2008年9月29日月曜日

質量の謎にせまる

これは、朝日新聞の夕刊の一面に載っていた記事です。なんのことやら記事の内容がさっぱり解りません。この実験候補地に日本も立候補していたことは知っていた。実験場がもたらす経済的効果も狙っていたようです。東北のある県だった。新聞の取り扱い方一つとってみても、なんだか凄いようだ、ぐらいには察しがつく。でも理解できないのが悔しい。だいたい一般紙といわれる新聞は、専門紙とは違って、あまりにも専門的な分野のことを記事にはしないはずだ。ところが、夕刊と言えども、一面の一番見やすい場所に、大きく取り上げているので、えい、や!!と古紙に出すことを躊躇した。

この装置の建設費は5千億円で、日本は170億円拠出したそうだ。日本からの研究者は約100人が参加しているというではないか。

でも、内容の解らない記事をファイルして置いたってしょうがない。さりとて捨てがたい。誰か、私に、モノ解りの悪いこのオッサンに噛み砕いて教えてくれないか。日本一美味しいお好み焼きとビールぐらいは用意させていただきます。

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(080909)

朝日夕刊

質量の謎に迫る

超大型加速器あす始動

ビッグバン直後の宇宙再現

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【ジュネーブ=勝田敏彦】 生まれたばかりの宇宙の状態を地上に再現し、「物質に質量があるのはなでか」など現代物理学に残された謎の解明が期待される世界最強・最大の粒子加速器が10日、ジュネーブ郊外で始動する。約5千億円かけて建設されたもので、170億円近くを拠出した日本からも約100人の研究者が参加している。

この装置は大型ハドロン衝突型加速器(LHC)と呼ばれ、欧州合同原子核研究機関(CERN)が運営する。スイス・フランス国境をまたぐ1周27キロの地下トンネルのリングに世界最大級の超伝導電磁石約1700台を並べ、陽子の集団をほぼ光速まで加速して正面衝突させる。

衝突のエネルギーは現在世界最強の加速器である米国のテバトロンの7倍で、宇宙誕生時の大爆発ビッグバンから1兆分の1秒後の超高温・超高圧状態を再現する。

現代素粒子物理学の「標準理論」では、ビッグバン後、物質に質量を与えたというヒッグス粒子の存在が予言されており、発見が期待される。

また宇宙の質量の約2割を占めるといわれる謎の暗黒物質の候補「超対象性粒子」や、私たちが住む宇宙が、4次元(時間も次元と考えると5次元)以上である証拠が見つかる可能性がある。いずれもノーベル賞級の成果となる。

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やっぱり君にも、京都の風土が

今日(080913土)の朝日新聞の朝刊に沢田研二(60)の記事が出ていた。

その内容は、彼の憲法に込めた思いを歌にして、新作アルバムを作ったということだった。なによ、あのジュリーが、何故憲法なのかヨ、と突然の記事の内容に、読者は驚いたのではないかと思ったので、この稿を起すことにした。彼の思いが、私にも分かるような気がしたのです。

ジュリーは60歳の還暦を向かえて、今まで言いたかったのに、つい言えなかったことを、えい!!言っちゃえと、その気になったようだ。かく言う、私も後10日程で、9月24日に還暦を迎えるのです。そんな同世代,いや同じ年令で、同じ京都という環境で育った者同士の、何か共通点がありそうなので、それを探(さぐ)ってみた。

60歳をむかえた我々は、団塊の世代の中心部にあるのです。終戦直後には日本国憲法ができて、その新しい価値観の大変化に戸惑う多くの大人たちがいた。戦前、戦中派の人々だ。その時の世相を表す数多の文化や芸術や著作物が残されている。終戦後間もなく生まれた私達は、父や母や、先輩達が悩んだり、苦しんだりして学習した憲法のことを、私達に分かりやすく教えてくれた。その教え方は、自分達の実体験を下敷きにしているので、教えて貰った私達には、分かりやすかった。私達は素直に新しい価値観の世界を受け入れることができた。それ故に、新しい価値観が傷つけられたり、疎(おろそ)かな扱いを受けたりしたとき、そのときに示す純心な私達の反応は、激しいものにならざるを得ない。

終戦を挟んでその前後、先輩たちは自立して生きるために、過酷な苦労をされたであろうことは容易に察せられる。この人たちから私達は学習させていただいたのだ。終戦の10年後に、小学校に通いだしたのです。この先輩たちが、私達の周囲に、学校に職場に近所に、親として、友人のオヤジとして、先生としていて、時には自戒を込めながらも、嫌だった戦争の話や、二度と戦争は起してはならないぞ、と教えてくれたのでした。合わせて、日本国憲法のことも。中学では、さらに学んだ。

そして、私は高校生になった。京都府立城南高校だ。美女は生まれても、天才は生まれたことのない、希少な学校だった。そこで、この本題の沢田研二のことに触れていきたい。彼は、中学校は岡崎中学校、高校は京都府立鴨沂(おうき)高校の卒業だ。この高校の前身は1872年(明治5年)に日本で最初の女学校として創立した「新英学校および女紅場」らしい。らしい、と言うのはインターネットによる情報を利用させてもっらているからだ。なかなかの名門校だった。ちなみに、義母の出身学校は堀川女学校だ。これは、現在の京都市立堀川高校です。京都の人でないかぎり、なかなか鴨沂をお~きとは読めない。現在の活躍状況はよく知らないが、私が京都に居た頃は、水球が全国的に強い学校として有名だった。

私達が中学生だった時は1960年。60年安保闘争があった。国会議事堂の周辺には何万かの労働者や学生がデモった。岸信介と弟の佐藤栄作が、どうしたらええもんじゃろうか、とデモを見ながら思案していたそうだ。そのデモと機動隊との衝突で、東大生の樺 美智子さんが、亡くなった。私は子供心に、何故、何のために、あんなことをしているのだろうか、と不思議だった。装備の整った機動隊に対して、無防備でよくもあんなに激しい戦いを挑めるものだなあ、と感心させられた。何かが、あるのだろう。新聞に載った写真を見つめていたら、動悸が荒くなったのは、なぜだったのだろう。アンポハンタイ、安保反対、とリズミカルに叫び、4,5人で掃除用の箒を横にして腰の辺りで両手でしっかり握り、教室や廊下をジグザグデモを繰り返したことを思い出す。

そして私と沢田研二(以後は、ジュリーにした)が過ごした時代の、京都事情を書き記そう。我校のキャンバスは、どうだったかというと、いやジュリーの通っていた学校だってそうだった筈だ。当時、京都府知事は蜷川虎三で、共産党と社会党の支持か推薦だった。その影響もあってか先生たちは、大半が共産党か社会党の支持者だった。メーデーの日は、ことさら先生たちの表情は活気に溢れ、メーデー会場に向かう準備を生き生きとこなしていた。どの先生も、赤い鉢巻を額に巻きつけていた。水を得た魚?状態だった。特に元気だった岡田先生が、チラシを私達に配る。校庭にある国旗や校旗を掲揚するポールに、その日は赤旗が揺れる。校舎の壁にはメーデーを成功させるための標語が書かれた垂れ幕が下がる。メーデー会場に向かうためのバスが横付けされると、生徒たちは一斉に集まって、先生たちをガンバレーと励ました。先生たちの乗ったバスは、大勢の生徒に見送られて行った。ただのヤジ馬も多かったが。でも一部の教室だけは、校長と教頭と、他数人の先生だけは授業を行っていたが、ほとんどの授業は名目、自習だった。そのことをいいことに遊んだ。これらは我が母校、城南高校のことだけれども、きっと鴨沂高校も似たり寄ったりだったと推察できる。

ところでジュリーって奴の過去から今までを検証させていただきましょう。彼の今までの生きざまを、詳細に検証させてもらえば、今、彼がなぜ、日本国憲法なのかよ、という質問には明答が得られるだろう。

ジュリーは高校生の頃、京都の四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしていた。そこで岸部一徳らのグループと知り合って、歌を歌う世界の一歩を踏み出したようだ。その後ロック歌手の内田裕也に認められ、東京の渡辺プロダクションと契約して、その後タイガースというグループ名で一世を風靡した。このタイガースというグループ名は、すぎやまこういちが、彼らは関西から来たんだから、ということで名付けられたそうだ。日本で初めての長髪の男性アイドルとして、もてはやされた。私には、こんな奴等のカッコウ好さが分からなかった。女の級友たちが彼等に浮かれているのが、腹立たしかった。長髪は不良者だと、大半の大人はそう思っていた。同時期に、ビートルズという英国のグループが、世界の若者の心をつかんで大活躍中だった。そんな影響もあってか、日本でもエンターテーナーとしてのいくつかのグループサウンドは、テレビにラジオ、ショーで大受けしていた。私も、彼等の多くの歌を、口ずさんだ。

後に、ジュリーたちは本格的なロックグループを企画したそうだが、ロックは日本では反体制を含むジャンルとしてみなされていたが、ジュリーは本気だった、と聞く。それは何に対して反体制なのかと言うと、まさしく育った時期と環境が同じだった私には分かるような気がしたので、この稿を気を強くして進めているのです。

幼い頃、小学校、中学校で新しい日本国憲法のことを、機会がある度に話は聞かされた。その度に、心が清々した。それらは、国民主権、天皇は日本民族の象徴、戦争放棄、基本的人権の尊重、信仰の自由、表現の自由、男女平等だった。心がわくわくした。当時、子供だった私達には、国という概念はなかなか理解しにくかったが、俺達の国はなかなかいいもんだ、素晴らしいんだ、と思った。

