2014年12月11日木曜日

俺さまの能力は50%ダウン?

今年の5月15日正午。
私は新しく買い込んだ中古住宅の庭に大きく立ち上がった樹木の先端部分をチェーンソーで切ろうと思って、梯子に身を置いて作業していた。
ところが、何事にも腕自慢なのに、今回は、下手の下手の極(ごく)下手を見せてしまった。

何かの不調子で、5、6メートルを落下した。
落ちた場所はアスフアルトの道路。見事に頭からズド~ン。
何が原因で、どのように落ちたのか、詳しく分かったのは、退院後、社長から写真と、コメントを受けてからだ。

退院したのは9月の中ごろ、それから担当医師の3回目の診断を12月6日に受けた。
この医師は入院後の私の不作法に関わらず、丁寧に説明をしてくれた。
1回目は、診断室に入るなり、早稲田のサッカー部のヤマオカさんだ! どうかねえ!!。聞かれた内容は優しかった。

2回目の医師は、厳しい口調で、いつになったら治りますか?と聞いたことが、頭に来たのかどうかは解らないが、アンタ、ちょっと勘違いしてませんか、この傷は治るか?治らないか?ではなく、死ぬか生きるかということなんですよ。
気を長くして堪えることですと、強(こわ)い診断だった。

そして3回目の6日の先生は、私のことを非常に優しく付き合ってくれた1回目の先生だ。
先生,いつごろ治るでしょうか?の質問に、1年後の5月には何とか?決着はつくでしょう。
それでは、100%、元のままになるのですか?

このことについての返答は、それは絶対あり得ません。
上手く言って、70~80%の復元。最悪の場合は50%だなあ、、、、だった。
私は、子供の頃から、見栄を張る癖があって、実力が50しかないものを100に見せびらかして、常々優位の状態にいることで、何とか頑張ってきた。
今回の件でも、元々は見栄を張っていたものだから、75%から80%のダウンになろうが、50%のダウンになろうが、そんなことは知っちゃいない!! 俺には俺だけの力がある、、、、、、だった。

全身の筋肉や骨の問題は、何とかジュワジュワによくなりかけている。
ところが頭の痛さは許してくれない。

2014年12月6日土曜日

おんな達で、ゲェーラァ♡ゲェーラァ

東戸塚駅から保土ヶ谷駅に向かって2キロの範囲内に、山岡系4家族が3年前から別々に住むことになった。
ジジイの私にとっては、思いも寄らぬ楽しいことだ。
この喜びは、私以外の者たちも同じだ。
今年の5月16日に滑落事故を起こし1週間の気絶状態、それからの1週間はナース裏での緊迫。

それからは4か月近い入院生活。
諦めることなく、立派に元のままになりかけている。
こんな不埒な事故のおかげで、頭は少し狂いだしたような気分がしないでもない。
私が権太坂1丁目に引っ越してたのは昭和50年を過ぎてチョボチョボ、東戸塚の駅は営業していなかった。開業したのは55年からだ。

信濃一里塚



東戸塚駅に2、3分で着ける絶好の地に、長男が妻と二人の孫で暮らしている。
今年の夏からだ。
駅のホームからも見られるほどの近さで、万一、驟雨にやられても、そんなことはへっちゃらで、エエ!!、そんな具合だ。
新築の一戸建を大いに探したようだが、海外に派遣されることが多いので、マンションの方がいいと決めた。
豪華過ぎるマンションで、私にとっては恥ずかしい想いだ。某大手会社の新築マンション。駅前なのに、低層だ。





 保土ヶ谷から戸塚に向かう途中に有名な「権太坂」がある。
だらだらとした坂道を登って行くがそれほど苦しい坂ではない。

 「権太坂」では、少し街道をそれた所に「投込塚」があり、この辺りで行き倒れた東海道の旅人を葬ってある。
そには花が飾ってあり、行き倒れた人を今でも丁寧に祀ってある。
しかし、「投込塚」とは極めてストレートなネーミングだ。

