2008年11月30日日曜日

私の部屋の時計が狂った

私の部屋には、私だけが利用している壁掛けの時計がある。一週間前あたりまでは狂いなく時を刻んでいた筈だった。ところが、3日前の夜のこと、一寝入りしてその時計を見たら5時、10分前を指していた。私は、毎朝5時に起きて、犬の散歩に出かける習慣を、もう15年以上続けているので、上手い具合に目が覚めたものだと感心しながら、外出の準備に入った。ところが、枕元の携帯電話は1時33分だ。目をパチパチさせながら、両方を見比べた。目を凝らして壁掛けの時計をもう一度見直した。4時50分だ。見た目には、何等変わりなく動いている。隣の娘が寝ている部屋の時計を見たら、私の携帯電話の表示している時刻と一緒だった。壁掛けの時計の方が間違っていることが判明したのです。

そのことを我が配偶者に話したら、ハイハイ、乾電池を換えておきますから、と言うではないか。えっえ、それでいいの?と思ったのですが、彼女には迷いがない。乾電池の蓄電量が減って、パワーが弱くなり、針の進み具合が遅くなるのなら、新しい乾電池に換えるというのは、よく分かるのですが、今回は、通常よりも早く針が進み過ぎているのだ。そんな状態の時計に、乾電池を換えて直るものなのか、私には分からなかった。

放電直近の乾電池には、時計の針を今まで以上に早める力が発生するのだろうか。死期を迎えた最後の最後には、通常の力ではなく、異常な力が生まれるのだろうか。理解できないままでいた。

だが翌日、配偶者によって新しい乾電池に換えられた壁掛け時計は、けなげに正常に時を刻んでいるではないか。それって、なんだったんだ!!配偶者の知恵は本物だったんだ、と敬服しながらも、自分では納得できないままでした。

その合点のいかない心模様を、グダグダ、文字で綴っていたら、ガ~ンと、私は私の思考に重大な過ちがあることに気づいたのです。この壁掛けの時計は「早く進んでいるのではなく、やっぱり遅れていた」、のだ。何日間の遅れ遅れが積み重なって、気づいた時には、たまたま進んでいるようなことになってしまっただけのことだったのだ。死期迫る乾電池に、急に力なんて湧いてくるわけ無いではないか。こんな、当たり前のことを、何故そのように考えるようになったのだろうか。私は、どうか?していたようだ。

ただ、それだけの話なんです。

私は、ちょっと疲れているようですな。

2008年11月25日火曜日

オバマ、次米大統領選勝利宣言

 

オバマ氏が、来年の1月から米国の大統領に就任することが決まった。4日深夜、日本時間5日昼に勝利宣言をした。記念すべき日の、朝日新聞の記事を転載させていただいた。

27州と首都を制す。

「変革の時がきた」

(081106)の 朝日朝刊/1面、天声人語、社説

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08年米大統領選を制した民主党のバラク・オバマ上院議員(47)は4日深夜(日本時間5日昼)、地元イリノイ州シカゴで演説し、「この選挙で私たちが起こした行動により、米国に変革の時がきた」と勝利を宣言した。10万人近い観衆が歓呼で応えた。

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47歳

バラク・オバマ氏

1961年8月、米ハワイ州生まれ。父はケニア出身の留学生、母は米国生まれの白人。コロンビア大卒業後、シカゴの貧民街地域活動家を経験し、88年にハーバード法科大学院に進学。イリノイ州議会上院議員を経て、04年、連邦上院議員に初当選。ミシェル夫人との間に2女。

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奴隷制度という過去を持ち人種問題を抱える米国が、奴隷の子孫ではないものの、アフリカ系(黒人)の大統領を選んだ歴史的な選挙となった。オバマ氏は演説で「(リンカーン大統領らが言った)『人民の人民による人民のための政治』は、なお滅びてはいないと証明した。あなたたちの勝利だ」と述べ、草の根の選挙運動を支えたボランティアの努力をたたえた。

世界の人々に向けて「今夜、米国以外の議会や王宮から見つめている人々、忘れられた世界の片隅でラジオを聞いている人々に対して言いたい。(今日成し遂げられた)米国の物語は特異だが、我々の行き先は共有できる。米国の新政権の夜明けが近づいている」と呼びかけた。「この世界を破壊しようとする者たちを、我々は打つ負かす。そして、平和と安全を求める人々を支援する」と決意を語った。

また、米国の「本当の力」として「武力や富の力ではなく、民主主義や自由、機会や希望といった絶えざる理想」を挙げた。そのうえで「米国は変化できる。我々の団結は完遂できる。これまで成し遂げたことから、今後、達成できることへの希望が生まれる」と語った。

一方でオバマ氏は「待ち受けている膨大な課題を理解している」とも語った。イラクとアフガニスタンという「二つの戦争」や金融危機を例に「道のりは長く、険しい。1年、あるいは(大統領任期の)1期(4年)の間には達成できないかも知れない」との認識を示した。そのうえで「できやしないという人に出会ったら、『イエス・ウィー・キャン(我々はできる)』と答えてやろう」と呼びかけた。

これに先立ち、ブッシュ大統領はオバマ氏に電話し、「あなたは、これから人生の偉大な旅に出ようとしている」と祝意を伝えた。

ブッシュ氏は5日午前、ホワイトハウスで声明を読み上げ、次期オバマ政権への移行について現政権による「完全な協力」を約束した。また、前夜の電話でオバマ氏夫妻をホワイトハウスに招いたことを明らかにした。

ABCニュースは5日朝、オバマ氏が民主党のエマニュエル下院議員(イリノイ州選出)に、ホワイトハウスの首席補佐官への就任を打診したと報じた。

一方、上下両院選挙は民主党が過半数を維持し、民主党主導の議会が次期オバマ政権を支える形が固まった。

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米国民、現状拒否を選択

アメリカ総局長・加藤洋一

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今回の米大統領選で米国民が示した選択の本質は、「オバマ氏の勝利」というより「現状の拒否」であることが明らかだ。

イラク戦争の長期化に加えて最近の金融危機。世論調査では「米国は間違った方向に進んでいる」と答える人が約8割を占め、選挙が本格的に始まった今年初めより増えている。ブッシュ大統領の支持率も30%を切った。軍人と医師を除き、あらゆる分野の指導者に対して不信感が募っているという「リーダーシップ危機論」すら聞かれる。

2年間にわたった選挙戦は当初、テロとの戦いに勝てるのかという「安全保障」が主要テーマだったが、終盤は金融危機を受けて「富の再配分」の是非に焦点が移った。いずれも国家の最も基本的な役割であり、それが真正面から問われたことに米国の国家基盤の弱体化がうかがえる。

今、オバマ陣営関係者の間で盛んに読まれている本がある。大恐慌直後の1932年に当選した、フランクリン・ルーズベルト大統領の就任後、100日間を描いた「THE DEFINING MOMENT(決定的瞬間)」だ。未曾有の危機から国家をどう救うのか。先輩の経験から何とかヒントを見出したいという必死の思いが見て取れる。

悲観的空気のなかで一筋の光明が見えるとすれば、「初のアフリカ系大統領」の誕生だろう。5日未明、ホワイトハウス前で気勢を上げていたアフリカ系の若者は「オバマは大統領として失敗したって構わない。我々は今日、歴史を作ったのだ」と興奮していた。しかし、これで米国が黒人差別を克服したのかと問えば人種を問わず返ってくる答えの多くは「ノー」だ。

オバマ氏は奴隷の子孫ではなく「怒れる黒人」の代表でもない。選挙戦を通じて見えたのは、むしろ人種を超越しようという姿勢だ。ジャクソン師ら公民権運動家があ冷ややかな視線を送る一幕もあった。

直近の民主党大統領だったクリントン氏は、96年の一般教書演説で「大きな政府の時代は終わった」と宣言した。しかし、金融危機に対応するため、政府の役割拡大は避けられない。最近の7千億ドルに上る金融救済策が如実に示している。「過去30年続いた、より小さな政府を目指す流れは完全に変わった」(ハムレ戦略国際問題研究所所長)との指摘も聞かれる。ただ、どこに向かうかは誰にも分からないようだ。時代の転換点でかじ取りすることの難しさが、浮き彫りになっている。

「オバマ氏なら現状を変えてくれるだろう」という期待が、米国内外で高まっている。ブッシュ政権の単独行動主義が是正されることを願う日本も例外ではない。しかし何をどこまで実施するのか、できるのかーーそれはまだ未知数だ。来年1月に発足するオバマ政権にとっては、各方面との「期待感の調整」が、当面の大きな仕事となる。

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天声人語

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それは、今日の日を予言した熱狂だったように、今になれば思われる。無名だったオバマ氏が4年前、一躍全米に名を広めた演説のことだ。民主党全国大会での鮮やかな雄弁を、取材で会場にいて聞いた。

クリントン夫妻や。その年の大統領候補ケリー上院議員ーー。きら星が光る会場の空気は「オバマって誰?」だった。だが登壇し、話を始めると、大聴衆は私語をやめ、たちまち吸い込まれた。きら星もかすむ歓声と拍手が、「祖国アメリカ」を語る言葉に湧いた。

米国の民衆は政治家に言葉を求め、言葉を楽しむ。心に響く言葉によって連帯感を強め、将来を確かめ合う光景は、日本の政治風景とだいぶ違う。かの地の選挙が「民主主義の祭り」と呼ばれるゆえんでもある。

その祭りに勝ち、オバマ氏は大統領になる。4年を経た勝利演説でも聴衆を魅了していた。「民主主義を疑っている人がいるなら、今夜がその答えだ」。初の黒人大統領になる自らを、建国以来の理念に重ねた。

無名かつ無銘から登りつめた勝利の言葉は、それゆえに重い。人を勇気づけもする。ひるがえって、世襲議員の首相が続く日本とは、残念ながらだいぶ違う。選挙は将来への賭けだという。米国民は「変革」のサイを投げた。こちらは掛ける機会も見通せぬまま閉塞感が募るばかりだ。

「真に偉大な大統領になりたい。情けない大統領ならいくらでもいるから」と、氏はかって語っていた。きょうの興奮がさめていけば、後には厳しい現実が控えている。言葉の真価は、これから問われる。

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社説

米国刷新への熱い期待

オバマ氏当選

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米国を変えたい。刷新したい。

米国民のこうした思いが、一気に噴出したような選挙だった。

民主党のバラク・オバマ氏が、史上初めてアフリカ系(黒人)の大統領に選ばれた。地滑り的な大勝である。イラクとアフガニスタンの戦争と金融危機。この「非常時」に、47歳の黒人大統領に米国の再生を託したのだ。