そして、蜷川虎三を支持する社会党や共産党が、機会あるごとに自衛隊は日本国憲法9条に反して憲法違反だということを、声を大にして叫ぶと、私も同じように心のなかで叫んでいた。それから、核を持つな、作るな、持ち込むな、この標語も身についてしまった。長崎県の佐世保に原子力潜水艦が着岸した際には、核兵器が装備されているのではないのか、その核による海の汚染の可能性があるのではないか、そんなことに疑問をもつ人たちが、日本全国から多数が参加した。そんな危険なものが、日本の国に自由に出入りされるようじゃ、堪(たま)ったものじゃないか、と思った。

革新知事は、京都だけではなく、大阪にも東京には福岡にも生まれた。東京都知事は、美濃部亮吉氏だった。私は、革新知事さんの言ううことだけには聞き耳を持った。

それから次々に世界をかき乱す事件が相次いだ。私の身近で起こった一番大きな出来事は、ベトナム戦争だった。このベトナム戦争から、私はいろんなことを学んだ。学園紛争、全学連、私も革マルのヘルメットをかぶってデモった。社会人になった。そうこうしていたら、湾岸戦争が始まった。それからテロだ。9・11、アフガン、イラク戦争へと進んだ。その一つ一つの出来事から、子供から青年、オジサンへ、節、節を刻んで成長したようだ。ジュリーもまた、舞台で、マイクを手にとりながら、私と同じように影響を受けていたことだろう。ベトナム戦争に反対する人々の行動や多くの著作物から、整理して学びとったことが、その後の私の、政治を考える時の原理原則になった。言わば心棒になったのです。

音楽の分からない私だからか、馴染めないショーや舞台で活躍し続けるジュリーとは、肌が合わない変な奴だと思い続けてきたのだが、やっぱり、そういう変な奴ではなくて、私たちが普通に考える仲間だったのだと、安心した。

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そんなこんなで、この稿が進まなくなった、とイヤ気が差し出したたころ、びっくり記事が、朝日夕刊の一面に躍り出た。

米原子力空母が横須賀港に入港したというニュースだ。今まで、原子力潜水艦は度々寄港した。その度に寄港反対のデモにさらされた。米原子力空母ジョージ・ワシントンが25日午前、横須賀港に入港し、米海軍横須賀基地に配備された。1973年に米軍が日本に空母を配備して以来、原子力空母の日本母港化は初めてである。ミッドウェーからは4代目、キティホークと交代した。高濃縮ウランを使う原子力空母は燃料補給が必要としない。

ジュリーさん、日本国憲法九条を守る歌の次には、戦争をなくそうという歌を作ってくださいな。

できたら、ジュリーがヴィジュアル系元祖として、もっと早い時期に、ステージで、日本国憲法第9条が、窮状(我が窮状)だと叫んで欲しかった。

 

追記(080929)

新しく発足した麻生内閣の中山成彬国土交通省が、閣僚就任後たった5日間で辞任した。「成田空港の整備の遅れは『ごね得』」「日本は単一民族」との発言については「言葉足らず」と改めて撤回する考えを示したが、一連の日教組批判については、政治家中山成彬としては撤回したという考えはない、と語った。日教組については、「日教組をぶっ壊せ」と発言した。そろそろ、この稿の〆に入らなくてはならない。ここでは暴言ならぬ確信犯発言をここに羅列できないので、改めて、中山確信犯発言集をまとめよう。

ここで、日教組をなりふりかまわず応援する心算は毛頭ないが、前の文で触れてきたように、私が育った小学校から高校までの間で、この稿のテーマである日本国憲法、第9条のこと、軍隊を認めないこと、戦争をしてはいけないことを、真剣に教えてくれたのは、どういうわけか、日教組バリバリの活動家の先生だった。中学校では、今闘病生活中の体育・吉岡先生、理科・山田先生、社会・森本先生がことあるごとに、高校では岡田先生等が、戦争のない日本のために、私等は頑張っているんだ、お前達もよく勉強して、先生たちの言っているいることをなるべく早いうちに理解してくれ、とどの先生も言っていた。

ジュリーも多分同じような教育環境のもとで育ったのだと思う。

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(080913)

朝日朝刊

還暦に憲法への思いを歌う/沢田研二さん(60)

文・藤森研

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麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが

忌わしい時代に 遡るのは賢明じゃない

英霊の涙に変えて 授かった宝だ

この窮状 救うために 声なき声を集え

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変わらぬ艶のある声。バラード風の歌は自身の作詞だ。毎年ライブツアーを重ね、新作アルバムを出す。還暦を迎えた今年のアルバムの9番目はこの歌だ。題は「我が窮状」。

耳で聞けば、「このキュウジョウを救うために」となる。

まぎれもない憲法9条讃歌だ。

なぜ今?

「60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と。いま憲法は、改憲の動きの前でまさに『窮状』にあるでしょう。言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインをおくりたい」

平和への関心は昔から強い。ある時、バンド仲間と戦争の話になり、一人が喧嘩にたとえて言った。「攻められたら、守るだろう」

いや、一対一の喧嘩と、国と国の戦争は違う。そう思い至ったときに「少しプチッとはじけた」。戦争には、望まない人まで巻き込まれる。

これまでも「9条を守ろう」という文化人らの意見広告やアピールに時々、目立たないように賛同してきた。大声で呼びかける柄じゃない、と笑う。歌はソフトに終わる。

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この窮状 救えるのは静かに通る言葉

我が窮状 守りきりたい 許しあい 信じよう

新聞拾い読み5話/スポーツ編

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(080917)

朝日朝刊・スポーツ

その①松坂17勝ピンチで本領

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今季17勝をああげ、日本投手のシーズン最多勝利記録を塗り替えたレッドソックスの松坂の武器は、走者を出してからの集中力だ。与四球はリーグワーストタイの90個だが、一方で被安打率2割1分4厘はリーグトップ。要所での粘りが勝ち星につながっている。

見事なのは満塁での冷静な投球術だ。打ち気にはやる打者に対し、切れ味鋭いスライダーを中心に変化球で攻めて、バットの芯を外している。今季は14度の満塁のピンチを招いたが、1本のヒットも許していない。

野茂英雄の最多勝利記録「16」を抜いたことについて松坂は「数字上で勝利を積み重ねただけ。いつかは本当の意味で、野茂さんを超えられるように頑張りたい」

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(080918)

朝日朝刊・スポーツ

その②ナンバー8の経験

〈中川文如〉

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ラグビー日本代表箕内拓郎(32)が、充実のシーズンを過ごしている。すでに開幕したトップリーグではNECで好守に存在感を放し、最年長となった代表でも、ここまで10試合中9試合に出場。一手先を読んだ頭脳的なプレーは日本選手のなかでも群を抜く。

2大会連続の主将として臨んだ07年秋のW杯。1次リーグで敗退して「年齢も年齢。代表を続けるとか退くとか先のことは考えられない」と話した。迎えた08年、カーワン・ヘッドコーチから引き続き主将を託され、腹を決めた。「上から求められ続ける限り、与えられた役割を全うする。先を見ず、一年一年やりきる」。気は早いが、そんな彼に「次の11年W杯も」と期待したくなる。

理由は代表の苦い歴史。身体能力や若さにとらわれた選手選考で、経験という財産を軽んじては痛い目にあってきた。昨秋のW杯もしかり。海外の強豪には、確かな戦術眼でチームを導く30代半ばから後半のベテランがいた。カーワン・ヘッドコーチは大幅な若返り構想を翻し、再び箕内を軸に据えて年齢構成のバランスを重視する方針に切り替えた。

「まだ僕が選ばれるようでは問題ですよ」。3度目のW杯への意欲を聞くと、箕内は笑って返した。が、マッサージや食事など体調管理には年々神経を研ぎ澄ませている。11年に35歳でW杯に出れば日本の史上最年長。体力的に下り坂をたどっても、重ねた経験は何よりも大舞台で生きる。日本ラグビーがそれを生かさない手はない。

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080919)

朝日朝刊・スポーツ

その③なでしこ五輪効果/国内外で人気上昇/親善試合申し込み相次ぐ

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北京五輪で初めて4強入りを果たしたサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)の人気が国内外で上昇中だ。

なでしこジャパンの佐々木則夫監督は16日、来年1月に豪州で開かれる国際大会に招待されたことを明らかにした。米国などの強豪が参加し、強化の場となることは確実だ。また、北京五輪が開幕してわずか1週間で、国際サッカー連盟理事を務める日本サッカー協会の小倉純二副会長の元に、米国とチリから親善試合の申し込みがあった。

チリからは10年に開かれる独立記念の女子サッカー大会にアジアの代表として招待されることになった。米国からも日本との親善試合が可能な来年の日程についての問い合わせが来ているという。

国際大会での実績がこれまで乏しかった日本は、欧米の強豪国との国際試合を組むのに苦労してきた。アジアでも競技をしている国が少なく、日本の国際経験が不足していただけに、各国からの招待は願ってもない状況だ。来年から再開される米国の女子プロサッカーリーグでも、「日本の選手が、何人かリストアップされていると聞いている」と上田委員長は話す。

国内でも8月31日に開かれたリーグのオールスター戦に5485人が訪れるなど、人気が高まっている。女子サカーを普及させるために、佐々木監督は「日本で大会を開いて強豪国を呼び、なでしこを見てもらう機会を作りたい」と話す。予算などの問題もあるが、日本協会はスポンサー探しも含め、大会開催を模索する意向だ。

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(080920)

朝日夕刊

その④謝罪・感謝リングで/傷害で罰金刑の坂本選手 22日復帰戦

〈久保弘樹〉

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昨年暮れ、東京・上野駅で男性社員を殴ったとして傷害容疑で逮捕されたプロボクサーが半年間の資格停止処分を終え、22日、後楽園ホール(東京都文京区)での復帰戦に挑む。後悔と謝罪、支えてくれた人たちへの感謝を胸に、リング上に立つ。

