2011年5月10日火曜日

安部公房「砂の女」を読んだ

安部公房、「砂の女」を読んだ。

MX-3500FN_20110503_142027_001

私が中学生だったか高校生のときだったか、「砂の女」の映画を宇治で観た。宇治東映か宇治松竹のどちらかの映画館だった。この2館は並んでいた。私はマセタ少年だったようです。

監督・勅使河原宏、出演者・岡田英次、岸田今日子、音楽・武満徹、撮影・瀬川浩、脚本は作家安部公房自らが担当したので原作に忠実だ。作品は各部門において数々の賞を獲得した。音楽も評価が高かった。

何故、観ることになったのか。映画館の前に掲げられたポスターが刺激的だった。砂にまみれた男女が裸で絡んでいる絵柄だったのですが、成長とともに誰もが通過する、特に思春期の男の子が女の体に特別興味を持ち始める、そういう筋合いの物ではなく、そのポスターから、子供心ながら、何か惹(ひ)かれるモノを感じたのでした。私の知らないこと、大人だけにしか解らない、何かが匂う。エッチ風なのに大真面目な雰囲気が、これって、ちょっと可笑しいぞ、そんな直感です。今から50年程前のことなんですが、不思議な感覚はよく憶えている。だが、結果は、エッチも糞も何も解らなかった。

そして、大学生になってこの本を読んだ。

この本の新刊書を、当時赤貧の身だった私には、相当値段が高かったが、なけなしの金で買った。読もうと思ったのは、子供の頃映画は観たものの、よく解らないままだったことを思い起こしたからだ

かって読んだ本は、整理の行き届いてない本棚からは探せなくて、何とかオフの105円コーナーで見つけて、読み始めた。あらすじを後ろに纏めたが、読後感想を書き上げることができなかった。頭の固い私には、このような不条理な物語を理解する脳細胞が乏しいようです。頭の中でモヤモヤしている状態を文章化すればいいのでしょうが、適切な言語が浮かばない、上手く文章が綴れない。この己の読書〈解〉力のいつもながらの貧困さに愕然とした。50年前と何も変わってない、成長してないことに痛感した。

あらすじーーー

物語の舞台はほとんどが、砂の穴の中の一軒家、砂がぽろぽろ崩れて埋(うず)もれそうな家の外と内、そして村人が立ち寄る穴の上。

主人公は新種のハンミョウを採取するために砂丘にやってきた教師。寡婦が住む家に滞在するように村民からすすめられ砂に埋もれかかった不思議な家に足を入れた。その家は、蟻の巣のような、穴の中の一軒家だ。村のどの家も同じように砂に埋もれかけていた。一夜明けると、地上との唯一のつながりである縄梯子が外されていた。男は、閉ざされたのだ。

村の家々は、上方から降る砂や壁から崩れる砂を、常々掻きださないと、家は埋もれてしまい、次から次へと他の家にも被害が及ぼすことになる。そのためにも、人手の少ない寡婦の家には助っ人が必要だった。

砂の中の生活に追いやられた理不尽を理解できない男は、何とか抜け出す方法を思案するが、妙案は浮かばない。そんな男に気を使う女は、男にすがりつこうとでもしているのだろうか。頓着した風も見せず、女は砂を掻きつづける。そして、そのうち男も女と同じように砂を掻きはじめた。協力しだした。

登場人物は、男と女以外は、彼らが掻いた砂を軽自動車で運んだり、水、タバコ、新聞などを届ける村民数人が全てだ。

読書は、丁度今日(20110502)で道半(なか)ば。本は新潮社、全218ページのうち110ページめだ。難しい、遅々として進みが悪い。読むことを暫く休むことにする。頭のティータイムだ

砂ってなんだろう。土でも石でもない、砂を噛むような味気なさって日常的に使うが、今回は味気なさどころか、恐怖をもたらすものとして主人公を悩ませる。砂は風によって紋を描き、その模様はどこまでも美しい。砂の一粒一粒は個体で無機的だが、砂丘になると全体が有機的に動き出す。固体でありながら、流体力学的な性質をもつと作者は言う。

