2010年10月28日木曜日

落合監督*西村監督

20101026朝日朝刊・スポーツ欄に下の記事を見つけた。

こんな記事を書いてくれるから、読者は新聞を支持するのだろう。朝食を摂りながらのひと時が豊かなものになる。今回の記事はクライマックスシリーズを制したパ・リーグのロッテとセ・リーグの中日が30日から始まる日本シリーズを前にしての、両監督の紹介が、面白い。

両者の選手としてのキャリアの内容に興味をそそられた。こんな記事を読ませてもらうと、その両監督の采配の方も注意深く見守りたい。

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「偉大な先輩」と頂上決戦

落合監督*西村監督

2月27日、ナゴヤドームでのオープン戦だった。ロッテの新監督・西村徳文(50)は試合前、打撃練習を見ていた中日監督の落合博満(56)のもとへあいさつに出向いた。

2人はそれから延々30分ほど話し込んだ。

「いろいろな話を聞かせてもらった。野球のこと、昔のこと、監督としてのこと。いい時間になった」と西村。

2人はロッテで5年間、一緒にプレーした。西村の入団は1982年。前年にプロ3年目で初めて首位打者を獲得した落合は、この年、最初の三冠王に輝いている。当時の本拠、川崎球場の室内練習場は2人も入ればいっぱいになる狭さだった。落合が入ると2時間は出てこなかったと西村は振り返る。「僕ら後輩はそれを外で待っていた」

西村はその背中に学んだ。

「努力しなければいけない。あれだけの偉大な打者でも練習をしていた。あの姿を見ていなかったら、間違いなく今の自分はいない」

出場6試合に終わった1年目のオフ、西村はスイッチヒッター転向に取り組む。球場近くに泊り込み、来る日も来る日もバットを振った。打撃コーチだった故・高畠導宏が当時を振り返ったことがある。「練習が終わってメシを食うやろ。西村の手は筋肉がこわばって、バットを握った形のまま開かないんや。それくらいバットを振っていた」

秋田工高から東洋大を中退し、社会人の東芝府中からドラフト3位でプロ入りした落合と、宮崎・福島高から鹿児島鉄道管理局を経てドラフト5位入団の西村。当時からぶっきらぼうだった「オレ流」は口こそ出さなかったが、自身と同じく、エリートとは言えない立場から努力ではい上がろうとする後輩を認めていたのかもしれない。

西村が一本立ちしかけていた春先のある朝オープン戦を前に声をかけた。「山内さんとこに行くぞ」。向かったのは故・山内一弘(元監督)の自宅。打撃練習ができる庭先のスペースで、2人でバットを振った。「何で誘ってもらえたのか分からないけど、うれしかった」と西村。

3年目にレギュラーに定着した西村は、落合と内野陣を形成した。落合が3度目の三冠王に輝いた86年、西村も最初の盗塁王を手にしている。

あれから四半世紀。西村にとって、「偉大な人」と尊敬してやまない先輩に挑む頂上決戦。「いろんな思いがあるけど、言いたくない。僕は監督1年目で向こうは何年も実績がある大先輩。どうこう言うのは失礼です」。後輩が勝てば、落合が04年になし得なかった監督就任1年目での日本一になる。=敬称略(金島淑華)

タラの幼木を買った

猫の額よりも狭い、イートハーブの果樹園の園主は、昨日20101013の水曜日に近所のホームセンターでタラの幼木を買った。

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この店にあったたった1本のタラの木は、この夏この店で見つけておいたのです。このたった1本のタラの木を、果樹や花木の幼木を売っているコーナーの隅っこの、またその隅っこに他人の目に触れないように隠しておいたのです。会社から急用の知らせが携帯電話に入って、その日は諦めた7月頃のことです。誰かに見つけられて、買われてもしょうがないと思っていた。

この数年、ふとしたことからタラの木が、急に気になりだして店を幾つか回ってみたのですが、なかなか見つけることはできなかった。店の人に聞いても、うちでは取り扱ったことがないと、どの店でも言われた。友人にも相談したら、山にでも行って、探してくるしかないんじゃないの、と言われ半ば諦めていた。

だが、タラの木を隠したものの、買いに行くまで、随分日が経った。昨日、そのタラの木は紅葉しながらも、誰に買われることもなく、私の来るのを待ってくれていた、ようだった。いいかげんで頼りない買主だ、とでも思ったことだろう。店員さんに4ヶ月も売れなかったのだから、ちょっとぐらいオマケしてよ、と頼んだが、それはできませんの一言だった。

今から35年前、某電鉄系の観光会社の宣伝部にいた時、毎年、越後地区のスキー場の次年度の宣伝計画の打ち合わせのために、ゴールデンウィーク明けに現地に行った。昼間の打ち合わせの後、夜は豪勢な酒宴が控えていた。地元のスタッフは、気合を入れて待っていて呉れた。宴会は事務所のテーブルに用意された一升瓶の酒数本と山盛りのタラの芽の天ぷらだったのです。私は、それまで食べたことがなかったのですが、初めて食べたその瞬間に、苦味の混じったタラの芽の虜(とりこ)になってしまったのです。大人の味だった。

それから、今、手に入れることになったのです。

誰か、タラの木の今後のことに、助言をくださいな。

2010年10月25日月曜日

「告白」って、いやな感じ

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私の職場の同僚が、これ面白いンですよと文庫本を見せてくれた。私は、何とかオフという古本屋を見習って、その本を廉く買わせてもらった。本に対する占有欲が強くて、借りるよりも所有を求める性向なのです。好きになれない本は、人にあげるか捨てて、好きな本は身の回りに置いておきたいのです。

その本は半年ほど前から話題になっていた湊かなえ氏の「告白」だった。映画化もされた。第6回の本屋大賞にも選ばれたのです。面白いことは面白いのですが、残念ながら、私が喜ぶ類の本ではなかった。実は、今この本の物語の終盤まで読み進んできたのですが、ここら辺で少し疲れてきたのです。

女教師の娘が自分の勤める学校の敷地内にあるプールで溺死体として発見された。だが、これは事故ではなくてこのクラスの生徒によって殺されたのです、と教師はホームルームの時間に生徒に向かってこの顛末の告白を始めた。

それから級友の女生徒の告白が続く。女生徒と級友たちと先生の関係や新任のクラス担当の新米教師の様子が述べられていく。

犯人の下村少年の告白は、父母のこと、姉たち、母との関係が続く。それから犯人の渡辺少年の告白だ。父と実母のこと、実母から電子工学の知識を授かったこと、それから継母との関係、下村少年との共同作業から、そして離反。

ーーーーーーーー、ここまで、読み進んできた。

そして仕事の関係で一週間、この「告白」が読めなかった。その間に、下のような記事に遭遇する羽目になったのです。

この本は、確かにストーリーテーラーとしての著者の才は抜群に冴えている。題材や物語の展開が奇抜で、好きな人には好まれたでしょうが、私はそれらがが好きになれなくて、正直読むスピードが上がらなかった。映画化された理由も分る気がするのですが。仕事の関係で、読み進めなかったとか言い訳しているが、どうしても好きになれないのが大きな原因だったのだろう。

この本を早く読み上げて、宮沢賢治の童話の一話でも読まないと、元の自分に戻れないなどと考えていたところだったのです。頭の中は靄(もや)がかかったままだ。

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「告白」について、読了もしないうちに、気乗りしないことの文章を綴っていた。その最中に、愛知県立の商業高校で、担当教諭が馬鹿げた問題を作成して生徒に回答させていたというニュースがあった。

今読んでいる「告白」とは、何の関係もなく、似ていると言えば学校内で起こった、先生と生徒との出来事ぐらいなのだが、本を読んで気分が暗くなっていた矢先だったから、異常にこのニュースが気になったのだろう。