歴史的ともいえるこの米国民の選択から二つの声が聞き取れる。ブッシュ政権のもとで分断された社会の再生への期待と、米国一極支配はもう終わりにしたいという思いである。米国という国のありようが変わるだけではない。世界との関係も新しい時代に入っていくのだろう。

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厚い壁を打ち破って

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「米国の真の強さは、軍事力や経済的豊かさではない。その理想の持つ力なのだ」と、オバマ氏は勝利演説で語った。人種や差別にかかわらず、だれにでも機会は開かれている。そんな米国の理想を自ら体現してみせた自信がみなぎっていた。

選挙中は、人種的な理由やその若さから中傷にさらされた。世論調査でリードしても、多くの白人有権者が最後は黒人候補であることで二の足を踏み、投票しないのではないかという見方もつきまとった。

そうした偏見をはねのけた末の、圧倒的な勝利である。キング牧師らが先頭に立った公民権運動から半世紀。肌の色にとらわれずに指導者を選ぶことを、米国民はついにやってのけた。米国の人種問題は、奴隷制以来の負の遺産だ。1回の選挙で克服されるはずもない。だが、人種という壁が破られた意義は限りなく大きい。これからは女性やマイノリティ-が大統領を目指すことが特別視されなくなり、社会の融和が一段と進むのは間違いない。

オバマ氏勝利の背景には、ヒスパニックやアジア系などのマイノリティー人口の増加をはじめとする米国社会の構造的な変化がある。だが、まるで革命を思わせるこの大きな意識変化は、それだけでは説明できない。

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ブッシュ時代へ「NO]

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今の米国社会には、沈滞した空気が漂っている。約8割の米国民が「米国は悪い方向に向かっている」と感じているという。軍事力と経済力で他国を圧倒してきた超大国が、自信を喪失している。

この閉塞感を打破して、新しくやり直したい。そんなリセット願望が若い世代を中心に共鳴し合い、雪だるま式に「オバマ現象」を膨らませていったのだろう。

「イエス・ウィー・キャン(われわれはきっとできる)」というオバマ氏のメッセージは米国民を鼓舞し、前向きな挑戦への意欲を取り戻せた。

オバマ氏を押し上げたもう一つの原動力は、8年間のブッシュ政権に対する有権者の「ノー」だった。

9・11同時テロという衝撃が米国を襲ったあと、ブッシュせいけんは圧倒的な軍事力を前面に立てて単独行動に走った。大義なきイラク戦争は、4千人以上の米兵と多くのイラク国民を犠牲にしただけではなく、中東を混乱させ、米国の国際的な信用を失墜させた。

そして、大恐慌以来のといわれる金融危機、ウォール街の投資銀行が消え、かって米国の繁栄の象徴だった自動車産業ではリッストラの嵐が吹き荒れている。市場崇拝と規制緩和が

生み出したバブル経済のつけが回ってきた。

「強い米国」を掲げる軍事力を強化し、「小さな政府」路線を進めたレーガン政権以来、30年近くに及ぶ新自由主義の挫折といっていいだろう。ブッシュ時代に露呈したその失敗は、共和党支持者をも失望させ、マケイン候補の大敗につながった。

「政府には果たすべき役割がある」と強調し、イラク戦争を批判したオバマ氏は、米国民の異議申し立てを鮮やかに代弁してみせた。

上下院の議会選挙でも、民主党が圧勝した。ホワイトハウスと上下院の多数を民主党が制するのは、92年にクリントン氏が初当選いた選挙以来だ。

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米一極支配の終わり

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だが、新政権を待ち受ける現実は厳しい。まずは米経済の建て直しだ。冷え込む景気や急増する失業、1兆ドル(100兆円)に達するとも見られる財政赤字はもとより、世界経済の混乱をどう収拾していくか、来年1月の就任を待たずに対応を迫られよう。

「強い米国」による一極支配の時代は、軍事と経済の両面で終わりを迎えている。米国が超大国であることは変わらないが、イラクとアフガニスタンはもはや一国では手に負えない。巨額の資金が一瞬のうちに世界を駆けめぐる金融市場の規模とスピードには、グローバルに対応するしかない。

オバマ氏が国際協調の重要性を訴え、敵対してきた国との対話にも積極姿勢を打ち出したのは、その意味では時代の要請に応えるものだ。温暖化対策や核拡散の防止などの課題でも、米国を軸とした国際協力が欠かせない。

これからの世界が多極化に向かうとしても、米国の指導力が頼りにされていることに変わりはない。「米国の再生」を待ちわびているのは、米国民だけではないのだ。

オバマ氏は勝利演説で「私はみんなの声に耳を傾ける」と約束した。世界の超えに耳を傾けて、「信頼され、尊敬される米国」をよみがえらせてほしい。

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2面

オバマ流 合衆国包む

党派や人種、統合を強調

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「民主主義の力をなお疑う人たちへの答えが出た」。4日、米大統領選で当選した民主党のオバマ上院議員は、勝利演説でこう強調した。歴史的な勝利を呼び込んだ強さの背景を探ると、草の根の組織力に支えられた、一つの社会運動ともいえる独特の政治スタイルが浮かびあがる。(ワシントン=梅原季哉)

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「米国民は、我々が単なる青のアメリカや赤のアメリカの寄せ集めではなく、一つの『アメリカ合衆国』であり、今後もそうあり続けるというメッセージを世界に発した」-オバマ氏は勝利演説で、民主、共和両党のイメージカラーの青と赤を引き合いに、分断を乗り越え、統合を目指す考えを強調した。

レッテル分けを嫌う姿勢は、共和党地盤とされる州でも、一定の勝機があれば労力を注ぐ動きとなって表れた。

オバマ氏は、5ドル、10ドルといった小口のネット募金を広く薄く集め、財政面で優位に立った。それを生かし、従来なら民主党候補はあきらめていたような州でも、積極的に選挙運動を展開した。

その結果、04年ブッシュ大統領が選挙人を獲得した州のうち、少なくともバージニア、フロリダ、オハイオ、アイオワ、コロラド、ニューメキシコ、ネバダ、インディアナの8州を、共和党の「赤」から民主党の「青」に塗り替えることに成功した。

CNNによると、全米レベルの獲得総数でもオバマ氏は6千万票以上を得て、過半数を制する勢い。民主党の大統領候補で、選挙での獲得票が50%を突破すれば、76年のカーター氏以来となる。

レッテル分けの議論に組しないオバマ氏の姿勢は、人種問題でもみられた。

今年春、ヒラリー・クリントン氏と激しい党内指名争いを続けていたころ、自らが所属していたキリスト教会の黒人牧師による「白人のアメリカ」への憎悪を感じさせる扇動的な発言が問題になり、人種問題が争点となりかけた。

オバマ氏はその後、人種問題を克服するよう真正面から全米に訴えかける演説をし、牧師との間に一線を画する姿勢を強調。分断を深める政治家という印象が定着するのを防いだ。結局はこの教会から離脱までして、既成の「黒人政治家」の枠から自由であろうとした。人種問題に対する人々の関心は薄れ、牧師との交際を問題視する攻撃も、やがて下火になった。

有権者も大半は、こうしたオバマ氏の統合への訴えを支持した。CNN調査では、80%が「人種は投票先を決める要素ではない」と答えた。人種を選択の要素として考慮したと答えた少数派の中でも、むしろオバマ氏に票を投じた人のほうが多かった。

政策面でも「リベラル」「保守」といったレッテルに縛られるのを嫌った。実際の上院議員としての投票行動は明らかにリベラルだが、「政府が全ての問題を解決してくれるわけではない」とも繰り返し、「大きな政府」への懸念を和らげようとした。

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ネットで草の根

空前の若者動員

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「我々は今、歴史を作った。すべてはあなた方が時間と才能、情熱を選挙運動にささげてくれたからこそ、可能になった。ありがとう。バラク」。5日未明、オバマ氏がシカゴで勝利演説を終えて間もなく、ボランティアの携帯電話に、こんなメールが届いた。オバマ氏は大学卒業後、シカゴの低所得者層が住む地域で草の根活動家として政治にかかわるようになった。共和党は、イリノイ州上院議員を経て04年に連邦上院議員に初当選したオバマ氏に自治体の長や会社経営の経験がないことをとらえ、「履歴書に書ける唯一の業績が『地域活動家』」(ジュリアーニ前ニューヨーク市長)とやゆした。

だがライバル陣営は、草の根から組織をを作り、人々を動かすオバマ氏の能力を見誤った。「オバマ氏の選挙運動が見せた統率力は、彼自身の反映だった」(政治コラムニストのマーク・シールズ氏)

オバマ陣営は投開票日の4日も、フロリダ、バージニアなど「決戦場」とされた州で数万人のボランティアが戸別訪問による働きかけを最後まで続けた。

若者を対象とした新たな有権者登録の上積みでまず、共和党をしのいだ。それだけで気を緩めることはなかった。そうした有権者を実際に投票所まで足を運ばせた。決め手はオバマ氏本人の雄弁だけではなく、携帯電話やインターネットを駆使した人間関係の構築だった。特に米国の選挙ではかって見られなかったほどの水準で若者を動かし、「新しい世代」を呼び込んだ。

フロリダ州東部の町メルボルンで初めて投票に臨んだ大学生デレク・ターナーさん(18)は「歴史を作る一員になっている気がして感激している」と、オバマ氏支持の理由を語った。伝統的に共和党支持層が厚く、引退した高齢者が多く住む土地だが、夜明け前からできた投票所の列には意外に若者が目立った。

CNNの出口調査では、18歳から29歳までの若年層では66%がオバマ氏に投票し、マケイン氏の32%を圧倒した。

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経済重視、民意つかむ

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オバマ氏は「ブッシュ政権からの変革」をになう候補としての位置づけを明確にした。CNNの出口調査では、候補者に最も大事な資質として「変革をもたらす能力」を挙げた人が24%で最も多く、その中ではオバマ氏の支持率は89%に達した。

「変革」は当初、外交政策で鮮明だった。07年2月に出馬表明した段階から、泥沼化したイラクからの撤退を公約に掲げた。イラク戦争に当初から反対し続けてきたを、民主党に指名争いで本命視されていたクリントン氏と差別化する点としてアピールした。

