2014年12月1日月曜日
今年の「銀河鉄道の夜」は、7人で向かった
2014 12 23(天皇誕生日)
15:30からの「銀河鉄道の夜」を観に、東京都練馬区関町の東京演劇アンサンブルの芝居小舎に行ってきた。
此の季節、どうしても抜けない宮沢賢治の精神。
毎年、劇団員が私に知らせをくれるのだ。
私は招待客として、もう30年も経つことになる。
『銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治の童話作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
作者逝去のため未定稿のまま遺されたこと、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。
今年の横浜市保土ヶ谷区権太坂地区のメンバーは、私たち夫婦と孫の3人、長女夫婦に孫が2人の4人組、合計7人組だ。
私にとっては、懐かしい物語を観る思いなのだが、私以外の人々は際(きわ)立った掘っ立て物語を観る気持ちでいるようだ。
劇場で貰った銀河鉄道の夜のパンフレットに、一度だけ葉山のソニーの健康保養施設でお会いしたことのある広渡常敏さんの文章があった。
広渡さんの知り合いが私の知り合いだった。
今回で15回の観劇になるのだが、広渡さんの話は聞くものの、現人物を理解していなかった。ここにその文章を転記して、彼の人並を知ってみたい。
稽古場の手帳(1994年公演より)
なにかいいことありそうな そんな夜 広渡常敏
クリスマス公演の『銀河鉄道の夜』は今年で13回となる。
1982年の2月に都民芸術フェスティバルの公演として、この芝居の初日をあけた。
この年の暮、こどもたちへのクリスマスの贈りものにと、ブレヒトの芝居小屋の『銀河鉄道の夜』がはじまった。
来年は1995年、戦後50年を迎える。
戦後は終わったなどといったバカな政治家もいたが、それが終わっていないことを近年ますます痛感させられる。
---この50年をどのようにぼくが生きたか、たぶんルーズチェンジのバラ銭のようなものにすぎないだろうが、ぼくなりにこの50年を回想する。
明日からの仕事にとりかかるために。
なにかいいことありそうなーーーーそんな気がする。
赤くやけたニクロム線をみつめていた。
聖降誕祭前夜ーー今宵世界じゅうは踊っている。
だが俺たちはイモを焼いてインターナショナルの気分をぼくが初めて感じた夜。
さつま芋の輪切りをコンロの上に並べていた。
敗戦三年目の1947年のイブ。ぼくは20才か。
博多湾からの風が吹き通る城跡に建ったバラックの電気店の宿直のアルバイトをしている友人とぼくの二人。
冷たい風が吹き込んで、芝居仲間の女子学生がやってくる。
安吾の堕落論どう?というようなことをいう。
安吾をやろう。
でも賢治は?『銀河鉄道の夜』をやろうよ。
難解だよあれは。映画ならぬ、舞台はムリよ。
ーー遠い昔を思い出すが、いま、ぼくらは『銀河鉄道の夜』を上演しているのだ。
『銀河鉄道の夜』のお前の舞台なんか見たくもないよ、賢治の文学からのイメージを壊されたくないから。
古い友人の一人がズケズケぼくにいう。
見てもらわなくっていいよ、でもちょっときくけど ”おかあさんのおかあさん”ってどういうこと? イメージ、イメージなんていう奴にかぎって、”おばあさん”だろうなんていうにきまっている。
賢治文学のイメージを舞台に表現するなんて不可能だし、演劇の仕事でもない。
芝居は芝居でしかできないことをやるんだ。
『銀河鉄道の夜』を書くことを通して、賢治がたどった”作品行為”に相対(あいたい)の、演劇としての”作品行為”をつくりだすことなんだとおもう。
四国の山の中に『銀河鉄道の夜』という酒がある。うまい! まさに”玉壷の泳”といいたい酒だ。これはほとんど賢治狂の親方が創った酒で、流石!といいたい。
それがどのくらいうまいか、飲まなければわからない。
飲めばわかる。大江健三郎さんのふるさとに近い町に行けば飲める。
(1994年12月14日)