2011年5月28日土曜日

散歩。切り干し大根に挑戦だ

毎朝の散歩の楽しみは、汚れのない清澄な空気を肺腑の奥まで届けとばかりに、大きくいっぱい深く吸う、美味い! この快感を味わうこと、それに農地に植えられた色んな作物や野道や原っぱに咲く花をを眺めることです。

私は農家の三男坊だった。どんな野菜でも、双子葉であろうが、単子葉であろうが、地上に小さな芽を出しただけで、名前を言い当てることができる。こどもの頃、野菜畑を走り回って遊んでいたからだ。弊社の経営責任者の中さんは、東京育ちの都会っ子、私が野菜の一つ一つの名を言えるのを驚いていた。

このように散歩を楽しんでいるのですが、2,3週間前から気になってしょうがないことがあったのです。耕作者が収穫を始めた大根畑で、異常に大きくなってしまったものや、形がズングリモックリで太く短いもの、二股に分かれたものは、きっと商品価値が低いのだろう、引き抜かれたものの、収穫されずに乱雑に、放置されたままなのです。

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      (放置された大根)

たまには深夜に散歩することもあるのです。その夜は薄い雲がかかっていた。捨て置かれた数本の白い大根が重なり合って、月の光にぼんやり浮きだって見えた。遠目にも、女性が白い裸身で横たわっているように見えて、生唾ゴックン、腰を抜かすほどではなかったが、ドキッとした。

普通の人なら、それなりの光景として、眺めただけで済むのでしょうが、この私は、ちょっと可笑しい人間のようです、黙って見過ごすわけにはいかない性質(たち)なのです。あの大根なら、2,3本頂いてもいいのではないかと思った。でも、それをどうしたらいいのか?

翌日は201105024。私は沢庵作りを思いつき、弊社の財務・古さんに沢庵を作るにはどうしたらいいんだろう、ともちかけた。ネットでも調べてみたが、どの手引きにも11月中頃から漬けなさい、とある。元々、沢庵作成は大事(おおごと)だなと、尻込み状態だったから、それならば、秋の終わりぐらいにするとして、すかさず断念した。

それでも、白い大根が横たわっているのを思い出す度に、何とか、違う方法でチャレンジしたいと思案にくれる私に、管理・和さんが、切り干し大根はどうですかね、ときた。

なるほど、切り干し大根なら、かって知ったる間柄だ。子どもの頃から、油揚げと人参を加えて、少し甘く煮たものを随分いただいてきた。母が余りに頻繁に作るので、もうええわ、食い飽きたぜ、と愚痴を言ったもんだ。

20110528の深夜、大根畑に出かけ、大きな大根を3本袋に入れて、アパートに持ち帰った。立派な畑荒らしだ。1本を細く切って100円ショップで買ってきた塩ビの笊に広げた。切り干し大根用は1本で十分だった。後の2本はどうするか、思案にくれている場合ではない、1本は家庭ごみで捨てる、残りの1本は処理方法が見つかるまで時間の猶予をもらう、しかし何もしないわけにはいかないので、兎に角、ベランダの軒下にぶら下げて、名(迷)案が浮かぶまで中吊りで、辛抱してもらう。

そして20110529は雨だった。水っ気がなくなるまでは、お天道様の光がなくては、黴(かび)が生えてきそうだ。今夜も、そして明日30日も朝から雨のようだ。心配だ。細く切った心算だったけれど、天候のことを考えるともっと細くするべきだと、再度、包丁を入れた。本当は、薄くする方がベターなんだろう。

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  (この後で、もう少し細く切った)   (ガス器具の下に、ぶら下げられている大根)

天候がよくならなければ、最後まで乾かすまでもない、炒めて食えばいいや、と思っている。事業執行者は、常々、最悪のシナリオを想定しておかなければならない。これ、ビジネスの鉄則なり。

さて、これらの大根君は今後、どうなるのでしょうか。

2011年5月21日土曜日

西岡議長、耄碌(もうろく)したか

西岡 武夫

西岡武夫参院議長のことは、私が某鉄道系不動産会社に勤務していたときに知った。それは、彼が逗子に所有していた土地付住宅の売却を担当したからです。今から三十余年前のことです。現職の国会議員だった売主は、クリアーな取引をしなかった。今、この話を彼に蒸し返しても、記憶にございません、と答えるだけだろうが。

こういう政治家には、胡散臭い連中が蛾集するようだ。日本の主要な企業の社長さんが名を連ねる経済団体の役員が買主として名乗り出てきて、自らヤバイ取引のお手伝いをしてくれたしてくれたお陰で、私は楽だった売主と買主と私だけが知っているウルトラXな取引が円満のうちに成立して、完了した。某鉄道系不動産会社が当然得られるはずの仲介手数料は半額に値切られた。このウルトラXな取引の内容については、元役員さんにも影響がでるので、今回は伏せることにします。

それに、西岡議員は売却による譲渡所得税を誤魔化したのです。売却物件は、税において特例を受けられる居住用に供した住宅ではなかった。不思議な人が住んでいた。本来課税の対象だったのですが、特例を受けて税金がかからないように申告したのだ。私は、何も知らないことにしてくれ、と頼まれた。今は、ゆうに時効が成立しているのでしょう。

そんなつまらないことが縁で、この政治家のその後の政治的動向に興味を持つようになったのは当然至極のことだ。私には生来、このようなことに特に興味を持つようです。

彼が、ここまで無難に議員を続けてこられたのは、亡き父親の残してくれた遺産以外の何物でもない。ただ、選挙のための集票の知恵と、所属党を渡り歩く処世術に長(た)けているのだろう。個人的な損得から、意見を述べているだけだ。

民主党の人材難に恵まれて、二つある立法府の参院の方の議長になった。

19日の定例記者会見で、「(菅)首相は、即刻辞任すべきだ」との書簡を18日、首相本人あてに送ったことを明らかにし、ほぼ同じ内容を19日付の読売新聞に寄稿した。記者会見で「首相のどこがダメなのか」と問われ、「全部だ」と断言した。「野党が衆院に内閣不信任決議案を出す以外に道はない」とまで言い切った。

この男は何かを勘違いをしているようだ。お前は参議院の議長だぞ。

首相指名は衆院の決定が優越し、内閣不信任決議も衆院だけに許されている。彼は、参院の議長だ。参院の議長は、政府権力の構成内容とは距離を置き、中立の立場を貫き、「良識の府」の最高の権威を確立した存在だ。立場上、国会運営などについての忠告や進言は、歴代の参院議長にも見受けられたが、今回のような直截で、露骨な非難はなかった。立法府の国会の最高責任者が、行政府の長を辞めろ、と言ったのだ。三権分立の民主主義制度の根幹をいとも容易(たやす)く乱そうとするのか。

野中尚人学習院大学教授は、朝日新聞の記事によると、議長は参院で最高の権限を持つ責任者で、重要案件について正式な手続きを経た院の意思決定前に、議論に大きな予断と影響を与える行動は慎むべきだ。政権の命運に影響を与える発言は抑制する必要がある、と言っている。

この男にこれほどのことを言う資格はない。私には、菅直人首相を擁護する心算は一切ない、むしろ批判して止まない。これらの議長発言の内容を読売新聞では好意的にとらえていると聞いた。生憎、読売新聞はまだ読んでいない。

こんな破廉恥な発言を臆面もなく発言する議長も可笑しいし、こんなことを言われる首相もどうかしているよ。

こんなことから、石原慎太郎・東京都知事の天罰発言を、マンザラでもないなあ、と思ってしまうのです。

和平への可能性を信じたい

イスラエル、パレスチナ、とアメリカ、エジプトさん、何とかならんもんか。

パレスチナ評議会(国会)において、イスラエルとの交渉に前向きなファタハと、イスラエルの生存権を認めず暴力を放棄しないハマスが、連合して政権運営をすると合意した、との報道を耳にした。

和解が実現した背景に、自治区で起こったパレスチナの統一を求める民衆のデモがあった、と聞く。阪神球団の元監督の吉田義男さん流に言えば、一丸となって、イスラエルと交渉してくださいとのことだろう。

