2010年10月11日月曜日

小沢氏強制起訴へ

小沢さん、民意を甘くみない方がいいですよ。まして、貴殿には神の声なんて聞きとれないでしょうが。

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(佐々木順一撮影)

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会は4日、小沢氏を04年、05年分の政治資金収支報告書の虚偽記載罪で起訴すべきだとする「起訴議決」を公表した。これにより、小沢氏は強制起訴されることが決まった。審査会は関与を否定する小沢氏の供述を「信用できない」と判断した。小沢氏の進退を問う声が高まることは確実で、政権に大きな打撃を与えるとみられる。(20101005 毎日朝刊、一面より)

 

東京第5検察審査会は、小沢氏を起訴すべきだと「起訴議決」をしたと公表した。国民は裁判所によって無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利があって、検察官が起訴をちゅうちょした場合、国民の責任において刑事裁判で黒白をつけようとする制度である、よって、真相を法廷で明らかにすべきだ、とした。

議決の骨子(読売新聞20101005、一面より) ★虚偽記入した政治資金収支報告書の提出について小沢氏に相談し、了承を得たとする元秘書2人の供述は信用できる。 ★土地購入資金4億円の出所についての小沢氏の説明は著しく不合理で到底信用できず、虚偽記入の動機があったことを示している。

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ここにきて大物政治家・小沢氏の強制起訴になったことを機に、この検察検査会の制度設計に問題があるのではないか、と政治家、とくに与党の間で話題になってきた。かって、2004年の検察審査法の改正法案に賛成した民主党の議員からも批判が噴出。確かに問題は抱えているようだが、今、ここで見直しを迫るのは性急だ。この新制度の理念は、後ろの方の立花氏の寄稿文を読めば十分だ。先ずはその理念を再確認することだろう。

障害者用郵便不正事件においては大阪地検特捜部の主任検事が証拠隠滅容疑で逮捕された。最高検が、地検の特捜部の検事を取り調べるなんて、到底普通の感覚では考えられないことが起こり、検察に対する不信に火が点いた。検察の信用が地に落ちた。そんな検察を長年、裁判所は厳しくチェックするどころか増長させてきたのだ。検察にはおごりがあり、裁判所にも重い責任がある。

そこで、市民が声を上げた。民意が、検察審査会が起訴議決したのだ。

私は、小沢氏を信用してないし、検察も信用できない。起訴するもしないも、検事のサジ加減一つということもある。事件の真実を知りたい、小沢氏からきちんと説明をしてもらいたい。

今回のこの強制起訴では、有罪、無罪を決めることになるのでしょうが、その過程で私は真相が明らかになること望む。小沢氏の資金の出どころの供述が余りにも転々として、それが腑に落ちない。巨額な資金を、どのように調達したぐらいは、本人なら分りきっているではないか。私の記憶にあるのは、当初、相続したお金を現金のまま自宅に何年もしまってあったとか、紙袋に入れて秘書に渡したとか、市民の日常生活では、想像もつかない話ばかりが伝わっていた。一転、いや、あれは銀行で借りたお金だ、と言い出した。ところで、某ゼネコンから頂いたのは、何処にしまったっけ。秘書が勝手に収支報告書に虚偽記載したというが、責任者である小沢氏は報告も受けてないし、まして了承もしていないなんて、本当にアリか?常識的には、小沢氏の指示、もしくは承認の上で虚偽記載をしたのだと思うけど、どうだろう?小沢氏と秘書らが、鳩首、大いに打ち合わせをしていたと考える方が自然だ。小沢氏は自分の秘書に、そんなに裁量を与えていたとは思えない。

そんなことを考えながら、スッキリしない日々を過ごしていたーーーら、今回の検察審査会の議決が公表された。検察審査会の仕組みとあり方について、私にもよく理解できる文章を日経新聞と朝日新聞で見つけた。

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その1は、日経新聞20101005 「春秋」よりーーーー暗闇の中に、突然リンの火のような青い光がぼうっと浮かび上がる。黄金色の葉の樹木がずらりと並び、一斉にこずえを鳴らし始めるーーーー。宮沢賢治が「学者アラムハラドの見た着物」という小品で、こんな幻想的な情況を描いている。

