2011年7月31日日曜日

美しいゴール聡明さに興奮

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蓮實重彦 (36年生まれ。東大教授、教養学部長、総長を歴任。著書に「スポーツ批評宣言」など。フローベル作品の評論を来年刊行予定)=鈴木好之撮影

徒然(つれづれ)なるままに、今回のなでしこの活躍で、気分が好くなることばかりの寄せ集めを試みた。協力していただいた皆様には感謝。今日は、曇り、時々雨の日曜日。ハブ あ ナイス デイ、 だ。

ドイツで開かれていた第6回FIFA女子ワールドカップは、20110717(開始は、日本時間18日 03:30)に決勝戦が行なわれ、なでしこジャパンが強豪アメリカ合衆国を前後半1-1、延長戦で2-2、PK戦で、日本がアメリカに勝って初優勝をした。

この試合の興奮が、私の中で未だにくすぶっている。何回も何回も、事あるごとに思い出しては、ニンマリと幸せな気分に浸っている。この幸せな気分は一体どこからくるのだろうか? 日本は先手を取られ、必死に追いかける、耐えてやっと我慢して追いつく、そして再度放され、またまた喰らいつく。最後は、なでしこの名の如く、しなやかに、エレガントに大番狂わせを演じてくれた。世界の人々を震撼させた。サッカー強国のアメリカの国民に悲鳴をあげさせた。

終始アメリカは、王者の誇りを賭けて戦った。戦後、アメリカ選手の口から出るなでしこジャパンに対する賛辞を、涙なしでは聞くに耐えられない。準々決勝でなでしこジャパンに負けた、開催国ドイツも国をあげてなでしこジャパンの初優勝を祝ってくれた。

この試合に感動した最大のインパクトは、先ずは日本が勝ったことは当然のことなのだが、何といっても両チームがフェアなプレーに徹していたことだ。双方のチームの選手同士が、世界一を競うに相応しく、互いに尊敬し合ってプレーしていたことが、観る者にも心地良かった。

大野選手が前線に飛び出した時にオフサイドをとられたことや、試合終了寸前に岩清水がペナルティエリア付近で一発退場のレッドカードを受けても、日本は実に気品高く、審判の判断を受け入れた。私にはこの判断について一家言(いっかげん)の用意はあるが、この場では触れない。男子の試合なら、血気の余り、不用意な振る舞いや言辞でもって、聖なる戦いがつまらないものになり下げることがないことはない。その通り、不幸なことが度々あった。

審判は、多少ジャッジの乱れはあったが、選手とのコミュニケーションはきちんと取っていた。試合の流れをよんでいた。全般に、説得力のある審判だった。

 

☆ ここで、一息つきましょう。

アメリカではこの試合をどのようにテレビ中継されていたのか、興味深いブログを見つけたので、ここに紹介しよう。

テレビ放映中に、解説者がなでしこジャパンについて話していたことを、前参議院議員の田村耕太郎さんが、自分のブログで著しているのを目に留めた。その文章のなかから、なでしこに関わるコメントだけを抽出させていただいた。この解説者は勿論、アメリカのメディアではフェアネスの精神でもって、なでしこジャパンを称賛し続けた。

・大野が前線に飛び出してボールを受けたプレーが、審判からオフサイドの反則を取られたことについて、「なんてことでしょう。大野は完全なオンサイドだった。これはあり得ない審判のミスだ、審判は試合を止めるべきではなかった」。

・日本人として一方的に攻め込まれているシーンでも、「日本守備陣の最後のプレッシヤーがアメリカ攻撃陣の詰めの正確性を脅かしている」。

・「後半は日本の時間では日の出の時間となる。後半は日の出る国が上がってくる」。

・鮫島選手が元東電所属であることを紹介し、「彼女は練習どころではなかったはずだ。しかし今、祖国復興の希望を背負い懸命にプレーしている」。

・宮間の同点弾で1-1、テレビの解説者は傷心のためか、一瞬言葉を失うが、、、「最後まであきらめない素晴らしいゴールだ。誰がこんな素晴らしい脚本を書いたのか」。

・「5月の親善試合では、アメリカはノースカロライナで日本に2連勝した。しかし、今の日本は全く違うチームに進化した。5月の日本代表はまだ震災のショックを引きずっていたようだ。今や、震災に苦しむ日本を勇気づけられるチームに成長した」。

・日本の勝利が決まると、「震災に苦しむ国に、いい知らせをもたらすために奮闘した日本女子代表のファイティングスピリットにはアメリカは勝てなかった」。

・「日本チームは技術があり、チームワークにすぐれ何より気品にあふれていた。大会を通じて、最もスペクトされてきたチームだ。オメデトウ、ジャパン」。

ーーーさすがに、この解説については、翌日の18日付けのニューヨークタイムズ紙では「キャスターや解説はどちらの味方だったのかわからない」と批判っぽい論説を喰らったらしい。 

 

アパートで、準々決勝のドイツ戦、準決勝のスウェーデン戦、そして決勝戦を、それに関連したニュースも含めて、You-Tubeの動画ニュースで繰り返し観ては楽しんでいる。

未整理の新聞のスクッラプを整理しなくちゃイカン、なんて思いながら、知らず知らずのうちに、スクラップ記事を、夜の更けるのを気づかずに読み直しているのです。

朝日新聞の記者が二人の学者から、今回のなでしこジャパンのW杯優勝について、聴取したものが文章化されていた。一人は東大教授の姜 尚中(カン サンジュン)さんともう一人は元東大総長の蓮實(はすみ)重彦さんのものだった。姜さんのは、「ナショナリズムと無縁の感動」と題したもので、この方にも感心させられた部分が多々あったが、今回は、蓮實氏分を拝借することにした。読み直した後も気になって、このような文章は、やはりマイファイルにしておきたくなった。

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20110726 朝日朝刊

耕論 

2011年のフットボール (オピニオン)

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決勝戦で私が引きつけられたのは、米国のミッドフィールダー、ラピノーの動きでした。彼女が自陣から前線に上げた長い縦パスにモーガンが素早く反応し、熊谷をかわして先制点を決めた。この意表をついたボールの動きに、「そうか、こんなゴールを見たかったのだ!」と、思わず興奮しました。あのボールの動きの美しさをどうか思い出していただきたい。あれこそがサッカーの爽快さです。

それに比べると、日本の得点は美しくなかった。1点目は宮間がここしかないという場所に走りこみ、敵の混乱を突いてボールを冷静に流し込みました。「この選手はただ者ではない」と驚嘆したが、爽快さは感じられませんでした。

沢の2点目も、流れるような動きの中でのゴールではなかった。何度も練習した宮間とのサインプレーでしょうが、それを決勝戦で決めた沢はさすがというほかありません。しかし、言葉は悪いかも知れませんが、どさくさ紛れの1点みたいな感じで、二度と起きない軌跡でしょう。

 

他国に思いはせ

私は、4対2ぐらいで米国が勝てた試合だったと思っています。逆説的ですが、途中出場の多かったラピノーをあえて先発させたことが、米国の敗因のような気がします。ラピノーはパスの出し手として、今大会で無類の才能を発揮していました。米国が、日本のパスサッカーを潰す刺客として彼女を送り込んだのです。当初はそれが機能して、日本は何度も攻め込まれましたが米国のシュートはバーやポストにはじかれた。序盤で試合を決めようと焦ったことで、かえってリズムを崩してしまったのです。PK戦での勝敗は、アクシデントのようなもの。日本が勝った試合と言うより、米国が自滅した試合でした。

一方、日本代表は今大会のどこかで「負ける気がしない」という思い込みを共有したのではないでしょうか。それは紛れもなく沢と宮間の力です。本来なら悲壮感が漂うはずの岩清水レッドカード一発退場が、妙に明るくチームを落ち着かせたのもそのためでしょう。ただ、日本代表が突出した強さを持っていたわけではなく、優勝は出来過ぎだと思います。

国を挙げて喜ぶのはいい。だが、W杯を「日本の優勝」とだけ捉えると、国際的なイベントが国内問題にすり替わってしまう。参加国の中には北朝鮮も赤道ギニアもいました。仮に彼女らと当たったらどんな戦いになったか。他の国々の選手たちはどんな動きをしたか。そこに思いを致した方が、私たちの世界は豊かさを増すのではないでしょうか。

 

騒ぎすぎないで

ここで声を大にして言いたいのは「騒ぎすぎて、彼女らをつぶしてはいけない」ということです。来年はオリンピックを控えているのだから、内外の所属チームに戻って、プレーの質を高めることに専念させるべきなのです。

私がサッカーを見るのは、選手たちの思いがけない動きに驚き、爽快感を覚えたいからです。準々決勝のドイツ戦での丸山のゴールにはしびれました。沢の浮かせたパスを追ってあの勢いで走り込み、難しい角度から右足でゴール左すみに蹴りこむ。誰もが「ああいう形で点を取りたい」と夢見ていながら男子でも失敗するプレーを、あの舞台で実現させた丸山の動きの聡明さには驚きました。

私はNHKで解説をしていた川上直子さんが日本代表だった頃、ちょんまげのように結った髪を揺らして右サイドを駆け上がっていく姿にひかれて女子サッカーを見るようになりました。現代表の川澄のひたむきな走りも、それに劣らぬ魅力です。男子と比べてスピードやパワーは劣りますが、男子の極端なラフプレーやつぶし合いに見られるような悲惨さはありません。「ボールを相手に与えず味方に預け続けることで、見る者を驚かす」というサッカーの理想型は、むしろ女子の方に残っているのではないでしょうか。

敵味方を問わず彼女たちの動きの美しさを味わって欲しい。勝利の瞬間に歓喜の輪に加わらずに、米国選手たちと健闘をたたえ合った宮間の謙虚さにふさわしく、スポーツを語らねばなりません。

