の死は、癌があっちこっちに転移して、死を遠からず近からず覚悟していたので、大涙をたらたら流すような悲しい光景はなかった。
義父が勤めていた会社の「社葬」然にしていただいたので、有り難かった。

私は横浜・保土ヶ谷に住んでいて、義父は京都・北区紫野に住んでいた。
義父は日本酒が好きで、魚釣りが好きで、このことに関しては少しばかりの思い出がある。
画像
上の写真はハゼ科の「ゴリ」です。

和尚さんが法事の式次第の一部として、皆さんの中で小松良一さんとの何かが心に残っているようなことがあったら、皆さんに話してくれませんかと尋ねられた。
「お斎」は、参列者全員で食事をしながら、思いで話をして故人を偲ぶ目的もあるのです。
二番目の話し手として私が指名された。
私は義父が横浜に来た時に、喜んで行った彼方此方(あっちこっち)での魚釣りのことを話した。
その話で一番強調したのは、先ずゴリだった。
ゴリ編は京都の巻だ。

日本の各地にゴリと呼ばれている魚は幾種類もいることを、ネットで知った。
ゴリは吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息している。
確かな記憶ではないが、滋賀県の琵琶湖西岸の安曇川に行ったと思っている。
私にとって初めての河だけれど、義父にとっては長年の良域だったようだ。
釣りではなく台所で使う網を川上で持って、適当な石を取り除いては、川下からその場の底に身を潜めていたのを掬(すく)うのです。
そんな掬い方?がゴリ釣り!だ。
2時間ほどで、小さなバケツの2分の1ぐらいは採れた。
そろそろ終わりに成りかけた頃、義父がバランスを壊して顏の一部が小さな石に触れ、血が流れた。
ちょっとでも血などを見ると、仰天してしまう私には大きな出来事だったが、義父にとっては何てことのないものだったようだ。
気にすることなく、ゴリ採りを躊躇(ちゅうちょ)することなく続けた。
義父は、こと魚釣りに関しては強引・剛直・欲張り!だった。
見た目にはそんなに恰好の好い魚ではないが、甘辛く煮たものは、なかなか妙味で私の好物でもあった。

横浜編の魚釣りは、先ずは葉山町森戸海岸の少し出っ張っている岩に腰を掛けて釣竿を張った。
私の大学時代のサッカー部の先輩が、ある電機会社の保養所の責任者だったので、家族と義父とはそこで寝て、食事をした。
敷地内にプールもあって、私たち家族には最高のレジャー施設だった。
孫を海に連れ出して遊んでくれることはあったが、海と言えば釣り場所だった。
砂浜や岩肌から釣果にかかわらず身動きしなかった。
保養所に帰ってきても、釣り糸や針、餌の確保に集中していた。
酒を飲んでは、釣りのことばかり言う言う。
義父の頭の中は、酒と孫、釣りのことしかないようだった。
小さなカサゴと小さな鯵と名も知らない魚が少し採れて、漁獲はただそれだけだったが、本当に嬉しそうだった。

もっともっと魚釣りの話はあるが、魚釣りについてはいつもいつも真剣だったことは確(たしか)だった。
葉山町の長者ケ崎、横須賀市の佐島でも大いに釣りをした。

私は大学時代、クラスではサッカー部に所属しながら革マル派の仲間に引きずられた。
学校当局から出る学生会館の使用方法や授業料アップ、政府与党の米国に対する方針には、体を突き張って反対した。
そんな私だけれど、私が政府を批判することに、義父はいつも和みをもって話し相手になってくれた。
当時、今はよく知らないが、民商という集団が、京都市内の中小企業にそれなりの影響力があって、義父もどちらかと言えば十分民商派だった。
確か、当時は共産党か社会党あたりが支援していたような気がする。
私が学校で悩んだことや、社会人になって悩んでいる事などには、強い興味を持ってくれた。
が、もっと徹底的に話したかった。

2019年6月8日土曜日

小さな命の警笛 聞こえるか

20190602の朝日新聞・朝刊/総合3の記事を下の方に転載させてもらった。
難しい問題を提示・提起、掘り下げている訳ではないが、新聞記事になるだけあって、真剣に考えなくてはならないことだ。
土・風・水が清々(すがすが)しく、野花や樹木が大いに気持ち良く育っている郷里で生まれ育った私には、この記事の内容を心身併せて理解できる。


