2019年5月25日土曜日

誤審はしないこと!! 選挙でも。

20190525(土)
朝日新聞・朝刊 13面オピニオンにあった記事を下記に転載させていただいた。

何故、今、私がこの記事にそんなに興味を持つのかと、このブログを読まれた方は思われるかもしれない。
著されている3つの事件を、私はいつも以上に興味を持っていたからだ。

卓球についてはこの大会のこの勝負をテレビで見採(と)った。
夕食後、酔いにとろとろしながら、脳の中枢ははっきり反応した。
出場者の伊藤美誠、早田ひなのペアよりも、ビール瓶の置かれているテーブルを蹴散らした私の方が怒り狂っていた。

サッカーのJリーグ、浦和ー湘南のゲームの肝心要(かんじんかなめ)の部分だけはスポーツ報道で知った。
解説者も言っていたけれど、担当する線審がボールの進んでいる方向近くまで走ってチェックしていたのなら、例え誤審があったとしても、留飲(りゅういん)はちょっとだけ下げられたかもしれない。
ところが、線審ははるか遠くに居て、テレビ画面はクッキリハッキリ、ボールがゴールラインを飛び越え、ネットを突いていたのをキャッチしていた。
私も高校・大学とサッカー部に所属、専業の守りをやっていた者だから、その誤審には激しい反応をした。
きっと、グラウンドでその場面に遭遇していたら、このキチガイのような頭は目も当てられないように狂っていただろう。

サッカー日本代表の長友佑都が所属するトルコのガラタサライの下部組織での善行については、ネットで知った。
長友氏もこの行為について、感激したとのことも知った。
内容については、下記の文章で理解してもらいたい。

悲しい誤審のことだけではなく、こういう善行と言っても憚らない行為もあるんだよ、と著者は言いたのだろう。
だが私は、また違った誤審問題で怒っている。
丸山穂高衆院議員に対してだ。
こんな国会議員を選ぶ選挙において、投票する側はこんな誤審をしないでくださいね、と言うことだ。

報道関係の全てが、北方領土問題を巡り、領土を戦争で奪い返す是非などに言及した丸山穂高衆院議員(35)に対し猛烈批判した。
憲法において、戦争は絶対やってはいけないと決められている。
一方、丸山氏はこの日、衆院議院運営委員会が求めた理事会での事情聴取を欠席。
2カ月の休養が必要とする診断書を提出した。
関係者によると、病名は「適応障害」だという。
この適応障害とは、どんな病気なのだろう?
ネットで調べると下記のようだ。
適応障害とは、生活の中で生じるさまざまなストレスにうまく対処することができず、抑うつや不安感などの精神症状が現れて日常生活に支障をきたす病気のことです。

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多事奏論
編集委員・稲垣康介

誤審騒動 矛先、審判に向けるだけではなく
あの「誤審」が来年の東京五輪で起きたとしたらーーーー。
騒ぎはもっと炎上するだろう。
五輪は人々の愛国心をたぎらせる着火装置になる。
五輪憲章が国家間ではなく、「競技者間の競争」だと強調しても、事実上は国別対抗戦の色彩が、かなり濃い。

4月に開かれた卓球の世界選手権女子ダブルスの決勝だった。
伊藤美誠、早田になのペアは中国ペアと競い合っていた。
ゲームカウント2-2で迎えた第5ゲームの9-9から早田のサーブを相手がレシーブミスをして得点が入った、はずだった。
ところが、審判はサーブがネットに触れたとして、やり直しの判定。
会場に流れたスローモーションに触れていないのが確認できたが、審判は見なかった。
日本ペアはこのゲームを10-12で失い、結局、笑顔なき銀メダルに泣いた。

その代償で、私たちメディアが大好きなリベンジに向けた因縁は生まれたけれど。
誤審を糧に東京五輪で雪辱!の台本だ。

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「誤審」騒ぎといえば、サッカーのJリーグでも先週起きた。
浦和ー湘南で湘南の選手が放ったシュートはサイドネットを揺らして入ったが、審判はゴールを認めなかった。
ワールドカップと違い、Jリーグではビデオによる判定補助は採用していない。
義憤に駆られた湘南の選手たちが奮起して劇的な逆転勝利につなげたから、サポーターは留飲を下げたけれど。

こうした「事件」は、ネットですぐに拡散する。
決定的な場面の映像が簡単に探せて視聴できる時代だ。
審判の名前が特定され、パッシングを浴びる。
ミスを犯さない完璧な人間なんていないのに。

誤審の運、不運は巡り巡って行き来する。
そんな人間臭さを許せるおおらかさがスポーツにあっていい。
そうした慈悲深さを盾にテクノロジーの介入に懐疑的な論調もあるが、私は導入に大賛成だ。

テレビの視聴者があらゆる角度のカメラで決定的瞬間を目撃できるのに、審判が肉眼だけで瞬時に判断するのはハンディがありすぎる。
ましてやSNS全盛の時代。
コスト面と運用技術が整えば、テクノロジーとの共生をためらうことはない。
審判に誤審の十字架を背負わせるのはむごすぎる。

ーーーーーー
誤審への批判の矛先は審判に集中しがちだが、少し視点を変えてみたい。
人間の良心、スポーツの価値を学ぶ題材にある。

誤審が起きたとき、その間違った判定で利益を享受した側の選手の自己申告に期待できないだろうか。

実話の美談を紹介したい。
サッカー日本代表の長友祐都が所属するガラタサライ(トルコ)。
その下部組織の選手の善行がSNSで広まり、世界で共感を沸き起こった。
14歳以下チームの主将がドリブルし、ペナルティーエリア内で自らバランスを崩して倒れた。
主審は相手選手に倒されたと勘違いしてPKを宣告した。

その主将は自らPKをけり、わざとゴール枠を大きく外れるキックをした。
その行為がネットで拡散し、喝采を呼んだ。

少年チームの試合とプロリーグ、さらには世界選手権や五輪の金メダルがかかった試合を同列に論じるつもりはない。
私自身、自分なら審判に真実を告発したり、わざとPKを外したりするかは、正直怪しい。
逆に言えば、そんな自分だから少年の行為が一服の清涼剤のように、胸に響く。

大人の世界、例えば世界では地球規模で利己主義が幅を利かし、多国間主義への疑念が渦巻く。
協調の精神がかすむ。
だからこそ、爽やかな利他主義が稀少さを増す。

この少年のフェアプレーは、欧米メディアなどが動画投稿サイトに配信し、映像は爆発的に再生された。
「真のスポーツマンシップ」「だから彼は主将なんだ」「プロ選手も見習うべきだ」と賛辞があふれた。

心が洗われたのは、私だけじゃない。

2019年5月18日土曜日

私もシェフになれますか?

