2013年1月31日木曜日

映画「北のカナリア」

吉永小百合主演の最新作だ

原作は、湊かなえの短篇集・「往復書簡」(幻冬舎)に所収された「二十年後の宿題」

 

題名:「北のカナリア」

20130130 10:40~

キネカ大森

監督=阪本順治

脚本=那須真知子

出演者=吉永小百合、森山美来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、柴田恭兵、仲村トオル、里見浩太朗

 

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映画を観るなら東京テアトル系の映画館と決めているので、観る映画を決める制約は厳しい。考えた末に、西友大森店5階のキネカ大森で上映中の映画「北のカナリア」を観ることにした。館内は、私の年齢以上のご婦人がほとんどで、男は4分の1で6人だった。

久しぶりの映画鑑賞で、泣いて、泣いて、どこにこれだけの涙が溜まっていたのか、と思うほど涙を流した。この2、3年、何度も泣いたのに、それでも涙を溜め込んでいたようだ。

原作が「告白」の湊かなえさんで、吉永小百合さん主演と知れば、決心に弾みがつく。浪人中に進む学校を決めたのは、サッカーの一番強い学校だった。そしてその学校には先輩として吉永小百合さんが在学中だった。陰でお慕いする影武者サユリストだった。それでも映画を観たのは「愛と死をみつめて」だけだった。同病者?は私以外にも大勢(おおぜい)居た。ライバルはコマキスト(栗原小巻)だった。

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映画の粗筋を、映画館でもらったパンフレットをもとに、もっと詳細に感想もまじえて加筆した。それにしても、あれだけ感涙に咽(むせ)びながら観た映画なのに、その感想を文章で著すとこの程度なのかと、筆力の乏しさを実感している。

その前に、この映画を理解するのに、「北のカナリヤ」の作中歌「唄を忘れたカナリア」の歌詞を書き出してみた。そして、今まで何度も口ずさんできたのに、今回初めて歌詞を吟味した。

 

歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか

いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアはは背戸(せど)の小籔に埋(い)けましょか

いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか

いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい

月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す

                  

(詩・西条八十)

 

主人公・川島はるは、余命6ヶ月と医師から告げられた夫と共に、北海道の離島の教師として赴任してきた。彼女が受けもつことになったのは、6人の生徒だった。彼らの歌の才能に気付いたはるは、合唱を通して生徒たちの心を明るく照らしていく。生徒たちは子ども心にも、それぞれに悩みや苦しみを抱えていた。先生が来るまでは学校がつまらなかった、と言う子どもたちに笑顔が溢れ、村の大人たちをも大自然に響き渡るその歌声が優しく包み込んでいった。

そんな時に、心に傷を抱えた警察官が島にやってくる。人知れず悩みを持っていたはるは、陰のある警察官と自分を重ねるかのように心を動かされていく。

夏の或る日、合唱の練習に行き詰まって生徒たちがギクシャクしていると話すはなに、夫は、バーベキューで気晴らしをしてはどうかと、助言をする。その準備に勤(いそ)しむ夫婦と、その様子を陰でうかがう警察官。警察官は、心、ここにあらずの体(てい)で、夢遊病者のように、街を彷徨(さまよ)う。

そのバーベキューの最中に、夫は、警察官がこの島を今日、出て行くことをはなに告げ、はなに警察官とのしばしの逢瀬を示唆する、そして警察官に会って抱擁する。かたやバーベキューの現場では、独唱を指名された生徒がみんなから嫌がらせを受け、その反発にみんなを困らせようと試みたところ、不意に崖から足を滑べられせて、海に落ちてしまった。それを見ていた夫は、助けようと咄嗟に飛び込んだが、夫は死亡して生徒は助かった。

村では、夫が海で藻掻いている時に、はなは男と密会していたと噂が広がった。はるは島にいたたまれずに去った。

教師をしていた離島の分校時代に、担任していた生徒の一人が殺人事件を起こしたと、警察官が突然訪ねてきて告げられた。島を追われるるように去ってから20年後のことだ。

20年前に教師を辞めて、東京で図書館司書として勤めていたが、定年を迎えようとしていた時で、温泉にでも行って、のんびりしようと考えていた矢先のことだった。

はるは、真相を知るために、6人の生徒たちとの再会を心に決め北に向かった。久しぶりに再会した生徒らの口から語られるのは、20年間言えずにいた想いだった。それぞれが抱えていた後悔が大きな傷となり、今も心に残っていることを、はるは知らされる。そして、自身もまた、心に閉じ込めていた想いを明かすのだった。

はるは電話をかけてきた殺人犯の元生徒に、分校のある島に来なさいと勧める。殺人犯は昔の住み慣れた自宅に身を潜めていたところを、同窓生の警察官に見つかり、高い煙突を逃げるように登っていく。旧友から自分の名前を呼びかけられ、顔を見合わせた瞬間、煙突から落ちて気を失う。

妻と幸せに暮らしていたアパートに、突然やってきた妻の前夫の卑怯な行動に抵抗して、殺すハメになってしまった。

意識が覚めて、待っていたのは分校の仲間たち、5人の同窓生と担当のはな先生だった。

そして大団円。

殺人犯は警察の温情で手錠を外されて、懐かしい教室で同窓生たちに囲まれる。はな先生の指揮で「唄を忘れたカナリア」を合唱した。誰もが、面貌や体つきは随分変わったけれど、仲間を気遣う気持ちや友情、先生への思慕は20年前と何も変わっていなかったことを証明するかのように、澄んだみんなの歌声が、雪の山野に響き渡る。

20年、それぞれの人生を駆けてきた。

 

 

ネットで見つけた文章をここに転載させていただきます。

『心に響く聖書の言葉』

(唄を忘れたカナリア)

童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽き足らぬ文学者や詩人がたちが、「子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むような歌と曲」を与えようと立ち上がって作られた子供のための文学なのです。

西条八十は幼い日、教会のクリスマスに行った夜のことを思い出しながら、この唄を作詞しました。会堂内に華やかに灯されていた電灯のなかで、彼の頭上の電灯が一つポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももり)がそろって楽しげに喋っている中に、ただ一羽だけ喋ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみしてきた」と言います。

子供は子供なりに孤独や悩みを抱えているものです。それは昔も今も変わりません。身を以ってそのような子供の心を知る西条は、そのように傷つきやすい子供らの心に希望を与えようとして、この「かなりあ」を作詞したのでした。唄を忘れたカナリアも、自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌いだすーーーーー現在の子供にも、ぜひ「かなりあ」を歌って欲しいものです。

2013年1月30日水曜日

元横綱 大鵬死去

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大相撲で歴代最多となる32度の幕内優勝を果たし、一時代を築いた元横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが、20130119、死去した。72歳だった。

下に20130120の朝日新聞・朝刊の記事をそのまま、転載させてもらった。私が中学生だった頃から大学を卒業する頃まで、テレビに映る大鵬を家族や友人たち、みんなで観てみんなで応援した。負けて悔しがり、勝っては喜んだ。立居は傲然として寡黙で、強かった。昭和のスーパーヒーロー、みんなの憧(あこが)れだった。眉目秀麗な顔立ちが印象的で、立ち姿が恰好好かった。