その事件はネット上に、題字〈見出し〉=「校長暗殺犯は誰」、として紹介されていた。その事件を間違いなく把握するために新聞記事をさぐった。結果、20101023の中日新聞の夕刊の中にその関係した記事を見つけた。

★愛知県立東海商業高校(同県東海市大田町)で19日行なわれた中間試験で、校長を暗殺した犯人を当てるというクイズのような問題が出され、選択肢の中に同校教員の実名が使われていたことが分った。校長が「教育現場にあってはならない」と問題を作った担当教諭を厳重注意した。

試験に出た問題は、職員室で暗殺された校長が残した血で書いた文字を手がかりに、選択肢に実名であげられた教員7人の中から犯人を選ぶという内容。校長が書き残した「41124」と横に書いた数字を逆から見ると「カていカ」と読めるため、答えは「家庭科の教員」というわけだ。

総合ビジネス科の総合実践の試験で貸借対照表やビジネスマナーの問題とともに、「頭の柔軟さをはかる問題」として出題された。作ったのは20代の男性教諭で、3年生の2クラス77人が回答。同校によると「柔軟な思考を育て人間力をつける趣旨」として、クイズ的に思考を試す問題はこれまでにも出題している。

それから20101024の朝日新聞の朝刊には、前の愛知県立の高校での記事ともう一つ東京都の小学校での授業の内容の記事が掲載されていた。この記事も、何やら憂鬱な気分にさせられた。こんな変な内容の事件が、何故この時期、こんなに起こるのだろうか、後日のためにここに転載させてもらう。

★これって授業?

小学校教諭がクイズ 答えは「三女を殺す」

東京都杉並区浜田山小学校の女性教諭(23)が、授業中に自殺や殺人を題材にしたクイズを出題していたことがわかった。同校は23日に臨時保護者会を開き、岩崎義宣校長が「不適切な指導だった」と謝罪した。

同校によると、問題となっているのは、10日の2時間目、3年生の算数の授業中に出したクイズ。「3姉妹の長女が自殺し、葬式があった。その葬式に来たかっこういい男性に、次女がもう一度会うためにはどうすればよいか」という趣旨の質問で、答えは「三女を殺す(また葬式をする)」だったという。

教諭は「授業を楽しくしたいと考えてのことだったが、軽率だった」と話しているという。

くだらない教師が、くだらないことをしでかしてくれるなあ。

上の2件のそれぞれの教師には、校長が厳重に注意したとか言っているが、こんな教師は教師の資格どころか、教室、学校なる施設内で働く資格がない。愛知県の高校の場合だけれど、中間テストなどの問題を、管理者である校長や教頭は目を通さないものなのですか、民間の会社ではそんなこと有り得ない。自らの行為を深く反省して、早々と神聖なる学び舎から立ち去ってもらいたいものだ。

気分を取り直して、これから、「告白」の残りの部分を読むことにしよう。

2010年10月24日日曜日

私の昼めし狂・騒・曲

私たちの会社は、中古の戸建やマンションを仕入れ、リノベーションを施し、新たな付加価値を付けて市場に提供することを主たるな業務にしている。社員全員、日々、精励奮闘。他にも建売住宅、未利用地を造成して宅地分譲をしている。今年は、注文住宅を数棟、建てさせて貰った。センスの良さ、原価公開主義を貫きお客さんからは感謝され放しです。作品は、アーバンビルドのホームページをご覧ください。

住宅や宅地に関することの仕事ばかりなので、社員の誰もが会社に居る時間は少なく、外回りが多くなるのです。お客さんのお家や、設計事務所や工務店、役所、同業者さんの事務所を訪れる。また、建築や造成の現場にも行く。

そのような外回りにも楽しみがあるのです。それは、一人の時も連れで居る時も、仕事の合間を縫って、昼飯を何処で何を食うのかを考えて、それを実行することです。私が店を決める優先順位は、一に値段と量、二にメニュー、最後は諸々だ。私は営業のスタッフに比して外出する機会が少ないから、尚更非日常的な外食の時こそ楽しみたいのです。行き先と時間を見計らって、前もって店を決めてから外回りの仕事に出ることもあります。外食で、行動にはずみをつけたい。車の運転中にも、行きたい店、食いたいメニューを突然思いつくこともあります。飯を食わないと死んじゃいますからね、と。

牛丼一つにしても、選択肢は幾つもある、吉さんにスキヤはん、松っちゃんに卯さん。戦国時代だ。牛丼がメインだけれども、メニューの豊富さは流石(さすが)だ。研究されている。それに華々しい値下げ合戦。それにしても、吉さんの起死回生の決めダマだと最近新発売した牛鍋丼は、私には吉さんの気合の入れようほど、素晴らしいメニューだとは思えない。コストパフォーマンスをこの時とばかりに発揮したかったのだろう、牛丼ほど肉を使わないようにして、その代わりに糸コンニャクや豆腐を入れて、いかにもすき焼き風にした心算だろうが、値段の割には物寂しい。もっと廉くないと、このメニューはそのうち消滅するだろう。

それに焼肉安さんや、何だかよくわからないがたったそれだけのドンさんには、飯食い放題のランチがある。どちらにも、500円定食で飯食い放題、我が社の社員には熱い支持がある。どんぶり飯、5杯も食う猛者もいるのです。ところがどっこい、同じチェーン店でも店によっては、この得出しの飯食い放題でない店があるのです。このような店に入ったとき、ショックを受けてがっかりした人を見るのは耐えられない。慰めの声の掛けようがなかった。

各区役所、県庁、各市役所の食堂も侮(あなど)ってはいけない。

蕎麦屋のみなとさんにはアルプス盛りというメニューがあって、これは超難関だった。ざる蕎麦の巨大盛りです。値段を忘れたのですが量の割りには廉かった記憶がある。ご一緒した司法書士の銀子さんは、腰を抜かした。相当ショックだったようだ。私は食い残したことを平身低頭の態で、店員さんに謝った。大失態だった。勿体ないことをしてはいけない、これは亡き母からの唯一の教え、私の金科玉条だった。自分の胃袋を過信し過ぎてしまった、我が一生の不覚です。

社内で仕事があるときは、時間が許す時にはインスタントラーメンなどを作るのですが、それができない時は、最寄の駅の立ち食い蕎麦やうどんだ。かけ蕎麦なら280円。折角節約しているのですから、これ以上のものを食うわけにはいきません。讃岐うどんのうまい店も増えました。この店では、ネギと天カスが自由に取って食えるので、これは儲けモンですゾ。

そして、ちゃんぽんです。シーボルトやオランダ屋敷や、日本で二番目に原爆の被害を受けた、その地方の名前をつけたチャンポン屋さんがある。店の名前は、なんとか帽子を英訳にしたものだ。麺がレギュラーサイズ200gでも、大盛り(1,5倍)300gでも、ダブル(2倍)の400gでも、値段は同じの500円。私は、この大盛り(1,5倍)で十分なのですが、我が社の同僚は、ダブルをいただいて、けっこうな量でございました、とお店にお礼を言っていた。

そして、ここでちょっと待てよ、「ちゃんぽん」とは何じゃいな、と思って一緒にちゃんぽんを食っていた知人に尋ねた。知人は、それはお前、日本酒やウイスキー、紹興酒、泡盛にテキーラーやウォッカ、ビールなどをゴチャゴチャにして飲んだときに使うでしょ。ちゃんぽんして飲み過ぎたので、頭が割れるように痛い、とお前がしょっちゅう言ってるやろ、あれや。ごちゃごちゃ混ぜることを言うんや。

以下は、東京大学名誉教授の柴田 武さんの「常識として知っておきたい日本語」(玄冬舎)による「ちゃんぽん」の説明です。この本は私の寝床の枕元にいっつもありますす。本書122Pより。