 「権太坂」の名前の由来は、坂の名前を聞かれた耳の遠い地元の老人が、自分の名前を聞かれたものと勘違いし「俺の名か? 俺は権太だ」と答えた。
そこからこの名がついたという、うそ臭い説がある。
しかし妙に真実味も感じる。名前の由来には別の説もある。

 「権太坂」から「信濃坂」に抜ける。途中には立場のあった境木地蔵尊前や信濃一里塚がある。

 
権太坂、境木地蔵
境木地蔵尊


権太坂改修記念像
  


二女夫婦と孫、それに私たち夫婦の家  三女夫婦宅
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そこから、旧東海道を江戸に向かって歩いて、10分から15分のところに、私たち夫婦と二女夫婦、それに小4年の男の子が住む本陣? 本家本丸がある。
此奴は孫のなかで唯一の男の子。

戸塚宿~信濃坂~信濃一里塚~境木地蔵~権太坂。と続く。
此の家の道路の筋向かいに、三女夫婦の家。外壁が痛んできたので、現在外壁を塗り替えている。
201412中に完成だ。

私が工事費の一部を叩(はた)いたのはジジイの攻めの、奥の手だ。

それから200メートル上部には、長女夫婦と二人の孫が住んでいる。
この家は、弊社が知恵を振り絞り、住空間にしても建材にしても、この地区では負けることはない。
土地の面積は140坪。設計士は30年来の友人でもあるS氏だ。
2階の屋根部分を支える梁はW字型の奇抜なものだ。
朝陽、昼間の天空からの明かりが否応なしに入ってくる。

土地代金に建築代金、それに諸経費をたすと結構な金額になるが、それは土地の購入者で建築の発注者なら、しかたがないことだ。
南面には、広大な芝生が、この時期に関わらず勢いよく茂っている。
その庭には、京都に住む長女の祖母が、孫の名前の由来にもなった楓(かえで)を植えてくれた。





2014年12月1日月曜日

今年の「銀河鉄道の夜」は、7人で向かった



2014 12 23(天皇誕生日)

15:30からの「銀河鉄道の夜」を観に、東京都練馬区関町の東京演劇アンサンブルの芝居小舎に行ってきた。
此の季節、どうしても抜けない宮沢賢治の精神。
毎年、劇団員が私に知らせをくれるのだ。
私は招待客として、もう30年も経つことになる。

銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治の童話作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
作者逝去のため未定稿のまま遺されたこと、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。

今年の横浜市保土ヶ谷区権太坂地区のメンバーは、私たち夫婦と孫の3人、長女夫婦に孫が2人の4人組、合計7人組だ。
私にとっては、懐かしい物語を観る思いなのだが、私以外の人々は際(きわ)立った掘っ立て物語を観る気持ちでいるようだ。

劇場で貰った銀河鉄道の夜のパンフレットに、一度だけ葉山のソニーの健康保養施設でお会いしたことのある広渡常敏さんの文章があった。
広渡さんの知り合いが私の知り合いだった。
今回で15回の観劇になるのだが、広渡さんの話は聞くものの、現人物を理解していなかった。ここにその文章を転記して、彼の人並を知ってみたい。



稽古場の手帳(1994年公演より)
なにかいいことありそうな そんな夜  広渡常敏

クリスマス公演の『銀河鉄道の夜』は今年で13回となる。
1982年の2月に都民芸術フェスティバルの公演として、この芝居の初日をあけた。
この年の暮、こどもたちへのクリスマスの贈りものにと、ブレヒトの芝居小屋の『銀河鉄道の夜』がはじまった。
来年は1995年、戦後50年を迎える。
戦後は終わったなどといったバカな政治家もいたが、それが終わっていないことを近年ますます痛感させられる。
---この50年をどのようにぼくが生きたか、たぶんルーズチェンジのバラ銭のようなものにすぎないだろうが、ぼくなりにこの50年を回想する。
明日からの仕事にとりかかるために。
なにかいいことありそうなーーーーそんな気がする。