教師である主人公は、森で11人の子どもを教えていた。火や水の性質を説き、小鳥の特徴を学ばせる。火は熱く、水は冷たく、鳥は飛ぶ。では人間の特質とはなんだろう。「人は本当のいいことが何だかを考えないではいられないと思います」。一人の生徒がそう答えたとき、感動した教師は遠くに美しい光を見る。

検察審査会が、民主党の小沢一郎氏の強制起訴を決めた。11人いる審査員の心境は、ただ素朴に真理を知りたいと思う森の子どもに似ているかもしれない。法律家ならば、起訴する理由も、起訴しない理由も挙げられるだろう。だが専門家の判断は、時に「本当のことを知りたい」という国民の原点からかけ離れる。

うん。そうだ。人は善を愛し、道を求めないではいられない。それが人の性質だーーー。小説の中で、教師は自分に言い聞かせるように語る。原稿はこの後、天気が急変した場面で空白となり、未完のまま終わる。作者が願う通りに、物語が進まなかったのだろうか。結末を想像しつつ、事件に光が差すことを願う。

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その2は、朝日新聞20101009の「耕論、強制起訴」立花隆さんの文章だ。立花氏は評論家でジャーナリストだ。検察審査会のことを述べていた。

題は、民意は検察権力の上に立つ。

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小沢一郎の強制起訴で、日本の司法制度は大きく変わる。日本では起訴の権限を検察官が独占していた(起訴独占主義)。しかも検察官はその権限を恣意的に行使してよかった(起訴便宜主義)。そこに検察官の絶大な権力の源泉があった。それがつぶされ、検察の恣意的な検察権行使に市民がノーといえることになった。

これは、裁判員制度によって裁判に民意が導入されたのと、同じくらい大きな変革だ。裁判員制度は、英米の陪審員制度を日本風にしたものといってよいが、検察審査会による強制起訴の導入は、アメリカの大陪審制度を取り入れたものといえる。ある事件を起訴するかどうかは、抽選で選ばれた陪審員たちが犯罪の輪郭を示す証拠を検察官から教示された上で、議論して決める。要するに、今回の検察審査会と同じだ。

今回の強制起訴に対し、プロの検察官が二度も「起訴せず」と決めたことを、ド素人の集団がひっくり返すのはおかしいという意見がある。これは前時代的な考え方だ。いま世界の司法制度は、こうこうとより多く民意を取り入れる方向に向かいつつある。公訴提起の主人公は誰か、国民主権国家では当然ながら国民だ。

かって検察官は天皇の直属の官吏だった。天皇の名の下に国家を代表して公訴を独占した。しかし、国民主権国家では検察官は国民意思の代行者になる。公訴提起に国民の意思が反映するのは当然だ。

国民主権主義なら起訴の是非も裁判も、検察側と弁護側が陪審員の面前で甲論乙駁(こうろんおつばく)を繰り広げ、陪審員が判定を下す当事者主義こそ本流。日本もそちらに向かいつつある。民意が多数で示されればそこに神意が宿って公正な裁きとなる。VOX POPULI VOX DEI(民の声は神の声)が民主主義の基本原理なのだ。

この事件の前半は、捜査現場の検事たちと検察上層部の検事たちとの間で、小沢起訴をめぐって、激しい論争があった。「絶対勝てるという120%の証拠が必要」とする検察上層部と、この程度で証拠は十分、あとは法廷で争い裁判所の判断を仰ぐべきだとする現場の検事たちの主張が正面からぶつかり合った。

最終的に検察上層部の意見が勝ち「不起訴」になった。今回の検察審査会の議決は、捜査現場の検察官たちの主張とほぼ同じ。彼らの逆転勝利ともいえる。

検察官がなぜこれまで検察審査会の「起訴すべし」の議決を受けて再捜査しても結論を変えなかったのか。検察には「同一体の原則」があり、一度決定を下すと他の者がそれを変えられないのだ。再捜査は形式に終始し、形式的結論を出さざるを得なかった。検察審査会の強制起訴によって事件はようやく原点に戻った。

事件のポイントはただ次の一点にかかわる。政治資金収支報告書の不実記載は全部小沢の秘書たちが勝手にやったことで、小沢は何も知らなかったのか否かである。強制起訴の議決がいうように、小沢が何も知らなかったはずがないという証拠と傍証は山のようにある。これは起訴しないほうがおかしい。あとは本気でやる気がある弁護士たちが検察官を代行し、補充捜査たっぷりしたうえで裁判にのぞむことだ。(寄稿、敬称略)