2017年12月22日金曜日

川内スタイルの新星

20171221の朝日新聞・夕刊のスポーツ欄で、私の第一の関心事である記事が目に入り、ギョットとした。
スポーツ、いやマラソンだ。
このギョッはヤマオカ流の嬉しいことの感動符だ。

この記事というのは17日に山口県防府市で開催された防府読売マラソンで、1,2位を公務員が占めたことだ。
優勝は川内優輝(30=埼玉県庁)。
2位には今春、実業団の小森コーポレーションを退社し、沖縄本島南城市役所に勤める浜崎達規(はまざきたつのり)(29)が入った。
今、来年2月に開催される平昌オリンピック(冬季)の日本代表選考を兼ねた大会が国内外で行われている。各種だ。
どの大会においても優秀な記録や演技が繰り広げられている。
その一つ一つについて、自らの感想を述べようと思っても、その量が余りにも多く、私の手に負えない。
それぞれの選手について私なりの思いはあるのだが、そう簡単には表現できない。


社会の目を仰天させた選手も現れた。
福岡国際マラソン(3日、平和台陸上競技場発着)、2020年東京五輪のマラソン代表選考会「グランドチャンピオンシップ(GC)」の出場権が懸かる大会の一つ。4月のボストン・マラソン3位の大迫傑(26)=ナイキ・オレゴンプロジェクト=が日本歴代5位の2時間7分19秒で日本勢最高の3位に入り、日本陸運が定めた条件を満たしてGS出場権を得た。
ソンドレ・モーエン(26)=ノルウェー=が2時間5分48秒で優勝した。
この大迫傑は、今、跳ねている。
この大迫傑は、この大会での記録故に、2020年の東京五輪でのマラソンの金メダル獲得巧者に浮かび上がってきた。
大迫の大学の先輩の瀬古利彦が大迫の頑張りに大いに期待している。
噂話で、実際に耳にしたわけではないが、この瀬古利彦はこの稿の出場している川内優輝をどうも嫌っているようなのだ。
私だって、大迫・瀬古の出た学校の先輩だが、この話が好きになれない。瀬古利彦のマラソンは全て立派だった。
いい指導者になって欲しいものだ。


ところが、今回の稿については思いの外、やっただ。
こういう真新しい話も好きだ。
実は公務員の川内優輝選手のことが、いっつもいっつも頭の中にあって、彼が出る全てのマラソンを注目していた。
何も企業に負んぶに抱っこの選手が嫌いなわけではないが、公務員、それも学校の仕事をやりながら、朝、夕方から晩にかけて、練習に励む。
限られた時間は、当ったり前だけれど限られている。
その限られた日時のなかで、何度も何度もマラソンにチャレンジする。
出す記録は立派なものだ。

その川内優輝スタイルに惚れこんだ選手が現れた。
浜崎達規選手だ。
彼のことについては下の文章であらましは分るだろうが、その選手を私は大きく応援したくなった。キャリアもある程度は解ってもらえるだろう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 朝日新聞のこの件の題字は、
「川内スタイル」目標くれた
重圧解放 2020へ決意新た 
公務員ランナー・浜崎達規(はまざきたつのり)
防府読売マラソン2位
ーーーーーーーーーーだった。

新聞記事を下の方に転載さてもらった。


防府読売マラソンで2位に入った浜崎

川内優輝(左)とともに表彰台に立った浜崎

浜崎は沖縄県うるま市出身。
沖縄工高から亜大を経て小森コーポレーションに入った。
亜大時代には箱根駅伝も経験。
今年の元日の全日本実業団対抗駅伝ではエース区間の4区を走った。
ところが「実業団で必死に練習してもマラソンで2時間10分を切れず、3年後の東京五輪を目指す自信を失っていた。沖縄に帰りたい気持ちも強かった」。
南城市が実施しているスポーツや文化で実績を残している人向けの特別選抜採用試験に合格し、現在は健康増進課に勤めている。

「川内さんのスタイルを意識している」と言うように練習は短時間集中型。
今年は防府のほか長野、北海道、ブエノスアイレス、沖縄でマラソンを走るなど数多くのレースに出たのも「川内スタイル」だ。

「実業団では結果を出すことが仕事。だから常に結果を追い求めていた。今はそれがないところが大きな違いですね」。
練習量は落ちたたが、重圧から解き放たれたのがよかったのか、防府では2時間11分26秒と実業団時代の自己ベストを46秒更新。このタイムは沖縄県記録となった。

「これまで頭の隅にもなかったマラソングランドチャンピオンシップの出場を今後の目標にしたい」。
東京五輪の選考レースを視野に入れた。

公務員ランナーの先輩川内は「日本全国で一流ランナーが生まれ、マラソンブームと結びついてくれるとうれしい」。
浜崎も地元で子供たちを教えるなどの活動をしている。
(堀川貴弘)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ネットより。
第91回・第92回箱根駅伝において、青山学院大学は総合2連覇(のち第93回箱根駅伝で総合3連覇)を達成した。


青山学院大学陸上監督・原晋が指導する当時19歳の下田裕太が、2016年2月28日の東京マラソン2016で、10代男子の日本記録達成(2時間11分34秒)で日本勢2着(男子総合10位)に入ったことに、原は「下田の伸びしろは200%ある。「将来性」を見越し下田をリオ五輪男子マラソン代表に選出すべき」と大口を叩いた。

これに川内は「下田君のゴールタイムは凄いが、若ければ良いってもんじゃない。将来性だけで五輪に撰ぶのはどうか」

「私自身マラソンは10回以上下田君より良いタイムで走った。Ⅰ・2回しかフルを走ってない若手選手と違い、経験で負けない」

「原監督の発言に悔しく思った実業団選手は大勢いるだろうし、私も同感。最低2時間10分は切らないと。
監督も箱根駅伝を語るのは良いが、マラソンはまだ早い」等、原のビッグマウスぶりを批判している。

この原監督に嫌味を含めて意見したい。
この頃のテレビの報道番組によく出ていて、恰も知識人らしく、何らかの意見を述べている。
そうりゃ青山学院大学の陸上部の監督として頑張っているのはよく解っているが、社会の難問についてのコメント発言は気を使うべきだと、前前から思っていた。この際だから文字にさせてもらった。


2017年12月21日木曜日

燃えてるぞ!!

次回、2018年2月の平昌オリンピック(冬季)の各種目に出場する選手を選考するための大会が、国内外で行われている。

PyeongChang 2018 Winter Olympics.svg

その各大会で、おそろしい記録を出している選手がいて、新聞やテレビなどにしかその結果を知ることができない私は、少し寂しい気がする。

でも、その成果のそれぞれは嬉しいことが多い。その一つ一つをこのブログに書き留めておきたいとと思うが、私の能力不足だ。
競技ごとに記録と凄技(すごわざ)を競っている。1年間の怪我の療後ながら踏ん張っている人、最終選考会を前に怪我をしてしまった人。どんな状況であれ、彼達彼女たちは頑張っている。

今回は、小平奈緒さんと高木美帆さんの二人に絞らせてもらう。
誰からも愛されているアスリートたちは、国民の期待を胸に先ずは自分自身のために、張りきっている。
私は、ただ頑張ってくれ!と願いながら励ますことだ。

平昌オリンピックの競技種目と予定
開会式競技実施予定1種目決勝EGエキシビション閉会式
2月9
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 式典
 アルペンスキー1111111111111
 バイアスロン11211112111
 ボブスレー1113
 クロスカントリースキー2222111112
 カーリング1113
 フィギュアスケート1111EG15
 フリースタイルスキー111111410
 アイスホッケー112
 リュージュ11114
 ノルディック複合1113
 ショートトラックスピードスケート112138
 スケルトン22
 スキージャンプ11114
 スノーボード111111410
 スピードスケート11111111112214
2月9
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★先ずは小平奈緒さんだ。
12月8日から10日に行われたW杯ソルトレイクシティ大会の初日。
500メートルで自己記録を100分の3秒更新する36秒50で優勝。
翌日の500メートルでも36秒54で優勝。
同走で2位に入った李相花に0秒25の差をつける圧勝。李相花は、韓国代表のすご腕だ。

最終日に行われた1000メートルで、これまでの記録を0秒09更新する1分2秒09の世界新記録マークして優勝。
同走で2位に入った高木美帆に0秒54の差をつける圧勝。

日本の好選手が個人単種目で世界新記録をマークするのは小平奈緒が初めて。


画像 ワールドカップの女子1000メートルで2位に入り、表彰台で歓声に応える高木美帆=米ユタ州ソルトレークシティー
★この小平奈緒の世界新記録を横にいた高木美帆の心意気を感じる発言に、私は流石、高木美帆!!と叫んでしまった。

目前で世界新を出された悔しさを胸に、中距離で無敵の快進撃を続ける高木美帆のさらなる進化への欲望をかきたてている。
小平が世界新をマークしたことはもう立派なことだが、高木美帆だって自己記録を2秒近く縮めながら、0秒54差の2位に終わった。

「今回の負けはすごく悔しかった。どうやったら勝てるかを突き詰めていきたい」と対抗心を隠さなかった。

今季1500メートルはW杯4戦4勝の高木美帆と500メートルで昨季からW杯15連勝の小平。
中間の1000メートルでは、今季のW杯直接対決3戦はすべて小平に軍配が上がっており、高木美帆はすべて2位。

「違う距離でも、距離がかぶって戦う面白さを感じている。自分が小平選手にとってどこまでの存在かは分らないけれど、私は小平選手がいることで、1000メートルへの思いが上がっている」と戦える喜びを口にした。

この二人の対決は12月27日開幕の五輪代表選考会。そして来年2月の平昌オリンピックだ。





20171217の天声人語より。
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1928年アムステルダム五輪の陸上競技で日本女子初のメダリストとなった人見絹枝はこんな言葉を残している。「人生の行程すべて戦いである」。女性が走ることさえ奇異にみられた時代だった。

女性スポーツの環境は変わったが、新たな地平を切り開くのは今も失敗を恐れぬ堅固な意志だろう。「用意された環境を歩くのは好きじゃない。自分で選び失敗も成功も受け入れる」。スピードスケートの小平奈緒選手(31)はテレビでそう語っていた。10日に1000メートルで、個人の五輪種目で日本女子初の世界記録を出した。

スケート盛んな長野県茅野市で生まれ、3歳でスケート靴をはいた。高校を出て地元の信州大学へ進学。2度の五輪出場で個人種目の表彰台を逃すと、14年から単身でスケート大国オランダへ。実業団中心の女子では異例のキャリアである。

2季にわたってプロチームに加わり、辞書を片手に学んだ。背中を丸めて、低い腰の位置から刃全体で氷をとらえる。練習仲間がオランダ語で「怒れる猫」と呼ぶしなやかで力強い滑りに結実した。

五輪シーズンの抱負にはインド独立の父ガンジーの言葉を引いた。「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」。
成長への渇望と感性の幅が、30歳を超えて進化を続ける原動力なのだろう。

