2015年1月24日土曜日

昔の写真を残して置こう


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   昭和48年度 関東大学サッカー選手権優勝後の記念写真
            賞状をもっているのが、私だ。

20140515から4か月は病院ぐらし。
10月に退院してから現在も療養に苦しんでいる。

弊害事故というのは、梯子に身を置いて高い木の枝を切っていた。
それからが大悲劇、発生。
4,5メートルの上からアスファルトの路面に頭から落下したのだ。
何日間の高次脳機能障害で意識不明。

それから、よくぞここまで頑張れたものだと、ナースさんたちは感心してくれた。私の悪態についても大目にみていただいたーーーー感謝。
退院後すぐに会社に通い始めた。会社に出ても、やれることは、ゆっくり、ボチボチ。それならば、と思いついたのが、自己使用の机を整理するのが精一杯だった。
目につくもの、どれもこれも馴染みの濃いものだが、これだけは残して置きたいと思うものが多々あった。

先ずは我々が大学4年生の時に撮ったサッカー部同期らの写真、それに加えて関東大学サッカー選手権に優勝して、入賞式を終えた後の我が大学の記念写真。
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            昭和44年入学した同期生たち


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1972年の関東大学サッカー連盟の選手証だ。この選手証さえあれば、どこで試合があろうが、無償で入ることができた。

以下、インターネットでお借りした。



JFAシンボルマーク

ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏(やたがらす)と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。
旗の黄色は公正を、青色は青春を表わし、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。(日本サッカー協会のサイトより)

 
 
JFAのエンブレム

三本足のカラスは、1931年(昭和6年)6月3日の理事会で採用されたもの。三本足のカラスは中国の古典では日の神(太陽)のシンボルといわれ、日本でも神武天皇東征の時、「ヤタガラス」が天皇の道案内をしたという伝説もあって、日中の故事から、ボールを押さえたカラスは日本のサッカーを統治指導するものと考えられた。

 
日本サッカー協会のシンボルに八咫烏(ヤタガラス)が使われているのはなぜだ?
日本代表の旗やユニホームに付けられているシンボルマークが3本足のカラスであることは皆さん知ってますよね。
 なぜ3本足のカラスなんでしょう?
 その理由をこれから説明します。
 日本にサッカーを紹介し広めた功績者に中村覚之助(かくのすけ)という人物がいます。
 東京高等師範学校の学生でありながら、米国の「アッソシェーション・フットボール」を翻訳(ほんやく)して明治35年ア式蹴球部(しゅ  うきゅうぶ)を設立しました。
 これが日本における現代サッカーの本当の始まりと言われています。
 もともと明治6年(1873年)には日本にサッカーが伝わっていたのですが、この当時はラグビーのルールが混在し、純然たるサッカー ではなかったようです。
 そしてこの中村覚之助は明治39年に29歳の若さで亡くなります。
 その後日本サッカー協会のシンボルマークは昭和6年に図案化されます。
 その発案者は、当時の東京高等師範学校の内野台嶺(うちのたいれい)教授を中心とする人たちなのですが、実は内野教授は明治39年頃の蹴球部員だったのです。
 中村覚之助は神様のように慕われたらしく、内野教授はマークの図案に中村覚之助の故郷である和歌山県那智勝浦町の渚の宮神社のシンボルである八咫烏を取り入れることにした。というのが現代では有力な説になっています。
 八咫烏の「咫」は長さの単位で1咫は約18cmになります。それ1字では「あた」と読み、「八咫(やあた→やた)」では「大きな」という意味になります。八咫烏とは、大きなカラスという意味で、3本の足を持つカラスとして描かれます。
 『古事記』や『日本書紀』には、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの道案内により熊野・吉野の山中を行軍したということが記されています。勝利へ導く縁起の良いカラスなんですね。
 カラスの足を三本足とするのは、陰陽五行思想によるものてで、二は陰数で太陽にふさわしくなく、陽数である三こそが太陽にふさわしいと考えられたことが理由のようです。八咫烏は太陽の象徴とされていました。