日曜に想う
編集委員・福島申二
小さな命の警笛 聞こえるか

人知れず進行している異変が、小さなできごとによって表に現れてくることがある。
水俣病は、ある漁村の住民がネズミの急増に困って市役所に駆除を申し込んだ、と地元紙に報じられたのが世に知られるきっかけになった。

漁村にいたネコが原因の分らぬまま相次いで死に、はびこるネズミの被害に手を焼いて陳情に至ったのだった。
あとになって振り返れば、ネコは、死をもって危急を告げる炭坑のカナリアのような存在だったかと思われてならない。

ひるがえってこちらは、地球規模の危機を知らせるカナリアかもしれない。

オーストラリア北部沖の小島に生息していたネズミの固有種が絶滅したと、同国政府が2月に発表した。
ブランブルケイ・メロミスという種で、その島にだけ生息していた。
なぜ「カナリア」なのかというと、地球温暖化の影響で絶滅した初の哺乳類とみられているからだ。

サンゴ礁の島は4~5ヘクタールで海抜は3メートルに満たない。
温暖化による海面上昇で浸水して生息域を奪われたとみられ、10年前に確認されたのが最後になった。

日本ではあまりニュースにならなかったようだが、小ネズミの受難に耳をすませば、地球の悲鳴が低い声となって聞こえてこないだろうか。
温暖化ばかりではない。
新参者のホモ・サピエンスが手荒く君臨するこの星で、何か取り返しのつかないことが進行しているのではないかという不安が、胸をよぎっていく。

ーーーーーーーー
80億人に迫ろうという人間をのせて地球は回る。
自分もその一員ながら、さぞ重かろうと案じずにはいられない。
自然の負荷は増すばかりだろう。

世界の科学者が参加する国際組織(IPBES)が先ごろ、生物多様性と生態系の現状についての報告をまとめた。

生物多様性と聞けば難しいが、いわば地球上の「命のにぎわい」である。
報告には、それらが人間によって侵されている深刻な状況が示されている。

たとえば、いまや陸地の75%は大きく改変された。
海域の66%で環境が悪化し湿地の85%は消滅した。
地球上に約800万種とされる動植物のうち100万種が絶滅の危機に瀕しているという。

膨大な種の生き物は、それぞれが人知を超えて結びつき、作用し合って、ゆたかな生態系をつくっている。
その恩恵を存分に受けながら、我々はかってないペースで多くを絶滅に追いつめている。
大抵は名も知られない種で、トキのように美しくも、ニホンカワウソのような愛嬌者でもない。
ほとんどが人知れずに、ひっそりと消滅しているのである。



かってニューヨークの動物園に「世界一危険な動物」という展示があった。
檻の中には鏡があって見物する当人が映った。
檻には「他の動物を絶滅させたことのある唯一の動物」という説明もついていた。
そんな話を苦く思い出す。

ーーーーーーーーー
去る5月22日は「国連生物多様性の日」だった。
1992年にリオデジャネイロで開かれた地球サミットに先立ち、多様な生物を守っていくための条約が採択された日にちなむものだ。

そのサミットで、何より記憶に残ったのは、当時12歳だったカナダの少女が世界に訴えたスピーチだった。

「オゾン層にあいた穴をどうふさぐのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどう生き返らせるのか、あなたは知らないでしょう。どう直すのか分らないものを、壊し続けるのはやめてください」。
言葉は大勢の胸を突いた。

未来について知ったふうな悲観は言うまいと思う。
しかし、滅びの危機というのは我が世の春のなかで不気味に育ち、気がつけばぬっと隣に立っているものだろう。
茨木のり子さんに次の詩がある。
 人類は
 もうどうしょうもない老いぼれでしょうか
 それとも
 まだとびきりの若さでしょうか
 誰にも
 答えられそうにない
 問い
 ものすべて始まりがあれば終わりがある
 わたしたちは
 いまいったいどのあたり?