だがその後、イラクの治安情勢の改善に伴い、米国民が大統領選で選択基準に挙げる争点としても影が薄れた。CNNの出口調査では、「イラク」を最大の関心事として挙げた人は10%に過ぎない。

イラクに代わって「変革」の必要性を米国民に決定的に植え付けたのが、今年9月からの金融危機だった。オバマ氏が「今世紀最悪」と呼ぶ状況は、かっての世界恐慌並みの事態になるのではないかという国民の不安を招き、ブッシュ政権が取ってきた解決策では対応できない。思い切った変革こそが求められている、という空気を強めた。

CNNの調査では「経済状況について心配している」とした人が85%にのぼり、うち54%がオバマ氏を支持。「経済」が政策面での決定打になったことを裏付けた。

オバマ氏の選挙運動を草の根で支えた人々は今後どうするのか。米オクシデンタル大のピーター・ドライヤー教授は「オバマ陣営はすでに今年夏、ボランティアの訓練で『11月4日は始まりに過ぎない』と強調していた。政策の実現に草の根の声を反映させる道具として、今後もこのネットワークを活用していくのではないか」と指摘する。

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「大きな政府」選択へ

財政赤字拡大の恐れ

経済

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オバマ米次期政権は、不況に突入しつつある経済を早急に回復させるという、極めて難しい公約を抱えている。これまでの「小さな政府」から「大きな政府」へかじを切り、格差是正を図るとみられるが、最大の制約要因は、過去最悪の1兆ドル(約100兆円)を超しそうな財政赤字だ。

オバマ氏は近く、次期財務長官を選んで経済政策チームを発足させるとの観測がある。長官候補には金融危機対策で活躍するニューヨーク連邦準備銀行のガイトナー総裁や、サマーズ元財務長官らが浮上。すでに財務省は次期政権スタッフが使える部屋を用意、来年1月20日の政権発足を待たずに現政権と連携できるよう準備を整えている。

オバマ氏が重視するのは低所得者・勤労世帯の支援だ。ブッシュ共和党政権の金持ち・大企業優遇からの転換を選挙戦で訴えてきた同氏は、「多くの家庭が経済危機で打撃を受けている。それでもマケイン氏は大手企業の最高経営者に平均70万ドル(約7千万円)減税しようとしているが、1億人以上もいる中流米国人には減税しようとしない」と厳しく批判していた。

オバマ氏は、勤労者の95%の税負担を軽くするため、1人あたり500ドル(約5万円)の支給など実施する計画だ。これらの政策で、所得税を払わない人の割合は約10ポイント上昇、48%程度に達する見通しだ。

顧問役のエコノミスト、ジェラッド・バーンスタイン氏らは「労働生産性は00ねんから07年まで約20%上昇したが、勤労世代の中流家庭の実質所得は3%低下すいた」と、ブッシュ政権時代に広がった格差を是正する必要性を強調する。

4日の投票所の出口調査では、家庭所得が全米平均を下回る5万ドル(約500万円)未満の有権者のうち61%がオバマ氏を支持した。

だが、「大きな政府」路線の前に立ちはだかるのは財政赤字だ。今年度の赤字額は、金融危機対策などで、過去最大だった前年度の2,5倍の約1,2兆ドル(約120兆円)に急膨張する、との見通しもある。対国内総生産(GDP)比は「3,2%から過去最高の8、2%に上昇する可能性がある」(金融大手UBS)という。長期金利は0,5%幅ほど押し上げられ、景気回復にマイナスの影響を与える恐れがある。

オバマ氏の公約を実施すれば、減税だけで赤字要因は4年間で1兆ドル近く増えると試算される。同氏の経済政策に影響力を持つルービン元財務長官は「短期的には大きな財政刺激が必要」との認識だが、長期的な赤字は「我々の通貨(ドル)や経済の将来にとって、深刻な脅威となる」と警告する。

減税の効果についても、先行き不安で貯蓄にまわり、消費に点火する力に欠けるとの見方が目立つ。「厳しい財政状況で、経済政策の幅は狭まる可能性もある」(エコノミストのデビッド・ジョン)との指摘もあり、経済運営ではブッシュ政権以上に難しいかじ取りを迫られそうだ。

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イラク撤退、多難の道

北朝鮮との対話継続

外交

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米国がイラクとアフガニスタンという二つの戦場を抱える中で、イラク戦争に当初から反対、「責任ある方法」での撤退を外交安保政策の柱に掲げたオバマ氏が、任務遂行を訴えたマケイン氏を退けた。ブッシュ大統領が就任した01年の同時多発テロ以来続いた「テロとの戦い」は、オバマ政権誕生とともに転機を迎える。

昨年後半からのイラクの治安情勢改善で、大統領選の争点としては後退したイラク問題だが、世論調査では米国民の過半数がなおイラクは「負担に値しない」と考えているとの数字がある。財政面からも巨額の戦費を削減する必要に迫られており、オバマ氏は公約通り、大統領就任後16ヶ月以内の早期撤退を目指すことになる。

ただ、民族・宗派間対立の火種がくすぶるイラクは、内戦状況に舞い戻るおそれがある。その場合、国際社会から無責任と非難されてもイラクを切り捨てるのか、難しい判断を迫られる可能性がある。

テロとの戦いのもう一つの舞台、アフガニスタンに関しては、オバマ氏は「主戦場」と位置づけ、国際テロ組織アルカイダの指導者・オサマ・ビンラディン容疑者の捜索作戦を徹底させると訴えてきた。だが、アフガン問題は軍事力だけで解決できる余地は少なく、政情不安に揺れる隣国パキスタンの協力が欠かせない。

オバマ氏は闇市場を通じて流出した核による核の予防策確立を訴えてきたが、ここでも、核保有国パキスタンとの関係をどう再構築するかが課題だ。ひとつ間違えば泥沼化するアフガン・パキスタン情勢はオバマ政権の外交を占う試金石になりそうだ。

東アジア政策では、北朝鮮の核問題への対応が最優先課題。オバマ氏は北朝鮮との対話路線を打ち出している。6者協議の成果を引き継ぎ、米朝の直接協議をさらに活発に行い、非核化を目指すことになりそうだ。

オバマ氏のアジア政策顧問には北朝鮮問題に詳しい人材がそろう。中でも副大統領に選ばれたバイデン氏のもとで上院外交委員会スタッフを務めるジャヌージ氏は、訪朝や、北朝鮮当局者との民間会合への出席の経験が豊富。北朝鮮にとっても対話を始めやすいと言える。

ただ、北朝鮮の出方次第では身動きが取りにくくなる可能性もある。米朝は核計画申告の検証方法で合意したものの、合意には「試料採取」が明記されていないなど不十分な点が多い。オバマ氏は北朝鮮が検証を拒めば新たな制裁を検討すべきだとしており、今月中の開催を目指す6者協議で北朝鮮が非協力的な姿勢に終始すれば、強い態度を示さざるを得ない。

また、国際社会での存在感を増す中国とどう向き合うかは、任期を通じて問われる外交課題だ。オバマ氏は対中関係を「成熟した幅広い関係」と位置づけている。

ただ、オバマ氏は米中間の貿易不均衡を問題視、人民元の対ドルレート切り上げを求める発言などを繰り返してきた。政権与党となる民主党のペロシ上院議長は人権派として知られており、チベット問題などで中国への圧力が増す可能性もある。

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オバマ政権、同盟関係は継続

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オバマ氏の対日政策は、同盟関係の強化を基本とすることで、現在のブッシュ政権と大きな違いはなさそうだ。陣営のアジア政策チームの一員であるジャヌージ上院

外交委員会スタッフは先週、ワシントンで開かれたシンポジウムで「アジア政策への取り組みで、マケイン陣営と多くの違いはない」と語った。

ジャヌージ氏は、オバマ政権のアジア政策について「にほん、オーストラリア、フィリピンなど伝統的な同盟国との関係をまず強化、発展させる必要がある」と述べた。

米国務省当局は、新政権が当面取り組むべき重要な課題として、①エネルギー②環境③経済の3項目を挙げる。

「3項目は相互に深く関連している」として、全体として両国経済にプラスとなる形で取り組む必要性を強調した。

ただ、日米両国関係者がそろって改善の必要あると指摘するのが、北朝鮮をめぐる両国の政策調整だ。米国政府が10月に踏み切った北朝鮮のテロ支援国家指定解除をめぐっては、北朝鮮の非核化交渉の進展に必要とする米国に対し、「日本や韓国との調整を優先してほしかった」とする日本側に不満と不信感が残った。

日本側は「オバマ陣営関係者は、日本が不満に思っていることはよく理解している」としており、改善に期待をもっている。

オバマ政権は来年1月の発足直後、まずイラク、アフガニスタンを含めた中東政策に力を注ぐと見られている。日米関係に本格的に取り組むのは春以降になる見通しだ。

2008年11月20日木曜日

高橋尚子引退、数々の感動に感謝

 

28日、現役引退を表明した高橋尚子(36)は、女子マラソンの新時代を切り開いたスターだった。五輪陸上日本女子史上初の金メダルに輝き、世界で始めて2時間20分の壁も破った。2大陸連続で五輪出場を逃すなど不遇な時もあったが、残した足跡は大きい。

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(081029)

朝日朝刊

スポーツ面。

日本陸上女子初の五輪金・世界初19分台/スピード化時代先取る

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リクルート時代からコーチなどとして高橋を知る金哲彦氏は「高橋のすごさは、時代を先取りしたことにある」と話す。それはトラックのスピードで、42,195キロをもたせるというマラソンを、女子でやってのけたという点だ。

大学4年の頃の高橋はトラックの3000メートルで学生ランクの上位にいた。ただ、より短い距離の方が得意で「マラソンのマの字もない走り。長い距離は無理だろう」という見方だった。

練習量はこなせ、馬力もあったが、駅伝だとブレーキをおこした。本番に弱いタイプでもあった。変わったのは、小出義雄氏がマンツーマンで見るようになってからだ。

金氏によると、高橋は以前、ひざから下の筋肉や足首のバネで地面をける走りだった。いわゆる「足を使う」走りだった。それはスパート時には武器になり、見てはっきりわかるほど瞬間的にフォームが切り替わる。ただ、そんな走りだけではマラソンはもたない。豊富な練習と小出氏の指導により、バネを使わない長持ちする走りに徐々に矯正され、エネルギーロスの少ないピッチ走法が完成していく。