私の愛する農園=イーハトーブから、今年も、この2ヶ月の間に蕗(ふき)の薹(とう)や蕗(ふき)を何回採って帰ったやら。
たった4畳ほどしかない畑の北西の隅っこに蕗の群生がある。
キク科の多年草。
「すじ~の通ったふ~き♭」と口遊(くちずさ)んでしまう。

決して上手な栽培家ではないが、狭い畑には大蒜(にんにく)147株、カブ55本、葱(ねぎ)は75本、サラダ菜45本、ミズナは間引き前、玉葱25本を栽培中だ。
これらの品々を列挙するだけで、立派な奴と思われるかもしれないが、その成果はよく解らない。

今日(20190518)は仕事の帰りに、隣家との境の雑草を刈るつもりでいる。
南側のお隣さんはお年寄りのお婆ちゃん、迷惑をかけたくない想いだ。
春色を先取り♪【ふきのとう】を食卓に迎える、和洋いろいろレシピ集

2ケ月前のこと、早春は蕗の薹を採って帰って、天麩羅にして食べた。
私が採って帰る役、妻がそれを天麩羅にする役、互いに負担の少ない分担で楽しく食べてきた。
食べる度に、私の口の中は、郷里で親しく味わった喜びに包まれる。
この喜びを知っていることが、田舎者の私の唯一の誇りでもある。

何だって! 若い蕗の薹は先ずは旬ざ。
味(あじ)匂(にお)いに生まれながらの癖がなく、味は妻の調味で「酒の摘まみ」にはベリーグッドだ。
私には、こんなに有難い食物はないと感謝している。

・天然の山菜山フキを産地から鮮度抜群直送 雪国の天然の山菜山蕗(フキ)はあくが少なく、栄養価が豊富で...
ところが今回のブログは「蕗の巻」だ。
1か月前からのこと。

蕗は花粉症の症状を軽減する効果があると聞いたものだから、花粉症気味の私の口角はドンドン前に進む。
妻は私が幾ら持ち帰ってもいいが、筋(すじ)取りだけはお願いしますときた。
そう言われれば、調子に乗って、幾らでも持ち帰るのが私の悪い癖。

それからの私は4回、5回と言われるままにやってきた。
掌(手のひら)に2束の蕗の筋取りには1時間半はかかった。
それが、今後6回目と7回目を実行して、今春の蕗を終わりにしたいと思っている。
蕗は成長が良く、気が付かないうちに大きく育っているので、持ち帰る役の私は毎日毎日チェックしている。
そこでだ、筋をひたすら取りながら、私の高次脳機能障害を受けた脳だって色々考えた。
そのことが、このブログを書くきっかけになっている。

蕗の筋取りをしながら、やはり、妻の調理方法に、私なりの知恵も働きかける。
私なりの知恵なんてちょっぴりしたもので、妻に希望を出せるまでのレベルはなく、ネットに出ているレシピを見て知識を広げた。
全ては煮物で、蕗以外に何を食材に併せるかによって、美味は変わる。
恐ろしいことに、素人なら素人なりに、イメージが湧いてくる。
そのイメージが、立派な「酒の摘まみ」になるかどうかは解らない。
頭の中では、ひょっとして、この俺だってそれなりの食材提供者になれるのではないかと、思(おぼ)しい。

そして、テレビの番組でよく観るのが、漁民が獲りたてた魚の一部を、船の上で細かく仕分けして、その撮影に参加している人に差し上げ、美味い~、おいしい~と叫ぶことが多い。
又、船が港について、作業場で荒ら荒らしい手さばきで出された魚の一部を、どうぞお食べくださいと言われ、その新鮮な切れ身をいただく猛烈な美味さに、微笑みが爆発する。

野菜や果物だって同じで、採りたてたものをその場で、作者が敢然と皮を剥(は)ぎ、作物の切り身を差し出し、いただいた者は美味い~、おいしい~と嬉しそうに笑う。
それらの光景をテレビで放映される。
この手の番組で、魚の釣り人や野菜の栽培者こそ立派な食材提供者だ。

そしてテレビ番組では、料理番組がよくぞそこまでと思うほど、多く放映されている。
実は私も熱心な聴取者である。
特にかってお笑い芸人だった人の「おしゃべり クッキング」(私は、自分流に「おしゃべりクッキング大学」)と言い換えて楽しんでいる。
これはかってお笑い芸人だった人が、調理師さんと滑稽なことを巧みにおしゃべりしながら番組は進んでいく。
あっという間の番組だけれど、観ている間は楽しくてしょうがない。

又、元女子プロレスラーと調理士さんの料理番組も面白い。
このプロレスラーと調理士さんと軽快に料理が進んでいくのも、楽しい。
この番組の後半ではプロレスラーが、簡単な料理を自分流に短時間で作ってくれる。
このプロレスラーの歯に衣着せない話術も、調理を進めながら、私をゾッコンするほど楽しませてくれる。
兎に角、手先が器用なのである。

何故、これらのテレビの料理番組を観ているかと思われるかもしれないが、敢えて言わしてもらえれば、きっと何かの出来事があって、私一人っきりで生きていかなくてはならない事態だって有り得ることだろう。
そんな場合でも、独立独歩、自活できるための延命策なのだ。

イーハトーブでの楽しい畑仕事の傍(かたわ)らで、作物を作り上げること=食材供給者だけではなく、料理を、いつか、きっと、この私だって創ってみたいと思っている。
その節は、このブログで紹介します。










2019年5月16日木曜日

竹秋(ちくしゅう)とは?

朝飯を食って新聞を読んでいたら、TBSの気象予報士・河津真人氏が天候の説明が終わってから、「竹秋(たけしゅう)」のことを話していた。
夏目三久さんがメインキャスターで進められているテレビ番組=「あさ チャン!」だった。
丁度、今の時期にふさわしいことなのだろう!
真剣にテレビの画面を観た。
そしたら、竹は、今4月から5月頃までが秋なのです。
だから「竹の秋」は春の、「竹の春」は秋の季語として、たくさんの俳句に使われている。














竹は樹木なのだ、イネ科の常緑樹で多くの種類がある。
竹の子を食用とするモウソウチク(孟宗竹)やマダケ、観賞が目的のクロチクやナリヒラダケなどが有名です。
私の郷里の畑にも、モウソウチクの竹林があった。
あったと言うよりも、茶畑のほんの一部に竹の苗を移植させて、その周りを竹の根が延伸しないように深くまで掘りを作った。
父がやっている作業を、横でじっと見学していた。

モウソウチクやマダケにとっての春から初夏は、竹の子を育てるのに栄養をとられる、いわば「実りの季節」でもあります。
また、竹の葉は1年で生え変わりますが、5~6月に黄色く色づいて落葉します。
竹の子が大きくなった後なので、まるで子どもを育てた親の竹が疲れて枯れていくようにも見えますが、実際には、新芽に日光を当てるために古い葉を落としているのだと考えられます。