赤くやけたニクロム線をみつめていた。
聖降誕祭前夜ーー今宵世界じゅうは踊っている。
だが俺たちはイモを焼いてインターナショナルの気分をぼくが初めて感じた夜。
さつま芋の輪切りをコンロの上に並べていた。
敗戦三年目の1947年のイブ。ぼくは20才か。

博多湾からの風が吹き通る城跡に建ったバラックの電気店の宿直のアルバイトをしている友人とぼくの二人。
冷たい風が吹き込んで、芝居仲間の女子学生がやってくる。
安吾の堕落論どう?というようなことをいう。
安吾をやろう。
でも賢治は?『銀河鉄道の夜』をやろうよ。
難解だよあれは。映画ならぬ、舞台はムリよ。
ーー遠い昔を思い出すが、いま、ぼくらは『銀河鉄道の夜』を上演しているのだ。

『銀河鉄道の夜』のお前の舞台なんか見たくもないよ、賢治の文学からのイメージを壊されたくないから。
古い友人の一人がズケズケぼくにいう。
見てもらわなくっていいよ、でもちょっときくけど ”おかあさんのおかあさん”ってどういうこと? イメージ、イメージなんていう奴にかぎって、”おばあさん”だろうなんていうにきまっている。

賢治文学のイメージを舞台に表現するなんて不可能だし、演劇の仕事でもない。
芝居は芝居でしかできないことをやるんだ。
『銀河鉄道の夜』を書くことを通して、賢治がたどった”作品行為”に相対(あいたい)の、演劇としての”作品行為”をつくりだすことなんだとおもう。

四国の山の中に『銀河鉄道の夜』という酒がある。うまい! まさに”玉壷の泳”といいたい酒だ。これはほとんど賢治狂の親方が創った酒で、流石!といいたい。
それがどのくらいうまいか、飲まなければわからない。
飲めばわかる。大江健三郎さんのふるさとに近い町に行けば飲める。

(1994年12月14日)

2014年11月9日日曜日

Wア式の神さんを愛(いつく)しむ

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早稲田の“主” 工藤孝一(上)
 
昭和44年、 私が早稲田大学のア式蹴球部に入部したときに、グラウンドに大学のサッカーにどうしても相応しくないジジイがやってきて、私に対して激しい批判をしてク.ダ.サ.ッ.タ!!それは実も蓋(ふた)もない、ド,ロ,ド,ロのけ,ち,ょ,ん,ケ,チ,ョ,ンのものだった。

ところが、不思議なことに、その激しさに寧ろ快い思いをした。例えば、紅白試合の最中に、審判にホイッスルを鳴らせ、杖をついた工藤さんがよれよれとして私の所に寄ってきて、ヤマオカとか、京都からやってきた糞五月蠅(くそうるさ)い男よ、お前の技術でもやれることはある。

相手に自由にやらせないことだ。
それこそが、君がやれる唯一の仕事だ。
このジジイの息子が私と同期だったので、親父がサッカー部の神様なら、同期の息子は神様の息子になる。

下の文章は賀川さんの早稲田の”主”工藤孝一(上)のものを拝借させてもらった。
 

早稲田の“主” 工藤孝一(上)

日本のサッカーが現在の“かたち”になるまでに、そのときどきに、あるいはその後の時代に影響を及ぼし、“いま”につなげた人たちを紹介しているこの連載では、ここ6ヶ月はメキシコ・オリンピックで日本の銅メダルに貢献した釜本邦茂と杉山隆一について述べました。今回は少し時間をさかのぼって、早稲田大サッカー部の名監督、工藤孝一(1909~1971年)です。
日本にプロフェッショナルの組織が生まれるまで、最も多く日本代表を送り出した大学は早稲田。1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡を演じた16人中10人、1964年(昭和39年)の東京オリンピックには17人中5人、 1968年(昭和43年)メキシコ・オリンピックでも16人中5人と、世界のひのき舞台で成果を挙げた代表に最も多くプレーヤーを送り込んだ早大は、ほかの競技と同様に、日本サッカーのなかでの最大勢力の一つだった。そして工藤監督は、その早大の“主”(ぬし)であり、精神的支柱だった。
東北の岩手の生まれで、早大でサッカーに熱中し、大学での後年はマネジャーとなり、卒業後は監督としてチームに費やした。戦中、戦後の一時期、故郷に戻って、岩手のサッカー発展を計ったが、やがて東京・東伏見の早大グラウンドの近くに居を移し、生涯、早大のサッカー指導にかかわった。名利にとらわれず、ひたすら早大とサッカー一筋の人生は、名監督、名コーチといわれる多くの指導者のなかでも、稀有な存在として、早大だけでなく、古いサッカー人の心に強く残る人だった。