世界陸上統計者協会の野口純正氏の分析では、01年ベルリンの時の高橋はピッチ1分間209歩、ストライド145センチ。対して、07年東京での野口みずき(シスメックス)が197歩、151,5センチと対照的だ。高橋が野口より身長では13センチ高いことを考えれば、違いはさらに際だつ。

あとは、常識はずれの高地練習がゴールまでもちこたえる持久力を植えつけた。

女子マラソンの日本記録を98年3月から01年9月までの3年半ほどの間に1人で約6分も縮めた。日本を世界トップレベルに引き上げ、女子マラソンで一つの時代を築いた。〈酒瀬川亮介〉

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挫折、挑戦、人々に勇気

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高橋ほど、さわやかに42,195キロを駆け抜けた選手はいないだろう。ライバルをぴゅんと引き離す疾走のような走り。ゴール後は、苦しそうな顔は決して見せないと固く決めていた。「マラソンはこんなに楽しんだよって知ってもらいたい」。走ることが心の底から好きだということを、存分に示してみせた。

そう明るく語る笑顔は、実は、過酷な練習の末に生み出されていた。ピーク時には1日70キロを超える走り込み。米国では心肺機能を鍛えるため標高3500メートルを超える高地まで上がった。「呼吸が苦しくて、胸が締めつけられるのです」。心身とも極限まで追い込む日々があったから、五輪金メダルや01年の世界記録の栄光を手にできた。

現役生活は、32歳で迎える04年夏のアテネ五輪で区切りをつける方向に傾いていた。30歳の頃、「朝起きて足が痛くないことを確認してほっとする。あと2年間、体がもってほしい」ともらしている。すでに自らの肉体に不安を感じ始めていた。代表選考会で敗れたアテネ後は、一度はやめようかと心が揺れている。

それでも彼女は走り続けた。背中を後押ししてくれたのは、絶えることのないファンからの励ましや応援の声だ。「皆さんに支えられて、暗闇の中でも夢を持てました」と高橋。05年、練習方針にずれがあった小出義雄氏から独立。全てを背負う覚悟で少人数のチームを率いた。

実際は、その年の東京国際で3年ぶりのマラソン優勝を果たしたほかは目立った成績はなく、北京五輪も出られなかった。だが挫折を繰り返しても、常に前向きに挑戦する姿が共感を呼び、人々に勇気を与えたのは確かだろう。

国内3大マラソンを連続して走る構想には「走る姿勢をできるだけ大勢の方に見てもらいたい」という感謝の思いもあった。誰からも愛されたQちゃん。それに応えようと懸命に走り続けた長いマラソンは、ようやく終わった。今はゆっくり休んでほしい。

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高橋尚子の歩み

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* 95年4月/大阪学院大からリクルート入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。

   

95年 4月。大阪学院大からリクルーロ入社。小出義雄氏の指導を仰ぐようになる。

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* 97年1月/大阪国際で初」マラソン

4月/小出氏」とともに積水化学へ移籍

8月/アテネ世界選手権5000メートルで13位

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* 98年 3月/名古屋国際で日本記録(当時)でマラソン初優勝「本当ですか?夢見たい」

12月/バンコク・アジア大会日本記録(当時)で制す。「走り始めたら足がよく動いたので、そのま                                          まいった」  写真

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* 99年8月/左足を痛めセビリア世界選手権欠場

10月/ハーフマラソンで転倒し、左手首骨折

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* 00年3月/名古屋国際を制し初の五輪代表に。「(五輪)本番の9月24日は2時間20分を切る風の中で走りたい」

9月/シドニー五輪で日本陸上女子初の金メダル。「すごく楽しい42キロでした」 写真

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10月/国民栄誉賞受賞。「これをバネにもっと上を目指せるいい賞だと思い、受けることを決めた」

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* 01年4月/日本陸連がプロ活動を承認

9月/ベルリン・マラソンで世界記録で優勝「最後の2~3キロは落ちた。あと1、2分は縮められるようにしたい」 写真

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12月/虚血性大腸炎で入院

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*02年9月/ベルリンで優勝、マラソン6連勝、「2年後のアテネ五輪に向けて、やれるんだという気持ちになれた」

11月/東京国際を肋骨の疲労骨折で欠場。「まだ出たい気持ちが残っている」

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*03年2月/小出氏の後を追って積水化学退社。「お世話になったので悩んだ。アテネまで(小出氏に)ついていきたい気持ち優先させてもらった」

11月/東京国際で2位に終わる。「こういうこともあるんだな。マラソンの奥の深さを改めて知った」

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*04年3月/アテネ五輪落選。「走れないことは残念ですが、納得しています」

9月/右足首骨折

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*05年5月/小出氏とのコンビ解消。「チームQ」結成。「(小出氏に)守って貰える甘い環境から抜け出して自己責任で走ってみたい」 写真

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11月/東京国際で復活優勝。「(失速した03年の)自分自身の思い出との戦いだった」 写真

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*06年11月/東京国際で3位に終わり、07年世界選手権代表を逃す。「アテネ五輪の時のように、私はいつも最後まで皆さんをハラハラさせる」

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*07年8月/右ひざ半月板を手術

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*08年3月/名古屋国際で27位に終わり北京五輪逃す「引退か、と言われるかもしれませんが、まだまだやりたかった。

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(081118)の朝日新聞で、元マラソンランナーでスポーツジャーナリストの増田明美さんが黛まどかさんに宛てた、手紙形式で綴られた文章のなかで、高橋尚子さんの「大事にしてきた言葉」の紹介記事をみつけたので、ここに転記させてもらった。

98年のバンコク・アジア大会で優勝した頃は、「奢るなよ円い月夜もただ一夜」。その後は「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。後半は「諦めなければ夢は叶う」だった。

ちなみに野口みずきさんは「走った距離は裏切らない」だ。

縁は、何処までも続くのですね

歌手・沢知恵(さわ、ともえ)さんのことを、名前は聞いたことはあるが、その人がどんなジャンルの歌手なのか知らなかった。ところが、2008、11、16の朝日新聞に、「縁、詠みつなぎ歌い継ぐ」というタイトルで、沢さんを特集していたのです。その記事を読むうちに、何やら、この私も、これからこの文章の中に出現する人々とも多少の縁があるのでは、と思い始めた。

今から40年前、私が大学時代に、サッカーに費やす時間以外は、テレビやラジオのドラマの脚本を書いていた牛島孝之さんと、いつも連れ立って行動していた。あれやこれや、スポーツ談義から演劇、小説、政事、社会で起こった事件を話題にして、時間が経つのを忘れて過ごした。私と出会う約10年ほど前は、華やかな人気脚本家だった。彼の売れっ子時代のスケジュール表を見せてもらったが、寝る間もないくらい働いていた。そのうち、自分が企画・脚本まで仕上げたドラマが、テレビ局のお偉いさんに没にされ、それからは筆を執ることも少なくなり、私が一緒に過ごした時には、TBSの「幸せ見つけた」たった1本だけだった。この仕事も、嫌がる牛島さんをなだめすかして、生活費の捻出のために、友人が無理やり仕掛けた仕事だった、と聞く。牛島さんは、世間から遠ざかって行こうとする、後ろ向きな生活をしていた。子供2人を育てながらです。生産的、向上的な生活ぶりではなかった。傍(そば)からは、やけくその人生のように見えた。それでも私には、私の知らないことをいっぱい教えてくれた。私にとって、学生時代、唯一学習らしい貴重な時間だった。本の読み方から、文章を書く初歩的な作法を教えてくれたのです。演劇については難解で、理解できないまま卒業してしまった。演劇どっぷりの人たちが、牛島さんの直ぐ傍に居たのに、私は学習する機会を逸したようだ。くれぐれも残念だった、と思う。

私は大学に入学すると、すぐにサッカー部に入部した。1年生は強制的に、グラウンドに隣接している寮に入寮しなければならなかったのです。寮とグラウンドの住所は、私が田舎からやってきた時には、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。今は東京都西東京市東伏見だ。東伏見は狭いエリアなので、私の居た4年間で全ての家を見ていると確信できる。狭い路地から大きな道路、全部くまなく歩いた。薬屋、八百屋、肉屋、中華料理屋、蕎麦屋、パン屋、酒屋さんに焼き鳥屋なら、その従業員から家族構成まで把握していた。銭湯のカッちゃん、酒屋のカクちゃん、肉屋のツンちゃん、ここまでは独身女性でした。蕎麦屋のイチロー、工藤薬局の工藤大幸、小鳥屋の和田あきこに駄菓子屋のアグネスチャンチャン(これは、私だけが使っていたニックネームです。洗練?された愛称でしょう)。こんなところで、学生時代の悪夢が蘇ってきた。嗚呼(ああ)、あの和田あっこのガラガラの怒声が暗闇の中から迫ってくる。私を追いかけてくる。私は引き倒され、組み敷かれ、馬乗りになった和田あっこの顔が私の顔を直接に覆う。うっう、苦しい。そして、怒鳴りつけられた。「ヤマオカさん、先月のツケ、いつ払ってくれるの(怒髪が直立)。2、380円だからね。わかったかあ。金さんもだよ、竹本さんにも言っておいてよ」。話は、思わぬ方向に脱線してしまった、誠に失礼いたしました。だらしない学生時代の残滓じゃ。

ここで、この稿準主役の茨木のり子さんの登場です。まさしく、本人・茨木のり子さんが住んでいた東伏見に、私も牛島さんも住んでいたのです。茨木のり子さんのお住まいは、当時その気になりさえすれば、簡単に見つけられたのだけれど、その時の私の優先順位は、1番はサッカーを続けることで、2番はサッカーを続けられるための細事、雑事。学校の授業なんて眼中になかった。サッカー以外は余興みたいなもので、全て捨てていた。ここまで書くと、私のことをよっぽど上手な選手だったのでは、と想像されると非常に困ります。ヘタも下手。立派に一番下手でした。下手糞な自分の逃げ場を封じて、真剣に自分に賭けていた。

4年生の時、その牛島さんから、茨木のり子さんのことを教えられたのです。茨木のり子さんは、この近所にお住まいで、時々グラウンドを覗かれているんですよ。端正な身なりでこの道を歩いておられるのをよく見かけるのですよ。清楚な人ですよ。きっと、あなただって道などで、見かけているはずだよ。牛島さんは、あたかも自分の愛する恋人のように話していた。牛島さんには、そういう生まれながらの癖があった。何でもないのに、何かがあったような謎めいた言い方で、自分と相手を特殊な関係にまで一気に昇華してしまう。牛島さんは、墓場に入って13年は過ぎた。悪口も少しぐらいなら、許されよう。茨木のり子さんのことを、自分との関係をほのめかしながら、雲の上の人のようにも語っていた。この関係ってやつなのだが、牛島さんは単なる熱心な読者に過ぎないだけなのだが。ホンマにしょうがない変なオジサンでした。