怒れる猫の快進撃は見事だが、平昌五輪では500メートルの3連覇を狙う韓国の「永速女帝」李相花選手(28)ら、ライバルは多い。熾烈なレースが、いっそう興味深い。

2017年12月17日日曜日

天声人語・創作四字熟語

20171216、朝日新聞・天声人語の創作四字熟語。

毎年、住友生命の年末恒例の創作四字熟語で、今年の出来事を振り返る。毎年この時期になると、この天声人語になる。密かなお楽しみ、気長に待っていた。
が、そうは言っても、このブログに書き残して置かないと、私の気がすまない。
数々の話で私の興味は尽きることはないが、天声人語でこの話だけは格別だ。
筆者に申し分けないが、驚くほど、腰を抜かすほどの面白いのが少ない。そうは言ったって、やはり気になる熟語はある。
賢人筆者に偉そうに書いてすまないと思っている。突っ飛(トッピ)な表現、絶妙な作法のものが物足りない。
でも、ここに書き留めておけば、近くになるか遠くになるか解らないが、この記事の面白さは必ず発揮される。


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若き才能の奇想天外とも言える活躍だった。「棋聡天才」(きそうてんさい)の藤井聡太四段が成し遂げた「連聡棋録」(れんそうきろく)に胸が躍った。陸上100メートルで9秒台を出した桐生祥秀選手の「桐走十内」(きそうてんだい)の疾走も光った。住友生命が募った年末恒例の創作四字熟語で、今年を振り返る。

伸びる一方のネット通販。その陰で疲弊する現場の叫びが伝わってくる。「荷労困配」(にろうこんぱい)の宅配業界である。世の不満が煽(あお)り運転につながっているのか、「煽々恐々」(せんせんきょうきょう)の路上もある。

自然の脅威を感じたのは、船舶からのヒアリの侵入だ。「蟻来迷惑」(ありきためいわく)だが、手をこまねいてはいられない。夏には長雨にたたられた地域があり「閉口雨読」(へいこううぞく)の日々だった。「危険水威」(きけんすいい)のゲリラ豪雨は、すでに日常風景であある。

世界ではこわもての指導者が幅をきかせ、礼賛する歌まで街に流れる習近平総書記はまさに「中央習権」(ちゅうおうしゅうけん)。馬耳東風ならぬ「万事虎風」(ばんじとらふう)のトランプ大統領の振る舞いに、慣れてしまうのが怖い。

食べ物も観光地にも写真でインスタ映えしなければ売り込めないと「映利多売」(はえりたばい)が目立つ。問題すべてがうんこに関連するドリルがヒットし、「便教熱心」(べんきょうねっしん)の子どもが増えたそうな。

熟語の応募は11月初めまで。その後のニュースを小欄が補ってみた。引退した元横綱がいま口を開いて気持ちを述べるなら「悔綱一晩」(かいこういちばん)となるか。首相が「丁寧に説明する」と臨んだ特別国会は、十分な答弁も掘り下げた調査もなく終わった。「不答不掘」(ふとうふくつ)の姿勢を来年も続けるのは、勘弁してほしい。


2017年12月16日土曜日

落葉にも詩(うた)がある!1


シダレヤナギ 庭木図鑑
シダレヤナギ

芸能人や作家や、何かと世間から噂された人々が、個人的な事情などもいれた小話は、どの人の場合も興味がそそる。
何是、そんなことを思いついたのかと聞かれると、実は体の調子が蘇り、1か月前から復活した徒歩通勤で感じたことがあるからだ。
脳と腰が長いこと可笑しかった。
徒歩通勤において、体が無理なく動けるようになったこと、目にする草や樹の光景が麗しく見えることが嬉しいのだ。

今回は、不思議な落葉の発生だった。
今まで、落葉なんかに関心はなかったのに、久しぶりに公園や道路を歩く度に気を惹く落葉が、何故あのような落ち方をするのかと考えだした。
落葉君、君の言葉?を聞きたいのだ。
それとも涙なのか?涙ならばその訳・意味を知りたいと思った。

子供の頃、父から「タモツ、人間は兎に角頑張らなくてはならないんだ。
頑張らなくなったら、落葉のようにヒラリヒラリと落ちていくしかないんだ」と言われ、何となく聞いていた。
さらに、「タモツ、これからの将来に向かって夢が薄れ、脳も筋肉も弱まり、もう俺はおしまいだと諦めたら、その時こそ、あの落葉のようにヒラリヒラリと落ちていくんだ」
そんな父からの助言があったからでもないが、生きて今まで何とか頑張るだけは頑張ってきた。
母からは田舎を出ていく時に「タモツ、お前のお兄さんは長男として農業を頑張っているので、どんな学校でどんな勉強をしようが構わないが、学生を過ぎて社会人になってからも、警察だけにはお世話にならないでくれ。これが私の唯一のお願いだ」
たったそれだけの助言を守ろうとして生きてきた。
父母からの数知れないアドバイスだ。

公園の遊歩樹や道路脇の街路樹には、常緑樹もあれば落葉樹もある。
晩秋になると、その常緑樹の葉っぱのなかに、あっちこっちに黄色や赤色の葉っぱが表れ、その葉っぱが時間の経つのに合わせるように、ポチ~ン、パラパラと落ちる。
君に何か落ち度でもあったのか?
落ちる前に、変色した葉っぱを軽く引っ張ると、いとも簡単に枝から離れる。
そこで研究熱心ではないが、その葉っぱが何故、あっちこっちに発生し、一塊(ひとかたまり)に集まっているわけではなく、樹木全体に紛れなく広まっているのだろう。
樹木によって、その葉っぱは黄色だったり赤色だったり、その色は定型的だ。
何故、葉が変色して落ちるのか、今まで真剣に調べてみることはなかった。

このことを会社のみんなに話したが、正解らしい答えを返してくれなかった。
運動部上がりの私は、根性無いから落ちざるを得なかったのだよ、みんなから意地悪でもされているんではないか、と思おうとした。
が、これが正解だとはどうしても想えなくて、得意のネットで調べてみた。
そしたら、なんてことはない。
常緑樹にも新しい葉が生まれ、古くなった寿命の長い葉は落ちることによって、樹木全体の派生を促しているとのことだった。
その落葉はその落葉としての宿命を負っていた。
な~んだ、落葉は寿命のせいだったんだ、と考えてほっとした。

落葉なら、落葉の本当の涙を見たかった。そして、落葉の言葉も聞きたかった。

話しは変わるが、モミジの葉っぱの色のことはどうなんだろう。
これもネットで調べてみた。
元々、木の葉にはカロチノイド(黄色)とクロロフィル(緑色)という2種類の色素がある。
秋になると陽射しが弱まると、両方の色素の分解が始まる。
多くの場合、クロロフィルが早く分解され、カロチノイドが目立つようになり、「黄葉」となる。
葉の中に、元々含まれていないアントシアニン(赤色)という色素が生成されることで、「紅葉」する。
この紅葉するためには、昼温度が高く光が十分にあり、夜冷えることが必要です。
秋晴れの日が続き、温度差が激しいほど見事な紅葉が見られるのはそのためである。

今日もモミジと銀杏の葉以外にも、少しばかり落葉拾いをして会社に出た。
私の机の左前方には、黄味、赤味、朱味、緑の落葉が70枚ほどが初冬の色をなしている。

2017年12月14日木曜日

天高く我が足駈ける

毎朝、私の仕事と言えば、ゴミ出しがある。
6人住まいの家族なので、出るゴミは当たり前だけれど多い。
3年前、頭の後頭部を強く撃って、それからヤマオカ毎度のお馴染みのヘルニアの腰痛が治ってきて、このゴミ出しなんて何てことのない作業だ。
この小さな家事が嬉しいのです。

    「快晴」の画像検索結果
     ネットからいただきました。

今朝もゴミを両手に空を仰いだ。このゴミを持つと空を仰ぐことはこの10年、すっかり私の習性になった。
早朝過ぎ、空には雲がない。
小さな月と星が微かにみえる。
どんな天気になるのかと考えてみたが、天気は悪くはなさそうだ。
青空は見えないが、充分快晴に思われた。

そして7時、保土ヶ谷区の権太坂の自宅から会社のある天王町に歩いて向かった。
青空で風が強く冷たい。
しばらく歩いて通勤することはなかったが、体の修復に合わせて、1か月前から歩くことにした。やっと、その気になった。
家を出るときの心身の苦痛がなくなった。
歩くことが凄く快感に思われるようになった。
その快感が一歩一歩体の全てに伝わって、頭の頂から足の指先まで、全てが調子良くなってきた。
向かい風に、頭が胸が腰骨が太股が膝が向かっていく。
横浜公園を縦に歩いた。トイレで少し休み、また元気に歩いた。
そして空が真っ青な状態であることに気づき、季節でもないのに、「天高く馬肥ゆる秋」なんて句を思い出した。
すっかり冬になったのに、こんな句を思い出したのは、私の頭が気分好(い)いのだろう。
そうか、私のお腹もこの早足(はやあし)で減ってきているのか、ただ、青空が気持ちいいだけではない筈だ。

そして今朝は風が強く冷たかった。この冷たい強い風が私の心を気持ちよくくすぶって、歩くスピードがすこぶる。
働くなくっちゃ、こんな気持ちになったのは不思議だ。
私の体はいつまでもその風を突っ張る。何故か足に力が入って背を張る。
お~い、どこにも悪い所がなさそうに見えるだろう。
こんな気分、久しぶりのことだ。

公園にある小池の表面は薄く凍っていた。この冬、初めてのこと。
わずかに残された凍っていないところで、鴨が4羽何もすることなくじっとしていた。陽が差してくるのをひたすら待っているのだろう。池面も、鴨も静かだ。
池の中の獲物も少なくなっている、虫も飛んだり跳ねたりしていない。
昨日まで居た6羽のうち、2羽は何処へ行ったのだろう。
2羽には2羽の考えがある、仲間外れか我が儘か。俺だって、何とか少し元気で生きたいものざ。

体を壊したこの3年間。ちょくちょく痛くなる腰痛から遠ざけることができるのだろうか、そんなことを鴨の仕種を見ていて感じた。
でも、今日の爽快感は何だろう!!
今は、12月の中旬、もうしばらくで今年は終わり、また新しい1年を迎えることになる。
そんなに、気持ちが改まるのを楽しく思う。
この快晴と私の体の修復を機会に、来年は頑張ってみたい。

2017年12月12日火曜日

精神科病院をなくした国

20171209の朝日新聞(夕刊)の記事を下の方に転載させてもらった。

何故、この新聞記事の転載をやらせてもらったのか、その記事を読んでもらえば解ることだけれど、私自身については貴重な記事だった。
法律を作って、精神科病院をなくしたイタリアが、日本の精神障害者を招いて料理や農業を教える。
教えられた側は、学んだことを日本でレストランの経営ができることを夢見ている。
こんなことを本気で考えている日本の精神障害者の団体と、精神病科院をなくしたイタリアが現実にあることに心奪われた。


色んな分野において、障害があるとか何とか言われることについて、私自身だって小学校のころから、なでじゃ?と思い詰めてきた。
 
現実に行われているやり方、制度が可笑しい? 何か間違っている?と思っていた。
先ずは小学校・中学校時代の「特別学級」だった。
この学級というのは誰がどういう方法でどのようにしてできたのだろうか。
私が在学中は、何是なんや?と思われることが多かった。
それでも仕方ないのだと思うようになっていた。
その後には養護学級だった。