そして、ほかの樹木が落葉する秋は「竹の春」となって、すくすくと勢いづいていきます。


★ 竹の花
何か月前に「竹の花」のことをネットで知った。
でも、その時には誰からも竹の花についての奇妙な話を教えてもらえなかった。
誰もが、竹の花の不思議なことを知らなかった。

それは何年か前に竹の苗をもらった人が、その成長していく様を観るのが嬉しくて堪らなかったが、ある日竹をよく見るとそこに花が咲いていて、そこからが問題だ。
調べれば花が咲くと、そのうちに根っこから何かが移り進んで、全ての竹が枯れるという。
そんな話を書き込んでいる人が居て、そのある人は悩んでいた。
そんな重要で重大なことを、それ以上知ることなしに今まできてしまった。

そんな竹の花のことを「竹秋」を調べている最中に得た情報をそのまま写真の下に移させてもらった。
竹の花

竹にも花が咲くことを知っていましたか? 
実は「竹の七不思議の1つ」といわれるほど、竹の花は珍しいものです。

竹はイネの仲間です。
しかし、一般のイネ科植物は毎年春に発芽して、夏に花が咲き、秋に実をつけて一生を終えるのですが、竹は花を咲かせるまでの期間が大変長く、その期間を「開花周期」と呼びます。
この開花周期は竹の種類によって異なるだけでなく、これまでに開花が確認されていない種類もあるなど、神秘的な状況にあります。

日本では、モウソウチクについては発芽から67年目に開花したという例が2つあるだけなので、その2例だけで「モウソウチクは67年周期で開花する」と断言することはできません。

ただしマダケについては昭和40年代に、日本だけでなく世界中のマダケがいっせいに開花し、しかもそれは前回の開花から約120年を経て起こったという事実から、マダケは120年周期に間違いないのではないかとみなされています。

竹は私たちの身近な生活に取り入れられていますが、まだまだ知らないことがたくさんあり、一般的なほかの植物とは違う自分なりの時間軸を生きているおもしろい植物なのですね。

2019年5月10日金曜日

秀吉と利休

昨秋、10月のことだったと思うが、私が恩愛を限りなく受けている我が農園=イーハトーブに行った日のことだ。

その日は紙のゴミ回収の日。
ゴミの集積場を一目見て、その中の1冊に物欲しさが湧出してきた。
そのゴミの中に、紙類の最終日だったので本が大量に出されていた。

こういう光景を前に、私の脳はすぐさま本の背表紙に書かれている書名に釘付けになった。
何冊かあるなかから、手を差し伸べたのはこの野上弥生子(のがみ やえこ)さんの「秀吉と利休」/(中央公論社)だった。


ぺらぺらとページをめくってみて、なんと文字がいっぱいで、余白・空白のない本だと直感した。
ごみの集積場に捨ててあるものの中からいただくことなんて、気にすることなんかない筈だ。
そんなことで、この本だけをいただいた。
丁寧で細部にまで神経の行き届いた、野上さんの性格がそのまま表れたような気品のある文体なのである。

今まで野上さんの本を読んだことがなかった。
文学に対する変わらない真摯な姿勢、その意志の強さ、持続力、集中力、とりわけ端正な文章と緻密な構成、深い人間洞察には感心させられる。
全身全霊、痺(しび)れまくった。
もう少し前に、彼女の本をちょっとでも読んでいたら、さぞかし惚れまわったことだろう。
でも、この本をきっちり読みこなすには、相当努力が要(い)りそうだ。
本題の中で、知らない事項は当たり前だけれど、出番のあった人たちの心流の交感など、どうしても読み切れなかった。
よっぽど腹を括(くく)って、時間を掛けて読みたいものだ。


秀吉の名よりも千利休の名に心が奪われた。
「利休にたずねよ」(PHP研究所)/作者・山本兼一氏で、利休に恐ろしいほど魅入ってしまったのだ。
それ以後、利休のことには何でもかんでも、関心をもった。

そして、昨年の11月の初めから読み出したが、脳足りんの私には、知らない物象や事象を逸早く理解できない。
そのお陰か、読書中の幾ばくかの時間では、本を深底まで読めなかった。
この本の良さは、私が理解できないところに、秘められているようだ。
格闘するしかないと決意した。

野上弥生子は、明治18年大分県臼杵生まれ。
79歳のとき、この作品・「秀吉と利休」で女流文学賞を受けた。

4月には読み切れるだろうと思うが、その前に今まで読んだ範囲内で粗筋を書いてみようと思いついた。
ところが、3月10日(日)に読みきった。
本の4分の3辺りから、利休がどうも苦しみだしたのだ! そんな環境に舞台が代ってから、読むスピードが早まった。
読み切ったとき、私はガク~ンと体の力が抜けた。

5月26日に義父(妻の父)の33回忌がある。
そんな機会に、どうしても大覚寺を観てこようと思っていたら、お寺の側に住んでいる妻の妹の旦那が、ヤマオカさんがそれ程千利休にホの字なら、私が案内しようと言ってくれた。
妻の妹夫婦は大覚寺から歩いて10分の所に住んでいる。
ついでに、山岡さんは我が家に泊まればいいやと言ってくれた。

本の中では、兎に角あっちゃこっちゃで色んな人が活躍するのだが、その色んな人と言うのは、少し言い間違っているかもしれない。
数少ない登場人物が、派手に動き回ってくれるのだ。


千利休とはーーー。
安土桃山時代の茶人。
茶道(ちゃどう)の大成者。
千家流(三千家)の開祖。
堺の生まれ。
通称・与四郎、宗易と号す。
晩年は不審庵とも号した。

初めは茶の湯を北向道陳に学び、のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事。
織田信長に仕え豊臣秀吉に重用された。
1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられた天下一の茶人の地位を確立し、1587年北野大茶湯をつかさどった。

草庵風の茶室を完成し茶道を民衆の生活のなかに根づかせた。

1591年秀吉の怒りにふれ切腹を命じられた。
大徳寺に自蔵を置いたためなどとされるが、原因については定説がない。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられてる。