記憶に残るのは、誰もが口を揃えて語る柏戸との一戦だ。柏戸の物凄い体当たりを大鵬が受ける。私はその体当たりのたびにお腹に痛みを感じた。土俵の上には火花こそ散らなかったものの腹には電光が走った。怖かった。

横綱として賜杯を抱いた時期は、1964年に開催される東京五輪のために、東海道新幹線が開業し首都高速道路が整備され、地下鉄工事、ホテルやビルの建設ラッシュだった。日本の国民総生産が当時のドイツを抜いて世界第2位になった。日本は、経済成長まっしぐらだった。そして、私が抱いていたささやかな青雲の志は、東京に向っていた。

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1963年の名古屋場所で土俵入りをする横綱大鵬=名古屋市の金山体育館

 

以下は、全て新聞記事からのものだーーーーー。

1面

1940年、樺太(現ロシア・サハリン)で生まれた。56年に二所ノ関部屋に入門し、同年秋場所で初土俵。身長187センチの体で頭角を現し、60年初場所で新入幕を果たした。3度目の優勝を果たした61年秋場所後、当時では史上最も若い21歳3ヶ月(現在は北の潮の21歳2ヶ月に次ぐ歴代2位)で、48代横綱に昇進。ライバルの横綱柏戸と名勝負を繰り広げて「柏鵬時代」を築き、68年秋場所から昭和期以降で当時歴代2位(現在4位)となる45連勝を記録した。

71年夏場所で当時の小結貴ノ花(元大関)に破れ、引退した。全勝優勝8度は最多タイで、横綱在位勝利数622は歴代3位、幕内勝利数746は同4位、その功績から現役時の名前で親方になれる「一代年寄」となり、大鵬部屋(現大嶽部屋)を創設し、元関脇巨砲らを育てた。

77年に患った脳梗塞の後遺症で左半身が不自由になったが、日本相撲協会理事として相撲教習所長などを務めた。

2005年に協会を定年で退職した後は、08年まで国技館にある相撲博物館・館長を勤めた。09年には相撲界で初めて文化功労者に選ばれた。

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評伝 抜井規泰 

「心の上に刃」 努力の大横綱

昭和の大横綱が、逝った。

ウクナイナ出身の父と日本人の母の間に生まれた。端正な顔立ちと無類の強さで、絶大な人気を集めた。取り組みが近づくと、銭湯の湯船から人が消え、テレビのある脱衣所がごった返したという。

1960年代、子どもの好きなものとして、「巨人、大鵬、卵焼き」と称された。大鵬自身は、そう言われることを誇りに思いつつ、抵抗も感じていた。

2010年末、鼻から酸素吸入をしながら取材に応じ、誇らしそうに言った。「長嶋(茂雄)さんや王(貞治)さん全部で『巨人』。『大鵬』は私1人」。

反面、「天才」ともてはやされたスター選手と並列されることには、違和感もあった」。私は天才ではない。努力だけで、ここまできた」。

その猛稽古を弟弟子の二所ノ関(元関脇金剛)はこう話していた。「毎日1時間近く土俵を占領していた。若い俺の方が先にへばっちゃうんだから」。

大鵬は、1961年に横綱に同時昇進した柏戸と「柏鵬時代」を築いた。「剛の柏戸、柔の大鵬」と評された通り、2人は好対照だった。山形の豪農に生まれ育った柏戸に対し、大鵬は極貧の少年期を過ごし、納豆を売り歩いて生計を支えた。ずば抜けた運動能力で「角界のサラブレッド」と評された柏戸に対し、ひたすら努力をして番付を上っていった。

強さの秘密は「やせていたからね」。入門時は身長184,5センチ、体重75キロ。「細い体で勝つために、何でもやった」。

横綱までの5年で約60キロ増やした後も、相撲勘の鋭さや多彩な技が生き続けたのは、技を駆使して活路を切り開いた新弟子時代があったからと話していた。同じく細身で入門して綱を張る白鵬を「似ている。私の優勝回数を超えられるはず」とかわいがった。

引退後に一代年寄となり、部屋をおこした。脳梗塞で倒れ、リハビリに励んだ。しかし後を継いだ娘婿の大嶽親方(元関脇貴闘力)が、2010年の野球賭博問題で日本相撲協会を解雇された。

現役時代から慈善浴衣などの収益金で献血運搬車「大鵬号」を日本赤十字社に贈り続けた。「70台も贈れたのはファンのおかげ」と語っていた。

自身は「忍」という字を愛していた。「心の上に刃(やいば)を載せて生きていく。必死に生きてきた私の人生を、この一文字が表している」。部屋の稽古場には「夢」と揮毫(きごう)した書を飾った。「みんなが書けというから。本当は『忍』と書きたかった。夢は、忍び続けた人生の末に訪れるかどうか。そうじゃないのかね」。

アマチュア相撲に励む孫たちが関取に出世し、いつか部屋を継ぐ。「それが最後の夢かなあ」。穏やかな笑顔で、そう語っていた。

 

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人々が共有できる価値観の象徴であったと思う。

1960年代、野球と相撲は大衆が好むスポーツ娯楽の中央にあり、子どもの弁当には卵焼きが添えられていた。巨人はプロ野球の盟主として存在し、大鵬は大相撲の中心にいた。

巨人には阪神、大鵬には柏戸という好敵手がいた。それでも、巨人、大鵬を卵焼きと並べることで、ライバルとは関係なく万人が認める価値を共有したいという空気があった。

高度成長期という時代背景。長嶋茂雄・元巨人監督がこう話していた。「時代がヒーローを要求し、その波動が長嶋茂雄を作っていったんですねえ」。横綱・大鵬も間違いなく時代が生んだスターだった。勝ち続け、成長し続ける未来が、国民の前に広がっていた。

今、私たちは共通の価値を見いだすことが簡単ではない時代に生きている。だからこそ、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉に郷愁を感じ、懐かしさを覚えるのだろう。

1人の大横綱の死去による喪失感は大きいが、それだけではない。大鵬を失って、時代の残り香のようなものが、すっと消えていく。そんな寂しさを禁じ得ない。

(編集委員・西村欣也)

 

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還暦記念の赤い綱を締め感慨深い大鵬親方=2000年5月31日、東京都江東区の大鵬部屋

 

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朝日・天声人語

敗戦5日後、ソ連軍が南下する樺太から最後の引き上げ船が出る。1500人がひしめく船内に3人の子を連れた母がいた。船は稚内経由で小樽に向かう途中で、魚雷で沈んだ。母親を船酔いにし、稚内で下船させたのは相撲の神様なのか。色白の末っ子は名横綱大鵬になる。

納谷幸喜さんが、72歳で亡くなった。母が生地の北海道から樺太に移り、ウクライナ人と出会ったのも縁だろう。その父親とは戦中に離別、少年時代は道内を転々とし、重労働で家を支えた。

大量の薪を割り、ツルハシで道を直し、スコップで砂利をすくう。険しい山に苗木を植え、柄が背丈ほどある鎌で下草を刈った。腰を入れて体全体で鎌をひねる動作は、得意技のすくい投げにつながる。