★特別学級を、ネットで調べると、次のようなことが書かれていた。
学校教育法(昭和22年法律第26号 平成28年5月20日改正)の第81条第2項本文には、「小学校、中学校、義務教育学校、高等学校及び中等教育学校には、次の各号のいずれかに該当する児童及び生徒のために、特別支援学級を置くことができる。」と定められ、各号には次の者が掲げられている。
  1. 知的障害者
  2. 肢体不自由者
  3. 身体虚弱者
  4. 弱視者
  5. 難聴者
  6. その他障害のあるで、特別支援学級において教育を行うことが適当なもの
特別支援学級は、学校によって、養護学級育成学級心障学級障害児学級実務学級学習室総合学級個別支援学級なかよし学級あすなろ学級すみれ学級など、さまざまな呼び方がある。

昨夕、テレビを観ていたら色覚障害の子供の特集をしていた。
一般的な学習はさほど苦にはならないが、色の見分け方に障害のある子供が出ていた。
少し違がった赤色の靴下を、緑がかった赤だとか、青い色が少し混ざっているとか、真っ赤過ぎるとか、そのように話していた。
母も随分困っていたが、番組の最後にはこの子と良く会話を交わすようにして、子供の考えていることを知ることだと話していた。
治るものと治らないものとがあるらしい。
大学に入ってからは、色んな人と話すことが増え、そんな会話の中で、老人ホームや養護学校が施設として確固たるものを保持することになったことを、何故か社会の頼みごとを立派に行政庁・自治体がなしてくれていると評価していた。
そんな会話を聞いてから、日本は可笑しくなってしまったのかと諦めだした。
30年ほど前に隣接した老人ホームと養護学校が、時には垣根を失くして双方の交流をしようとしている事を聞いた。
これで、やっぱり自治体や施設の責任者は変わりつつあるのだと気を良くした。
卒業して会社勤めになってから、人間の多様性についてよく考える羽目になった。その多様性と言うことに就いてどれだけ相手のことを考えながら付き合えられるかということだった。
私は大学時代にサッカー部だけを本気でやってきたからか? 
チームメイトのことを必死で考えた。私が活かされるために、相手に何をしてもらいたいのか。
障害者だとか特別支援だとか言う前に、本人たちのその後の生活のために、何をしてやればいいのかが大事で、障害があるとか支援が必要だからと、唯、単に支援しているだけでは駄目だ。

ところがその後、子供への支援教育のなかで、広い社会で皆と仲良く暮らせるための事業がなされていることに気づいた。
学校を卒業してからの社会人としての役目を何とか担ってもらおうということだ。彼らが作ったケーキやお菓子、パンなどを買ってもらうための施設運営だ。
一生懸命に働いている人たちの顏や仕種を見ているだけで、私の心まで晴れてくる。

何是、このような稿を作成したのか、その原因は他にもある。
私には、互いの襟元を極めて広げ合った関係、腹の底から底までを紡ぎあった関係の友人がいる。その友人の行動が、私の頭から離れないからかもしれない。
実は、友人にはささやかな障害を持つ子どもがいて、その子どもと不思議な関係を友人が作ってくれたと感謝している。
友人にはおこがましくて、軽率には言えないけれど、私はこの子どものことが好きになった。
友人は毎日、自宅からこの子どもを自分の車に乗せて、子どもが通う学校の送迎車がくる駅まで送っている。
京浜急行の上大岡駅だ。
友人は、送迎車が来るまでの間の時間に何かを行いたいと考えた。
それは、時間の許す限り、自分たちでできる駅前の道路の掃除だった。
余り、人目の付くところは避けたいと想っているので、掃除の範囲はそれほど広くはないのです。
が、この息子の作業する行動が、ものの見事に立派なんですよ。恥じることなんて、な~んもない。
時には強い風が吹きつけ、折角ゴミ箱に納めたものが、思いの他吹っ飛んでいくときの、彼の慌てようは、子どもには悪いが、その仕種の面白さにウットリしてしまいました。
何よりも何よりも、この作業をなんと機嫌よくやってくれることか!

友人からの返事は、ヤマオカさん、私は幸せ者ですよ、だった。

20171216。
私の徒歩通勤路に、私の息子も20年ほど前に通っていた県立高校がある。
その正門の道路をはさんだ斜め前に、2,3年前に建築した老人専用の集合住宅がある。私はその住宅の前を歩いていて聞いた声が、今にも残っている。
介護士なのか、家族の人なのか、男か女の住む老人に向かう叱言だった。
その声は強い勢いだった。
そのお叱りの言葉が、そのうちもっと強くもっと強くなって、叱りから警告になって、肉体が躍動して、最後にはもっと気になる発言になって、老人が嫌がるようなことになったら、困るな、と考えた。
まして大きい道路から2メートルぐらいの部屋で、悲しいことが生まれないように願いたい。

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新聞記事は以下の通りです。

イタリア北部ボローニャの社会協同組合「エタベータ」で、調理の研修を受ける日本からの参加者=同組合提供

精神科病院をなくした国
イタリアで学ぶ共生とパスタ

障害者の支援団体「夢は銀座にお店」


精神障害者がイタリアに行って料理や農業を学び、将来は東京・銀座でレストランを開くーー。
障害者の就労支援をしている東京都内の団体がそんな試みを始めている。
イタリアは精神科病院が全面的に廃止され、精神障害者は地域社会で生活するのが基本だ。
イタリアに学ぶことで、障害者が働くことへの印象を変える狙いもあるという。
(ローマ=河原田慎一)

就労への自信作り
「イタリアで人情の温かさに触れ、物をつくる楽しさを知った。声を出す自信も持てるようになった」

イタリア北部ボローニャで9月から1か月間、パスタ作りなどの研修を受けた渡辺淳さん(31)は、そう話す。
日本では珍しい種類のパスタの作り方も現地で学んだ。
レストランで身につけた技術をメニューに生かしたいと考えている。

渡辺さんは大学在学中に「自分を追い込んでしまい」、統合失調症を発症。
今は精神障害者らの就労支援をする特定非営利活動法人「東京ソテリア」(東京都江戸川区)が雇用する形で週4日、事務作業をしている。
同法人には渡辺さんのような「利用者」が約20人いるという。

ソテリアは昨年、ボローニャで障害者の地域生活を支える社会協同組合「エターベータ」と業務提携を結んだ。
今年から毎月1人ずつ障害者を派遣し、エタベーターが運営する農園や調理場で研修を受けてもらう。

ソテリアは江戸川区内でカフェを開いているが、今度は研修を受けた障害者が中心となって、銀座周辺にイタリア料理の移動販売車を出せないか検討中だ。
軌道に乗れば、レストランを出店する夢もある。

障害者の雇用を巡っては、一定割合で知的・身体障害者を雇うことを企業に義務づける障害者雇用促進法がある。
同法の改正で、来年4月から雇用率を2・2%(民間企業の場合、現行2・0%)に引き上げる一方、精神障害者も対象に含められるようになる。

ソテリアの野口博文代表(47)は「精神障害者が働きながら、地域でのサポートを受けて生活できる仕組みづくりが必要だ」と指摘する。

地域交流の大先輩

イタリアでは1978年に「バザーリア法」と呼ばれる法律の成立で、精神科病院を廃止。
法に触れる行為をした精神障害者を収容する司法精神科病院も2015年に廃止した。
緊急時のみ一時的に居住できる施設があるほかは、基本的に入院はしない。
社会協同組合などを通じてケアや就労支援を受けながら、地域で生活する。

今回は、日本からの研修生を受け入れたエタベータは、レストランや農園、印刷工房などを運営。
約20人の障害者が職員として働き、年間5万ユーロ(約700万円)の利益を上げているという。

エタベータを行政の立場から支援してきた元ボローニャ精神保健局長で精神科医のイボンヌ・ドネガーニさん(66)は「精神障害者は危険だ、といった地域住民の偏見や心配はもちろんあった」という。
エタベータも、長年かけた地域との交流の積み重ねで受け入れられるようになった。

ドネガーニさんは「精神的ケアが必要になるのは、誰にも起こりうること、と理解されたからだ。むしろ、『病棟から地域へ』と意識を変えるべきは精神科医だった」と話した。

涙は出るが、啼かない哭かない

涙は出るが、啼かない哭かない。
「泣く イラスト」の画像検索結果
ネットで、このイラストをいただきました。

涙には下に記したように、基礎分泌、反射性分泌、情動性分泌の3種類があるとネットに書かれていた。
泣くという行為には、常に眼球に流れていて、目を乾かさないようにする基礎分泌。
目に入ったゴミなどの異物を排出する反射性分泌。
喜怒哀楽などの感情の高ぶりによる情動性分泌。
それでは、涙は何ものや?

何もこんなことを知るためにこの稿を書き始めたわけではない。京都の宇治市と滋賀県の大津市瀬田との間にあるみすぼらしい寒村で生まれ、宇治の高校、2年間の浪人生活、そして大学は都の西北でサッカー部の生活に明け暮れた。この大学ではア式蹴球部といった。
サッカーの日本一強い大学で、貧困な技術者の私は諦めなく過ごした。進学の唯一の目的は、他人の目は兎も角気にせずに、私自身のためにサッカーを楽しく過ごしたかった。私が上手だったわけではない、サッカー三昧に暮らしたかっただけのことだ。

学校に通い始めてから、勉強と何かを二者択一できなかった。
小学校の時は遊ぶことにエネルギーをいっぱい使えた。だから勉強は二の次で、6年生の時だけは勉強をよくした。6年生の学業成績は少しの期間保存するというのを聞いた。
そして中学校も小学校の時と同じで、3年生の成績だけは保存することになっていた。3年生の1,2学期だけはよく勉強した。
小学校や中学校では、組やクラスでは上位になり、学年では5番以内だった。

中学校では、遊び以外はバスケットボールに時間を割いた。
ところがバスケットボールとは性が合わなくて、私のやることは何でもカンでもファウルをとられた。好きになろうとしても、どうしても好きになれなかった。

そして高校時代。やはり勉強は相変わらず好きになれなくて、サッカーを励むことにした。だからと言って、強いチームにはなれなかった。
勉強は卒業してからやればいい、と決めた。大学受験に必要なボリュームは理解していたので、試験なんて怖くなかった。俺にだって、やればできると自負していた。
そのように、勉強のことはいつもいつも後の後になった。


早稲田大学ア式蹴球部

そんな私だったからか、喜怒哀楽の激しい学生生活で、何是、こんなに泣くことが多いのか、我ながら不思議だ。卒業後、ビジネスマンになってからも、涙とは切っても切れない。
苦しくて泣き、悲しくて哀しくて悔しくて泣き、嬉しくて笑った
この「泣き」が一体、どうしたことなのだろうか?と気になる日がある。
自らの功績に対する褒美として、友人や先輩たちに同情したり思いを共有したり。
「怒」については、学生運動とクラブ活動に興味があったので、どの怒についても微妙に神経質になっていた。怒りっぽくなっていたのは、何故かしら。