坂本大輔選手(27)は、昨年12月21日夜、上野駅で肩がぶつかったことが原因で、男性会社員にえり首をつかまれた。

相手に引きずられ、気づいたときには、右拳が会社員のあごを突いていた。会社員が倒れると、坂本選手は、そのまま立ち去った。「翌月に控えた試合のことだけを考えていて、頭が真っ白になってしまった」と振り返る。

今年1月、警視庁に傷害容疑で逮捕され、50万円の罰金刑を受けた。1ヶ月の重傷を負った会社員も暴行の容疑で書類送検され、起訴猶予処分となった。日本ボクシングコミッション(JBC)は、坂本選手に資格停止6ヶ月の処分を下した。

資格停止から3ヶ月間は自室にこもり、ボクシングや応援してくれる人たちを裏切ったことを悔やみ続けた。高校時代から走り続け、忍耐強さを培った。3戦2勝1分けとデビュー4戦目で日本ランカー挑戦に駆け上がりながら、リング外でのトラブルでは自制できなかった。「持ち前だった我慢強さを再び身につけたい」との一心で、謹慎3ヶ月が過ぎ、また走り始めた。

7月に停止処分を終えると、ジムは復帰戦を組んだ。相手は日本ランク9位。ジムのオーナーから「試合はセミファイナルだが、お前の試合がメーンイベント」と言われた。

謹慎中に74㌔まで増えた体重は、もとのスーパーライト級にようやく出場できる63,5㌔まで調整。日本チャンピオンのタイトルマッチが実現した日には、被害者の男性を試合に招待したいと思っている。「今はボクシングに戻れたことが幸せ。チャンピオンになって、謝罪と感謝の気持ちを伝えたい」と話す。

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(080922)

朝日夕刊・スポーツ

その⑤タイムマシンに乗って

100年前の人とつながる夢/イチローが作る記録

〈西村欣也〉

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彼は、タイムマシンなのだと思う。

01年の秋だったメジャーリーグの記者席はイチローと「シューレス(裸足の)・ジョー・ジャクソン」の話題で持ちきりだった。19年のワールドシリーズで、ホワイトソックスのジャクソンは八百長疑惑をかけられ、球界を追放される。少年が発した「うそだと言ってよ、ジョー」という言葉は有名だ。そのジョーが人々の脳裏によみがえったのは、イチローの記録にによってだった。

それまで大リーグの新人最多安打(1900年以降)は、11年、インディアンス時代のジャキソンが記録した233本だった。この記録をイツローが破ったのだ。

映画「フィールド・オブ・ドリームス」では主人公の農場主がアイオワのトウモロコシ畑をつぶして、野球場を作った時、時空を超えてシューレス・ジョーが現れる。

「フィールド・オブ・ドリーム」の原作「シューレス・ジョー」でW・P・キンセンらは書いた。「君がそれを造れば彼はやってくる」。その声に主人公は導かれ、球場を造った。イチローが、記録を作ったことで、ジョー・ジャクソンがファンの心のスクリーンに再び映し出されたのだ。

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04年もそうだった。10月1日(日本時間2日)セーフコフィールドは異様な熱気に包まれていた。イチローが年間安打数の新記録を樹立したのだ。それまでの記録は1920年にジョージ・シスラーが記録した257本だった。シスラーの娘でセントルイス在住のフランシス・ドラクルマンさんとその息子たちが見守っていた。シスラーの孫のボー・ドラクルマンさんは「祖父は野球に人生をかけていた。イチローもそうだ。そんなイチローに記録を破られて祖父も光栄に思っているのに違いない」

84年ぶりにシスラーに光を当てたのが、イチローだと言える。「94年に日本で210安打したが、あのころは怖さをしらなかった。今回はいろんな怖さを知って自分の技術を確立した上での数字。重みが違う」とイチローはコメントした。

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今年は、タイムマシンを1901年に移動させた。17日(日本時間18日)のロイヤルズ戦で8年連続200安打を達成した。1894年から1901年にウィリー・キーラーがマークした大リーグ記録に107年ぶりに並んだのだ。

「今年はなんとしても200本ははずせない年だった。めちゃくちゃしんどかった。安打を欲しいという気持ちが邪魔をする。できないかもしれない、という恐怖があった」。イチローからはめずらしく恐怖という言葉がこぼれた。外には見せなくても、彼は自分自身と戦い続けていた。「マイナスの空気が皮膚から入ってくる。それを避けるために、僕の世界を作り上げた」

チームは低迷し地元マスコミからはパッシングのような報道をされることもあった。「イチローは打ってもモスキート(蚊)。トレードに出してパワーのある選手を取るべきだ」という論調を掲げる新聞もあった。

しかし、イチローは自分のスタイルを変えることはなかった。「日本時代から年間200本をずっとめざしてやってきた。気持ちが変わっていない自分がいいと思う」

キーラーは「目をあけて、人のいないところへ打て」という名言を残している。107年の時を経て、イチローがそれを継承しているようにもみえる。

「100年以上も前の人とつながる。そのことに夢がありますね」

イチローが作り続ける記録は1世紀単位の記録だ。それは彼が、100年に一人の逸材であることを意味する。「自分にコントロールできることと、コントロールできないことを分ける。コントロールできないことに関心を持たない。そして、できるだけの準備をする」。イチローは繰り返し言ってきた。彼のタイムマシンは、次に我々をどこに連れて行ってくれるのだろうか。

2008年9月24日水曜日

夜の空を翔る

080917、水、17;00~ ブレヒトの芝居小屋で「夜の空を翔る」を観てきた。

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主催・(社)日本劇団協議会/次世代を担う演劇人育成公演

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夜の空を翔る

~サン=テグジュベリの生涯~

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制作・東京演劇アンサンブル

作・広渡常敏/演出・松下重人/音楽・林光

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東京演劇アンサンブルだ。昨年の年末に我が社の忘年会を兼ねた観劇会を開催した、その精算業務で劇団の太田さんに会わなくてはならないこともあったのです。その時は「銀河鉄道の夜」でした。どうせブレヒトの芝居小屋に行くなら、劇団の入江洋佑さんにも、ご子息の入江リュウタにも会いたいと思った。タイミングよく「夜の空を翔る」が公演中だった。早稲田で同期だった水球部の西田英生をリュウタに会わせてやりたかったので、彼は都合が、どうのこうの、ごちゃごちゃ言っていたけれど、強引に連れ込んだ。西田は学生の頃、リュウタを弟のように可愛がっていた。彼の日常を察しての、友情に溢れた企画だと、理解してくれたかな。実は、彼はお芝居などには全然関心を示す男ではないことぐらいは、百も承知の上だった。

この芝居は、日本劇団協議会が次世代を担う演劇人育成公演として、東京演劇アンサンブルが制作したものです。

芝居の内容は、パン屋を共同経営する7人が、うまいパンを作るにはどうしたらいいのか? うまいパンを作るということはどういうことだろか。自分たちの小集団がどのようにこの時代を生きていくのか。「圧倒的多数の大衆」とは何か、とこだわる彼らの現在と将来の行く末を苦しみながらも、見通そうともがいていた。私たちの会社、アーバンビルドの将来のことも、考え併せて、私は身を乗り出して観入った。いっそうのこと、私もその劇の中の議論の中に飛び入り参加したくなったほどだ。そんな彼らが、サン=テグジュベリの生涯を劇中、劇で演じるのです。サン=テグジュベリは、「星の王子さま」の作者でもあるのですが、「夜間飛行」によって全世界の注目を浴びた人でもあるのです。装備が不十分なまま、次から次に飛行記録を重ねていく。[夜間飛行」は小説の題名でもあるのです。その作家の飛行士としての奮闘ぶりは、彼の著作「人間の土地」の中で、次のように表現されている。「砂漠を、山岳を、海洋を、開発した。彼は一度ならず砂の中、山の中、夜の中、海の中に落ち込んだ。しかも彼が帰ってくるのは、いつも決まってふたたびまた出発するためだった」と。そんな飛行士の私生活のなかに、「星の王子さま」がときどき現れるのです。劇のなかでは、私を刺激する言葉が、噴出するのです。その度に、書き留めなくっちゃ、と思うのですが、猛烈に言葉が行き交うのです。還暦を1週間後に控えたオジサンの頭は混乱状態でした。

私にとって、私を強烈に追い詰めてくる言葉があった。それは「新しいことば」というセリフだった。後の方で渡邊一民氏の文章を紹介させていただくのですが、このセリフには、私には息が詰まるのです。ドストエフスキーの「罪と罰」のなかで、ラスコーリニコフが、強欲な金貸しの老婆の頭を後ろから斧を打ち下ろした後に、老婆を殺した行為を自分の論理では間違ってはいなかったのだ、と自分を納得させようとした。よくよく考え抜いて行ったことだ。ラスコーリニコフは、町を独り言を繰りながら、吐いた言葉が、「新しい言葉が必要なのだ。新しいことばを吐くときには、勇気が必要なのだ」だった。本の内容を確かめずに書いています。一部には、私の記憶違いがあるかも知れませんが。

私には、このお芝居を上手くまとめることはできません。でも、世の中には優秀な人が必ず居らっしゃる。きちんと文章にまとめられているものを拝借した。パンフレットのなかの、フランス文学者渡邊一民氏の「新しいことばを求めて」でした。ここに慎んで転載させていただいた。

劇中の台詞の一部分をパンフレットより拝借して転記した。お芝居を観なかった人にも、上演中の劇場の雰囲気を味わっていただきましょうかな。 六郎太の台詞より。 サン=テクスがはじめてアルゼンチンの夜を飛んだとき、ブエノス・アイレスの灯が眼下にひろがった。それは星影のように平野のそこかしこにともしびばかりが輝く夜だった。あのともしびの一つ一つは見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。ほら、ぼくはこうして空を飛んでいるんだ、暗い闇の中を飛んでいる!!飛びながら、暗い闇の中でなお、人間ってなんだろうと問いかけている!

