2013年1月19日土曜日

金芝河氏が無罪に

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20130105の産経新聞から拝借した。

 

韓国の詩人・金芝河氏の1974年に起きた民青学連事件の嫌疑について、犯罪の事実はなかったとして無罪判決が出たことを新聞で知った。嗚呼、キ・ム・ジ・ハ! え~え 私はすっかり忘れていた。

彼の書いた詩集を持ち歩いていたのは、もう40余年も前のことだ。大学時代。体育会系左派を自任していた私は、アディダスバッグの中に、彼の本を忍ばせ、気分が高揚してくると彼の詩集を強く握った。このバッグには、マジックで「喝」とも書いた。私は金芝河をもっと過激な思想の持ち主だと思っていたが、後になって穏やかな人柄だと知って、拍子抜けしたことを憶えている。それで、良かったのだが、不思議な感覚だった。

1970年、金芝河は時の韓国の朴大統領体制を鋭く風刺した詩「五賊」を発表して、反共法違反容疑で逮捕された。1972年、4年生の冬、サッカー部の同期の金ちゃんの根回しで、一人で韓国を旅した。当時、戒厳令下にあった韓国の国情をこの目で見たかった。金芝河がマッカリーをよく飲みに行くという飲み屋に行ってみたかったことも理由の一つだ。

私が大学時代に所属していたサッカー部は韓国の高麗大学サッカー部と毎年定期戦を組んでいて、韓国は一番身近な外国だった。

ミョンドンの飲み屋で知り合った韓国の学生に、金芝河のことや韓国政府の非民主的な施策について話しかけても、彼らのほとんどは余り関心がなさそうで、私をがっかりさせた。金ちゃんが紹介してくれた大学の講師も、そんな話には乗ってこなかった。国民のほとんどは、政治に関しては監視されていて自由に話せなかったのだろう。

その韓国14日間総費用4万5千円の旅を思い出した。

関釜フェリーは片道5000円、往復だと10%割引の9000円だった。釜山では朝鮮水軍を率いて豊臣秀吉と戦った李舜臣の像が、リュウトウザン?公園の先頭?に日本に向かって立っていた。釜山の漁村、山村を歩いた、寺院にも行った。釜山の市場には海産物が豊富だった。オンドル。宿でマッカリを飲みたいと言ったら、ヤカンをもって酒屋さんに買いに行ってくれた。釜山駅の駅長さんは島根県出身だった。駅の周りには乞食が多かった。どんどん太鼓を叩きながら走る葬儀社の車。対馬が見えた。宿屋のオヤジに女はいらんか?と聞かれて尻込みした。

板門店から北朝鮮の軍人を見た。板門店までのバスの中で、軍人に銃を突きつかれ身体検査された。統一号に乗った。ソウルでは月に1度の空襲警報が出て、新聞社の飛行機が敵機になって上空を旋回、訓練だった。歩行者は地下や建物の中に、車は黄色い旗を出して路肩に停め運転手も避難した。ミョンドン、東大門、南大門。混雑した市場。樹木の少ない山並み。サッカー部の先輩、李時東さんの事務所に行ったが、留守だった。パルリー、パルリー(急げ)、のんびり歩いている私は交番に連れ込まれて、パスポートの提示を求められ、早く歩け?と叱られた。長髪の私を、レストランのウェイトレスはナンバーテン(最悪)だと誹謗した。高麗大学と大学のサッカー場。乗り合いバスは、バス停を過ぎても、動きながらどんどん人を乗せては降ろした。焼肉、犬の肉の鍋物。

 

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朝日・天声人語

うっかりすると見逃しそうな小さな記事だった。5日付の国際面に「詩人の金芝河(キムジハ)氏39年ぶりに無罪」とあった。50代半ば以上の世代なら、ひとつの時代の象徴のように、その抵抗詩人の名を記憶している方も少なくあるまい。

韓国の体制に抗して繰り出す詩は、紙つぶてとなって権力者を撃った。よく知られる「五賊」は長編の風刺詩だ。財閥や国会議員、高級官僚、将軍らを国に巣食う五賊と呼び、〈夜昼のべつ盗みにはげみ、その技(わざ)これまた神技(かみわざ)の域〉 などとこきおろした。

民主化運動の弾圧事件で1974年に死刑判決を受ける(のちに減刑)。この年にはソ連の反体制作家ソルジェニーツィン氏が国外追放されている。国家体制も状況も異なるが、2人の抵抗人の「良心」が様々に語られたものだ。

そのころの韓国は軍政下にあり、言論統制は厳しかった。たとえば新聞の場合、官憲が各社に常駐して記事を検閲したそうだ。真実を書くのに覚悟が求められた。

時は流れて金氏は無罪を勝ち取った。その報を読みつつ目を転じれば、中国で「言論の不自由」への抗議が沸き上がっている。南方週末という新聞の新年号が、当局の指示で違う紙面に変えられたという。この抗議を人々の「良心」ととらえたい。言論の自由を書いたままでは、中国は大国になっても成熟できまい。民衆の口を封じるのは川を止めるより危険ーー。いずれ不満が高じてあふれ出すからだが、政府が省みるべきそんな古言も、中国にはある。