2008年9月6日土曜日

合祀の取り下げを靖国神社に要求

(080812)

韓国人元戦犯遺族らが、合祀の取り下げを靖国神社に要求した。

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まずは、靖国神社の答えは?。次に日本の法曹界はどう答えるのですか?

日本の国民は、韓国の人や台湾の人は、どのように思うのだろうか?どうか、皆さん。真面目に考えてください。

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日本による植民地支配下で軍属として働かされ、戦後、BC級戦犯に問われた朝鮮半島の出身者の韓国人遺族ら約30人でつくる「韓国人元BC級戦犯者遺族会」が11日、靖国神社に対して、合祀が確認された15人について取り下げを求める抗議文を出した。

同会を支援する日本の市民団体「戦後補償ネットワーク」(有光健・世話人代表)が明らかにした。ネットワークによると、同会は昨年12月、合祀者の確認と取り下げを要望。神社側は、取り下げはできないと回答したという。

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今まで神社側は、合祀の取り下げを拒否してきた。その法的根拠はなんですか。ここであらためて、市民団体「戦後補償ネットワーク」は上記の内容の要求をした。是非、法廷闘争まで持っていって欲しいと思っているのです。この類で悩んでいる遺族や関係者が大勢いるはずです。その方々の為にも、法に基づく最終判断を得るまで、求め続けてもらいたい。

私の祖母は、自分の息子(長男です。私の父は次男でした)が、靖国神社に祀られていることが、心の平静の拠りどころだったように思う。祖母は、靖国神社のお社(やしろ)の全景写真と、自分の息子の遺影を並べて、生家の座敷の欄間にかざっていた。その後、私の兄が結婚した。兄嫁は昭和天皇と皇后陛下が亡くなると、急いで両陛下の遺影を並べた。私には、天皇陛下とどういう関係なのか、不思議だった。平和な田舎の、生家の居間のたたずまいです。町のはずれに戦没者慰霊碑があって、戦死者一人ひとりの墓碑(墓石)があった。

私の父は、自分が火薬庫で働いていたことについては楽しく話してくれたが、自分の兄が戦争でどのように死んだのか、息子の私には何も話してはくれなかった。祖母も父も、自分の息子のこと、自分の兄のことを、私には話さなかった。私のような者から、何か唐突に予期せぬ質問をされるのではないかと、恐れていたのかもしれない。何もかも、過ぎ去った、過去の出来事を今更、もうどうでもいいことなのだ、と諦めきっているようでした。なんとか、忘れようとしているのに、反戦少年、タモツがことを荒げようとするのだけは、イヤだったようだ。不思議なことに、戦争の話は家庭内では、なかった。

そんなことが、東京の学校に入った頃から気になりだしていた。私も、それなりに学習した。私の一番大事にしていた友人が韓国籍だったのです。日本軍に徴兵された韓国の人が、靖国神社には入りたくない人もいたやろう、と話したことがあった。映画か何かで、特攻隊の仲間が帰りの燃料が入ってない突撃機に乗って最後の突撃に向かう際、上官や仲間たちと靖国で会いましょう、なんて言いながら最後の敬礼をする。そんなシーンは見たが、本当に靖国神社で会いたかったのだろうか。

戦死者に、天理教の信者、浄土宗などの仏教の信者、キリスト教の信者やイスラム教の信者がいたとしたら,その戦死者たちは、神刀及び神鏡をご神体にしている靖国神社に英霊として、神として祭られることを、当然拒否するでしょう。当たり前だの、クラッカーや。それに、英霊ってなんですか?。聖戦で亡くなった戦死者の御霊だ、と言われたって、分からない人には、絶対わからないのです。台湾や韓国人たちの日本軍に徴用された人々たちのなかで、英霊になんかなりたくないと思っていた人もいたはずだ。でも、韓国の人も台湾の人も、日本軍に参加した人は、どうしても自動的に靖国神社の英霊にさせられてしまう。死んでまで、拘束されるのは、たまったものではない、と思う人も多いのではないのか。

靖国神社は、もともと、明治維新の維新戦争で亡くなった政府側の兵士を祀る為に作った東京招魂社が、その後靖国神社になった。安国(やすくに)を願って、靖国になったそうです。日清戦争の戦死者から国の戦いで亡くなった人がぞくぞくと祀られた。戦後、日本国憲法で信教の自由が認められた。靖国神社は立派な宗教法人だ。戦後、国の管理から離れたと言うものの、実態は国の管理下にあるように思えるのですが、どうなんでしょう、か。

戦後すぐ、自由主義者石橋湛山、のちの自民党総裁・首相は「怨みを残すが如き記念物」として「靖国神社廃止の議」を書いた。さて、皆さんは、どうですか。