選手からマネジャーに

工藤孝一は1909年(明治42年)2月4日、岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれた。小学生のときに盛岡に移り、盛岡中学に入学し、野球などのスポーツに取り組むようになる。1927年(昭和9年)に早稲田の高等学院に入ると、サッカーに熱中する。
日本のサッカーは大正の末期にビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンの指導を受けて、関東でも関西でも技術が大幅に進歩し始めていた。
そのチョー・ディンの直弟子の玉井操が、1927年当時、早大のキャプテンだった。工藤は2年生のとき、旧制インターハイに出場し、野球の経験を生かしてGK(ゴールキーパー)で活躍、優勝している。旧制の高等学校の大会に、私立大学のなかで唯一、早大の予科ともいうべき早稲田高等学院(略して早高といっていた)が出場していたのは、いまから考えれば不思議だが、早稲田の鈴木重義の申し入れと主催者の東大の新田純興たちが了解したからと伝えられている。そのインターハイで早高が優勝したことで、チョー・ディンの指導の効果が注目され、チョー・ディンの全国巡回指導が始まったことも付け加えておこう。
早大(商学部)に進んで、ポジションはCF(センターフォワード)となったが、体が小さく、決して器用ではなかった工藤は、やがてマネジャーとなる。
このころ監督やコーチがいるところは少なく、早大もキャプテンとマネジャーが相談して練習法などを組み立てていたから、マネジャーは単なる雑務だけでなく、練習で笛を吹き、選手の進歩を眺め、試合のメンバーを決めるのにもかかわっていたようだ。
大学2、3年の2年間をマネジャーとして働いた工藤は、サッカーの技術、戦術の指導に打ち込むようになり、卒業すると生命保険会社に勤めたが、間もなく転職、同盟通信社(現・共同通信社)の運動部記者となり、早大ア式蹴球部(サッカー部)の監督となった。
小石が飛んでくる猛練習


マネジャーとしてグラウンドで笛を吹くようになった大学2年、1931年(昭和6年)には、川本泰三、高島(鈴木)保男、立原元夫、堀江忠男たちが加わり、次の年には加茂健、佐野理平、関野正隆たち、さらにはその翌年、加茂正五、笹野積次、西邑昌一たちが加わって、早大の黄金期が始まる。
工藤監督は、これら個性の強いプレーヤーを猛練習で鍛えた。「弱気なプレーや小器用な技術は好まず、強引な体当たりをする選手を重用した」とは同期の井手多米夫年(昭和8年卒業)の話だが、体力の限界いっぱい、フラフラになるまで練習し、時には石を投げ付けるという監督の指導には、排斥運動もあったらしい。しかし、そうした強い指導力が、早大を骨太で、勝負強いチームに育てていった。
それまで、関東大学リーグは東大が強かったが、工藤監督の下で、早大は1933年(昭和8年)に覇権を奪い、以来4年連続優勝した。
1936年のベルリン・オリンピックには16人の代表選手のうち早大から10人が選ばれた。これは、2年前のマニラでの極東大会で関東、関西から選抜した選手で編成したチームの成績が悪かったため。個人技の優れた顔ぶれを集めるよりも、まず組織力を優先しようと、当時、日本で最も強かった早大を主力にしたのだった。
工藤孝一はこのとき東大の竹腰重丸とともにコーチとして、代表選手団に加わった。
主力の早大の選手一人一人の特性を知っている彼の能力が必要だったのはいうまでもない。慶応、東大、そして朝鮮半島から加わった金容植(普成専門)の選手たちとの組み合わせが成功して、対スウェーデン戦(3-2)の逆転勝利を生む。その後、工藤は日本サッカー協会の機関紙『蹴球』に“我等(われら)は如何(いか)に戦ったのか”と題する詳細なリポートを送っている。
名選手・裵宗鎬