牛島さんから、当然、茨木のり子さんの詩集を紹介された。読めば読むほどに、茨木のり子さんの世界に魅(ひ)かれていった。私は近しい友人に、茨木のり子さんのことを話したり、詩集を紹介した。その友人は、すっかり茨木ファンになってしまい、新しい詩集が発売されて、私がその購入にモタモタしていると、気立ての好い友人は「ハイ、どうぞ」と微笑を添えでプレゼントしてくれるようになった。読み終えたら、俺にも読ませるんだぞ、という条件で。当時勤めていた会社で、それらの詩集を回覧した。女子社員の間でファンがドンドン増えていった。

その茨木のり子さんの詩に巡り合った沢知恵さんが、茨木のり子さんの詩に曲をつけて歌っていることを新聞は報じていた。

ここら辺りから、この稿の主目的である、運命的な「縁」のお話です。ドラマチックでもありますヨ。

その沢知恵さんが茨木さんの著書「ハングルへの」旅」を読んで、茨木さんがその著作のなかで、金素雲氏の『朝鮮民謡選』を少女時代に読み、金さんの秘められた抵抗精神を受け取らざるを得なかった、と又、彼の蒔いた種子がひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない、と書いた。沢さんは、体中に電気が走った、と。

金素雲氏は沢さんの母方の祖父だったのだ。私もこの「朝鮮民謡選」を、在日韓国人の友人に薦められて詠んでいました。人間のもつ強い意志を、静かな言葉で綴られていた。きっと、二人の気脈が深いところで通じたのだろう。

この沢知恵さんと、沢さんの祖父・金素雲さんと茨木のり子さんたちの、人の縁のことを書いた朝日新聞の記事を丸ごと転載させていただいたので、それを読んで楽しんでください。この不思議な縁でつながる人の輪のなかに、オイラも牛島さんも入れてくださいナ。

私は、茨木のり子さんの著作からは韓国の抵抗詩人・金芝河(キムジハ)、「祝婚歌」の吉野弘さんのことを教えていただいた。感化され易い私は、金芝河を詠み、彼がこよなく愛したミョンドンの飲み屋にも行ってきた。濁酒(どぶろく)を鱈腹飲んできた。吉野弘さんの「祝婚歌」は、仕事の関係で出席した結婚披露宴で、何度も祝辞の一部に使わせていただいた。詩を綺麗な紙に綺麗に印刷してお土産に持って帰ってもらった。

茨木のり子さんの、私が詠んだ詩集を挙げておこう。

『鎮魂歌』  『私が一番きれいだったとき』  『倚(よ)りかからず』  「『言の葉さやげ』  『食卓に珈琲の匂い流れ』  『一本の茎の上に』、これらより以前の作品はまだ詠んでいない。

 

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081116 朝日朝刊

詠みつなぎ歌い継ぐ

宮地ゆう

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広島市中区の広島女学院の講堂に今月11日、沢知恵(37)の歌声が響いた。用意した13曲の10曲目、沢は約650人の高校生に語りかけた。

「私の大好きな詩人、茨木のり子さんの歌を歌います」

《わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした》

茨木のり子は06年に79歳で亡くなるまで、戦中の青春時代や戦後の世のあり方、日々の暮らしを詩に残した。

とすれば重い詩になるのに、沢がつけた曲は明るい。

「茨木さんの詩は、ひとつも暗くない。ユーモアもスパイスもあって、どんな時代でも希望も笑いもあると教えてくれる」

沢は日本人の父、韓国人の母の間に川崎市で生まれた。2歳で母の故郷ソウルに渡ったが、小学3年のとき、牧師だった父が説教中に軍事政権の批判をしたとして国外退去に。一家は1週間に荷物をまとめ、再び日本に渡った。

15歳から2年は、父の留学で米国暮らし。再び日本に戻り東京芸大を卒業後は都内のライブハウスで弾き語りをしていた。韓国、日本、米国の間で「自分は何者か」と揺れる日々だった。

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沢が茨木の代表作「自分の感受性ぐらい」に出会ったのは、00年のことだ。

《自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ》

「私のことだ」。頭を殴られたような気がした。

数年後、沢は茨木の著書「ハングルへの旅」を読んでいて、一節に目を奪われた。茨木は50歳から韓国語を学んだ経緯をこう記していた。

「金素雲(キムソウン)の『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を少女時代に愛読しーー金素雲氏の秘められた抵抗精神を受け取らざるをえなかった。ほぼ40年を経て、彼の蒔いた種子が、ひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない」

体中に電気が走った。「やっぱりそうだったのか」

金素雲氏は沢の母方の祖父だった。「2人にはものすごい批判精神と最上級のユーモアが共通していた」

祖父は、植民地時代、日本と半島を往復し、朝鮮の詩を日本に伝えた。日本語に訳した時は、北原白秋や島崎藤村に絶賛されている。

沢は幼い頃遊んでくれた祖父を覚えている。ベレー帽にステッキをついた「おしゃれなおじいちゃん」。だが、沢が詩人・金素雲を意識したのは、もっと後のことだ。

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96年9月、沢はソウルで舞台に立っていた。熱気を帯びた満員の会場。当時、韓国では日本語の歌を歌うことが禁じられていた。ライブは表向き「金素雲文学の夕べ」。でも聴衆は知っていた。「日本の歌手が歌うらしい」と。

舞台に立ち、沢は語った。

「今日はぜひ日本語で歌いたい歌があります。でも、許されないから、ら・ら・らで歌います」

沢なりの反骨精神だった。聴衆から声が上がった。「日本語で歌わせてやれ」

それから2年後、日本の大衆文化が開放され、沢は韓国で日本語の歌を歌った最初のシンガーになった。

開放後の歴史的な一曲目は、あの日「ら・ら・ら」で歌った「こころ」という曲だ。

訳したのは祖父。沢がゆったりした旋律をつけた。

《わたしのこころは湖水です/どうぞ漕いでお出でなさい》

05年、沢は茨木の詩を歌にした。アルバムのタイトルを「わたしが一番きれいだったとき」に決めた。歌が完成すると、茨木に見本のCDを送り、手紙で許可を求めて、最後に書き添えた。

「本の中に祖父の名前を見て驚きました。私は金素雲の孫です」

療養中の茨木から、太い鉛筆で書かれた返事が届いた。

「沢さんが金素雲氏のお孫さんであられたとは驚きでした。十五才くらいで読んだ『朝鮮民謡選』は、今も大好きな本で、これによって朝鮮への眼がひらかれたなつかしいものです」

茨木の訃報が届いたのは、それから半年後の06年2月だった。

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昨年末、沢は、茨木の長編叙述詩「りゅうりぇんれんの物語」に曲を付け、歌った。

戦時中、山東省で日本軍に拉致された劉連仁氏が、北海道の炭鉱から逃亡して山中に隠れ、13年後に終戦を知らないまま北海道で発見される実話を描いた壮大な詩だ。

歌いきるのに70分あまり、1曲で1ステージかかる常識はずれの曲だ。沢は、直前まで歌うかどうか迷った。観客はクリマスソングを聴くつもりで集まっていた。

思い切って歌い終えたとき、拍手はすぐに起きなかった。しばらくしてぱらぱらと聞こえ、最後は会場を埋めた。

茨木が金に一度も会わなかったように、沢も茨木に会うことはなかった。でも沢は、「3人をつないだ一筋の線が見える」と言う。

東京都西東京市の茨木の家は今もそのままになっている。生前、詩作にふけった書斎の本棚には、茶色くなった金素雲の詩集が並んでいる。=敬称略

2008年11月9日日曜日

有名な知識人、教養人の言うことにだまされるな

社会から知識人とか、教養人とか言われている人が、とくに著作物の多い人に多い例なのだけれど、「知識人」「教養人」「文化人」「碩学家」「評論家」「オピニオンリーダー」「知性派」を、自ら任じている場合もあるし、世間から自然とそのように敬称されている方々がいる。この方々のなかで、持論に大いに欠陥があるにもかかわらず、平気でのさばっている人がいたとしたら、これは大いに警戒しなければならない。社会問題だ。不幸なことに、この類の人間は大学の先生であったり、高級官僚だったり、世襲(国会)議員だったり、世間に影響を大きく及ぼす力を持っている場合が多い。

この稿は、いわゆる「知識人や教養人」と呼称されている人たちは、いったい何者なのか、と皆で考えてもらいたくてキーボードを叩いている。この人たちの功罪を見極めたいのです。

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私が今、焦点を絞ろうとしているのは、知識人、教養人のチャンピオン、「渡部昇一」氏のことだ。

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航空自衛隊のトップ、航空幕僚長の田母神(たもがみ)俊雄氏が、民間企業主催の懸賞で最優秀賞に選ばれた論文では、日本は日中戦争に「引きずり込まれた被害者」だと主張。旧満州、朝鮮半島の植民地支配も、日本を正当化するような考えを書いているが、田母神氏は以前からの持論であることを強調した。記者会見では、「親日的な言論の自由は制約されていたが、日本を悪く言う自由は無限に認められていたのではないか」と述べた。また「政府見解に一言も言えないのでは北朝鮮と同じだ」とも述べた。政府見解と明らかに異なる見解を公表して、防衛省から懲戒免職を求められても、徹底抗戦の構えをみせた。これじゃ、シビリアンコントロール(文民統制)を根本から否定しているのではないか。この航空幕僚長・田母神氏のその他の言動については、後ろのほうに報道記事を転載したので、そちらを読んでください。

私が気にするのは、この懸賞で次席の表彰を受けられたのは、どんな論文だったのでしょうか。最優秀賞とその次の賞との違いを比べたい。また、それ以外の賞に選ばれた作品の内容も知りたい。懸賞論文を主催した会社の真の目論見は何だったのでしょうか。何を期待して企画したのだろうか。田母神氏が主張するような論文を期待してのことだったのでしょうか。論文を提出した人の名前や肩書きは伏されての審査だったと聞いている、が。