私が日本選手で一番期待しているのは決勝戦の終盤、残り数分で出場した18歳の岩淵です。彼女はたぶん、「自分が世界で一番ドリブルがうまいのだから、相手が自分からボールを奪おうとすればファウルするしかない」と思い込んでプレーしている。その自信にあふれた動きを見ているのは、何ともすがすがしい体験です。沢は人間として最高レベルの選手ですが、岩淵には人間を超えた、動物めいたものを感じる。日本代表の弱点は自信あふれるストライカーの不在ですが、彼女はそうなる可能性を秘めている。

(聞き手・太田啓之 金重秀幸)

2011年7月28日木曜日

世界最強のでたらめ国家だ

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(高速鉄道が脱線し落下した事故現場。一夜明け、地上では重機で車両(右下)を埋める作業が続いた=24日、中国浙江省温州、樫山晃生撮影 20119725朝日新聞朝刊1面)

 

さすが、中華人民共和国は世界最強のでたらめ国家だ。

細心の注意を払い、用心に用心を重ねていても、種類は違えど、悲惨な事故に遭うことはある。歴史は、二度とそんな惨事を起さぬように、克服する努力の積み上げだ。今回の中国の高速鉄道事故に関しては、やはりと言うか、やっぱりと言うか、そのように実感した人が多いようだ。彼らは、何かが抜けている、何かが欠けていると感じていたのだろう。後々の災禍を予感していたのだ。

この事故に対応する中国鉄道省の処理が、今までの我々の常識では考えられない。

事故から一夜明けた24日早朝から、追突したと思われる先頭の車両の計器類が詰まっている運転席部分を破壊して、その残骸を廃棄物のように、近くの野菜畑にシャベルカー7台で穴をあけて埋めてしまった。友人から聞いた話だが、落下した車両には遺体と思われるのが、まだ処理されてもいないのに、急ぐあまり重機で車両を引きずっていたらしい。早く隠したかったのだろう。又、死傷者を全員保護したと政府の発表があってから12時間後に子どもが救出された。遺体が入ったまま、車両を埋めたとも地元で流布されたようだが、そんなことだって、あり得るのではないかと思う。

日本が半世紀かけて作り上げたものを、ほんの数年で、施設や車両、安全装置などを整え、運行できるまでになった。外国からの技術導入に頼った部分が大半だが、日本らが長年に亘って磨き上げてきたモノと、同等のモノを短期間に作り上げるには相当無理があったのだろう。日本からは、車両と運行管理、信号の3点をセットにしての売込みだったようだが、中国側はそれを受け入れなかった。この大事故以外にも、各所で、不具合、混乱が頻発していると聞く。

この車両を埋めている作業が報道され、政府は猛烈に批判を受けた。我々の常識では、原因が完全に究明されるまでは、事故を起こした車両は保存しておくものだ。

その批判に応えるかのように、今度は掘り起こしたのである。埋める際に破壊したのだから、掘り起こされたものは、ただのクズ鉄にすぎない。何をこのクズ鉄から調べようとするのだろう。こんな馬鹿げたことを本気でやる、というのが怖いのだ。バカでもアホでもない、本気で狂っているのだ。

事故から1日半後、事故原因の正式な発表もないまま、事故現場を高速鉄道は走り出した。兎に角やることが早い。

こりゃ、無茶苦茶や。

どこの誰が、このような指示を発するのだろうか。今でこそ外国の報道関係者でも規制は受けるが取材できるようになった。以前は、取材はさせないで、国(共産党)のやりたい放題だったのだろう。自国に都合の悪いことは隠す。今回は、事故に遭遇した乗客がマイクロブログに書き込んだことで、事故が明るみに出る発端になったそうだ。

今朝20110728の新聞では、中国では怒りを隠さぬ市民が、ツイッターやミニブログで政府の事故対応を批判している様子や、デモが行われたが、抗議に理解を示す警官たちはデモを阻止することもなかった、むしろ市民に同情的だった、と報じていた。

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これからは、20110725の朝日新聞の朝刊1面の記事そのものです。

中国浙江省(せっこうしょう)温州市で23日夜に起きた高速鉄道の脱線事故は、落雷による停電で緊急停止していた同省杭州発福建省福州行き高速鉄道D3115号に北京南発・福州行きのD301号が追突した事故だった。合計千数百人とみられる乗客のうち、外国籍2人を含む43人が死亡。(山岡追加=その後の報道では、死者は増えているそうだ。)

国家の威信をかけて建設し、最高速度や営業距離で世界一を誇る高速鉄道で多数の死傷者を出す事故となり、共産党政権に衝撃を与えている。胡錦濤国家主席は24日、調査と被害者の慰問のため、張徳得副主席を現地に派遣。上海鉄路局長ら3人の幹部を免職した。

事故原因について、中国鉄道省「落雷が設備故障を引き起こした」と説明し、詳細は「調査分析中」と述べるにとどめた。

中国の高速鉄道車両は日本の新幹線のほか、独仏、カナダから技術を購入、国内で製造している。停車車両はカナダから技術を導入した「CRH1」、追突したのは日本の東北新幹線はやてをベースにした「CRH2」型とみられる。いずれも最高速度250キロ仕様で、北京ー上海などを走る同350キロ仕様の車両とは異なる。落下した車両はすべて追突した列車だった。

中国は2005年、在来線の高速化を含む高速鉄道網の建設に着手し、07年に上海ー杭州線などから開業。日本の新幹線網の約4倍にあたる9千キロ以上の路線網を築いた。

2011年7月24日日曜日

やった!! なでしこ世界一

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(撮影=上田潤)

 

0110718日は「海の日」で、休日だ。

そんなことよりも、今日の未明は、女子サッカーワールドカップ(W杯)の決勝戦なのだ。天下分け目の日米合戦だ、強敵を次から次と倒してきた日本女子代表・なでしこジャパンが決勝戦に残って、その相手は最強のアメリカだ。なでしこの檜舞台。開始時間は未明、と言われているが、ひと寝入りした人にも、3時半は早朝ではなく、あくまでも未明なのだ。私の体内時計では朝だ。

私の今住んでいるアパートにはテレビがなくて、前前日、次女に電話で、早朝勝手にテレビを観たいと相談したら、家の玄関は解錠しておく、テレビのリモコンはスウィッチをオンにさえすれば映るようにしておくからと快諾を得た。

そして、問題の未明、3時半、次女宅のテレビの前に一人で陣取った。

大きいアメリカ人と比べると、どうしても日本人は華奢に見える。そんな両国の選手が握手を交わしていた。審判団は、やはり日本人よりもひと際大きいドイツ人女性だ。主審の女性は2メートルもあろうかと思われるほど背が高い。でも、表情が豊かで笑顔がとても素晴らしい人だ。

試合の内容は後の方の新聞記事を読んでもらえばいいが、私が感動したのは、その戦いぶりが、双方ともにフェアープレーに徹していたことと、審判の手際が好かったことだ。選手の意気を大いに理解した裁き。試合の流れを止めることもなく、選手とのコミュニケーションを取りながらの上手な審判だった。選手同士も実に相手を尊敬し合っていた。そのことを、マスコミが余り話題にしなかったが、私には、強い感動をもたらした。勝った日本は勿論だが、負けたアメリカもよく最後の最後まで今までの覇者らしく戦った。

試合内容は、嗚呼(ああ)!!やっぱり、、、、、、、いやいや、まだまだ、そんなことはない、、、、、えっ、まさか、、、、やっぱり、なあ、、、、、ええ、まさかのまさか、、か、、、、こんなように展開して、最終的にはPK戦突入。後のことはもうみんな周知の結果だ。

延長後半、2-1から2-2にに追いついた沢の右アウトサイドキックのシュートは、宮間のCKから生まれたのだが、このCKの前にはアメリカのキーパーと日本の選手がペナルティエリアライン付近で混戦、キーパーが足を怪我した。その怪我を癒すために、アメリカは時間を十分にとって対処していた。アメリカにとっては、残り少ない時間を、このまま終了すればいいわけで、時間をかけて処した。お陰で、その間、宮間と沢は作戦の時間を得ることができた。私はニアーに走り込むサカイに、ちゃんと蹴ってや(沢)、任せて合点、先輩一発で入れてくださいね(宮間)、と二人はこんな?関西弁ではなかっただろうが、 打ち合わせをしたそうなのだ。

それで、ドン、ピシャリ。同点弾がネットを揺らした。

PK戦を前にして、円陣を組んだなでしこらは、監督を真ん中にして笑いが起こっている。PKの蹴る順番を決めているときに、沢が一番を指名されて、嫌だ、と言って皆がドッと笑い出したようだ。これは不確かな情報だ。この笑いは、余裕なのか、ここまでの戦いの満足感なのか、私には凄く奇妙に思われたが、何故か、涙が止まらなかった。監督と選手らが、PK戦を前に笑っている、、、これって、やっぱり不思議な光景だった。

PKが始まる前に、この勝負、私は勝ったと思った。日本の誰もがそう思っただろう。

この緊張シマクラ千代子の極致に、この落ち着きぶりは何だ? 監督の試合後のコメントでは、ここまで来たのだから、PKは運に任せる、天が決めるものだ、ということだったようだ。選手は笑顔でPK戦に向かった。アメリカのチームの面々からは悲壮感のようなものを感じた。男子の元日本代表監督のオシム(惜しむ)氏は、自ら指揮を執った試合でさえ、PK戦は見ずに一人早々にロッカーに引き揚げた。

このなでしこジャパンの優勝は、世界のマスコミが一斉に称賛した。その記事内容をインターネットで得たので、此処に記す。

フランス・ルモンド紙=プレーの正確さや粘り強さを称賛するとともに、東日本大震災を克服しようとする「何か大きな力」(米、ゴールキーパー・ソロ)が勝利を呼び込んだとの見方を伝えた。

フランクフルト・アルゲマイネ紙=「今大会で最も粘り強いチームの組織力の勝利」と讃えた。

イギリス・ガーディアン=3月の地震と津波ではいまだに動揺している国民に、心の安らぎを与えるという偉大な目標に日本チームは常に動かされていた。米FWワンバックも「米国以上に日本は、チームが勝つことを必要としていた。彼女らは決してあきらめなかった」と話した。