そのころ日本の一地域であった朝鮮半島は古くからサッカーが盛んで、普成専門や延喜専門といった専門学校は、早大や慶応などと互角にわたり合い、優秀な選手を輩出していた。ベルリン・オリンピックの代表となった金容植(故人)は後に韓国サッカー界の“神様”として尊敬された名選手で立派な指導者だったが、一時期早大でボールを蹴ったこともある。1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)には裵宗鎬(ペ・ジョンホ=故人)が早大に入学し、次いで李時東(故人)も加わった。工藤監督の力強いサッカーへの追求と彼らのプレーが合致していたからだった。裵宗鎬――私たち世代は「ハイさん」と韓字を日本語読みにしていたこのプレーヤーは体格がよく、ドリブルもシュートも素晴らしかった。
東西対抗に出場した西軍のGKで私より2歳年長の小畑儀宏(故人)が、裵さんのPKの強さに「蹴ったと思ったら、もうネットに入っていた」と語ったものだ。
その裵宗鎬が1941年の早大ア式蹴球部のキャプテンになるのを承認したもの、工藤孝一監督だった。大戦直前の関東大学リーグで早大は、東大とともにリーグ1位となり、優勝決定戦も引き分けで両校優勝となった。朝鮮半島の出身者を主将にすることに懸念する向きもあったらしいが、早大サッカー部では、このことに誰も異論はなかった。もっともサッカーが上手で、統率力のある者が主将という、いまから思えば当たり前のことだが、それが通りにくい世にあっても、早大には工藤イズムが1本の芯となっていた。裵さんもまた、早大のキャプテンであったことが、終生誇りであったという。



工藤孝一・略歴


1909年(明治42年)岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれる。
1921年(大正10年)盛岡市桜城小学校を卒業、岩手県立盛岡中学に入学。
1926年(大正15年)盛岡中学卒業。
1927年(昭和2年)早稲田大学第一高等学院に入学、サッカー部へ。
1929年(昭和4年)第6回全国高校選手権大会(旧制高校のインターハイ)で早稲田高等学院が優勝。
1930年(昭和5年)早稲田大学商学部に入学、サッカー部へ。
1933年(昭和8年)早稲田大を卒業、大同生命大阪本社に就職したが、同盟通信社運動部記者となり、早大サッカー部監督を引き受ける。
1936年(昭和11年)ベルリン・オリンピック日本代表コーチに就任。
1944年(昭和19年)召集、家族は郷里の川口村に疎開。
1945年(昭和20年)復員。
1947年(昭和22年)盛岡に移り、盛岡一高など県内の中学、高校、社会人チームを指導。
1950年(昭和25年)岩手県サッカー協会設立、会長となる。
1952年(昭和27年)東京・東伏見の早大グラウンドのそばに店舗併用の住宅を構え転居。以後。早大サッカー部にかかわる。
1957年(昭和32年)早大監督となる(以後8年間)。
1959年(昭和34年)早大・体育局講師に(以後10年間)。
1960年(昭和35年)日本代表チームの戦後初の韓国訪問に副団長として参加。
1961年(昭和36年)早大が海外遠征。
1964年(昭和39年)東京オリンピック大会競技役員に。
1966年(昭和41年)病に倒れる。早大監督を退き、チーム相談役に。
1971年(昭和46年)9月21日死去。同23日、東伏見サッカーグラウンドで早大蹴球部葬。