鉦(かね)を鳴らせば、チャンという音がする。鼓(つづみ)を叩けばポンだが、この鉦と鼓を”チャン、ポン”と合奏することを「ちゃんぽん」と言ったのがはじまりだ。そこから、違う種類のものを混ぜ合わせることを「ちゃんぽん」と言うことになった。酒の「ちゃんぽん」はいただけないが、「長崎ちゃんぽん」は、肉や野菜、魚介類など、たくさんの材料が「ちゃんぽん」に使われていて、なかなか美味しい。

2010年10月16日土曜日

アンプティサッカー

20101013の朝日・夕刊12面に載っていた写真を見て、ありふれた表現だけれど、ガ~ンと頭をバットで殴られたような衝撃を受けた。これは、何じゃ、片足でサッカーをしている!! 目が紙面に釘付けになった。体の血が騒いだ。目が充血してくるのを感じた。

サッカーは、人間をこんなにも勇敢にさせるものだと、改めて感動させられた。サッカーという競技には、先天的にどこまでもチャレンジという因子が埋め込まれているいるようだ。

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(ボールを追う主将の新井誠治さん(左)とエンヒキ・松茂良・ジアスさん=埼玉県朝霞市溝沼、福岡亜純氏撮影)

私は、高校1年の時から、素浪人時代の2年間の休みはあるものの、大学の4年間、卒業後も同好の仲間とサッカーを楽しみ、また地元自治会に請われて子どもサッカー教室で指導した。そのように、私のサッカーは繁忙だった。サッカーだけなんです、唯一の趣味として愛して止まなかったのは。62歳になった今でも、プレーはできないものの、サッカーの話題は、いつでも、何でもウエルカムちゃんだ。

そんなサッカー狂の私が、その都度恥ずかしい思いをしてきたことがある。体の状態に応じて、趣向を凝らし、工夫して、「新作サッカー」を幾種類も編み出して、各地でそれぞれに勤(いそ)しんでいる人がいることに、余りにも無知だった。ハンディを乗り越えるなんて、そんな甘いもんじゃない。新作サッカーを作り上げ、これを究(極)〈きわ〉めようと努力する多くの人たちがいることを。

本質的に面白いサッカーだからこそ、どんなに、姿や形を変えても興味は果てしない。競技ごとに考え出されたルールは厳然と守る。手を使わない、手を使えない、この原則のもどかしさの中で、技を競う。競って進化する。

先ずは女子サッカーだ。私が大学の現役の頃、今から42~3年前、女子サッカーなど誰もやっている人はいなかった。当時、誰が今日の女子サッカーの人気の高まりを想像し得ただろうか。約20年前、地元自治会の体育部の中にできた子どもサッカー教室には、女の子もちらほら混ざっていた。私の娘も男の子に混じってプレーした。そうこうしているうちに女子サッカーがますます盛んになって、今、なでしこジャパンと呼ばれる日本代表チームの戦績は立派だ。世界のトップクラスに位置する。海外のプロチームに籍を置いているプレーヤーもいる

それから、映画「プライド in ブルー」で初めて知った、知的障害者たちによるもう一つのW杯。2006年のドイツW杯に合わせて行なわれた大会の記録映画を観るまでは、このような大会があることを知らなかった。娘と一緒に映画を観たのは2007年の夏、テアトル新宿だった。この映画を観て直ぐに、私の勤める会社の入口付近に、寄付をお願いするための募金壷を用意した。少しでもこの大会に協力したいと思ったのです。

そして、視覚障害者たちによる、もう一つのW杯なんて言わせないぞの「ブラインドサッカー」にも驚かされた。アイマスクを付けて音の鳴るボールでプレーするフットサルだ。今では、健常者も混ざってプレーを楽しんでいる。健常者だって、アイマスクを付ければ条件は同じだ。テレビで放映されたのを偶然見たことがあるのですが、どうしてあんなに上手くボールを運べるか、不思議でもあった。

そして、今回のこの新聞記事だ。読む前に、写真を見て吃驚した。

なんと、「アンプティサッカー」というやつだ。

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これからは新聞記事そのままです。

片足片手 勇気くれたサッカー

「アンプティサッカー」日本代表19人W杯へ

つえをつきながら片足の選手がピッチを走り、片腕のキーパーがゴールを守る。「アンプティサッカー」は病気や事故で片足、片手を失った人たちがプレーする。アルゼンチンで開かれるワールドカップ(W杯)に初出場するため、「日本代表」10人が13日午後、成田空港から出発する。(牧内昇平)

10日、埼玉県朝霞市のフットサル場。チームを二つに分けたミニゲームがあった。ゴール前。ジャパンブルーのユニホームを着たDFで主将の新井誠治さん(40)は、右足でジャンプして体の向きを変えた。MFの日系三世、エンヒキ・松茂良(まつもら)・ジアスさん(21)は2本のつえで体を支えながらドリブル。左足を振り抜くとボールはゴール右上に突き刺さった。新井さんは悔しそうに大の字になって倒れ込み、一息つくと笑顔で言った。「一対一の緊張感。柔道をしていたころを思い出します」

新井さんは埼玉県川口市に住み、損害保険関連会社に勤める。30代前半まで実業団の柔道選手だった。左足を失ったのは2005年3月、ひざに腫瘍ができ、付け根から切断した。原因は血液のがん、悪性リンパ腫。がんは内臓に転移し、同年夏、臍帯血移植が成功し一命を取り留めた。

再発の可能性がほぼなくなって数年。リハビリを兼ねた水泳やアーチェリーでは満足できなくなり、「もっと激しいスポーツがしたい」という思いが膨らんだ。

新井さんが義足を外し、恐る恐るボールを蹴り始めたのは4月。知人から、アンプテイサッカーの元ブラジル代表選手の松茂良さんを紹介されたのがきっかけだ。

最初はつえを握る手の皮がぺろんとむけたが、「全身を思い切り使う感覚がよかった」と新井さん。試合に出るにはキーパーを含めて7人が必要だ。メンバーを探し、関東などに住む20~49歳の10人が集まった。国内にはほかにチームが見当たらず、そのままW杯代表になった。

16歳の時、骨肉腫で右足を失ったDFの上中進太郎さん(36)=東京都府中市=は「サッカーがめちゃめちゃ好き。できないとあきらめていた」。キーパーの前田和哉さん(24)=茨城県神栖市=は昨年6月、労災事故で右ひじから下を切断した。「プレーしていると、勇気をもらえるんです」と話す。

W杯は17日(日本時間)開幕。ブラジル、イングランド、ガーナなど18カ国が参加する。日本の初戦は開幕試合で相手は強豪アルゼンチン。新井さんは「心を奮い立たせるものに出会えた喜びを、障害ある人に伝えたい」と健闘を誓う。

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アンプティサッカー

「アンプティ」は英語で「切断で手足失った人」の意味。義足を外した選手がつえ2本を使って片足でプレー。つえでボールをコントロールすると反則になる。キーパーは片腕の人が務める。ピッチは通常のサッカーの約3分の2の広さ。試合は25分ハーフ。1980年代に米国で始まった。国際アンプティサッカー連盟が開催するW杯は今回で8回目。パラリンピックの正式種目を目指している。

2010年10月14日木曜日

ノーベル平和賞は獄中の劉氏

以下の文章は、20101009(土)の朝日新聞の1,2,3面をダイジェスト、社説は全文を転載させてもらったものです。新聞記事そのままです。

10月7日の新聞には、ノーベル化学賞を根岸英一・米バデュー大特別教授(75)、鈴木章北海道名誉教授(80)、リチャード・ヘック・米デラウェア大名誉教授(79)に授与するという記事が大きく取り扱われていた。3人は金属のパラジウムを触媒として、炭素同士を効率よくつなげる画期的な合成法を編み出し、プラスチィックや医薬品といった様様な有機化合物の製造を可能にした、という功績だ。