天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。


★秀吉の年表

和暦西暦月日数え年内容
天文6年1537年天文2月6日(1月1日説もあり)、西暦3月17日1歳誕生(天文5年説もあり)
天文23年ごろ1554年-1555年ごろ18歳織田信長に仕官
永禄4年1561年8月25歳浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。
永禄11年1568年9月12日32歳観音寺城の戦い
元亀元年1570年4月34歳金ヶ崎の戦い
元亀3年1572年8月ごろ36歳羽柴改姓
天正元年1573年8月8日-9月1日37歳小谷城の戦い
天正3年1575年7月3日39歳筑前守
天正5年1577年9月23日41歳手取川の戦い
10月5日-10日信貴山城の戦い
天正6年1578年3月29日42歳三木合戦開始(~天正8年1月17日)
4月18日-7月3日上月城の戦い
天正10年1582年4月-6月4日46歳備中高松城の戦い
6月2日本能寺の変が起こる
6月13日山崎の戦い
6月27日清洲会議
天正11年1583年4月47歳賤ヶ岳の戦い
11月本拠を大坂城に移転。
天正12年1584年3月-11月48歳小牧・長久手の戦い
10月3日従五位下・左近衛衛少将
11月21日従三位・権大納言
天正13年1585年3月-4月49歳紀州征伐
3月10日正二位、内大臣宣下
6月-8月四国攻め
7月近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日従一位・関白宣下、内大臣如元
8月富山の役
10月惣無事令実施(九州地方)
天正14年1586年7月50歳九州征伐開始(~天正15年4月)
9月9日賜豊臣氏
1587年12月19日内大臣辞職
12月25日太政大臣兼帯
天正15年1587年5月9日51歳書状「かうらい国へ御人」
6月1日書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日バテレン追放令発布
1587年または1588年12月惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年1588年7月8日52歳刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。
8月12日島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
天正17年1589年5月27日53歳鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年1590年2月-7月54歳小田原征伐
2月28日琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月奥州仕置
11月朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年1591年55歳身分統制令制定
3月3日天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
1592年12月関白辞職、太政大臣如元
文禄元年1592年4月12日56歳朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定
文禄2年1593年8月57歳本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
慶長元年1596年60歳サン=フェリペ号事件
慶長2年1597年2月61歳再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年1598年62歳太政大臣辞職
8月18日伏見城で薨去。
大正4年1915年11月10日贈正一位


■あらすじ (ネットよりいただいた原稿です)
利休(千宗易)は堺の商家の出で、四十代のころ信長に仕え、その茶頭として重用された。
信長が本能寺の変で亡くなった後は、秀吉の茶頭を務めることになる。
秀吉はほぼ十歳下であった。

利休は秀吉の依頼で幾つもの茶室を建てていく。
一切の余分なものを取り払った簡素な二畳の茶室、待庵。
意表をつく組み立て式の黄金の茶室。
また秀吉のために聚楽第で多くの茶会を行い、茶の湯の指導をする師弟関係が築かれていくが、一方政治に関しても意見を言い、相談に乗るような間柄であった。

利休の一の弟子、山上宗二は秀吉と対立して、北条氏に身を寄せていたが、秀吉の小田原討伐の際に、密かに抜けてきて師の利休のもとを訪れる。
利休のとりなしで秀吉に面会するが、宗二は秀吉の怒りを買い、その場で惨殺されてしまう。

秀吉に重用される利休には敵も多かった。
あるとき利休が宴席でふと漏らした「唐御陣が明智討ちのようにいけばでしょうが」の言葉を、日ごろ利休の存在を快く思っていなかった石田三成は、朝鮮出兵に反対する傲慢な意見として、これを咎めだての材料にと考える。

大徳寺三門に、親友の僧、古渓の発案で利休像を置いたことも、不遜であると非難された。
楼門修復に利休が尽力し、資金を寄付したので、寺側の謝意の木像だったのだが、怒った秀吉は利休に堺での蟄居を言い渡す。
秀吉に侘びを入れて、復帰する機会を無視する利休に、秀吉は苛立ち、遂に切腹を申し付ける。
利休の首は獄門にかけられて市中に晒され、木像も引き降ろされて磔刑となった。




多重視点の、かなり重い文体である。
内容も重たい話なので、決して読みやすい作品ではないが、いろいろなことを考えさせられるという点で、深いものを持っている。
通常多重視点を使って書くと、読者には異なった人物の目が与えられて、そこから作品世界を見られるので読みやすくなるものであるが、この作品は逆に登場人物の複雑な心理が、多くの歴史的事象と絡み合って、心理描写が錯綜し、屈折し、読み進む上で非常に努力を強いられる。
 

利休、秀吉の二大主要人物の他に、石田三成、古渓(和尚)、秀吉の弟秀長、大政所、北政所、山上宗二、利休の妻りき、紀三郎、ちか、など多くの登場人物(創作人物を含む)があり、作者の筆はどの人にも万遍なく愛情が注がれていて、おろそかでなく非常に丁寧である。

そこには手抜きもなければ省略もない。
せっかく登場させるからには、という訳だろうか、できうる限りの目配りと配慮で、どの人物も最大限に作品中に生かされ続けようとする。
そのため膨大な資料を駆使し、エピソード満載ということになってしまい、結局作品はこの分量を抱え込んで、膨張し続けていったのだろう。
おそらくは作者としては割愛するに忍びない個々の愛着ある場面を、網羅していった結果であると思われる。
 

印象的な場面は幾つもあるが、とりわけ利休一の弟子であった山上宗二が、秀吉の怒りを買って、見せしめのようにむごい殺され方をする場面は衝撃的である。それは作品中に重苦しい伏線となっており、利休の心に不吉な影を落とし、やがて最後の切腹の場面へと繋がっていく。
読み手の心の中にも不安な予感、恐怖感を共有させていく、効果的で巧みな構成であると思う。


利休の死の原因には諸説あって、
自分の木像を三門に置いた不遜行為がよくいわれるが、
朝鮮出兵に反対したからという説、
茶頭としての慢心説、
娘を側室に差し出さなかったからという説、
茶席である人物の毒殺を命じられたが断ったからという説や、
秀吉に対する毒殺未遂説まであるそうだ。
その死の真相が分からず、いろいろな説が出るのも、秀吉に信頼が厚かった側近の突然の切腹、木像の磔刑という処罰の形があまりにも異常であったからだろう。
利休の首が獄門にかけられた時、あらたに大徳寺の山門の木像まで処刑された。
それも磔刑で、場所は堀川の東西の岸をつなぐ、一條戻り橋のたもとであった。
 

今東光の小説「お吟さま」では側室説が採用されている。
利休の娘が秀吉の側室にと望まれたが、利休がそれを拒否したことによる悲劇、というある意味では分かりやすい話になっていて、物語はまた別の様相を帯びている。
利休は二度結婚していて、先妻の娘は三人あったようだが、当時の彼女たちの年齢をみてみると、皆若くはなく既婚で子もあり、そのうちの一人(末娘)は寡婦であったそうだ。


「秀吉と利休」では、利休の娘の側室の話は一切絡まない。
そういう話とはまた別の、違う角度から試みた作品なのである。
秀吉は、機を見るに敏ではあったが、成り上がり者で、真の芸術など何一つ解さない現実的な絶対権力者として描かれる。