このデモに参加した民衆の声を、為政者たちは肝に銘じて欲しい。中東、アラブ諸国、北アフリカでは長年圧政に苦しめられた民衆が、圧政者が牛耳る政権を倒している。「アラブの春」と呼ばれる民主化の風だ。この民衆のエネルギーがこのパレスチナにも伝播したのではと思う。何だかんだと問題はあろうが、自治府の政治体制をしっかり組んで欲しいとの民意の表れなのだろう。

この両者が、統一連合して政権運営を目論むのは、中東地域の安定的な平和に寄与することは間違いない、が、しかし、その道筋は傍(はた)からは、到底、予想が立たない。案の定、イスラエルは、この統一連合政権に強く反発している。

合意の裏舞台では、大国、隣国の何やらが作用しているようなのだ。ハマスに武器や資金を提供していたシリアが、アサド政権に退陣を求める反政府デモが盛り上がっていて、その盛り上がり次第では、ハマスにいい影響が及ぼさなくなってくる可能性を、ハマスは察知したのだろうか。アラブ諸国のなかでも一番イスラエルに友好的だったエジプトのムバラク前政権が倒れて、新しくなった政権が今回の合意を画策した。

イスラエル、パレスチナ、とアメリカ、エジプト。各国の指導者は、この地域と国の、民衆や国民が安らかに過ごせるように叡智を振るって欲しいもんだ。

争点は、国境の画定や聖地エルサレムの帰属、パレスチナ難民の処遇だ。アメリカ・オバマ大統領は、領土確定の原則として、イスラエルによる占領が始まる以前の1967年の境界線を基本に交渉するよう提唱している。加えて、イスラエルは占領地の入植を即時停止、パレスチナ側はテロを完全に放棄することで、和解交渉が始まることになるのだろうが。聖地エルサレムの帰属問題は、頭が痛い。

今までの和平交渉を振りかって見ても、そう簡単には何もかもが上手くいくとは思えないが、門外漢の私には、大国と言われる国や、豊かな国の方から先に、多少の譲歩があってもいいのではないか、と思う。私の生まれながらの判官贔屓(はんがんびいき)だ。

私の頭の上に覆(おお)い被(かぶ)さる、悲観雲、絶望雲を追い払ってくもらいたい。強く賢いリーダーの出現を望む。この合意を足がかりに、イスラエルとパレスチナの和平への一歩にして欲しい。

 

20110517

朝日新聞・社説

パレスチナ  2派合意を和平の力へ

約4年にわたって、分裂、対立していたパレスチナの主要勢力のファタハとハマスが、対立を解消して、統一政権発足に向けて動くことで合意した。

ファタハはパレスチナ解放機構(PLO)の主流派で、故アラフアト議長の後を継いだアッパス議長が率いる。ハマスはPLOには属してはいないイスラム政治組織である。

和解は自治区の正常化に第一歩であり、イスラエルとの和平につながるよう期待したい。

ファタハは長年自治府を主導してきたが、5年前の自治評議会選挙で、ハマスが勝利し、政権をとったことから対立が始まった。ヨルダン川西岸を支配するファタハとガザを支配するハマスに分裂してきた。

和解が実現した背景に、自治区で起こったパレスチナの統一を求める民衆のデモがあった。

中東各地で強権体制に民主化を求める民衆の動きは、パレスチナでは民衆不在で対立を続ける両組織への批判となった。

イスラエルとの和平実現もパレスチナ民衆の願いである。統一政権づくりとともに、中断している和平交渉再開に向けて統一的な立場を詰めて欲しい。

ファタハはイスラエルを認め、パレスチナ国家との二国共存を支持するか、ハマスはイスラエルの存在を認める必要がある。

イスラエルのネタニヤフ首相は、今回の和解を「和平への打撃だ」と非難した。しかし、西岸のファタハとだけ和平を結んでも、ガザのハマスが和平を拒否していては、イスラエルに平和はやってこない。

一方、米国のクリントン国務長官はハマスがイスラエルの承認や暴力放棄などの条件を認めないかぎり連立政権を支持しないという立場を語っている。

しかし、パレスチナの強硬派を代表するハマスに、イスラエルの生存権を認めさせるために和平が必要なのではないだろうか。

PLOがイスラエルを承認したのは、1993年のオスロ合意のときである。イスラエルの強硬派であるネタニヤフ首相がパレスチナ国家を条件付で認めたのは、2年前に首相に就任した後のことだ。

ハマスが政権を担うことを拒否するのではなく、国際社会が関与していく必要がある。

オバマ大統領は昨秋、イスラエルとパレスチナの間で1年以内の和平合意をめざすよう呼びかけた。今回のパレスチナの和解が追い風になってほしい。

 

クールビズ、弊社は進んでます

そろそろ、暑くなってきた。

日本列島は、夏に入ったようだ。昨日20110520は横浜でも28度、真夏日とされる30度を越した地域も出たそうだ。福島第1原発の事故で、今夏の大幅な節電は必至だ。対策には、心してかからないと挫(くじ)ける。私は冬をエアコンなしで過ごしたが、なかなか、根性が要った。夏になったらエアコンを買おうと思っていたが、ここにきて、買わずに乗り切ることに方向転回。初老の私は、団扇で乗り切るサカイに、私よりもっと大先輩は、どうぞ遠慮しないでエアコンをお使いください。

暑さ対策には色々あるだろうが、先ずはクールビズだ。英語ではCOOL BIZ。グンゼがこの名称を創案したらしい。

2005年、第1次小泉内閣、第2次小泉改造内閣にて環境大臣に就任した小池百合子が、内閣総理大臣の小泉純一郎から「夏場の軽装による冷房の節約」をキャッチフレーズにしたらとアドバイスされた。それ以降、環境省が音頭をとり、28度以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するよう、呼びかけた。

カーラジオからは、環境省が今年は例年になく、この運動を強く進めようとしていることを告げていた。車に乗り合わせたのは、海さん、長さんと私の3人だった。毎年、6月1日から9月末までの期間なのですが、今年は10月末まで期間を延長すると知った。

助手席の海さんが言った。

「なんだ、かんだと、環境省が力を込めて言っているけれど、役所もうちの会社のレベルに追いついてきた。うちの会社はクールビズなんて言葉もなかった、30年も前から、夏は軽装で過ごしている。やっと、うちの会社のレベルに追いついて来たってことだよ。ワッハッハ、役所のすることは遅いな」と、きたもんだ。

そうなんです、弊社ではこんなことは当たり前のこととして、今年も胸に社名入りのシャツを会社で1人4着まで、費用は当然会社負担で用意した。シャツの色は各自自由に選んでもらった。

私が選んだ4色は、昨今の私の事情を反映してか、全て地味だった。

逆に、古さんが選んだ色はショッキング系のもので、ピンク、グリーン、紫、ブルー、どれも鮮やかものだった。弊社の経理、財務を担当している古さんの心模様は、明るいようで、会社の将来を常々気遣う私にとって、この古さんの色選びは、好ましいものと思った。

思えば遠くへ来たもんだ

今、私は、横浜の北西部の広大な畑や雑種地を背にした住宅街の、とある老朽アパートに住んでいる。

横浜市泉区弥生台。

今回は、このアパートの周辺のことを綴ってみた。

アパートの周辺の田園風景を、これって、まるで群馬県みたいだけど、と友人に話したら、友人は自分の母が群馬県出身で子供の頃よく母の実家に連れていかれたことがあったと言い、お前が言う群馬県風というのは、遠からず当たっているよ、と評価してくれた。

今から40余年前、長野・菅平でのサッカーの合宿を終えて東伏見の合宿所まで気儘な一人旅をしながら戻った。合宿明けの2、3日は練習が休みで、その休暇が一人っきりの秘密の楽しみだった。学生だった4年間、道筋は違ったけれど、毎年このような帰り方をした。ヒッチハイクと国鉄のキセルにキセルを重ねての旅だった。今は、決してこんな馬鹿なことはしていません、ご心配はなさらないように、大丈夫です