日本の化学者の受賞の知らせの次にきたのが、劉暁波(リュウシアオボー)氏のノーベル平和賞受賞の知らせだった。民主化とか反権力との闘いとかに関しては、どういう訳か、私には力が入るのです。血が騒ぐのです。

劉氏の名前は候補者として以前から呼び声が高く、関係者の間では予想通りだったようだ。私は劉氏のことを、今回まで知らなかった。新聞の記事を読めば読むほど、これは大いに考えなければならない問題だと思った。私にできることは、せめて新聞記事からでも劉氏の現状をできるだけ深く理解したいと思った。

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ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、2010年のノーベル平和賞を、中国共産党による一党独裁の見直しや言論・宗教の自由などを求めた08憲章を起草した中国人人権活動家で作家・詩人の劉暁波(リュウシアオポー)氏(54)に授与すると発表した。「中国での基本的人権を求める非暴力の闘い」を評価した。中国外務省は8日夜、「(授与は)平和賞を汚すものさ」と激しく反発する談話を発表した。

中国在住の中国人がノーベル賞を受けるのは、自然科学系を含めて劉氏が初めて。劉氏は08憲章を起草したことで今年2月、「国家政権転覆扇動罪」で有罪となり、懲役11年の実刑判決を受けて服役中。今回の受賞決定は、経済大国として国際社会での存在感を増す中国に対し、民主化と人権改善を強く求めたものだ。国際社会に対しても、依然抑圧が続く中国の人権状況への監視を促す意味がある。

同委員会は授賞理由の中で「中国は世界第2位の経済大国になったが、その新しい地位には増大する責任が伴わなければならない」と指摘。劉氏について「20年以上にわたり、中国での基本的人権の適用を訴えるスポークスマンとなってきた」と評価し、国内にとどまって活動を続け、厳罰に処せられたことで、「中国での人権を求める幅広い闘いの最大の象徴になった」とした。

さらに、「中国の憲法には言論、報道、集会、デモなどの自由が定められているにもかかわらず、中国市民の自由は明らかに制限されている」と、人権活動家らの自由な表現活動を認めない中国政府の姿勢を批判した。

これに対し、中国外務省の馬朝旭報道局長は、「劉暁波は中国の法律を犯し、中国の司法機関が懲役刑を科した罪人である」と非難した上で、「同賞を与えることは、賞の趣旨に背き、これを汚すものだ」とする談話を発表した。また、「中国とノルウェーとの関係も損なわれることになる」とし、同委員会のあるノルウェーへの対抗措置を示唆した。

ノルウェーの外務省は8日、中国政府が抗議のためノルウェーの駐中国大使を呼び出したことを明らかにした。

ノルウェーでの報道によると、中国政府は劉氏ら反体制派に授与しないよう委員会側に事前に圧力をかけていたとされる。一方、受賞者発表の様子を生中継していた米CNNテレビが、中国各地で午後5時「日本時間6時」4分から12分まで中断。同時刻のNHKのニュース番組も放映できなかった。中国当局が神経をとがらせているための措置とみられる。

授賞式は12月10日にオスロである。

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米大統領 釈放を要求

オバマ米大統領は8日、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を歓迎する声明を発表し、劉氏を即時釈放するよう中国政府に求めた。中国の政治改革の遅れにも言及し、「すべての男女、子どもの基本的人権が尊重されなければならない」と強調した。

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「中国人権闘争の象徴」 授賞理由

ノーベル賞委員会は2010年のノーベル賞を、中国の基本的人権のために長く、非暴力で活動してきた劉暁波氏に授与すると決めた。ノーベル賞委員会は基本的人権と平和の間に密接な関係があると長く信じてきた。基本的人権は、アルフレッド・ノーベルが彼の遺言に書いた「国家間の友愛」に必須のものである。

過去数十年にわたって、中国は歴史がほとんど同じような例を示すことができない経済的進歩を達成した。中国は今や世界2位の経済大国だ。何億もの人びとが貧困から引き上げられた。政治に参加できる範囲も同じく広がった。

中国の新しい地位は、増加した責任を含むものでなければならない。中国は、政治的権利に関する中国自身の法規と同様に、自ら署名したいくつかの国際協定にも違反している。中国の憲法第35条は「中国人民共和国の公民は、言論、出版、集会、結社、行進及び示威の自由を有する」と定めている。だが、実際は、これらの自由は明らかに制限されていると証明されてきた。

20年以上の間、劉氏は中国でも基本的人権を採り入れようと権力に提唱してきた。彼は1989年に天安門での抗議に参加。2008年12月10日、国連の世界人権宣言60周年を記念して発行された、中国の人権に関する宣言書「08憲章」の主な起草者でもある。翌年、劉氏は「国家権力の転覆を促した」として、懲役11年と2年間の政治的権利剥奪の判決を受けた。劉氏はその判決が中国の憲法と基本的人権の両方に違反するものだと一貫して主張してきた。

中国でも普遍的人権を確立するという政治活動は、中国国内と国外の両方で多くの中国人により営まれている。厳罰を与えられたがゆえに、劉氏は、中国での人権を求める幅広い闘争の抜きんでた象徴になっている。

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(劉夫婦)

「08憲章」の要約

一、前置き

執政集団が権威主義支配を続け、政治の変革を拒むことで、官僚の腐敗や道徳の喪失、社会の二極分化を招き、社会の矛盾と不満が高まり、現体制の立ち遅れは改めなければならない段階に至った。

二、我々の基本理念

自由、人権、平等、共和、民主、憲政

中国では皇帝の時代は過ぎ去った。公民が真の国家の主人公になるべきだ。臣民意識を払いのけよう。

三、我々の基本的主張

①憲法の改正②分権による牽制③立法による民主④司法の独立⑤公器の公用⑥人権の保障⑦公職の選挙⑧都市と農村の平等⑨結社の自由⑩集会の自由⑪言論の自由⑫宗教の自由⑬公民教育⑭財産の保護⑮財政・税制改革⑯社会保障⑰環境保護⑱連邦共和⑲正義の回復

四、結語

中国は大国として、人類の平和と人権の進歩に貢献すべきである。一日も早く自由、民主、憲政の国家をつくり、わが国の先人が求め続けた夢を実現しよう。

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「沈黙したら人権の基準下げる」

ノーベル賞委 決断貫く

「中国は大国として基本的な人権を守る責任がある。目をそらしてはいけない」。オスロのノーベル研究所で8日開かれた発表会見で、ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長はそう説いた。

委員会メンバーは元首相のヤーグラン氏ら、ノルウエー国会が選んだ超党派の5人。選考過程は50年間経たないと公開されないが、今年の決定が一筋縄でいかない性質のものだったことは確かだ。

同委員会のルンデスタッド事務局長はこの夏、中国の外務次官から「反体制派への授与は非友好的行為とみなされ中国・ノルウェー関係に影響を及ぼす」と警告されたことを明らかにしていた。

しかしヤーグラン氏は朝日新聞に「劉氏は人権改善を長年求めてきた最も重要な活動家。彼に賞を出さないわけにはいかない」と強調した。

平和賞選考に対する圧力は「毎年のようにあること」と一蹴。委員会が超大国としての米国の役割を折りに触れて批判してきたことも挙げ「我々には大国になった中国を批評し、どうあるべきか問う権利がある」と断じた。

人権活動家らを支援する「後押し型」の平和賞は今回が初めてではない。チベット仏教の指導者ダライ・ラマ14世(89年)や、ミャンマー(ビルマ)の民主化指導者アウン・サン・スー・チーさん(91年)がその典型例だ。