南ドイツ新聞=鋭い縦パスでチャンスを作り出した攻撃を「すし職人の包丁さばきのようにピッチを鋭く切り裂いた」と称賛した。

中国・国営新華社=疲れをしらない走りと2度追いついた強靭な精神は、女子サッカーの斬新なイメージを打ち立てアジアの地位を高めた。なでしこは世界のサッカーの歴史を書き換えると同時に、中国チームの灯台にもなっている。パワーチームを相次いで破り、テクニックスタイルのチームとして初の優勝を果たした。美しいサッカーと美しい奇跡は東日本大震災で被災した民族に自信をもたらすだろう。

 この前の春、私がサッカー部に在籍していた大学の女子部が、大学選手権で優勝した。その決勝戦を観戦に行った時に会った、大学時代の同期生に、ヤマオカなあ、なでしこジャパンにも、このチームはいい戦いをするんだよ、それに驚くことに、高校生のチームだって、この大学のチームを苦しめるんだよ、だから、女子は今後相当伸びるよ、これから10年は成長する一方だよ、このように言っていたのを今、ここで思い出した。

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20110719の朝日新聞・朝刊から、なでしこ関連記事をそのまま転載させてもらった。写真も拝借した。これは、どんなことをしてもマイフアイルしておかなくてはイカンと思ったのだ。この快挙は日本のサッカー史上重要なエポックだ。

朝日新聞の社主殿、私は、50年以上の熱烈な朝日新聞の読者です。

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1面

なでしこ世界一

不遇に耐え、はい上がる

日本女子代表は多くがアマ選手だ。昼間働いて夕方から練習に打ち込む。

携帯電話やパソコンに使われる絶縁材料などの製造工場。クリーンルームではほこりを取って製造ラインに入る。朝8時半から夕方4時半まで精密製品を容器に詰める。全6試合に先発したMF阪口夢穂(みずほ)(アルビレックス新潟)の姿だ。

このパート勤務が阪口の生活を支える。かって企業チームのTASAKIででプレーしていた。だが、不況で休部に。米国に渡った後、昨年1月、新潟に移籍した。今の職場は、選手の受け入れ企業を探すチームが確保した。

守備陣を束ねたDF岩清水梓(日テレ・ベレーザ)は、都心で働き、列車とバスを乗り継いで1時間半ほどかけ、練習場に駆けつける。

国内女子最高峰のなでしこリーグ事務局によると、選手約220人中、サッカーだけで生活が成り立つ「プロ」は1割ほど。年間を通じて使えるグラウンドを持たないチームもある。時にシャワーがない施設で練習し、水道で顔を洗って選手は家路に就く。プロ契約している沢穂希や大野忍(いずれもINAC神戸)とて、ユニホームは自宅で洗濯している。

日本女子代表が初めて編成されてから30年。アルバイトをする選手が多い状況は変わらない。だからこそ、ある想いが選手たちを奮い立たせてきた。「勝てば注目される。勝てば環境も変わる」。1984~96年に代表の主力を担った野田朱美さん(日テレ監督)は「昔から、自分のためだけにプレーする選手は代表にいない。女子サッカーそのものの価値を高めるために戦うから最後まで走り続けられる」と話す。

男子に比べ不遇なのは海外も似ている。日本が準々決勝で初めて勝ったドイツのリーグもプロは約半数に過ぎない。年1千万以上を稼ぐ選手はわずか。ただ、施設などの環境面は恵まれている。そして、決勝の激闘を演じた米国には二つの女子プロリーグがあり、受け皿が大きい。

かって遊園地でアルバイトをしていた大野は、「台風が来てもレインコートを着て働いた。代表に選ばれると好きなサッカーに集中できるし、食事も充実している。2人部屋なんか、まったく苦にならない」と話した。

ひたむきさとサッカーができる喜びに満ちたなでしこが、男子より先に優勝トロフィーにたどり着いた。

 

沢、MVPと得点王

サッカーの女子ワールドカップ(W杯)は、決勝が17日(日本時間18日未明)にドイツ・フランクフルトで行われ、日本代表なでしこジャパン(世界ランク4位)が延長戦を2-2で終え〟後のPK戦の末に米国代表(同1位)を破り、初優勝を果たした。日本が国際サッカー連盟主催の大会で優勝するのは、男女のあらゆる年代で初めて。日本の主将MF沢穂希(ほまれ)が大会の最優秀選手に輝き、5ゴールで得点王も獲得した。

(フランクフルト=河野正樹)

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天声人語

「最後まであきらめない」。祝日の早朝、そんなメッセージがフランクフルトから届いた。サッカーの女子ワールドカップ決勝。なでしこジャパンは米国に2度追いつき、PK戦を制した。今の日本にすれば、あらゆる政治の言葉より意味がある世界一だ。

押しに押され、ゴール枠の「好守備」に再三救われた。しかし、残り3分、頼れる沢主将がすべてを元に戻した。宮間選手のコーナーキックに飛び込み、示し合わせたような右足一発、居合い抜きを思わせる美技だった。

この同点弾で、なでしこの至宝は大会の得点女王と最優秀選手に。前言通り、「人生最高の試合」にしてみせた。仲間の粘りを勝利につなげた守護神、海堀選手の神業にもしびれた。

米国の女子サッカーは国技に近い存在らしい。女の子の3割が習い事でたしなみ、人気選手はCMにも出る。「女子は男女同権の国ほど強い」(W杯米国大会プログラム)。そうした誇りと期待を、代表の面々は担う。

かたや日本は、代表チームができて30年。ルールは男女同一に、競技人口は10倍以上になったが、主力選手の多くが働きながら練習している。凱旋の旅もエコノミークラスと聞いた。世界一の次は実力にふさわしい環境だろう。

早起きを3回しただけの素人にも魅力は分かる。俺が俺がのプレー、汚い反則や抗議がなく、ボール回しを楽しめた。なでしこは国を励まし、世界を驚かせ、この団体球技の面白さを教えてくれた。雑草の根っこを持つ大輪たちに感謝したい。

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2面

日本女子強化実る

男子に交じり育成/海外で修業

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日本で初の女子サッカークラブが誕生してから45年。そして、日本女子代表が初めて編成されてから30年。なでしこジャパンが17日(現地)の女子W杯決勝で、世界の頂点に上り詰めた。どのように強化を進め、海外の強豪に立ち向かったのか。今回の快挙で、人気低迷や不況による企業チームの撤退などの負の歴史は変わるのか。

体格に恵まれた選手を配置し、個人の能力に頼るスタイルが主流だった世界の女子サッカー界にあって、日本男子同様、俊敏性と技術の正確さという「日本人らしさ」を生かしたパスサッカーを追求してきた。

日本は小学生の女子単独チームが少なく、70%は男子に交じって技を磨いているという。「男子と連係して育成年代からの強化を進めているのが日本の特徴」と日本サッカー協会の上田栄治・女子委員長。男子の厳しいプレッシャーの中でプレーすることが技術の向上につながってきた。

代表チームについては、2002年に始まった20歳以下(U20)女子W杯、08年からスタートしたU17W杯に照準を合わせて若い年代を育成。狙い通り、10年のU20W杯で主将を務めたDF熊谷紗希(浦和レディース)や、08年U17W杯で最優秀選手に輝いたFW岩渕真奈(日テレ・ベレーザ)が優勝に貢献した。

指導者育成にも力を入れてきた。01年には47都道府県で「ウーマンズカレッジ」と題し、女子チームを対象とした講習会を開催。パスサッカーに必要な技術の浸透を図った。「00年のシドニー五輪出場権を逃し、女子サッカーの勢いが落ちた。それを押し上げるために指導者育成は不可欠だった」と上田委員長は振り返る。

なでしこリーグ幹部によると、ライバルが多く競争意識の強い男子チームの指導者と異なり、女子チームの指導者は横のつながりが密だったことも幸いしたという。日本協会の技術委員会が年数回にわたって世界の動向と育成方針を示すなど、指導ノウハウの情報交換がすすみ、選手のレベル向上に大きくつながった。

「海外でプレーする選手が増え、好成績につながった」とみるのは、川渕三郎・日本協会名誉会長だ。海外進出を後押しするため、日本協会は昨年から海外強化指定選手制度を開始。米国などトップレベルのリーグに移籍する選手に対し、支度金20万円、滞在費1日1万円を補助する制度だ。

今はドイツでプレーするFW永里優季(ポツダム)、FW安藤梢(デュイスブルク)、フランスに拠点を置くMF宇津木瑠美(モンペリエ)が指定選手になっている。MFの沢穂希(神戸)、宮間あや(岡山湯郷)も米国でプレーしていた際には指定を受けていた。「日常的に海外の選手との体力差などを感じることが、国際大会で生きてくる」と上田委員長は話す。

 

リーグ人気「直結せず」

日本で女子サッカーに注目が集まったのは、1996年のアトランタ五輪で正式種目に採用されてからだ。93年のJリーグ発足によるサッカー人気の急上昇も後押しした。宣伝効果を狙った企業が女子リーグ(現なでしこリーグ)のチームを抱え、外国人選手も積極的に補強した。

しかし、バブル崩壊後長引く不況の影響でJリーグの横浜フリューゲルスが吸収合併されるなどサッカー界全体が地盤沈下。女子でも98年にはリーグ3連覇を果たした日興証券と、フジタが撤退を発表。99年の開幕前にはシロキ、鈴与清水が撤退を表明した。

2000年にシドニー五輪出場を逃し、人気の低迷に拍車がかかる。04年アテネ五輪で8強、08年北京五輪で4強入りしても状況は好転せず、北京五輪後には代表選手を多く抱えていた田崎真珠も撤退した。

FW大野忍(INAC神戸)は不況の影響を受けた一人だ。プロ契約していた日テレ・ベレーザが、運営会社の経営難で10年をもってプロ選手を保持しない方針に転換。大野はサッカーに集中できる環境を求めて神戸に移籍した。「女子サッカーはいつも、その時の経済状況にほんろうされているなと感じる」と話す。