苦しくて泣く、悲しくて哀しくて悔しくて泣くについては、泣くは泣くでも良く理解できる。泣くを辞書で調べると、声をたてずに涙を流して泣くこともある。
苦しくても悲しくても、哀しくて悔しくても私には耐える力があった。
ちょっとぐらいの苦しいことや悲しいことなど、屁でもなかった。
私にはサッカー人としての能力がなかったが、どんな苦境に置かれても耐える力は持っていた。ここで頑張らないと、東京へ出てきた甲斐がなくなってしまう。
元々非才な私だから、こんなことで負けるわけにはいかない、判り切っていたことだ。

でも嬉しいこと楽しいことには、泣かないで笑った。
でも目には涙が溢れた。
単純に嬉しくて泣いたことはない。私の泣くは、啼くと書き著したい。
チームが勝って、優勝してもただ嬉しかったけれど、私自身について私自らがどうしても、いつまでも褒めてあげられなかった。
勝つことはとっても素晴らしいことだろうが、それは結果のことであって、泣くほどのことではなかった。泣かずに笑った。
そんな生き方だった。勝利の一部分に十分に入りきれたのだろうか。
自然に笑った。
勝利の仲間の中にはいるけれど、ぷっつんと、いつまでもいつまでも、独りぼっちだった。

辞書には次のようだ。
啼くとは、次々と声を出して続けて泣くこと。泣き叫ぶ、むさび泣くように使う。
人にも鳥獣にも用いる。
嬉しい時こそ、どうしたらいいのか? 感じたことがことがない情感だから、もしもそんな状況が押し迫ったならば、どうしたらいいのだろうか。
やっぱり、嬉しいときは、思いっきり笑いたい。
そして、何かを眺めることを忘れない。勝利の一々を克明に観察すること。

君は喜んで泣いてなんかいられないんだ。笑ってこそ、よく見極められる。

2017年12月8日金曜日

大雪(だいせつ)ざ

今日20171207は、二十四節気では大雪(だいせつ)だ。
今でこそ、大雪と言われてもビクビクすることはないが、最初、何じゃいなと驚いた。「おおゆき」と読まないで「だいせつ」と読むことを知ったのは、今から10年ほど前のことだった。

「冬のイラスト」の画像検索結果

大雪は、この17日だけではなく、冬至(今年は12月22日)までの期間を呼ぶ。
太陽黄径は255度。太陽黄径については意味がわかっていない。
小雪(今年は11月22日)から数えて15日目ごろ。

山岳だけではなく、平野にも降雪のある時節ということから大雪と言われたようだ。九州でも初氷が張り、全国的に冬一色になる。首都圏の1月前の今冬の天気予報では、降雪があるのは10日ほど、20センチ以上の積雪が見られるのは2日ぐらいでしょう、だった。
霜、氷、氷柱(つらら)、霜柱(しもばしら)、寒風、大根干し、鍋物、霜焼け、凍傷、霧などは、もう既にあっちこっちで、大騒ぎ中だろう。
気持ちの良かった秋が終わり、無性に気が重たくなる晩秋が過ぎて、これから春までは厳しい日々が続きますよ、しっかり体のことはお守りください、そんな暗号のようだ。

既に、スキー場のゲレンデには雪がいっぱい、スキーヤーがカッカかっかと雄叫びを上げている。
東北や北海道では、その降雪の凄まじさに根をあげることなく、除雪に苦しんでいるお年寄りの姿が痛々しかった。今年は早いですよとか、降る量がやたら多いんですよ。
熊の奴もそろそろ冬眠にはいるようだ。ときには人にだって襲ってくる奴だ。
私の生家は農業専科。農作物に被害を与える鹿や猪は、冬眠しない。此奴こそ冬眠してほしい動物なんだが。

冬の魚の漁も盛んになる。
例えば、鰤(ぶり)、鮟鱇(あんこう)、金目鯛(きんめだい)、鱈(たら)、平目(ひらめ)、いなだ、はまち、だ。
冬野菜も美味しいものがいっぱいある。
大根、白菜、ほうれん草、里芋、春菊、ブロッコリー、ネギ、小松菜、かぶ、カリフラワー、チンゲンサイ、水菜、人参、キャベツ、ごぼう、蓮根、だ。食べると体に暖気が湧くのだろうか。

12月に入ってから、セーターの下には長襟のシャツ2枚にズボン下を穿(は)きだした。もう少し気温が下がれば、必携のロッテのポカロンを腰の後ろに貼るつもりだ。体を冷やすのが、私の体にはもっての他だ。腰の激痛が戻ってくる。

こんなに苦しんだ腰痛がここまで回復してきたのだから、もう二度と嫌な想いをしたくない。
100円ショップで手袋を買わなくてはならい。

★ここまで文章を綴ってきて、友人たちに「なんだ!! ヤマオカ。お前そんなに冬が苦手だったのか? そんなことはないよな」と言われそうな気がして、この稿の仕上がりの悪さに気づいた。

子供の頃から、誰よりも誰よりも、寒さや暑さに負けたことがなかった。
夏は裸になったし、冬に寒さを感じた時には、母に何かを出してもらって重ね着した。
それで、私の春夏秋冬は平気だった。
他人に寒いとか、厚いとか言いたくなかった。






2017年11月30日木曜日

ミブ菜にチャレンジする

初めての野菜=ミブ菜にチャレンジする。京野菜の一つだ。

20171129(水)、朝8時からもう一度耕してミブ菜の種を蒔いた。
郷愁の野菜!!ミブ菜の種だ。
しつこく言葉を重ねる。数々の望郷の立地空間、その中で懐かしい気持ちに浸った。
太陽は暖かい日差しを畑いっぱいに、小春日和、目に入る世界を穏やかに静かに暖めてくれていた。
今日は種蒔きの日。私の心も何だか熱く弾けている。
1週間前の水曜日の22日に、予定地に苦土石灰を撒いて、耕した。
種類としては、アブラナ科アブラナ属だ。

苦土石灰とは、「ドロマイト」と呼ばれる岩石を使いやすいように粉状や粒状にした肥料です。炭酸カルシウムと酸化マグネシウムが主な成分で、「苦土」はマグネシウム、「石灰」はカルシウムのことを指します。

食物として特有の辛みと香りがあり、私はこの味覚が幼少の頃から気に入っていた。
なのに、郷里を離れて東京で暮らすようになってからは、水菜は食ったがミブ菜は食べたことがなかった。
水菜はサラダとして食べる機会が多かった。

厚さと寒さにも強く1年中育てることができて、一年中いつでも食べられた。特に関西では冬に野菜が不足がちになって、親しまれてきた野菜だ。

我がイーハトーブに空地ができた。隣地の人に貸していた畑の一部を、私にはもうこれ以上耕すことは無理なので、ここのこの部分は地主さんである貴方にお返しします、として畳2畳分位を戻された。
戻されたことは、そんなに嬉しいことでもなかった。何故なら、私自身の畑仕事は今のままで十分だったからだ。

その空地に何かを栽培するのは来春にしようと思っていた。
ところが、今は晩秋から冬。時節柄、ミブ菜の種があるのを思い出した。
何でもかんでも仕舞い込む抽斗(ひきだし)の中に入れていた。
このミブ菜は京都市壬生(みぶ)地方に古くから栽培されていたもので、生家での食事には鍋のお供としてよく使われた。
この地名の壬生(みぶ)が野菜の名前としてミブ菜になった。
ミブ菜を鍋物に入れると、肉や魚の臭みや苦味をとってくれる。

水菜には2種類あって、その一つは「水菜」。
ヒイラギのようにツンツンした細い葉柄をしている。
漬物、おしたし、サラダに使われる。
現在、生家ではこの水菜の温室栽培をやっている。温室栽培では除虫は難なくこなせるし、収穫も予定通りに行えて割と良品な農産物になっている。


もう一つは「ミブ菜」。
葉っぱが「ヘラ形」をしていて、葉の縁にヒイラギのような切り込みがない。前の方で著したように鍋や漬物に使われた。
私の郷愁心が湧いてきた。
生まれ育ったあの山野や川、田畑、私の貧しい家屋、それにこの味が加わったようだ。田舎が好きなんだ。
決して料理の上手ではなかった母が、ミブ菜を使った鍋物に関しては、何故か?自信ありげに作ってくれた。
料理の作法について何も知らない私には、そのように見えた。そして、これも何故か?私はミブ菜が好きになってしまった。



種の販売元である株式会社サカタのタネ社の、販売用の袋に書かれていたものをここに転載させてもらう。

京菜 広茎のキョウナ
 アブラナ科アブラナ属
・特徴:葉の切り込みが浅く、葉幅の広い京菜です。ミズナより濃緑色で黒みをおび、葉柄は太く肉厚でやわらかく、風味がよいので、漬け物や煮物に適します。

・タネまき:1m幅のうねに条間15cmでスジをまき、またはバラまきし、発芽したら込んだところを間引き、本葉2~3枚で株間10cmになるようにします。

・畑づくりと栽培管理:1m2当たり苦土石灰100g、完熟堆肥2kg、有機配合肥料60g(高温期は少なく、低音期は多めに)を施します。大株にする場合は、周りの株を収穫した後、少量追肥を与えます。

収穫:草丈が15cmぐらいから収穫します。畑に少し残しておき大株にして霜に当てますとと、風味が増します。春先のトウ立ちのころまで楽しめます。

2017年11月25日土曜日

コバルトーレ女川に激励

20171124の朝日新聞・夕刊を読んで、今、この「コバルトーレ女川」を無性に激励したくなってしまった。この記事を下に転載させていただいた。
どんなスポーツでも気を抜くことなく愛したいと思っている。
どんな部もどこのどんなクラブでも、他人には言えない苦しみは持っている。それぞれ悩みや苦痛や辛いことはある。
それでもお悧巧さんだから、何とか遣り繰りしながら、明日に向かって頑張っている。
だから? なのザ。目を瞠っていたい。私の心身供の健康のために。

そんな私の心眼に刺さった記事だ。

後日思いたつように。
どんな部でもクラブでも私が一度見たチームのことは、一生忘れない。一度見てしまうと、私のセンチメンタルな想いがどちらのチームに対してもはびり込んでしまうようだ。
双方のチームにひと目惚れする。
こんな惚れっぽい俺を、いつまでも付き合ってくださいな。



仮設住宅(後方)に隣接する練習場でミニゲームに汗を流すコパルトーレの選手ら=宮城県石巻

宮城県牡鹿郡女川町をホームタウンとするサッカークラブである。
東日本大震災で被災した宮城県女川町のサッカークラブ「コバルトーレ女川」が、日本フットボールリーグ(JFL)昇格にあと一歩まで迫っている。
選手らは避難所生活を経て活動を再開。東北リーグを制して24~26日、各地の覇者との決戦に挑む。

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女川サッカー全国リーグ目前
寮全壊 選手ら避難所経験

「震災復興見てもらえる」

「走れ」「パスをもっと早く」ーーー。女川町の隣の石巻市。人工芝のピッチに選手たちの声が飛び交った。練習場のネットを隔てて仮設住宅が今も残る。「住民の応援があって初めてサッカーができる」。震災前から在籍する主将の成田星矢選手(31)はそう語る。