長野からはトラックで運転手さんにお任せコースだ、高崎、前橋、宇都宮からは国鉄の電車に乗った。車窓から見た風景は、野菜畑がどこまでも続いて、何処を通っても山々が後ろにそびえていた。浅間山もその一つだった。今、私が立っているこの場所からの眺めによく似ているのです。いづれの年も、乗せてもらったトラックの走ったコースは、だいたい同じような道だったのだろうが、定かではない。ぼんやりだけれども、遠くて、懐かしい、記憶だ。

富士塚からは、富士山の全景を遠望できる貴重なポイントだ。此処から富士山の裾野までが、畑、野原や山が続いているように見えるのです。太宰治の富獄百景にでてくる天下茶屋ほど、富士山を近くには見えないけれど、此処だって、なかなかの見所なのです。

かっては、此処にも茶店の一つもあったのだろう。太宰は富士には月見草がよく似合うなんて気取っていたが、私も負けないくらい無理して気障に言わせていただきますと、此処からの富士山にはバラがお似合いですよ、ではどうだろう。山百合は? やっぱり、アカンか?、私には、文学のブの才もないようだ。バラは横浜市の花、山百合は神奈川県の花なんだけど、なあ。この辺りでは、三脚を立てて、天候の移ろいに気配りしながら、シャッターチャンスを待つカメラマンを、よく見かけます。

富士山をいろんな画家がいろんなように描いているが、裾野が幅広く長く続いている富士山を描いた絵を見たいと思う。 

広大な畑には工夫を凝らして野菜が種々育てられている。収穫後の屑野菜が残されていて、貰っちゃおうかとも思うのですが、無断で耕作地に入ることは慎まなくてはならん。私も百姓の小倅(こせがれ)だ。百姓の矜持は理解できる。屑野菜と言えども、農作物の盗っ人は絶対だめだ。

朝一番の雑種地で、飼い主の管理から抜け出した、無宿渡世の一匹鶏に、突然コケコッコウと驚かされたこともある。鶏は人間共に、起きろう、朝だぜ、働け、と告げるために、ひたすら夜明けを待っていたんだろう。

30年程前までは、この一帯は畑、山林、野原だったのだろう、相模鉄道がいずみの線として延伸、弥生台駅ができ、その周りに人が住みだした。二俣川駅から湘南台駅につながったのです。大型の団地ができスーパーマーケットができて、今日(こんにち)の姿になったのだろう。

この広大な耕作地は、昭和36年に54名の地権者が集まって行なわれた土地改良事業によってできた。かっては、台地状の荒地で、砂に埋もれ、低地は水に浸かり道路は狭く農業の近代化が妨げられていた。歴史的な大事業だった。もっと昔の昭和の12年頃までは、この台地で、農耕馬などが走る旗競馬(はたけいば)が催され、見世物小屋や露店が立ち並び、周辺の男女のお見合いの場所にもなった。

巴御前(ともえごぜん)が化粧のために使ったといわれる横根感念井戸もある。どこの戦に行く途中だったのだろうか。そのようなことが、土地改良工事のことと併せて、この横根稲荷神社の入口の案内板に書かれている。神社の側には馬頭観音の塔もある。

巴御前さんのことを、Wikipediaから知識をいただいた。ここにそれを引用させてもらった=平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。源義仲の妾。軍記物語の「平家物語」では、木曾四天王とともに、義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦で戦う大刀と強弓の女武者として描かれている。『中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり』と記され、宇治川の戦いで破れ、落ち延びる義仲に従い、最後の七騎、五騎になっても討たれなかったという。

横浜全域を、車でなら、縦に走っても横に走っても、そんなに苦になる距離ではない。市内を東西一番長い距離を、健脚の私なら徒歩でも、8~9時間もあれば歩き通せるだろう。

そんなに狭い横浜の中で、或る場所から或る場所に移っただけなのに、昔でいう、たった2里そこそこに移住しただけだというのに、なんとも遠くに来てしまったように感じるのは、何故なんだろう。

散歩。老いた恋人たち

富士山

(Wikipediaより拝借。近いうちに、散歩コースから見える富士山の写真と差し替えます)

私は、毎朝住まいの周辺を、短いときは40分長いときでも1時間半ほど散歩をしている。歩行距離は3~5キロ前後だと思われる。家を、早い時で3時半、遅い時でも4時半までには出る。寝不足のときもあれば、前夜の深酒で息は酒臭く、顔に赤みが残ったままのときもある。普通は、大抵、スッキリサワヤカ君だ。

色んなコースを用意しているのです。土地区画整理事業で整然と出来上がった農耕地を見ながらのコース、深山を想わせるほどの、なかなかの山道コースもあるのですが、その色んなコースを組み合わせて楽しんでいる。

毎日歩いていると、そのうちに度々見かけるようになって、挨拶を交わし合う人も増えてきた。会う人は、散歩中の時間帯やコースによっても違うが、コースと会う人がセットになって、記憶されていく。

そこで、私が家を4時半に出かけたときは、大体、富士山が真正面に見える緩やかな上り坂でオバアチャンを追い抜く。その小柄なオバアチャンは、足が多少不自由で、その歩幅は15センチ位、それでもピッチは早く、ゼンマイ仕掛けのお人形さんのように、ちょこちょこ進んでいく。年齢は85才以上と思われる。服装はきちんと整えていて、きっと、立派なお家(うち)の立派なオバアチャンなんだろうと、勝手に思い込んでいる。

20110429のことだ。オバアチャンと進む方向は同じでも、私は、この日は道路の反対側の歩道のずうっと後方を歩いていた。そうしたら、オバアチャン側の歩道を坂の上から、富士山側から、オバアチャンに向かってくるオジイチャンがいて、そのオジイチャンがオバアチャンの前、5メートルほどに近づくと、両手を横にいっぱいに拡げたのです。私は、後方から見ていた。

そしたら、オバアチャンはそのオジイチャンが拡げた両手の中に、身を丸めて吸い込まれて入った。雛鳥が親鳥に抱え込まれるように。オジイチャンは両手でしっかり抱いていた。彼女の片方の頬は、彼の胸にぴったりくっついていた。静かに時間は過ぎる。それから、二人は接吻をしたのです。朝の4時45分ごろ、曇ってはいたがすっかり夜は明けている。道路は、車が増えだしている。

私は、調子づいた足を止めることもできず、私の方が先を越しててしまった。接吻に要したのは、約1分ぐらいだ。しばらくして、振り返って見たら、彼女は彼の体から離れたところだった。そして、二人は手をつないで歩き出すと同時に、ワッハッハと笑って、それから今度は大きな声で何やらおしゃべりを始めたのです。彼の大きな声に負けじとばかりに、彼女も大きな声で応じていた。小柄なオバアチャンに、よくもこんな大きな声がでるもんだ、と感心させられた。

50メートルほど先になっても、彼と彼女の声は後ろの方から聞こえた。私は、何だか嬉しくなって、ニンマリ。誰にも見られていないので構うものかと、大いに表情を崩しながら、ワッハッハと彼女らの真似をしながら散歩を続けた。彼は彼女のペースに合わせて寄り添って歩いていた。

彼女は、足がどうにか歩けるうちには、歩かないと足が弱ることをよく認識しているのだろう。歩かないと、その不具合がスピードを上げて弱りだす。私の祖母も同じだった。

微笑ましい二人だ。

実は、彼のことは、私がこの地に引っ越してきて、そんなに間が経たないうちに知ったのです。駅裏の近くに、深山幽谷らしい雰囲気を少し味わえる山林があって、杉林に囲まれた細い山道が500メートルほどの距離で続いているのですが、狭いその道で、彼とは数度肩を擦れ合うように行き交い、挨拶を交わしたことがある。表情の豊かな老人だと思った。

そして今日20110521のこと、富士山を真正面に見ての上り坂を過ぎて、丁度下り坂になった所で、二人は手をつなぎながら、大きな声で話し合いながら歩いているのを見かけた。今日も強い抱擁と熱い接吻を交わしたのだろうか、やっぱり気になる。

今朝も、たまたま二人は、出くわしただけなのだろうか、そんなことはないだろう、きっとお約束通りの、定例の、お決まりの散歩なのだ。いつも一緒に散歩を楽しむことにしているのだろう。