32回の優勝は別格だ。ライバル柏戸の剛に対して柔、自在な取り口で受けて強かった。対戦相手は「柏戸は壁にぶつかる感じ、大鵬は壁に吸い込まれる感じ」と振り返る。その姿、その所作静止画にたえる横綱だった。子どもが好きなものを並べて「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた全盛期、巨人と一緒は面白くなかったらしい。「有望選手を集めれば勝つのが当たり前。こっちは裸一貫なのに」と。晩年、若手の没個性や、稽古量の乏しさをよく嘆いた。「日本は豊かになりすぎた」

貴乃花が土俵を降りて、きょうで10年になる。大鵬、貴乃花、白鵬。美しく強い綱の系譜はまだ伸びるのだろうか。相撲を取らずとも、ただ見とれていたい力士が少なくなった。

 

 

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日経・春秋

「大鵬さんは、最初から大きくて強かったのでしょう」「天才ですね」。そう持ち上げられるたびに、とんでもないと思ったそうだ。32回の最多優勝記録を持ち、柏戸とともに相撲の黄金期を築いて「柏鵬時代」と呼ばれた。その元横綱・大鵬が、72歳で亡くなった。

自分は天才ではなく努力の人間だと本紙連載「私の履歴書」で語っている。戦前の樺太(現サハリン)で生まれた直後は体の弱い子供だった。貧しさの中、小中学生のころから水くみ、まき割り、もっこ担ぎ、道路工事、さらに営林署に就職後は山中での雑草刈りと、生活のために働く中で体がだんだん鍛えられていく。

16歳で角界に転身したころは183センチ、70キロ弱の体で電信柱と呼ばれた。大学卒の力士に負けたくない一心で稽古に打ち込む。出稽古で初めて戦った柏戸に全く歯が立たず、以後の目標とした。横綱になってからもケガや病気に悩まされるが、再起不能説を何度も跳ね返す。入院中も病室を抜け出し、夜の公園を走った。

むしろ大ケガの後、以前より「淡々とした相撲」を取れるようになったと喜んだ。目の前に現れる困難や壁を常に自分の力に変えてきた。「勝つために稽古し、努力の過程で精神面も鍛えられる。最初から精神ができているわけではない」。なにくそっという根性を最近の力士に感じない。晩年の取材にそう嘆いている。

2013年1月23日水曜日

カルチョはサッカーの起源

下の記事は、2012の或る日の日経新聞のものだ。サッカーを愛して止まない私にとって、読み捨てるわけにはいかない内容だったので、そのままここに転載、マイ・ファイルさせてもらった。

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カルチョはサッカーの起源

伊 フィレンツェ

古代蹴球 市民に脈々

乱闘排除「お祭り」守る

 

イタリア中部の古都、フィレンツェ。ルネサンス期の絵画や彫刻があふれる文化の都は毎年6月後半、あるスポーツに熱狂する。その名はカルチョ・ストーリコ。訳せば古代フットボールで、イタリアではサッカーやラグビーの先祖とされている。存続の危機を乗り越え、その伝統は市民の手で受け継がれている。

青組のリーダー、ガブリエレ・ツェケレーリさん(56)がボールを手にじりじりと前進する。赤組の選手がこれを阻もうとすると、あちこちで殴り合いや取っ組み合いが始まる。ツェケレーリさんはこの間に中央を突破し前線にパス。受け取った味方が敵陣ゴールにボールをたたき込んだ。

1チームは27人。ボールを蹴ることもできるがラグビーのように持って走ったり、パスを回したりする場面が多い。ボールを持たないプレーヤーへのタックルやパンチも反則でなく、集団格闘技のようにも見える。

市内の教会前の広場がこの時期だけスタジアムに一変し、約5千の観客席は満杯になる。青いシャツ、青いカツラをまとったモニカ・カルブーティさん(40)は「旦那がいる青組が絶対に勝つ」と興奮気味だ。

市内の4地区がそれぞれチームを持ち、この日は準決勝。東部地区の青組はその後も攻め続け、11対0で圧勝した。青組は過去に何度も優勝したことがある強豪。最年長のツェケレーリさんは「カルチョは私の人生そのもので、チームメートは家族同様」と話す。普段は雑貨店を営み、息子もチームにいる。

歴史家でフィレンツェ市顧問のルチャーノ・アルトゥージさん(80)によると、カルチョは約2000年前にフィレンツに進駐した古代ローマ軍の玉を使った訓練に源流がある。13世紀ごろに現在の形で市民に定着。1530年にはフィレンツェを包囲した敵軍が砲弾を浴びせるなか、平然と試合が行われたことが史実に残っている。

サッカー発祥の国は英国というのが通説だが、アルトゥージさん「欧州各地に進出したフィレンツェ商人が英国にカルチョを伝え、足だけを使うサッカーに変化した」と断言する。イタリアでは今もサッカーをカルチョ、サッカーくじをトトカルチョと呼ぶ。ルネサンス期の装束をまとったパレードが試合に彩を添える。よろい、かぶとの騎士団を先頭に約600人が市内を練り歩き、選手とともに入場する。鼓笛隊で太鼓をたたくのは細川泰利さん(49)。市内に住むオペラ歌手で、外国人として初めて参加を許された。「大変な名誉で、ずっと続けたい」と意気込む。

選手からパレード隊、会場の係員まで全員が市民のボランティア。カルチョは市民による、市民のための「お祭り」だ。しかし、最近は観戦目的の観光客も増え続け、経済振興に一役買う。

そのカルチョは2006年、存続の危機に立たされた。大乱闘で試合が続行不能となり、警察が捜査に乗り出す事態となった。07年、08年と試合は中止に追い込まれたが、再開を願う市民がルールを厳格化し、チームは粗暴な一部選手を追放。審判委員長のアレッサンドロ・アルジェールさん(53)は「騎士道に反する行為はなくなった」と話す。

試合は09年に再開され、広場には市民の歓声が戻った。各チームは集団で献血したり、OBがチャリテイーマッチを開いたりして社会貢献活動にも力を入れ始めた。

(フィレンツェで、藤田剛)

2013年1月22日火曜日

野菜にも命がある

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公的な機関から雀の涙ほどの振込があることを知った今日20121213は、巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を少し緩めて、経営責任者の中さんとインド料理店でカレーを食うことにした。今日は私がお勘定を払って、今までのお世話になったほんの一部だけれど、返済気分だ。

2年前に経済ショックを受けた私は、生活の全てにおいて慎(つつ)ましく、切り詰めた暮らしをしている。着るもの、食事、光熱費をギリギリまで節約している。来春には、晴れてそのショックから脱出できそうだ。

日頃、中さんとは行動を共にする機会が多くて、昼飯時に食うメニューについては、最少の費用で満腹を得ることを最優先に検討する。その努力は痛ましいほど真剣だ。そして食事を終えた二人は、摂った食事が好かったのか、良くなかったのかと必ず検証して、その満足度を測るのだが、でも今日はいつもとはちょっと違って、どこか変調気味だ。