今季のなでしこリーグの1試合平均の観客数は800人弱。今回のW杯優勝でリーグはかっての活気を取り戻せるか。

「CM好感度調査」などで知られるCM総合研究所は「1兆円規模の経済効果があったのではないか」とみる。米国やドイツなど主要国で感心が高く、報道が多くなされたためだ。優勝メンバーへのCM出演依頼も増えてくると予想する。

ただ、なでしこリーグのあるスポンサー企業は「プロ選手が次々に生まれるほどリーグが興行的に安定するかは楽観できない」と見る。スポーツ経営に詳しい原田宗彦・早大スポーツ科学学術院教授は「ブランド力が増したのは『なでしこ』そのもので、リーグのチームではない。リーグが『なでしこブランド』を管理してビジネスにつなげ、クラブ・選手に還元する知恵が必要だ」と指摘する。

広瀬一郎・多摩大教授(スポーツビジネス論)は「リーグの苦境は日本企業の業務低迷によるもの。W杯優勝で改善するわけではない」とする一方、「これだけのことを成し遂げた選手がスポーツで食べて生きづらい。今年成立したスポーツ基本法は、スポーツ振興を国の責務と明記しており、政府がこうした現状を取り上げ、対策を進めることも考えられる」と指摘する。

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ひと

サッカー女子W杯で初優勝した日本代表監督

佐々木則夫さん(53)

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「のりさん」。選手もスタッフも親しみを込めてこう呼ぶ。

綾小路きみまろさんの漫談をこよなく愛し、試合前ミーティングでは「必ず笑いを入れる」。選手がどんなに引こうと、おやじギャルを恥ずかしげもなく連発。選手との距離は自然と近づく。

現役時代は東京・帝京高から明大に進み、Jリーグ創設前の日本リーグ・NTT関東(現J1大宮アルディージャ)でプレーした。2006年に日本女子代表コーチに就任し、07年から監督に。

おおらかさと、人当たりの良さで選手が本音を出せる雰囲気を作る。「選手にも腰が低く、決して上から目線でやらない」と関係者は評する。今回のチームも、ベテラン沢穂希と良好な関係を築き、気持ちよくプレーさせた。

控え選手にも先発と同じくらい気を使う。先発組みが軽めの調整となる試合翌日の練習は「100%控え組みを見ている」。ちょっとしたしぐさも見逃さない。ドイツとの準々決勝は途中出場の丸山枝里奈が決勝点、準決勝のスウェーデン戦では初先発の川澄奈穂美が2得点、控え選手が抜擢に応えた。

決勝のPK戦直前、「米国は勝ったと思っていたらPK。うちはぎりぎりで追いついてもうけもん。楽に行け」と笑いながら選手を送り出した。「粘り強くやってくれた」。いつものように選手をたたえた。

(文・河野正樹 写真・上田潤)

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社説

なでしこ世界一

伸びやかさを力に

朝まで続いた熱戦に釘付けになった人も多かったろう。サッカー日本女子代表チーム(なでしこジャパン)がドイツで22日間にわたって開かれた女子ワールドカップで頂点に立った。

サッカーでは男女、年齢別の大会を通じても初の世界一だ。女子スポーツの中でも難しいといわれる団体球技では、五輪と世界選手権で優勝したバレー、ソフトボールに次ぐ快挙。回転レシーブなど独自の技術を編み出して体格差を克服し、「東洋の魔女」と世界から称賛された東京五輪の女子バレーを思い起こされる活躍ぶりだ。

印象深いのは、男子とは違う、その伸びやかな戦いぶりだ。相手の猛攻にひたすら耐えるだけではない。肩に無駄な力を入れず、結果を恐れず、素早いパス回しとセットプレーという武器を存分に生かした。

決勝で世界ランク1位の米国に2度のリードを許した時間帯も、重圧との戦いでもあるPK戦も、恵まれない環境でサッカーを続けてきた日々を思えば、さほど苦しくなかったのかもしれない。PK戦前の円陣には笑顔すらあった。悲壮感や根性論とは無縁の、スポーツの原点である「プレ-する喜び」が彼女たちの全身からあふれていた。

そんな姿に日本中が熱狂したのは、大震災以降の重苦しさのなかで、人々がなでしこの快進撃に希望や期待を重ね合わせたからだろう。一瞬でも苦しさを忘れ、勇気を与えられた人は、多かったに違いない。

今大会は女子スポーツ大会の発展という意味でも節目になりそうだ。女子サッカーの歴史をひもとけば、北欧や北米などリベラルな先進国を中心に広がってきた。そこに南米やアフリカ勢が台頭し、世界のレベルは着実に上がっている。

中でも、体力任せの大味な競技スタイルだった世界の潮流に、技術という要素を加えたことは日本の大きな貢献だ。体格やスピードの差から、男子に比べ面白さに欠けると見られがちな女子スポーツだが、力と技の組み合わせで競技の魅力はまだまだ高まるはずだ。

1試合平均約2万6千400人という観客動員数もこのことを裏付けている。女性のスポーツの興業面での将来的な可能性も示したのではないか。

世界から追われる立場になったなでしこは、9月にはロンドン五輪予選を迎える。周囲の期待はいや増すばかり。ときに重圧となるかもしれない。それでもドイツで見せた伸びやかさを失うことなく、再び世界にチャレンジして欲しい。

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22面

強敵の壁破った

常にV争いできる強化策が必要

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(延長後半12分 宮間のCKに合わせて同点ゴールを決める沢選手=FIFA/ゲッティ)

 

決勝で先発した平均年齢は米国の28.54に対し、日本は25.54。20歳の熊谷、23歳の阪口、途中出場した18歳の岩淵を含め、世代交代が順調に進んでいることをうかがわせる。それぞれ2002年と08年に始まった20歳以下と17歳以下の女子W杯を先取りして育成に取り組んできた成果だ。

ただ、このアドバンテージに頼っていられない現実もW杯は示した。大会を視察した19歳以下代表の本田コーチによると、ナイジェリアは弱点の組織力を伸ばし、フランスは技術分析班を送り込んで本格的な強化への意気込みを感じさせたという。これら新興国を中心に世界的な底上げは急で、「フル代表だけに絞った強化策を各国が見直せば、その差は一気に縮まりかねない」と危機感を募らせる。W杯よりも五輪を重視する世界的な傾向を考えれば、9月に始まるロンドン五輪最終予選もそう簡単ではないだろう。

W杯後もなでしこの欧米移籍は続きそうだ。それは国内でプレーする環境の貧しさと、トップ選手の強化を海外に依存せざるを得ない裏返しでもある。世界女王に就いた努力に報いるなら、一時的な勝利ボーナスの増額などではなく、W杯、五輪で毎回のように優勝争いをするような息の長い強化策だろう。選手たちもそれが一番の望みに違いない。

(編集委員)

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(米国・ボックスのPKを足でセーブする海掘選手=AP)

 

米「心が痛い」

米国は2度にわたってリードし、再三チャンスも作った。ところが、日本の14本を上回る27本のシュートを打ちながら、、枠内シュートは日本の6本よりも少ないわずか5本。たたみこむことができなかった。

この日の得点で4試合で4試合連続得点と、ワンバックは代表で120点以上を奪っている実力を見せたが、「優勝するのは簡単ではないと分かっていたが、心が痛い」と肩を落とした。

日本、自信持っていた

米国・スンダーゲ監督=「前半は私たちが試合を支配し、チャンスを作っていたが、日本の選手は自信を持ってプレーしていた。残念だが、女子サッカーの将来に希望が持てるような試合だった」

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23面

猛攻耐え新女王

なでしこ成長 2度の同点劇

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(後半36分 米国・クリーガーをかわして左足で同点ゴールを決める宮間=AP)

 

サッカーの女子ワールドカップ(W杯)で、日本女子代表(なでしこジャパン)は17日、悲願の初優勝を果たした。

これまでW杯、五輪を通じて日本女子の最高成績は2008年北京五輪の4位だった。若い年代の大会では、昨年にトリニダードで行われた17歳以下(U17)女子W杯で準優勝した。

 

オーレ

PK勝ちといえ、日本はついに世界ランク1位の分厚い壁を突き破った。

過去の対戦成績は、21敗3分け。その上、米国は前半からエンジン全開で攻めてきた。

両サイドをスピードあるドリブルで切り崩すMFオライリー、MFラピノーに、中央でどんと待ち構える181センチのFWワンバック。何度も守勢に回り、MF阪口は「めちゃくちゃしんどかった」と振り返る。

だが、ドイツの猛攻に遭いながら無失点で抑えた準々決勝、スウエーデンに逆転勝ちした準決勝の厳しい経験が生きる。前半15分を過ぎると、耐えたことで落ち着きを取り戻し、日本らしいパスが回り始めた。

後半24分に先制を許したが、「米国が点を取るとパタリととまる」(佐々木監督)という分析通り、同36分にMF宮間の得点で同点。延長前半に再びリードを許すものの、宮間のCKからMF沢が直接右足であわせ、追いついた。

これまでならリードを許し、焦ってもおかしくなかった。「若い選手がすごく伸び伸びしていたし、点を取られても取り返せるという自信も、雰囲気もチームにあった」と沢は成長を感じていた。

PK戦は、時の運という言葉があるかもしれない。それでも、米国の猛攻に耐えてつかんだW杯優勝という結果は揺るぐことはない。

(河野正樹)

 

司令塔・宮間、絶妙CK

MF宮間が1得点1アシストの活躍だった。後半36分、右サイドからのFW永里のクロスのこぼれ球を見逃さなかった。左サイドからゴール前に駆け込み、すっと押し込む。「チャンスはある。いつも通りの動きだった」と振り返った。得意のセットプレーが出たのは延長後半12分。右足で蹴ったCKは沢にぴたりと合い同点。日本の危機を救った。

司令塔にして気遣いの人。そんな言葉がよく似合う。佐々木監督は「キャプテンが沢なら宮間は番頭役」と評する。昨年のアジア大会では沢の代わりにキャプテンマークをまいた。「沢に何かがあった時のため」と監督。宮間が次代を背負う存在だとみるからだ。