昨年の年末、忘年会を兼ねた観劇会「銀河鉄道の夜」の上演前に、参加してくれた人たちに私は話したことを思い出した。「15年前、私は軽便鉄道に乗って、横浜の関内の上空から下界を見下ろしていた。バブルがはじけて火の車、阿鼻叫喚、自殺、夜逃げ。そんな光景を見ながら飛んでいた。私は空から、私の私が、そのなかでもがいているさまを見ていた。アーバンビルドのアーバンビルドが、難破しかかっているのを、見ていた」。

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『夜間飛行』より。 人生には解決などない。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない。解決などはそのあとで見つかる。

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世の中にはたったひとつの贅沢しかない。

それは人間関係だ。 サン=テグジュベリ

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新しいことばを求めて 〈 渡邊一民 〉

「夜の空を翔る」は、時代に反抗して自分たちのことばを探すため、パン製造販売とカフェテラスを共同経営する七人の仲間が、仲間の一人六郎太の心酔するサン=テグジュベリの生涯をとりあげた素人芝居を上演するという趣向である。しかし劇が展開していくうち、サン=テクスの事蹟と作品、それにサン=テクスをめぐって考える六郎太の過去への思いが混じりあい、上演に協力する七人の共同生活にも溶け込んで、いつか現実とフィクションの境界が曖昧となり、一種独特な幻想的舞台が現出するところに、この劇の特徴があると言えよう。

七人の仲間について麦子はこう宣言するーーーー「労働者階級というのは資本家のおこぼれにあずかろうと、そればかり考えてる人々のことよ。わたしたちは労働者ということばをなくしてしまったのよ。わたしたちは新しいことばを探しているのよ。そうでしょ?ほんとうにおいしいパンを焼くために新しいことばが必要なのよ。そうでしょう圭介?新しいことばのためにあんたは大学なんか途中で放っぽり出したのよ、そうでしょう六郎太?新しいことばのために人並みの就職を放棄してパン焼き職人になったのよ、そうでしょ洋平?」そして六郎太がサン=テクスに夢中になってその愛機プリゲ14型機の実物大模型を作りあげ、それを囲んでサン=テクスの芝居を上演しようと思い立ったのも、過去に「ある女」と一緒に彼の作品を読んで、その後女の影から逃れるため、ジュヌヴィエーヴにとらわれた自己脱出を「南方郵便機」を書くことで成就したサン=テクスにならい、飛行機に自分を賭けたからであった。とはいえ女への未練の断ち切れぬ六郎太は、劇中に既婚の「ある女」を呼び出しサン=テクス役の六郎太の恋人をつとめる淳子に、いざとなると現実に背いて想像のうちに逃避する、その消極的な生き方を批判されるのだ。

このようにして、パン工場の現実と六郎太の過去、サン=テクスの現実と作品の世界---それらの織り成す舞台は、サン=テクスにかかわる、「こどもの国」で生まれたみずみずしいことば、管理社会への反抗の姿勢、仲間との友情と連帯などをとおして、新しいことばを探し出す第一歩として七人の仲間は、まず麦子が「自由に自分のことばを喋るのよ。自由に喋りあえば、それが集団なのよ」と表現する七人の集団を何よりも尊重し、淳子がガウディについて語る、「ごく少数の人と協力して、ほんとうに作りたいと思うものを創り出す」ことを信条として生きるという結論に達する。「夜の空を翔る」は、「パンを焼きながら、料理をしながら、ちゃんと顔をあげて喋りはじめるのよ、わたしたち」という麦子の台詞の余韻を響かせながら、サン=テクスは地中海上で行方不明の告知で幕がおりるのだ。

サン=テグジュベリは「星の王子さま」の作者として知られているが、1931年「夜間飛行」によって全世界の注目を集めた。それは、レーダーもなく地上との唯一のつながりを気象まかせの無電機に託し、一瞬の隙間も許されぬ息詰まるような自然との孤独な闘いに身を挺する初期パイロットの姿を描きだし、宇宙の無限の拡がりをはじめて読者に経験させるものだった。以後44年の飛行士としての生涯にわたり、その闘いから生まれた原始の人間への憧憬や人間の本性への関心を彼は作品に書き続けた。「夜間飛行」が戦前いち早く邦訳されて以来、ほとんどの作品が翻訳され、よく知られた作家であるだけに、「夜の空を翔る」の劇中でもその生涯は詳細にたどられている。ただこれまでわが国では、祖国を奪われアメリカに亡命したサン=テクスの、ついに二度とその土を踏むことのなかった祖国への深い愛と不正への激しい敵意が、見逃されがちだったといえる。そうしたものまで「夜の空を翔る」の劇中劇に加えられていたならば、パン屋一党の新しい生き方がもっと力強いものとなったのではないかと、わたしはいささか残念に思う。

それにしても今回の再演は、「次世代を担う演劇人育成公演」の一環としておこなわれる。松下重人君はじめ若手の劇団員により、元気いっぱいな舞台が実現されることを大いに期待している。

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麻生対小沢、自公対民主。あなたは、どちら?

麻生新総裁/自民党は生き残れるか

(080923 秋分の日)

朝日朝刊

社説

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自民党の総裁選は、予想通り麻生太郎氏が圧勝した。あす新首相に就任し、麻生内閣が船出する。

いつもなら、自民党総裁選は事実上の首相選びであり、新政権の政策はどうなるのか、外交はーーーといったことが感心を呼ぶ。だが、今回は様変わりだ。間もなくあると予想される衆院の解散・総選挙に向けて「これで自民党は勝てるのか」が焦点である。

本来であれば、新首相のもとでそれなりの実績を積み上げたうえで国民に信を問うというのが常道だろう。だが、今回はそこも違う。新政権への世論の期待が薄れないうちに、できるだけ早く総選挙にうってでよう。それが与党の大勢なのだ。

だからなのだろう、当初から勝利が確定的だった麻生氏にしても骨太な政権構想を語るどころではなかった。選挙を意識してひたすら景気対策を強調し、もっぱら民主党攻撃に力を込めた。立候補した5氏の論戦が深みを感じさせなかったのも当然だった。

耐用年数が過ぎたか

麻生氏が引き継ぐ自民党は、かって経験したことのない危機にある。選挙向けに「顔」をかえてもかえても、政権維持に四苦八苦する。1年ほどの間に安倍、福田と2代の首相が政権を投げ出さざるを得なかったことがそれを象徴している。

自民党は政権政党としてもはや耐用年数を過ぎたのではないか。そんな批判が説得力を持って語られている。

結党から53年、官僚機構と二人三脚で日本を統治してきた。麻生氏は当選後のあいさつで、祖父の吉田茂元首相が生誕130年になることを披露し、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介という党草創期の指導者の名前を挙げた。

伝統ある党を再生させようという決意をこめたのだろう。だが、麻生氏が直面するのは、まさに初代総裁の鳩山氏以来の半世紀の間に積もりつもったさまざまな矛盾のつけなのだ。

官僚との癒着、税金の巨額の無駄遣い、信じられない年金管理のずさん、薬害エイズや肝炎の隠蔽ーー。効率的で有能と思われてきた日本の行政システムが機能不全を起したかのように、不祥事が止まらなくなっている。

国土を開発し、豊かな生活を育むはずだった公共事業は、いまや800兆円の借金となって国民の肩にのしかかる。人口が減り、経済はいずれ縮小に転じるかもしれない。そのなかで格差を縮め、世代間の公平を保ちつつ豊かで平和な暮らしを守ることが本当にできるのか。

自民党はこれまで、首相の首をすげ替えることで党の危機をしのいできた。だが、日本の現状を見れば、自民党に政権を託し続けていいのだろうか。民主党を頼りないと感じる人々にも、そんな危機感は深いはずだ。

7年前、小泉新総裁が選ばれたときの総裁選を思い出そう。

選挙の顔への期待

当時も、極度の不人気にあえぐ森首相が政権運営に行き詰まり、自民党は窮地に立っていた。頼みの綱と押し立てたのは「自民党をぶっ壊す」と叫んで人気を呼んだ小泉氏だった。実際、その直後の参院選で自民党は圧勝し、以来6年半もの長期政権が続いた。一時的ではあったが、小泉氏は確かに党を救った。

総裁選で麻生氏が圧勝したのは、同じ役回りを国会議員や党員に期待されてのことだろう。重要閣僚や党幹部を歴任した経験に加え、若者にも人気があると言われる麻生氏だ。「選挙の顔」に最もふさわしいと見られたのは自然なことかもしれない。だが、小泉氏が大派閥の推す本命、橋本元首相を破って首相の座についたことひとつを取っても、両氏の間には本質的なところで違いがありそうだ。

麻生氏は最大派閥を事実上率いる森元首相がつくった流れに乗って、総裁選で順当に勝ちをおさめた。看板の政策は、自民党の大勢が望む景気対策であり、財政出動だ。

一方で、国民に負担を強いる政策は早々にお蔵入りにした。「日本経済は全治3年」という掛け声で、当面の消費増税論を封印した。かって提唱した「消費税を10%に引き上げて基礎年金を全額税方式」という年金改革案についても、「こだわるつもりはない」とあっさり宣言した。

「構造改革なくして景気回復なし」と公共はもちろん、社会福祉にも切り込んだ小泉流の強烈な改革メッセージは、すっかり影をひそめている。

先送りではすまない

社会に痛みも強いた小泉流からの脱皮を目指すというのなら、それもいい。だが、景気対策の名のもとに改革を先送りするだけでは、自民党が長年積み上げてきた矛盾をそのままにしようということにならないだろうか。