この二人は、どういう関係なのだろうかと考えた。その瞬間、下種(げす)な勘繰りをする私の品性の下劣さに、恥ずかしくなった!! 馬鹿、アホ、間抜けのスカタン。それでも、懲りずに思いは広がる。何となく、夫婦ではなさそうだ。ならば、恋人同士?か。

どうかご両人、お体に十分注意なさって、長生きしていただきたいと思う。オジイチャンにはどっこも悪いところはなさそうだが、彼女の足のことは気になります。

お二人の末永い健康を祈ろう。

2011年5月16日月曜日

ビンラディン容疑者殺害

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(オサマ・ビンラディン 容疑者が録画ビデオで声明を発表する様子が01年11月に放送された=ロイター)

アメリカよ、オバマさん、ビンラディンを殺してすむものではない。

20110501〈日本時間2日)。オバマ米大統領は、ホワイトハウスで演説し、20001年の米同時多発テロを首謀したとされる国際テロ組織アルカイダの指導者オサマ・ビンラディン容疑者を米軍などがパキスタン国内で殺害し、遺体を確保したと発表した。

昨夏、ビンラディン容疑者がパキスタンに潜伏しているとの情報を入手。その後、同国北部アボタバードの潜伏先を特定した。オバマ大統領は身柄を確保するための作戦を許可した。作戦は現地時間の2日未明に実施され、小規模の実行部隊がヘリコプターを使って潜伏先を襲撃。ビンラディン容疑者は銃撃戦の末に死亡し、遺体は米側が確保した。この際、同容疑者の側近2人や息子らも死亡した。遺体は水葬にした。ここまでの文章は、20110503の朝日新聞・朝刊の記事から抜粋したものです。

私は、新聞の第一面に目を通した瞬間、直感、そんなに簡単にビンラディンを殺してよかったのか、と新聞を片手に叫んでいた。一発で殺すことは、後々に何か問題をはらむことになると危惧したのだ。側に居た友人に、殺してもよかったの? と問うと、平静な表情で、よかったんじゃないの、と返ってきた。パキスタン政府は米の作戦を前もって知らされていたのだろうか、まさか告知なしで作戦が展開されたことはないだろうな。

殺害現場の状況からして拘束は可能だったのではないか。生かしておけば、信奉者たちが何をしでかすか不安だよ、過激な奪還が予想されるし、そんなことを米国は恐れて一発で殺したんだよ、と友人は言うが、納得できない。すでに国連の安保理決議では、ビンラディン容疑者を裁判にかけることを想定していた。いきなり殺害してしまうのは国連安保理の精神に則したものか疑わしいと早大の最上敏樹教授は指摘する。

国際法はどうなのか、私には難しいことは解らないが、やっぱり拘束して、裁判にかけるべきだったのではないかと、自然体で理解する。ビンラディンが如何にして米など西側諸国に憎しみを持つようになったのか。ビンラディン容疑者の抗弁に耳を傾けたかった。

法政大学の多谷千香子教授は「米国にとって危険人物なら、誰でも殺してよいことになってしまう」と批判する。私も同感だ。

現実に、キューバのグアンタナモ米軍基地内では9・11事件に関わったとされる容疑者らが審理する特別軍事法廷がある。ここで裁かれるべきではなかったのか。

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(2日、ビンラディン容疑者が潜んでいたと見られる邸宅。パキスタン兵が近くに立っている)

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(20110911 世界貿易センタービル南棟に衝突する直前の旅客機。1機目が突っ込んだ北棟から黒煙が上がっている)

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(ビンラディン容疑者死亡のニュースにわくニューヨーク市民=AP)

20110503の朝日新聞・朝刊より。

(立野純二・アメリカ総局長)

世界の矛盾が生み出した男

オサマ・ビンラディン容疑者の背丈は2メートルに近い。その長身もすっぽり隠す高い防壁が隠れ家を覆っていたという。米国が超大国としての威信と5千万ドル〈約41億円の懸賞金をかけて追い続けた希代のテロリストは意外にも、パキスタンの首都に近い都市の中で家族と息を潜めていた。

「ビンラディン」とは何だったのか。冷戦が終わった90年代初め以降、存在感を高めたイスラム過激派の破壊主義者であり、9・11事件を首謀して3千近い人命を奪った大量殺人容疑者である。米部隊による殺害について、欧州各国が「偉大な成功」(キャメロン英首相)、「すべての民主国の勝利」〈フランス外相)と肯定するのも無理はない。

だが、この報を聞いて、米欧と同じく反テロ姿勢を続けてきたはずのサウジアラビアなど中東の各国政府が沈黙を守るのはなでか。それは多分に、ビンラディンの思想の一部に、かなりの人々が共鳴できる要素が含まれており、それはビンラディンの死後もなお生き続けることを統治者たちが熟知しているからだ。

無差別殺人に手を染めたビンラディンは犯罪者であって、革命家ではあり得なかった。だが、その訴えに通底していたのは、大国のエゴに対する憤りだった。80年代はアフガニスタンに侵攻した旧ソ連軍と戦い、冷戦後は一極支配体制に入った米国に戦いを挑んだ男に、とくにグローバル化から取り残された途上国で、英雄と見る視線が注がれたことも確かだ。

この10年間の世界の記憶をたどれば、米ニューヨークの世界貿易センタービルが崩れ落ちる惨状と並んで、イラクとアフガンの幾万の人々が多国籍軍による攻撃と自国の内乱で殺された過去がよみがえる。テロという悪への対抗心にはやり、大義のない戦争という悪に米欧も日本も走ってしまった良心の呵責が、ビンラディンの死につきまとう。

一筋の救いは、中東・北アフリカの「アラブの春」だ。欧米の自由主義を敵とするビンラディンの詭弁に乗らず、自国の独裁の壁を打ち破って未来をつかもうとする民衆の情熱こそが、イスラム過激派の病の根本を絶つ希望をはぐくむ。暴力活動の根源は、貧困であり差別であり、人間の尊厳がないがしろにされる世界の矛盾からだ。

無差別テロというゆがんだ思想を生んだ矛盾に今一度、世界が目を向けない限り、ビンラディンは生き続ける。米欧も、そして日本も、9・11事件直後に考えた平和の処方箋に改めて思いを巡らす時だ。

(上記の写真の全ては、朝日新聞から無断拝借させていただきました)

2011年5月15日日曜日

原子力発電も地産地消だ

(3月20日、「エア・フォート・サービス」の無人飛行機によって撮影されたもの。左が4号機、右にあるのが3号機)

東日本大震災の津波で甚大な被害を被った東京電力福島第1原子力発電所は、2ヶ月経っても未だに鎮まるどころか、今日0515現在、まだ最悪の状態から脱出できていない。20110512の朝日新聞によると、東京電力は、3号機でも取水口付近の汚染水を防ぐために設置されたシルトフェンスの外側の海水から、海洋に排出できる国の基準の濃度の1万8千倍のセシウム134を検出したと発表した。2号機からは高濃度の汚染水が漏れ出たことはあったが、3号機で確認されたのは初めてだ。

今回の事故で、つくづく原子力発電所が摩訶不思議な代物だということが、国民全ての人が全身で理解した。摩訶不思議というのは、一つ間違えれば、人間の叡智で制御できないからだ。原子力発電の安全神話は崩れた。今月の11日の朝日新聞・天声人語で紹介されていたものをここに加える。ある科学者はかって、放射能を撒き散らす核実験について「地球の一点から全世界が汚染できるとは誰も考えつかなかった」と語ったそうだ(武田徹{私たちはこうして『原発大国』を選んだ」より)。

20110513の朝日新聞で、社会学者のウルリッヒ・ベックさんが、近代社会が生んだ限界のないリスクに関して、原子力だけではないが、気候変動やグローバル化した金融市場、テロリズムなども同じような性格のリスクにさらされていると言い、そのリスクのことを次のように語っている。「人間自身が作り出し、その弊害の広がりに、社会的、地理的、時間的に限界がない大災害です。通常の事故は、たとえば交通事故であれ、あるいはもっと深刻で数千人がなくなる場合であれ、被害は一定の社会グループに限定されます。しかし、原発事故はそうではない。新しいタイプのリスクです」。