東北リーグ2部だった2011年、津波で女川町の中心部は壊滅し、選手寮も全壊した。難を逃れた選手たちは避難所で暮らしながら、水や食料を配るなどのボランティアに奔走した。成田選手も避難所や勤め先の蒲鉾会社に寝泊りし、1か月ほどしてボールを蹴り始めた。近くの公園で子どもたちと一緒に遊ぶ程度だったが、「子どもの笑顔を見て頑張ろうという気持ちがわいた」と振り返る。同じく震災時かあら残る吉田圭選手(30)は勤め先の水産加工場で津波に襲われ、命からがら高台に上った。「毎日その日のことを考えるので精いっぱいだった」

チームの練習場だった町営グラウンドは自衛隊の支援拠点に変った。それでもチーム運営会社の近江弘一社長は「サッカーで私たちを元気づけて」という住民の声に押され、「1年間の休部後に再開する」と決意した。近江社長は「石巻日日新聞」の社長として、震災時に輪転機が止まりながら、手書きの壁新聞を作り続けた人物だ。

チームは震災半年後に練習を再開。翌年、東北リーグ2部から1部に昇格し、昨年、初優勝を果たした。JFL入りを懸けた「全国地域サッカーチャンピオンズリーグ」(地域GL)は、昨年1次ラウンドで敗退したが、今年も東北リーグ1部で優勝、地域GLで勝ち上がり、宮崎、千葉、京都のチームとともに、決勝ラウンドに駒を進めた。

4チーム中2位に入れば、JFL入りの夢がかなう。24日は千葉県市原市のグラウンドで、テゲバジャーロ宮崎と戦う。阿部裕二監督は「JFL入りすれば、全国から観戦に来た人に女川の復興ぶりも見てもらえる。この好機をものにしたい」と話している。
(加藤秀彬、森治文)
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これからの文章は、「コバルトーレ女川」のホームページより。

コバルトーレ女川は平成18年4月にアマチュアサッカーチームとして誕生しました。女川町を拠点地として活動し、平成29年のJリーグ加入を目指しています。そもそもなぜ東北の人口1万人に満たない小さな町にJリーグ入りを目指すサッカーチームが生まれたのか。
女川町は、漁業を中心とした港町。しかし近年は高齢過疎化が進み、若者がいないことで、主産業である漁業も衰退し、町から活気が失われていくことが懸念されていました。
チームには「地域貢献」という大事な使命があります。サッカーを中心とする活動で町を元気づけることが、クラブの存在意義です。また、選手たちは日中地元の企業で仕事をすることで、地域に貴重な労働力を提供することも期待されています
チームは平成18年度に石巻市民リーグに参戦すると、2年後には東北社会人リーグ2部に昇格、21年度には東北社会人リーグ1部昇格を決めるなど大躍進を遂げました。しかし、翌年1部リーグでの戦いは主力メンバーの負傷など不運も加わり成績は振るわず、結果は8位。わずか1年で2部に降格することになりました。
再び1部昇格を目指して臨んだ平成23年度。しかし、この年はリーグ開幕の直前に東日本大震災が発生してしまいました。
「とにかく活動してほしい」。震災後、サッカーをすることに後ろめたさを感じていた選手たちに、サッカーをするよう後押ししたのは女川の人たちで、「活動を再開することが町の元気につながる」と言ってくれました。
そして2012年4月22日。コバルトーレ女川はリーグ戦のピッチに再び立つことができました。
復帰戦となった開幕戦は5-0で快勝。その後もリーグ戦で快進撃を続け、24年度はリーグ2位の成績を収め、再び1部昇格を掴み取りました。


震災以降人口が1万人から7,500人まで減少した女川町に計り知れない恩恵をもたらすはずです。

設立当時から描いていたJリーグ入りという目標。それは、未曾有の震災を経ても崩れることはなく、今や女川町が一体となって目指す大きな目標となりつつあります。

小春日和

昨日11月24日(金)の朝の天気予報で、昨日も暖かったが今日も暖かいと思われます。ですが、来週の水曜日はこの晩秋から冬にかけて、一番気温が上がると思われる、だった。

それから、本格的な冬に向かって、気温がどんどん辛く哀しくなるのは、みなさんがよくよく解っているでしょうが、そう無情に寒くなるだけではなく、時には暖かい日もあるのです。その日は、暖かさは春のように暖かく穏やかな晴天になる。
それを、小春日和と言うのです。

その最高気温が出ると思われるのが、来週の水曜日です。
多分、最高気温は19度まで上がるようです。仕事の為自宅を出かける何とも言えない時間に、小春日和。このようなちょっとしたコメントだけでさえ、嬉しくなる。

それで「小春」とはいつの頃なのか? 
比較的暖かい気温と言ったって、どのぐらいの気温差があれば、このような「日和」といわれるのだろうか、と考えてしまった。
ネットで調べたら、旧暦(陰暦)で10月のこと。新暦(太陽暦)では11月から12月。
小春日和の前後日とは、最高気温が5度以上違う。その日も、最高気温と最低気温の差は10度以上になる。

当然、俳句では冬の季語になる。

私の故郷では、10月の終わりごろから松茸や雑茸(ぞうたけ)の収穫に精を出していた。男兄弟3人と母と父。
収穫量は、三男坊の私は一番収獲が少なく、長男が一番多く採り上げた。多く収穫して知人や親戚に分け与えた。
この山はヤマオカ家の所有ではなかった。
区所有の山を分配図面にし、その分配図面ごとに希望者が入札(投票)した。我が家は入札額よりも収穫量に自信があった、だから高値だったのだろう。
知り合いたちと競い合って得たものだ。特別廉く権利を得たわけではなく、ヤマオカ家流の収穫量を多くする知恵をつけていた。
こんなことで、どこの誰にも負けない知恵を、本能的に我が家は持っていた。


(デジタル大辞典より)   初冬のいかにも小春らしい穏やかで暖かい日和
[補説]文化庁が発表した平成26年度「国語に対する世論調査」では、本来の意味とされる「初冬の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が51.7パーセント、本来の意味ではない「春先の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が41.7パーセントという結果が出ている。


(日本大百科全書より)   小春は、陰暦10月の別称で、小(こ)六月ともいう。太陽暦ではほぼ11月から12月上旬に相当する時期である。そのころの穏やかな好天が小春日和で、日なたは暖かいが、日陰はひんやりしており、夜は冷え込む。

低気圧が平地に雨、高山に雪を降らせて日本の東に抜けたあと、大陸から高気圧が張り出して、気圧配置は西高東低型となり冷たい北風が強めに吹くが、翌日は大陸高気圧は移動性となり、風は弱まって小春日和となる。季節が進むと、暖かい好天は「冬暖(ふゆあたたか)」「冬日和」などとよばれる。[平塚和夫]

2017年11月19日日曜日

「青春の逆説」 織田作之助

  
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      織田作之助

無頼派とかデカダン、新戯作派とか言われていた仲間たちの著作を、ある時期に興味をもって多読していた。今回の本の著者は織田作之助だ。親しみを込めてオダサクと言われていた。

その後、無頼派、私はいろんな作家のいろんな小説や小論を読んで愉しい思いをした。当然、誰もが面白いだろうと思う数々の本だ。
この無頼派では、太宰治の「人間失格]、「斜陽」ではなく、「お伽草子」、「富極百景」。
太宰治の墓前で自殺した田中英光の「オリンポスの果実」、坂口安吾の「桜の森の満開の下]、「堕落論」。
当然各氏には有名な作品はいくつもあるのだけれど、その中でもこれらの本が無性に面白かった。
織田作之助編では、特に「青春の逆説]「夫婦善哉」が面白かった。
在学時代、卒業して幾年か過ぎたころだ。
この本は、1941年、昭和16年、1月に東条英機陸軍相が、「生きて虜囚の辱めを受けず」を含む「戦陣訓」を全軍に通達した。世界中が戦火に溢れるのを待つが如し、それぞれの国が戦争のための準備にたけなわだった。そんな時流のさなか、発売された。
でも、内容が戦火溢れる時期にどうしても相応しくないと判断され、廃刊になった。

ところが、今回の「青春の逆説」の再読で、当時、そんなに面白かったかなあ、と思い返してみても、それが解らない。確かに、行間の意味に心振られたことはあった。
私も、生まれは京都の外れ。
本の中の会話などに使われる言葉の種類や使い方に、同じ地方の出としての共感があった。関西弁や関西訛り。
だが、「青春の逆説」を今、再読していて、何故、あの時にそれほど興味をもっていたのか、今は不思議に思うことがある。私自身の頭の中が狂い駆けているのか。
物語の進捗が早々に進む、その廻り舞台のように変幻自在な筋道が面白かったのか。

ところで、この「逆説」とはどういうことかと、デジタル大辞典で調べてみた。
①一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。②ある命題から正しい推論によって導き出されている結論で、矛盾をはらむ命題。③事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論理を容易に示しがたい論法。ーーということらしい。

ちょっと恥かしさを投げ捨てて言わしてもらえれば、この「逆説」って、50年程前に関西地区で人気のあったテレビ番組「スチャラカ社員」の青春物語のようなものだろうか?
TBS系列の朝日放送制作のコメデイ番組だった。
個人的な思い違いかもしれないので、気楽に読み過ごしてください。

大学に入って、本を読む喜びを覚えたのだが、、、、、、、このオダサクの何処がどんなに面白かったのか、、、、だが、愉快だったことは間違いない。振り返っているが、なかなか文章としてその情感を著せない。
この「青春の逆説」を読んで、やはり後々のために粗筋を書き残すことにした。作成に原本の文章を利用させてもらう。

山岡は馬鹿なことを言うと、笑われるかも知れないが、この本の書名である「青春の逆説」の逆説とはなんどや?を知るために、粗筋を綿々と書いてみた。本文を出来るだけ沢山引用した。

★まだまだ、完成には時間がかかりそうだが、兎に角書いたところは公開します。
じわじわ、完成させますので、気長に付き合ってくださいな!!
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お君と軽部。
お君が軽部と結婚したのは19の時だった。
軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃を習っていた。
校長の驥尾(きび)に附して、日本橋筋5丁目の浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を注文したりしていた。

お君は毛利金助のひとり娘だった。金助の妻は糖尿病で、お君が16の時に死んだ。
お君は大人並みに家の切り回しをした。
炊事、針仕事、借金取りの断りなぞ。父の作った写本を得意先に届ける役目もした。

お君が上本町9丁目の軽部に写本を届けに行った。やがて、軽部は小宮町に小さな家を借りてお君を迎えたが、この若い嫁に「大体に於いて満足している」と、同僚たちに言いふらした。お君は働き者で、夜が明けるとぱたぱたと働いていた。

軽部の留守中、日本橋の家に田中新太郎が訪れた。田中は朝鮮の聯隊に入営していたが、除隊になって昨日帰ってきたところだという。
お君はこの田中に唇を三回盗まれたことがある。田中は体のことが無かったことに大変悔しがっている。
そのことをお君は軽部に話した。
軽部は憂鬱な散歩に出かけた。