運ばれてきたカレーやサラダを前に、何だか神妙な気分になって仕舞ったのだ。食べ物を大切に食べなくてはイカンと決めて来た。このカレーにはどんな食材が使われているのか、サラダは何処で栽培されたのだろうか、思いを馳せた。いかに腹がいっぱいになったかではなく、どれだけ食べ物のことを考え、感謝して食べたか、これが問題なのだ、と。神妙だ。実は、昨日の山田農園主の言葉が影響している。

昨日は休日の水曜日。いつものように山田農園での手伝いに精を出した。私は百姓の小倅(こせがれ)、なまじっか、田舎での野菜作りの経験のせいか、作業全般にゾンザイなのだ、作業中、ややもすれば乱暴になりがちな私の仕事っぷりに、農園主の山田女史は気分を害したようだ。

ほらほら、踏んづけちゃってるよ、土をかけると病気になるんだ、雑なんだから、もう!、、、、小言はダラダラと絶えない。その声が、耳から消えない。

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野菜にも命がある。

山田女史は、「いい加減にやってれば、いい加減なものしか作れない」、これを金科玉条とする。ごもっともだ、尊敬する御仁なり。

2013年1月19日土曜日

余熱利用も省エネだ

20110311の東日本大震災による津波で起きた東京電力福島第一原発の事故で、日本の原発は全て稼働をストップした。その後、安全基準をクリアーしたとして、関西電力大飯原発のみが昨年7月から再開した。夏に向かって、電力不足をカバーすることが急務だ、と言って細野豪志原発事故担当大臣はゴリ押しだった。15%が節電されないと、近畿圏がパニック状態になりかねないと脅かされた。

ここで、不思議だったのは、当初から再開を反対していた橋下徹大阪市長と嘉田滋賀県知事らが、政府の方針に対して、「仮に再開するにしても、期間を限定してなら」と譲歩、その後はご覧の通り、何も言わなくなった。そして、国民の大半が原発ノーの意思を示しているのに、無視。政府の再開決定だった。

関西には関西ならではの事情もあるのだろう。中小企業が多いこと、関西電力は原発に依存する率が高いことがその理由なのだろうが、何やら不思議にしゃあしゃあと再開してしまった。胡散臭いにわか審査。安全基準さえクリアーすれば安全で再開だ、と日本全国の原発再開に向けての宣布活動のようにも思えた。

そして201301、昨夏も今冬も計画停電はなく、節電の呼びかけさえもない。電力会社の胸算は相当狂っただろうが、収支は兎も角、必要な電力量を原発に頼らなくてもまかなえるのではないか。

ここまでダラダラと書かないと、私の冷却装置機能不全のド頭(どたま)は鎮まらない。私のド頭はメルトダウンしたままだ。

この稿は、私の冬の省エネ対策に少し触れてみたかっただけなのに、ここまでダラダラ、ひと通り書かないと気が納まらない。

これからが、本番。以下は、私の「冬の省エネ策」だ。

言うまでもなく、照明についてはマメに消したり点けたり、必要な時だけ点灯する、当たり前のことだ。必要以上に明るくしないこと。お金があれば、LED照明に変えたいのだが、暫くは辛抱。

節電の一つに余熱を活かしている、ということに触れたい。

先ずはエアコンだ。我が家のエアコンの暖房は最低温度の17度に設定。寒ければ衣類を1枚多く着る、それだけで5度以上の効果はあると思われる。作業をしている時はエアコンを使わない。食事中は要らない、ましてお酒をいただいているときなんかにオンはギロチンか切腹ものだ。読書やテレビを観るときにはオンにするが、長々とつけっ放しにはしないで、30分おきにオン、オフを繰り返す。一度暖かくなった空気は、余熱となって、そう簡単に冷えない。少し冷えてきたなと感じたら、オンにする。外出する前には、直前にオフにするのではなく、前もってオフにする。

我が家の、台所のコンロはIHだ。IHヒーターと言った方が恰好いいのか。長時間の加熱が必要な煮物はオン、オフを適度な間隔で切り替えて、ダラダラと煮る。解凍などは何も電子レンジのお世話にならない。前もって外に出しておけば自然に解凍できる。

就寝時は、寝間着の下にもう1枚身に付ける。それでも寒ければもう1枚纏う、湯たんぽ、レッグウォーマーで補う。靴下を履く。

カーテンは厚手のもので、長いものがいい。

昼間、外気の温度が上がってきたら、すかさず窓を大きく開けて室温も同じ温度にして過ごす。寒さに体を慣らすことだ。室温だけを飛び抜けて暖かくしないように心がけよう。その室温で過ごせるように身支度をして慣らしておけば、外気が冷えてきても、その分だけ対応すればいいのだ。ノルウェーの冒険家・アムンゼンの真似をすることもないが、彼は幼少の頃から厳寒期においても、窓を開けて寝ていたと聞く。それほど強靭でもない我々は、せめて冬の寒いときには夏の暑さに思いを寄せ、夏の暑い最中には冬の寒さに思いを寄せて凌ぐことだろう。

浴室の熱気を捨ておくことはない。浴槽の蓋を半分にして出入り口の扉を開けておくと、湿気を含んだ暖気が室内を暖かくしてくれる。金のかからないエアコンデショニングだ。

余熱とは少しずれる内容になるが、省エネの手法の一つに冬野菜を食べることだ。鍋物にすれば、最高だ。根菜類をメインにした冬野菜の鍋物に、好みで辛味を加えれば、左手の盃も、箸も忙しくなる。

洗濯は、洗濯機に汚れ物と風呂のお湯、それに洗剤を前もって入れておく。汚れが水に浸すことで落ちやすくなる。そして標準時間よりも短い時間で洗い終える。使用時間の短縮だ。

金芝河氏が無罪に

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20130105の産経新聞から拝借した。

 

韓国の詩人・金芝河氏の1974年に起きた民青学連事件の嫌疑について、犯罪の事実はなかったとして無罪判決が出たことを新聞で知った。嗚呼、キ・ム・ジ・ハ! え~え 私はすっかり忘れていた。

彼の書いた詩集を持ち歩いていたのは、もう40余年も前のことだ。大学時代。体育会系左派を自任していた私は、アディダスバッグの中に、彼の本を忍ばせ、気分が高揚してくると彼の詩集を強く握った。このバッグには、マジックで「喝」とも書いた。私は金芝河をもっと過激な思想の持ち主だと思っていたが、後になって穏やかな人柄だと知って、拍子抜けしたことを憶えている。それで、良かったのだが、不思議な感覚だった。

1970年、金芝河は時の韓国の朴大統領体制を鋭く風刺した詩「五賊」を発表して、反共法違反容疑で逮捕された。1972年、4年生の冬、サッカー部の同期の金ちゃんの根回しで、一人で韓国を旅した。当時、戒厳令下にあった韓国の国情をこの目で見たかった。金芝河がマッカリーをよく飲みに行くという飲み屋に行ってみたかったことも理由の一つだ。

