2015年5月22日金曜日

事故を起こして、早や1年!!

今日は、事故後1年目の記念すべき ? 診断日だ。お医者さんから、何と言われるのだろうか?

その日は2014年の5月の15日だったか16日だったか、記憶が定かでない。それからの1年間は、激しく、又悲しい療養を始めた。事故後4日間は、意識不明だった。ほんとに私は元の状態に戻ることができるのだろうか。担当の脳神経医は、兎に角1年間は私が担当しますから、頑張りましょうと言ってくれた。40~45年前に大学でクラブ活動を一緒に励んだ友人たちや、会社の仲間も、ヤ・マ・オ・カは死んだ?と思・っ・て・い・た。否、元通りにはならないよ, , , , , , ,  私の療養ブリから、誰だってそう感じた。

脳以外の部分は必死の覚悟で何とか以前の私並みに戻った。桜が咲きだした頃、痛みなく肩が一回転できるようになった。だが、高次脳機能障害だけは治ったような気がしない。肩や腰などの筋肉は強烈な打撲で痛みは激しかった ! ! ! ! ! ! のだ。

脳力を、事故前が100%だったとして70%は失ったことになる、そのように自覚しなさい、、、1年間、面倒を診てくれた脳神経医の発言だ。

約束の時間に受付をして、次のような検査をした。一つは、★脳波検査(8誘導以上)[睡眠又は薬物賦活検査加算]、もう一つは、★脳波気共鳴コンピューター断層診断[MRI撮影](3テスラ以上の機器による場合)、電子画像管理加算(コンピューター断層診断)、コンピューター断層診断、それに、★てんかん指導。

そして、面談による診察だ!!。患者を見飽きないために院内ルールがあって、今回の医者とはお初だ。今までの医師から、ある程度内容は聞いていたので、想像はしていたけれど、考えていた以上に良くなっているではないか、と先ずは安心させてくれた。検査の過程からは、心配していたのですよ、と笑って答えてくれた。

脳の構造・作用はこの1年間で、なあ~んも変わっていない。針少拡大?か ? 仕事に出ているので、機転は効くようになっている。それで私が思ったことは、医師は脳の構造や作用の最初のチェックと何も変わっていないが、ドアーを入ってきた時の表情や、会話の調子から、多少なりとも良くなっているように、思った、、、ようだ。

2015年5月17日日曜日

KANO~1931海の向こうの甲子園~

約40年前に巣立った学校から毎月届けられる学報を、真剣に読むのを楽しみにしている。

以前には、書のどの文章も蟻の糞を探すかのように好んだ。ところが、つまらぬ事故のせいで、人性の良し悪しや、考えることや想像する力が弱ってしまった。確実に、弱体してしまった。この事故というのは、今回の稿では、もう触れない。幾ら考えても思考する力は蘇らない。

そのように無力化した私に、不思議に力が湧く記事を見つけた。この記事を何とかブログ化しようと思いついたが、構成は勿論、文節から分詞、爽やかな枕詞に尻に火が付く言葉まで出てこない。

悩んでいた。

 

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2015年5月5日火曜日

糞垂れ! 俺は何をすればいいのだ!!! このgwに

                           お世話になっている新百合ヶ丘の病院

 

思えばそろそろ1年になろうとしている。昨年の5月16日の昼間のことだ。

庭木の頂上部分の枝整備をやっているうちに、バランスを失って4~5メートルの高さからアスファルト道路に落ちた。弊社の仕入れ物件だ。頭蓋骨で直撃。乱れた枝並を少しでもカッコウーをつける心算だった。事故後の約1週間の意識不明状態から、やっとここまで回復した。高次脳機能障害ってやつだ。5月20日には、お世話になった医師の診断をうけることになっている。医師の診断は何となく解っている。内容次第では、再診の可能性もある。

外傷はそれなりに治ってきたが、頭脳の構造については、自ら、十分に治っていないことも分かっている。

このままで、どれだけ頑張れというのだ!

 

今日(5月4日)は、会社の留守番は社長さんがやってやると言われたので、盆暗(ぼんくら)な時間を過ごすわけにはいかない。ならば、リフォーム前のマンションに出かけて、古くなったクロスをはがす仕事ならば、俺の器量で十分だろう、昼飯も食わずに出かけた。私の腹の減り方は尋常でない。それは横に置いて、ベランダから見える住宅街に人影が見えないのが不安だった。

助け舟もなく孤軍で頑張ることには慣れてはいるが、行楽地では家族連や恋人たちが大いに御愉しみなのだろう?それはそれで大いに、結構。でも、俺の心はどうして、どうして?晴れないのだろう。

そんな私に気がかりな文字が脳の芯にバシバシ入る。その言葉を拾っておこう。

①戦後70年の節目に行われた日米首脳会談で、オバマ米大統領と安倍晋三首相は、「不動の同盟」として安保協力を大幅に広げていくと確認した。新戦略で安保での負担共有を他国に求める米国に、「積極的平和主義」を掲げる安倍政権も呼応することになる。日米の安全保障は一体化を深め、歯止めの見えない時代を迎える。