翌年の三月、男の子を産んだ。生まれた子は豹一と名付けた。
日本が勝ち、ロシアが負けたという意味の唄が未だ大阪を風靡していたときのことだ。

同じ年の暮、玉突屋日本橋クラブの2階広間で広沢八助連中素人浄瑠璃大会が開かれた。軽部村彦こと軽部八寿はそのときはじめて上座に上った。
軽部は熱演賞として湯呑一個貰った。
軽部は、はじめてのことだから露払いを済ませ、あと汗びしょりのまま会の接待役としてこまめに立ち働いたのが悪かったのか、風をひき寝込んだ。急性肺炎になりぽくりと軽部はなくなった。

お君の身の振り方に就いて、お君の籍は金助のところに戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、お君に口をきけなかった。
実家に戻ることになり、豹一を連れて日本橋の裏長屋へ帰ってみると、家の中は呆れる程汚かった。お君は一張羅の小浜縮緬の羽織も脱がず、ぱたぱたとそこら中のはたきはじめた。

5年経ち、お君が24、子供が6つの年の暮、毛利金助は不慮の災難であっけなく死んでしまった。
耄碌していた金助が、お君に50銭貰い、孫の成長と共にすっかり老い込み、孫の手を引っ張って千日前の楽天地へ都築文男一派の連鎖激を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車に引かれたのだった。
毛利のチンピラと言われていた豹一は、救助網に跳ね飛ばされて助かった。

その夜、近所の質屋の主人がやって来て,おくやみを述べた後、金助にお金を融通したことを話した。預かっていたのはこれです、と見せたのが、系図一巻と太刀一振りだった。金助の家柄は立派だった。そんなことはお君は何も聞かされていなかった。

お君は上塩町地蔵路地の裏長屋に家賃5円を見つけて、そこに移った。
「おはり教えます」の看板を吊るした。
裁縫は絹物、久留米物など上手とはいえなかったけれど仕立物を引き受けた。月謝50銭の界隈の娘たち相手に針仕事を教えた。

毎年8月の末に地蔵盆(さん)の年中行事が行われ、お君は無理して西瓜20個寄進し、薦められて踊りの仲間にはいった。お君が踊りに入ったため、夜2時までとの警察のお達しが明け方まで忘れられた。

長屋の女に、お君の首筋に生ぶ毛が生えていることを言われ、散髪屋に立寄った。剃刀が冷やりと顏に触れた途端どきっと戦慄を感じた。
皮膚の上を走っていく快い感触に、思わず体が堅くなった。軽部を思い出した。

散髪屋の村田が、お君に気を持って、セルの反物を持ち込んで、縫うてくれと頼みにやってきた。豹一は寝そべっていたが、いきなり、つと起き上がると、きちんと両手を膝の上に並べて、村田の顔を見詰め、何か年齢を越えて挑みかかって来る眼つきだと、村田は怖れ見た。

豹一は早生まれだから、七つで尋常1年生になった。
学校での休憩時間には好んで女の子と遊んだ。
そして、男の子を1人2人、1週間に5人も殴った。
豹一は教師の顔を見なかった。それは、身なりのみすぼらしさを恥じていたのである。1つには可愛がられるということが身につかぬ感じで、皮膚はもう自分から世間の風に寒く当たっていた。

8つの時、仕立ておろしの久留米の綿入を着せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。
尋常2年の眼で「野瀬」2字を判読しょうとしたが、頭の血が引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、1人で寝た。

母は階下で見知らぬ人といた。ことし48歳の野瀬安二郎だった。
野瀬安二郎は谷町9丁目いちばんの金持ちと言われ、欲張りとも言われた。高利貸をして、女房を3度かえ、お君は4番目の女房だった。

安二郎が、ある日、豹一に淫らな表情で、お君と安二郎のことに就て、きくにたえぬ話を言って聞かせた。豹一は眼がぎらぎら光って、涙をためていた。
誇張して言えば、その時豹一の自尊心は傷ついた。
人一倍傷つき易かった。辱められたと思い、性的なものへの嫌悪もこのとき種を植えつけられた。持前の敵愾心は自尊心の傷から膿んだ。

だんだん憂鬱な少年となり、やがて小学校を卒業した。
お君は安二郎に中学校に行かせて欲しいとたのむが、なかなか承諾しなかった。頑張るお君に安二郎は狼狽して、渋々承知した。しかし、安二郎は懐を傷めなかった。
お君はどこからか仕立物を引き受けてきて、その駄賃で豹一の学資を賄った。
が、実は入学の時の纏った金は安二郎に借り、むろん安二郎はお君から利子をとる肚でいた。
仕立物に追われ、お君の眼のふちはだんだん黝んで来た。

中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。
そのためかえって馬鹿にされていると気が付くまで、相当時間がかかった。
彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬(ひぜん)のように皮膚に繁殖させていた。

入学試験の日、試験中に尿意を催した。
下腹部を押さえたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。試験官に言うに言われず、坐尿してしまった。
入学試験には受からないと思い込んでいたが、合格した。

同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。
豹一の家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのが嫌だった。

豹一は顔色が変わる位勉強した。自分の学資をこしらえるために夜おそくまで針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持ちだった。
何かの間違いだろうという心配があった。いつか、首席が渾名になってしまった。

1学期の試験前日、豹一は新世界の第一朝日劇場へ出かけた。
マキノ輝子の映画を見、試験場へのプログラムの紙を持って来て見せた。此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった1人クラスを乱す奴がいるので、1ぺんに評判が下がってしまった。

やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。
普通、級長のせぬことである。3日経った放課後、沼井を中心に20人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。2学期の試験。
豹一は書きかけの答案を周章てて消した。白紙の状態だ。
はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。
でもこの満足をもっと完全になるために、もう3月かかった。白紙の答案を補うに充分なほどの成績をとって進級するところを見せる必要があった。

水原紀代子に関する2,3の知識を得た。
大軌電車沿線S女学校生徒だ。授業をサボって周章てて上本町6丁目の大軌構内へ駆けつけた。澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。
うまく会えたのだが、紀代子は嗤って振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止まっていた。
そして、何日間は上手くいかないままだった。
ところが、その後何日間した頃、何故なのか、豹一に紀代子は「好きです」と小さな声で答えた。紀代子ははじめて、豹一を好きになる気持ちを自分に許した。

だが、十日も豹一を見ないと、彼女はもはや明らかに豹一を好いている気持ちを否定しかねた。紀代子は豹一を嫌いになるために、随分努力を図った。
毎日、許嫁の写真を見た。許嫁は大学の制帽を被り、頼もしく、美丈夫だと言っても良い程の容貌をしていた。

「今夜6時に天王寺公園で会えへん?」紀代子のほうから言い出した。
その頃、夕闇せまれば悩みは果てしないという唄が流行していた。
藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。
時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上がるような痛い感触だった。

文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。
豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。そんな交際が3月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。
もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書き連ねた手紙を手渡したぐらいなものだった。
でも、3か月、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。
紀代子は卒業して結婚の日が迫ってきていた。

谷町9丁目から生玉表門筋へかけて、三・九の日「榎の夜店」の出る一帯の町と生玉表門筋から上汐町6丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと7,80あった。

野瀬安二郎が大工をやとったので、人々はあの吝嗇漢(しぶちん)がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。
運よく隣の家が空いた。
造作工事は、暖簾には「金融野瀬商会」。別の看板には「恩給・年金立て替え  貯金通帳買います 質札買います」とあった。
豹一は、この店の応待をやらせられた。質屋へ行く仕事も命じられた。
嫌だったけれど、野瀬に食って掛かるのを思い止まった。

ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
そこで、高等学校へ行く気はないかと聞かれた。
校長は候補者として、豹一と同じクラスの沼井と、4年F組の播磨だと言った。
沼井と聴いたからにはもう豹一は平気ではいられない。
元来が敏感に気持ちの変り易い彼は、高等学校へ行ってみようかという気になった。

ある篤志家がいて、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。
それには条件があって、品行方正の秀才で4年から高等学校の試験に合格した者。
それも一高と二高と三高に限る。合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。自高では4年から一高か三高へ入れるのは君ぐらいだからな。

翌年4月に三高の文科に入学した。
秀英塾を出ると神楽坂だが、豹一は神楽坂を避けて吉田山の山道へ折れた。
神楽坂の上にあるカフェの女が変な眼つきで彼を見たからである。

塾と言っても、教師はおらず、ただ3年生の中田が塾長の格で熟成を監督し、時々行状を大阪の出資者に報告するだけだった。
塾生は塾以外の飲食は禁止、学校のホールでも珈琲も飲めない。昼食は弁当。
十人分の飯を入れた御櫃と、菜を入れた鍋を登校の際交替(こうたい)で持って行く。夕食後の散歩は1時間、午後7時以降の外出は特別の事情がない限り許されない。

繁華街からの帰り、吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。
門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼り出されていた。母からの手紙だ。五円紙幣が2枚、お君は内職のもうけたお金を豹一に送ってきた。

いきなり後ろから肩を叩かれた。同じクラスの赤井柳左衛門だった。
「町へ行こうか、戻ろじゃ吉田、ここは四条のアスファルトだな」。
二人は京都へ出かけることにした。赤井は「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ」。
「彼らは郷に入れば郷に従えと言いやがるんだ。それは僕も知っている。
しかし、彼らが郷に従うのは彼らの無気力のためだ。彼の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」

豹一は父親に愛されている赤井と、憎まれている自分とどっちが幸福かと、大人じみた思案をした。二人は寺町2条の鑰屋(かぎや)という菓子舗の2階にある喫茶室へ上って行った。
三高生たちの記念祭の歌と乱舞に騒がしかった。このお店のお駒ちゃんがげらげらと笑いながら、すっと奥へ引っ込み、また顔をだす。

今度はコマドリへ行こうと、三条通りから京極へ折れようとしたら、赤井が「此処を通ろう」とわざわざ三条通りの入り口からさくら井屋のなかへはいり、「これが僕の楽しみだ。ちっぽけな青春だよ」「さくら井屋には旅情が漲っている。
あそこには故郷の匂いがある。
そして赤井は「うわ!」とわけのわからぬ叫び声をあげた。フラダンスの踊り子のように両手を妖しく動かせて、地団太を踏みながら長い舌をぺろぺろ出し入れした。
「どうも僕は3日に1度あんな発作が起こって困るんだ」
「僕の行為は軽蔑に値するか知らないが、しかし、肉体の開放は極く自然なんだ。
不自然な行為のかげにこそこそ隠れているより、大胆に自然の懐へ飛び込んで行く方が良いんだ。汚れてもその方が青春だ」

芸もなく赤井と一緒に興奮して、青春だ、青春だと騒ぐのが恥ずかしいのだ。つまり彼は自分の若い心に慎重になっていた。
彼は赤井の若さに苛立っていた。赤井は豹一が少しも自分に共鳴しないのを見て、酔わす必要があると思った。二人はそれから大いに飲んだ。
豹一は今まで飲めなかったけれど、続けだまに飲んだ。反吐を吐いた。
豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。
岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。
塾長の中田は豹一が掟を破ったことを認めていた。
豹一は前後不覚になってぐっすり眠っていた。

5月1日、記念祭の当日になった。各自、各クラスで仮装行列や模擬店がはじまった。入り口には破れ帽やボロ布や雑巾が垂れ下がったいた。
その一つに浜口雄幸氏三高時代愛用の褌などまであった。南寮五番の部屋まで来ると、そこには「西田哲学」という題で、はいると「絶対無」と書いた部屋があった。
そこに赤井がいた。赤井は裸の体にボール紙の鎧をつけ、兜を被って、いかにも虎退治らしい装(いで)立だった。