日々の練習から、スタッフに交じって球拾いをしたり、声を出して若い選手にアドバイスしたり。チームを引っ張る気概はある。

「PKは運なので、米国の選手に失礼だから」。PK戦で勝っても大喜びしなかった。実に宮間らしい。

(河野正樹)

 

日本の強さ見せた/勇気を与えられたなら/負ける気しなかった

佐々木監督=「自分たちのサッカーができない中で、耐えて耐えてW杯を手にしたという感じだ。選手にありがとうと言いたい」

安藤=「優勝を目指していたけれど、信じられない。日本のサッカーを見せつけることができた」

鮫島=活動休止の東電でプレーしていた。「震災後、初めての世界大会。優勝できて少しでも勇気を与えられたなら良かった」

岩清水=試合終了直前に反則で一発退場。「仲間を信じていた。PK戦ではGKが止めても泣く。入れても泣く。ずっと泣いていた」

川澄=「今日は本当に負ける気がしなかった。でも、できすぎです。漫画か映画しかないですね。こんな勝ち方」

永里=先発を準決勝、決勝で奪われ、「自分なりに挑んで苦しんだが、すばらしい経験になった」

ザッケローニ・日本代表監督=「歴史的快挙に最大限の称賛を送りたい。アジア大会での男女優勝、(男子の)アジア杯優勝、そして、女子W杯優勝は日本サッカーのすべてが成長していることを証明している」

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38面

「フクシマの年の伝説」 海外紙絶賛

なでしこジャパンの優勝は、世界の多くのメデイアも相次いで速報し、日本の粘り強さを詳報で伝えた。

敗れた米国。ニューヨーク・タイムズ紙は「フクシマの年の日本の伝説」と評価し、USAトゥデー紙は「この勝利は、地震と津波の被害から復興する国にプライドを与えた」と位置づけた。MVPの沢穂希選手が在籍したチームがあるジョージア州アトランタの地元紙も「ファンら、テレビに釘づけ」という見出しで大きく報じた。試合中からツイッターに感想を投稿していたオバマ大統領は決勝後、「日本、おめでとう」と勝利をたたえた。

中国国営の新華社通信は「日本の奇跡が世界を制した」と題した記事を配信。「(東日本大震災による)地震と津波、放射能に苦しむ民族に、比類なき自信を与えるだろう」と絶賛した。

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32面

沢疾走誉れの金

後輩を先導「諦めず戦い抜いた」

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〈延長後半12分 同点ゴールを決め、喜んで走り出す沢選手=AP)

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(AFP時事)

 

「すごく長い道のり。やり続けてよかった」。サッカーの女子ワールドカップ(W杯)で初優勝した「なでしこジャパン」の主将、沢穂希(ほまれ)選手(32)は最高の笑顔を見せた。

準決勝でスウェーデンを破った後、沢選手は宿舎で他の選手に興奮気味に話しかけた。「自分たちが決勝に来たんだよ。金メダルを取って帰ろうよ」。延長後半。コーナーキックに右足を合わせて同点ゴールを決めた。何度も左腕を突き上げた。

決勝を見届けるため、母満壽子(まいこ)さんは急きょ、ドイツに駆けつけた。沢選手がサッカーを始めたのは小学校に上がるころ。リカちゃん人形を与えても見向きもせず、外に遊びに行く活発な子だった。1歳上の兄が少年チームでサッカーをしている間、傍らでボールで遊んでいるとき、「やってみるか」とコーチに声をかけられたのがきっかけだった。

小学2年生になると、東京都府中市のチームで男子に交ざって試合に出るようになった。「何で女の子がサッカーやるんだ」と言われることもあった。コーチだった大高富太郎さん(67)は「男の子と競り合い、負けずにヘッディングシュートを決めていた。ぶつかり合いへの恐怖より先に負けん気があった。あの闘志が彼女の原点」と振り返る。

試合中、男子から露骨に足を蹴られた。その男子を追いかけ回し、試合は一時中断した。「この子が私のスパイクを蹴った」と抗議した沢選手に満壽子さんは「『今に見てなさい。私はプロになって見返してやるから』と思いなさい」と言ったことを覚えている。

中学にあがると、女子サッカーの強豪・読売(現・日テレ)ベレーザのユースチームに入団。すぐトップチームに抜擢され、大人に交ざって全国リーグに出場するようになった。中学3年、15歳で日本代表に。高いレベルを目指して米国プロリーグ移籍も経験した。

そのリーグが経営難で休止され、帰国を強いられたこともある。今シーズン開幕前には、今度は国内の所属チームの運営会社が経営難に陥り、INAC神戸への移籍を決断。恵まれない女子サッカーの環境を実感し「年齢的に残り時間は限られている」ともらした。

常に日本女子サッカー界の先頭を走ってきた沢選手。今大会、少し変化が起きた。年上の先輩たちとプレーしてきた代表で、気がつけば選手21人中、2番目の年長者になっていた。「沢さんに頼ってばかりではだめ」と話す若手が出始めた。スウェーデン戦で自身のパスミスから失点を招き、仲間の奮起で逆転勝ちを果たした時、感じた。「自分より若い子たちの方が冷静。自分が一番焦っているのかも」。少し肩の力が抜けた。

優勝を決めたPK戦は、自身が登場する前に、その後輩たちの奮起で決着がついた。「みんなで最後まで諦めずに戦い抜いた結果。最高の試合になりました」。ピッチの真ん中で仲間に囲まれ、優勝トロフィーを何度も高々とかざした。

(多田晃子、清水大輔、フランクフルト=河野正樹)

 

鉄壁海堀最後も止めた

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(米国のPKを止め、喜ぶ海掘選手=ロイター)

 

決勝のPK戦で、24歳の守護神が米国の前に立ちふさがった。

120分の戦いで2点を失ったGKの海堀(かいほり)あゆみ選手は、「みんなが同点に持ち込んでくれた。やるしかない」。相手のシュートを2本止め、優勝に大きく貢献した。

父の影響でサッカーを始めたのは小学2年生。京都・長岡京市第四小スポーツ少年団で、フィールドプレーヤーだった。中学時代は、女子16歳以下の日本選抜として米国遠征に参加したこともある。

しかし中学卒業前、少年団コーチだった五由田(ごゆだ)武彦さん(67)に、サッカーを続けることに迷いを見せた。「男子のサッカーと違い、将来、経済的な負担になるかもしれないことに悩んでいたのでは」と五由田さんは言う。

結局、京都府立乙訓(おとくに)高校では、1歳上の姉の影響もありテニス部に。友達に誘われ、サッカーに戻ったのは3年生の時だ。ここでGKに転向。すぐに19歳以下日本代表に選ばれた。

当時指導した川島透さん(41)は「向上心がすごかった。怖がらず、突っ込んでいくので男子が遠慮するぐらいだった」。

しかし、フル代表では控えが続いた。変化のきっかけは今年元旦の全日本女子選手権決勝。今回と同じPK戦で相手のシュートを3本防ぎ、所属するINAC神戸が優勝した。相手のGKは日本代表の正GKだった山崎のぞみ選手。先輩との直接対決に勝ち、実力を発揮し始めた。

W杯直前に正GKの座をつかみ、大会では6試合すべてフル出場。最後は世界の頂点に立ち、「いい緊張感でできました」。人なつっこい笑顔が広がった。

(松川希実、勝見壮史)

 

願ってた

        祈ってた

               信じてた

 

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(米国のゴール前でルペイルベと競り合う川澄⑨、後方は沢=ロイター)

 

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(W杯トロフイーを手にした日本の選手たち、左から大野、沢、近賀=AP)

 

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(表彰式後 感謝のメッセージが書かれた横断幕を持って場内を回る日本の選手ら=上田潤撮影)

 

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2011年7月20日水曜日

今年の海は、重い

 

写真は、若狭和田海水浴場  (Wikipedia)より拝借

今日20110718は「海の日」だ。未明(03:45キックオフ)にドイツで行なわれていた女子サッカーのワールドカップW杯で、日本の代表、なでしこジャパンが強敵アメリカを相手に、前後半で1-1、延長戦で2-2、最後はPK戦で勝って初優勝した。テレビ観戦で、その余韻に浸ったまま、今日は何の日だったっけと考えて、あらためて海の日だということを確認した。

いつものことだが、暦には疎い。仕事柄、休日の確認はするものの、何の日だということまで、考え着かないようになってしまった。不幸な習性だ。

今日は、少し疲れがたまっていたので、午後は休みを頂いた。インターネットでなでしこ連戦の動画を何度も繰り返し観るだけで、他は何もしない、珍しくぼんやりしていた。

海の日か? そうか海か。海、海は地表の70%を占めるらしい。その海のことを思うだけで全身が痺れる。頭がくらくらして、自然に涙がでてくる。

元はと言えば、あの3・11だ。東日本大震災の地震による、東北、東日本を襲った津波のことだ。津波が押し寄せ、村や町が丸呑みされていく映像が、頭にこびり付いて離れない。住宅が、車が木の葉のように浮かんでいた。そして、次には引き潮だ。今度は、何もかもが海の方に引っ張り出されていった。2万人以上の、亡くなったり未だに行方不明の方たちがいる。

散歩の間ぐらいは、人に会いたくないので、深夜や早朝、農道やちょっとした近所の林道を歩くようにしている。住まいの周りだ。夜は、小動物や虫の声が、朝は、鳥の声がたくさん聞こえる。此の頃、散歩中、空を長く眺めてしまうようになってしまった。いつまでも空ばかり眺めている。以前は、私の故郷の西の方面を眺めた。今は、東北の空に向かって、被災地のことに思いを馳せている。被災地の方々の無念を想うと、自然に頭(こうべ)が垂れる。