政府もここに至って、今後の原子力発電行政の見直しを始めたらしい。検討する内容は、決まっている。先ずは、今稼動している原子力発電所が安全かどうかの点検だろう。その後、点検や改善や、改良、新技術の開発 が試みられるのだろうが、それよりも何よりも、絶対安全な原子力発電が可能なのだろうか。本当に想定外だったのかという論議はさておき、(想定外のことが発生しようが)どうにでも、コントロールできるものでないと、不安だ。その不安が払拭されて安全が保証されないようでは、原子力発電所は、作ってはいけないのではないか。

国策として、原子力発電に頼るという今までの行政の見直しが必要だ。国民投票で国民の意思を確認することは必至だ。

近年、食物や衣料その他で、地産地消運動が盛んだが、原子力発電を真に望むなら、絶対地産地消でなければならないのではないか。住まいの近くに原子力発電所があるべきだ。たとえ東京といえども、人口が集中していようが。そのためには、大気を汚さない、住民を危険に絶対さらさない。当然、発生した廃棄物もその近くで処分されなくてはならない。

その使用済み核燃料廃棄物の処理場、それから再処理技術の確立や再処理場の確保もできないまま、原子力発電に猛進した結果が、こうだ。福島第1原発の貯蔵プールには事故時、4546本の使用済みの核燃料があった。東芝、日立、三菱らの原子力発電施工会社と各ゼネコンだけが、巨利を得てきたのではないか。虚構の安全神話を振り回しながら。

そんなことを雑感する日々だった。

ところが、どっこい、変なことが起ころうとしていることが判明した。そのことが、今回のこの稿のメインテーマだ。

私が最近の日々思っていたこととは全然逆のことが行われようとしている。モンゴルに日米が、核廃棄物の処理場を作るというのだ。モンゴルには行ったことがないので、本当のモンゴルの素晴らしさを知らないのですが、あの奇麗な青い空、緑の草原をイメージすると、なんだかイヤな話題だなあと思う。日米が、自国内では処分場が確保できないので、他所の国に捨てるというのだ。その昔、首都圏では住民から集めた糞尿を近海に投棄していたことを思い出した。ただ、糞尿は化学物質ではなかった。

内容は、毎日新聞の記事に頼ろう。

核処分場・モンゴルに計画ーーー日米、昨秋から交渉

【ウランバートル会川晴之】経済産業省が昨年秋から米エネルギー省と共同で、使用済み核燃料などの世界初の国際的な貯蔵・処分施設をモンゴルに建設する計画を極秘に進めていることがわかった。処分場を自国内に持たない日米にとって、原子炉と廃棄物処理とをセットに国際的な原子力発電所の売込みを仕掛けるロシアやフランスに対抗するのが主な狙い。モンゴルは見返りとして日米からの原子力技術支援を受ける。だが、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故で日本政府は原子力政策の抜本的な見直しを迫られており、「核のゴミ」を第三国に負わせる手法に批判がでそうだ。

ここまでキーを叩いてきて、ふと思いついたことがある。今後、実用化を目指している「高速増殖炉」のことだ。これは、どんなもんなんだろう。まだまだ、心配の種は尽きない。

2011年5月10日火曜日

安部公房「砂の女」を読んだ

安部公房、「砂の女」を読んだ。

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私が中学生だったか高校生のときだったか、「砂の女」の映画を宇治で観た。宇治東映か宇治松竹のどちらかの映画館だった。この2館は並んでいた。私はマセタ少年だったようです。

監督・勅使河原宏、出演者・岡田英次、岸田今日子、音楽・武満徹、撮影・瀬川浩、脚本は作家安部公房自らが担当したので原作に忠実だ。作品は各部門において数々の賞を獲得した。音楽も評価が高かった。

何故、観ることになったのか。映画館の前に掲げられたポスターが刺激的だった。砂にまみれた男女が裸で絡んでいる絵柄だったのですが、成長とともに誰もが通過する、特に思春期の男の子が女の体に特別興味を持ち始める、そういう筋合いの物ではなく、そのポスターから、子供心ながら、何か惹(ひ)かれるモノを感じたのでした。私の知らないこと、大人だけにしか解らない、何かが匂う。エッチ風なのに大真面目な雰囲気が、これって、ちょっと可笑しいぞ、そんな直感です。今から50年程前のことなんですが、不思議な感覚はよく憶えている。だが、結果は、エッチも糞も何も解らなかった。

そして、大学生になってこの本を読んだ。

この本の新刊書を、当時赤貧の身だった私には、相当値段が高かったが、なけなしの金で買った。読もうと思ったのは、子供の頃映画は観たものの、よく解らないままだったことを思い起こしたからだ

かって読んだ本は、整理の行き届いてない本棚からは探せなくて、何とかオフの105円コーナーで見つけて、読み始めた。あらすじを後ろに纏めたが、読後感想を書き上げることができなかった。頭の固い私には、このような不条理な物語を理解する脳細胞が乏しいようです。頭の中でモヤモヤしている状態を文章化すればいいのでしょうが、適切な言語が浮かばない、上手く文章が綴れない。この己の読書〈解〉力のいつもながらの貧困さに愕然とした。50年前と何も変わってない、成長してないことに痛感した。

あらすじーーー

物語の舞台はほとんどが、砂の穴の中の一軒家、砂がぽろぽろ崩れて埋(うず)もれそうな家の外と内、そして村人が立ち寄る穴の上。

主人公は新種のハンミョウを採取するために砂丘にやってきた教師。寡婦が住む家に滞在するように村民からすすめられ砂に埋もれかかった不思議な家に足を入れた。その家は、蟻の巣のような、穴の中の一軒家だ。村のどの家も同じように砂に埋もれかけていた。一夜明けると、地上との唯一のつながりである縄梯子が外されていた。男は、閉ざされたのだ。

村の家々は、上方から降る砂や壁から崩れる砂を、常々掻きださないと、家は埋もれてしまい、次から次へと他の家にも被害が及ぼすことになる。そのためにも、人手の少ない寡婦の家には助っ人が必要だった。

砂の中の生活に追いやられた理不尽を理解できない男は、何とか抜け出す方法を思案するが、妙案は浮かばない。そんな男に気を使う女は、男にすがりつこうとでもしているのだろうか。頓着した風も見せず、女は砂を掻きつづける。そして、そのうち男も女と同じように砂を掻きはじめた。協力しだした。

登場人物は、男と女以外は、彼らが掻いた砂を軽自動車で運んだり、水、タバコ、新聞などを届ける村民数人が全てだ。

読書は、丁度今日(20110502)で道半(なか)ば。本は新潮社、全218ページのうち110ページめだ。難しい、遅々として進みが悪い。読むことを暫く休むことにする。頭のティータイムだ

砂ってなんだろう。土でも石でもない、砂を噛むような味気なさって日常的に使うが、今回は味気なさどころか、恐怖をもたらすものとして主人公を悩ませる。砂は風によって紋を描き、その模様はどこまでも美しい。砂の一粒一粒は個体で無機的だが、砂丘になると全体が有機的に動き出す。固体でありながら、流体力学的な性質をもつと作者は言う。

深呼吸して、読書再開。

太陽はじりじり穴の中の一軒家を照りつける。喉が渇いて、もうどうしょうもない状態に追いやられている。それでも、働けば、砂を掻けば水は届けてくれる。火の見櫓の監視人が見張っているのだ。水を届けてくれた村民にコミュニケーションを取ろうとするが、聞き耳を持ってくれない。

だが、男はめげずに、脱出の具体的な準備に入る。こっそりロープの準備をし始め、女からは、部落の地形などを聞き出した。そして逃亡実行の夜がきた。昼間アスピリンを飲んで充分に睡眠をとった。一人で働かざるを得なかった女はさすがに疲れて帰ってきた。その上に、男はなんだかんだと女を疲れさせぐっすり寝かせることに成功する。

屋根の上に上って、ロープの先に鋏を結びつけて、穴の上部に投げること数回。そのうちに鋏が鉤(かぎ)になって地上の俵にひっかかった。ロープで地上によじ登って、脱出成功。海岸線と思われる方面に逃げた。