豹一のクラス・文科1年甲組の仮装行列がはじまる前で、教室には誰もいなかった。彼はクラスの者が仮装用の費用に出す1円ずつの金を集めれば50円になる。
その金でパンを買って皆でグラウンドへ担いで行き、グラウンドを1周してから代表者がそのパンを養老院へ持って行って寄付する。
これは全員に反対された。
仮装は「酋長の娘」という無意味な裸ダンスに決まった。豹一は参加しなかった。
野崎は、大阪訛の抜け切らぬ口調で,参加しなかった
忘れ物が多い学生で、でも豹一に対しては底抜けのお人善しだった。

そのうち豹一はお駒と散歩することになった。豹一は余りにも恋愛を知らな過ぎた。
どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼にはできなかったのだ。

ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを浮かべて通り過ぎてしまった。
でも、鑰屋へ豹一の姿が現れない。お駒との恋愛は2ヶ月で終わったのだろう。

赤井は此の半年間、1人の女に通い続けていた。寮費を滞納し寄宿舎を追い出され、鹿ケ谷の下宿へ移った。
家から送られてきたお金はその女に注がれていた。野崎が自分の自分の授業料を滞納してまで、赤井の費用を立て替えていた。

野崎は赤井や豹一と一緒に四条通りへ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。
宮川町が見える「八尾政」へビールを飲みに入ったりすると、もうやることは決まっていた。資金が必要だった。
京都にある2軒の親戚から借りることもできなくなっていた。野崎はそのお金をなんとかしてくれた。
お金のない豹一と野崎は喫茶室で、八重ちゃんと呼ぶ綺麗な女の子を眺めていた。それから、あっちこっち歩き回った。
野崎さん、今日は何入質(いれ)はるんどす?と言われて考えてみたが、なかった。結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルで2円50銭貸してくれた。
4条河原町の長崎屋でカステラを食った。紅茶を飲んだ。
午後2時半になって京極で活動を見た。
午後5時。赤井は首長くして待っているだろう。
喫茶店に2回、うどん屋へ2回入りそこら辺当てもなく彷徨い歩いているうちに夜が更けてきた。
赤井が待っているだろう。

豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。
そして首席になる決心を断念した。今のままでは進級も危ない状況だった。

校門をはいって直ぐ右手に古い建物のなかで、及落決定の教授会が開かれた。
豹一、赤井、野崎の3人は欠席日数が既定を超過していると聴いて、3人とも落第した。3人は朝から助けてもらおうと、教授宅を訪ねていた。

豹一と赤井、野崎らはまず「リプトン」へ行き、「ヴィイクター」へ、そして長崎屋の2階へ上がった。豹一は三高を辞める覚悟をしていた。
その夜のうちに荷物を纏めて朝運送屋へ頼み、赤井と野崎と落ち合った。
豹一は二人に見送られ四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。

学校を止めた豹一は、毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。
まずは製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、履歴書を送った。面会の日、7,8人の試験官の眼がいっせいにじろいと来た。
1週間後、不採用の通知が来た。
ある日、「調査係募集。学歴年齢を問わず。活動的人物を求む。某財閥直営会社。本日午前10時中央公会堂2階別室にて面会す」という広告を見て、中央公会堂へ出かけた。若すぎるとのことで不採用。

翌日、勝山通りの「日本畳新聞社」へ出かけた。戸をあけると、三和土度(たたきど)の右側に四畳半位の板の間がり、机と椅子が二つ窓側に並び、そのうしろに帳簿棚が、その前にも机と椅子があった。勤務時間は午前9時から午後5時まで。月給は42円、賞与は年末に1回、月給の10割乃至(ないし)12割。仕事は帯封書き、帳簿の整理その他雑事があった。1週間後、営業主任の園井が来た。園井の仕事振りは一分の隙もなかった。真剣そのものだった。社長は2階で裸でせっせっと記事を書いていた。

社長と園井が印刷所へ出張校正に行った留守中、妻から豹一は呼び出された。一昨年に彼女は社長の奥さんが死んだ後釜に入った。「わてのこのお腹のなかにたまっている、いやや、いやや思う気持ちを一ぺん正直にかいてほしいんどっせ」、そして、彼女はこまごまとと、身の上話をはじめた。

その後、ややこしい雑事に身を焦がしていたが、流石にこの会社で仕事をやりこなせる自信がなくなった。その雑事のなかで、「僕は今日限り廃めさせていただきます」わりに丁寧な声が出たので、われながら気持ち良かった。この会社を辞めることにした。

千日前法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明かりが寝ぼけたように揺れていた。何か暗澹とした気持ちになった。前方には光が眩しく流れている戎橋だった。
その光の中で飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて豹一の顔を見た。その女性が、紀代子だった。2,3間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。
紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を醜く思った。豹一は未だ少女のような顔をしていたのだ。
彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。

半時間ほど戎橋筋を駆けずりまわったが、紀久子の姿は見つからなかった。女の顔が5つ、6つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。まるでカフェのような喫茶店だった。眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来た。「あんた、ボタンがとれちゃっているよ」と豹一の上衣にさわった。よし、この女を恋人にしてやる、だしぬけにそう決心した。もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。ルンバの騒音は豹一の声をほとんど消していた。色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。

彼女の手を握るきっかけを、何とかつけるために100数えて、そしたらその瞬間に手を握るのだとして、早速数を数えはじめた。そして100になって、彼女の手を握った。そしたら、銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来た。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。男は豹一を連れて御堂筋へ、南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。この男、勝の手が伸びてきた。拳骨が飛んできた。

勝に連れて来た弥生座の舞台にレヴュー「銀座の柳」の幕が上がった途端、2階の客席からあ奇声があがった。東銀子が主役の踊り手と思ったが、後列の隅の方で沢山の踊り子にまじって細い足を無気力に上げている子が東銀子だった。東銀子があ入団したとき、文芸部の北山が男優一同に、此の子にさわるでねえぞ!と駄目押しをした。

北山や銀子がしわがれた声で歌いだした。その銀子に打ちひしがれた豹一を見つけた。「あら、誰や倒れたはるわ。銀ちゃん、見て御覧」。豹一はしょんぼり立ちあがって、すごすご路次に出て行った。道頓堀の勝はとっくに姿を消していた。

父親である安二郎は、子供にあたる豹一から炬燵代も負担させたいと考えていた。食費何円何銭、部屋代何円何十銭、電気代何円何十銭、水道代何十銭。今月から〆て何十何円何十銭を豹一に払わせることにしよう。お君には電気座布団の線をはずしてくれるように言った。電気代を節約するためだ。
お君は、針仕事の賃から1円紙幣や50銭銀貨を針箱の抽出へこっそり隠していた。

母に日本畳新聞社を辞めたことを話した。住むことの経費は請求書を出してもらえば結構ですと母に言った。用談を済ますと、豹一はいつもの畳新聞社へ出勤するさっさと家を出た。

畳新聞に代る会社を探さなくてはならない。「社会部見習記者一名」、「応募者ハ本日午前九時履歴書オ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」。そんな三行広告が新聞に出ていた。東洋新報の受付に行った。まずは一人一人履歴書を調べた結果、100人ほど筆記試験を受けた。出来上がった答案用紙を持ってきてください。
1、作文「新聞の使命に就いて」
2、左の語をか解説せよ。
 lumpen
 室内楽
 A la mode
 platon

答案を書いていると、ふっと鑰屋(かぎや)のお駒や紀久子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持ちで頭に浮かんだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛かって書くようなのは、新聞記者としては失格だという編集長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章を早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だということだ。結局、豹一の答案が一番出来が良かった。
lumpen(ルンペン)について、豹一はかくのごとく答案した。
「独逸語で屑、襤褸(ぼろ)の意、転じて放浪者を意味する。日本では失業者の意に使う。しかし、ルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集まった失業者はルンペンではない」と、編集長自身にも書けない立派な答案だった。

豹一は今まで、大学時代はただ慇懃な態度が欠けていた。他人を媚びることをいさぎよしとしない精神が、不遜に見せただけのことだろう。ところが、銀行や商事会社ならいざ知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされない。どこで働きたいかとの質問に、内勤が希望ですと答えた。今日は帰っていいが、明日は9時だ。局長室を出た途端に、筆記試験の時檀上で妙な質問をやった男に、お茶を飲みに行こうと誘われた。

社の近くの喫茶店に着いた。誘った男は、さきほどの男は販売部長や。天気予報の名人やと自称しとるが、毎日空模様を見て、その日の印刷部数を決めるのがあの人の仕事や。雨が降ると、立売が3割減る、雪なら4割減る。

誘った男の名前は土門だった。社会部だ。喫茶店に入って、豹一に金を貸してくれと言った。豹一はいいですよと了承しながら、財布を開けて、50銭でええ、と言いながら1円にしてもらおう、やっぱり3円とってしまった。このお金は返します、但し1年以内に、、、。時々催促してください。豹一は莫迦にされているような気がした。
「僕は君が気に入ったよ君の貸しっ振りはなかなか良いところがあるよ」

「しかしまあ、とにかく名刺を作ることだ。君のような可愛い顏をした男が、半鐘が鳴って火事場に駆けつけても、名刺がなければ通してくれないよ。八百屋お七が変装して吉三に会いに来たと思われるぜ」、と土門が言った。

編集長にも気をつけてくれ。創業当初のある日、頗る美人で名門の出の社長の女秘書が、編集長と同じ部屋にいたんだが、いきなり辞意を表明した。社長が編集長を呼びつけて、美人の秘書の前で、越中褌一つで平気でいる土門に褌一つで平気でいるところを見ると、奴さんは女に興味がないようだ。褌は困るね。せめて汚れのない奴を使ってくれ。

豹一は土門の話よりも、土門の煙草を吸う動作にすっかり気を取られていたので、腹を立てる余裕などなかった。煙草から煙草へと火を吸い移す。話し振りの飄々たるに似合わぬ、なにか苛々とした焦躁がその吸い方に現れていた。豹一はなぜかその土門の苛々した態度になんとなく奇異なものを感じた。

その日の夕方の6時に豹一は弥生座の前で土門と落ち合った。幾ら待っても土門は来なかった。土門が来るまでに大急ぎで土門のことを述べよう。土門は自分では50歳だと言い触らした。本当は36歳。50歳だとすると、つまり土門は20年間東洋新報に勤めている勘定になる。じつは東洋新報は創立以来まだ10年しかならぬ。
毎年1回昇給するとその翌日は必ず洋服を着替えて出社、「おかげをもちまして質受けできました」と真夏に冬服だった。編集会議などでは、糞真面目な議論をやった。観念的だとか弁証法的だとか、妥協を知らぬ過激な議論をやった。
退社時間の6時が来ると、いきなり目覚まし時計が鳴りだし、悠々と自分の机の目覚まし時計を停め、さっさと帰った。
「人間の幸福は社会の進歩にある」「文化人になりたいか?よし、50銭出せ?文化人にしてやる!」
社会面の特種以外に映画批評も担当したが、「キングコング」のような荒唐無稽な映画だけを褒めた。飛行機や機関銃の出てこない映画はつまらない。日本の映画は大都映画。レヴューが好きで、弥生座のピエロ・ガールスのファンで今待ち合わせをしたのも、このピエロ・ガールスを見るためだった。