朝日夕刊(081106)によると、防衛省は6日、航空自衛官78人が田母神氏と同じ懸賞論文に投稿していたことを明らかにした。応募総数は235人で、その約3分の1を航空自衛官が占めていたことになる。78人のうち、62人が田母神氏が以前トップを務めた小松基地(石川県小松市)の所属。アパグループ代表の元谷外志雄氏は「小松基地金沢友の会」の会長だった。この78人の航空自衛官の論文の内容は、幕僚長と同じように政府見解と全く異なる内容だったのだろうか。この投稿した航空自衛官たちが、揃いも揃って、同じように政府見解と異なる主張をしていたとしたら、首相、内閣総理大臣殿、最高指揮監督権はどうなってるの ?ですか。

この田母神氏の論文を最優秀に選んだ選考委員会の委員長が渡部昇一氏だったのだ。その他の審査委員はどういうメンバーだったのですか。これも重要な問題です。この審査委員長が、なんと上智の、大学の、名誉な教授、だったからだ。

彼には、膨大な著作物、新聞や雑誌、評論集がある。膨大な人々の前で自分の意見をどれだけの回数、論じてこられたことでしょう。そこで、何を論じてこられたのでしょう?その彼が、この選考審査会の委員長だったのです。 何故か、私は渡部昇一氏の著作物については、今まで一度も手にしたことはない。社会に影響力のある人なのに、それでも、彼の著作物を読もうと思ったことは一度もないのは、自分の世界にとって縁のない人だったようだ。

学校の名誉なのか、名誉ある実績を残した人物なのか。?、?、上智大学名誉教授だ。上智大学は全学あげてこの問題をとりあげて、議論してもらいたい。大学は、研究と教育の場だ。いい教材が転がってきたもんだ。歴史ある立派な大学の名誉教授となりゃ、大学の名誉のみならず、広く日本の国の名誉でなくちゃ、ならんのではないのか。立派な大学の、立派な名誉教授が発した考えは、あたかも世の中の人々に正論であるかの如く、声高に伝わる危険を秘めている。危なかしい思念や思想や考えと言えども、知識人と言われている人にお墨付きを与えれると、その意見は胸を張って一人歩きをするのです。繰り返すぞ。あたかも、世の中の正論の如くに、だ。

青年よ、研鑽に励め。知識と教養を身につけて真贋を見極めることだ。そして、真に正しいことに行動を起こすことだ。

渡部氏は、この話題の論文をどう評価したのだろうか。授賞の根拠を論評して欲しい。新聞に報道された論文要旨を読んで、呆れ果てて、一々私との認識違いを指摘する気も起こらない。この空自のトップがこんな考えで日々、軍務に精励したと聞くとゾウっとする。シビリアンコントロールも糞も、あったもんじゃない。今の自衛隊の実態は、もう既に怖い軍に成り果ててしまっているのではないのか?

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ここで、ネットで知り得た、私が理解できる範囲内の「渡部氏のお考え」を紹介をする。さすが、名誉教授だけあって、私のような人間とは随分違う意見の持ち主のようです。

*日中戦争、太平洋戦争の勃発原因について、陰謀論を支持する。

*南京大虐殺、否定派である「まぼろし派」に分類される。

*「ヒットラーやムッソリーニ、二・二六事件の青年将校らは共産主義者である」と主張している。

*従軍慰安婦問題に関しても日本の責任を完全否定する立場をとる。慰安婦の強制連行を認め性的奴隷説の根拠となった河野談話を強く批判し、当時官房長官の河野洋平は割腹して日本の汚名をそそぐべきだと述べた。

*沖縄における集団自決問題については、実際には積極的に日本軍に協力した沖縄の人々が、復帰後左翼メディアに扇動され、「歴史で騒げば金が出る」と考え、堕落した結果であると述べた。

*1980年、「週刊文春」誌上で、小説家の大西巨人に対し、息子二人が血友病であり、高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば、第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」と問題提起し、大きな論争を巻き起こした。

*統一教会の新聞、「世界日報」を「この四分の一世紀の間、日本のクオリティー・ペーパーであった」と世界日報25周年記念メッセージにおいて、他の4人とともに述べている。

前の*問題については、渡部氏の考えに同調する人々が多々居ることは、承知している。正誤の完全決着をつけることは無理なことはわかっている。が、このままでは議論の先延ばしになって、次代につながらないのではないか。この現状が、私には歯がゆい。真剣な国民的討論の必要を求めます。

真の知識人、真の教養人とは、どんな人のことなのですか。

議論で、コンセンサスを得たい。

保守系言論人の方々、保守系出版社の今後の動きにも注目したい。

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報道された新聞記事を転載させていただいて、この事件の内容を確認してください。

11月1日(月)の朝日新聞の、1面と社会面記事をダイジェストした。

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空自トップ更迭

過去の侵略を正当化

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航空自衛隊トップの田母神(たぼがみ)俊雄・航空幕僚長(60)が「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」と主張する論文を書き、民間企業が主催した懸賞論文に応募していたことがわかった。旧満州・朝鮮半島の植民地化や第2次世界大戦での日本の役割を一貫して正当化し、集団自衛権の行使を禁じる現行憲法に疑問を呈している。政府見解を否定する内容で、浜田防衛相は31日、田母神氏の更迭を決めた。

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論文要旨は次の通り。

日中戦争 日本は被害者

侵略国家ぬれぎぬ

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問題の論文の要旨ー

日本は朝鮮半島や中国大陸に一方的に軍を進めたことはない。日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために軍を配置した。

我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者だ。

日本政府と日本軍の努力で(満州や朝鮮半島の)現地の人々は圧制から解放され、生活水準も格段に向上した。

大東亜戦争後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放された。日露戦争、大東亜戦争を戦った日本の力によるものだ。

東京裁判は戦争責任をすべて日本に押し付けようとした。そのマインドコントロールが日本人を惑わせている。自衛隊は集団自衛権も行使できない。武器の使用も制約が多い、攻撃的兵器の保有も禁止されている。がんじがらめで身動きできない。

多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識する必要がある。我が国が侵略国家だったなどというのはぬれぎぬである。

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論文の題は「日本は侵略国家であったのか」。ホテルチェーンなどを展開するアパグループが主催する第1回「真の近現代史観」懸賞論文の最優秀賞(賞金300万円)に選ばれた。同社は31日、ホームページで論文を公表。防衛省詰の報道各社に報道発表文を配布したことから、投稿の事実が明らかになった。

名前・肩書き伏せ審査

懸賞論文は、アパグループが今年5月に創設し、審査委員長は上智大学名誉教授の渡部昇一氏が務めた。グループ代表・元谷外志雄氏によると、論文は筆者の名前や肩書きを伏せた形で審査し、田母神氏の論文が最高点だった。元谷氏は「立派な論文で、日本人なら内容に異論はないと思う。肩書きのある立場で見解を示すのは勇気のいることだ。広く世界に知らしめた」と話す。

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「猛将」更迭 大慌て

独自歴史観 身内も批判

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「猛将」タイプと言われ、ストレートな発言をすることで知られる。78年、統幕議長だった故・来栖弘吉氏が「自衛隊法では奇襲攻撃に手が出せない。超法規的な行動をとらざるを得ない」と言及して事実上解任されて以降、制服組が突出した発言を控えるなかでは異質の存在だ。今年4月には、空自のイラクでの活動を違憲と判断した名古屋高裁の判決について、お笑い芸人の言葉を引いて「『そんなの関係ねえ』という状況だ」と記者会見で話し、物議をかもした。

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事実誤認だらけ

日本の近現代史に詳しい現代史家の秦郁彦さんの話

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論文は事実誤認だらけだ。通常なら、選外佳作にもならない内容だ。私の著書「盧溝橋事件の研究」も引用元として紹介されているが、引用された部分は私の著書を引くまでもなく明らかなデータだけ。事件の一発目の銃弾は(旧日本軍)第29軍の兵士が撃ったという見解には触れもせず、「事件は中国共産党の謀略だ」などと書かれると誤解される。非常に不愉快だ。

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公然と奇矯な説

白石隆・政策研究大学院大学副学長(国際関係論)の話

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近隣諸国の反発が予想されるから問題だというレベルの話ではない。日本が歴史とどう向き合っているかという問題として、外からは認識されるだろう。たとえ個人の立場で書いたにしても、空自のトップという肩書きは常についてまわる。多くの歴史家から見て奇矯な説を高官が公然と出すことは、日本人がそのように歴史を総括していると見られても仕方ない。

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(081108)

朝日朝刊

社説

自衛隊/隊員教育の総点検を急げ

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航空自衛隊の田母神(たぼがみ)俊雄幕僚長が政府見解に反し、日本の侵略戦争を肯定する内容の論文を投稿して更迭された事件をめぐって、新たな事実が明らかになっている。

懸賞論文に応募したのは田母神氏だけでなく、応募者235人のうち、94人が航空自衛官だった。この中の63人が、かって田母神氏が司令を務めていた小松基地所属の自衛官だった。

航空自衛隊の中枢である航空幕僚監部が、全国の隊員に応募を呼びかけていたことも防衛省の調査でわかった。懸賞論文の課題は「真の近現代史観」である。教育の一環として奨励したというが、戦前の日本の歩みを美化する方向の歴史観を、組織をあげて論じようとしたと見られても仕方あるまい。

懸賞論文を主催した企業の代表は「小松基地金沢友の会」の会長で、田母神氏の知人でもあった。第6航空団の応募が突出している背景には、そうした人間関係が浮かんでくる。

小松基地の第6航空団では、事前の論文指導までしていた。田母神氏は問題論文で、日本の植民地支配や侵略戦争への反省を表明した政府見解を非難した。似たような趣旨で書くよう指導していたのだろうか。

航空自衛隊だけではない。海上自衛隊では隊員や幹部向けの「精神教育参考資料」に「わが国民は賤民意識のとりこ」という表現があったことも明らかになり、防衛省が陳謝した。

田母神氏は、将官への登竜門といわれる統合幕僚学校の校長もつとめていた。全国の自衛隊でいま、どんな教育が行われているのか、早急に総点検する必要がある。

論文応募が明らかになった直後、辞職を求めた浜田防衛相に対し、田母神氏が拒否したことも判明した。

そもそも自衛隊は、大日本帝国の日本軍が果たした役割への反省を踏まえ、平和憲法に基づく民主主義国家の独立と平和の守り手として発足した。精強でなければならないが、意識において旧軍の負の遺産とは明確に断ち切られている必要がある。