答えられない。
しかしその「問い」を発する賢さが、人間にはある。



2019年6月6日木曜日

男子の本懐  城山三郎

城山三郎さんの難しい長編経済小説を読み出し、その面白さに狂っている。


読み出した矢先は、エライ物に手を出したものだと後悔したのだが、先月、城山三郎さんの「官僚たちの夏」を読み、その勢いが余(あまり)余(あま)って、今回の「男子の本懐」に巡ってきた。
官僚たちの夏 (新潮文庫)

この小説の主人公は、民政党総裁で内閣総理大臣の浜口雄幸と大蔵大臣の井上準之助がメインとしたものだ。

緊縮財政と行政整理による金解禁。
これは近代日本の歴史の中でもっとも鮮明な経済政策といわれている。
第一次世界大戦後の慢性的不況を脱するために、多くの困難を克服して昭和5年1月に断行された金解禁を遂行した浜口雄幸と井上準之助。
性格も境遇も正反対の二人の男が、いかにして一つの政策に命をかけたか、その二人の生きがいをこの本は緻密に語ってくれる。

浜口は、世界恐慌と言われる経済不況の(腐朽)なかで、金解禁・軍縮という大事業、それに実行予算をも加えるならば、わずか1年3ヶ月の間に、4度にわたる予算編成をやり遂げた。

経済不況の事実を書き加える。
国際収支が悪化し、為替相場は41ドル2分の1にまで落ち込み、金解禁を行えば、輸入品在庫を持つ者、輸入原料による製品を持つ者が、大打撃を受けるだけではなく、為替への投機が行われ、また輸入は激増、輸出は激減して、経済界は大混乱に陥っていた。

折から岡山で、天皇統監の下で陸軍大演習が行われており、首相としてその陪観に出かけねばならない。
それは、1930年(昭和5年)11月14日の朝、東京駅を9時発の「つばめ号」に乗る予定だった。
鉄道省自慢の超特急列車。
その日、東京駅頭に於いて統帥権干犯に憤った愛国社員によって狙撃された。

当日の朝、出発を前に首相官邸で記者会見をした。
「来年度予算編成が終わったので、ようやく一息ついた。何しろ空前の財政困難で思い切った緊縮予算を作ったが、すこぶる編成難であった」と切り出し、失業救済・労働組合法・行政整理といった今後の問題についての抱負を語った。

症状が急速に悪化した浜口は、翌年4月4日夜、帝大病院に再入院、深夜の1時から2度目の開腹手術を行い、結腸の一部を切り、人工肛門を作った。
それでも容態は好転せず、9日夜11時さらに3度目の開腹手術を行い、銃創の化膿からはじまった硬結を切開した。

浜口の体の様子から井上は、「内閣に中心なくしては難事業たる整理問題を実行するは不可能」、「財界方面より見て此の上政局の不安を継続することの不可」と、正論家らしいクールな判断をして、浜口の総理大臣を誰かに替わることを勧めた。

国会機能の節約を兼ねた整理では、農林・商工の両省を合併して、産業省とする。
拓務省を廃止して、内閣の一省とするーーーというのが、行政処理の眼目であった。

1931年8月26日、浜口雄幸は亡くなった。
死の報(しら)せに駆けつけた井上準之助は浜口の玄関に入ると同時に、大声を上げて泣き出した。
見栄っ張りでスタイリストと見られた井上のその姿は、ひとびとの目には、あまりにも異様であった。
たとえ肉親を失っても、井上なら見せない姿に思えた。
浜口の邸の中には、井上の号泣だけが聞こえた。

8月29日、浜口の葬儀は、民政党党葬の形で、日比谷公園で営まれた。
天皇・皇后・皇太后・宮家御総代・王公家御総代のそれぞれ代拝もあり、党葬というより国民葬であった。

新内閣が発足した。
外相は犬養毅が兼任、蔵相は高橋是清、陸相荒木貞夫などいった顔ぶれで、政友会単独内閣だ。
新内閣はまた、発足と同時に、金輸出再禁止を行い、浜口や井上の2年半にわたる労苦は、こうして水の泡になり、一方、ドル買いたちは狂気した。
さすがの井上も、口惜しくて、その夜はほとんど一睡もできず、明け方を迎えた。