 
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              私が4年生の時の全メンバー
 
早稲田大学の革マル
革マル派の学生組織は、長年にわたり早稲田大学が中心的な拠点校としてきたが、大学側は同派の影響力を排除するため、1995年7商学部自治会の公認を取り消し、2005年3には社会科学部自治会の公認を取り消した。

また、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会が、長年にわたって早稲田祭の収入や助成金を同派系の偽装サークルに1000万円単位で横流しするなどの行為を行っていたことから、大学側は1997から2001まで早稲田祭の開催を中止し、同派系の偽装サークルの公認も取り消した(この際公認を失ったサークルの一つに早稲田大学新聞会がある)。

これにより同派は資金源を失った。
このため、革マル派が教職員の自宅を盗聴する事件を起こすなど、大学側と革マル派との対立が激しくなったが、対立は大学当局側の勝利に終わり、革マル派は一時期早稲田大学からほぼ排除された。

最近ではサークル活動などを通して学内で一定の活動を展開している。とはいえかつてのような影響力はほとんどない。
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瘋癲(ふうてん)の革マルだった。
皆が就寝に入ったころに、デモの深夜組として出かけた。
指示の伝達仲間はクラスに何人もいた。
騒乱を終えた翌朝、東京の何処からでも友人A、友人Bを回って、寮の起床時間までには戻った。

私の主張は年間の授業料の値上げ反対、日本政府のへりくだりの無い政策を望んだ。 
1972年にはあさま山荘事件が起こった。私の頭にも雷が響いた。
在学の4年間は、左翼の政治思想、サッカー、貧乏や貧困に対する耐乏。
勉強の力不足は堪えるだけ耐えた。















2015年1月23日金曜日

ジイジイの体は、確実に好くなっている!!

退院後、9月中旬から月末までの半ヶ月、会社への出社時には妻が送ってくれた。

帰りは社長だった。
ところが、10月からは自分で歩きだした。
昨日20150119の毎週月曜の恒例の会議で、事故日より1年めの5月16日までは、私のサボリを許して欲しいとお願いした。

私の頭はそれほど緊張しているのだ。
自宅からの距離は5キロを上回る、所要時間は50分で徒歩数は8000歩。
往復だとその2倍になる。トコロガドッコイ、この2,3日に、不思議なことが突然にやってきた。

2015の1月中旬。朝、出社での道どりに足取りが急に早く軽くなったこと、帰途、自宅に着くまでの500メートルを、軽いステップ、速足で歩いても苦にならなくなったのだ。
ところが、この速足とかには気を使わなくてはイカン。
元々、運動好きの私にとって、天啓のプレゼントと思ったが、この感覚は危険なのだ。

それまでの出社は、国道1号線や旧東海道線を交えた手短いコースだった。
ところが、今年になって、県立保土ヶ谷公園を通り越すようにした。
会社への往(い)き帰りのありふれた寂しい街並みの散歩だけでは、面白くない。
生まれも育ちも、山や谷、田畑のなかで育った、山育ちの俺だ。

公園内だけでも1~2キロ、大小の樹木がたっぷり、プールやテニスコート、子供の遊び場の中を遊歩道がくねくねと整備されている。

権太坂とこの公園への坂を入れると、上り下りの激しさは横浜一番。
こんなに寒いのに、長く裸木だった枝に、小さな幼芽のふくらみが見える。白梅の花は大きな木に少しだけ咲いている、紅梅は満開だ。