それに対して、利休は内心で反発しながらも恭順の姿勢をとり、茶道を深化させる一方で、冷静に時代を眺める目を併せ持った知的人物として描かれている。
主点は利休の心の描写にあり、いってみれば心の底で軽蔑している相手に、日々屈服しつつ生きていかなければならなかった一人の人間の、苦衷の内面が、豊富なエピソードとともに綴られていくのである。

トラブルが起きる晩年までは、利休はうまく時流に乗って、生き抜いていくしたたかさも持っていたようで、そのことも作品中に織り込まれている。
そして秀吉と利休の対立、というテーマは、この作品では、政治家と芸術家の相克、対立という構図で捉えられている。
 

作品ではさまざまに揺れ動くその心理的葛藤が中心に据えられている。
石田三成ら、側近の嫉妬や反発や策謀に翻弄された結果、自らの矜持ゆえに悲劇的な死を選び取っていく、という経緯が「唐御陣……」の言葉が発端となったという作者の創作で、具体的に説明され、気を許してうっかり吐いた言葉が独り歩きをしていく恐ろしさが如実に描かれる。

秀吉に頭を下げ、非を認め、皆の前で謝罪さえすれば、また元の茶頭に復帰できるとわかっているのに、最後までそれをしなかった利休の意地というか、誇りの高さが、秀吉の中の強固な意地と正面からぶつかり、潰れていくさまは、むしろ淡々とした調子で描写されている。
利休があくまで自己を貫くのなら、もうその先に予想されるものは宗二と同じ死しかなかったはずであったからだろう……。
 

利休の家は豪商ではなかったが、堺で魚、海産物を扱う中程度の商家であった。
信長が堺を制圧しようとした折、堺の人々は初め結束して信長に抵抗しようとしたらしい。
それが話し合いで決着していったのは、双方のさまざまな利害関係によるものであった。
茶の湯をたしなむ堺の裕福な貿易商人でもあった今井宗久、津田宗及たちは、宗易(利休)とともに、信長に茶頭として召抱えられていく。

信長は仕舞、小鼓をよくし、茶の湯にも通暁し、その膝下で茶頭を務めていた彼らは、信任されて次第に高い地位を得ていった。派手好みの信長は、安土城内に黄金ずくめの茶室を作らせもした。
 

茶の湯は当時の武士のたしなみであったが、単なる文化的な趣味の範囲を超え、小さな密室である茶席では、武器弾薬を扱う堺の貿易商人たちとの商談が行われ、さまざまな軍事、政治の情報交換の場としての意味も合わせ持つようになっていった。
茶道政治といわれる所以である。

信長は大名たちを集めて盛んに茶会を開き、その一方では、茶道具を収集することにも熱心で、戦乱で散逸していた天下の名器といわれる室町時代の茶道具類を買い取って手元に置き、褒賞として家臣に与えることもした。
このような茶道の隆盛につれ、武将たちは信長に倣って茶会を開くことを望み、優れた茶器を手に入れたがったが、信長は並みの武将には茶会を開くことを許さなかったという。


本能寺での信長の横死後、信長に仕えていた茶頭たちは、そのまま引き続き秀吉に仕えることになった。
信長の茶の湯による政治的文化政策はもうしっかり根付いていて、それを切り離したり否定したりすることは、最早できなかったのだろう。

信長が生きていた頃、利休のほうが秀吉よりも身分は上であった。
本能寺の後、秀吉の時代になったが、天下人の秀吉といえども、茶の湯の世界では、利休が師匠であり、秀吉は弟子の立場である。
その辺りは、秀吉は複雑な心境であったかもしれない。
 

利休はじめ宗久や宗二など、信長に仕えた茶頭たちは、二人の主君を比較し、皆口には出さなかったが、内心できっとその差を絶えず思ったに違いない。
性格的には恐ろしい面を持つカリスマ君主ではあったろうが、どこか洗練された鋭い感覚の持ち主であった信長、そういう信長の茶の湯に対し、秀吉のそれはおそらくはかなり劣るものであったことは充分想像できる。


秀吉は信長のようになりたかったかもしれない。
信長がしたように自分も大坂城に黄金の茶室を作らせ、人々を驚嘆させた。
得意だったことだろう。
黄金の茶室を組み立て式にし、持ち運び可能としたのは秀吉の新しいアイデアだったろうが、金の茶室という思い切った発想自体は、本来信長のものであった。


秀吉はまた信長のように能も稽古した。
けれども能も茶の湯もうわべには真似できても、なぞれることには限界があり、真の上達に至るにはほど遠いものがあったろう。
秀吉は信長という理想のモデルに自分を近づけようとし、単に模倣したに過ぎないともいえる。
 

秀吉は事あるごとに信長と比べられ、蔑まれる自分を感じていたはずである。
悔しかっただろうことは想像がつく。

この作品中にはあまりはっきりとした形では出てこないが、目に見えない、信長という強大で魅力的で、決して乗り越えられない壁のような存在が、秀吉と利休の間には重く介在していたことは当然考えられるし、秀吉の苛立ちや怒り、意地悪さ、猜疑心に含まれる感情には、信長の姿が絶えずちらつき影を落とし、信長を超えられない焦燥感があったこと、また秀吉の芸術的なものに対する憧れや劣等感をもっと強調すれば、この作品は更に理解されやすくなったのではないだろうか、と思うのだがどうだろうか。


秀吉は大坂城を居城としたが、大坂城を築城するまでは、光秀を破った山崎合戦の地、天王山の山頂に山崎城を築いて、一時期そこで政治をとっていた。
今は山崎城の遺構は何もなく(土塁、石垣も見られない)僅かに礎石らしいものが幾つか山頂に残っているが、何の整備もされていないので、ハイキング客が弁当を広げてごみを散らかすだけの場所となっている。
そこにかつて秀吉の城があったということは、地元でももう忘れられかけているようだ。
 

山崎城があった頃、利休は秀吉に命じられて、天王山の山麓にある妙喜庵の中に、小さな茶室を建てた。
これが今に残る有名な待庵である。
当時は秀吉の来客のもてなし、密談、商談など、さまざまに茶室は用いられたことだろう。


JR山崎駅前に今も妙喜庵跡が残っている。
妙喜庵は室町時代の連歌師、俳人である山崎宗鑑の庵であった。
そこに利休の待庵というシンプルなたった二畳の茶室が、今も当時のままに保存されている。
それは拝観もできるのだが、一ヶ月前に葉書で申し込まないとならないので、思いついて出かけて行って、その場ですぐ見せてもらうことはできない。
ただ近くの阪急大山崎駅前にある、大山崎町資料館にはレプリカがあり、こちらのほうは随時見学できる。
 