1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で、自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づき懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。
井上は、浜口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。
また、予算削減を進めてきた日本海軍に圧力をかけた。
そのため、第一の標的にされてしまった。
小沼はその場で警察に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
小沼は血盟団員だったのか?本の中では触れていなかったので、いつかは調べなくてはならん。

井上前蔵相の政敵たちは、井上を激しく批判し、「井上前蔵相を贗懲(ようちょう)せよ」と訴えた。

ようちょう【膺懲】は初めて知った言葉だったので、大辞林・第三の知恵をお借りした。

( 名 ) スル
敵や悪者を打ちこらしめること。 「敵を-する」 「 -の要がある」
即死状態ではあったが、遭難直後の井上の述懐はかくの如しだ。
「余の存在が君国の為(ため)有害若しくは不利であるといふ確信があるならば、宜しく正々堂々合法的手段に依ってその目的を達すべきである。然るに事ここに出でずして、国法を犯し公安を乱すが如き暴挙を敢えてするは、動機の如何に拘はらず断じて容(ゆる)すべからざる所である」。

青山墓地東三条。
木立のなかに、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は、仲良く並んで立っている。
二人の墓には、位階勲などなく、墓碑には、「浜口雄幸之墓」、「井上準之助の墓」とただ俗名だけが書かれている。


Wikipedia(※)より、当時の政治や国や社会の経済状態をコピーさせてもらった。
小説の粗筋は下の(※)を理解してもらえれば、どんな情況でのお話なのか、もっとよく分ると思われる。

(※)1929年(昭和4年)7月、新しく成立したのは濱口雄幸を首班とする立憲民政党濱口内閣である。
新内閣の大蔵大臣には、元日本銀行総裁で元大蔵大臣(第2次山本内閣)の井上準之助が任命された。
立憲民政党は「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」を公約に掲げていたが、日銀総裁・大蔵大臣を歴任した井上にはその旗振り役が期待されたのである。
井上は直ちに「旧平価による金解禁の実施」を主張して、その準備のために緊縮財政を実施の上で財政支出を抑え、為替相場を回復させることを表明したのである。
濱口や井上が金解禁や財政再建とともに重要視していたのは、産業の構造改革であった。
明治時代以来の政府(官僚・軍部)と政商財閥のもたれ合いの上に発達を遂げた日本の産業の国際競争力は、決して強いものとは言えなかった。
特に、第1次世界大戦後の不況の長期化は、こうした日本経済の悪い体質にあると、濱口や井上は考えた。
金解禁によるデフレと財政緊縮によって一時的に経済状況が悪化しても、問題企業の整理と経営合理化による国際競争力の向上は進み、金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能が発揮されて、景気は確実に回復するはずであると考えたのである。


2019年6月1日土曜日

ハマのメリーさん

  
20190529の朝日新聞・夕刊の記事(★)を転載させてもらう。

この「ハマのメリーさん」に最初に会ったのは約40年程前、横浜駅前にある天理ビルのエレベーターで二人っきりになった時のことだ。
本社は池袋だったが、横浜勤務を命じられ20階の事務所兼営業所に務めていた。
その時は、余りに特異(妖怪、妖鬼?)な人だったので、エレベーターを乗り降りしていた間の緊張感は大変なものだった。
悪戯(いたずら)な言い方は許されないだろうが、寒気を催したのだ。

私は山野と茶畑、水田だけしかなかった田舎の出だ。
東京での私の学生生活は、高田馬場駅から大学構内までと校庭の一部。
それに、グラウンドは西武新宿線の東伏見駅に近くにあったから、その界隈だけ。
その世間なら多少は知っていても、貧困学生だった私には、化粧をばっちりしたお年寄りには縁がなかった。
サッカーの練習とクラス討論会だけに心身は破戒寸前だった。
お金を持っていないヤマオカも、私の品性の一部だった。



上の写真は(横浜の街に立っていたメリーさん=1990年代、写真家・森日出夫さん提供)