子どもが小さい頃は、家族でよく海水浴に行ったもんだ。

私は泳ぎが好きだったから、当然海が好きで、子どもにも海を愛する人間になって欲しいと、海では気張って楽しくふるまった。見本を見せたのだ。ぷか~ん、と仰向いて大の字になっていつまでも浮かんで見せたり、深く潜って底に張り付いたり、1分以上も潜ったり、沖合い遠く、浜からは見えないところまで泳いでいったり、スキューバーやカヤック、ゴムボート、いろんなことをして、楽しんだ。子どもを浮き輪に入れて、引き連れての2キロ程度の遠泳もした。泳ぎ自慢なのだ。魚を釣ったり、貝をいっぱい拾ったりもした。

私の思惑通り、子どもたちは、水に強くなった。

子どもたちが、海や川での何かの事故に遭遇しても、命を失うようなことのないように、パニックに耐え、工夫を凝らして命拾いをして欲しいのだ。

今日の天声人語を読むと、海のことを、まさにその通りだと思い、いつもの転載癖が蠢(うごめ)いて、後の方にその記事を書き写した。いつものように無断転載だ、私は朝日新聞のファンの一人です。

ところで「海の日」の前には、「海の記念日」だった。

Wikipediaによると、海の記念日は1976年(明治9年)、明治天皇の東北巡幸の際、それまでの軍艦ではなく、灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ、1941年(昭和16年)、逓信大臣村田省蔵の提唱によって制定された。

海の記念日は、「海の日」に変わった。海の日は、1995年(平成7年)に制定され、その翌年から施行された。制定当初は7月20日だったが、その後7月の第一月曜日となった。

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20110718

朝日朝刊

天声人語

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きょうは海の日。太平洋に臨む紀伊半島の町に生まれ育った佐藤春夫に「海の若者」という詩がある。〈若者は海で生まれた。/風を孕(はら)んだ帆の乳房で育った。/すばらしく巨(おお)きくなった。/或る日 海に出て/彼は もう 帰らない。〉

〈もしかするとあのどっしりした足取りで/海へ大股に歩み込んだのだ。/とり残された者どもは/泣いて 小さな墓をたてた。〉。これが全文の短い詩だ。何かの伝説をうたったのか、それとも水難の若人への鎮魂だろうか。海の豊饒(ほうじょう)と非情への想像を、胸のうちにかき立てる。

終わりの2行が、海の大きさと人間の小ささを際だたせる。今回の津波の被災地で、墓石に「三月十一日」の日付を繰り返し彫る石材店主の胸中を記事が伝えていた。2万という命を、海は連れ去って返さない。

人々の思いは千々に乱れる。「海を恨んでいる人は一人もいない。これからも海と共に生きていきたい」と言う人がいる。片や「返せって海に言わないと気が済まない」と泣く人いる。

「海を恨む気持ちはあるが恩恵も受けてきた。バカヤローと叫んだら、これで終わりにする」「どうなるかわからないけどさ、海さえあれば、何とかできる。海を相手に食ってきたんだもの。漁師は、大丈夫なんだよ」。万の人の心に、万の海がある。

あの日、突然猛(たけ)った水平線。狂った水の雄叫(おたけ)び。「母なる海」という賛歌は失(う)せ、まだ涙で海と和解できない方も多くおられよう。潮風に顔を上げる日を、願わずにはいられない。

2011年7月17日日曜日

なでしこ、もう少し大きな夢を

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(朝日新聞・20110715・スポーツ W杯決勝進出を決め、喜ぶ日本女子代表ら=AFP時事)

ドイツで開かれているサッカーの女子ワールドカップ(W杯)。

なでしこJジャパン、よくぞ頑張ってくれた。いや、頑張ってくれている、でも、まだまだ、頑張ってもらわなくっちゃ。

折角だから、この際だから、もう少し大きな夢を見させてよ。あのでっかい、トロフィーを全員が抱えあげるシーンを見せてもらいたい。男子のトロフィーは何度もテレビなどで見たことはあるのですが、女子のはどんな形をしているのだろうか。

ドイツ戦にしてもスウェーデン戦にしても、きちんと守って、得点は全て競り勝ってゲットしていることが、このチームの強さの証左だろう。19歳以下女子・本田コーチがこの稿の後ろの方で語っているが、女子がサッカーの基本を体得する小中学時代に、男子と混じって練習していたことが、勝負どころでの1対1の強さを身に付けたのだろう。

日本女子代表は、日本時間10日の準々決勝、対ドイツ戦では、0-0で迎えた延長戦の後半開始3分の丸山桂里奈のシュートを守りきって制した。前後半を通じて、力の入った、緊張した攻守が繰り広げられた。体格や特に身長の高さに優るドイツを相手に、粘り強く守りきった。決定的なピンチにもどうにか凌(しの)いだ。きっちり守って、相手のスキを衝く、日本ならではの作戦だ。全員の意思が統一されていて乱れがない。決勝点の丸山のシュートには強い意志が感じられた。

ドイツの監督さんと日本代表の佐々木監督が、健闘を讃え合って、にこやかに握手をしているシーンが感動的だった。ドイツの監督さんは日本代表チームを祝福してくれた。

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(日刊スポーツ・20110716 無断拝借)

13日の準決勝戦ではスウェーデンを破り、初の決勝進出を決めた。前半10分、澤穂希への不用意なバックパスをカットされ、そのまま持ち込まれ、先制点を奪われた。その後、澤から出たボールを宮間あやが左前にドリブル、そのまま左足でセンターリング、巧い具合にゴール前に迫った川澄奈穂美が、体のどこに合わせたのか、自分でも分からなかったとコメントしていたが、見ている方にもよく確認できなかった。足先なのか、脛(すね)なのか、ボールは迷うことなく相手ゴールに勢いよく入った。ボールには川澄の意志が乗り移っていたのだろう。泥臭いゴールだと解説者は言っていた。

川澄は、この大会はこの試合までベンチウォーマーだった。佐々木監督の、今までの攻撃の布陣を変えての起用に応えた。監督にも考えるところがあったのだろう。気合そのもののシュートだった。澤は、いの一番に川澄に抱きついて祝福した。

そして前半19分、日本代表は相手ゴール前でシュートを放つもキーパーに阻まれ、こぼれたボールを拾って日本チームがつなぐ、そしてゴール前の混戦に澤が出てきて、浮き球をゴールの枠をよく見極めて、ヘッドでシュート。澤は神輿のように抱え上げられた。澤は高らかに片手を天に突き上げた。

この場面、私は肝を冷やしたところでもあった。日本チームの前線は冷静だった。澤がヘッドしたボールを前にいた選手は、この緩いボールに反応しなかった。攻撃に参加するような動きはしなかった。入ると確信したからだろう。澤よりも前にいた選手がボールに反応して、攻撃に加担するようなプレーでもしていたら、オフサイドを採られていたかもしれないのだ。余りにも、冷静だったことに感心した。

後半19分、前線に?が猛烈に速いドリブルでゴールに向かう、相手キーパーはペナルティエリア外まで来てクリアー。そのクリアーされたボールを拾った川澄は、前に出てきたキーパーがまだゴールに戻っていないことを確認して、空っぽになったゴールに思いっきりシュートした。距離は30メートルか40メートルはあったが、弓なりの緩いボールは誰も居ないゴールに吸い寄せられるように、イン。相手を、あざ笑うかのようになんて表現したら、お叱りを受けることになるだろうか。川澄の今試合2点目のゴールだった。3-1で日本代表は勝った。

男子W杯最高の16強をはるかに上回る成績をおさめることになる。

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(日刊スポーツ・20110715 無断拝借)

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決勝進出のなでしこジャパンの強さの理由について、19歳以下女子・本田コーチは次のように語っている。(朝日新聞20110715・スポーツより。私が要約しました)

①体格の大きな相手に対し、グループでパスを展開して崩す狙いは(以前から)あったが、具体的にどう崩せばいいかという答えをあまり持っていなかった。近年はそうしたノウハウを持つ指導者が増え、女子でもどのタイミングで仕掛ければいいかという判断ができる選手が増えた。ショートパスに速い攻撃という『日本らしさ』をちゃんと理解し、表現できる選手が増えた。

②小学生の頃、男女が同じチームでプレーしていることも大きい。米国など、女子サッカー人口が多い国と違い、日本は小学生女子単独チームは少なく、70%は男子に混じって技を磨いている。

③技術的に伸びる小学生の頃に、男子と厳しいプレッシャーの中でやっていることが実は大きい。

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20110712

朝日朝刊

天声人語

その名は、豊作を念じて父親が考えたという。沢穂希(ほまれ)さん、32歳。「なでしこジャパン」の主将である。15歳で日本代表になって以来、女子のサッカーを支え続けた功労者が、また一つ誉れを手に入れた。

女子ワールドカップを戦うなでしこは、地元ドイツを1-0で破り、初の準決勝に進んだ。3連覇を狙う相手は過去8戦して勝てなかった難敵だ。それも、大入りの観衆を向こうに回しての快挙である。

選手は、震災の映像を見直して大一番に臨んだと聞く。延長戦後半、沢さんが「願いを込めて」相手守備陣の裏に浮き球を放り込む。丸山桂里奈(かりな)選手が走りこみ、ぎりぎりの角度から歴史的な決勝点をあげた。疲れた相手の足が届かない。ここしかないというパスとシュートだった。

沢さんは男の子の中で強くなった。小学生時代、試合中に「女のくせに」とスパイクを蹴られたことがある。その子は、心でわびているに違いない。代表での通算得点は今大会で78に増え、あの釜本邦茂さんを抜いて最多となった。

サッカーは長らく「男のスポーツ」だった。沢さんにも女子ゆえに出られなかった試合がある。悔しさは練習とゲームにぶつけるしかなかった。その背中を見て、女の子が当たり前にボールを追い始めている。

アトランタ五輪で惨敗、続くシドニーは出場もできず、廃部が相次いだ低迷期がある。沢さんらはドイツ戦のように耐え忍び、見事に盛り返してみせた。何本もの青い穂に大粒の「なでしこ人気」を実らせて。