私が大学時代に所属していたサッカー部は韓国の高麗大学サッカー部と毎年定期戦を組んでいて、韓国は一番身近な外国だった。

ミョンドンの飲み屋で知り合った韓国の学生に、金芝河のことや韓国政府の非民主的な施策について話しかけても、彼らのほとんどは余り関心がなさそうで、私をがっかりさせた。金ちゃんが紹介してくれた大学の講師も、そんな話には乗ってこなかった。国民のほとんどは、政治に関しては監視されていて自由に話せなかったのだろう。

その韓国14日間総費用4万5千円の旅を思い出した。

関釜フェリーは片道5000円、往復だと10%割引の9000円だった。釜山では朝鮮水軍を率いて豊臣秀吉と戦った李舜臣の像が、リュウトウザン?公園の先頭?に日本に向かって立っていた。釜山の漁村、山村を歩いた、寺院にも行った。釜山の市場には海産物が豊富だった。オンドル。宿でマッカリを飲みたいと言ったら、ヤカンをもって酒屋さんに買いに行ってくれた。釜山駅の駅長さんは島根県出身だった。駅の周りには乞食が多かった。どんどん太鼓を叩きながら走る葬儀社の車。対馬が見えた。宿屋のオヤジに女はいらんか?と聞かれて尻込みした。

板門店から北朝鮮の軍人を見た。板門店までのバスの中で、軍人に銃を突きつかれ身体検査された。統一号に乗った。ソウルでは月に1度の空襲警報が出て、新聞社の飛行機が敵機になって上空を旋回、訓練だった。歩行者は地下や建物の中に、車は黄色い旗を出して路肩に停め運転手も避難した。ミョンドン、東大門、南大門。混雑した市場。樹木の少ない山並み。サッカー部の先輩、李時東さんの事務所に行ったが、留守だった。パルリー、パルリー(急げ)、のんびり歩いている私は交番に連れ込まれて、パスポートの提示を求められ、早く歩け?と叱られた。長髪の私を、レストランのウェイトレスはナンバーテン(最悪)だと誹謗した。高麗大学と大学のサッカー場。乗り合いバスは、バス停を過ぎても、動きながらどんどん人を乗せては降ろした。焼肉、犬の肉の鍋物。

 

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朝日・天声人語

うっかりすると見逃しそうな小さな記事だった。5日付の国際面に「詩人の金芝河(キムジハ)氏39年ぶりに無罪」とあった。50代半ば以上の世代なら、ひとつの時代の象徴のように、その抵抗詩人の名を記憶している方も少なくあるまい。

韓国の体制に抗して繰り出す詩は、紙つぶてとなって権力者を撃った。よく知られる「五賊」は長編の風刺詩だ。財閥や国会議員、高級官僚、将軍らを国に巣食う五賊と呼び、〈夜昼のべつ盗みにはげみ、その技(わざ)これまた神技(かみわざ)の域〉 などとこきおろした。

民主化運動の弾圧事件で1974年に死刑判決を受ける(のちに減刑)。この年にはソ連の反体制作家ソルジェニーツィン氏が国外追放されている。国家体制も状況も異なるが、2人の抵抗人の「良心」が様々に語られたものだ。

そのころの韓国は軍政下にあり、言論統制は厳しかった。たとえば新聞の場合、官憲が各社に常駐して記事を検閲したそうだ。真実を書くのに覚悟が求められた。

時は流れて金氏は無罪を勝ち取った。その報を読みつつ目を転じれば、中国で「言論の不自由」への抗議が沸き上がっている。南方週末という新聞の新年号が、当局の指示で違う紙面に変えられたという。この抗議を人々の「良心」ととらえたい。言論の自由を書いたままでは、中国は大国になっても成熟できまい。民衆の口を封じるのは川を止めるより危険ーー。いずれ不満が高じてあふれ出すからだが、政府が省みるべきそんな古言も、中国にはある。

2013年1月16日水曜日

桜宮高、部活再開に向けて、起て

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大阪市立桜宮(さくらのみや)高校のバスケットボール部主将の2年男子生徒(17)が、顧問の男性教諭(47)の体罰を受けた翌日に自殺した問題で、同校はバスケットボール部と、過去に体罰問題で処分された教諭が再び体罰を繰り返していたバレー部の両部を、無期限に活動を停止することにした。他の部についても調査して問題がなければ再開する。体罰を生んだ風土が改善できない場合は両部の廃止も検討するとある。

また、橋下大阪市長は15日、記者会見で今春の同校の入試で、体育科(定員80人)とスポーツ健康科学科(同40人)の募集を中止すべきだと述べた。同校の全教員を入れ替えないと、真の改革はできない、と踏み込んだ。

これらの新聞やテレビの報道を見聞きしていて、ちょっと可笑(おか)しいのではないか、と頭をかしげた。部活に励む生徒たちや、入学してノビノビ勉強したいと願う生徒たちが、何ゆえにこんな目に遭わされなくてはならないんだ。

調査されるべきは、体罰で恥じることもなく指導していた顧問教諭や、知らないふりをし続けた校長ら学校関係者たち、教育委員会であって市長のことだ。生徒に部活停止を押し付ける理屈も権利もない。改善されなければ廃部を検討すると聞くと、怒りよりも笑止千万、呆(あき)れてしまった。

識者は、募集を中止するかしないかは、教育委員会の判断で、市長にはその権限はないと話していた。私は、図らずも臭いを嗅いでしまった。この裏には、市長と教育委員会の積年の揉め事、恨みつらみが潜んでいるのではないか、このことが、市長がここまで踏み込んで発言している訳だ。

横浜のスポーツを愛して止まない初老のオヤジから、部活に励む生徒たちにエールを送る。

手続きを踏んで校長に部の活動再開を願い出ろ。ノーと断われる理由は無いが、馬鹿な校長は拒否するるだろう、が、屈することなくに抵抗しろ。君たちに非はない。世間、校外に向かって部活を再開したい旨を、立看〈立て看板)やチラシ、ネットで発信しろ。そして、自主的に練習メニューを作成して活動を再開するのだ。君たちの気持ちは多くの賛同を得ることは間違いない。

繰り返す。非難、鉄槌(てっつい)を下されべきは暴力教師であって、無責任な学校関係者、とぼけた教育委員会であって、いいかげんな市長だ。奴らを断罪せよ。我が軍、貧乏暇なし、千騎万兵で桜宮高校に駆けつけたいがそうもいかない。

桜宮高校の全生徒に告げる。高校生としての誇りを、権利を、阿呆な教育者どもから奪い返すのだ。今直ぐ、起(た)て!!

昔から、私の高校大学時代にも、体育(局)会所属の人間は上部からの指示には従順過ぎると言われてきた。納得できないことにも、ショウガナイなあと諦めさせられた。当時、私にはそんな傾向が歯痒くてならなかった。スポーツは従順な人間を育成するためのものではない、強いリーダーを輩出するためのものだ。

2013年1月9日水曜日

明けましておめでとう

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カメラマンは営管の佐藤。留守番は和。

 

20130104、4日は今年、全員で行動した最初の日、09:00から近所の神明社に初詣に行った。私は年末の30日と1月2日以外は普通のように出勤していた。何も、これっという仕事があるわけではないが、新聞や雑誌を読んで、2時間ばかり会社に居て、イーハトーブの果樹園に寄って帰るだけだった。

全員が出社して、元気な顔を見合わすと、なんだか温かい気持ちになるのは、何故なんだろう?