★SOCCER COLUMN
グラウンドでの葬儀


工藤さんの葬儀は、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫が葬儀委員長となり、亡くなった2日後の1971年(昭和46年)9月23日に行なわれた。まずベルリン・オリンピック代表たちが、次いで卒業年度の順にOBたちが棺を手渡し、早大の学生がグラウンドまで運んだ。ベルリン当時の監督の鈴木重義、早大OB、ライバルだった慶應をはじめ、多くのサッカー人が集まった。グラウンドの中央、キックオフ・マークに棺を置き、センターサークルを囲んで『都の西北』を歌った。棺を覆う白い布とサッカー部旗だけ。名利を追わず、ただ早稲田とサッカー一筋を貫いたこの人を送るのにふさわしい、簡素で心のこもった別れだった。
日本サッカーの魂
『日本サッカーの魂 追憶・工藤孝一』(発行・工藤孝一記念誌作成委員会、岩手県盛岡市本町通2丁目8番5号)が出版されたのは、1997年(平成9年)9月20日だった。
その2年前、盛岡一高のOBが集まり、岩手県の生んだサッカーの大先達、工藤孝一の没後25周年にあたって、追悼・記念誌を作ることになり、部会誌作成委員会が設けられ、早大ア式蹴球部OB会など関係者の協力で編集、発行した。
『日本サッカーの魂』はA5判変形、318ページで、早大の仲間でベルリン・オリンピックで活躍した川本泰三、加茂健や、早大で指導を受けた川淵三郎Jリーグチェアマン、八重樫茂生、釜本邦茂、松本育夫らメキシコ・オリンピックの銅メダル組の寄稿をはじめ、親族、故郷・岩手の友人や後輩たちが文章を寄せ、さまざまな角度から「練習のオニ」であり「戦術家」であり「選手の素質を見る目」のあった工藤さんを偲(しの)んでいる。


(月刊グラン2002年7月号 No.100)

2014年10月19日日曜日

Sさんとの愉しいお話

昭和49年に学校を卒業して、鉄道会社の親会社に入社した。

入社して10年とチョイ経った頃、変な腹具合からこの会社を辞めることにした。
予定していた転職会社があったわけでもなく、何から何まで雁字搦(がんじがら)めの会社から、勇気をもって自由自在に働ける会社を、できるものならば、自らで作りたかった。

偏西風に遣られたと想ってもらえばいい。
そんな夜のある日のこと、気ままに入ったスナックの私の隣に現れたのが、Sさんだった。
彼は、仕事を失った私に俺の会社に来なさいとすすめた。

その時は、今ほどの体力も精神的な余裕もなく、唯、黙って、にったり、聞いたまま。
Sさんの会社に入ることはなかった。
既に、新しい人に巡り合っていたのだ。

それからの30年、私の人生、一日一日には嬉しいことも悲しいことも、鱈腹味わった。
仕事でも、話題のSさんとは仲良く付き合っていただいた。
ところがじゃ、Sさんのことは横に置いて、私には波乱万乗、のた打ち回る日々が続いて何とか生きていくことが精いっぱいだった。

そして、昨日。
弊社の経営責任者の中さんと、Sさんの会社を訪れた。
教えて欲しいことが突然生まれたのだ。
いつか、Sさんに会いたいと思っていた、いい機会を神様は作ってくれたようで、久しぶりのこの面会に感謝したい。

実は、教えて欲しいことの回答を得るよりも、何よりも何よりも、Sさんに今までのお付き合いにお礼を言いたかったのだ。

中さんも、よく理解してくれたようだ。

2014年10月13日月曜日

山岡さんは、ブログをはじめたのか?

別荘の新築や自宅の改築の仕事をさせて貰ったり、この場では余りうかうかとは話せられないことにもお世話になっている特殊な人から、昨日、うちの設計士は、ところで、山岡さんはブログを再び始めたか?と、聞かれた。

このお客さんは、弊社の特別なお客さんだ。
時々は、マイブロゴを読んでくれているようだ。
戸惑いながら、弊社のスタッフは、おかげさまで、このごろやり始めましたと冷静に答えたそうだ。そんな報告を受けて、私は自分の知識の無さに苦しみながらも、やっぱり、この辺りで、頑張るしかないと思い込んだ。

ネタは見つかっても、どのように表現すればいいのか、それが難しい。
表現の仕方、語句、小節、中節、起承転結が浮かばない。
頭を強く打ったために、受けた傷が頭の中を狂わせてしまった。
高所からの転落、その後1週間の気絶状態、それからのリハビリテーション。