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20110715

朝日朝刊

社説/なでしこ 頂点をめざすひたむきさ

サッカーの女子ワールドカップ(W杯)で、日本代表チームなでしこジャパンがスウェーデンを破り、決勝に勝ち進んだ。

これまで世界レベルの大会では、2008年北京五輪の4位が最高だった。その壁を乗り越える快挙だ。

技術の高さが際だつ。スウェーデンとは平均身長の差が10センチあった。国際舞台では常に背負う体格差を、献身的な運動量と持ち味のパスワーク、俊敏性、組織力でカバーした。先制点を許しても落ち着いた試合運びで、勝利を手繰り寄せた。

女子の代表チームが初めて編成されたのは、1981年のことだ。マイナースポーツとしての長い苦難の末、30年という節目に花が開いた。

追い風が吹いたこともあった。89年に始まった日本女子リーグには、バブル景気を背景に企業チームが次々に参入し、海外の有力選手を集めて隆盛を誇った。しかし、バブルが崩壊すると多くのチームはリストラ対象となり、90年代終盤に廃部や解散が相次いだ。

福島第一原発の事故の影響で東京電力チームの活動が休止となり、代表を含む多くの選手が移籍先探しを余儀なくされた。

世界の頂点を狙う現在でも、選手たちの待遇は決して恵まれているとはいえない。

海外のプロリーグで活躍する選手を除けば、代表クラスでも、月給20万円程度の契約社員ならいい方といおう。仕事やアルバイトをしながらサッカーに取り組む選手がほとんどだ。

男女が一緒にプレーする小学校でサッカーの魅力を知った女子が中学に上がると、男子のみの部活に参加できず、プレーする場に困ることもまだ多い。

代表選手たちは、ボールを蹴る喜びや周囲への感謝を最初に口にする。「結果を出すことで女子サッカーの環境を変えたい」との想いが共通するのだ。

こうした厳しい競技環境を乗り越えて、なでしこたちのひたむきさはある。

女子サッカーの人気は世界的に高まっている。日本でもなでしこの活躍で認知度は大きく上がった。選手を取り巻く環境の向上につながって欲しい。

地元ドイツと対戦した準々決勝の前に、選手たちは大震災の映像を見て、自らを奮い立たせたという。試合後のピッチでは真っ先に横断幕を広げる。

「世界中の友人のみなさんへ、支援をありがとう」

ドイツで躍動するなでしこたちのメッセージを受けとめたい。そしてこの勢いで、頂点を極めてもらいたい。

2011年7月12日火曜日

今日は、孫の参観日だった

20110712 私の次女の長男・晴の小学1年2組の授業参観に行ってきた。

今日は、娘も娘のダンナも仕事で行けないから、ジジイ、代わりに行ってくれないか、と娘から強い要請を受けた。内心、こういう依頼を待っていたのだ。嬉しい要請だ。定時の13:40よりも20分も前に学校に着いた。

自分の4人の子どもが通学している間、私は仕事にかまけて、学校の行事にはほとんど顔を出したことは無い。妻任せだった。だからと言って、子ども達に対して決して無責任ではなかった。

子供の頃から、学校は私にとって、大好きな場所だった。やすらぎの?それとも憩いの?兎に角楽しい場所だった。自由で楽園のようでもあった。誰よりも早く行って、誰よりも遅くまで居た。小学校では、先生に大いに甘えさせてもらった。中学、高校時代はクラブ活動を終わってからもグズグズと、先生に追い払われるまで学校に居た。勉強のよくできる子どもではなかったが、学校が楽しくってしょうがなかった。何故か、どの先生も私を可愛がってくれた。学校は私にとって、特別の場所だったのだ。

私が社会人になってからも、祖母は、タモツは学校から帰ってくるときは、いっつも裸だったなあ、と話していた。小学生の時は、野道を服をぐるぐる回しながら、中学の時は、自転車のハンドルに服を巻きつけて、裸で、玄関に入るなり、腹減った、が口癖だった。祖母は、冬には餅を夏には握り飯を用意して、夕飯までの私の空腹を気遣ってくれた。

このように学校好きの私なのだ。

教室では子ども達が父兄を待ち受けていた。先生は、新卒間なしの若い可愛い女の先生だ。先生は子どもに、父兄に対して、コンニチワと挨拶を促した。やはりピカピカの1年生で、体はこじんまりとしてヒヨコだ。壊れそうで、危なっかしい。学校というものに、まだ馴染めなくてちょっと不安げにしている子もいた。大声を張り上げるような行儀の悪い子は居なくて、みんな静かにしていた。1教室は28人。参観に来た父兄のうち、母親は14人、ジジイは1人、祖母は1人だった。

授業は算数で、モノを数える勉強だった。10以上のモノを数える場合には、10を一まとめにすると、10以上のモノを数えるのに、早く確実に数えられる、という勉強だった。晴は、先生の質問に毎回手を上げて、2回答えるチャンスをもらった。いつもの、やんちゃな晴ではなく、ぼそぼそと、泣きべそをかいているような声で答えていた。

授業の最後に、これで算数のお勉強を終わります、とみんなで声を合わせてお辞儀をしたのですが、クラスで一番体の大きな我が孫は、教室のド真ん中で、お辞儀のことはすっかりそっちのけで大きな欠伸(あくび)をした。他の子ども達は、気付かなかったようだが、先生は、きっちり見逃さなかった。先生の孫に注がれた厳しい視線に、ジジイは肝を冷やした。

この子達は、誰もが、どのように育っていくのだろうか。強く逞しく、健康に育って欲しいと思う。

そのためには、大人は、戦争のない、誰もが住みやすい世界を作らなければならない責任や義務があると如実に感じた。生きがいのある生活を保証する環境作りだろう。

子どもは国の宝物だ。

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(最近の晴選手、左はショウマ君)

2011年7月7日木曜日

「パラディスハウス」とは

最近、彼方此方(あちこち)で、御社の社名をどうしてこのような名前にしたのですか、と聞かれることが度々あったので、此処で当時を振り返って整理をしてみた。思い起こせば、限られたスタッフにだけは話したものの、取引をしていただいている関係者の皆さんに、その名が生まれるべきして生まれた、根拠というか、根拠になった理念をじっくりと、話さなかった浅墓さを今になって恥じている。

後ろの方で説明しますが、パラダイムシフトという言葉に込められた思想こそが、弊社が新しい時代へと進化する住宅を究め続ける拠りどころだと思っている。

中村社長が、「昨日の延長線上に今日があるのではなく、もっと十年、百年、三百年の未来を見据えての提案を心がけて進もう」と常日頃、言っていることは、この社名の命名に込めた創業者としての誓いでもあるのです。

 

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☆社名のパラディスハウスは、

「パラダイム シフト ハウス」=「Paradigm hift House」の

下線部分だけを呼ぶ(読む)ことにしたのです。

英語表示は、Paradi.s House とした。ロゴは上の通りだ。

 

 

先ずは、パラダイムとは、Wikipediaより。

社名を決めるのにその発想の源(もと)になったパラダイムは、「模範」「範例」を意味する言葉として、科学史家トーマス・クーンが科学革命で提唱した概念だ。ところが、クーンが考えていたパラダイムは、自然科学における概念だったが、その後、クーンの意図に反して、社会科学の概念として広く使われ、一般的には拡大解釈された内容で使い出された。

 

次に、パラダイムシフトとは、Wikipediaより。

拡大解釈された「パラダイム」は「認識の仕方」、「考え方」、「常識」、「支配的な解釈」、「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われている。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられているため、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイデイアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われている。

狭義には、その時代や分野において主流だった(問題を抱えている)古い考え方に代わり(その問題を解決できる)新しい考え方が主流となることを指す。

私たちが、住宅産業に携わってからの40年足らずの間にも、小さく、大きく、世相の変化が目まぐるしい。価値観の変化もすさまじい。その変化に対応していくのは当然としながらも、歴史の大きな変化に見間違うことなく、真に科学的でありたい 

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四つ葉のクローバー

三つ葉のクローバーは、それぞれ希望、誠実、愛情のしるし。四つ葉となると、もう一つ幸福が加わることになる。そして、四つ葉を見つけた者には、幸運が訪れるという伝説がある。

緑色はまさしく植物です。よりよい生活の環境づくりには緑、植物が欠かせません。緑に溢れた森や植物を見て、人は心の安らぎを覚えます。日頃のストレスが解消され、気持ちを落ち着かせてくれます。信頼や安全のイメージカラーだ。

2011年7月4日月曜日

オーストリアは憲法で反原発

20110531の朝日新聞・朝刊/国際版

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オーストリア反原発加速。

「2015年までに輸入電力も脱原発」

完成以降30年も未稼働の原子炉

フクシマを機に見学殺到

このようなタイトルで、今のオーストリアの原発政策と、現在の政策に至るまでの経緯をまとめた記事が掲載されていたので、それをそのまま転載させてもらった。他に、ネットで仕入れた情報も付け加えた。福島原発事故の検証にも来たIAEA(国際原子力機関)の本部はウィーンにある。

オーストリアのツベンテンドルフ原発が完成して、その稼動の可否を、78年に住民投票で問うた。結果、過半数(反対が50,47%)といってもわずかな差で否決され、憲法にまで付け加えられるようになった。

その翌年(79年)にスリーマイル島原発事故が起こった。旧ソ連、現ウクライナのチェルノブイリ原発事故が発生したのは、86年のこと。

99年、連邦憲法に「オーストリアで核兵器を製造したり、保有したり、実験したり、輸送したりすることは許されない。原子力発電所を建設してはならず、建設した場合にはこれを稼動させてはならない」の項が盛り込まれた。

また、EU内の原発を有する国々に対しては、「ストレス・テスト」と、その結果の公表を求めている。「ストレス・テスト」とは、天災やテロを想定した原発の耐性審査だそうだ。原発保有国に囲まれているオーストリア1国だけが、核を廃絶しても、地続きの隣国からの事故が発生すれば、元も子もないことになるからだ。

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ツベンテンドルフ原発の内部を案内するフライシャーさん=玉川透氏撮影