何もアベノミクスを過大に期待しているわけではないが、ちょっとした拍子で気分が変わるもんだ。病(やまい)は気から。景気の気も気持ちの気だ。この長期のデフレからの脱出も、難しいことはよく解らないが、この気がマイナーに働き過ぎているのかもしれない。今年は巳年(みどし)、巳のように着古した殻を脱皮したい。

4日の朝日家の天声人語氏は、こんな小話を紹介していた。手元に新聞がないので、思い出しながら綴っている。

ある靴の製造会社がアフリカかどこかの国へ、2人を今後の販売促進のための市場調査に派遣させた。帰国して、2人が会社に報告した内容は、真っ反対だった。一人は、あの国では靴を履いている人は一人もいません。よって、絶対売れないと思います、と悲観的な意見。もう一人の人は、あの国では靴を履いている人がいません。だから、いくらでも売れると思います、と楽観的な意見。

どちらの意見も極端過ぎる、が、あなたはどちら派ですか? 私たちは、後者の意見に乗っかってみたいと思う。裸足を日常にしている人たちに、靴の持つ安全性と利便性を説いて買ってくれるように、努力を奮う側に立ちたいと思う。

それと、もう一つのお話は、一人の娘さんは、「あなたの足は大根のようですね」と言われ、「そうですか、そんなに白いですか」と答え、もう一人の娘さんは、「あなたの足はゴボウのようですね」と言われ、「そうですか、そんなに細いですか」と答えたという話だ。私もこの二人の娘さんのように思考したい。

こんな話をみんなにして、今年の仕事始めとしますか。

2013年1月8日火曜日

W大ア式蹴球部 インカレ優勝

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20130106、早稲田大学ア式蹴球部は、平成24年度の第61回全日本大学サッカー選手権大会で、5年ぶり12度目の優勝を遂げた。決勝戦は、東京・国立競技場、九州リーグ1位の福岡大学と関東リーグ3位の早稲田大学というカードで、3-1で早大が福岡大に勝利。

古賀聡監督にとって3年任期の今年が最後の年、絶対、負けられない。1回戦は徳山大学に3-0でシャットアウト、2回戦では札幌大学に2-1の辛勝、準決勝は鹿屋体育大学に5-0で、決勝戦に駒を進めた。

山梨県の塩山に住む後輩のシダ君に、お歳暮をいただいたお礼の電話をかけた際に、ヤマオカさん、今週の日曜日に早稲田が大学選手権の決勝をやるんですよ、私も行けたら行こうと思っているんです、と聞いて吃驚した。徳永や兵働、渡辺が卒業した後は、リーグ戦においても苦戦していると聞いていたので、このビッグニュースは青天の霹靂(へきれき)か?寝耳に水か?正直、驚いた。

恒例の社内に掲示するスローガンを、朝から書いた。この標語は社員に対するもので3枚仕上げた。1枚目は、「慎み深く 感謝して 奉仕する」、これは仕入れをさせていただいた売主さんに、買っていただいた買主さんに対する心構えだ。2枚目の「横浜で一番元気な会社 パラディスハウス」は、弊社に所属する社員の基本的な精神だ。このような気分で働こう、そんな感じ。そして3枚目は「強い意志 広範な知識 大胆な行動」だ。これはスタッフ一人ひとりの日常の行動規範だ。

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この3枚を書き終えて、経営責任者の中さんが作ってくれたお雑煮を食べて、12:00の少し前に会社を後にした。13:30までなら国立競技場の千駄ヶ谷入り口に早稲田関係者にチケットを渡すコーナーがあるので、そこでチケットをもらいなさいと、同輩の工藤が教えてくれた。

工藤は、10年前に膠原病に糖尿病、難病の二重奏?、今はすっかり健康体を取り戻していた。有田さんも一緒だった。有田さんは、アメリカでロッキー青木のステーキハウス紅花の取締役をしていたが、今は、子どもたちと日本で暮らしていている。日韓で共同開催したFIFAワールドカップサッカーの決勝戦の前に中華街でごちそうになりました、そのときのお返しですと、飲み物とカツサンドをくれた。

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同窓の仲間たち

試合は、今までの早稲田のサッカーの試合では観たことのない好ゲームだった。早稲田伝統の百姓一揆ではなく、理知的で聡明、勇猛な戦いを見せてくれた。早稲田は進化していると印象づけられた。観客は、サッカー協会や高校や大学のサッカー連盟が後押しして、動員がかかったのだろう、1万7千人近かった。サッカーを愛する若い人々が集う祭典の雰囲気だ。40余年前、私たちがこの大会で優勝した時は西が丘サッカー場で、観客は千人もいなかった。

古賀監督は「ファイナリストや国立でプレーするだけでは意味がない。ボクたちは年間を通じて日本一を目標に戦ってきた。何が何でも福岡大に勝利を収めて頂点を極めたい」、「準決勝の鹿体大戦は難しい戦いになると思っていたけれど、ぶれずに自分たちのプレーを最初から最後までやり続けることができた」と言っていた。

試合は、前半開始2分に早稲田の白井選手が先制ゴール、優位に立った。2点目は40分、福岡大のオウンゴール、もうこれで安心、と思っていたらPKをとられて、1失点。PKをとられるほどの反則ではなかった。3点目は76分、ペナルティエリア外からの富山選手の左足の豪快なシュートだった。圧巻、ドライブがかかっていた。

試合を観戦しながら、午前中に書いたスローガンを思い出していた。

早稲田は背の高い選手が多い福岡大に対して、粘り強く、「強い意志」を持って勇猛果敢に戦った。福岡大は、身長185センチ以上の選手を先発に4人揃えた。ヘッディングでは決して負けなかった。特にDF陣はお見事だった。DF山地は「セットプレーで競り負けなかったのが勝因」と胸を張った。

それにパスをカットして、攻守の切り替えが早い。ボールをキープする相手に、素早く距離を縮めた。攻撃のボールを多彩にちらし、接触プレーにおける賢い対応、それらが「広範な知識」を活かしたプレーだった。

「広範な知識」が乏しかったのは福岡大だ。密着して負けそうになると手を使って、早稲田の選手を頻繁に捕まえるなど、不用意な反則を繰り返した。又、ロングスローインを繰返した。一度や二度は、ゴール前まで投げられて早稲田は吃驚した、が、繰り返されるともう怖くない。早稲田にとって、滞空時間が長いと守る体制を作り易いのだ。「広範な知識」不足は、悲しい。

そして「大胆な行動」は、繰り返しになるが、上背のある選手とのヘッデイングでの競り合いは恐れを知らぬ、鬼気迫るものがあった。監督から絶対負けるなと指示がでていたのだろう。キーパーの落ち着き払ったプレーも「大胆な行動」だった。私のようにヘッデイングの弱い選手は、絶対、使ってもらえないだろう。