元の状態に戻るか戻らないかは、神様次第だ!!と賢そうな医者は、ポツ~ンと呟いた。
そうだ、そうだ、そうなんだ。と思って生きていた時に、下の二人の話題で、我が家は爆弾が破裂したようにひっくり返った。私の頭も、同じだ。

以下の文章は、インターネットの文章をお借りした。

ニューヨークの国連本部で今年8月、教育の大切さを訴えるマララ・ユスフザイさん。女子教育の推進を訴え、2012年に武装勢力タリバーンに銃撃された=ロイター
写真・図版


ノルウェーノーベル賞委員会は10日、2014年のノーベル平和賞を、女子教育の権利を唱えてイスラム過激派に頭を撃たれ一命を取り留めたパキスタンの女子学生マララ・ユスフザイさん(17)と、インドの児童労働問題の活動家カイラシュ・サティヤルティさん(60)の2人に授与すると発表した。
マララ・ユスフザイさん


委員会は2人の授賞理由に「子供や若者への抑圧と闘い、すべての子供の教育を受ける権利のために奮闘している点」を挙げ、「平和的な世界の発展のために、子供や若者の権利の尊重は不可欠であり、特に紛争下の地域では子供の権利侵害が暴力の連鎖を生んでいる」とした。

2014年10月10日 - 「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペンから、世界を変えられる」。
彼女の言葉はシンプルで、力強い。
 2014年のノーベル平和賞にパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)が選ばれた。

      
   
     
         
 
 
     
         
   







2014年10月3日金曜日

親と子のお勉強、、、、天声人語

2014年10月3日。
朝日新聞の朝刊でお馴染みの天声人語に、久しぶりに感動した。
中学時代の国語の先生に勧められて、誰よりも誰よりも天声人語をよく詠み、文章を憶えた。
そんな私の今は、夫婦と娘夫婦、それと孫の5人暮らしだ。
娘が我儘で大きくなっても、我儘は変わらなかった。
でも、、、、いい旦那がくっ付いてくれたおかげで、その娘もいいオバサンになってくれた。
娘以上に我儘な孫も、これまた、、、、いい孫になってくれた。
何年か前に、元教師の灰谷健次郎さんの、親と子、先生と生徒の人間的な文章をこのブログに使わせてもらった。
そんなことを思い出しながら今回の的だ。

天声人語

庭のことや親のことを子どもはよく見ている。
児童文学者の故・灰谷健次郎さんは、家庭内で人間的なふれあいが生じると、子どものアンテナはただちに反応すると言い、随筆で小学1年の詩をあげていた。
〈おとうさんのかえりが おそかったので おかあさんはおこって いえじゅうのかぎを ぜんぶしめてしまいました それやのに あさになったら おとうさんはねていました〉。これで全文。やなぎ ますみさんの作品という。

朝までに何か揉(も)めたかもしれないが、子どもは知らぬがよい。
片や、小紙歌壇の選者だった故・宮柊二(しゅうじ)さんは「大人の世界」を詠む。
〈昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚(わめ)きし妻は何者〉。
子には見せず、夫婦かぎりのこととしたい場面だ。

日々の波風(なみかぜ)程度なら仕方がない。
ところが昨今、子の前で配偶者に暴力をふるう「面前DV」が急増しているという。
子ども自身は暴力を受けなくても、目の前で見ることで心に深い傷を負う。
れっきとした児童虐待にあたる 。

そもそも配偶者などへの暴力が犯罪で、その被害相談は全国で年間に5万件近い。表に出やすくなったためともされるが、件数は増えるばかりだ。
水面下にはもっとあるのだろう。

心の傷は自然治癒が難しい。
ましてや子どもの柔らかい心には、罵(ののし)り合う声だけでも刃物になってしまう。親の生活が自分にしっかりつながっていると自覚したとき、子どもはこの上なくやさしくなれる――そんなふうに、灰谷さんは言っている。