中国の人権活動家も長年有力と目されながら、受賞が見送られてきた。最適なタイミングを待った結果、今年になった可能性もある。

ただ、中国の対応にどう影響するかは未知数だ。ダライ・ラマの受賞後も中国はチベット問題で強硬姿勢を変えていない。平和賞は「単なる声明に過ぎない」(オスロ国際平和研究所のトネソン前所長)との指摘も聞かれる。

ノルウェーと中国は現在、自由貿易協定(FTA)の交渉中で、授賞式のある12月は9回目の二国間会合がある。「委員会は完全にノルウェー政府や議会から独立した存在」(ヤーグラン氏)のはずだが、中国が厳しい対応をとる可能性もある。

それでも、ヤーグラン氏は強調した。「もし我々が皆、経済など自己の利害から沈黙してしまえば、国際社会に受け入れられてきた(人権)の基準を下げてしまう」

平和賞授賞式の12月10日は48年に世界人権宣言が採択された世界人権デーだ。劉氏らの「08憲章」も60年後の08年、この日付で出された。その12月10日の式に、獄中の劉氏も家族も出られない可能性を問われたヤーグラン氏は、皮肉を込めて答えた。「素晴らしい式典になるだろう」。

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社説

平和賞・中国は背を向けるな

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驚異的な経済発展とは裏腹に、民主主義や人権を大切にしてこなかった中国の指導者に、痛烈なメッセージが突きつけられた。

中国の民主活動家で作家の劉暁波氏に、ノーベル平和賞が授与されることになった。1989年の天安門民主化運動にかかわり、それ以来暴力など過激な手段を使わず、言論活動一筋に民主化を求めてきた人物だ。

ノルウェーのノーベル賞委員会は、こうした活動を高く評価した。

北京五輪のあった2008年暮れ、劉氏は共産党独裁の廃止など根本的な民主化を訴える「08憲章」を起草した。そのことと党や指導者に対する批判が、「国家政権転覆扇動罪」に問われて懲役11年の判決を受けた。今は東北部の遼南省で獄中にある。

劉氏が平和賞の知らせを聞くことができたかは定かでない。少なからぬ国民も、当局による報道規制のために知らずにいるかもしれない。しかし、早晩、授賞の知らせは中国で広がり、劉氏らとともに民主化につとめてきた人びとへの大きな励ましになるだろう。

ノーベル賞委員会によれば、中国当局は「反体制派への授与は非友好的な行為とみなされる」と警告していたという。だとすれば、急成長する経済や軍事力の増強による「大国意識」を背景にした強権的な一面が、ここでも表れたといえる。

しかし委員会は中国側の圧力に屈しなかった。高く評価したい。

中国当局は、政治的信条の平和的な表現を認める、自らも署名した国際規約に反し、言論の自由などをうたった中国憲法にも反している。委員会はそう厳しく批判し、中国の責任の大きさを指摘した。

尖閣諸島沖の衝突事件や南シナ海での行動は、中国がルールに従わない国という警戒感を国際社会に与えた。

経済の相互依存が強まるなかで、国際社会は中国による普遍的価値の侵害に目をつぶりがちだった。人権問題を重視してきた欧米諸国も、最近は中国との関係維持を優先させていた。先のアジア欧州会議(ASEM)首脳会合でも厳しい注文はつけなかった。

そうした風潮の中でのンーベル賞委員会の決定は、とりわけ先進国への警鐘として重く受け止めた。

中国外務省は「劉暁波は中国の法律を犯しており、その行為は平和賞の趣旨に背いている」と批判し、ノルウェーとの関係悪化も示唆した。民主活動家らへの国内での締め付けが厳しくなることも心配だ。

内外での強硬な姿勢をとることは、長い目で見て中国の利益にならないだろう。経済発展を続けても、普遍的な価値を大切にしなければ真の大国として認められないことに、中国当局は早く気づかねばならない。

2010年10月11日月曜日

小沢氏強制起訴へ

小沢さん、民意を甘くみない方がいいですよ。まして、貴殿には神の声なんて聞きとれないでしょうが。

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(佐々木順一撮影)

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会は4日、小沢氏を04年、05年分の政治資金収支報告書の虚偽記載罪で起訴すべきだとする「起訴議決」を公表した。これにより、小沢氏は強制起訴されることが決まった。審査会は関与を否定する小沢氏の供述を「信用できない」と判断した。小沢氏の進退を問う声が高まることは確実で、政権に大きな打撃を与えるとみられる。(20101005 毎日朝刊、一面より)

 

東京第5検察審査会は、小沢氏を起訴すべきだと「起訴議決」をしたと公表した。国民は裁判所によって無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利があって、検察官が起訴をちゅうちょした場合、国民の責任において刑事裁判で黒白をつけようとする制度である、よって、真相を法廷で明らかにすべきだ、とした。

議決の骨子(読売新聞20101005、一面より) ★虚偽記入した政治資金収支報告書の提出について小沢氏に相談し、了承を得たとする元秘書2人の供述は信用できる。 ★土地購入資金4億円の出所についての小沢氏の説明は著しく不合理で到底信用できず、虚偽記入の動機があったことを示している。

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ここにきて大物政治家・小沢氏の強制起訴になったことを機に、この検察検査会の制度設計に問題があるのではないか、と政治家、とくに与党の間で話題になってきた。かって、2004年の検察審査法の改正法案に賛成した民主党の議員からも批判が噴出。確かに問題は抱えているようだが、今、ここで見直しを迫るのは性急だ。この新制度の理念は、後ろの方の立花氏の寄稿文を読めば十分だ。先ずはその理念を再確認することだろう。

障害者用郵便不正事件においては大阪地検特捜部の主任検事が証拠隠滅容疑で逮捕された。最高検が、地検の特捜部の検事を取り調べるなんて、到底普通の感覚では考えられないことが起こり、検察に対する不信に火が点いた。検察の信用が地に落ちた。そんな検察を長年、裁判所は厳しくチェックするどころか増長させてきたのだ。検察にはおごりがあり、裁判所にも重い責任がある。

そこで、市民が声を上げた。民意が、検察審査会が起訴議決したのだ。

私は、小沢氏を信用してないし、検察も信用できない。起訴するもしないも、検事のサジ加減一つということもある。事件の真実を知りたい、小沢氏からきちんと説明をしてもらいたい。

今回のこの強制起訴では、有罪、無罪を決めることになるのでしょうが、その過程で私は真相が明らかになること望む。小沢氏の資金の出どころの供述が余りにも転々として、それが腑に落ちない。巨額な資金を、どのように調達したぐらいは、本人なら分りきっているではないか。私の記憶にあるのは、当初、相続したお金を現金のまま自宅に何年もしまってあったとか、紙袋に入れて秘書に渡したとか、市民の日常生活では、想像もつかない話ばかりが伝わっていた。一転、いや、あれは銀行で借りたお金だ、と言い出した。ところで、某ゼネコンから頂いたのは、何処にしまったっけ。秘書が勝手に収支報告書に虚偽記載したというが、責任者である小沢氏は報告も受けてないし、まして了承もしていないなんて、本当にアリか?常識的には、小沢氏の指示、もしくは承認の上で虚偽記載をしたのだと思うけど、どうだろう?小沢氏と秘書らが、鳩首、大いに打ち合わせをしていたと考える方が自然だ。小沢氏は自分の秘書に、そんなに裁量を与えていたとは思えない。

そんなことを考えながら、スッキリしない日々を過ごしていたーーーら、今回の検察審査会の議決が公表された。検察審査会の仕組みとあり方について、私にもよく理解できる文章を日経新聞と朝日新聞で見つけた。

