20190502(木)
大学時代の後輩・マサと箱根の山登りに出かけた。
マサは、私が大学時代に所属していたサッカー部で、約4ヶ月ほど一緒に練習した。
私は2浪で彼は1浪、私が3年生だった時に、我が栄えあるクラブに新入部員として入ってきた。
出身高校の校名がなかなか名誉ある名前で、よくぞ、その学校から入ってきたものだと関心した。
敢えて、彼の名前と校名は此処で掲示することもないだろう、彼たちの名誉のため避けよう。
自宅を6時40分出発
横須賀線・東戸塚駅 7時13分発
東海道線・戸塚駅 7時20分発
小田原駅 8時02分着
伊豆箱根鉄道大雄山線 8時12分発
大雄山駅 8時33分着
大雄山駅からバスで10分、道了尊・最乗寺に着いたのが、約9時頃。
明神ヶ岳 12時頃
明星ケ岳 13時頃
宮城野 16時半頃
温泉に湯ったり 17時半頃から18時頃
箱根登山鉄道・強羅駅~湯本駅 ?判(わ)からない
小田急線・湯本駅から小田原駅 ?判(わ)からない
東海道・小田原駅から戸塚駅
横須賀線・戸塚駅から東戸塚駅 20時頃
東戸塚駅での食事 21時頃まで
自宅に着いたのが 21時半頃
※マーク
山を歩き出してから、自宅までの時間はきっちり時計を見ていなかったので、極めて粗(あ)らかじめの数字だから、真剣にチェックしないでください。
登りだした時間と自宅に着いた時間だけは証人がいますので、正しい。
伊豆箱根鉄道大雄山線
最乗寺・本堂,(Wikipedia)より
最乗寺・石段と杉林、(Wikipedia)より
神奈川県足柄市の「大雄山最乗寺」は曹洞宗のお寺。
神奈川県では横浜市鶴見区の総持寺に次ぐ古刹で、広いパワースポットがあっちこっちにある。
昨年のいつだったか忘れてしまったけれど、体流(からだなが)しのためのハイキングにやってきたことがある。
天狗と下駄の里としても有名で、境内のあっちこっちで出会える。
マサから今回の山歩きの提案があった時、そのコースに賛成した。
最乗寺の境内からひたすら南方向へ山登りを開始した。
境内には、最乗寺の建設期に遠くの住民から多額の寄付があったようで、ところどころにそれに感謝するが如く、碑が幾つもあった。
その開設された時期が大正の初めごろのものが多かった。
驚くことに東京の人か講なのか確認できなかったが、杉の苗木を2万本か?20万本かのものがあった。
寄付金は5千から100万円と定かでなかった。
歩きだして直ぐに、高度激しい道のりに、先ずは驚いた。
でも、マサには嫌な思いだけはさせたくない、その気配り心配りだけで、頑張るだけ頑張った。
杉やその他の樹木に覆われた山道を、足元のバランスを壊さないことには懸命に注意しながら歩いた。
私には5年前の樹木からの落下による高次脳機能障害の影響で、精神的な混乱はこの際除くとして、脳構造や機能に欠落欠陥があって、体全体のバランス機能がいつなんどき、狂いだすことだって有り得るから、必要以上に手も使って行動した。
このバランスの悪化ほど怖いものはない。
そして、マサには内緒だけれど、私は私なりの秘密を持った。
これから下に落ちるまで、俺は、山男になってやろう。
少しぐらい足が痛かろうが、腰が痛かろうが、山男になる。
脳の中は山肌が練り風が舞う、この山塊のことだけに満つる。
視覚、聴覚、肌の感覚を山肌に空に広げて、山の中に静かに溶け込んでいく。
視界はほんの10メートル程度で、それ以外は霧に包まれてまるで雲海の中のようだった。
流石にゴールデンウィーク、私たちを飛び越えていく人も、私たちが追い抜いていく人も、家族連れやら友達同士。
小さな子ども達も必死に歩いていた。
40分起きの休憩を3回した。
山の頂の近辺に着いたごろから、視界が急に広がって青空が見えた。
この青空出現が、今日一日の幸運のひと時に思われた。