②ナチス・ドイツが連合国に降伏してから8日で70周年になるのを前に、メルケル独首相は2日、国民に歴史と向き合うよう呼びかけた。「ナチス時代を知る責任ある」。歴史に終止符はない。我々ドイツ人は特に、ナチス時代に行われたことを知り、注意深く敏感に対応する責任があると訴えている。

③同氏はまた3日、4万人以上が犠牲となった独南部のダッハウ強制収容所の解放70周年式典で演説し、「ナチスがこの収容所で犠牲者に与えた底知れない恐怖を、我々は犠牲者のため、我々のため、そして将来の世代のために、決して忘れない」と語った。

 

 

日曜に想う(ヒトラーを清算した熟慮と自省)

ここから本文です2015年4月26日(日曜日)朝日新聞の総合2に題字の内容で、特別編集委員の富永 格が書かれていた。やはり気になって、眠り眼(まなこ)が吹っ飛びれてしまいそうな気力で読んだ。

 119763023087716411143.jpg  アドルフ・ヒトラー     hitorar.jpg

案内板ひとつで、70年前のベルリンに飛ぶのは難しい。ブランデンブルク門の南にある総統防空壕(フューラーブンカー)跡。アドルフ・ヒトラーが最後の100日を過ごした地は、ありふれた駐車場に姿を変えていた。

ネオナチの聖地になるとの懸念を説き伏せ、詳しい位置が公表されたのは9年前だ。「過去と向き合い、伝える責任がある」と。年表に見入る男性(41)は「特段の思いはない。これはもう歴史ですから」。あたりでは小鳥がさえずり、春の光が揺れるだけだ。

東からソ連軍、西から連合軍が迫る1945年春、ヒトラーは56回目の、そして最後の誕生日を迎える。野戦用ジャケットを着たまま側近と夕食を共にした総統は、独り読書にふけったという。砲撃の音が近かった。

4月30日午後、ヒトラーは前日に妻とした33歳のエバ・ブラウンと自決、後継に指名された腹心のゲッペルも妻子を道連れに後を追った。

独裁者の遺体は、ベルリンを占領したソ連軍の手で葬られた。ところが70年、ソ連と東独の秘密警察が掘り出し、焼却のうえエルベ川に散骨する。これまた将来、心酔者が墓前に集まらないようにという用心である。

痕跡までが危険視される男を権力の座に押し上げたのは、ほかならぬ自由選挙だった。28年、国会に初挑戦したナチスへの支持は限られたが、翌年、米国から大恐慌という神風が吹く。

第一次大戦の報いを背負うドイツ経済は、米国資本の徴収で沈んだ。工業生産は3年で4割減、労働者の3割、600万人が失業する。苦しむ大衆をとらえたのが、反ベルハイユ(戦後)体制、反ユダヤの宣伝だった。

ナチスは30年の選挙で躍進、32年には4割近い選挙で第一党となり、翌年政権を奪う。ここまでの物語は国民との合作、あとは独り舞台である。

ヒトラーの流儀は排除弾圧だけではない。娯楽と宣伝目的のラジオ普及、アウトバーン(高速道)建設や軍需による雇用拡大、ベルリン五輪、フォルクスワーゲン(国民車)構想ーーーー。硬軟両用の施策で民心を取り込み、盤石の翼賛体制を築き上げた。ここに教訓が横たわる。独裁志向の人物や集団にひとたび託せば、彼らは言論を封じる一方で甘言を弄し、国を意のままに操るだろう。選び間違えたツケはいずれ国民にまわる。少なくとも暮らしで、ともすれば命で。

懲りた欧州では、扇動の弁舌はそれだけで怪しまれる。とりわけヒトラー清算にかけるドイツの決意は絶対だ。

独北部で、アウシュビッツ強制収容所元職員の裁判が始まった。簿記係だった被告は93歳。4年前には91歳の元看守に有罪判決が下されている。怖いほどのけじめである。

良き職人に再生すべく、ドイツは欧州統合に従い、リーダーになった。周辺国との関係でも94%が「うまくいっている」と考える(日本は46%)。単純な比較は戒めたいが、たゆまぬ自省があってこその到達点だろう。

先ごろ87歳で亡くなったドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス氏が、死の直前スペイン紙の取材に語ったという。「我々は同じ間違いを犯す恐れがある。夢遊病者のように世界大戦に突き進むかもしれない」と。

同氏の代表作「ブリキの太鼓」は、台頭するナチスの狂気を少年の冷徹な目で描いた。ナチ親衛隊員だった過去を告白したのは晩年である。ガウク独大統領は「彼の作品は人々を動かし、熟慮へと導いた」と悼んだ。

熟慮は自省に至る。胸中で書いては消し、読み返して改める教訓の数々。同じ過ちを繰り返さすよう、たとえば政治、教育、メディアはどうあるべきかを自問する精神作業である。

我が国もまた、扇動と迎合の果ての地獄を経験した。歳月は非情だが、せめて世代を超えて語り継ぎ、思いを巡らせよう。肌が知らない教訓は、面倒でも頭で迎えに行くしかない。