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その1は、日経新聞20101005 「春秋」よりーーーー暗闇の中に、突然リンの火のような青い光がぼうっと浮かび上がる。黄金色の葉の樹木がずらりと並び、一斉にこずえを鳴らし始めるーーーー。宮沢賢治が「学者アラムハラドの見た着物」という小品で、こんな幻想的な情況を描いている。

教師である主人公は、森で11人の子どもを教えていた。火や水の性質を説き、小鳥の特徴を学ばせる。火は熱く、水は冷たく、鳥は飛ぶ。では人間の特質とはなんだろう。「人は本当のいいことが何だかを考えないではいられないと思います」。一人の生徒がそう答えたとき、感動した教師は遠くに美しい光を見る。

検察審査会が、民主党の小沢一郎氏の強制起訴を決めた。11人いる審査員の心境は、ただ素朴に真理を知りたいと思う森の子どもに似ているかもしれない。法律家ならば、起訴する理由も、起訴しない理由も挙げられるだろう。だが専門家の判断は、時に「本当のことを知りたい」という国民の原点からかけ離れる。

うん。そうだ。人は善を愛し、道を求めないではいられない。それが人の性質だーーー。小説の中で、教師は自分に言い聞かせるように語る。原稿はこの後、天気が急変した場面で空白となり、未完のまま終わる。作者が願う通りに、物語が進まなかったのだろうか。結末を想像しつつ、事件に光が差すことを願う。

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その2は、朝日新聞20101009の「耕論、強制起訴」立花隆さんの文章だ。立花氏は評論家でジャーナリストだ。検察審査会のことを述べていた。

題は、民意は検察権力の上に立つ。

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小沢一郎の強制起訴で、日本の司法制度は大きく変わる。日本では起訴の権限を検察官が独占していた(起訴独占主義)。しかも検察官はその権限を恣意的に行使してよかった(起訴便宜主義)。そこに検察官の絶大な権力の源泉があった。それがつぶされ、検察の恣意的な検察権行使に市民がノーといえることになった。

これは、裁判員制度によって裁判に民意が導入されたのと、同じくらい大きな変革だ。裁判員制度は、英米の陪審員制度を日本風にしたものといってよいが、検察審査会による強制起訴の導入は、アメリカの大陪審制度を取り入れたものといえる。ある事件を起訴するかどうかは、抽選で選ばれた陪審員たちが犯罪の輪郭を示す証拠を検察官から教示された上で、議論して決める。要するに、今回の検察審査会と同じだ。

今回の強制起訴に対し、プロの検察官が二度も「起訴せず」と決めたことを、ド素人の集団がひっくり返すのはおかしいという意見がある。これは前時代的な考え方だ。いま世界の司法制度は、こうこうとより多く民意を取り入れる方向に向かいつつある。公訴提起の主人公は誰か、国民主権国家では当然ながら国民だ。

かって検察官は天皇の直属の官吏だった。天皇の名の下に国家を代表して公訴を独占した。しかし、国民主権国家では検察官は国民意思の代行者になる。公訴提起に国民の意思が反映するのは当然だ。

国民主権主義なら起訴の是非も裁判も、検察側と弁護側が陪審員の面前で甲論乙駁(こうろんおつばく)を繰り広げ、陪審員が判定を下す当事者主義こそ本流。日本もそちらに向かいつつある。民意が多数で示されればそこに神意が宿って公正な裁きとなる。VOX POPULI VOX DEI(民の声は神の声)が民主主義の基本原理なのだ。

この事件の前半は、捜査現場の検事たちと検察上層部の検事たちとの間で、小沢起訴をめぐって、激しい論争があった。「絶対勝てるという120%の証拠が必要」とする検察上層部と、この程度で証拠は十分、あとは法廷で争い裁判所の判断を仰ぐべきだとする現場の検事たちの主張が正面からぶつかり合った。

最終的に検察上層部の意見が勝ち「不起訴」になった。今回の検察審査会の議決は、捜査現場の検察官たちの主張とほぼ同じ。彼らの逆転勝利ともいえる。

検察官がなぜこれまで検察審査会の「起訴すべし」の議決を受けて再捜査しても結論を変えなかったのか。検察には「同一体の原則」があり、一度決定を下すと他の者がそれを変えられないのだ。再捜査は形式に終始し、形式的結論を出さざるを得なかった。検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。

事件のポイントはただ次の一点にかかわる。政治資金収支報告書の不実記載は全部小沢の秘書たちが勝手にやったことで、小沢は何も知らなかったのか否かである。強制起訴の議決がいうように、小沢が何も知らなかったはずがないという証拠と傍証は山のようにある。これは起訴しないほうがおかしい。あとは本気でやる気がある弁護士たちが検察官を代行し、補充捜査たっぷりしたうえで裁判にのぞむことだ。(寄稿、敬称略)

2010年10月9日土曜日

タジン鍋

昨日の夕方、サッカーの日本代表とアルゼンチン代表の試合が19:00から始まるので、そのキックオフの時間が気になってしょうがなかった。私は伊勢原からの帰り。東名高速道路が一斉工事中で込み合っていたので、246号線も避けて、用田を通って戸塚方面へ、そして栄区飯島町に向かった。会社に寄る時間はなかった。

住宅地の開発を計画しているのです。16区画の宅地分譲です。

家に着いたのはすっかり夜の18:30頃になった。キックオフのホイッスルが吹かれるまでに、食事を済ましておきたかった。女房と三女が、なんだかんだと騒ぎながら夕飯の用意をしていたのですが、そこで初めて目にしたのが、タジン鍋だった。「タジン」が憶えられなくて、何度も聞き直して娘から嫌がられた。モロッコの国では、一般的な家庭料理に使われている土鍋だそうだ。

上の写真に写っているのが、タジン鍋です。

我が家では、温野菜をするのを目的に購入したようです。我が家の物と写真とはそんなに形は変わっていません。ネットのWikipediaから拝借しました。

受け皿状の鍋に野菜や肉類を載せて、トンガリ帽子のような円錐状の蓋をかぶせて、コンロなどに乗せるのです。モロッコでは水が貴重で、水なしで料理ができるように工夫を凝らしたのでしょう。食材から上がる水蒸気や香料やハーブななどに含まれる香りの成分が、冷たい蓋の部分で冷やされて、再び水滴になって食材に戻ってくる。

昨夜、我が家で初めて使ったのですが、野菜を山盛りにして蓋をしました。最初のうちに少しの水を入れた方がいいようでした。

昨夜は野菜だけで何も味付けをしなかったのです。それが好かった。それぞれの野菜の本来の味や風味を楽しむことができました。南瓜(カボチャ)、玉葱(タマネギ)、舞茸(マイタケ)、他にも何やら入っていたけど、喉元を過ぎれば、まして昨夜のことだ、な~んにも憶えてない。私には確実に老化が進んでいるようだ。ウインナーソーセージはあった。これは、ちゃんと憶えている。タレは醤油風にしたものでいただきました。女性陣は、ゴマ風味で食していた。

ところでモロッコという国は、どこにあって、どんな国だったっけ?正式にはモロッコ王国と言うらしい、通称はモロッコだ。今でこそ性の転換手術はタイあたりが有名だけれど、かってカルーセル麻紀さんがこの国で手術なされたそうだ。その方面では先駆的な医師がいたようです。

地図の説明

2010年10月7日木曜日

休日は、長閑(のどか)に

今日は水曜日、弊社の営業部は全員休日だ。できるものなら、長閑に過ごしたいものだ。

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09:00から、相模原の北里大学病院前で運営しているバジェットホテル=パラデイス イン 相模原の敷地内のサツキの生垣の間に生えている雑草取りをした。気分転換としては、最高の方法だ。

休日だからこそ、時間を気にしないでのんびり作業ができる。休日と言っても、何かをしないと気がすまないのです。腰を屈(かが)めて、下を向いて、雑草を根こそぎ引き抜くのですが、少し作業をしただけでも、すぐに腰が痛くなる。腰を伸ばして空を仰ぎ、汗を拭(ぬぐ)う、それの繰り返しだ。