深呼吸して、読書再開。

太陽はじりじり穴の中の一軒家を照りつける。喉が渇いて、もうどうしょうもない状態に追いやられている。それでも、働けば、砂を掻けば水は届けてくれる。火の見櫓の監視人が見張っているのだ。水を届けてくれた村民にコミュニケーションを取ろうとするが、聞き耳を持ってくれない。

だが、男はめげずに、脱出の具体的な準備に入る。こっそりロープの準備をし始め、女からは、部落の地形などを聞き出した。そして逃亡実行の夜がきた。昼間アスピリンを飲んで充分に睡眠をとった。一人で働かざるを得なかった女はさすがに疲れて帰ってきた。その上に、男はなんだかんだと女を疲れさせぐっすり寝かせることに成功する。

屋根の上に上って、ロープの先に鋏を結びつけて、穴の上部に投げること数回。そのうちに鋏が鉤(かぎ)になって地上の俵にひっかかった。ロープで地上によじ登って、脱出成功。海岸線と思われる方面に逃げた。

自由の身にになったものの、夜の真っ暗闇の中、道や方向が解らなくて迷う。穴の中で女と過ごした幾日間のことが腑に落ちない。自分の位置が解らぬままにさ迷っていると、柔らかい砂地に足をとられ、どんどん体が深みに吸い込まれ、ついには下半身がすっぽり埋まって身動きできなくなった。

やがて村人達に助けられ、再び、女の家がある穴の中に吊り下ろされた。男は烏を捕まえる罠を作った。砂の中に桶を埋めてその表面に新聞を敷いて、その上に煮干を置いて、周りを砂で隠した。烏を捕まえて、足に助けを求める手紙をつけて逃がすんだ、と無為とも思われる行為でやり過ごす。

男は村人に海を見せてくれと頼むと、その交換条件に女との交接を見せてくれと言われ、穴の上から松明(たいまつ)を掲げ、太鼓を鳴らして、囃し立てられる。男は困惑しながらも、女を家の外に引きずりだし必死に襲い掛かった。女は逃げ惑う。

烏の罠を開けてみたら桶に水が溜まっていた。これは毛細管現象で、砂が周囲から水を吸い上げたのだ、とこれからは水を配給されなくても生きていけるんだと望みをつなぐ。

女は腹痛を訴え、村人に穴から医者に連れ出される。

男は一人取り残された。縄梯子はかけたままだったので、穴から外に出てみた。見たかった海が、見えた。逃げようと思えば、自由に逃げることは可能だったが再び穴に戻った。

一人になった男は、烏を捕る罠を眺めながら、心情を吐露する。

その吐露した言葉を映画の台詞のまま、ここに再現して、彼の心情を想う=『別にあわてて逃げ出したりする必要はないのだ。私の気持ちは貯水装置のことを誰かに話したいという欲望ではちきれそうになっている。話すとなれば、この部落の者以上の聞き手はまず有り得ない。逃げる手立てはそれから考えれば良い』

男の表情はかってなく、明るい希望に満ちていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この本に添えられていた三島由紀夫の書評を此処に書き写す。

詩情とサスペンスに充ちた見事な導入部、再三の脱出のスリル、そして砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ、----すべてが劇作家の才能と小説家の才能との、安部氏における幸福な統合を示している。日本の現実に対して風土的恐怖を与えたのは、全て作者のフィクションであり寓意であるが、その虚構は、綿々として尽きない異様な感覚の持続によって保証される。これは地上のどこかの異国の物語ではない、やはりわれわれが生きている他ならない日本の物語なのである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥った主人公を救いに来る村人の、「白々しい、罪のないような話しっぷり」一つをとっても窺われる。一旦読み出したら止められないこと請合いの小説。