世界経済の混乱で、景気の先行きはいよいよ不透明になってきた。麻生氏はこれを追い風に「景気対策」一本で小沢民主党と勝負する構えのようだ。

ただ、有権者の不安はそれだけにとどまらない。人口が高齢化し、社会保障の費用は増えていく。それをどう負担していくのか。行政の無駄をなくすと言っても、半世紀もの間、官僚とともにその無駄を作り上げてきた自民党にできるのか。

こうした不安や疑問に向き合わない限り、いくら「顔」をかえてみたところで自民党の再生はおぼつかない。

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小沢民主党/説得力ある行程表を示せ

(080922 月)

朝日朝刊

社説

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民主党はきのうの党大会で、小沢一郎代表の3選を正式承認した。自民党では麻生太郎氏が新総裁に選出される見通しだ。

「麻生vs小沢」の政治決戦がいよいよ幕を開ける。

党大会の演説で、小沢氏は「変化」と「覚悟」を強調した。「今こそ日本を変える時だ」「この一戦に、新しい国民生活をつくることに、私の政治生活のすべてをつぎ込む」

2大政党が政権選択を問う小選挙区制の選挙では、党首のイメージや発信力が勝敗を左右する。その意味で、小沢氏がこの演説を国民に向けての所信表明と位置づけて臨んだのは当然のことだろう。

膨大な税金の無駄遣いを生んできた自公政権の財政構造、統治機構を根本から転換し、そこから生み出した財源で国民の生活を守るセーフティーネットを整備していくーーー。

小沢氏が発信した基本的なメッセージはこれに尽きるが、注目されるのは、それを実現していくための手順を次のように整理したことである。政府の一般会計と特別会計の支出は合計で212兆円にのぼる。その1割にあたる22兆円を段階的に組み替え、民主党の主要政策を実行する財源にあてる。具体的には①来年度予算で直ちに実行する②来年の通常国会で法案を通し、2年以内に実行するもの③衆院議員の任期である4年の間に実行するもの、の三つに分類するという。

どの政策をどこに仕分けるかについては「今月中に総選挙のマニフェストで明らかにしたい」と述べた。

農家への戸別補償制度など民主党が掲げた政策に対し、与党は15,3兆円もの支出が必要になるのに財源があいまいだと批判している。政権交代の必要性は感じつつも、この点に不安や不満を抱く有権者は少なくないはずだ。

総選挙のマニフェストで、政策を実現していく順番や財源の手当てを明らかにすれば、確かに民主党のめざす政権像は鮮明になる。要は、与党の攻撃をはね返し、有権者が納得できる行程表を示せるかどうかである。

大会で気になったのは、来賓としてあいさつした国民新党の綿貫民輔代表が、郵政民営化の見直しをめぐる民主党との合意を自画自賛したことだ。

選挙で勝つには、他党との協力が大事というのは分かる。だが、合意された日本郵政株の売却凍結や4分社化の見直しは、民主党が主張する統治機構の抜本改革と矛盾しないか。選挙目当てのご都合主義と取られないよう、丁寧な説明が必要だろう。

民主党に求められているのは、政権を取ったらどんな政治を、どんな社会を実現するのか、選挙本番に向けて骨太のマニフェストをつくることだ。残された時間はあまりない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2008年9月15日月曜日

「5度目」か最後に「変身」

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今回の民主党の代表選では、小沢擁立グループが立候補を望んでいた人を、党首選のあとの冷遇を示唆して断念させた。今後何もなければ、対立候補なしの小沢代表は、政策論争なしで3選される見通しだ。3選後は、無茶苦茶なマニフェストを掲げて、次の衆院選で政権党を目指そうとしている。

民主党は昨年の参院選を小沢体制で、勝ち過ぎた。選挙に強い小沢代表と、なってしまった。民主党員の誰もが、恐れ多い代表になってしまわれた。ここに、民主党の危機的な芽生えがあるのを、誰が気がついているのだろうか。きたるべき衆院選には、一丸となって、自民党を倒さなければならない、そのためには、党内で政策論争なんかしている場合ではない、と長老の渡部恒三や藤井裕久らだ。それと、仲のいい元首相経験者の海部氏や羽田氏だ。

野田佳彦は、立候補を渋々断念した。双葉山(小沢)が現役の時に胸を借りたかった、と悔やんだ。前原誠司は、マニフェストに疑問を持ちながらも、口封じにあって発言の機会も与えられない。岡田克也さんのような政策通も、自説をまとめた本を出版したものの、党としての論議を呼びそうもない。先に名前が出た人意外にも、枝野幸男のような賢い人もいるのに、論争を避けようとする体質では、飛躍するには無理があるのではないか。

民主党は、なりふり構わず、準備万端あい整えて、福田康夫の自民党から政権奪取を狙っていた矢先に、あっさり、首相で総理の福田康夫は、政権を投げた。福田氏は、自民党の党首に選ばれて、国会で首相指名を受けて首相になったのだ。憲法に基づいて、国会での首相指名投票によって選ばれたのだ。議院内閣制における重要な議会の機能だ。福田さん、あんまり国民や議会を馬鹿にしたら、アカンぞ。現在、5人の候補者が競っている自民党総裁選が華々しいのか、空しいのかは後日にして、今回は民主党党首選の巻きでした。

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(080909)

朝日朝刊

政態・拝見

小沢氏の失敗 編集委員・星浩

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失敗は少なくとも4度ある。

1回目=93年に自民党を飛び出した小沢氏は、細川護煕氏を首相に担いで非自民連立政権を樹立。自民党を野党に追い落とした。そこまでは良かったかが、連立仲間の社会党とうまくやれず、非自民政権は約10ヶ月で崩壊。消費税を7%に引き上げることも画策したが、猛反対に遭って撤回、政権を失速させた。

2回目=94年に非自民勢力を結集して新進党を結成。95年の参院選では躍進したが、公明党系議員らとの摩擦が強まり、97年末にあえなく解党を宣言した。

3回目=自由党を率いていた99年には自民党と連立政権を組み、窮地に立たされていた小渕政権を救う結果に。00年には自自連立を解消したが、自由党は分裂した。

4回目=07年には福田自民党との大連立にいったん合意したが、民主党幹部の反対で頓挫。辞意表明の後に慰留されて翻意した。

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挫折と復権を経て小沢氏はいま、自民党を相手に「政治家として最後の戦い」の真っ最中だ。

この総選挙とその後の政局は、小沢氏にとって「5度目の失敗をするかどうか」の分かれ道である。

小沢氏は「国会議員のなかでは衆院300選挙区の事情を最も熟知している」(菅直人民主党代表代行)という。総裁選でブームを起こそうという自民党のしたたかさも、民主党の足腰の弱さも知り抜いているだろう。だから、両党の総力戦で民主党が敗れた場合、小沢氏は力不足を認めて代表の座を降りるだろう。それは必ずしも「失敗」とは言えない。

総選挙で、民主党が勝った場合はどうか。「小沢首相」の下で政権が発足する。民主党のマニフェスト(政権公約)に基づいて政策が進められるが、かなりの困難が伴う。

ガソリンなどの暫定税率廃止、農家への個別所得補償などを一気に行うには財源が足りない。実現が送れば自民党やメディアから「公約違反」とたたかれる。財源確保のために消費税率の引き上げを強行すれば細川政権の悪夢がよみがえる。

そうした経過で民主党政権が崩壊したら、それこそ小沢氏の「5度目の失敗」となる。それを避けるにはどうすればよいか。民主党は政権獲得後の政策について、いまは大風呂敷を広げているが、そこに優先順位をつける。数年かけて実現する道筋と財源の概略もしめす。要するに、マニフェストを進化させることだ。

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ところが、小沢氏は「マニフェストが嫌い。権力奪取が最優先で、政策は二の次と考えている」(代表経験者)ようだ。その小沢氏がマニフェスト重視に「変身」できるかどうかが、大きなポイントである。

そういえば、民主党代表に就いた06年4月、小沢氏は演説で「私自身が変わらなければならない」と述べた後に英文を引用した。「we must channge to remain the same]

「現状にとどまるためにも、変わらなければならない」といった意味だ。「最後の戦い」で小沢氏が失敗を重ねるのか、変身を成し遂げるのか。結論は遠くない時期に出る。

2008年9月13日土曜日

私と新聞の馴れ初めは

私に以下の文章を綴る気を起こさせたのは、朝日新聞の社説と天声人語だった。私は新聞の記事を読んで、怒ったり、反論したり、歓喜や悲嘆の涙を流したり、喜んだり、そんな日々を豊かに過ごさせていただいている。そんな新聞と私の関係を著しておくことを、080829の社説を読んで思いついたのです。その後、私と新聞の馴れ初めを告白することにする。

河野洋平衆議院議長が、かって宮沢喜一内閣の官房長官として、村山富一総理も同じ内容で旧日本軍の慰安婦問題や大陸に侵犯したことについて、真摯に日本の行為を時の政府コメントとして謝罪した。河野談話、村山談話と言われているものです。そのコメントの内容は私の心を強く打った。これで、戦後からの隣国との不幸な関係は終わって、新たな友好のスタートを切れるものだと思っていたら、あにはからんや、小泉とか安部とか不思議な政治家が総理になって、改善されるどころか、隣国を逆撫でするように、友好のネジは逆に巻かれた。靖国参拝、慰安婦問題、沖縄集団自決についてです。直近では下村副官房長官が、河野発言を見直さなくてはならん、なんて発言した。その前には、安倍元総理の慰安婦問題発言では、アメリカの議会からお灸をすえられ、現在の政府も河野談話を尊重しています、と急転回して平謝り。安倍元総理を含めた中川昭一たちは、慰安婦には日本軍が関わったことを証明するものはない、とか言い張っていた。沖縄の集団自決にも、軍は関与したことは認められない、とか。それで、一旦は教科書から削除された。そのことを知った沖縄では大県民大会を開いて、抗議した。これらの諸問題については、私のこのブログの別の項でとりあげてきた。