自衛官ならなおのこと、歴史認識などバランスのとれた教養と正確な知識、民主主義社会における文民統制のあり方などがきちんと教育されなければならない。組織の外と触れあい、平衡感覚を磨くことも大切だ。

災害救援や平和維持活動への参加などもあって、自衛隊に対する国民の信頼は着実に高まってきた。過去の反省に立ち、全く新しい組織として生まれ変わったという自衛官の意識と実績が、それを支えてきたのだ。今回の空幕長論文の事件は、そうした努力と国民の信頼を大きく揺さぶっている。

自衛隊に対する最高の指揮監督権をもつ麻生首相はもっと危機感をもって、信頼回復の先頭に立つべきだ。

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(081112)

文民統制 欠けた資質

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更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長は11日の参考人招致で、とうとうと持論を繰り返した。つい最近まで、実力組織を率いる「制服組トップ」だった人物が、公然と政府に異を唱える姿は、シビリアンコントロール(文民統制)の危機を浮き彫りにした。ただ、最高指揮官の麻生首相は、相変わらずひとごとのようだ。(山田明宏、金子桂一)

上記のような記事が出ていて、なんじゃこりゃ、恐ろしい幕僚長や。能天気な首相や。と嘆いていたら、朝日新聞は、そんなオジサンを気分転換させる記事を用意しておいてくれるところなんだ、粋だね。天声人語だった。

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(081112)

天声人語

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雷が落ちたかのように驚いたと、去年亡くなった宮沢喜一元首相は回想している。日本の占領時代、帝王のように君臨していたマッカサー元帥が、トルーマン大統領に解任されたときの話だ。

朝鮮戦争をめぐっての、米政府の政策を顧みない言動が、解任の理由だった。帝王より偉い人物がいることに日本人は驚く。「シビリアンコントロール(文民統制)とはこういうものか」と、若き宮沢は目を開かれる思いだったらしい。

軍隊を文民政治家の指揮下に置く仕組みは、民主国家の原則とされる。それを軽んじる、横着な空気が自衛隊にあるのではないか。航空自衛隊トップの「論文問題」に、封印したはずの「戦前の臭い」を嗅いだ人は少なくなかっただろう。

その前航空幕僚長への参考人質疑が国会であった。先の戦争についての、政府見解に反する論文への反省は聞かれなかった。「武器を堂々と使用したいのが本音か」の問いには、「そうすべきだと思う」。あれこれ答弁を聞けば、5万の隊員を束ねる人として、不適切と見るほかない。

昭和の旧軍は、「政治に拘わらず」の軍人勅諭に背いて横車を押しまくった。ついには政治をほしいままにして戦争に突き進んだ。時代が戻るとは思わないが、武装集団に妙な政治色が透けるようでは国民は不安になる。

ところで今日は、戦争犯罪を裁いた東京裁判の刑の宣告から60年になる。文官では元首相の広田弘毅ひとりが極刑になった。軍に抗し切れなかったとされる宰相の悲運は、文民統制なき時代の暗部を伝えてもいる。

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(081112)

朝日朝刊

社説

前空幕長/「言論の自由」のはき違え

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事態の深刻さが、そして何が問われているかが理解できていない。航空自衛隊の田母神前幕僚長を招いての参院の参考人質疑は、そんな懸念を強く抱かせるものだった。田母神氏は「自衛官にも言論の自由がある」「言論統制はおかしい」と繰り返し発言した。自衛隊のトップにまでのぼり詰めた空将が、こんな認識の持ち主だった。

戦後の日本は、軍部の独走が国を破滅させた過去を反省し、その上に立って平和国家としての歩みを進めてきた。自衛隊という形で再び実力組織を持つことになった際も、厳格な文民統制の下に置くこと、そして旧日本軍とは隔絶された新しい組織とすることが大原則であった。

憲法9条に違反するという反対論も根強かったなかで、国民の信頼を築いてきたのは、この原則からの逸脱を厳しく戒めてきた自衛官たちの半世紀に及ぶ努力の結果である。

自衛官のトップにいた人が、こうした基本原則や過去の反省、努力の積み重ねを突き崩しておいて、なお「言論の自由」を言いつのる神経を疑う。

むろん、自衛官にも言論の自由はある。だが、政府の命令で軍事力を行使する組織の一員である以上、相応の制約が課されるのは当然ではないか。

航空自衛隊を率い、統幕学校の校長も務めた人物が、政府方針、基本的な対外姿勢と矛盾する歴史認識を公然と発表し、内部の隊員教育までゆがめる「自由」があろうはずがない。

問題が表面化した後、防衛大学校の五百旗頭〈いおきべ〉真校長は毎日新聞のコラムでこう書いた。

「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することはーーきわめて危険である」「軍人は国民に選ばれた政府の判断に従って行動することが求められている」

五百旗頭氏は歴史家だ。戦前の歴史を想起しての、怒りを込めた言葉に違いない。

それにしても、文民統制の主役としての政治の動きがあまりにも鈍い。浜田防衛相は、田母神氏の定年が迫って時間切れになる恐れがあったので懲戒処分を見送ったと述べた。

田母神氏の行動が処分に相当すると考えるのは当然だ。きちんと処分すべきだった。そうでなければ政府の姿勢が疑われかねない。自民党国防部会では田母神氏擁護論が相次いだという。そうであればなおさら、麻生政権として明確な態度を示さねばならない。麻生首相の認識が聞きたい。

【正論】拓殖大学大学院教授・森本敏 田母神論文の意味するところ

2008.12.5 03:22

このニュースのトピックス国会

≪侵略でないといえない≫

歴史や戦争は人間社会の複合された所産であり、日本が先の大戦に至るまでにたどった道を省みれば、明らかに「自衛」と「侵略」の両面がある。歴史を論じる際、これらをトータルに観察し分析すべきである。田母神俊雄・前航空幕僚長の論文を読んで感じるのは、証拠や分析に基づく新たな視点を展開するならともかく、他人の論評の中から都合の良いところを引用して、バランスに欠ける論旨を展開している点である。あの程度の歴史認識では、複雑な国際環境下での国家防衛を全うできない。

大戦に至る歴史の中で日本が道を誤る転換点となった張作霖爆破事件は、満州権益の保護拡大のため関東軍が独断専行の結果引きおこしたものであることは各種証拠からほとんど間違いない。このときの処置のあいまいさや満州での激しい抗日運動、関東軍の独断がその後の満州事変の引き金になり、満州国建国、上海事変、シナ事変へと続いていったのである。この歴史的事実をもって日本は侵略国家でないというのはあまりに偏った見方である。

我々が心得べきことは、大戦に至る数十年、日清・日露戦争で勝利した奢(おご)りから軍の独善が進み、国家は「軍の使用」を誤ってアジア諸国に軍を進め、多くの尊い人命を失い、国益を損なったことである。これは日本が近代国家を建設する過程での重大な過誤であり、責任は軍人はもとより国家・国民が等しく負うべきである。この過誤を決して繰り返してはならない。

≪政治感覚の著しい欠如≫

ところで、田母神氏は自衛隊員として論文の部外発表手続きを踏んでいない。それを十分承知の上で、日常の不満・鬱憤(うっぷん)をこういう形で、一石を投じる目的をもって公表したのであれば、それによってもたらされる影響についても責任を有する。政府の村山談話がおかしいと思うなら防衛省内で大臣相手に堂々と議論すべきであり、懸賞論文に出すなどと言う行為は政府高官のすべきことではない。

さらにこれによって防衛省改革や防衛大綱の見直し、防衛費や自衛隊の海外派遣問題などにマイナス影響を与えかねない。それが分かっていて発表したというなら政治的な背信行為であり、分からなかったというなら、幕僚長がその程度の政治感覚もなかったのかと言うことになる。

自衛隊員は呼称は何であれ、武力行使できる実行組織を指揮するのであるから、いわゆる「軍人」である。一般市民が自衛隊員をどう見ているかを、高官になれば分かっていなければならない。田母神氏は、日本の自衛隊はいかなる国より文民統制がしっかりしていると国会答弁しているが、自衛隊員がこれを言っても説得力はない。

国民には、文民統制は自衛隊員に意図があれば機能しなくなると考えている人がいる。しかし戦後半世紀、文民統制に大きな疑惑が起きなかったのは、この間の先人の自己抑制努力によるものである。今回の論文によって文民統制への信頼性を失ったとすればその責任は大きい。

≪防衛省の対応には疑問≫

他方、防衛省の対応措置には納得がいかない。田母神氏を懲戒処分にする手続きをとらずに解任し、空幕付きにして退職させた。懲戒にしなかった理由を防衛省は、審理に通常10カ月近くかかり、その間に本人が定年を迎えるので、と説明した。懲戒処分といっても実際には、個人の表現の自由が認められている限り、懲戒免職にはできず、それより軽い処分ですむ。1日も早く防衛省から辞めさせてしまいたい、審理に入ることにより省内で歴史論争がおこるのを防ぎたいという事情が合わさったのであろう。

幕僚長という地位にあるのであるから、大臣は本人に面談のうえ身の処し方を協議すべきであった。国会も参考人質疑で歴史認識論議を避けたが、立法府こそ堂々と歴史認識を論議すべきである。

今後、部外発表をチェックする制度を強化すると、自衛隊員は部外に個人の思想・信条を吐露しなくなる。何を考えているか分からない23万人もの実力部隊が存在することの方が不健全である。文民統制の本義を履き違えた議論は戒めるべきであり、自衛隊員の部外発表を規制することは論外である。

一方で、自衛隊も人材育成や教育を見直す必要がある。自衛官が政治の場を体験する機会を増やすことも考えるべきだ。幕僚長以上を国会の同意人事にすることは違和感があるが、そうするのであれば、彼らを国会審議に引き出す制度を作る必要があろう。

今回は国内世論が左右にはっきり分かれた。これは歴史認識が確立していないからであり、近代史に関する歴史教育の重要性を痛感させられる。(もりもと さとし)

2008年11月6日木曜日

今度の奥秩父は、笠取山だ

081103)

晩秋

のれん会親睦ハイキング

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今回、幹事さんからこの企画のお知らせをもらうまで、正直、笠取山と言われても何処にある山なのか知らなかった。私が、学生の頃、唯一自分で楽しく遊んだ山域なのに、知らなかったのです。山好きの人は、あっちこっちの山を踏破し、その登った山々をきちんと山ごとにお話ができる。登った山を色々語るのも楽しみの一つでもある。私も、奥多摩から奥秩父にかけては、ちょっとしたこの地域の「通」ぶっていたのに。