私の生家は農家だ。今でこそ農業は機械化が進んでいるけれど、私が小学校に入る前までは野良仕事の何でもかんでもが手仕事だった。田植え、田畑の除草、種や肥料を撒いて、稲を刈って日干しをして、それ以外の肉体労働も過酷だったろう。傾斜地の茶畑の世話から収穫、これも大変な重労働だったろう、と偲ばれる。

生垣の根元からは、むうっとする熱気を帯びた空気が、時々頬を撫ぜる。樹木や雑草の生気か?呼吸熱なのだろう、生ぬるい空気の塊が移動しているようだ。雑草やサツキも健気(けなげ)に生きている。建物の陰になっている所は、地面が湿っぽい。この部分にはシダ系の草が多く、生えている草の種類は少なく、シダ系以外のどの草もひ弱だ。地表からは窺(うかが)い知れないが、地中の生物や微生物も、陽の射している部分と陰の部分では、違うのだろうか。ミミズは湿った地面の方が好きなんだろうな。

徒然(つれづれ)なるままに、ミミズに係わる四方山事でも書いてみますか。のんびりした休日でありたいものです。クッキーと紅茶でもあれば、尚更寛(くつろ)げるのに、周りには誰も居ない、何もない。パラディス イン 相模原のミミズは実にのんびりしていました。羨ましいぐらいに。

子供の頃、ミミズにオシッコをかけるとチンチンが腫れるよ、と言われたことを思い出した。これは、畑の土に養分をもたらしてくれるミミズに、オシッコをかけるようなことをしてはイカンということだったのだろう。父は、畑でミミズを見つけると、必ず私に言ったものです。

生家の田んぼに引き込まれていた用水路の上流にため池があった。池と言えるほど十分広いものだった。用水路でも、田螺(タニシ)、泥鰌(ドジョウ)、蜆(シジミ)が取れた。たまには鮒も泳いでいた。そのため池に、私は従姉弟に連れられて鮒つりによく行った。その時の釣りの餌が、ミミズだった。野菜の屑の捨ててあるところとか、牛の糞や稲の藁などの腐ったところで大小いろんなミミズを捕まえてマッチ箱に詰めた。そのミミズを釣り針に引っ掛けるのが難しかった。

毎朝、05:00から二匹の犬と散歩を楽しんでいるのですが、ミニチュア・ピーシャの方が道路に干からびたミミズを見つけてはしゃがみこみ、その干からびたミミズに自分の首の辺りをこすりつけるのです。恰(あたか)も、女性が首に香水を吹き付けるように。この謎は、未解決のままです。

今から30年ほど前、私の次兄が誰に唆(そそのか)されたのか、長兄から借りた畑でミミズの養殖をしたことがあった。この次兄は真面目一方の立派な人で?思いつめたら誰もが仰天するほどのことを、いとも平気にやり遂げるという一途(いちず)さは、他の兄弟にはない天賦の恵みを一人占めしていた。サラリーマンだったのですが、休日を利用して一攫千金の夢を見たようです。ミミズの卵か、幼虫を買って成育させ、成虫になったら卵か幼虫を買ったところに売ることになっていたのです。売値も決まっていた。ところが、2年経ち、3年経ちミミズは立派に成育したものの、買ってくれる会社は倒産して、そのままのチョン切りになったのです。いったい、成長したミミズを何にすることになっていたのだろうか、この話はいつの間にか親族間では禁句になった。30年前、幾らほど投資したのだろうか。

引き抜いた草はそのままにして、陽に晒しておいた。1週間もすれば草の水っ気はすっかり蒸発して嵩(かさ)が減って、処理するのに都合がいいのだ。田舎育ちの知恵だ。この処理はホテルのスタッフに頼んできた。

11:30。自宅に戻ってシャワーをして着替えた。三女が作ってくれたラーメンを食って出勤。

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17:20。孫・晴を保育園に迎えに行った。孫は、私が迎えに行くと大層喜んでくれるので、此の頃水曜日のお迎えは、ジジイである私の仕事になった。サッカーで遊んでくれるのが嬉しいらしい。私にとっても、週に一度の30分ばかりのサッカーは楽しい。体も嬉しいようなのです。

公園に着いてジャンケンをした。勝った方がシュートをして、負けた方がキーパー役、それを交互に交代するのです。キーパーの背にはコンクリートの壁があり、適当な間隔にある樹木がゴールポストだ。

ジャンケンに勝った私はシュート側だ。ボールはいつものように柔らかくない、しっかりと空気が詰まっていて、子どもにはちょっと硬めかもしれないが、私には丁度の硬さだった。一発目、右からの20メートルのシュートは壁に強く当たって戻ってきた。孫は、ボールの強さに目を丸くして驚いた。2発目、左のキックも強烈に壁に当たって跳ね返ってきた。孫は、ジジイ、強過ぎるよと、言った。今日、私はボールの感触が異常にいいことに有頂天になっていた。身も心も軽い。浮かれていた。

こんなにむきになって、ボールを蹴ったのはこの20年間では、一度もなかった。軽く孫と蹴り合うことはあっても、今日はどうかしている。体が自然に動くのです。

その次がいけなかった。壁から戻ってきたボールは、適当な高さで弾んで戻ってきた。ここで、やってしまったのだ。ボールは左のボレーキックにはピッタリの高さと強さ、絶好球だった。地面から1メートルほどの腰の高さだ。軸足の膝を少し曲げて弾力を保ち、上体を右に倒し、左足を横から幾分下に抑え込むように、足の甲にぴったりボールを受け、フルスイングで振り切った。距離は25メートル、イメージ通りのキックだった。

ボールを蹴った瞬間に、蹴り足の脹脛(ふくらはぎ)の筋肉なのか腱なのかバリっと裂ける感覚があった。蹴り足に地面に着けないほどの激痛が走った。ボールは理想的な弾道でコンクリートに激突した。

なんちゅうことだ。62歳がむきになって、体の老化も省みず、よくもそこまで力強く蹴れたものだと喜びながらも、その喜びの代償は、大変な痛手を被ることになった。

それにしても、よく蹴れたと嬉しく思っている。痛い足を引きずりながら、芋虫状態で、それでも孫との遊びは最後まで付き合った。孫は、不具の私をかばってよく動いた。遠くに飛び去ったボールも嬉々として追いかけた。

18:00 帰宅した。女房や子ども達に笑われた。

この出来事を本気で悔やんだのは、今週末、孫の幼稚園の運動会で、孫の父親とジジイの私とで障害物競走で競い合う約束をしていたことを思い出した時だった。昨年は負けたのです。今年こそ雪辱を晴らしておかないと、これからの私の老後に悪影響が出そうだ、と懸念した。そのうち、絶望的に負けるのだろうが。でも、まだ若い奴等にナメラレてはたまらんのだ。

脹脛(ふくらはぎ)に経皮吸収型鎮痛消炎剤?入りの湿布をぐるぐる巻きにして寝ました。痛みや腫れを抑える有効成分(フエルビナク)を含有しています、と説明書が添えられていました。

休日は長閑でのんびりしたいものです。

さらば、朝青龍

今年1月の初場所限りで引退した大相撲の元横綱朝青龍(30)、本名=ドルゴルスレン・ダグワドルジの引退断髪式が20101003、東京国技館で行なわれた。

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(はさみを入れた後の白鳳)