試合が終わって、一息ついた時に日産マリノスのシモジョウを見つけた。彼は相鉄線の緑園都市に住んでいる。時々、電車の中で出くわす。彼の説明によれば、今試合に出ている選手のうち8人は、高校時代に高校のサッカー部やJリーグのユースでキャップテンをやっていた奴なんですよ。だからなんでしょうね、どいつも責任感が強いんです、突出した選手はいないのですが、諦めない、サボらない、ひたすら頑張る連中なんですよ、と説明してくれた。選手としての人格が形成されている。

そして、私は会社のことに思いを馳せた。このようにスタッフ一人ひとりが個性を活かして、「強い意志」で「広範な知識」を駆使して、「大胆な行動」をしてくれれば、弊社も上手くいくのだろう。その際の私の役廻りはどうすればいいのだ。

表彰式を見終わって、栃木のマツちゃん,県立鎌倉高校のバシコ先生と暁星高校のシヤハ先生の4人で、新宿駅の近くの焼肉屋でお酒を飲んだ。シヤハの馴染みの店だった。二人の先生は、教師として、早稲田ア式蹴球部の役員として色々情報を交換していた。私は、みんなの話を聞きながら快く酔っていた。マツちゃんは、休日の野良仕事の話をしてくれた。

横浜駅で相鉄線に乗り換えた。乗った電車にシモジョウが居た。

2013年1月7日月曜日

憲法の男女平等条項起草

ダグラス・マッカーサー、第二次世界大戦後の日本を占領した連合国軍の最高司令官が、GHQに命じて日本国憲法の草案を作成させた。この作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんが、ニューヨークで12月30日に亡くなったことを20130103の朝日新聞で知った。89歳だった。

国際的なピアニストだった父のレオ・シロタ氏が東京音楽学校(現東京芸大)教授に招かれたために、両親と共に1929年来日し、約10年間滞在。その後、渡米して米国の大学を卒業した。45年末に再来日。彼女はGHQ民生局のスタッフとして人権小委員会に所属、人権条項の作成に携わった。起案した内容が14条(法の下の平等)、24条(婚姻における両性の平等)につながった。

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1946年に日本国憲法に携わったころのベアテ・シロタ・ゴードンさん=遺族提供(朝日新聞)

 

彼女が語って残した言葉に、真摯に耳を澄ます必要があるのではないか。

学生時代に憲法の草案作成の経緯を著した本を読んだが、記憶は薄い。でも印象的だったのは、人権に関する部分がうら若き女性任せだったことを、それをややもすれば、GHQは少し軽々しく考えていたのではないか、と、そんな筆致で書かれていた。そんなことはない、と、うら若き私はその著者を唾棄した。私とは相性の合わない、嫌な著者だったのだ。

彼女はその時、まだ22歳。彼女は幼少期に日本で過ごし、日本の社会、とりわけ女性の権利が守られていないことをよく知っていた。この若さで草案作成に携わったことは余りにも重大だった、と百も承知していたようで、半世紀近くも憲法誕生への自らの関与を語らなかった。90年代になって、彼女は発言するようになり、自伝も出版した。80歳になって日本でも講演した。

昨年、年末の衆院選で政権の座に返り咲いた自民党の安倍総理は、今のところ大いに鼻息が荒く、戦後レジームからの脱却とか言って、確かに脱却は大いに結構だけれど、再三、改憲を唱えている。押し付けられた憲法ではなく、自らの国民の意思に基づく憲法を作りたいとの主張だ。その主張には一理ある。先の選挙の結果だけをみると、大多数の国民が、求める内容は兎も角、変えたいと望んでいるようだ。

私は護憲の原理派ではないが、このままでいいと思っている。安倍首相は、日本の同盟国に対して、集団自衛権の行使を認めるべきだとの信念を、解釈だけではなく、法案化を考えている。最も重要な同盟国、米国を視点にいれてのことのようだが、日本国憲法は米国が求める日本国像を条文にしたものなのだ。時代が変わって情勢が変わって、今度は米国が日本の集団自衛権の行使を望んでいる。

 

 

以下の文章は、当日の朝日新聞から、彼女の発言を抽出して転載させてもらった。彼女の想いを理解したい。

 

平和と女性の権利訴え

ゴードンさん死去

改憲の動きに警鐘

 

亡くなる直前まで気にかけたのは「平和」と「女性の権利」だった。

先の衆院選で女性議員が38人にとどまったことについては「大変気がかり」と憂えた。

「若い女性には、日本の女性の歴史的境遇や、その権利の進歩について学んで欲しい。そうした若い女性が政治や経済の分野で積極的に活動することが必要です」。

改憲の動きに対しては「日本の国会議員の多くが改憲に賛成であることは非常に残念です。憲法9条は世界にとってのモデルで、逆戻りしたら大きな損失」と懸念していた。

「草案者たちは民主主義社会の実現を目指しながらも日本の文化や懸念にも非常に敏感でした。日本側の発言によって、草案が変わった部分もあります」。

                   

20130103の朝日新聞・天声人語より

「日本の憲法は押し付けられていた」「いや、そうじゃない」と戦後68年の今も論議は続く。その憲法の草案作りに加わったベアテ・シロタ・ゴードンさんは、いつもこう語った。「日本の憲法はアメリカよりすばらしい」。そして憲法が日々の暮らしに根を張ることを願ってきた。

憲法24条は男女の平等をうたう。草案の人権小委員会の一員として22歳でそれを書い彼女の訃報が、米国から届いた。89歳。ただ書いただけではなく、戦後の日本を見つめ続けた人だった。

戦前に一家で日本へ来た。少女時代を東京で過ごし、二・二六事件にも遭遇する。開戦前に単身渡米して学び、戦争が終ると、両親を捜すために連合国軍総司令部の要因に応募して日本に戻った。

憲法施行の年に離日(りにち)したが、その後も訪日を重ねた。各地での講演は100回をゆうに超す。かって同僚の取材に、草案を書いたことを「ちょうど私がそこにいただけ」と答えていた。さりげない言葉の向こうに、だれが書こうが平等は普遍の原理だという信念が感じられたものだ。

社会にも会社にも女性の力が求められて久しいのに、この国での進出は今もおぼつかない。企業や官庁に幹部は少なく、首長も議員も一握り。ある調査では男女の平等度は135カ国中の101位とお寒い限りだ。

ベアテさんの最後の言葉は、日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい旨の願いだったという。元気を欠きがちなリベラルへのエールのように、それは聞こえてくる。

2013年1月3日木曜日

歩いて、鶴岡(鎌倉)八幡宮

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20121231、家族と孫・晴の友人・ショーマとその父母も加わって、次女(ハナ)の夫・竹ちゃんお手製の年越しそばを頂いて、09:30に鶴岡八幡宮に向かって歩き出した。鎌倉にあるから鎌倉八幡宮と日常呼んでいるが、正式には鶴岡八幡宮のようだ。

ショーマ家からの高級なフィレとサーロインの持ち込みがあり、蕎麦で腹を充たしたうえに、ガッツンと肉の塊を焼いて頂いた。軟らかく、肉汁にあふれて美味かった。出発を前に、腹ごしらえは十分過ぎた。一行は6人。上の写真のカメラマンはショーマの父、一番小さい子はショーマの妹で、二人は留守番だ。