樹木の上空の霧が上のほうに這い上がってくる様が、雲のように見えて面白かった。
明神ケ岳(1169)に着いたのは、大体正午頃だった。
そこで、昼食。
明神ケ岳の高さを標示するコンクリート杭に並んで記念写真を撮った。
前に休憩した時に握り飯2個、多少のおかずを食ったので、ここではその残りを食った。
そしたら、マサがカップヌードルを用意していて、私にも1カップくれた。
目の前にあるものなら、遠慮することなくいただく癖がついているものだから、大いに喜んでいただいた。
記念写真を撮ったものの、その時には視界が真っ白になっていた、本当は灰色だったのかもしれない。
それほど、身の回りが分らなくなってきていた。
飯を食っていた隣の家族から、これからの道筋の相談をマサは受けて、何やら話していた。
その家族にも小さな子どもがいて、帰り道の安全を知りたかったのだろう。
コンサルのお礼に、今まで味わったことのないジェリーをいただいた。
それから樹木や竹林、高い所からの上水を越えて、明星ケ岳(923)に着いた。
この浄水を水筒に満たすべきだと思ったのだが、体が自由に動かなかった。
そこには、ここが明星ケ岳だけですと知らせる大きな碑があった。
この碑も大正のものだった。
そんなことを我々の道程だけで考えても、この大正に入ってから各所で開発が進んだことが読み取れる。
吉野作造による民本主義、それから普選運動、美濃部達吉による天皇機関説、世の中は大正デモクラシーの流れに靡(なび)いていた時代だった。
碑には安全を祈るような言葉が書いてあったようだが、忘れてしまった。
その界隈で話したお兄さんが、如何にも山男風の男で、彼の朝から今に至るまでの山行を聞いて、私はその猛烈振りに吃驚(びっくり)コイタ?
私たちに少し話しただけで、ぐいぐい進んで行った。
俺だって、彼被(あいつ)には負けたくない、と秘めた思いをした。
マサは今後の進み方を私にも求めてきたが、私は私なりの足腰の痛みから、早い目に下につく道を進めた。
こんな場合が、今後有り得る訳だから、パートナーについては良く良く知っていなければならない、、、、くわばらクワバラだ。
それで、宮城野、強羅方面に向かうことになった。
そういうけれど、この道だって下り坂が無性に厳しかった。
これは、私だけの体の状態だと言えばそれで御仕舞いだけど、登り坂よりも下り坂の方が、足腰にキツいだ。
筋肉の痛みは何も無いが、どす~とくる下がり目の苦痛が堪んなかった。
インターネットでいただいた
マサが腰を曲げて佇んでいるのは、箱根の大文字が行われる原野だ。
眼下に宮城野、強羅の町が全て、手に取るように眺められた。
彼は私と違って、心も体も余裕綽綽で、強羅地域への視界を楽しんでいた。
彼の晴れやかな笑顔を見てくださいな、まるっきり快楽そうでしょう!!
それから下山の道のりは厳しい下り坂だった。
ほんの少しのように思われたが、その距離は歩いても下がっても、そう簡単には下に着けなかった。
この原野から1時間ばかり掛かった。
それから何とか温泉の風呂に入った。
一風呂、800円。
草臥(くたび)れた体の何処にも、この風呂は好(高)感度を与えてくれ、足腰には随分滋養を与えてくれた。
苦虫をくったような寂しい私の顔にも、微笑が戻ってきた。
ここまで回復したならば、自宅まで幾ら時間が掛かろうが、構ったものではない。
俺は、幸せなんだ。
その後、マサはそのまま東京の自宅に帰ればいいのに、東戸塚駅で一緒に食事しましょう、と欲(よ)く深いこと言いなさる。
私にとって、こんな幸せなことは二度とないと思って、彼の言うまま、中国料理屋さんの暖簾をくぐった。
何をどれくらい食ったり飲んだりしたか、記憶はないが、彼が飲食費を払ってくれたことだけは、よく憶えている。
感謝しただけではスマサレねえ、でも只管(ひたすら)深く感謝した。