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ドナウ川沿いに建設されたツベンテンドルフ原発

 

憲法で原発建設禁止をうたうオーストリアが「反原発」の動きを先鋭化させている。老朽原発を抱える旧共産圏の国々に囲まれ、西欧諸国の中でもひときわ危機感が強い。そこの福島第一原発の事故が火をつけた形だが、エネルギーの確保に原発が欠かせないとする中・東欧諸国は「ヒステリー」と冷ややかだ。

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菜の花畑が広がるのどかな風景を抜けると、100メートル超の排気筒がそびえる巨大な施設が姿を現した。ウィーンの西約30キロのドナウ川のほとり、「世界一安全な原発」と呼ばれるツベンテンドルフ原発だ。

福島第一原発と同じ沸騰水型炉。170万世帯への電力供給力を秘めるが、実は一度も稼動していない。完成直後の1978年、反対運動の盛り上がりを受けて国民投票が行なわれ、わずか1%未満の差で「お蔵入り」が決まったからだ。

建設費を含め約10億ユーロ(約1200億円)を費やしたとされる施設には、ドイツから原発技術者が訓練に訪れるか、テレビドラアマの撮影ぐらいしか出番がない。最近は、管理棟の一部を小学校の仮校舎として貸し出していた。(追加=山岡 眠り姫と一部では言われているそうな。

半ば眠ったような施設を取り巻く状況は、福島の事故後に一変した。原発のことを知りたいという人たちが、原子炉の内部も見られる週1回の見学ツアーに殺到。「多い時は、定員の4倍の申し込みがある。年末まで予約でほとんどいっぱい」と、案内係のフライシャーさん(53)は驚く。

同国では消費電力の約60%を水力、約30%を火力発電で賄う一方、約6%は近隣諸国の原発による電力を輸入している。だが、福島の事故の直後の世論調査の高まりを受け、政府も風力や太陽光などの代替エネルギー開発への助成を拡大する法案を発表。2015年までに原発による電力の輸入に全く頼らなくするとの目標を掲げた。

また、原発を持たない他の欧州諸国などに呼びかけて「反原子力会議」を発足させ、5月25日のウィーンでの初会合にはポルトガルやギリシャ、アイルランドなど計11カ国が参加。欧州全体の脱原発をめざす「反原子力宣言」を採択した。

欧州連合(EU)は福島の事故を受け、域内の全原発の安全性検査実施で合意した。だが、原発は地球温暖化対策に有効だとする基本姿勢に変わりはなく、脱原発が「国是」のオーストリアには生ぬるく映る。

同国のベルラコビッチ環境相は朝日新聞に「フクシマの惨劇は、原発から安全な再生可能エネルギーに移行する時だと教えてくれた。EUだけに任せてはおけない」と話した。

 

周辺諸国は推進譲らず

ウクライナを含む中・東欧7カ国で稼動する原発は現在34基で、多くが70~80年代に建設された旧ソ連型だ。こうした老朽原発が国境を挟んで数百キロに点在していることも、オーストリアを神経質にさせている。

中・東欧の原発の安全対策に詳しいウィーン天然資源・応用生命科学大学のウオルフガング・クロンブ名誉教授(67)は「この地域の原発の多くが活断層の近くに位置し、耐震の安全性が疑わしいものもある」と指摘。ほとんど川沿いにあることから、「地震で上流のダムや堤防が決壊すれば、巨大津波に襲われた福島と同じ事態に陥る恐れがある」と警告する。

だが、各国に原発推進路線を変える様子はない。ドナウ川沿いの地震多発地帯に原発2基の増設を計画中のブルガリアは、欧州委員会などの指摘を受けて6月末まで計画を一時凍結したが、安全性に問題がないと分れば再開する構えだ。

6基が稼動するチェコのネチェス首相も「原発は経済の自立に不可欠で、運転中止はあり得ない」。増設を計画するスロバキアやルーマニアなども、原発推進路線に「変更はない」と口をそろえる。

こうした旧共産圏の国の多くは今も、ロシアから冷戦時代のパイプライン網で天然ガスなどの供給を受けている。一方でたびたび供給停止の憂き目にあっており、エネルギーの「脱ロシア化」に原発は欠かせないという事情がある。

西欧諸国には、原発を風力や太陽光などの代替エネルギーへの「橋渡しの技術」(ドイツのメルケル首相)と位置づける向きもあるが、代替エネルギーの開発には膨大なコストと時間がかかる。中・東欧の国々は経済危機で資金が不足し、電力供給の多くを原発に依存するエネルギー体制も確立しており、そう簡単には転換できない。

チェルノブイリ事故を体験しながら、現在も15基が稼動するウクライナのアザロフ首相は「金持ちの国だけが、原発閉鎖の可能性を議論できる」と地元メデイアに語った。 (ツベンテンドルフ=玉川透)

 

オーストリアの原発政策

78年にツベンテンドルフ原発の稼動が国民投票で否決されると政府は計画していた7基の建設を断念。国内での原発建設を禁じる法律が制定された。86年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で国民の「原発嫌い」は決定的となり、99年に原発建設禁止などが憲法に明記された。

 

ところが、どっこい、このツベンテンドルフ原発は、1、000枚のの太陽パネルを備えた太陽光発電所に生まれ変わったようです。この7月24日に操業を開始、年間18万キロワット/時の電力を提供する予定だということをネットの記事で知った。

不用になった設備や部品は、ドイツの沸騰水型原子炉に売却、空いたスペースをドイツの原発従業員向けの研修用として貸し出し、資金調達を図るらしい。操業に際して、200人の従業員が採用された。今までは、先の方の記事で紹介されていたフライシャーさん一人で管理を任されていた。

2011年7月2日土曜日

サッカー少年の無念さを想う

愛媛県内の公立小学校で、当時小学5年生だったサッカー少年が、校庭に置いてあるゴールに向かって、フリーキックの練習をしていた。蹴ったボールはゴールの上を越して、門扉を越えて、道路に転がり出た。

生憎、そこに通りがかったバイクの男性がそのボールを避けようとして、転び、足を骨折した。この男性はその後、認知症の症状が出るようになって、翌年には、食べ物が誤って気管に入ることなどで起きる誤嚥(ごえん)性肺炎になって、亡くなった。

ボールを蹴った少年に過失があるかが問われた訴訟の判決が大阪地裁で言い渡された。

「ボールが道路に出て事故が起こる危険性を予想できた」として過失を認定した。少年側は「ボールをゴールに向けて普通に蹴っただけで、違法性はない」と主張したが、判決では「蹴り方によっては道路に出ることを予測できたと指摘。「少年は未成年で法的な責任への認識はなく、両親に賠償責任がある」と断じた。男性には元々脳の持病があったことや、入院したことによって生活が一変したことが、次の病気に影響を与えたと認められたようだ。少年の両親に対して、請求額5千万円に対して、男性の遺族等5人に計1500万円を支払うように命じた。

このことが掲載された20110629の新聞記事を読んで、被害者の男性を気の毒に思った。さぞかし辛い日々を過ごされたことだろうと察する。

が、方やサッカー少年のことも、私には痛く胸に堪(こた)える。私だって、私の息子でさえこんな事故は十分に起こり得たことだと思ったからだ。学校の敷地と道路との間には、柵、それも子どもの蹴ったボール程度ならば越えないような柵や網が、何故、備わっていなかったのだろうか。蹴ると道路に出る可能性があると予測できるならば、ボールが越えないように柵を設けることが、小学校の敷地として必要条件ではなかったのか。学校側にもその責任はあったのではないのか。

サッカー少年だけに責任を求めるだけで、いいのか?

私の40余年前の学生時代(W大ア式蹴球部)のことを、即、思い出した。少年のことが他人事のように思えないのだ。私が20歳から24歳まで、名門といわれる大学のサッカー部に所属させてもらったものの、その技術、体力に、同僚たちとは大いにレベル差があって、その差を詰める努力を懸命にした。みんなと同じ練習だけでは、いつまで経っても置いてきぼり。負けん気の強い私は、大学の4年間のうち3分の1は、一日9時間はグラウンドにいた。甲斐あって、4年の時には試合の半分は出場させてもらった。大学選手権優勝、関東大学選手権の2冠に多少なりとも貢献できた。

みんなが練習を終わって風呂に行くのを尻目に、グラウンドに残ってボールを蹴ったり、ドリブルをしたり、吊るしたボールにヘッデイングを、何度も、何度も繰り返した。そんな時、よく付き合ってくれたのが、金ちゃんだった。金ちゃんは1年生にしてレギュラー、超エリート、私はゴミ扱いだった。

サッカーのグラウンドとグラウンドホッケーや馬場とは道路を挟んでいた。両方のグラウンドの道路との境には5メートルほどの金網があって、背丈10メートル以上もある樹木も植えられていて、その枝葉で隙間がない。

私と金ちゃんは、練習に飽きると、10メートルもあろうかと思われる樹木の上を越すようにボールを蹴っては、その挟まれた道路を歩く女性に向かって、ちょっとちょっと、お嬢さん、ボールを取ってくださいなあ、と声を掛けるのだ。転がったボールを見て、大体の女性は、ニッコリ笑ってくれるだけで、ボールを追いかけるような人はいない。ニッコリ笑ってくれた女性と、何かを話す取っ掛かりを作ろうとするのですが、なかなかできなくて、ただ、ニッコリ微笑返しを受けるだけの、ただそれだけの遊戯だった。二人だけの秘密の楽しみごとだった。

こんな馬鹿なことで遊んでいたのだ。

この馬鹿な大学生の遊戯で、私が蹴ったボールを、サッカー少年の時と同じように、道路を通りかかった人が避けようとして、転倒、それが原因で怪我でもされたならば、この時こそは、我々二人は、傷害をしでかしたことになる。これこそ、正真正銘の犯罪だ。危険防止のために作られた金網や樹木を、それを認識した上で、ボールを蹴り上げたのだから。

私にとって、幸いにして災難は生まれなかった、が少年にとっては、さぞかし無念だったことだろう。