その当の河野洋平氏、今は衆院議員議長という、立法府の議長にありながら、政治の諸事に自説を主張されていることに、心のうちで快哉を叫んでいた。新聞は、その河野議長のかっての談話の内容について高く評価した。今回(080829)の社説「議長の発言・率直な河野流を買いたい」では、河野氏の議会外での言辞を支持している。今回の社説にしても、私が思ったことと同じ内容のことが、文字になり記事になった。そうなんだよ、そうだろう、と私も気丈夫になる。私は、そんな記事と歩調を合わせて生きたい、と思うのです。この社説は、この一番後ろの部分に添付しました。

私は毎朝、自宅に新聞が届けられるのを楽しみにしている。配達する人の都合などで、いつもよりほんの少しだけでも遅れると、居ても立ってもいられなく、家の中を檻のなかのライオンのようにうろうろして、果ては家人に新聞屋さんに電話させるのです。家人は新聞屋さんに恐縮しながら、「まだ配達されていないのですが、ーーぐじゅ、ぐじゅー」。家人は、言外に「ほんとは、少しばかり遅れてもかまわないのです。主人がうるさくてしょうがないから、電話したのです。そんなに気にしないでもいいですよ」、とでも言いたげに、私には聞こえるのです。犬の散歩を終えて、新聞を見ながら朝食をとる。昨日の朝刊と昨夜の夕刊をもって、ハブ、ア、朝風呂です。風呂に持ち込めば、新聞はぐべちょべちょになるから、その日の朝刊は、家族用に手をつけません。昨夜の酒っけを抜くために湯の温度を上げます。そうすると、汚い汗が臭いをともなって噴出すのです。できるだけ細かく読みます。だらだら、と。長く読めば、たくさんの汗がでる、酒っけが抜けて、しゃきっとした頭がもどるのです。会社に出て、同僚が私の知らない記事を話題にしたときは、ショックです。私には、新聞を完全に読みきっている自負があるのですから。

ここまでが、現在の私の新聞との関わりで、これからは、「私が何故こうなっちゃた」の巻きです。

何故、こんなに新聞が好きになったチュウか、中毒気味にまで侵されてしまったか、ということについては、高校生時代に遡らなければならないのです。私の生まれた村に近い大きな町といえば宇治でした。生家のある村は、山間谷間の寒村でした。そんな村で、立派に育った、タモツ少年は、山猿そのものでした。小学校と中学校はこの村にありました。私が小学校の低学年の頃、町制に変更された。宇治田原村と田原村が合併して宇治田原町になったのです。学校へ行くときには、ちゃんと服を着ていくのに、帰り道は夏なら裸で、冬なら服にいろんなものもの飾りつけたり、手製の刀や槍を身につけていたそうで、近所の人からは元気モノと見られていた。現実に、元気過ぎて年上の子供や、同級生たちには、随分迷惑をかけたようだ。本人にはその自覚がないのですが。

宇治にあった府立城南高校の普通科に進学した。すぐにサッカー部に入部した。美人と天才が生まれたことがない学校でした。が、私にとっては自由奔放に過ごさせてくれた貴重な高校だった。実家は専業の百姓だったからか、我が家では勉強というものに重きを置いてないどころか、勉強を馬鹿にしている風でもあった。感謝すべきは先生、先輩、後輩、友人だ。校風が、私にぴったりだった。

高校の3年間で、サッカーに入れ込み過ぎた。だからと言って、サッカーでいい成績をあげられた訳でもないのです。成績は、全然ダメでした。特別優秀な生徒ならば、文武両道、スポーツも勉強もなんでもかんでもきちんとこなすのでしょうが、私にはそんな難度の高いことはできなかった。英語も数学も、日本史、世界史、政治経済も、化学も生物、物理も、そんなに何もかも無理だったのです。そこで、私は、国語関係の現代国語、古文、漢文の勉強を省いた。この国語関係では、学習のために時間を費やさない、と覚悟したのです。中間テストの時も期末テストの時も一切復習はしなかった。どういうわけか、現代国語と古文、漢文の3教科を同じ先生が担当で、それも3年間も。ラッキョのような顔をしたその先生は、登山の顧問でもあったのですが、出席をとらなかったのです。授業に出たくない奴は別に出なくてもいい、ただし、最低の点数以上は採らないと、赤点にする。なんじゃかんじゃと言って来ても妥協はしない、追試は行わない、という原則だったのです。私は、そのことをいいことにして、サッカー部の部室でひたすらボールにワックスを塗っていた。裏山で煙草を吸ったり、部室で音を出さないでエレキギターを弾いたりしていた奴もいた。私は、ワックス塗りが終わったら、サッカーの雑誌を読んで過ごした。ここまで書くと、よっぽどサッカーが好きで、さどかし上手だったのでしょう、と想像されるでしょうが、その点は、客観的に見ても、情けないほどみじめなものでした。高校を卒業してからの1浪中も2浪中も、参考書を開けたことはなかった。結果、漢文は全然ダメ、古文は雰囲気だけしか解らない。

その代わり、新聞だけは精読しようと決めたのです。紙面に並んだ漢字の読み書きや文章の意味を確かに理解すること。内容については、学校の教科書よりも、身近な出来事が多く、教科書のように面白くない文章をダラダラ読むよりも、興味深い内容のものが多かったから、楽しかった。全ページを読んだ。文学ではないので、難解な文章はない。誰もが読みやすく、解りやすい記事でも、全ページは当時の私にとっては大変な量だった。が、文章で使われている漢字くらいは、憶えなくてはと、憶えようとする漢字を、何度も書いて憶えた。内容は兎も角、読む癖をつけた。

新聞に興味を持ち始めたのは、中学時代からだ。中学3年生のときの国語の先生が、自分の知り合いに新聞記事の気に入ったところを、原稿用紙に清書している人がいるのです、と話してくれたことが頭に残っていたのだ、と思う。その頃から、新聞に興味を持ったのでしょう。先ず、社会面の左上の漫画だった。時には、この漫画も難しいものがあった。私だけしか、理解できないの、と悄然としたこともしばしば。それから、スポーツ面だった。京都府峰山高校出身の野村克也の活躍には心躍らせた。政治、経済においては、大人はなにやら、大変なことに、一所懸命頑張っているのだ、と感心するだけで、その内容は理解できなかった。

そして、ほぼ50年後、今から10年ほど前に、朝日新聞で報じられたのです。川崎の人で、その人は朝日新聞の毎日の社説と天声人語を400字原稿用紙に書き写しているとの内容でした。その人は、清書しながら、文章を吟味し、構成を学び、大変勉強になりました、と。そしてその人は学習の成果として、自分の文章を本にできるまでのレベルにやっと達することができました、と語っていると報じていた。この新聞記事の内容は、私には大変インパクトがありました。

そして、私の「新聞好き」が新たなステージに入るのです。

私が日ごろ考えていた事柄が、紙面にうまく整理された文章で載ったときなど、私は我が意を得たり、とニンマリすることがあるのです。これが、嬉しいのです。スポーツ、とりわけサッカーの試合などの辛口批評や、選手の一人ひとりのプレー分析など、私と同じ考えだったときなど、筆者の潮智史さんや忠鉢信一さんは立派な記者だ、と勝手に賞賛させていただいている。解説者のセルジオ越後さん、金子達仁さんには感心させられ放しだ。前の4者が書く記事には、私のサッカー感は共振するのです。政界においても、妥協の産物を不承ながらも、認め合うことが多いなかで、正論を頑として主張する政治家のことを、社説等の記事で持ち上げているのを読むと、私も同調者でゴジャルと胸を張る勇気をいただくのです。この一番前の部分で触れた、河野談話関係などがその一例です。

私が、一番打ちのめされ易い記事に巡り合ったときの幸福感は、なかなかいいものです。弱い者、ハンディを乗り越えて頑張っている人の記事、艱難困苦、事情があっても障壁を乗り越えて頑張っている話、そんな実話が私の全身全霊、体を戦慄(わなな)かせるのです。弱者を助け、正義を貫く、悪事、虚偽を諌(いさ)める、どこまでも民主的であること、そんな記事を、今後もワ・タ・シは読み続けたい。

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(080829)

朝日社説

議長の発言/率直な河野流を買いたい

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河野洋平衆院議長の、このところの積極的な発言が注目される。

ひとつは、全国戦没者追悼式での式辞だ。63回目の終戦の日に「特定の宗教によらない、すべての人が思いを一にして追悼できる施設」を真剣に検討するよう政府に求めた。

小泉政権時代、首相が靖国神社への参拝を繰り返し、中国など近隣諸国との外交がおかしくなったのは記憶に新しい。国内でも論争を巻き起こした。

戦争で亡くなった人々を、だれもがわだかまりなく追悼できる施設がほしい。当時、官房長官だった福田首相に有識者の懇談会が提言した「無宗教の追悼施設」は、そんな考えに基づく。

首相が参拝を控え、近隣国との関係も落ち着いてきた今こそ、この議論を詰めたらどうか。これが河野氏の言いたかったことだろう。

同じ式辞の中で、議長は領土問題にも触れ、「互いに内向きに領有権を主張するばかりでなく、真摯に向き合い、話し合いによる解決を」と述べた。韓国と争いになっている竹島が念頭にあったのは間違いあるまい。