写真:空から見た保土ケ谷公園
              県立保土ヶ谷公園


県立保土ヶ谷公園の概要

種別
運動公園
開設面積
34.0ヘクタール(都市計画決定面積 34.0ヘクタール)
設置年月日
昭和32年4月9日
所在地
横浜市保土ケ谷区花見台・明神台・仏向町
公共交通機関
  • 「横浜駅」西口から、「保土ヶ谷駅西口」行バス30分「保土ヶ谷野球場 前」下車
  • JR「保土ヶ谷駅」西口から、「横浜駅西口」行バス10分「保土ヶ谷野球場前」下車
  • 相鉄線「星川駅」又は「和田町駅」から、徒歩15分 主な施設
    硬式野球場 (収容14,817人)、軟式野球場、少年野球場、テニスコート(9面)、サッカー場(天然芝)、ラグビー場(人工芝)、体育館、プール(屋外)、運動広場(200メートルトラック)、オートテニス、ピクニック広場、梅園、かながわアートホール、噴水広場、植物見本園、駐車場
    問い合わせ先
  • 保土ケ谷公園管理事務所 : 電話 045(333)5515/ファックス (045)333-7901
  • かながわアートホール : 電話 (045)341-7657/ファックス (045)341-7617                                                                               頭?と言っても、脳のことだけれど、これはドーモ如何?? 白黒つくにはまだ時間がかかりそうだ。

  • でも、だ!! 頭以外の確実な回復が診られることを、この書で著したかった。
  • この他に、両手以外は100%オッケーだ。
  • 右手の肩辺りからの筋肉の痛みは、まだまだ残りそう。事故勃発が5月16日なので、1年目まではかかりそうだ、とお医者さんから言われている。
  • 大、中、小の筋肉があって、大と中の筋肉の痛みはなくなりつつあるのだが、小さくて細い筋肉だけは、いまだにチリチリと痛みが消えない。
  • チリチリだけれど、疼痛は強度。夜中、布団の中での寝返りにギクット起きてしまう。ところが、左手は大、中、小の大の筋肉が痛んだようだが、小、中の筋肉以外の痛みは既になくなったように感じている。
  • 2月28日の病院ではお医者さんによく聞いてみよう。この医師は、事故日の1年目までは私が責任をとると言ってくれている。 





  • 2015年1月15日木曜日

    孫の納骨を終えた

    20141220、15年か20年前に得た墓地に、二女夫婦にとって二番目の子供を納骨した。

    私にとって6番目の孫だった。
    お坊さんは横浜市南区の浄土真宗の寺院から来てもらった。
    保土ヶ谷区権太坂を最期の地と思っていたので、住宅以外にも墓地が必要だと妻は考えた。
    JR東戸塚駅から徒歩で20分足らずなので、私だけなら自宅から40分。墓の筋向いには、動物たちの霊園もあって、私が自宅で愛して愛したゴンもこの墓地にいる。

    少し前に、小さな命は星空に向かった。
    亡くなった人には戒名があるのだろうが、孫と書かせてもらう。
    私が幼少のころ、お世話になった人々のお墓参りを思いついて、孫の出産の少し前、京都府綴喜郡に出かけた。
    その時偶然にも、東山の峰の上空に、生まれてくる孫の名前に考えていた物が目に入り、直ぐ二女にメールした。
    二女は何だか、異常に不思議がってくれた。

    今日は、小さな骨を丁寧に扱うお坊さんの手ほどきに恐縮した。
    雨は朝からどんどん強く降ってきた。
    参拝客は猛烈に多かった。
    孫の父母、それに母の兄弟とその相手方とその子供たち。
    父の友人で長年の先輩。
    父の弟。私たちは祖父母になる。総勢は15、6人になろうか? お坊さんの説教の一言一言はよく理解できなかったけれど、嬉しかった。
    涙が流れた。

    墓前には、色とりどりのはち切れんばかりの花が添えられた。私の田舎では、葬儀に使われる花は、穏やかな緑っぽい物が多かったけれど、今日の孫の納骨は、そんなことは知るものか?と言わんばかりだった。
    僕は、涙を唯流すだけ、孫の名前を静かに呼び続けた。これしかできなかったのだ!!
    父母の悲しい表情は、当然と言えば当然なのだが、墓石に埋められた孫の兄の悲しみは、全ての人の心に響いた。小学4年生の長男・晴が、初めて見せた苦渋の涙だった。