私は以前この複製された茶室のほうを見学したことがあった。
それは実に簡素極まりない空間であった。
照明を落とした一隅に原寸大の茶室が拵えてある。
にじり口の正面に床があり、左手に炉。
床の間の壁は黒っぽい土壁。
本当に質素な無の空間である。
ほとんど虚無的な感じのする、でもここで真に豊かなものが生み出され、それを心に感じる人のみが、味わうことが可能な、そういう精神的な空間なのである。
利休は禅の世界にも深く入っていたとよくいわれるが、確かにこの虚無に近い空間をみていると、禅の何らかの影響下にある空間と考えても差し支えないだろう、という気持ちになる。
 

質素な中にもてなしの心と気持ちを尽くそうとする精神、利休のいう草庵路地の侘び茶の世界が、金ぴかの黄金茶室と方向を逆にすることについての作者の考察はどうだろうか。
その点をみてみたい。
「秀吉と利休」ではこのように表現されている。



「……妙喜庵内の待庵によって、いっぽう無にまで圧しつくした美の創造に悦びを見出したに劣らない意欲を、他方黄金の茶座敷にもそそいだまでであった。
火焔に消滅したことで、いっそ活き活きと眼に残る安土の七重の天守閣、それの再現にほかならぬ大坂城のけんらん、華麗が象徴する限りなく豊満で、過剰な、美の時代感覚を、畳三ひらの黄金の空間に横溢させてみようとした試みでもあった。
はなはだしく異質なる建物も、それ故に別種のものではなく、利休の利休らしい独創が、たまたま極の両端に表現されただけで、その意味からは、二つは一つのものに過ぎなかった。
同時に黄金の茶室で金の茶道具を用いつつも、待庵の侘び茶を味わうに変わらず、その粗ら壁をまえにして座っても、百畳敷きの大広間で、永徳、山楽の障壁画の間にあるに等しく、溌剌とおおらかな美意識に浸りえないならば、結句はそれを枯れかじけさせた侘び数奇にも、徹することはできないはずだ、と利休は考えたかった……」。
 


長く引用してしまったが、利休は「茶湯とて別事ではなく、ただ湯を沸かして飲むまで」と言い切り、素朴な日常の生活用品である竹筒や、魚を入れるびく、手籠などに、山野に咲く草花を、それも一日でしおれる可憐な花を、何ら技巧を加えず「花は野にあるよう」に生けることをよしとしていた。


侘び茶の世界に生き、やがて権力の前に呑み込まれていくそのような利休の葛藤と逡巡と覚悟の姿勢を、作者は手探りしつつ、作品中に描いては削りまた描いて、あたかも彫刻刀で丹念に刻みつけていくのに似た文体で、しっかりと書き進めるのである。
  





「秀吉と利休」/野上弥生子  中央公論社

(注) 紙の収集日、イーハトーブ入口のゴミ集積場で拾ってきた。


千利休居士聚楽屋敷跡石碑・晴明神社

秀吉が聚楽第を建てたころの利休屋敷跡。
また、利休終焉の地でもあり、ここで自害した。
首は、堀川の中立売橋で、大徳寺三門の木造に踏ませるかたちで、晒し首にされたのだとか。
千利休の自害後、秀吉によって屋敷は取り壊されたが、後に、利休七哲の一人である細川忠興の長男によって茶室としてこの地は活用された。晴明神社の境内には、利休が使ったとされる井戸があり、鳥居南側に屋敷跡を示す石碑がある。

2019年5月7日火曜日

久々の箱根山行、明神ヶ岳

20190502(木)
大学時代の後輩・マサと箱根の山登りに出かけた。

マサは、私が大学時代に所属していたサッカー部で、約4ヶ月ほど一緒に練習した。
私は2浪で彼は1浪、私が3年生だった時に、我が栄えあるクラブに新入部員として入ってきた。
出身高校の校名がなかなか名誉ある名前で、よくぞ、その学校から入ってきたものだと関心した。
敢えて、彼の名前と校名は此処で掲示することもないだろう、彼たちの名誉のため避けよう。

自宅を6時40分出発
横須賀線・東戸塚駅      7時13分発
東海道線・戸塚駅       7時20分発
     小田原駅      8時02分着
伊豆箱根鉄道大雄山線     8時12分発
     大雄山駅      8時33分着
大雄山駅からバスで10分、道了尊・最乗寺に着いたのが、約9時頃。

明神ヶ岳           12時頃
明星ケ岳           13時頃
宮城野            16時半頃

温泉に湯ったり        17時半頃から18時頃
箱根登山鉄道・強羅駅~湯本駅 ?判(わ)からない 
小田急線・湯本駅から小田原駅 ?判(わ)からない
東海道・小田原駅から戸塚駅
横須賀線・戸塚駅から東戸塚駅 20時頃
東戸塚駅での食事        21時頃まで
自宅に着いたのが       21時半頃

※マーク
山を歩き出してから、自宅までの時間はきっちり時計を見ていなかったので、極めて粗(あ)らかじめの数字だから、真剣にチェックしないでください。
登りだした時間と自宅に着いた時間だけは証人がいますので、正しい。

大雄山駅に停車中の5000系(2017年5月11日)
伊豆箱根鉄道大雄山線


Daiyuzan Saijoji Temple 04.jpg
最乗寺・本堂,(Wikipedia)より


最乗寺・石段と杉林、(Wikipedia)より

神奈川県足柄市の「大雄山最乗寺」は曹洞宗のお寺。
神奈川県では横浜市鶴見区の総持寺に次ぐ古刹で、広いパワースポットがあっちこっちにある。
昨年のいつだったか忘れてしまったけれど、体流(からだなが)しのためのハイキングにやってきたことがある。
天狗と下駄の里としても有名で、境内のあっちこっちで出会える。
マサから今回の山歩きの提案があった時、そのコースに賛成した。

最乗寺の境内からひたすら南方向へ山登りを開始した。
境内には、最乗寺の建設期に遠くの住民から多額の寄付があったようで、ところどころにそれに感謝するが如く、碑が幾つもあった。
その開設された時期が大正の初めごろのものが多かった。
驚くことに東京の人か講なのか確認できなかったが、杉の苗木を2万本か?20万本かのものがあった。
寄付金は5千から100万円と定かでなかった。
歩きだして直ぐに、高度激しい道のりに、先ずは驚いた。
でも、マサには嫌な思いだけはさせたくない、その気配り心配りだけで、頑張るだけ頑張った。

杉やその他の樹木に覆われた山道を、足元のバランスを壊さないことには懸命に注意しながら歩いた。
私には5年前の樹木からの落下による高次脳機能障害の影響で、精神的な混乱はこの際除くとして、脳構造や機能に欠落欠陥があって、体全体のバランス機能がいつなんどき、狂いだすことだって有り得るから、必要以上に手も使って行動した。
このバランスの悪化ほど怖いものはない。

