2019年6月6日木曜日

男子の本懐  城山三郎

城山三郎さんの難しい長編経済小説を読み出し、その面白さに狂っている。


読み出した矢先は、エライ物に手を出したものだと後悔したのだが、先月、城山三郎さんの「官僚たちの夏」を読み、その勢いが余(あまり)余(あま)って、今回の「男子の本懐」に巡ってきた。
官僚たちの夏 (新潮文庫)

この小説の主人公は、民政党総裁で内閣総理大臣の浜口雄幸と大蔵大臣の井上準之助がメインとしたものだ。

緊縮財政と行政整理による金解禁。
これは近代日本の歴史の中でもっとも鮮明な経済政策といわれている。
第一次世界大戦後の慢性的不況を脱するために、多くの困難を克服して昭和5年1月に断行された金解禁を遂行した浜口雄幸と井上準之助。
性格も境遇も正反対の二人の男が、いかにして一つの政策に命をかけたか、その二人の生きがいをこの本は緻密に語ってくれる。

浜口は、世界恐慌と言われる経済不況の(腐朽)なかで、金解禁・軍縮という大事業、それに実行予算をも加えるならば、わずか1年3ヶ月の間に、4度にわたる予算編成をやり遂げた。

経済不況の事実を書き加える。
国際収支が悪化し、為替相場は41ドル2分の1にまで落ち込み、金解禁を行えば、輸入品在庫を持つ者、輸入原料による製品を持つ者が、大打撃を受けるだけではなく、為替への投機が行われ、また輸入は激増、輸出は激減して、経済界は大混乱に陥っていた。

折から岡山で、天皇統監の下で陸軍大演習が行われており、首相としてその陪観に出かけねばならない。
それは、1930年(昭和5年)11月14日の朝、東京駅を9時発の「つばめ号」に乗る予定だった。
鉄道省自慢の超特急列車。
その日、東京駅頭に於いて統帥権干犯に憤った愛国社員によって狙撃された。

当日の朝、出発を前に首相官邸で記者会見をした。
「来年度予算編成が終わったので、ようやく一息ついた。何しろ空前の財政困難で思い切った緊縮予算を作ったが、すこぶる編成難であった」と切り出し、失業救済・労働組合法・行政整理といった今後の問題についての抱負を語った。

症状が急速に悪化した浜口は、翌年4月4日夜、帝大病院に再入院、深夜の1時から2度目の開腹手術を行い、結腸の一部を切り、人工肛門を作った。
それでも容態は好転せず、9日夜11時さらに3度目の開腹手術を行い、銃創の化膿からはじまった硬結を切開した。

浜口の体の様子から井上は、「内閣に中心なくしては難事業たる整理問題を実行するは不可能」、「財界方面より見て此の上政局の不安を継続することの不可」と、正論家らしいクールな判断をして、浜口の総理大臣を誰かに替わることを勧めた。

国会機能の節約を兼ねた整理では、農林・商工の両省を合併して、産業省とする。
拓務省を廃止して、内閣の一省とするーーーというのが、行政処理の眼目であった。

1931年8月26日、浜口雄幸は亡くなった。
死の報(しら)せに駆けつけた井上準之助は浜口の玄関に入ると同時に、大声を上げて泣き出した。
見栄っ張りでスタイリストと見られた井上のその姿は、ひとびとの目には、あまりにも異様であった。
たとえ肉親を失っても、井上なら見せない姿に思えた。
浜口の邸の中には、井上の号泣だけが聞こえた。

8月29日、浜口の葬儀は、民政党党葬の形で、日比谷公園で営まれた。
天皇・皇后・皇太后・宮家御総代・王公家御総代のそれぞれ代拝もあり、党葬というより国民葬であった。

新内閣が発足した。
外相は犬養毅が兼任、蔵相は高橋是清、陸相荒木貞夫などいった顔ぶれで、政友会単独内閣だ。
新内閣はまた、発足と同時に、金輸出再禁止を行い、浜口や井上の2年半にわたる労苦は、こうして水の泡になり、一方、ドル買いたちは狂気した。
さすがの井上も、口惜しくて、その夜はほとんど一睡もできず、明け方を迎えた。

1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で、自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づき懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。
井上は、浜口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。
また、予算削減を進めてきた日本海軍に圧力をかけた。
そのため、第一の標的にされてしまった。
小沼はその場で警察に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
小沼は血盟団員だったのか?本の中では触れていなかったので、いつかは調べなくてはならん。

井上前蔵相の政敵たちは、井上を激しく批判し、「井上前蔵相を贗懲(ようちょう)せよ」と訴えた。

ようちょう【膺懲】は初めて知った言葉だったので、大辞林・第三の知恵をお借りした。

( 名 ) スル
敵や悪者を打ちこらしめること。 「敵を-する」 「 -の要がある」
即死状態ではあったが、遭難直後の井上の述懐はかくの如しだ。
「余の存在が君国の為(ため)有害若しくは不利であるといふ確信があるならば、宜しく正々堂々合法的手段に依ってその目的を達すべきである。然るに事ここに出でずして、国法を犯し公安を乱すが如き暴挙を敢えてするは、動機の如何に拘はらず断じて容(ゆる)すべからざる所である」。

青山墓地東三条。
木立のなかに、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は、仲良く並んで立っている。
二人の墓には、位階勲などなく、墓碑には、「浜口雄幸之墓」、「井上準之助の墓」とただ俗名だけが書かれている。


Wikipedia(※)より、当時の政治や国や社会の経済状態をコピーさせてもらった。
小説の粗筋は下の(※)を理解してもらえれば、どんな情況でのお話なのか、もっとよく分ると思われる。

(※)1929年(昭和4年)7月、新しく成立したのは濱口雄幸を首班とする立憲民政党濱口内閣である。
新内閣の大蔵大臣には、元日本銀行総裁で元大蔵大臣(第2次山本内閣)の井上準之助が任命された。
立憲民政党は「金解禁の断行」と「放漫財政の整理」を公約に掲げていたが、日銀総裁・大蔵大臣を歴任した井上にはその旗振り役が期待されたのである。
井上は直ちに「旧平価による金解禁の実施」を主張して、その準備のために緊縮財政を実施の上で財政支出を抑え、為替相場を回復させることを表明したのである。
濱口や井上が金解禁や財政再建とともに重要視していたのは、産業の構造改革であった。
明治時代以来の政府(官僚・軍部)と政商財閥のもたれ合いの上に発達を遂げた日本の産業の国際競争力は、決して強いものとは言えなかった。
特に、第1次世界大戦後の不況の長期化は、こうした日本経済の悪い体質にあると、濱口や井上は考えた。
金解禁によるデフレと財政緊縮によって一時的に経済状況が悪化しても、問題企業の整理と経営合理化による国際競争力の向上は進み、金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能が発揮されて、景気は確実に回復するはずであると考えたのである。