会社に戻って同僚たちに、このお年寄りのことを話して、初めてメリーさんのことを知った。
皆からは、物事の知らない私を笑止千万(しょうしせんばん)、楽しく笑ってくれた。
各人が各様に、彼女のことを話してくれたけれど、一向に私には理解できなかった。

それから、関内駅、伊勢佐木町や福富町、桜木町駅界隈でも通路を歩く姿や、ビルの壁に寄り添っている姿を見ることはあった。
それっきりに彼女のことを忘れ去っていたら、女優・五大路子さんが、メリーさんを主人公にした芝居をやりだしたことを新聞で知って、記事になる度に興味を持った。
私の知らないメリーさんの行動をもっともっと知りたくなり、女優・五大路子さんの強引な発意に、何故、どうしたのだろう?と思うようになった。




上の写真=五大路子さんが見つけた手紙
下の写真=稽古をする五大路子さん(横浜市)


★「ハマのメリーさん」
   直筆の手紙見つかる

白塗りの化粧に純白のドレス。
そんな姿で横浜の街に立ち、「ハマのメリーさん」と呼ばれた女性の直筆の手紙が見つかった。
親交のあったシャンソン歌手に宛てた晩年の文面で、メリーさんを題材にひとり芝居を演じてきた俳優・五大路子さん(66)が見つけた。
映画や歌のモデルにもなったメリーさん。
戦後社会を生き抜いた女性の率直な思いがつづられている。

親交あった歌手へ 横浜への思いつづる

「彼女は、私たちが思い出したくない過去や、認めたくない現実を一身に背負って街に立っていたのではないか」と五大さん。
今年3月、メリーさんの支援者で、五大さんにとっても舞台活動の理解者だったシャンソン歌手の故・永登(ながと)元次郎さんの遺品を整理中、衣装箱から手紙を3通見つけた。

「伝説の娼婦」といわれたメリーさん。
親交のあった人たちの話によると敗戦後、神戸に出て進駐軍の米兵相手に袖を引いたが、やがて将校と恋に落ち、一緒に上京した。
だが、将校は帰国。
独り身になったメリーさんは横浜に居つき、伊勢佐木町や馬車道などに立った。
老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや廊下で寝泊りする日々。
好奇の目にさらされつつも街の名物となり「ハマのメリーさん」と呼ばれるようになった。

メリーさんは1995年、横浜から突然いなくなり、故郷の中国地方に戻り、養護老人ホームに入った。
封筒の裏には本名が書かれ、入所先のホームから投函されていた。

一字一句、丁寧な字。
「どんなことが有ってもご健康が一番大切ですから、良く御充分に御気を付け遊ばしませ」(2004年1月)とがんを患った永登さんを気遣ったり「私早くもう一度横浜市に帰りたくてたまりません」(同年6月)と横浜への思いをつづったりしていた。
金銭的な支援へのお礼も書かれていた。
メリーさんが亡くなったのは翌05年。
84歳だったという。

横浜に生まれ育った五大さんが初めて出会ったのは1991年5月、「横浜開港記念みなと祭」の審査員席に座っていたときだ。
ふと左斜め下を見ると、腰をかがめながら大きな荷物を持っているメリーさんがいた。
歌舞伎役者のような白塗りの顔。
濃いアイシャドー。
だが、気品あふれる雰囲気に、ハッと息をのんだという。

「『あなた、あたしをどう思うの? 答えてちょうだい』と問われているようでした。
あの白い化粧は、何かを演じるための儀式だったのかもしれません」と五大さん。
脚本家の杉山義法さん(故人)と一緒にメリーさんをモデルにした芝居作りを始め、「横浜ローザ」という題名で、東京・三越劇場を皮切りに96年からひとり芝居を演じるようになった。
今年も31日から6月4日まで上演。
横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホールが会場になる。

焼け野原になった敗戦後の日本。
生きるために家族を養うため、夜の世界に身を落とし、やむなく体を売った女性もいた。

五大さんは言う。

「メリーさんは街娼として誇り高く生きた女性でしたが、悲しい歴史を忘れることはなかったのではないでしょうか。
『私は一体だれ?』という問いは、令和になっても生きています。
今回の芝居では、見つかった手紙をもとに新たなメリーさん像にも迫りたい」

(編集委員・小泉信一)