いずれも、中国などアジア諸国との関係を重視してきた河野氏の信条に根ざした発言なのだろう。

これに対し、中立であるべき議長なのに特定の立場を表明するのはいかがか、時と場所をわきまえていない、という意見もある。

しかし、そうだろうか。

議長が議会運営に当たって与野党の主張をくみ、公平に差配するのは当然のことだ。その立場から、言動に一定の自制が求められるのも確かである。

だが、だからといって、国の基本的なあり方について、立法府の長が自らの思いを語ることまでしばられるべきではなかろう。

戦争の反省を踏まえ、追悼のあり方や近隣諸国と良好な関係を持つ重要さを説くことが、追悼の場にそぐさないとも思えない。

河野氏は、小泉時代の06年の追悼式でも「戦争責任をあいまいにしてはならない」と発言した。三権の長のひとりが、そうしたメッセージを内外に向けて発した意味は大きかった。

もうひとつは、G8の下院議長会議を広島に誘致したことだ。米国のペロシ下院議長にも直談判し、来月2日の会議出席に快諾を得たという。

原爆投下をめぐっては、それを正当化する米国の認識と日本との間に大きな開きがある。現職大統領のひとりとして被爆地を訪れたことがないなかで、大統領継承順位3位という、これまででもっとも地位の高い下院議長を招く意義は大きい。

議長というと、議会の公正な行司役といった役ばかりに目が向きがちだが、批判を恐れず、率直に信念を語るという議長像もあっていい。

2008年9月12日金曜日

新聞拾い読み5話

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(080812)

朝日朝刊

①体操「美しさ残して」

編集委員・潮智史

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「難しさばかりを追い過ぎている。体操に美しさを残してほしい」。(北京五輪)開幕直後、国際体操連盟(FIG)のグランディ会長が唐突な批判を選手に向けた。10点満点から上限なしへと採点方法が変わって初めての五輪で、その新採点方法が物議を醸している。

得点の上限をなくしたことで、簡単にいえば、大技をより多くをこなせば得点は伸びることになった。選手は完成度を後回しにして、演技に大技を詰め込む。これまで以上に体力も必要になった。「難度を求める部分と出来栄えを求める部分とのバランスをどこまで取るかという難しさに、頭を悩ませることになった」。FIGの加藤沢男・男子技術委員は選手に同情的だ。

全種目をこなす個人総合で68,72年と五輪を連覇した元王者はさらに「単種目化の傾向が進むのではないか」と心配する。12日の男子団体決勝(全6種目)は、1チーム6人から各種目3人を選んで演技し、3人の合計得点で争われる。新採点方法同様、この競技方法も種目ごとのスペシャリストを育てる、ここ10年の流れを加速しかねない。オールラウンダーとして8個の金メダルを手にした加藤氏は「体操が陸上競技のように細分化されていくのではないか」と寂しげだ。

団体予選を首位で通過した中国は、バランスよくスペシャリストを採り入れてきた。一方、日本では、全種目をこなす総合王者を評価する風土がまだ根強い。その分、スペシャリスト育成という世界の流れに遅れをとるジレンマを抱えながら、団体決勝で中国の背中を追いかけることになる。

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(080831)

朝日朝刊

②イチロー40盗塁/力を「抑えながらです」

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「いろいろ(手を)抜きながらやっていこうと思う」。マリナーズのイチローは開幕前に話したが、盗塁もそのうちの一つだ。

29日のインディアン戦の1回、三盗を決めた。今季40個目の盗塁は、ア・リーグの盗塁王争いで2位。首位のエルズベリー(レッドソックス)とはたった1差だ。だが、イチローは言う。

「(力を)抑えながらですね。盗塁の数に関しては、やりすぎないように、という感じかな」

一つでも多くのタイトルを、という貪欲さがイチローの美学にはない。過去にどれだけ多くのシーズン盗塁を成功させた選手がいたとしても、イチローは「目いっぱいやってたんでしょ?目いっぱいやったら、いかんわね」。彼にしか分からない野球観だと言える。(クリープランド=山田佳毅)

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(080803)

朝日朝刊

「天才バカボン」「おそ松くん」

③赤塚不二夫さん死去

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「シェー!」「これでいいのだ!」「ニャロメ!」など数々の流行語を生み、「おそ松くん」 「天才バカボン」などで笑いのブームを巻き起こしたマンガ家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名赤塚藤雄)さんが2日、肺炎で死去した。72歳だった。葬儀の日取りは未定。喪主は長女りえ子さん。事務所兼自宅は東京都新宿区中落合1の3の15.

中国東北部(旧満州)生まれ。新潟県内の中学を卒業後に上京。化学薬品工場の工員をしながらマンガを描き、56年に貸し本マンガ「風をこえて」でデビュー。石ノ森章太郎さんら多くのマンガ家が住んだアパート「トキワ荘」で本格的な創作活動を始めた。

58年、初の月刊誌連載となった「ナマちゃん」を「漫画王」に発表。62年に六つ子を主人公にしたドタバタギャグ「おそ松くん」を「週間少年サンデー」に、変身願望をくすぐり少女漫画「ひみつのアッコちゃん」を「りぼん」に連載して人気マンガ家として躍り出た。

67年、前衛的笑いの集大成「天才バカボン」と、”反体制的ネコ”ニャロメが登場する「もーれつァ太郎」が連載開始。多くの作品がテレビアニメ化され、一大ブームを巻き起こした。02年に脳内出血で倒れて以降は、東京都内の病院で、意識が戻らない闘病生活を続けていた。

65年に「おそ松くん」で小学館漫画賞、97年に日本漫画家協会文部大臣賞を受賞した。

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(080831)

朝日朝刊・天声人語の一部

④戦争被害者

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広島原爆の日、山口県下松市の集会に野坂清子さん(79)は姿を見せた。市原爆被害者の会の会長を務め、毎回出席している。「私たちにはもう何もできません。ただ体の続く限り、こうやって集会に出るだけ。あの日を風化させないように」

横浜市に住む成田富男さん(78)は、自作の紙芝居でシベリア抑留の苦難を伝えている。40枚の絵をめくった後、「日本に帰ってうれしかったのは、戦争をしない国になっていたことだった」と話を結んだ。

細菌戦で知られる731部隊の隊員だった千葉県の篠塚良雄さん(84)は各地で証言集会を開いてきた。「部隊にいたころ、考えることをやめていた。自分の行動の意味を考えれば気が狂ってしまう」。自分達がしたことを闇に葬るわけにはいかない。そんな一心で全国に足を運ぶ。

盛岡市の駒井修さん(70)の父親は、捕虜虐待の罪で戦犯として処刑された。息子として謝りたいと昨夏、被害者の元英兵に会い、手書きのカードを手渡された。「過去を悔やみながら振り返らないでください。二度と帰ってこないのだから。現代を賢く改善してください。未来に向かって恐れず進んでください」とあった。

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(080814)

朝日夕刊・窓/論説委員室から

⑤戦後はつづく

〈三浦俊章〉

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あす8月15日で、戦後は63年になる。63年たっても「戦後」という単位で時代を測っているのは、日本ぐらいだろう。ほとんどの国では「戦後」とは復興を果たした1950年代までのことだ。米国人に聞けば、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と多くの「戦後」がある。

実は日本人だって、これまで何度も「戦後」を終わらせようとした。

高度成長の幕開けの頃、56年度版経済白書は「もはや『戦後』ではない」と宣言した。80年代は当時の中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げた。最近では安倍前首相は「戦後レジームからの脱却」を説いた。しかし、いずれも歴史の物差しを変えるまでに至らなかった。

なるほど憲法を始めとする戦後改革が今も日本社会の大枠であることを考えると、時間軸は連続している。

だが、それだけだろうか。「戦後」が終わらないのは、日本人の心の中で「戦前」も終わってないからではないか。

日本は戦後50年の村山首相談話で、戦前の日本が国策を誤り、多くの国々に損害と苦痛を与えたと謝罪したが、肝心の「国策の誤り」とは何であったのかは、あいまいなままである。

日本近代の歩みをどうとらえるか議論が深まっていないのに、その後に続く時代に区切りをつけるなどできるのだろうか、と疑問に思う。

かくして長い「戦後」が続いている。37年後の2045年には「戦後100年」を語るのだろうか。

2008年9月9日火曜日

キング牧師と活動したルイス下院議員&オバマ候補

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朝日朝刊

60年代の夢

米大統領選・「演説」に連なるオバマ氏

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民主党全国大会の初日、会場となるデンバーの屋内スタジアムで、小柄なアフリカ系(黒人)政治家が、舞台を見つめていた。

あと数時間で、全米から数万人の参加者が集う。この壮大な政治集会の主役、オバマ上院議員も、まだ姿を見せていない。

「このときを、彼らと一緒に過ごしたかった。殴られ、撃たれ、殺された彼らと」ジョージア州選出のジョン・ルイス下院議員(68)の脳裏に浮かんでいたのは、共に公民権運動を戦った今は亡き仲間たちだった。「45年前とはまるで違う世界に見える」

1963年、20万人以上が参加して人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」で、23歳のルイス氏は演壇に登った。同じ舞台に立った故マーチン・ルーサー・キング牧師が語ったのは、世界史に残るあの名演説だった。

〈私には夢がある。かっての奴隷の子と奴隷所有者の子が、兄弟のように同じテーブルにつく夢が〉

ルイス氏も演説した。「目覚めよ、米国。私たちは待てない。我慢もしない」

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綿を摘んだ手

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「公民権運動が生んだ最も勇敢な人間の一人」といわれるルイス氏は40年、アラバナ州の小作人の子として生まれた。同州モンゴメリーのバス・ボイコット運動を指導したキング牧師の演説をラジオで聞き、公民権運動に身を投じる決心をする。

61年には、バスの人種隔離座席を撤廃させるための「フリーダム・ライド」運動の第1陣に参加した。白人専用席に座っただけで何度も暴行を受け、乗ったバスは放火された。オバマ氏が生まれたのは、この年だった。