豹一と土門は弥生座に入った。入るのに入館料を払っていない。「取るなら、取れ! 但し、子供は半額だろう?]舞台では「浪人長屋」という時代物の喜劇だった。土門は豹一と並んで座ると「一(ぴん)ちゃん!」と怒鳴った。長い顔をした浪人者が、土門の顔を見つけるといきなり頭に手をあてて、あっという間に鬢を取ってしまった。あれは中井一だ。顔が長いから長井一と呼ぶ奴もいる。俺の親友だ。
「森凡(もりぼん)!」ひどくしょんぼりした顔の小柄な浪人者に土門は、あれも親友だ。

やがてレヴュー「銀座の柳」の幕があいた。土門は豹一に、「後列右から2番目の娘に惚れるなよ」豹一はその娘を見て途端にどきりとした。足に見覚えがある。先刻弥生座の前で土門を待っていた時、鮮やかな印象を風の中に残してさっと通り過ぎた少女にちがいはない。なんと言う子ですかと土門に聞いたら、「東銀子」と答えた。削り取ったような輪郭の顔に、頬紅が不自然な円みをつけていた。
土門はなにか狼狽したありさまを見せていた。そして、「帰ろう」と言い、席を立って歩いて行った。豹一は後を追った。弥生座を出た。

弥生座を出ると、雪だった。2人は喫茶店に入った。それから土門は電話で弥生座の文芸部の北山さんに電話した。話した内容は、貴様も50なら俺も50歳だ。年に不足はあるまい。おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。可憐な東銀子のような娘を食うのは貴様のような助平爺(じじい)ひとりだ!おれの居る所へ半時間以内にやってこい。
豹一は東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議していることだとわかり、打ち消しようもないないほど、心の曇りは深かった。中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また高等学校時代鑰屋(かぎや)のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかった。
豹一が東銀子に惚れていることを見抜かれたと、朱くなった。

「惚れても駄目でっせ。東銀子はもうあかん。おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかととね」。北山がやって来た。「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことを言ってくれるな」。土門と北山ははっきりしないまま、「握手しよう」と北山の手を握った。「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」と北山。これで、土門と北山の東銀子のことは終わったのだろうか。

東洋新報の編集長はいつになく機嫌が悪かった。この編集長は、56の年でありながら妻君に双生児を生ませた。じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃していた。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという記事だ。当時はこんな記事が特種として、ああらゆる新聞の三面に賑やかに取り扱わされていた。村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になった、「問題の美貌女優」だった。
この件を土門に任せようとしたが、土門は休みだった。自然次長と社会部長はいない。昨夜、北山は「オリンピア」の支配人と到頭泥酔してしまった。そこで、編集長が決めたのは豹一だった。

編集長から豹一は、これは大任やよって、気張ってやってや、と指示した。伝票をもって階下の会計へ行き金を貰った。1人で出かける豹一の後姿は1人前の新聞記者には見えなかった。編集長はそんな失望を感じたことは知らず、興奮して淀屋橋の方へ歩いて行った。豹一は肥後橋まで来て、村口多鶴子の記事を読むために新聞を買って、フルーツパーラーへはいって片っ端から読んだ。

「罪の女優」「嘆きの女優」とか書いてあった。買ってきた新聞からは罪や嘆きとかいった印象は全くなかった。村口多鶴子の顔はいちように妖艶とでもいいたい笑いを派手に浮かべていた。豹一は花1つのことにも大袈裟に笑っている村口の写真を見て腹を立てた。豹一は華やかな名とか社会的な地位を鼻の先にぶら下げている連中には「因縁をつけたあがる」という悪い癖があった。このとるに足らぬ女性を大騒ぎで祭り上げている新聞記事というものに、自分が記者であることを忘れて、苦々しく思った。どうやら高慢ちきそうな村口多鶴子のような女は体がふるえるほど苦手だと思われた。
勇気を出して会いに行くと、喧嘩に出掛ける男みたいに飛び出した。

キャバレエ「オリンピア」の「支配人」佐古五郎は昨日から引き続いて、仰々しく燕尾服を着込んで、鼠のように忙しく立ち廻っていた。村口多鶴子のせいである。「支配人」ではなく本当は「宣伝部長」とでもいうところだ。電気の工事人として「オリンピア」へ出かけてきたのが、いつの日か「支配人」に出世した。村口多鶴子を「オリンピア」に招聘したのが大きな貢献だった。法廷にも立ち女優もやめなければほどの罪を犯した女優を、醜聞関係の後始末を闇に葬った。そんな村口多鶴子を引っ張り出した。どんな映画会社も憚ることを、平気でやってのけた。

キャバレエに出ることなど自他ともに想像もできないような女だった。附焼刃にしろ、教養のある女優といわれていた。知性の女優と呼ばれていた。それゆえに人気もあり、また事件も一層大袈裟に騒ぎ立てられた。
彼女の老いたる母親は何のことかわからぬ理由で、白浜温泉へ招待されたりした。女中のところへ身分不相応の品物がデパートから届けられた。そうまでされては、彼女ももはや断り切れなかった。2か月にわたる口説き落としの努力が報いられた。多鶴子がいよいよ「オリンピア」に現れる晩、それは昨夜のこと、燕尾服を着用した。多鶴子とおそろいの真紅の薔薇を燕尾服の胸にぶら下げた。

多鶴子の出現は「オリンピア」には大成功だった。「良え女子を入れてくれたな」経営者は佐古に一言だけ感謝の言葉を与えた。この一言がしかし佐古をぎくりとさせた。経営者の眼は多鶴子の胸から腰に執拗に注がれた。音を立てるような視線だった。

経営者も糞もあるものか?馘首にするならしやがれ。あの女をおれのものにしたらあの女で食って行ける。そう思って、佐古は自然に動きだした。多鶴子に近ずいて、「おやじに警戒しなはれや。よう心得とき」と話した。

そして、東洋新報の豹一が「オリンピア」に現れた。佐古が東洋新報だけがこのキャベレエに元女優がサービスする側として登場したことを扱っていなかったので、そのクレームの電話をした。その結果、閉店近くの夜11時、豹一が現れたのだ。豹一は、男ボーイ入用、雑役夫人用、淑女募集などの貼紙がはためく勝手口から入った。佐古は(駆け出しの癖に威張ってくさる)。下手に怒らしては後が怖い、佐古は咄嗟に考えた。

ボーイが現れて、テーブルの上へ爪楊枝入れのようなちっぽけなグラスを置き、それに洋酒を注いで立ち去った。村口多鶴子が現れ、無意味に取り残され、物も言わずに向き合っていた。目まぐるしく交錯する赤、青の光線が思い切ってはだけた多鶴子の白い胸を彩っていた。豹一は自然胸のところばかり見ていたが、赤く染められた胸の脈が急にぴりりと動いた。

蝶々のように宴席から宴席へ飛び回っている自分の姿を、広島県のある女学校の先生は何と思うだろうか。中途退学だが、その時可愛がってくれた先生はアララギ派の歌人だった。因みに彼女はアンドレ・ジイドが愛読書だったと答えた。佐古が東洋新報さんと言って、洋酒の瓶を持って現れた。無我夢中で食傷横町の狭苦しい路次を抜け、法善寺の境内に出たところのベンチを見て、げっと吐き気を催した。

夜11時過ぎると、気の早い拾い屋(バタヤ)が道頓堀通のアスファルトへ手車を軋ませながら、薄汚い姿を現す。「オリンピア」からはショールームにくるまった女給たちがぞろぞろ出てきた。佐古は村口多鶴子が車に乗るのを手伝った。「早くせんと経営者が来まっせ」意味ありげに囁いた。豹一は多鶴子が「オリンピア」から出て来るのを、浮かぬ顔で待っていた。風が冷たかった。多鶴子の乗った車をせかせた。佐古の出番をはじくためだ。「金はいくらでも出す!」この言葉を早く言うべきだった。多鶴子の車は道頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。豹一の車もあとを続いていた。

多鶴子の車に乗った佐古は、寒い寒いと言いながら、運転者に寄りつき5円紙幣を運転手の膝の上へ落とし、何やら囁いた。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。「方角がちがうってよ、車を引き返して頂戴!」阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停まった。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。

佐古は「どうぞ」と多鶴子を促した。佐古は身震いした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなあんだか大それたことをしているような気がするほどだった。その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて辷りこんで来た。豹一は停めたらあかんと思ったが、佐古の車の傍に着けた。尾行してきたことをわざわざ知らせるようなものだ。
多鶴子はなぜ豹一がそこにいるのか、理解できぬ間に、豹一の車に乗り込んだ。インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。

「あ、そこで停めて頂戴」。小奇麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。そして、豹一を家に案内しだした。乗車代は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡した。運転手はじつは「金はいくらでも出す」と言った豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。「---炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って―――。多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。

女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらった。娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった。2年前に、いきなり夜遅く訪ねてきて、多鶴子に紹介されたのは監督の矢野だった。多鶴子の体に異変が起こり、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。新聞社の方で、私の尾行記を書きたいんですって。若い女中は一目見た途端に豹一を好いてしまった。もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとするれば、それは彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかもしれない。母の手を連想するからだ。
豹一はコーヒーを頂いて、早々に帰宅した。多鶴子はこんなに夜更けになってしまったのだから、是非、寝て行って欲しかった。多鶴子は翌日豹一の社へ電話を掛けることを、全く思い掛けずやってしまった。

夕刊第一版の原稿〆切は正午だった。尾行記の原稿を〆切時間に間に合わせるため、鉛筆を走らせた。そこへ土門がやってきて「金を貸してくれ! 50銭で良いよ」。土門に、村口多鶴子というのはどういう女優なのかと尋ねた。「良い役をつけて欲しさに、監督にくっつきやがった挙句、到頭カル焼みたいに肥りだして来たお腹を、あっという間にもとのスタイルに整形した。それで謹慎してりあ、まだ可愛いが、よくよく人気稼業が忘れられんと見えて、「オリンピア」にやってきた。
それを聞いた豹一は今までの原稿を破り捨て、土門に刺激された辛辣な文章で書き始めた。

そこへ森口多鶴子から豹一に電話がかかってきた。今夜心斎橋の不二屋で会って欲しいとのことだった。不二屋で豹一はコーヒーを多鶴子はヴァニラを頼んだ。豹一に言わせると寒中にアイスクリームを食べるのは気障なのだ。京極裏で、豹一たちが学生だったころ、赤井と野崎はアイスクリウムを食べ、豹一はコーヒーを飲んだ。そんなことを思いだしていた。何故、多鶴子は豹一に会いたかったのか解らなかった。尾行記のことで、豹一に頼みごとがあったのだ。尾行記を書かないで欲しいとお願いしたかった。

「人気のことなんて考えてはいません。矢野さんのことだって皆さんは、村口は良い役をつけてもらいたに矢野の貞操を与えたなんて、ひどいことおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか」。
「色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
豹一の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。
尾行記を書いてしまったから、社へ電話して発表を見合せてもらいます。