毎朝の散歩の楽しみは、汚れのない清澄な空気を肺腑の奥まで届けとばかりに、大きくいっぱい深く吸う、美味い! この快感を味わうこと、それに農地に植えられた色んな作物や野道や原っぱに咲く花をを眺めることです。
私は農家の三男坊だった。どんな野菜でも、双子葉であろうが、単子葉であろうが、地上に小さな芽を出しただけで、名前を言い当てることができる。こどもの頃、野菜畑を走り回って遊んでいたからだ。弊社の経営責任者の中さんは、東京育ちの都会っ子、私が野菜の一つ一つの名を言えるのを驚いていた。
このように散歩を楽しんでいるのですが、2,3週間前から気になってしょうがないことがあったのです。耕作者が収穫を始めた大根畑で、異常に大きくなってしまったものや、形がズングリモックリで太く短いもの、二股に分かれたものは、きっと商品価値が低いのだろう、引き抜かれたものの、収穫されずに乱雑に、放置されたままなのです。
(放置された大根)
たまには深夜に散歩することもあるのです。その夜は薄い雲がかかっていた。捨て置かれた数本の白い大根が重なり合って、月の光にぼんやり浮きだって見えた。遠目にも、女性が白い裸身で横たわっているように見えて、生唾ゴックン、腰を抜かすほどではなかったが、ドキッとした。
普通の人なら、それなりの光景として、眺めただけで済むのでしょうが、この私は、ちょっと可笑しい人間のようです、黙って見過ごすわけにはいかない性質(たち)なのです。あの大根なら、2,3本頂いてもいいのではないかと思った。でも、それをどうしたらいいのか?
翌日は201105024。私は沢庵作りを思いつき、弊社の財務・古さんに沢庵を作るにはどうしたらいいんだろう、ともちかけた。ネットでも調べてみたが、どの手引きにも11月中頃から漬けなさい、とある。元々、沢庵作成は大事(おおごと)だなと、尻込み状態だったから、それならば、秋の終わりぐらいにするとして、すかさず断念した。
それでも、白い大根が横たわっているのを思い出す度に、何とか、違う方法でチャレンジしたいと思案にくれる私に、管理・和さんが、切り干し大根はどうですかね、ときた。
なるほど、切り干し大根なら、かって知ったる間柄だ。子どもの頃から、油揚げと人参を加えて、少し甘く煮たものを随分いただいてきた。母が余りに頻繁に作るので、もうええわ、食い飽きたぜ、と愚痴を言ったもんだ。
20110528の深夜、大根畑に出かけ、大きな大根を3本袋に入れて、アパートに持ち帰った。立派な畑荒らしだ。1本を細く切って100円ショップで買ってきた塩ビの笊に広げた。切り干し大根用は1本で十分だった。後の2本はどうするか、思案にくれている場合ではない、1本は家庭ごみで捨てる、残りの1本は処理方法が見つかるまで時間の猶予をもらう、しかし何もしないわけにはいかないので、兎に角、ベランダの軒下にぶら下げて、名(迷)案が浮かぶまで中吊りで、辛抱してもらう。
そして20110529は雨だった。水っ気がなくなるまでは、お天道様の光がなくては、黴(かび)が生えてきそうだ。今夜も、そして明日30日も朝から雨のようだ。心配だ。細く切った心算だったけれど、天候のことを考えるともっと細くするべきだと、再度、包丁を入れた。本当は、薄くする方がベターなんだろう。
(この後で、もう少し細く切った) (ガス器具の下に、ぶら下げられている大根)
天候がよくならなければ、最後まで乾かすまでもない、炒めて食えばいいや、と思っている。事業執行者は、常々、最悪のシナリオを想定しておかなければならない。これ、ビジネスの鉄則なり。
さて、これらの大根君は今後、どうなるのでしょうか。