自由の身にになったものの、夜の真っ暗闇の中、道や方向が解らなくて迷う。穴の中で女と過ごした幾日間のことが腑に落ちない。自分の位置が解らぬままにさ迷っていると、柔らかい砂地に足をとられ、どんどん体が深みに吸い込まれ、ついには下半身がすっぽり埋まって身動きできなくなった。

やがて村人達に助けられ、再び、女の家がある穴の中に吊り下ろされた。男は烏を捕まえる罠を作った。砂の中に桶を埋めてその表面に新聞を敷いて、その上に煮干を置いて、周りを砂で隠した。烏を捕まえて、足に助けを求める手紙をつけて逃がすんだ、と無為とも思われる行為でやり過ごす。

男は村人に海を見せてくれと頼むと、その交換条件に女との交接を見せてくれと言われ、穴の上から松明(たいまつ)を掲げ、太鼓を鳴らして、囃し立てられる。男は困惑しながらも、女を家の外に引きずりだし必死に襲い掛かった。女は逃げ惑う。

烏の罠を開けてみたら桶に水が溜まっていた。これは毛細管現象で、砂が周囲から水を吸い上げたのだ、とこれからは水を配給されなくても生きていけるんだと望みをつなぐ。

女は腹痛を訴え、村人に穴から医者に連れ出される。

男は一人取り残された。縄梯子はかけたままだったので、穴から外に出てみた。見たかった海が、見えた。逃げようと思えば、自由に逃げることは可能だったが再び穴に戻った。

一人になった男は、烏を捕る罠を眺めながら、心情を吐露する。

その吐露した言葉を映画の台詞のまま、ここに再現して、彼の心情を想う=『別にあわてて逃げ出したりする必要はないのだ。私の気持ちは貯水装置のことを誰かに話したいという欲望ではちきれそうになっている。話すとなれば、この部落の者以上の聞き手はまず有り得ない。逃げる手立てはそれから考えれば良い』

男の表情はかってなく、明るい希望に満ちていた。

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この本に添えられていた三島由紀夫の書評を此処に書き写す。

詩情とサスペンスに充ちた見事な導入部、再三の脱出のスリル、そして砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ、----すべてが劇作家の才能と小説家の才能との、安部氏における幸福な統合を示している。日本の現実に対して風土的恐怖を与えたのは、全て作者のフィクションであり寓意であるが、その虚構は、綿々として尽きない異様な感覚の持続によって保証される。これは地上のどこかの異国の物語ではない、やはりわれわれが生きている他ならない日本の物語なのである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥った主人公を救いに来る村人の、「白々しい、罪のないような話しっぷり」一つをとっても窺われる。一旦読み出したら止められないこと請合いの小説。

2011年5月8日日曜日

こどもの日に思ったこと

今日は「こどもの日」だ。

1948年、私が生まれた年に、「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福を図るとともに、母に感謝する」を趣旨として、5月5日を子どもの日と制定された。

この制定の趣旨にある、子どもの人格や幸福のことと母に感謝するということが、そりゃ両方とも大事なことは解っているのですが、子どもの日だから子どものことだけにしておけばいいものを、両方共一緒くたに纏めたのは、何故なのだろうか、と思った。趣旨を説明する文章にしては、ちょっと無理しているなあ、と感じる。

でも、子どもには母が居て、その母にも母が居る。

ある国会議員がテレビ番組の中で、制定した当時のいきさつを、「子どもが生まれて育つ上で、どれほど母親の役割が大きいか、ということを考えてもらうためにも、せめて、こどもの日ぐらい母に感謝するということを盛り込もう、ということになった」と披露した。このことをネットで知った。

こんなことに、何故(なにゆえ)に私が拘るのか、かって、弊社のスタッフの和さんと私が会話した内容が頭から離れないからだ。

会社での仕事中のことです。女性スタッフの和さんが、椅子に腰をかけて、俯(うつむ)いて、机の下の引き出しから何かを探し出そうとしていた。彼女の側に立って電話をかけていた私は、彼女の後頭部の白髪の多さに気づいてしまった。

和さん、白髪が増えたなあ、と臆面もなく失礼なことを言ってしまった。そうしたら、和さんは、「そうなんですよ、白髪が増えちゃいました。でもそんなことに構って金を使うぐらいなら、年寄りに美味いものでも食ってもらえれば、と思っているんですよ」と元気よく言い返された。

このことを聞かされた私は、顔面にパンチを食らわされたおもいだった。彼女は、高齢で認知症が始まった母と病弱な父、中学生の元気な男の子と暮らしている。

和さんは、親に今までのことに感謝しているんです、できるだけ元気で長生きしてもらいたいと思っている。私は親の世話を元気にすることで、息子は元気になるようにおもうのです、と言う。

なるほど、子どもが元気に健やかに育つためには、母が自分の両親を元気にさせることなんだ。母の両親は母に感謝し、息子は母に元気をもらい健やかに育ち、そして感謝する。

こどもの日制定を国会議案に提出した議員らはこのように、子どもの健康と幸福、母に感謝することの絶対連鎖を、趣旨の中でどうしても避けられなかったのだろう。

2011年5月7日土曜日

こどもの日、うちはよもぎ湯だ

初老の私には、菖蒲湯はキツイ、やはりよもぎ(蓬)湯がお似合いだ。

5月5日のこどもの日には、五月人形を飾り、鯉のぼりをあげたり、ちまき(粽)や柏餅を食ったり、そして菖蒲湯に入ることになっている。我が家でも、今までは家人が用意してくれた菖蒲湯を何も考えずにつかってきた。

この菖蒲湯は江戸時代からは民衆の間でも習慣になったようだ。菖蒲を尚武とかけたらしい。こどもの日、とりわけ男の子の成長が、強く逞しくあって欲しいと願う日。菖蒲の葉は細く長く、武士が携える刀に似ている。

ところで、尚武とは=武道、武勇を重んじること。

今年は、私の身の周りに変化があって、そんなわけで、ス-パーの店頭に菖蒲が並んでいるのに気づいて、改めて、菖蒲湯ってなんだっけ、何是(なんぜ)こんな物を風呂に入れるんだと思い巡らして、それなりに思い当たっても、今まで何十年と利用してきた割りには、感慨が浅いことに今になって感じた。

それは、菖蒲という植物に馴染みがないこと。それに、私は女の子3人と男の子1人を育てたのですが、なにも取り立てて、男の子の健やかな成長を祈るなんてことに抵抗があった。その後知ったことだけれど、尚武という文字を見ただけで毛嫌いする私の感性も加わったことが原因だったようだ。

私の田舎〈京都府綴喜郡宇治田原町)では、こどもの日の頃、よもぎのシーズンでもあって、野良仕事に忙しい母にかわって祖母が、頻繁によもぎ湯をしてくれた。

よもぎは宿根草で、畑などでは少し油断すると、どこからか忍び寄ってきて、それがどんどん根茎を伸ばして、農作物を育てる百姓にとっては厄介者です。それほど馴染みのある草なのです。

祖母は、よもぎのシーズン中、数回、よもぎ団子や草餅を作ってくれた。祖母の作ったものは、何でも日本一美味かった。一度に沢山作るので、暫らくはおやつは絶えなかった。少し経つと表面が硬くなるが、火鉢の炭火でゆっくり焼くと、香(こう)ばしいよもぎの香りが、家の中に充満して、皆の心や体を癒してくれた。家族の顔が微笑ましく見えた。

私は、よもぎ湯を作るために、一週間前によもぎを刈ってきて、ベランダの軒下に陰干しをしておいた。そして、こどもの日の翌日、こどもの日の当日では菖蒲湯と張り合っているようで、避けて、よもぎをタオルに包めばいいんですよ、と友人のアドバイスに従って湯に浸した。

いっぱいエキスを出せ、と風呂に入ってよもぎをタオルの上から揉んだ。翌日の朝風呂、よもぎの栄養分が煮汁のように出たようで、湯は薄く黒ずんでいた。香りが浴室を満たしていた。

薬効が高く、身近な薬草で、通称「万能薬草」と言われているらしい。栄養価も高く、健康食品でもある。草餅、よもぎ団子が代表的だ。香気は邪気を払うといわれ、昔から魔除(よ)けに用いられ、ストレス解消、安眠をもたらす。血行を促進させるため肩こり、神経痛を和らげる。

菖蒲湯は精神論的で、よもぎ湯は健康志向の実用的?