私の郷里は山の中。山の中で育ったものだから、たかだか山を登るぐらいで、山登りとかワンダーフォーゲル、ハイキングだとか、栄養食? 何もそんなに気色ばらなくてもいいのではないか、という考えが頭から抜けない。山なんかチョロイもんだ。未(いま)だにそんな考えから抜けられないために、何時まで経っても山登りの装備を整えようとしない。山登りをなめたような軽装を、ベテランから何度も注意された。靴がどうだとか、雨具がどうだとか。山をなめたらアカンことは、オジサンになってやっと解っているんだが、何だか素直になれない。

こんな不真面目な私なのに、先輩たちからはいつも声をかけていただいて、感謝している。

笠取山は、整備された東京都の水源林です。手厚く保護されている。具体的には、天然林にはいっさい手をつけず、人工林には奥地林とその他に分けて、間伐と植林で理想的な針葉樹と広葉樹の混交林つくりを進めている。歩くコースは、あたかも公園の遊歩道の如く整備されていた。大正のころ東京都は水源林を確保するために買い入れたと案内看板に書かれていたが、誰から所有権を取得したのか、入会権を取得したのか、詳細に書かれていなかった。頂いた案内書には、この水源林は、塩山市、丹波山村、小菅村にまたがる約一万三千ヘクタールに及ぶ。丹波山村だけでも村の70%に当たる六千五百九十六ヘクタールに及ぶ。この山の一帯を緑のダムと呼んでいるそうです。丹波川から小河内(おごうち)ダムに集まる。そして、東京都民の喉を潤すことになる。水干(みずひ)という水源があって、そこには水の神を祀る祠が造られていた。その水干から湧き出た一滴の水は、「多摩川を経て東京湾まで138キロ」、と書かれた看板が立てられていた。またコースのポイントごとに、「湧き水の仕組みと量」「森と水」「ミズナラの天然林」などといった案内板が設置されていて、自然の大切さを勉強できるようになっている。

直登にさしかかる手前の広場に石柱があって、それは分水嶺を示すものでした。その石柱から山梨市側に流れ出した水滴は笛吹川になって富士川に、秩父市側に流れ出した水は荒川に、甲州市側に流れ出した水は多摩川になるのです。

最後の直登部分で高度100メートルを、登ることになるのです。角度は、見た目には30度程に見えるのですが、実際には20度ぐらいでしょ、と登山ガイドの説明でした。移動距離は短いけれども、心臓にはきつかった。我がグループの精神的シンボル、76歳の御長老ソエダのオヤジにとっては、大変苦しそうだったが、このオヤジはタダモノではないのだ。並みのダラダラ老人ではない。戦闘的なオヤジなのです。俺も苦しかった。お互いに声を掛け合って登りきった。加藤隊長の愛フル・サポート、声を掛ける私と掛け声に応えるソエダのオヤジ。冷静に自分のペースを守る角野さん。全員が頂上にたどり着いたときには、全員で拍手をして喜びを分かち合った。

曇り空だったけれど、眺望はよかった。甲武信ヶ岳は近くに、遠くに大菩薩の峰峰、富士山の中腹は雲で消えていたけれど、少し雪をかぶった頂上付近は神々しく聳えていた。富士山はやっぱり日本一や。

晩秋の候、紅葉はもうそろそろ終わりかけていた。ウルシの真っ赤な葉もヤマブドウの葉も落葉して見られなかった。一部のモミジがところどころ、赤い葉を見せてくれたけど少なかった。黄色くなったカラマツ林は広大だった。ナナカマドの真っ赤な実と、マユミがきれいだった。名前がマユミだと教えられて、過去、思い当たる女性はいなかったが、何故かビクっとした。マユミはあたかも桜の花が咲いているように、実がいっぱいなっていた。「登山道は枯葉のジュウタンのようですね」、と角野さんは言いながら、その文学的?表現に照れていた。高貴な加藤隊長は今回も私の顔の前で、放屁をなされた。公爵(我が隊の講釈師でもあるのです)はワッハッハと笑い飛ばされました。屁をかまされた私は、どこまでも楽しくなかった。

バスでの帰り道、鹿が3頭林道を横切った。慌てた鹿は、逃げるように険しい崖をよじ登っていった。鹿が増えているようです。長野県では、予定していた頭数の3分の1しか駆除できなかったと、ガイドさんから聞いた。頭がいいから、ハンターがやって来る頃には、どこかに姿を消すそうです。

天空(てんくう)の湯で温泉に入って、ビールを飲んで蕎麦を食った。天空という名には恐れ入ったが、大浴場からは、眼下に甲州盆地の夜景が丸見えだった。向こうからは、こちらの裸天国が見えないだろうから、大胆なポーズでうろちょろ。

そして帰路。スタートした時点では中央高速道路が混んでいる、という情報が入ったのですが、一部ノロノロの状態もあったが、大体順調な走行でした。

お疲れさまでしたと、横浜西口天理ビル横で解散した。

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紅葉の奥秩父ー天空の湯と笠取山

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横浜駅西口(07:00)=バス(第3京浜、環八、中央高速)・勝沼インター=作場平(さくばたいら)橋ーーー笠取小屋ーーー分水嶺ーーー笠取山(標高1953メートル)---水干(みずひ)〈多摩川源流)---中島川橋==バス==天空の湯(入浴)==バス==横浜駅西口(21:30)

歩程約12キロメートル 約4時間、当日は約5時間程要した。

主催・クラブツーリズム株式会社

我らの仲間たち=幹事は角野士朗、隊長は加藤史朗、添田 郁、山岡 保 の4名

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山名の「笠取」は山容からきているのではなく、風が強く、かぶっている笠を取られる、ということに由来すると言われている。別の案内書には、姿が笠の形にそっくりなこと、西側の雁峠で行き交った山梨と秩父の人たちが笠を取って挨拶をしたことにちなむ、との説もある。

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2008年11月1日土曜日

新聞拾い読み、4話

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(081020)

朝日夕刊

窓/論説委員室から

その①地の塩

〈三浦俊章〉

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30年経った外交文書は原則、国民に公開する。民主主義のバロメーターと言われる「30年ルール」が日本で始まったのは、そう古いことではない。

米英では早くから確立されたが、日本では一向にその気配がなかった。現代史を書く者は外国の資料に頼らざるをえないという不正常が続いていた。学会や言論界の強い要望を受けて決断したのが、後に首相になる故大平正芳だった。

田中内閣の外相だった73年に国会で公約し、3年後に実施された。大平に直談判した歴史家の故萩原延壽が、後にこう回想している。

「太平さんは日本を国際社会の中に連れ出し、尊敬される一員たらしめるにはどうしたらいいのかを、たえず模索していた」「こういう地の塩のような仕事をする人だった」(「萩原延壽集第7巻」)

「地の塩」とは聖書の言葉で、世の腐敗を防ぐ役割を担う人を指す。クリスチャン大平にふさわしい賛辞だろう。

さて、その精神を受け継いでいるはずの外務省だが、先日、沖縄密約の情報公開請求に対して、「不開示」と回答した。その文書は存在しないというのだ。

沖縄返還に伴い米側負担を肩代わりした密約は、米側文書が公開され、当時の外務省幹部も事実を認めている。

それでも、文書はないと白(しら)を切る。あれだけ大切だと力説する日米関係だ。先方との約束を紛失したはずはあるまい。これは、国民への責任を放棄した組織防衛以外の何ものでもない

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(081020)

朝日朝刊

国際柔道連盟

その②欧州主導の流れ加速/日本の影響力低下

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ランキング制の導入は、有力選手の大会への登場回数を増やす。実力がほぼ正確に反映される制度でもある。五輪出場権をかけたポイント争いは、国際大会の盛り上がりにつながりそうだ。

ただ、日本にとっては不利な面もある。欧州での大会が多く、移動は大きな負担だ。海外ではプロ化が進んでいるが、企業や大学に所属するのが大半の日本選手は国内の実業団や学生の大会もあり、過密日程に苦しむことになる。

「効果」の廃止は一本を目指す日本柔道にとって、有利かもしれない。だが、北京五輪の結果を見ても、敗れた日本選手の多くは力負け。大幅な成績向上までは期待できないだろう。

IJFにおける日本の影響力は低下傾向にある。会長職は87年以降、日本人以外が務め続けている。昨年の理事選では日本の切り札とも言える山下泰裕氏がアルジェリアのモハメド・メリジャ氏に61-123の大差で敗れた。

カラー柔道着の導入や今回のランキング制度など、欧州主導の改革が実施される流れは加速するばかりだ。柔道専門誌「近代柔道」の桐生邦雄編集長は「〈会長権限強化の改革案では〉会長には政治力、財政力、国際的な人脈が必要で、日本から候補者をたてることすら厳しい。柔道の理念だけを打つ出して何でも反対する姿勢は通用しない。今後は欧州主導の路線に沿いながら、現実的に話し合っていくしかない」と話した。

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(081010)

朝日朝刊・スポーツ

その③WBC監督問題/イチローが一石

最強チーム作るのに「現役監督排除」なぜ?

(共同)

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野球の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表監督選出問題について、マリナーズのイチロー外野手が18日、現状について初めて言及。「最強のチームを作ると言う一方で現役監督から選ぶのは難しいでは、本気で最強のチームを作ろうとしているとは思えない」と指摘した。

日本は06年の前回大会で世界一に輝いた。「もう一度、本気で世界一を奪いにいく。WBC日本代表のユニホームを着ることが最高の栄誉であるとみんなが思える大会に自分たちで育てていく」と話した。

「大切なのは足並みをそろえること。(惨敗の)北京の流れから(WBC)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、足並みをそろえることなど不可能でしょう」

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(081024)

朝日朝刊

キーワード

その④ブラッドリー効果/ワイルダー効果

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世論調査で黒人候補の支持率が白人候補を上回っても、選挙本番で差が縮まるか逆転される現象。人種差別と見なされるのを避け、白人有権者が本音を言わないことが理由とされる。82年のカリフォルニア州知事選で、世論調査では白人候補に10ポイント近く差をつけていたトム・ブラッドリー元ロサンゼルス市長が小差で破れ、ブラッドリー効果の名がついた。89年のバージニア州知事選でも世論調査で大差をつけていたダグラス・ワイルダー氏が0,4ポイント差で辛勝し、ワイルダー効果とも呼ばれるようになった。