そして、マサには内緒だけれど、私は私なりの秘密を持った。
これから下に落ちるまで、俺は、山男になってやろう。
少しぐらい足が痛かろうが、腰が痛かろうが、山男になる。
脳の中は山肌が練り風が舞う、この山塊のことだけに満つる。
視覚、聴覚、肌の感覚を山肌に空に広げて、山の中に静かに溶け込んでいく。

視界はほんの10メートル程度で、それ以外は霧に包まれてまるで雲海の中のようだった。
流石にゴールデンウィーク、私たちを飛び越えていく人も、私たちが追い抜いていく人も、家族連れやら友達同士。
小さな子ども達も必死に歩いていた。
40分起きの休憩を3回した。

山の頂の近辺に着いたごろから、視界が急に広がって青空が見えた。
この青空出現が、今日一日の幸運のひと時に思われた。
樹木の上空の霧が上のほうに這い上がってくる様が、雲のように見えて面白かった。
明神ケ岳(1169)に着いたのは、大体正午頃だった。














そこで、昼食。
明神ケ岳の高さを標示するコンクリート杭に並んで記念写真を撮った。
前に休憩した時に握り飯2個、多少のおかずを食ったので、ここではその残りを食った。
そしたら、マサがカップヌードルを用意していて、私にも1カップくれた。
目の前にあるものなら、遠慮することなくいただく癖がついているものだから、大いに喜んでいただいた。
記念写真を撮ったものの、その時には視界が真っ白になっていた、本当は灰色だったのかもしれない。
それほど、身の回りが分らなくなってきていた。

飯を食っていた隣の家族から、これからの道筋の相談をマサは受けて、何やら話していた。
その家族にも小さな子どもがいて、帰り道の安全を知りたかったのだろう。
コンサルのお礼に、今まで味わったことのないジェリーをいただいた。

それから樹木や竹林、高い所からの上水を越えて、明星ケ岳(923)に着いた。
この浄水を水筒に満たすべきだと思ったのだが、体が自由に動かなかった。
そこには、ここが明星ケ岳だけですと知らせる大きな碑があった。


この碑も大正のものだった。
そんなことを我々の道程だけで考えても、この大正に入ってから各所で開発が進んだことが読み取れる。
吉野作造による民本主義、それから普選運動、美濃部達吉による天皇機関説、世の中は大正デモクラシーの流れに靡(なび)いていた時代だった。
碑には安全を祈るような言葉が書いてあったようだが、忘れてしまった。

その界隈で話したお兄さんが、如何にも山男風の男で、彼の朝から今に至るまでの山行を聞いて、私はその猛烈振りに吃驚(びっくり)コイタ?
私たちに少し話しただけで、ぐいぐい進んで行った。
俺だって、彼被(あいつ)には負けたくない、と秘めた思いをした。

マサは今後の進み方を私にも求めてきたが、私は私なりの足腰の痛みから、早い目に下につく道を進めた。
こんな場合が、今後有り得る訳だから、パートナーについては良く良く知っていなければならない、、、、くわばらクワバラだ。

それで、宮城野、強羅方面に向かうことになった。
そういうけれど、この道だって下り坂が無性に厳しかった。
これは、私だけの体の状態だと言えばそれで御仕舞いだけど、登り坂よりも下り坂の方が、足腰にキツいだ。
筋肉の痛みは何も無いが、どす~とくる下がり目の苦痛が堪んなかった。


「箱根竜神ケ岳」の画像検索結果
インターネットでいただいた

マサが腰を曲げて佇んでいるのは、箱根の大文字が行われる原野だ。
眼下に宮城野、強羅の町が全て、手に取るように眺められた。
彼は私と違って、心も体も余裕綽綽で、強羅地域への視界を楽しんでいた。
彼の晴れやかな笑顔を見てくださいな、まるっきり快楽そうでしょう!!

それから下山の道のりは厳しい下り坂だった。
ほんの少しのように思われたが、その距離は歩いても下がっても、そう簡単には下に着けなかった。
この原野から1時間ばかり掛かった。

それから何とか温泉の風呂に入った。
一風呂、800円。
草臥(くたび)れた体の何処にも、この風呂は好(高)感度を与えてくれ、足腰には随分滋養を与えてくれた。
苦虫をくったような寂しい私の顔にも、微笑が戻ってきた。
ここまで回復したならば、自宅まで幾ら時間が掛かろうが、構ったものではない。
俺は、幸せなんだ。

その後、マサはそのまま東京の自宅に帰ればいいのに、東戸塚駅で一緒に食事しましょう、と欲(よ)く深いこと言いなさる。
私にとって、こんな幸せなことは二度とないと思って、彼の言うまま、中国料理屋さんの暖簾をくぐった。
何をどれくらい食ったり飲んだりしたか、記憶はないが、彼が飲食費を払ってくれたことだけは、よく憶えている。

感謝しただけではスマサレねえ、でも只管(ひたすら)深く感謝した。








2019年5月4日土曜日

ランチパーティー

今年のゴールデンウィークの2日目、28日(日)は、我が家のテラスで、山岡家族総勢に森田家の3人を含めて、ランチパーティーをした。
銘打って、平成最後のランチパーティーだ。

弊社では、4月27日から5月6日までが休暇だ。
「ちょうどいい」が心地いい。“スープの冷めない距離”に暮らす新しい家族のカタチ。
我がパーティーはこんなに整理されたものではなかった。
インターネットで得た写真を使わせてもらった、、、スマン。

このテラスは、我が家に三女家族が同居することになって、私の余暇を楽しむ広場をどうしても確保しようと、長い付き合いの大工さんに創ってもらった。
俺にだって、領域か占有区域か? がほしくなったのだ。
秋冬春の外気が寒い時期には無理があるが、4月から10月半ばの天気の好い日には、ここで腰を伸ばしゆっくり座れる椅子で寝る。
この椅子は40年前に東京芸大の講師さんでもあった家具職人に作ってもらったものだ。
手作りだからちょっと高値になりますよと言われたけれど、私の財布には鍵がなかった。

直径の長い丸いパラソルを真ん中に据えた。
このパラソルは、天気が悪い日には窄(すぼ)め、晴れた日には拡げる。
うっとり昼寝をするのも良し、本気に読書するのも大いに結構だ。

猫の直撃を避けるために、金網を設けて床下に金魚を8匹飼っている。
私が会社に行っているときは、孫たちがここで日向ぼっこをする。
私の休日の秘かな楽しみの一つに、彼らに餌を上げることだ。
驚くことなかれ、弊社で飼うことになってから、1・5倍に成長したのだ、こんな嬉しいことは無い。