その断髪式後、土俵に分かれのキスをする元横綱の写真が新聞に載っていた。彼らしい行為に、相撲関係者はどう感じたのだろうか、と脳裏を過(よ)ぎった。現役中ならば、関係者から横綱の品格を問われることになったかもしれない。相手に勝って土俵の下と言えども、万歳と両手を広げて観衆にアピールした。ガッツポーズもあった。それらが、横綱の品格を汚したと物議を醸したのだ。私は、個人的には決して朝青龍の挙措(きょそ)が横綱の品格を汚したとは思っていなかったが、なんだか私の想像以上に風当たりは凄かった。

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(土俵に別れのキスをする)

相撲が国技と言うが、誰がどのようにしていつ国技になったのか、私は知らない。相撲と同じように日本人に愛されている格技に柔道や剣道がある。どちらの競技にも、礼儀の正しさは求められるが、相手を倒した時、相手に勝った時、その勝利の喜びを自由に表現している。当然、倒した相手に対しては、礼儀を重んじることは言うまでもない。1964年、東京オリンピックでの柔道無差別級で、オランダのアントレ・ヘーシンクは日本代表の神永昭夫を袈裟固一本で金メダルを獲得した。勝負が決まった直後、歓喜のオランダのスタッフがベンチから勝者のヘーシンクに駆け寄ろうとした。試合を行なった畳の上で抱き合って喜びたかったのだろう、それを外国人のヘーシンクは手で制した。敗者に対する敬意を表したのだ。その流石さに、関係者は納得した。

07年の夏巡業を腰痛などの理由で休みながら、モンゴルでサッカーに興じていたときのビデオが、テレビで放映された。中田英寿もその試合に加わっていたことで、話題が盛り上がった。大層批判を受けた。サッカーを多少なりとも専門的にやってきた私には、朝青龍のサッカープレーの身のこなしに驚嘆した。

決定的には今年の初場所中、泥酔して暴行事件を起し、横綱審議会から引退を勧告された。この稿は、20101004の朝日新聞の記事を素にに文章をまとめた。

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20101004

朝日朝刊

天声人語

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朝青龍と白鳳が東西の横綱を占めたのは16場所、その間、本割りでの対戦は11回にとどまる。やんちゃと優等生の対比が鮮烈なためか、青白(しょうはく)時代はもっと長かった印象だ。「青」絡みの騒動が絶えなかったこともある。

「白」の連勝が称賛される中、朝青龍がまげを落とした。〈自業自得〉と銘打った引退興行。稀代のマルチタレントは「次の人生に夢をかける」と、土俵に分かれのキスをした。相撲取りを天職というより、自己表現の一つだったのだろう。

東大でモンゴル語を教える木村理子(あやこ)さんは、青白をそれぞれ授業に招いている。白鳳は日本語で話し始めて先生を慌てさせたが、朝青龍はほぼ母国語で通したという。木村さんは二人の行き方の違いを見た。

近著『朝青龍 よく似た顔の異邦人』(朝日新聞)にある。「モンゴル人として祖国で祖国のために活躍したいと願う朝青龍と、ゆくゆくは日本に帰化して親方になるであろう白鳳。人生の目標は別の方向を向いている」。

白鳳は「すごいスポーツ選手でした」と、先輩を巧みに評価する。正統あっての異端。7連覇の頃は暴れん坊が歴史を作るのかと心穏やかではなかったが、今は愛すべき人間味が懐かしい。世界を視野に、英語を磨きたいと語る姿は、白鳳とは別の意味で不世出に違いない。

長い取材者は「強いけど悪い、悪いけど憎めないーーー横綱としては許せなかったが、気がつけば人として魅力を感じていた」と好意的だ(横野レイコ『朝青龍との3000日戦争』(文芸春秋)。30歳の再出発を見守りたい。

2010年10月6日水曜日

ザッケローニの指導が嬉しい

ザックJの初陣が近い

日本代表が4日、アルゼンチン戦(8日)と韓国戦(12日)に向けてさいたま市内で合宿に入った。アルゼンチン代表チームは、8強入りしたW杯南アフリカ大会メンバーからは14人が入っている。そのメンバー23人を日本サッカー協会が発表した。ほぼベストメンバーだ。メッシ、イグアン、テベスが目の前で、テレビの画面を通してだけれど、どんなプレーを見せてくれるのだろうか。まだ韓国代表メンバーの発表はないが、対戦相手からして最強のメンバーを立ててくる筈だ。試合を楽しみにしている。テレビでは、アルゼンチン戦前に、中田英寿とザッケローニ監督との対談が放映されると聞いている。通訳を介しないイタリア語での対談らしい。録画は済んでいる。これも楽しみにしている。対戦する両国のチームにお願いしたい、親善試合だけれど、本気の本気で戦って欲しい。初めて招集された選手の起用も、できたら叶えて欲しい。

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(西畑志朗撮影)

ザッケローニ監督が練習を初指導した内容が、20101005の朝日朝刊のスポーツ欄に載っていた。その内容を転載させていただいた。ザックさんは攻撃的なチームを作ると言っていたが、先ずは守備面から指導しだした。

攻撃のためには、先ずは堅い守備があってのことだ。イタリアのカテナチオだ。このイタリア語は、日本語に訳すると、閂(かんぬき)だ。私は大学時代、守備専門の特殊なプレーヤーだっただけに、ザックさんが本場イタリアの守備の極意を伝授してくれることを、何よりの喜びとしている。

その内容は次の通りだ。

さっそく4バックでの守り方を選手に落とし込んだ。最初は静かに見守っていたザッケローニ監督。ウォーミングアップが終わると、まず右から内田(シャルケ)、今野(FC東京)、栗原(横浜マ)、槙野(広島)と4バックに並べた。「サイドからのクロスはあまり怖くない。中央をスルーパスで破られるのは厳禁」という考え方のもと、裏を取られないような体の向き、相手に素早く重圧をかける動きを繰り返した。「新しい監督が来れば新しいものが注入される。選手は集中して話を聴いてくれた」

そして、20101007の朝日新聞・スポーツ欄に、かってザッケローニ監督がイタリアのクラブを率いていた時、その下で元ドイツ代表FWのオリバー・ビアホフ(42)は飛躍を遂げた。そのビアホフ氏がザッケローニ監督のことを語ったことが掲載されていた。ザッケローニ監督の考えがよく解るので、その記事をここに転載させていただいた。

「戦術練習の指示は細かい。スローインの状況も繰り返し練習して体に覚えこませた。ミニゲームは自由にやったことがない。常に目的がはっきりしていた」。

「例えば、前線ではリスクを冒せるが、後ろでは許されないという原則。また、守備的MFを2人置くと、『2人は常に球の後ろにいること』という原則もあった。守備の動きについては、『自分の後ろで起きることは注意しなくてもいい』と言っていた。自分の前の選手だけを見れば、後ろにいる仲間が見てくれている、と。ACミランのスター選手でも特別扱いしなかった」。

今日(8日)は、アルゼンチン戦だ。20101008の朝日朝刊スポーツ欄には、昨日のザックJの様子が掲載されていた。その中で、ザックが選手たちに指導した内容を記事のまま転載した。

「日本代表にかける選手の思いの強さを感じる。時間は短かったが、私の哲学を伝えたつもり。全てをこなせるとは思わないが、目指すサッカーの実現にトライして欲しい」

攻撃のキーワードは「縦」だ。

監督は「日本のパス回しは世界有数かもしれないが縦に球を運ぶ意識が薄い。ゴールに直結する攻撃を心がけろ」

球を奪ったら、まずFWへのくさびのパスを考えろ。横パスを減らし、素早くゴールへ。そう意識づけされた。守備は4-2-3-1の形を崩さず重圧をかけるのが基本。

多くの選手が「決め事が多い」と感じる。球や相手の位置に応じた各ポジションの動き方が、岡田監督時代より事細かに指示されている。

 

 

 

 

どうか、監督と選手がいい関係になって、いいチームを作ってくれることを願って止まない。