16時ころに驟雨。天気予報では31日、1日は晴れだったので長く続くことはないと確信はあったけれど、内心心配だった。が、やはり予報通りすぐに止んだ。気温は低くなかった。

1年前と同じコースをたどったが、子どもたちの成長が著しく、道中は最後まで快調だった。

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私にとって1年前と言ってもさほど過去の話ではないが、孫の晴にとって1年前と言えば、日々の生活はめまぐるしく、小さな頭の中に、たくさんのことがさどかしぎゅうぎゅうに混乱しているのだろう、と思ったが、その小さな頭の中から、去年私と歩きながら話したことを、ぽろりぽろり引き出してきては、話すではないか。

よくも、そんなことを憶えていたもんだと感心させられた。世界には戦争をしている国や食べ物が足りなくて困っている国が多くあることを話したことを思い出していたようだった。先生に怒られた時によく言われることは、そんなに喧嘩がしたいなら、大きくなったら軍隊に入ればいいんだよ、そこではいつでも戦いの訓練ばかりしているんだから、そうすればいいんだ。

でも、喧嘩ばかりしていたら、いつまで経っても仲良くなれない。戦争で一時的に混乱が収まったように見えても、それは本当の平和ではない。多くの犠牲者が浮かばれないし、いつ再発するかもしれない。

そのような喧嘩や戦争をしないように話し合いでまとめようとする人もいる。そうして話し合いがつけば一番良いことだろう、犠牲者も出ない。そのような役ができる人を、世の中から求められているんだよ、と先生は話してくれたそうだ。

ジジイ、この辺だったけ、去年大学の話をしたのは、と聞かれて何を言い出したのか解らなかった。それから約10分ほど歩いて本郷台駅の近くに来て、アッと気づいた。私が、ここに消防大学校があったことを話したことを思い出したのだ。新しい大きな建物を聞かれた時に、かってここに消防大学校があったことを話したのだった。

 

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歩き出したときは、夜空には雲がかかっていて、月が見えなかったが、舞岡公園を過ぎたころから、雲間から月が顔を出したり、隠れたりしていた。横浜と鎌倉の市境をまたいだころには、すっかり月が顔を出して、街路灯のないところでも、月明かりで歩けた。スピードを上げて歩いたので、体温が上がって喉が渇いた。久しぶりに大好きなガリガリ君を食った。62円也。

腹が減ったという奴が出たので、コンビニで食料補給。細身で軽量のショーマ、お前なあ、2時間前にあれほどたくさん食ったのに、どうしたんだ?肉マンを頬張って、トイレをすませて歩き出した。

後ろの方で、次女とショーマの母の話声が耳に入った。ショーマが幼稚園での発表会のときのことだ。演じた内容は解らないが、演技が終わってそれを観ていたショーマの母は大泣きした。他の母親にはばかることなく、それも観客席の前のド真ん中で。なんで、そこまで泣けたの?の質問に、母親は「そりゃ、あの、あのショーマがだよ、ちゃんとやったんだもん」。私の心は和(なご)んだ。

小袋谷から北鎌倉、鎌倉への道は交通制限していて、地元の住民以外の車両は通行禁止だ。孫たちは、働いている警察官やガードマンの人たちに、「良い、お年を」と、私は、ご苦労さんです、と声をかけた。どの人たちも、ありがとう、気をつけて行ってらっしゃい、と返ってくる。このように声をかけることも、なかなか気分の好いもんだと思った。

北鎌倉駅の前を通り過ぎたころかから八幡宮に向かう人たちが増えてきた。車の往来のない道路で転がったりして孫たちは楽しそうだ。気温が下がってきた。

昨年は鶴岡八幡宮の三の鳥居の50メートル手前でカウントダウンだったので、建長寺を過ぎてから、今年は神社の境内で参拝を待つ人たちと一緒にしたいよ、とピッチを上げた。小走りに歩いた。駐車場の係員たちは準備のために配備されていた。

三の鳥居を00:00の15分ほど前にくぐった。スタートしてから約4時間後に到着したことになる。大勢の人が既に並んでいた。最後尾の石の敷いてあるところに並ぶようにと警察官が指示していた。

そして、カウントダウン。明けましておめでとう、と一行は声を掛け合った。友人にもアケオメのメールを送ろうと何度も試みたが、電波が混んでいたのだろう、通信できませんでした、だった。

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参拝者の大群は、警察の誘導によって少しづつ進んでいく。義経の愛人・静御前が舞った舞殿の左横を過ぎて、左に大銀杏の大きな切り株を見て、大石段を登っていく。そして本宮でお祈りした。晴は、犬・ポンタの病気の回復を祈願していた。私は、自分自身のこと、家族のこと、会社のスタッフ、友人や仕事でお世話になっている人たちの健康を、思い出せるだけの名前を呼びながら真っ先に祈った。そして、会社のことはやるだけのことはやります、と誓った。

昨年と同じ場所に、同じオヤジがやっているおでん屋さんで、おでんと熱燗をオーダーした、毎年、この場所と決められているんだよと言っていた。孫たちは他の屋台からじゃがバター、焼きそば、お好み焼きを買ってきて、同じテーブルで食った。ここのおでん屋のオヤジは度量がある、我々の気ままな行為を嫌な顔をせず、椅子をすすめてくれた。

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駅に向かう我々が歩きづらくなるほど、神社に向かう人の数は多くなってきた。

02:15発 大崎行きの横須賀線に乗った。私一人が戸塚駅で下りて、帰途についた。と言っても、自宅までは歩いて1時間以上、道中、畑の隅っこに捨ててある大根を3本貰ってきた。切干大根にしよう。疲れた体に酒の酔いが残っていて体がだるい。街路灯がありがたい。猫が道路を横切る。大根3本は相当に重い。

自宅に着いたのは4時ころだった。着の身着のままでベッドにもぐり込んだ。

 

目を覚まして、鶴岡八幡宮のことをネットで調べたので、それを簡単にまとめておこう。

大阪の河内を本拠にした河内源氏2代目の源頼義が、東北(前九年の役)での戦勝を祈願して、石(いわ)清水八幡宮護国寺(京都)を鎌倉の由比郷鶴岡(現在の材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請(かんじょう)した。その後源頼朝が、今の小林郷北山に移して、周囲には幕府の中枢を整備していった。源氏の氏神として、幕府の守護社とした。

江戸時代に入ると幕府の庇護の下、大規模な施設を充実、僧坊も多かったが、江戸幕府崩壊後、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、大教宣布(天皇に神格を与え、神道を国教、日本を祭政一致の国家とした)がなされると、廃仏毀釈の動きが加速した。

神仏習合の典型的な宮寺形式の神社で、神主に改名した社僧によって運営されてきた。これで納得した。以前から、お寺のような神社だと思っていたのだ。

ところで、歌人でもあった3代将軍源実朝(頼朝の次男)が殺されたのは、どこだっけ?これで源氏は途絶えたのだった。それに、実朝ときたら金塊和歌集だが、確か、この金塊じゃないキンカイだったなあ。