60年代後半、ルイス氏は黒人参政運動の指導者となる。南部の州では、黒人たちは有権者として登録することを恐れていた。彼は約2万枚のポスターを作製し、理髪店や学校、教会に配布した。

「綿を摘んだ手が今、公職者を選ぶことができる」。片手で綿花を摘み、もう片方の手で投票用紙を箱に入れようとしている男性の絵柄のポスターには、そんな標語が書かれていた。この活動の結果、400万人以上の黒人が有権者登録をし、米国の政治状況を大きく変えたとされる。

「60年代に綿を摘んだ手が今や、次期大統領を選ぶことができる。ほんの一昔前まで、黒人は有権者登録をしただけで身の危険を感じていたというのに」

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(080830)

朝日朝刊

天声人語

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感激も演技もてんてこ盛りの、いい笑顔だった。最初の黒人奴隷が北米に運ばれて4世紀、同じアフリカ系の血を引く政治家が、とうとう米国の頂に手をかけた。民主党が大統領候補に指名したオバマ氏。激しい予備選が技に磨きをかけたのだろう。受託演説に、無用の高ぶりは見られなかった。

「変化はワシントンからは来ない。ワシントンに向けて起こる」「後戻りはできない。未来へ行進しよう」と全米に訴えた。45年前のワシントン大行進で、黒人解放の父、キング牧師が「私には夢がある」と語りかけた、まさに同じ日だった。

牧師は、暗殺される前年の著書「黒人の進む道」(猿谷要訳)で、「確信と信頼に基づいて」「熱狂的声援をおくれる」黒人政治家を渇望した。そして「その人は白人の政治的な会議のなかでもーーー尊敬をもって扱われるであろう。」と見通した。

オバマ氏は牧師が思い描いた「奴隷の子孫」ではない。父はケニアからの留学生、母は白人。ハーバード出のエリートでもある。「分類」の難しい来歴は、強みにも弱みにもなろう。

党大会の直前、氏の暗殺を企てたとして白人3人が捕まり、ライフルや弾が押収された。キング牧師の夢が現実に近づくほど、時代を逆に回す力も強まりかねない。米国史をかけた挑戦なのだと実感する。

あらゆる障壁、妨害を乗り越え、褐色の手で頂を引き寄せるのか。スタジアムを埋めた8万の歓喜に肌の色の別はない。人種の壁をめぐる長い長い絶望と夢の果て、「異色」を背負う47歳が、最後のコーナーを抜けた。

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(080830)

朝日朝刊・社説

オバマ候補/「夢」の次に語るべきは

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「私には夢がある」。米国の公民権運動指導者マーティン・ルーサー・キング牧師がこう演説したのは、45年前の8月28日だった。「子供たちが肌の色ではなく、人格で評価される国に住める日がいつかくる」と、将来への期待を語った。

そのとき2歳だったバラク・オバマ氏が、民主党の大統領候補に指名された。2大政党で初のアフリカ系の候補だ。8万人の支持者を前に熱っぽく受諾演説をする姿に、キング牧師の描いた「夢」を重ね合わせた人も多かっただろう。

白人で、アングロサクソン系で、プロテスタント。かって、米国政治の主流は「WASP]と言われた。そんな伝統に終止符をうつかのようなオバマ氏の指名獲得である。

この原動力となったのは、米国政治の変化を望む国民の思いと、オバマ氏を支持することで人種対立の歴史を乗り越えたいという人々の願いであったに違いない。

米国の人口推計によると、現在、人口の過半数を占める白人は、ヒスパニックや黒人、アジア系の増加で、2042年までに5割を切る。米国社会の構成は、ますます多様になっていくということだ。

保守のブッシュ政権でも、パウエル、ライス両国務長官をはじめ、要職にマイノリティーを起用するのは珍しいことではなくなった。共和党のマケイン候補も、バングラデシュから養女を迎えている。

もちろん人種差別は、米社会に根強く残っている。ただ、その壁を乗り越える人は確実に増えている。その努力を評価し、多様性を是とする風潮も広まっている。アフリカ系を大統領候補にまで押し上げ、受け入れる米社会の活力と懐の深さは素晴らしい。

最近の世論調査では、オバマ氏の支持率は伸び悩み気味だ。ロシアのグルジア侵攻などの国際的な大事件や、経済の低迷が長引くなかで、マケイン陣営から浴びせられる「経験不足」という批判が、効き始めているのかもしれない。

人々の「米国の夢」への思いを鼓舞できたとしても、それだけで米国を率いる指導者が務まるわけではない。

指名受諾の演説で、オバマ氏は米経済の立て直しを語り、勤労世帯への手厚い配慮を打ち出した。「イラク戦争を責任ある形で終結させ、アフガニスタンでのアルカイダとタリバーンとの戦いを終わらせる」とも宣言した。

では、どうやってそれを実現するのか。近く共和党大会で指名を受けるマケイン氏は、そこを攻めようと手ぐすねを引いている。それに耐え、米国民の抱える不安に応えられるのか。

大統領候補としてのオバマ氏が、厳しく吟味されていくのはこれからだ。

2008年9月6日土曜日

合祀の取り下げを靖国神社に要求

(080812)

韓国人元戦犯遺族らが、合祀の取り下げを靖国神社に要求した。

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まずは、靖国神社の答えは?。次に日本の法曹界はどう答えるのですか?

日本の国民は、韓国の人や台湾の人は、どのように思うのだろうか?どうか、皆さん。真面目に考えてください。

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日本による植民地支配下で軍属として働かされ、戦後、BC級戦犯に問われた朝鮮半島の出身者の韓国人遺族ら約30人でつくる「韓国人元BC級戦犯者遺族会」が11日、靖国神社に対して、合祀が確認された15人について取り下げを求める抗議文を出した。

同会を支援する日本の市民団体「戦後補償ネットワーク」(有光健・世話人代表)が明らかにした。ネットワークによると、同会は昨年12月、合祀者の確認と取り下げを要望。神社側は、取り下げはできないと回答したという。

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今まで神社側は、合祀の取り下げを拒否してきた。その法的根拠はなんですか。ここであらためて、市民団体「戦後補償ネットワーク」は上記の内容の要求をした。是非、法廷闘争まで持っていって欲しいと思っているのです。この類で悩んでいる遺族や関係者が大勢いるはずです。その方々の為にも、法に基づく最終判断を得るまで、求め続けてもらいたい。

私の祖母は、自分の息子(長男です。私の父は次男でした)が、靖国神社に祀られていることが、心の平静の拠りどころだったように思う。祖母は、靖国神社のお社(やしろ)の全景写真と、自分の息子の遺影を並べて、生家の座敷の欄間にかざっていた。その後、私の兄が結婚した。兄嫁は昭和天皇と皇后陛下が亡くなると、急いで両陛下の遺影を並べた。私には、天皇陛下とどういう関係なのか、不思議だった。平和な田舎の、生家の居間のたたずまいです。町のはずれに戦没者慰霊碑があって、戦死者一人ひとりの墓碑(墓石)があった。

私の父は、自分が火薬庫で働いていたことについては楽しく話してくれたが、自分の兄が戦争でどのように死んだのか、息子の私には何も話してはくれなかった。祖母も父も、自分の息子のこと、自分の兄のことを、私には話さなかった。私のような者から、何か唐突に予期せぬ質問をされるのではないかと、恐れていたのかもしれない。何もかも、過ぎ去った、過去の出来事を今更、もうどうでもいいことなのだ、と諦めきっているようでした。なんとか、忘れようとしているのに、反戦少年、タモツがことを荒げようとするのだけは、イヤだったようだ。不思議なことに、戦争の話は家庭内では、なかった。

そんなことが、東京の学校に入った頃から気になりだしていた。私も、それなりに学習した。私の一番大事にしていた友人が韓国籍だったのです。日本軍に徴兵された韓国の人が、靖国神社には入りたくない人もいたやろう、と話したことがあった。映画か何かで、特攻隊の仲間が帰りの燃料が入ってない突撃機に乗って最後の突撃に向かう際、上官や仲間たちと靖国で会いましょう、なんて言いながら最後の敬礼をする。そんなシーンは見たが、本当に靖国神社で会いたかったのだろうか。

戦死者に、天理教の信者、浄土宗などの仏教の信者、キリスト教の信者やイスラム教の信者がいたとしたら,その戦死者たちは、神刀及び神鏡をご神体にしている靖国神社に英霊として、神として祭られることを、当然拒否するでしょう。当たり前だの、クラッカーや。それに、英霊ってなんですか?。聖戦で亡くなった戦死者の御霊だ、と言われたって、分からない人には、絶対わからないのです。台湾や韓国人たちの日本軍に徴用された人々たちのなかで、英霊になんかなりたくないと思っていた人もいたはずだ。でも、韓国の人も台湾の人も、日本軍に参加した人は、どうしても自動的に靖国神社の英霊にさせられてしまう。死んでまで、拘束されるのは、たまったものではない、と思う人も多いのではないのか。

靖国神社は、もともと、明治維新の維新戦争で亡くなった政府側の兵士を祀る為に作った東京招魂社が、その後靖国神社になった。安国(やすくに)を願って、靖国になったそうです。日清戦争の戦死者から国の戦いで亡くなった人がぞくぞくと祀られた。戦後、日本国憲法で信教の自由が認められた。靖国神社は立派な宗教法人だ。戦後、国の管理から離れたと言うものの、実態は国の管理下にあるように思えるのですが、どうなんでしょう、か。

戦後すぐ、自由主義者石橋湛山、のちの自民党総裁・首相は「怨みを残すが如き記念物」として「靖国神社廃止の議」を書いた。さて、皆さんは、どうですか。