4畳位の広間に、10人近い人間が、俺のスペースはここぞとばかり、踏ん張って場所取りをした。
豪華な肉類から魚と野菜、ここに書ききれないほどの品を、電気機能のフラットで焼いた。
豊かな果物やお握りも山盛りに用意してくれた。
出てくるものを、誰もが威勢よく食べた。
食物の神様が我家にも居てくれたとしたら、さぞかしこの食いっぷりに感謝してくれたことだろう。
私はと言えば、大いに飲んでもいいよと許可を貰っていたので、ビールから焼酎を鱈腹(たらふく)いただいた。
でも家長の手前、家族の面々を前に酔っ払うことはできない。
挙句の果て、このランチの様子を一枚の写真にも残せなかったのが、悔やまれる。

92歳の義母(妻の母)の食べるものは、二人の孫が義母様に用意した机の上にまめに運んでくれた。
この孫たちの働き振りを酔った目つきで見ていたが、何とも感動的な光景で、良い子になってくれることを確信した。

調理中、森田家のお嫁さん(私の長女)は、外資系の会社に勤める自分の夫に昼飯やらおやつをパックに入れて自宅に運んでいた。
夫は自宅で仕事に励んでいた。
外資系の会社に勤めているから、日本の昼夜は業務に余り関係ないようだ。
スープの冷めないところに住みたいものだと言うけれど、なかなか好いところに住んでいる。
このスープの冷めない距離って、この言い方の本意はなんだろう?と考える。
近くではなく遠くでなく、この距離が互いにとって丁度好い、こういう感覚なのだろうか。
夫はさぞかし喜んで、胃袋を温めていたことだろう。

部屋の中での飲食会ではないので、用意から調理、片付けがランニングで行われた。
それらの手間はすっかり簡素化でき、今後の我が家のランチパーティーの遣り方としては頻繁に使われそうだ。
食器も捨てきるものを使った、これもよかった。


2019年5月1日水曜日

優生手術救済法成立

20190425の朝日新聞・社説をそのまま転載させていただいた。
優生手術救済法成立
尊厳と共生を問い直す時
旧優性保護法のもとで不妊手術を受けた人に一時金を支給する法律が成立し、施行された。

不良な子孫の出生を防ぐーーー。
国はそんな目標を掲げ、障害や病気を持つ約2万5千人もの人々から、子どもを産み、育てる人生を奪っていった。

手術の規定が削除されてから20年余り、昨年、被害者の1人が裁判に訴えたことをきっかけにようやく償いが動き出すが、あまりに遅すぎたと言わざるをえない。

なお山積みの課題

終戦直後に始まった愚行は50年近くにも続いた。
旧法を作った国会、政策を進めた政府をはじめ、問題を放置してきた責任が社会全体に問われている。
一人ひとりの尊厳を守り、多様な個性が共生する社会へと、決意を新たにしなければならない。

被害者側が有職者の審査会に請求し、一時金320万円を受け取るのが補償の基本的な枠組みだ。
ただ、手術を受けた人のうち、名前が判明したのは1割余、3千人にとどまる。

調査と周知を強化しつつ、連絡先がわかった人には個別に通知する仕組みも欠かせない。

国は被害者のプライバシーが漏れる恐れを理由に拒むが、被害者には障害のため手術を受けたことを認識できていなかったり、事情を知る肉親が他界したりした人が多い。
鳥取県は市町村と協力し、職員が家族らに面会して伝える方針を決めた。
参加になるはずだ。

一時金の金額も再考が必要だ。
約20年前に補償金を始めたスウェーデンの例にならったが、「あまりに低額だ」との指摘が相次いでいる。

障害者団体は法の成立を「当事者不在だ」と批判する声明を出した。
被害者らの声を十分聞かずに立法した姿勢が問われている。

徹底検証が不可欠

優生思想に基づく不妊手術は、1900年代初め、ハンセン病患者への非合法な事例が確認されている。
戦時下の40年代には、ドイツの断種法を手本に国民優性法ができた。

それが戦後の48年、手術を強制することまで認めるなど、全会一致の議員立法で強化されたのが旧優生保護法である。

日本国憲法が基本的人権の尊重を掲げたにもかかわらず、戦後の食糧難の中で人工抑制というゆがんだ「公益」が優先された。
「不幸な子を産まない」といったスローガンのもと、「本人や家族のため」という誤った「善意」が強調された。

旧厚生省が手術を奨励し、自治体は件数を競った。
法が規定しない手術や、体を拘束したり本人をだましたりしての手術も容認され、9歳の女児までが手術台にのせられた。

国連など国際社会からの批判が高まる中で、96年に手術規定が削除されたが、国会での審議が不十分なまま手続きが進んだ。
その後、スウェーデンがかっての強制的な不妊手術について調査と補償を検討していることが世界的に注目されたものの、国内での議論は深まらないままだった。

旧優性保護法改正と同時期に強制隔離政策の根拠法が廃止されたハンセン病の元患者については2001年、違憲判決を受けて小泉内閣が謝罪と補償を決めた。
患者に断種や堕胎といった優性手術が行われていたことが明らかになったが、障害者らの事例を広く問題視する動きにはつながらなかった。
医療や福祉の関係者、朝日新聞社を含むメディアも、被害者の切実な声を受け止められなかった。
安倍首相は今回、政府としての反省とおわびの談話を発表したが、法律を作ったのは国会である。
各分野の専門家からなる第三者委員会を立ち上げ、過去の経緯を検証し、教訓を引き出す。
それが国会の務めではないか。
反省やおわびとともに、その決意を決議で表明すべきだ。

被害者とともに

3年前、相模原市の障害者施設で入所者19人が殺害される事件が起きた。
容疑者の男は「障害者はいなくなった方がいい」と口にしており、障害者とその家族らは優性思想がなお消えていないことに強い衝撃を受け、疎外感にとらわれた。

今回の救済法の設立を機に、障害者をはじめ外国人や性的少数者らへ根強く残る排除や差別の問題を改めて考えたい。
疎ましいという感情や無関心、想像上の欠如ーーーー。
それらを背景にした言動が、障害者を傷つけ、孤立させ、沈黙されていないか。

救済法は前文で「共生社会の実現に向けて、努力を尽くす決意を新たにする」とうたっている。
その出発点は、一人ひとりの人権を尊重し、尊厳を守ることだろう。

生後まもなくの高熱で脳性まひを患い、20才で不妊手術を受けた広島市の佐々木千津子さんは、6年前に65歳で亡くなるまで講演で訴え続けた。

「忘れてほしゅうない」
「ここにおるんじゃけえ」
この言葉を胸に刻むことから始めたい。