以前、20110426の『蓬(よもぎ)を食べる』でも書いたのですが、沖縄のそば屋さんでは、「ソーキそば」によもぎをふりかけて食べていた。店のテーブルには笊(ざる)に入れたよもぎが置いてあって、それを自由にふりかけていた。ソーキとは豚の軟骨です。私はラーメンと思ったけれどラーメンではなく、ソーキそばと名前にそばがつくが、麺はそば粉を使わないで、100%小麦粉で作る沖縄独特の製法による麺だ。沖縄では、よもぎが豚並みの重要な食材だ。

こどもの頃、私の家では牛を飼っていて、牛のえさに近所の野原で草を刈ってきて食わせるのですが、その草を刈るのが長兄の仕事で、私はそのアシスタントでした。兄が間違って、鎌で手や指を切ることが度々あったのですが、その際、兄はよもぎで切れたところを包み込むようにして止血していたのを思い出す。よもぎには殺菌、止血収斂(しゅうれん)作用のあるタンニンが多く含まれているということを、12,3歳の兄が、よくも知っていたものだと、今さらながら驚かされた。今度郷里に戻ったときに兄貴に確かめよう。

今日20110507は、ゴールデンウイークで私の唯一の休日だ。

よもぎ湯に、昨夜入って、今朝入って、昼にも入った。昼には、墨を薄めたように黒くなりかけていた。

そこで、また思い出したことがあるのです。よもぎ湯だけでなく、番茶を入れた風呂にも入ったことがあった。あれは、我が家のオリジナルだったのだろうか。兄貴に聞かなくてはならないことが、もう一つ増えた。

2011年5月6日金曜日

先輩、八重樫さんが亡くなった

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(朝日新聞より。パスを送る八重樫茂生さん。1968年12月22日、東京・国立競技場)

私が夢遊病者のように早稲田大学ア式蹴球部で、のたうちまわっていた4年間〈1968~1972年)に、大先輩・八重樫茂生さんはよく、東伏見の我々の大学のグラウンドに顔を出してくれた。当時、彼は、日本サッカーリーグの古河電工に所属していた。紅白ゲームに参加して、当然私も参加していたのですが、何やら、こ難しい先輩だなあ、という印象だった。

確かに、当時のサッカープレーヤーとしては、何もかも身に付けた、優秀なプレーヤーだった。彼の足跡は、偉大な成果を残した。早稲田大学でも、古河電工でも、日本代表選手として、メキシコ五輪においては銅メダル獲得した日本代表チームの主将を務めた。

彼が所属したどのチームでも、チームの大黒柱を務めた。人望もさることながら、サッカーに対する愛着と意志の強さが彼を支えていたのだろう。

彼と同年代の選手やチームを後ろでサポートした関係者に言えることは、日本代表を少しでも世界レベルに比肩されるまでになって欲しいという共通の思いを強く抱いていたことだ。皮肉屋の私は、それゃ到底無理だ、と悲観していた。

当時の野津謙・日本サッカーー協会会長の要請を受けて、ドイツから日本代表のコーチに来たデットマール・クラーマーが、サッカーの基本の基本をがっちり教えて、その教え子たちは真面目に忠実に学習、体得した。その教えを、メキシコ五輪で花を咲かせることができた。生真面目な日本人には、ドイツ人のクラーマーとは相性がよかった。八重樫さんたちはクラーマー学校の優等生だった。20110504の朝日新聞の記事で、メキシコ五輪においては、八重樫さんは初戦のナイジェリア戦で相手のラフプレーを受けて負傷、その後の試合には出られなかったことを知った。それで、八重樫さんの訃報を兼ねたスポーツ面での評伝のタイトルは、伝説の主将 不滅の銅、とあった。

クラーマーの申し子が、立派に育ったことは、これはこれで、とっても有難かったのですが、逆に、このクラーマーの教えが、長年、日本サッカーの金縛りにもなったのではないだろうか。

私が大学生だった時、三菱企業グループがスポンサーのダイヤモンドサッカーという番組があって、ヨーロッパのサッカーの試合を毎週、週末夕方に放映されていた。この番組がサッカーを愛する者たちに与えた影響は大きかった。この番組が、サッカーのもつ本来の魅力、妙味、醍醐味、近年ではファンタスチィックという言葉を使うこともあるが、どれだけ多くのサッカーファンの心を虜(とりこ)にしたことか。

当時の私たちは、頭の中ではダイヤモンドサッカーを楽しく理解しながらも、目の前のサッカーでは、八重樫さんのような大選手が、手をとり足を操って、こうしてこうするんだ、なんぜここでこうしないんだ、サイドキックはインステップキックは、なんぜそっちへ走らないんだ、なんぜそんなところにいるんだと指導する、そんな基本的な定則に縛られていたように思う。

個人技を磨くことは、チーム力の核になる想像力や、イメージしたことを活かすことになる。指導を受ける側の私たちは、既に新しいサッカーに目覚め、新しい指導を求めていた。

そういうことで、八重樫茂生先輩は、一時代築いた立派な選手だったけれど、余りにも自己主張の強い性格から、あに図らんや、新しいサッカーへのブレーキ役にもなってしまったのではないか。だから、指導者としては長くやってもらっては困る、と危惧していたら、彼ご自身、そんなことは他人に言われなくても、お分かりだったようだ。

その後、八重樫さんのプレースタイルが、好(い)いにつけ悪いにつけ、どのチームにも模範になった。彼ののポジションから好選手が輩出したのは、日本人の特質もあるのだろうが、八重樫さんの功績でもあると確信する。

黄泉(よみ)の国へ旅立った八重樫先輩、大学での紅白試合中のことです、私のパスが余りにもヘンチョコリンだったことに、呆(あき)れ果てた表情をされたのです。確かに私のキックは、コースにしても強さにしてもまずかった。でも、あんなに口うるさいあなたが、何故、得意の、こうしてああして、と言ってくれなかったのですか。

大丈夫です、40年も前のことです。ますます隔世の感ありのサッカーの発展は続くでしょう、天国から今後もお確かめください。

八重樫茂生先輩は、今の日本のサッカーの土台を築かれた立派な人材だった。

2011年5月3日火曜日

今度は、そら豆ご飯だ

先日、天王町駅前の八百屋さんの店頭にそら豆が並べられていて、どのように食えばいいのか、メニューを思いつく前に、躊躇(ためら)いなく買った。帰宅の電車の中、このそら豆君と睨(にら)めっこをしていたら、望郷の思いにかられた。

  

  (そら豆の豆果)        (豆果の中のそら豆)

年のせいだろうか、此の頃、昔のことを思い出すことが多くなった。生家は農家だった。このそら豆を見たときも、私の生家の畑で育てられていたそら豆や数々の野菜のこと、村を囲むように連なる山と峰、農家の家並みがぽつ~んぽつ~んとあって、そのなかに、人里離れた我が家のたたずまい、田や畑、野原の風景が蘇(よみがえ)る。父に怒られながら、畑の中を近所の悪がきどもと、走り回っていた。

そら豆やえんどうは、母が畑から採ってきたものを、鞘(さや)から豆を取り出すのが私の仕事だった。鞘というのは日常語のようで、正式な学名は当然知らないが、ネットでは豆果と表現している。住んでいた村は、山間(やまあい)谷間(たにあい)の里で、シーズンの進み具合は他所よりも少し遅れていたようだ。味わったのは、春の終わりから初夏にかけての頃だと思う。

縁側や濡れ縁に腰をおろして少しづつ鞘をむくのです。いつも、やわらかな日差しを受けていたような気がする。苦になる仕事ではない。母に仕事を言いつけられて、嫌だなんて一回も言ったことのない素直な子供だった。父や母、祖母までが一所懸命に野良仕事をしているのを知っていたからだろう。

そら豆の鞘は大きいのに、少しだけの豆しか取れなくて、内心がっかりしながら、母にこれだけだったよと話しても、ありがとうと言いながら、当然のように台所に持ち去った。そら豆は、鞘を割って豆を手でつまんで取り出すのですが、えんどうの場合は鞘を開けて、並んでいる豆を親指の爪の部分で、へらのようにしてかきだしたものです。

茹でたそら豆を、ビールと焼酎と日本酒のつまみにして、美味しくいただきました。懐かしい故郷(ふるさと)の味だ。今日の一日に、感謝。

     (茹でたそら豆)

そら豆を、今日(20110502)も買った。

今回はそら豆ご飯を作るためだ。

茹で方は、地面より上になるものは、お湯に入れてから茹でて、地面より下になるものは、水のうちから入れて茹でる、これが原則らしい。今回のために、新しく学んだ知識だ。

そら豆は地面より上になっていたものだから、湯にいれてから茹でること2分、この間に塩と酒をいれると青臭さがとれると言うが、こんなところで酒なんか使えるか、と思って、私は塩だけを入れた。酒は人に飲まれるために造られているのだ。茹でたものを笊(ざる)にあけて、これで茹でる行程は終わり。

ご飯の方は、もち米を何割か入れるなんてネットのレシピではそうあるが、もち米なんか持ち合わせがない、当然無視した。鍋に、カツオの出汁(だし)と醤油を少したらしただけで、電気炊飯器のスウイッチをオン。

炊き上がったご飯に茹でたそら豆を混ぜて、出来上がり。どうだ?俺の調理に文句あっか?

一人で食っても、美味かった。二人でも、三人でも一緒に食う連中がいれば、もっと美味かったのだろう。このそら豆調理のてん末を友人に話したら、豆の殻〈豆果〉を剥(む)かないとアカンよ指摘され、俺の田舎では食えるものは何でも食うのが流儀なんだ、と言ってやった。

はみ出し原稿=私の長男・草の長女の名前が「そら」なのです。可愛くって、可愛くって、ぐっと抱きしめたい気持ちが、どうも今回は、そら豆ご飯に向かったようだ。弊社の財務担当の古さんのお孫さんも「そら」ちゃんで、こちらは男だそうだ。

(注)写真は3枚ともWikipediaさんより無断拝借)

炉心溶融 原発どうなる

今日は、20110503(憲法記念日)。世間はゴールデンウイークとかで、行楽地へ向かう人や帰省する人たちで、日本中、大いに人は移動中だ。

おい、お~い、今日は憲法記念日だ、ぜ。

どれだけの人が今日のこの日を認識しているのだろうか。そういう私も、ちょっと前に、カレンダーを見て確認したところだ。偉そうなことは言えない。

そんな休日の今日、弊社は大半のスタッフは休みを取っているのですが、一部の人間は出社している。仕事上、会社は完全に一人も居ない状態にはできないのです。だから、私は出勤している。が、少し業務をサボらせてもらって、このブログのためにキーボードを叩いている。

キーボードを叩きながら、後で、日本国憲法の前文だけでも読まなくてはイカンなあ、と一度(ひとたび)そんなことを考えてしまうと、今、やっぱり今日こそは、この前文に目を通してから始めるべきだ、と思い直した。よって、この前文をここに掲げた。3度、読み直した。

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上の図面は、朝日新聞の記事のものです。

ここから、炉心溶融の話です。

このゴールデンウイークのちょっとゆったりした時間を利用して、この妖怪野郎=原子力発電の炉心溶融のことについて、20110418の朝日新聞・朝刊【科学】で詳しく説明した記事が載っていたのを、ここにその記事を転(盗)載させていただいた。毎度、お馴染みの確信犯のヤマオカです。

このマイ備忘録に収めておけばいつでも、確認できるではアリマセンカ。

以下新聞記事のまま。

チェルノブイリ原発事故と並ぶ人類史上最悪の原子力事故として歴史に刻まれることになった東京電力福島第一原発事故。1~3号機では炉心溶融(メルトダウン)が起きたと考えられている。いったいどんな現象なのか。どんな困難が伴うのか。

東日本大震災の発生から約18時間後の3月12日午前8時36分、福島第一原発1号機の炉心の水位計は、燃料棒の上端部を意味する「0」を示した。

水位はさらに下がり、燃料棒が露出。その7時間後、原子炉建屋の上部を吹き飛ばす水素爆発が起きた。

炉心の核燃料は、運転停止後も放射性物質の崩壊で発熱しており、冷やし続けなければどんどん熱くなる。「冷却がなくなれば炉心は必ず溶融する。この現象はけっこう速く進む」。シビアアクシデント(過酷事故)研究の専門家で前原子力安全委員の早田(そうだ)邦久さんは話す。

炉心の約45%以上が溶融した1979年の米スリーマイル島(TMI)原発事故後、炉心溶融の研究は世界で進んだ。米国は炉心を溶かす実験もした。

 

2800度 燃料溶け出す

約1200度以上になると燃料被覆管の合金と水蒸気が化学反応して水素が発生する「水・ジルコニウム反応」が活発になる。これは発熱する反応で、温度は加速度的に上昇し、短時間で合金の融点(約1800度)を超える。約2800度になると燃料が溶け出す。

TMI事故では、燃料棒露出は緊急停止の約1時間40分後。それから30分程度あとに燃料が溶融し始めた。原子炉に水が入ったが冷却しきれず、高温になった被覆管や燃料が崩れ落ちて、がれき状の「デブリ」になったと考えられている。

デブリができてからも過熱や溶融が進み、約1時間半後には溶けた燃料が圧力容器の底に落ちた。格納容器内で水素の爆発的燃焼も起きた。

福島第一も燃料棒が長時間露出。1、3号機は12、14日に水素爆発で建屋が壊れ、2号機も15日に水素爆発とみられる圧力抑制室の損傷が起きた。この時点で、水素ができる反応がかなり進んでおり、炉心溶融が起きたのはほぼ間違いない、と過酷事故の専門家は口をそろえる。

米原子力規制委員会や、政府へ緊急提言した日本の原子力専門家16人も、三つの炉心はいずれも溶融し、圧力容器の底に落ちていると見ている。

炉心が溶融すると、極めて扱いにくい状態になる。

燃料ペレットと被覆管には、核分裂反応で生まれる膨大な量の放射性物質を閉じ込める役割がある。その機能がほぼ完全に失われる。

福島第一では燃料が壊れないと外に出ないプルトニウムやテクネウムも土壌や汚染水から検出された。ただ、環境への放出量は全体のごく一部で、原子炉内にまだ大量の放射性物質が残っているとみられている。

もし圧力容器の底に落ちた溶融体が十分に冷却されなければ、その一部が格納容器へ漏れ出す可能性がある。制御棒や計測器の貫通部など弱い部分が通り道になると考えられている。

過酷事故の専門家は、いざという時のため、漏れた溶融体と格納容器の底が触れて起きる「コア・コンクリート反応」も研究してきた。早田さんによると、欧州で計画中の新型炉には、圧力容器から漏れた溶融体を受け止めて冷却する「コア・キャッチャー」という安全装置が装備されているという。

 

 

塊に変化 冷却困難

1~3号機の圧力容器の底の現状はよくわからない。注水による冷却が続き、底部の温度も100度台になっているので、今も溶融体全体が溶岩のように溶けているとは考えにくい。

しかし、溶融が止まったとしても燃料の発熱は止まらない。冷却を続けなければ再び過熱して、原子炉から大量に放射性物質が漏れる恐れが高まる。

燃料棒の形が崩れていったんデブリや塊になると、体積あたりの表面積が小さくなり、冷えにくくなる。塊になった溶融体の外側が先に冷えて酸化物の層(クラスト)が形成される現象も知られる。そうなれば内部はいっそう冷えにくくなる。

圧力容器の温度はまだ安定しない。原発の過酷事故に詳しい社会技術システム安全研究所の田辺文也所長は、「冷えて固まった塊の中に、まだ溶けた状態の高温の部分が残っている可能性がある」とみる。   【安田朋起】